波郷二百句

プラタナスもみどりなる夏は来ぬ   (『石田波郷句集』より)

バスを待ち大路の春をうたがはず   (以下『鶴の眼』より)

あえかなる薔薇りをれば春のらい  銀座千疋屋

春の街馬を恍惚と見つゝゆけり

夜桜やうらわかき月本郷に  上野公園

昼顔のほとりによべの渚あり

噴水のしぶけり四方よもに風の街

霧吹けり朝のミルクを飲みむせぶ  神津牧場にて

描きて赤き夏の巴里をかなしめる  ある画廊にて

日出前ひのでまへ五月のポスト町に町に

ひとゝゐて落暉らつきはゑあり避暑期去る

小劇場かんかん帽を抱く一刻

袴暑し金を集めて街ゆけば

蟬の朝愛憎は悉く我に還る

百日紅ごくごく水を呑むばかり

雀らの乗つてはしれり芋嵐

秋の暮業火となりてきびは燃ゆ

明治節乙女の体操胸隆く

吹きおこる秋風鶴をあゆましむ

古郷忌を人にはいはず日暮れぬる  九月五日

昼の虫一身斯かるところに置き

寒卵かんたまご薔薇色させる朝ありぬ

雪嶺よ女ひらりと船に乗る

冬青き松をいつしんに見るときあり

はたと寒く傷兵を見し行人裡かうじんり

英霊車去りたる街に懐手ふところで

冬日宙少女皷隊に母となる日

悉く芝区の英霊木枯こがれたり

隙間風兄妹に母の文たが

初蝶やわが三十の袖袂   (以下『風切』より)

花ちるや瑞々しきは出羽の国  帰京車中

ひたはしる蜥蜴とかげ追ふ吾が二三足  明石城址

と帯き出づる百日紅

夏すでに兄妹ものうく叱り合ふ

椎若葉わが大足をかなしむ日

紫蘇濃ゆき一途いちづに母を恋ふ日かな

東京の椎や欅や夏果てぬ

新娶にひめとりまさをき梅雨の旅路かな

雀らも西日まみれやねぶの花

胸の手や暁方は夏過ぎにけり

朝顔の紺のかなたの月日かな

葛咲くや嬬恋村のあざいくつ

一高へみちの傾く芋嵐

槙の空秋押移りゐたりけり

寒椿つひに一日のふところ手

浅間山空の左手ゆんでに眠りけり

霜柱俳句は切字きれじ響きけり

萬緑を顧みるべし山毛欅ぶな峠   (『風切以後』より)

かりがねやのこるものみな美しき  留別  (以下『病鴈』より)

出発いでたつや疾風の如く稲雀

ぐざと麦の芽をつかみたる銃弾

三月の鳩や栗羽を先づ翔ばす

らい落ちて火柱みせよ胸の上

秋の夜のいきどほろしき何々ぞ

秋の風萬の祷を汝一人に  一子修大に

一茶忌や父を限りの小百姓  わが兄弟三人悉く戦陣に在り

よろめくや白衣に浴ぶる冬日ざし  上陸

にほの岸女いよいよあはれなり   (以下『雨覆』より)

百方に餓鬼うづくまる除夜の鐘

屋根裏に寒の朝日の黄金なす  東京に帰住む、自ら悲喜をわきまへず

細雪妻に言葉を待たれをり

枯葎馬車はいくとせ鉄運ぶ

焼跡の幾日冬日燃えざるや

貨車寒し百千の墓うちふるひ

百方の焼けて年逝く小名木川おなぎがは

グノー聴け霜の馬糞を拾ひつゝ

なみだしてうちむらさきをむくごとし

          遙なる伊予の国幾年会はぬ母を思ふは

束の間や寒雲燃えて金焦土

立春の米こぼれをり葛西橋

三月の産屋障子を継貼りす  長女温子出生

はこべらや焦土のいろの雀ども

田楽に舌焼く宵のシユトラウス  焦土食膳

かいだくや夜蛙の咽喉うちひゞき

金雀枝えにしだや基督に抱かると思へ

栃咲くやまぬかれ難き女の身

六月の女すわれる荒筵あらむしろ

虹まどか妻子は切に粥をふく

らいの下キヤベツ抱きて走り出す

日々名曲南瓜ばかりを食はさるゝ

子の涙こんこんと出づ涼しき如

白桃や心かたむく夜の方

夏河を電車はためき越ゆるなり

むや若く哀しき背を曲げて

風の日や風吹きすさぶ秋刀魚さんまの値

稲妻のほしいまゝなり明日あるなり

妻よわが短日の頬燃ゆるかな  熱やまず   (以下『惜命』より)

寒き手やいよいよたのむわが生きて

霜の墓抱き起されしとき見たり

夜半の雛肋あばらきても吾死なじ

茎立くくたちおこたるまじき女の手

えごの花一切放下なし得るや

満天星どうだんに隠りし母をいつ見むや  母帰郷

妻が来し日の夜はかなしほとゝぎす

たはやすく過ぎしにあらず夏百日

桔梗きちかうや男も汚れてはならず  某君に

鵙の朝肋あはれにかき抱く  手術日決る

すさまじき黄裸なるとき孤りなり

たばしるや鵙叫喚す胸形変きようぎやうへん

麻薬うてば十三夜月遁走す

秋の暮溲罎しびん泉のこゑをなす

力つくして山越えし夢露か霜か

かじかみ病めど栄光の如く子等育つ

病む師走わが道あるはあやまつや

病む六人一寒燈を消すとき来

綿虫やそこは屍の出でゆく門

白き手の病者ばかりの落葉焚

雪はしづかにゆたかにはやし屍室

梅も一枝いつし死者の仰臥の正しさよ  武田君死す

七夕竹惜命しやくみやうの文字隠れなし

悉く遠し一油蟬鳴きやめば

朱欒ざぼんくや歓喜の如き色と香と

寒夜水飲めばこの最小の慾望よ

遠く病めば銀河は長し清瀬村   (角川文庫版『石田波郷句集』所収「惜命」より)

あかあかと雛ゆれども咳地獄   (以下『春嵐』より)

春嵐鉄路に墓を吹き寄せぬ

病家族二つの蚊帳の高低たかひく

咳きに咳く日矢太束にひれふして

病むかぎりわが識りてをる枯野道

雑炊や頬かがやきて病家族

手花火を命継ぐごと燃やすなり

夾竹桃戦後のやまひみな長し

蚊をつて頬やはらかく癒えしかな

煤煙のうつろふままの歳暮光

一点の蝿亡骸の裾に侍す

泉への道後れゆく安けさよ

汗の胸この創痕に仕ふるか

寒雀汝も砂町に煤けしや

草木瓜くさぼけや故郷のごとき療養所

椎樫も祝福す桃紅らむを

百千の土管口あけ雪降れり

蛍火や疾風のごとき母の脈

妻子にも後れ斑猫はんめうにしたがへり

砂町も古りぬ冬日にぬくめられ

鶏頭の澎湃はうはいとして四十過ぐ

惜命しやくみやうの杖に裾濃すそごの冬日射す

屋根赤き砂糖工場も暮春かな

起ち上らざるもの胸に萩起す

とまり木に隠れごころや西行忌  某酒場にて  (以下『酒中花』より)

利休梅病惰をつひのさがとしぬ

壺焼やいの一番のすみの客  西銀座卯浪

万愚節半日あまし三鬼逝く

病経てやや気弱にて椿市

田螺和たにしあへ彼我死にゆきし者ばかり  疎開生活を偲ぶことあり

赤鬼は日本の鬼鬼やらひ

金のしべ巨き椿に今日溺れむ

半眼に椿憂きまで満ちにけり

為さざりしことのみ春の落葉焚

浸け古りし梅酒プラム酒病家族

万太郎逝きて卯の花腐くたしかな

沙羅の花捨身しやしんの落花惜しみなし

わが胸の陥没部位よ菖蒲

泰山木巨らかに息安らかに

昼の虫われに永仕へせし妻よ

柿食ふや命あまさず生きよの語  橋本大人が母堂の語を録す

日本の苗字みやうじや露の子等点呼てんこ

秋いくとせ石鎚山いしづちを見ず母を見ず

三鬼亡き磯は一すぢ天の川

暮れはててなほ鳴く蟬や敗戦日

独活うどは実につひすみかを棟上げす     練馬谷原町に居を定む

湯気あげて小部屋めでたしちやんこ鍋  錦島部屋

いつも来る綿虫のころ深大寺

木葉髪一病息災の語を温め

人待つごと人厭ふごと着膨れぬ

冬山にわだちや還らざるごとく

平凡に五十頭上の初雀

ゆづりはや厭ふべきものはひた厭へ

心萎えしとき箸逃ぐる海鼠なまこかな

白息をにかけて今日はじまりぬ

亡師ひとり老師ひとりや龍の玉

病まぬより病めるながし石蕗つはの花

母の亡き今日暁けて石蕗梅もどき  十一月十一日母死す

だいだいや病みて果せぬ旅一つ

しんしんと子の血享けをりリラ匂ひて

ここに酸素湧く泉ありクリスマス

ききわびてつひすみかの除夜の鐘

寒菊や母のやうなる見舞妻

見舞妻去りしより除夜いよよ急

春雪三日祭の如く過ぎにけり

ほしいまま旅したまひき西行忌

ほおの花今年見ざりし命かな

柿食へり貪るに似しをゆるめ食ふ

木葉髪おほかたはわが順ひぬ

雪降れり時間の束の降るごとく  十二月十九日雪

春菊や袋大きな見舞妻   (以下『酒中花以後』より)

かへり来し命つつしめ白菖蒲

蛍籠われに安心あんじんあらしめよ

し槍鶏頭の直なるは

人はみな旅せむ心鳥渡る

萬両や癒えむためより生きむため

元日の日があたりをり土不踏つちふまず

命継ぐ深息しては去年今年こぞことし

息吐けと立春の咽喉切られけり

蕨和わらびあへ忘語かなしく口とざす

豆飯食ふ舌にのせ舌に力入れ

彼の辻の灯の合歓妻ねむは過ぎけむか

敗戦日空が容れざるものあらず

今生こんじょうは病むしょうなりき烏頭とりかぶと

葉鶏頭われら貧しき者ら病む

遺書未だ寸伸ばしきて花八つ手

露か雨か十一月ははじまりぬ