芒種(抄)

山深く輪飾のある泉かな

 

手毬唄むかしいくさに勝ちしとふ

 

極寒に兄をはふるやこれも順

 

いまさらと思ひてゐしが厄詣

 

河豚ふく出でて一座次第にしづかになる

 

初谺して松山は浅からず

 

猫と猫恋なきごとくすれ違ふ

 

板前の皆まで抜かぬ独活うどのあく

 

柊挿す柾目まさめ正しき門柱

 

紅梅をなほ濃くしたる雨後の靄

 

玄海の辺津宮へつみやとして梅さかり

 

遠き日の違約の記憶探梅行

 

萩寺より根分の知らせ電話にて

 

初蝶のまろぶごとくる風の中

 

啓蟄けいちつの土中の深さ思ひけり

 

穴出でし蟻あたらしき艶走る

 

かしぎ癖知りたる雛を飾りけり

 

薄紙の音さわさわと雛納め

 

あつものに鞠麩まりふのうかぶひひなの日

 

耳の日や耳すこやかも不倖ふしあはせ

 

世の怖れひとつふやして蛇出づる

 

春彼岸酢蓮すばすのコツに母泛ぶ

 

春暁やもし声出さば濡れてゐむ

 

逃げ水の中に真紅の一車消え

 

辛夷こぶし散り白の狼藉尽しけり

 

ふとよはひ忘れてゐたり接木つぎきして

 

野をしばし彼の世のさまに遍路ゆく

 

やな組みに老の助つ人すけっと来りけり

 

ちまき解く笹裏濡れてゐたりけり

 

ジーパンに詰め込む肢体青き踏む

 

花夕べ堅田蜆といふ貰ふ

 

日向臭ひなたくささといふ贅沢な匂ひかな

 

春愁をひらりとかはし鰻食ふ

 

花疲れ生きの疲れもあるらしき

 

東京をふるさとにもち春惜しむ

 

後手うしろでを組んで撮らるる暮春かな

 

しあはせにさびしさからむ残花かな

 

小さくて飯蛸をとる壺といふ

 

充分に寝足りし山の機嫌かな

 

卒業のや着くづれの時に見る

 

花疲れとてみづかに言ひ聞かす

 

梅雨の夜の道の段差を熟知せり

 

それらしき色となりたる梅筵うめむしろ

 

更衣ころもがへ妻の姿見のこりけり

 

明易あけやすき沖を目指して白魚舟

 

夕町に磯の香のこる小鰺売

 

甘き匂ひ残して消えし雨蛙

 

の花や夜は月ありと信じたく

 

湖神うみがみの輪くぐるも旅にして

 

裏返るさびしさ海月くらげくり返す

 

思はざる深きまで刈る藻刈鎌

 

しばらくは蛍包みしのにほふ

 

爪痛き記憶のありし神輿足袋みこしたび

 

短夜や空閨などと今さらに

 

明易し顎のせて枕しめりゐる

 

じいと鳴く蝉それきりの朝ぐもり

 

出てすこし胸張るこころ炎天下

 

熱帯夜いつ目覚めても我がゐて

 

ごきぶりを打ち損じたる余力かな

 

ひきがえる跳ぶきつかけをはかりゐる

 

真裸を叩いて強気はしりけり

 

風呂の湯を落す匂ひも夜涼にて

 

団欒にときをり応ふ端居はしゐより

 

遠花火ときをり塔を映し出す

 

八十路やそぢ過ぎ露のよはひぞありのまま

 

秋白地着て晩年を長くをり

 

秋冷や何かの声に身を正す

 

今年米たしかな杓文字しやもじ触りかな

 

夜の秋とろ火にかけて小海老など

 

臆する子前に押し出す地蔵盆

 

小望月こもちづき出しほを船の座にありて

 

切れ字とは露一粒の厚みとも

 

片下りなるシーソーの露まみれ

 

秋蝉の遠く水湧く声に似て

 

落鮎にふるべき塩を手に残す

 

どうしても割れぬ胡桃くるみを前にして

 

寒き夜の河豚食べし血の疼きあり  (萩)

 

枯景色くもり眼鏡に見るごとく

 

水の上を舞ふ綿虫の綿厚し

 

冬立ちてことさら松の青勢きほ

 

風邪声のふとなまめくに似たりけり

 

風呂吹に箸を刺しての思ひごと

 

襖張り下張り剥がし何もなし

 

蕎麦湯のみわが血もうすくなりしかな

 

貧乏ゆすりしてをり風邪の兆しをり

 

畦の犬に時に声かけ蓮根れんこ掘り

 

大嚔おほくさめせり寂しさの吹つ飛べり

 

凍鶴と見えはた老鶴とも思ふ

 

橋なかばにて逝く年と思ひけり  以上、「駘蕩」 平成七年

 

去年今年こぞことしとて倦みもせず我ありて

 

葛飾は霜に芦伏す初景色

 

賀状書くはぢらひもあり生き過ぎて

 

赫々と日の射す方を恵方えはうとす

 

春暁の何か始まる匂ひせり

 

葱の香の後さびしさも流れくる

 

大榾火おほほたびささりし釘も透きとほり

 

まつ先に病者が知れり雪の音

 

寒牡丹息が湿らす菰の中

 

忘られてゐる水餅に似たるかな

 

雪吊のゆるみの時と思ひけり

 

ほしいまま朝寝の時をもちしさち

 

長湯して夜のおぼろを濃くしたり

 

かんの鯉く薄墨を塗りかさね

 

猫やなぎ思つてもなき雨後の艶

 

乗り合せ受験子らしき眼の寒さ

 

浴室に朧の夜気を少し入れ

 

先をゆく犬見失ふ春の暮

 

人肌色の御像が見たき涅槃ねはんかな

 

朝寝してまざまざとおい残りけり

 

蛤汁はまつゆのほどの濁りのよかりけり

 

花あまた見し夜の瞼熱もてり

 

花過ぎてひたひたと老迫りくる

 

鳥の恋砂場の砂の上乾き

 

けぶらひて木の芽起しの雨といふ

 

まつ先に初蝶見しをなぜか秘め

 

節句前の桜餅とて賞美せり

 

雛市ひないちに時費して悔もなし

 

店奧に手焙あぶりとゐる老雛師

 

枝々に雨意ありありと芽吹時

 

起す人なき朝寝なりあはれとも

 

余寒かな橋下けうかの水のとどこほ

 

明日への信いくらかありて種子たねを蒔く

 

春一番老の強気をしつしけり

 

春愁に似て非なるもの老愁は

 

飯蛸の糶場せりばの隅に忘れられ

 

木蓮の生毛莟うぶげつぼみあけの雨

 

ひそやかに手早く雛のしまはるる

 

逃げ水を追はむこころの今もあり

 

まだ開き惜しみのときの白牡丹

 

懶春らんしゆんや痒きにとどく鴨のはし

 

近づいて見て白藤でなかりけり

 

青葉潮和布刈めかりの宮を押し狭め

 

もち咲いて久女ひさぢよの遺墨蔵す寺

 

身のうちに蛍棲む闇あらまほし

 

京瓦てふ美しきもの朝焼けす

 

奈落より戻りしごとき昼寝覚ひるねざめ

 

玉虫の出てきし時代物箪笥

 

蛍袋うなだれ咲きの雨を呼ぶ

 

朝鵙あさもずの一喝に醒む身の弱り

 

聲の出のにはかによくて雲は秋

 

蛍籠越しに触れたる人の息

 

葛の花葉裏より穂をもたげたる

 

やや赤くもみの梢に夜鷹星

 

銀河鉄道疾走のの星しぶき

 

踏み入つて諏訪路はすすき吾亦紅われもこう

 

大方の神は旅せり海のなぎ

 

海小春ときどき見えて兎波

 

石蕗つは咲いて海へ降りゆくあまの露地

 

申し訳ほどまばらなる鰯雲

 

露の夜のこよなき弟子を見送りし

 

遠火事に深き酔ひ寝の起さるる

 

凍蝶を見しそれよりの夕早し

 

忘れたき年なればとて年忘れ  以上、「懶春」 平成八年

 

初筆の金短冊の墨をはね

 

年酒ねんしゆの座つくづく膝のうすきかな

 

福藁を貰ひすぎたる嬉しさよ

 

大旦だいたんなり枕ばなれも常ならず

 

賜りし八十六歳初明り  (一月五日はわが誕生日)

 

今更の初鏡なれどまざまざと

 

松多き町に住み古り初霞

 

鏡餅生き残りめく家長の座

 

痩身そうしんにして初湯はつゆうをあふれさす

 

紀の国の蜜柑となりしてん手鞠

 

毛氈紅き桟敷賜る初芝居

 

遠凧や矢切の空に浮き沈み

 

屠蘇の座や織田木瓜をだもくかうを家紋とす

 

箸紙に名を書く役を今年また

 

あけぼのの色とも見えて花びら餅

 

今はもう敵なきよはひ破魔矢受く

 

毘沙門で別れし連れや福詣ふくまうで

 

息すこし遠ざけて見る寒牡丹

 

去年こぞよりも肥えたるここち初湯出て

 

凍て瀧のゆるみの音のかくれなき

 

ひ火がなでまはる鍋の尻

 

やや肥えて藁うばひ合ふ寒雀

 

ひともがきして凍鶴いてつるの凍てを解く

 

すぐ去りし初蝶にして忘れ得ず

 

川幅のいくばくふとり二月じん

 

二月てふ何もなき月住みよかり

 

草芽吹く老いには老いの身の置処おきど

 

水ふふむ重たさ貰ふ寒蜆かんしじみ

 

母・妻を詠みしは昔わすれ雪

 

いつか失せたる麦踏のひとりかな

 

通されて雛の間までの間取りよき

 

耳朶みみたぶのやはらかきことたのむ春

 

うららかや長居の客のごとく生き

 

胸ふかく悪霊そだつさくらの夜

 

米櫃を春愁の手がならしけり

 

空腹の霞を少しづつ吸へり

 

逃げ水を追ふことかつてしたりけり

 

恋猫のひそみて闇の艶めける

 

花時の疲れ尾を曳く旅のあと

 

摘み草や膝に感じて地の鼓動

 

遅ざくら生地谷中やなかの名を今も

 

地に落ちて兜に似たり肥後椿

 

一瓣を引きて牡丹を崩れさす

 

朴咲けり不壊ふゑの宝珠の朴咲けり

 

花すべて散りたる後の熟睡うまいかな

 

筆持てば文字が寄せくる春騒夜

 

木の芽時歩けと杖を贈らるる

 

土筆つくしの茎人肌いろに透きとほり

 

牡丹ぼうたんや夕冷え時の身のしまり

 

長く長くかれしふきの糸ちぢむ

 

人肌に桜じめりといふがあり

 

俳句てふ自作自演やさくら時

 

改札の切符とび出す春の暮

 

菖蒲時明治男を誇りもし

 

藤房の先の重りや雨しづく

 

水張りてより田の空のくもり癖

 

衣更へて老の構へのおのづから

 

白靴を穿くためらひの今もあり

 

はるかなる祭囃子に腰浮けり

 

つかの間の若さありけり白地着て

 

ゆつくりと息づく雨後の蛍火は

 

金魚鉢にてわが顔の歪み知る

 

父母の声さすがに忘れ更衣ころもかへ

 

降りし後まだ雨気のこす菖蒲の芽

 

雄心をごころや直立こぞる松の芯

 

青梅雨や流木に知るものゝはて  以上、「芒種」 平成九年

 

 後記抄

  『芒種』とは二十四気の一つで六月六日のこと、「のぎ」のある穀物を播く時期ということで何となく好きなことばなので(句集題に)つけた。

 

   平成十一年八月 八十八歳 夏  能村登四郎