▲枯川先生今日獄を出づると聞き
あら清し麦秋の天に練雲雀
時鳥
四谷の空の月七日
注:枯川は堺利彦の号。堺は「萬朝報」で日露戦争反対の論陣を張っていたが、社主が開戦論に転じたために「萬朝報」を離れ、幸徳秋水らと「平民新聞」を創刊した。芋銭は挿絵画家として「平民新聞」に参加した。(電子文藝館編輯室)
▲秋水先生の病を訪ふ
短夜やパツプは冷めて鶏の声
老父の病を護りつゝ 芋銭生
注:パップは粘土を基材にした湿布薬。この当時は水か湯でこね、布の上にのばし、患部にはりつけた。(電子文藝館編輯室)
(「週刊平民新聞」明治三十七年七月三日)
●春の句 芋銭人
△清 新
初空や水は流るゝ足の
下
△召波が風趣を感じて一茶が寝正月を喜ぶ
元日やおれも寝て見る窓の麦
今朝の春一茶は虱取るべいか
△子を残して軍に死する農夫の家にて
二つ子に箸取らす雑煮悲しさよ
△貴族とか云ふに教ふ
蓬来の山から米は生へ●(そうろう、難字、候のくずし字)
(「週刊平民新聞」明治三十八年一月八日)
俳句 芋銭子
貧農を憐れむ
一雨が税にも足らぬ
陸米
かな
菊喰ふて酒
醸
したる
恨
かな
雀等よそれ豊年ぢや豊年ぢや
(「光」1-1、明治三十八年十一月二十日)