色なき風

叱りたる児の美しきを憎む負けじとわれを見返し来る

 

一年を飼いし雲雀よ野に放てばわがに残るかすかな温み

 

憂いつねにに関ると知らぬげに遊び居し子よ白き服汚し

 

わがめぐり灰色なせる日の暮れに子が拾いきし山の栗光る

 

無蓋車の蔽いに白く雪積みて北には暗き旅もあるべく

 

いずこよりかクレゾール匂いカナリヤ鳴き悪を為すにはよき午下り

 

雲雀の子巣のまま盗み来しなれに愛のことは暫く告げずに置かん

 

春の土つきし筍持ちてきし弟のは荒れいたりしよ

 

酔えば声に一途なさみしさ溢れさせてわれに電話をかけ来る君か

 

人びとの毀誉の声われに落つるとき高き梢は烈しく芽噴く

 

余剰なる何かがありて咲き溢れ薔薇の花梅雨に腐りめたり

 

高圧線にとまれる雀 沸騰を知らざりし日のわれのごとくに

 

丈高く少年育ち向日葵の黄よりも潔き額をもてり

                  以上「確証」昭和四一年

郭公や に父ありしことさえも青葉の奥に沈む夕ぐれ

 

青葉闇疲れてぬけて来しわれに阿修羅王うつくしきいかりのまみ

 

出奔は田園よりか母よりか孤りの父が棲みし牛込

 

霧立てる秋の夜なり弟よ いにしえびとは〈わが背子〉と呼びき

 

さむき夜の椋欄の幹立みきだち鬚そそけしさびしき父の立つにあらずや

 

雪とおなじ速度で散るという桜花おうかやさしきことも人ははかりて

 

死にていし金魚はうると湿りたる土をその嵩ほどに掘りにき

 

住所録亡き人の名を朱線引きて消しおりことしの秋も傾く

 

ほとほとと酔いてわがを叩きいるは亡き弟か夜の棕櫚の葉

 

ストーブに近くねむれる白き猫のひとつかみなるけもののいのち

 

木犀の匂い来てのち花に気付く父の優しさは父逝きてのち

 

下降感覚はげしき夜よひっそりと白き木蓮は散りているべし

 

梅雨のあめより掬うごとくに切りて来ぬ雫しているほたるぶくろを

 

梅雨に冴ゆる紫陽花分けて田の泥にまみれし若き弟が来る

 

こころ弱きおのれにながくかかわりて沁みて見ざりき山茶花の白

 

わが生とむすめの生と斬り結ぶ暮しをひとがしあわせという

                      以上「秋の族」昭和六二年

                      以降、旧仮名遣ひ

石蕗つはの花は日の雫ぞと言ひし人はるかになりてつはの花咲く

 

わが恋ひしすさのをすでに逝きにしを雨月うげつの夜は肩にささやく

 

一日を猫とのみ暮し夜となればわが背にひそか毛ゆるけはひ

 

ボール奪ふ弟のわがまま見おろして少しづつ屈折してゆく兄は

 

会場にふぢばかま三百本活けて昼をほほゑむわが陶芸家

 

遥かなる人が彫りたるネックレスに何鳥ぞトレドの樹の実をむは

 

大きなる通草あけびの熟れ実裂けてゐる物語終へしやうな山みち

 

窯焚きにほとほと眠らざりしの朝の髪梳くしほらしげなる

 

つがへし矢放つをわれは息つめて待てり壁画の中なるひと

 

まぼろしの騎乗摩利支天駈くるとき寒茜かんあかねわが足もとに暮る

 

弟よわれまだ生きて孤りにて苦蓬にがよもぎ生ふる夜の長きこと

 

花に逢ふことなき曼珠沙華の葉の孤高あしたの霜にかがやく

 

灯ともせば娘の作業場に濡れ光りオブジェの塔らしんと立ちをる

 

哲久を思ひて心奮ふなり能登は吹雪くとこよひ告げらる

 

地下鉄の轟音を身にまとひ来て家ちかく匂ふ夜の梅に逢ふ

 

花粉症の友がマスクして運び来る春の鬱憂に馴れて久しき

 

麒麟といふ妙な動物創りおき神はひそかに愉しむならむ

 

颯然と象が鼻振り上げながら大き空間をわがものとせり

 

月射して黒竹のおく闇深し迷へまよへといふ声のする

 

芝に寝て空の深さを測りをりこの世に二人きりのわれと

 

松の芽の直ぐ立つ緑月の夜を怒れるやうにしんしんと伸ぶ

 

〈創〉といふ雑誌がありききずと読まずつくると読むと教へられにき

 

濃紫の花あやめ重たげに咲けりあやめもわかぬ恋などあるか

 

顔洗ひし水滴鼻につけしまま少年はわれを見上げて笑まふ

 

雨の夜のひとみもぬるる水無月や日本的過ぎる闇の梔子くちなし

 

噴きあぐる栗の花叢はなむらほの白く梅雨曇天を圧倒しゐる

 

はるかなる向日葵ひとつ疲れ来しゆふべのわれにれ残りゐる

 

花火果てし夜の公園に捨てられゐし猫抱きあげてまた捨ててきぬ

 

この年のつひの梔子夜を匂ふ いま匂ふことのみがたいせつ

 

法師蝉旅に死にたる人に代り筑紫こひしと木梢こぬれに啼けり

 

尾花一せいに枯れて輝く乾坤を少年駆けてつまづきにけり

 

人待つはなほよろこびのひとつにて茶房の窓に雨も明るむ

 

水引草みづひきの群落の紅に触るるときひとの脚大きくすこし醜き

 

枯れ向日葵うたひてなほもつよかりき哲久は逝きて恋しきひとり

                      以上「月のすさのを」平成四年

キリンの切手買ひて来にけり首立ててふかき青空吸へるキリンを

 

息吸へば人を恋ほしむわれとなる薫りこもれる木犀の樹下

 

こひびとよあまつひかりはが髪のかそけき銀に遊び秋来ぬ

 

秋陽射すふるさとの径あゆみつつ狂ひ咲く皐月さつきのごときひとりぞ

 

大き糸瓜ぶらり三つ四つさがりをり存在感ある隣りのへちま

 

寒の夜は家猫二ひき身を寄せて眠れりひとつ毛球となりて

 

猫のするどき眼はよろこべり木蔭より狙ひゐる黒揚羽はたはた

 

夏陽灼く道に唸りあふ猫二ひき暑いからもうやめておしまひ

 

ギャングとふ名のドーベルマン年老いて腰立たずなれり 老いたるギャング

 

雪に逢へばつね思ほゆる少年の面型おもがた雪に捺しし哲久

 

夢にてもまさしく母は死にてゐて冷たきぬかにわれ触れにけり

 

資料館の隕石は月には過去に共に還れず聴く春あらし

 

すみれ咲くよもつひらさかわが庭も地続きにして濃やかに紺

 

とりあへずこの世は夢のまた夢と思はず高尾のさくら見にゆく

 

女らが白き肘みがく五月の夜れ寺山修司は死にき

 

くくみ鳴く土鳩に混じり隣家となりやに老い呆けし父を叱るのこゑ

 

長き髪解きてふかくも眠る娘へ灯を消して艶めく闇届けやる

 

聖橋ひじりばしここも新緑濠の水汚れながらに映す樹と空

 

神を信じぬわれがよく見る夢にして輝く海のうへを歩みき

 

紫はおとなの恋の色と言ひし母はるか 若かりし母よ

 

雲間より射す夕日かげ鋭くてわれは日常をられてゐたり

 

〈業〉といふ文字わざと読む人多しはごふと読む、定めのやうに

 

嵐近き雲はあくなく変貌す身をゆだねなば快からむ

 

栗の花叢ましろに炎えて息詰まるわれと鴉とおもき曇天

 

野牡丹の葉にゐる青き蟷螂の子 大きくなつたね二センチはある

 

梔子を打つ雨すずしわが疲れ癒されてゆくごときはつなつ

 

郭公は鳴かねど更けて沁みとほる月渡りをり良経の月

 

亡きひとを必ずおもふ路ありて雨降れば雨に濡れし髪思ふ

 

この世にて逢へざる人のふゆるなり朝の電話はすばやく取らむ

 

高層のビルのはざまに若き月昇り来てわれに見つめられたり

 

吾は死なぬなどと思ふな夏空に積乱雲の崩るる早き

 

インドヘとは旅立ちぬ家猫に「ママを護れよ」などといひ置き

 

インドより娘が持ち来しは白檀びやくだんの香とふしぎな神のおはなし

 

闇をぐ鈴虫のの身に沁みて懸命といふをわれは思へり

 

みんみんは訛つて啼くとは言へり訛れる暑さ今日も続きて

 

去勢されし猫はらねばただ睡し倖せさうに春日を浴びて

 

オペラグラスの中のわが猫歩み寄りたちまち虎のかほとなりたり

 

「はやく虎におなり」と吾娘あこが飼猫の茶いろのあたま撫でてけしか

 

家うちに野性の気満つ飼猫が光るくちなはの子を銜へ来て

 

家猫が脚を舐めをりわれも猫も所在なきことの仕合せな昼

 

涼風すずかぜもなき樹下蔭こしたかげわが猫が蝉を捕へて百叩きする

 

夜遊びをして来し猫の双つの夏月の昏きかがやきを帯ぶ

 

〈夜あがり〉てふことばなつかし秋霖のやみてふるさととかはらざる月

 

なつかしき金木犀の夜の薫り天地に恋のもの言ひしをり

 

木犀咲く下に遊べり不幸などることもなき片眼の猫は

 

救ひよりも危険を報らせ過ぎゆけり秋の夜の救急車のサイレン

 

家猫を埋めし庭土沈みゆきその上を新入りの猫が歩く

 

やわらかさ温さ頼りなさに残し仔猫草野に入りて帰らぬ

 

かひなく立たむ名さへ無ければ霜月や 霜枯れ菊を焚きてあそびつ

 

紅葉は化学作用と思ひみてもやつぱり〈美〉には神のがある

 

木のくれへ夕べひそかに近づきぬ 〈柚子よ、黄なる実ひとつちやうだい〉

 

傷み深き歌集読みをり誤魔化さず生くるはいたみ深きことにて

 

不満さうに鳴きて鴉が翔びゆけり羽べて翔び何が不満ぞ

 

客殿もりの僧は無聊か瓢と来て三千院の由来を語る

 

杉苔はすんすんあをし大杉の暴力的な影おく下に

 

野宮ののみやの別れ思へり幾年経て逢ひに来し人にほほゑみかへす

 

昨年こぞここに三千院の由来など語りし僧のいづこぞ、風よ

 

幻の若き額田王ぬかたのおほきみの匂へるおもてはるの標野しめの

 

標野ゆきし額田王のふたごころ能観つつわれも心たゆたふ

 

色なき風身にしむよはひ重ねきていにしへびとの紫野恋ふ

 

恋ふるとはいかなる惑ひ草摘みし大宮びともわれもかなしも

                          以上「野天炬火」平成十一年

歩道橋の上なるひとよそこよりは桜花を透きて神が見ゆるか

 

花粉症の山猫が今日は庭にゐて大きくしやみせり梅の花ちる

 

救急車のサイレン近づき 遠ざかる 桜咲き満てる街の朝あけ

 

五月の街陽を吸ひ喪服の群が過ぐマロニエの咲くよもつひらさか

 

わがために青菜でをり天上天下ひとりなること愉しみながら

 

日もすがら道路工事の音ひびくを梔子は聴く蕾育てて

 

豪雨きて川渡りゆくわが電車ひととき白き闇にされつ

 

傾きつつほたるぶくろは咲き群れていつまでも来ぬ蛍を待てり

 

蜘蛛の巣を払ひつつ庭を来し君が笑ひて言ふ「虫の多い家だな」

 

佐太郎のあぢさゐ咲きてぬばたまの夜の闇濃き六月は来ぬ

 

蛍袋のほそき花茎起しやりて病みあがりわれの六月は過ぐ

 

盆棚をつくりて霊と人を迎ふ夏の行事といふなつかしさ

 

曼珠沙華の夏のあらはな球根に土かけてやる眠れ秋まで

 

今日もまた酷暑の陽ざしよろこびて椿のり葉輝きゐるも

 

墜ちて来し蝉の臨終いまはを掌に載するいかに翔びいかに啼きて来たりし

 

髪そそけ頬も尖りてゐたりきとかなしみのとききみをおもへり

 

深みゆく秋の鈴虫終るかと思ふいのちのきはをよく蹄く

 

ひさかたの雨降ればいのちよろこびて椿大樹はさりさり声す

 

冬の日のわれは〈漂泊さすらひ小町〉にて庭の落葉も積もるに任す

 

み徹る夜の屋根あゆむ猫のおと〈孤独〉の歩むおとかと思ふ

 

疲れたら休み夜には眠らねば 穏やかな君がわれをさとせる

 

父も母も霜のあしたに逝きにしを 霜はかなしみの大地の棘

 

〈あつたかいおいしいおでんの極意〉とふテレビ見をればひととき平和

 

段ボール箱の蜜柑は一ヶ所より腐りそめたり暗きなかにて

 

道路わきに雪堆うづたかく積みあげてとりあへず人は今日を始むる

 

シンビジューム疲れてすこしうつむきて咲きをり二月も終る曇りに

                                 以上「野天炬火」以後