果物のやうに

鬼もゐむ忠信狐もひそみゐむ吉野は峯も尾上も櫻

 

花に埋る谷の底ひに蹲へば身すがら冷えてわれはものの裔

 

銀箔のふるへるやうにひかるはな黒髪を籠めし塚に降り来て

 

亡きひとの歩みて来るやつちの上の櫻落花がほろほろまろ

 

はなびらを一枚二枚と食べてゐる必ず鬼になるとなけれど

 

心中の場面に散りゐし紙の花 奥千本の峯より降るは

 

はや死臭のごときを放つ石組みの裾に溜まれるはなびら掬へば

 

水面に映れるわれをぎりゆくはなびら・鯉の太き胴体

 

くつたりと床に置かれしデイ・パックのふくらみほどのわれのたましひ

 

この山の向うの闇に千本の櫻はしじに吹雪きをらむか

 

菩提樹の葉を調じたるハーブティー飲めば和ぎゆくほどにてありし

 

イヤリング探すと覗く文机の下はこの世のほかのくらがり

 

細胞のひとつひとつがゆるびゐる感じうたたねより目醒むれば

 

命懸けなんてわたしのがらぢやない雨に濡れし足袋 足より剥がす

 

揺り椅子をゆりつつ透谷を読んでゐる身をもちくづすなど易からむ

 

現身うつそみを夜々よひよひ浄むる白き箱 窓の一つもないバスルーム

 

花の蜜吸ひゐし子らのかき消えて椿の森に椿落つる音

 

廟を囲む森を自在にゆきかひて鳥らは異界よりの言触れ

 

朽ち初めし落花のにほふ椿の森 人間ひとなりし樹も混じりてゐるや

 

椿一花落せば水面のまばたきて古井の底にもう誰もゐず

 

坂の下に溜れる靄のほどけゆき睡たげな水一片いつぺんを見しむ

 

「身体髪膚これ父母ぶもに受く」ピアスの孔あけたることはしばらく内緒

 

うきくさを片寄せて風の過ぎゆけばさびしかりしかさきの世もわれは

 

茅花つばなの穂ひかりてゐるは何のためなくゆふべのいたらむとして

 

夜一夜メイ・ストームに揉まれぬき窶れてにほふ樹も少年も

 

春蝉がシャワシャワシャワと啼いてゐる午後の寺町ふいに既視感デジャ・ヴュー

 

絨毯にヒール沈ませ待ちゐたり身にハット・ピンとふ寸鉄帯びて

 

いくつもある背広のポケット手裏剣のひとつぐらゐは秘められてゐさう

 

ちやうどよい軽さ冷たさ死者の口に含ませしとふ碧玉の蝉

 

憤怒の相映ししこともありつらむ海獣葡萄鏡 緑青塗ろくしやうまみれ

 

今生こんじやうではけりのつかないこともある冷えきつてゐる耳環をはづす

 

ホームレスになりてよろぼひありくなどわが晩年にあり得るひとつ

 

うすうすと岸辺のビルの灯り初め人間を呑みたさうな川の面

 

知らぬ間にすみれの種もこぼれ果て十万億土にはいかなる秋風

 

さきの世の記憶に似て来つ亡き父に果物のやうに抱かれしことも

 

ちよつとした思ひ違ひと医者は言ひき父の有るべきいのちを断ちて

 

たまきはるいのち断たれし父のため何なし得しや なし得ざりき何も

 

花を散らす力くらゐはちてゐよ非業に果てて久しかれども

 

咲き終へし桔梗の花首切つて捨つ仇討つだけの性根もなくて

 

憎しみを糧となしたるためしありや草を払へばいよよひりつく

 

のうのうと百年も生き勲章ももらひしとぞ父を殺しし名医

 

間歇泉のやうにをりをり噴きあぐる恨みのおもひに身を咬ませ来つ

 

てのひらの汗ばみゐたり匕首あひくちの鞘を払ひしところで醒めて

 

一人いちにんの悲苦のほどなど知れてゐる浴槽バスタブに薔薇のポプリを散らす

 

朴落葉の溜めてゐる雨 あなうらを濡らして遁がれし遊女あそびもゐにけむ

 

今すぐに死ねないわけは種々ありて流氷の海もいまだ見てゐず

 

嘘にもあれしきことばが聴きたくて今日はバロック真珠の耳環

 

バッハを聴くだけのパワーが今日は無いサフランのつぼみなどかぞへゐる

 

砂時計の砂落つるにわれは老いアールグレイはちやうど飲みごろ

 

顔にすうと貼りつきたるは後ジテのかけゐし泥眼でいがんまだ醒めてゐず

 

瞑りてもいいかげんの闇 弱法師よろぼしの見たりし闇も青山せいざんも見えず

 

天にけたか地に潜つたかと探し物ばかりしてゐる 今は指ぬき

 

何になる 雨水のつくる小流れに運ばれてゆく木の葉見てゐて

 

君の死を知らせゐしなり一夜ひとよさに娑羅はことごとく花落しゐつ

 

いい子いい子と額に口づけくれたるを覚えてゐるや柩の君も

 

戦災に失ひて今に惜しきものシャリアピンのレコード・恋人リーベと言ひにき

 

草笛の吹き方教はりたることも覚えてゐるよ忘れはせずよ

 

廃寺址に拾ひし瓦の小片を文鎮とす亡きひとのせしごと

 

著莪しやが咲けりなどと書きをり幽明をメールは自在にゆき通ひなむ

 

人体の七十パーセントは水分とぞその水分かかなしみゐるは

 

文楽の蕩児の如くとほんとして歩きゐるなりもう逢へぬなり

 

口中の涼しきゆふべ金蓮花の咲き衰へしをちぎつて食べて

 

人形とともに遣ひ手もうつむきてあはれこの世のこと思ひきつた

 

水浅葱のしごきを剃刀に裂きてゐるあとは死ぬだけ浄瑠璃のふたり

 

松明を掲げて暗き川の面を視てゐる 人形も人形遣ひも

 

ヒロインが不首尾の合図に流したる生血いきち河面を彩ふネオンは

 

死を演じし人形はどのやうにねむりゐむ睡れぬわれはワヰン飲みゐる

 

てんがうを云はしやんすなと人形のやうに袂でつてもみたし

 

がくあをき大島櫻をともに見き雨の夜なりきそれより逢はず

 

ばらばらになりゐし五体・神経をあつめきれぬに醒めてしまひぬ

 

妄想のふくらむやうにふくらみて青鬼灯あをほほづきはいまだ葉の陰

 

つくづくと見ればいかにも不格好 鰭にも翼にもなれざりし腕

 

胸鰭をはなびらのやうにそよがせて水に棲みゐしはいつの世なりけむ

 

枇杷の木の濃闇に吸はれゆきたるはオオミズアオ 弟のたましひ

 

被衣きぬかづきして行幸みゆきの列見てゐたり繪巻の群集くんじゆにいつかまぎれて

 

ぺきぺきとカッターナイフの刃を折りて加速させゆく昂ぶらせゆく

 

小塚原こづかつぱら刑場跡をつつきるも束の間 列車に運ばれてゆく

 

暗号であつたかも知れぬすれちがひざま囁かれたることばの断片

 

砂嵐に暗む天地あめつち敗れたる者はいづくに潜みてゐるや

 

長き長き難民の列につきてゆくながきながき戦死者の列

 

あうあうと啼く明け鴉 気づかずに買ひし恨みもあるだらうきつと

 

鴉では在り得ざるべし羽一枚落したくらゐでうろたへゐては

 

湯あがりのはだへに薄く浮き出でて導火線のごとき静脈いくすぢ

 

はや鬼になりかかりゐる鬘帯かづらおびはねあげ振りむく女面ひとつ

 

笹原を鳴らしゐし風のふいに止む何せむ臨終いまはによし逢うたとて

 

とろとろととろ火に煮込むといふも苦行 今日のわたしは気が立つてゐる

 

ストレスを知らで過ぎしや捩ぢ伏せしやこの世をわが世と詠みし関白

 

不整脈のふいにをさまる 頸すぢに落ちたる雪のじんわり溶けて

 

止み方をゆるゆる落ちてくる雪片せつぺん久しく君の笙を聴かざる

 

思ひなほしし如くにはかに直立す寒風かんぷうにたわみてゐたる噴水

 

食べをへてまだ温かき皿二枚洗ひてひとりの飲食おんじき終る

 

てのひらに溶けゆく薄氷うすらひさきの世はいかなる男とあひ語らひし

 

どのやうな快楽けらくありしや樹の下のあけおびただし今朝の椿は

 

体温の通ふまで手を重ねをれどお互ひ心はブラック・ボックス

 

腕づくといふことのあり一夜さにことごとく葉を捩がれてゐたり

 

抗はむ気持ちも失せて目つむれば樹々の繁みに降る雨の音

 

土を踏む音の次第に遠ざかり亡きおとうとか遅れてゆくは

 

かき消すごと一人二人とゐなくなり辛夷が咲かす今年の白華びやくげ

 

白きとなりしも束の間しんしんと二十三夜の月に散りゐる

 

死ののちも残る恨みとや暗がりを白足袋ふたつ近づきてくる

 

アルフォンス・サドよりやさしく口を拭く罌粟のはなびら食べたる口を

 

残り布ぎて紐など縫ひてをり所詮相容れぬひとにてありし

 

パラソルをさす影とともに歩きゐるもとより化生けしやうのものならざれば

 

睡り初めしねむの木もわれも影失せてはぐれさうなりいま逢魔が刻

 

ベランダを洗ふふりして気がつかぬふりして蟻を流してしまふ

 

ねこにもどる呪文を忘れてしまつたのでそのまま人間いまも人間

 

木の暗このくれに何をかくまふにもあらず落花し尽くししゑんじゆ一本

 

虹色のとかげは自在に出入いでいりす古りて石組みゆるむ墓の辺

 

銭苔におほはれてゐるぼろぼろの石碑がわたしのおやなるさうな

 

われの何に当るや幼児を抱き起すやうに起しし小さき墓石

 

墓の辺のあをしき楓・花筏 幾代の死者に培はれしや

 

祖父恋し逢ひしことなき祖父恋し気随を徹して家を潰しし

 

出奔せし子思想犯なりし子先立ちし子 子に泣かされし男わが祖父

 

武藝文藝遊藝をたしなみ働かず一生ひとよを終へし男わが祖父

 

一族の愛別離苦も見尽くしてアルカイック・スマイルの石仏も

 

亡き父のくちびるに似て石仏の口やはらかく結ばれゐたる

 

夏草に埋る礎 亡き父はここに生れきここを捨てにき

 

物狂ひ・鬼となりしもあるならむ裾にわが名のあるこの系図

 

眼前にふいに濃い闇 井戸神を遷して閉ぢしとふ古井覗けば

 

屋敷神祀れる祠もただ朽ちてゆくだけしづかに朽ちてゆくだけ

 

首すつくと立てて白鷺は野の賢者 穂草とともに吹かれゐるなり

 

風ぐるみふうはり父は抱へくれき煙草のにほふマントの中に

 

地下二階のコーヒーショップに籠りゐしに降り出でて止みゐたる雨

 

つくづくと見てゐるうちがかゆくなる勘亭流の「觴」といふ文字

 

じやるをけゐる起居たちゐのかひがひし肩衣かたぎぬ片方脱ぎし後見

 

あやめしは誰とも覚えゐず灯芯をかきたて刃こぼれをあらためてゐき

 

魔がさすといふことのあり暗き水叩きてオールの音近づけば

 

ソクラテスの嚥みしはいかなる毒なりし毒草図鑑に今宵もあそぶ

 

さあ殺せ殺せと地べたに寝転がる破落戸ごろつきなんども羨しきものを

 

くたびれてゐる神経をいたぶりてガラスのみみづくのまなこ虹色

 

湖の底よりのメールもありぬべし足もとに月のかげ及び来て

 

茅原はいつもの風がわたりゐていつものさやぎ聞ゆるばかり

 

打ちこまれし五寸釘をも包み込み太りゆくらし呪ひのもりの樹

 

呪ひの人形片づけるも仕事の一つにてさらさら浄衣の袖がうごけり

 

われはシャワー浴びゐきこの樹に人形が打ちつけられし昨夜ゆふべ丑の刻

 

祓へして焚かるる呪ひの藁人形のしばらくあげゐる花びらめく

 

緋の袴の裾汚れゐてうさんくさし老いたる巫女みこつかまつうら

 

刺す如く痛きの下ちやうちやうと人形に釘がいま打たれゐる

 

降三世明王に踏みしだかれて呻ける女男めをにいくばく異なる

 

耳鳴りのいつか五月雨 沙の音 呪文 睡りの際をふはふは

 

うつくしき白骨しらほねとなりてカラハリの沙漠に散らばるまでの歳月

 

径五ミリほどの錠剤にあやつられすとんと睡りに落ちてしまへり

 

汗のにほひあはくなりしと書き寄越す逢はざるままに幾年経しか

 

七階のわが窓にまつすぐひびき来て揚雲雀のこゑいとどせつなげ

 

しつかりと閉ぢておきしに抜け出でて繪双紙の鬼はしばらくあそぶ

 

何に生れかはつても同じことならむかうして水を見てゐるならむ

 

聖蹟の如き石切場 稲妻のはしるたまゆら闇に浮かびて

 

ゆふがほもしぼみ初むる午前二時この世のわれに逢ひたくなきや

 

妻問ふと時雨の海を渡りゆきし偶蹄目シカ科夢野いめのの小牡鹿

 

人間ひととして在るは束の拾ひたる櫻紅葉を散らしなどして

 

以上百五十首