花石榴

《登場人物》

 

   桜井金蔵  六十歳ぐらい

   山田豊子  五十七歳ぐらい

   女事務員  (声だけ)

 

ある小さな土建会社の応接室。使い古された応接セットが中央にある。壁面には、下手な政治家の書の横額があったり、複製の風景画、小判を飾った祝儀ものの額が雑然と掛けてある。

スチールの棚などがあり、ガラスごしに書類とか青写真の丸めたものとかが乱雑に入っている。昔ふうな金庫がある。その上に、花瓶の花がすがれて入っている。正面下手よりにドアがあり、その向こうは事務室になっている。女性事務員がいて、電話の応対の声とかがつつぬけに聞こえる。

山田豊子が、ぎこちない様子で坐っている。若作りの服装だが、どこか疲れたかげりもある。机には、オレンジジュースの入ったコップが、飲まれないまま、置かれている。

 

 女事務員の声  あのねえ、だからさあ、……分かんない人だねえ。そうじゃなくてさあ、……ちょっと聞きなさいよ。何をぷりぷりしてんのさ。説明するからさ。つまり、きのう、社長がそう言ったのよ。社長がね。…… そう。それですぐ、あんたんところへ電話したのよ。でも、あんた、きのうどっかへ行ってたでしょ。何べん電話しても出なかったじゃない。(自動車のまる音)……ほんと? 誰かさんとどっかへ、しけこんでたんじゃないの? ……今朝もかけたんよ。

 金蔵の声  いやあ、暑い暑い。陽子、冷たい水、一杯くれ!

 女事務員の声  あ、社長。ちょっと待ってね。今、社長が帰ってきたからさ。社長。南建設のっちゃん。例の件。今やっとつかまえたんだけど、怒ってるんです。

 金蔵の声  きのう、ちゃんと連絡したのか。

 女事務員の声  きのう、いなかったんです。

 金蔵の声  もしもーし。わしだ。吉っちゃんか。すまんけどなあ、今度のやつ、我慢してくれや、な。次のは、土木課長にも話をつけてあるから、必ず回す。……そら、誰も苦しいのは一緒じゃ。……分かっとる、分かっとる。吉っちゃんの仕事は、超一流じゃ。じゃから、な。……次は必ず。儂が受け合うんじゃ。任しといてくれって。……うん。うん、そのうちな、ゆっくりと一杯やろうや。声かけっから。そういうわけじゃ。また、頼むよ。(電話を切る)

 女事務員の声  社長、女の人、来てますよ。誰?

 金蔵の声  うん。そうか。

 女事務員の声  あいかわらずなんだから。

 金蔵の声  何言うとるか。そんなんじゃないんじゃ。

 女事務員の声 きゃっ、いやん! ばか。奥さんに言ってやるから。

 金蔵の声  (おどけて)お願いだから、二人だけのヒミツ……。

 女事務員の声  なんだかうきうきしちゃってさ。はい、お水。

 金蔵の声  (水を飲みながら) 大泉先生んとこの河内秘書に、今夜行きたいって電話しといてくれんか、六時にだ。

 女事務員の声  早く行ってあげたら。だいぶん待ってるんだから。

 金蔵の声  はいはい。(咳払いを二、三度。ドアを開けて、ちょっとのぞく。咳払いをもう一度)

 

ドアに背を向けて坐っている豊子が、身体を硬くする。金蔵は汗にぬれたランニングの上に、作業着をはおって、タオルで汗をぬぐいながら豊子の前に立つ。豊子は顔を伏せたまま、おずおずと立つ。金蔵は、探るように豊子を見回し、しばらく無言。事務室で陽子の声が聞こえる。

 

 女事務員の声  もしもし、こちら桜井工務店ですが、秘書の河内さん、いらっしゃいましょうか。……あ、そうですか。それじゃ、お伝えください。うちの社長が、今夜六時ごろお伺いしたいと言っております。……はい、そうです。じゃ、よろしく。……え? ……はい、分かりました。伝えときます。じゃ、失礼します。

 豊子  (深々と頭を下げる)突然、どうも。

 金蔵  ……あ、いや、ま、どうも。

 豊子  長い間、ご無沙汰をいたしました。

 金蔵  そりゃ、ま、こっちも、ご無沙汰といやあ、ご無沙汰で……よく、ま、わざわざ。

 豊子  突然、本当に、申しわけありません。

 金蔵  その、ま、何と言うか、そりゃ、ま、突然ではあるんだけれど、何です、ま、座って、ください。

 豊子  はい。

 金蔵  ありゃ、扇風機も回してない。どうも近ごろの若いやつは、気が利かんで、ね。

 豊子  いいえ。

 金蔵  (扇風機のスイッチを入れ、坐って) さ、さ。

 豊子  はい。

 金蔵  まったく、暑いですなあ。

 

しばらくは無言。顔を見合わせて、しゃべろうとしてやめる。豊子、横の風呂敷包みを引き寄せるが、開けない。

 

 豊子  お元気そうで、……なによりでございます。

 金蔵  おかげさまで。……というか、ま、こんな、しがない土建屋で、おまけに市会議員をやらされるんで、貧乏暇なしで……やまいをしとる暇もないんで……。

 豊子  ご立派な会社ですわ。

 金蔵  ご立派なもんかね。たいしたことはないんで、毎日ぴいぴい言っとるだけで、いつ倒れるか分からん会社ですわ。

 豊子  そんなこと……あまりに立派な建物で、ちょっとまごつきました。

 金蔵  そうさなあ、ここは、昔、苗代田圃なわしろたんぼだった所じゃもんな。

 豊子  あの大きなけやきをと目印に来たんですけど。

 金蔵  そう。あれも切り倒してもうた。昔のもんは、なんも、残っとらんなあ、そう言やあ。

 豊子  ……。

 金蔵  あのころは、一面の田圃じゃったもんなあ。

 豊子  ……。

 金蔵  すっかり変わったじゃろう。町から市になったしねえ。編入したんじゃけどね。

 豊子  ……。

 金蔵  おまえさんも(言い直して) あんたさんも、息災で何よりで。

 豊子  ありがとうございます。

 金蔵  こうやって、しばらく見ておると、何です、やっぱり、昔の、その、おもかげというか……残っとりなさる…… わなあ、そりゃ、ねえ。

 豊子  (ようやく風呂敷包みを聞き、菓子箱を出して金蔵にすすめる) あの、こんなものですけど、どうぞ。……もうすっかりおばあちゃんですわ。

 金蔵  そんな気遣いせんでもええのに。…… それじゃ、せっかくですから。

 豊子  あなた様も、少しもお変わりなく、昔のまんまのご様子で……。

 金蔵  そりゃ、ま、昔のまんまで。……えっ。ということは、もうお孫さん、おありで?

 豊子  いいえ。私は、そんな。(大ぶりに打ち消す) いいえ。

 金蔵  (せんさくにすぎたと思って) 今、おばあちゃんて、言いなさったもんで。

 豊子  ……

 金蔵  そうじゃなあ。山田豊子……て旧姓のままやったもんなあ、手紙は。で、いまは、どこに……いやいや、そんなこと今さら聞いても、ねえ。

 豊子  東京で働いております。

 金蔵  そうかね、東京で ……そうかね。東京じゃろうとは思ったんじゃけどね。手紙のスタンプが、その……。そりゃよかった。

 豊子  ……。

 金蔵  ……お互い、生きとると……いろんなことが……ありますなあ。

 豊子  すみません。

 金蔵  何も謝るこたあ、ありません。

 豊子  でも…… 。

 金蔵  (突然、大声で笑い出す。照れ、自嘲などの複雑な想いである)あはは……はは……はは……はは……。なんというざまじゃ。あはは……はは……これは、何じゃねえ……はは……はは……わしとしたことが、なんという……はは……はは……もう、こりゃ熱い汗やら、冷たい汗やら、はは……。(タオルで顔をぬぐいながらも笑う)

 豊子  (その胸中を察し、言葉を探すも見当たらず、ハンカチで汗をふく)

 金蔵  (ようやく、笑いを静め、作業着の胸のポケットから二つ折りにした封筒を取り出しながら)正直言って、初めは誰から来たのか分からなかった。

 豊子  ……。

 金蔵  どこのバーの女かと……住所も書いてないし…… 。

 豊子  すみません。

 金蔵  (手紙を広げ)ま、いいわさ。さて。そこでだ、話したいことがある、というそのご用のおもむきは、ということになるわけだけれども。

 豊子  はい……。(口ごもる)

 金蔵  (その沈黙を避けようと気遣って、事務室に向かって)陽子! おーい陽子。 (豊子に) ぬるうなったじやろうから、取り替えさせるから。陽子! おらんのかいな。冷たいジュース持ってこいや。(立ってドアを開けて事務室をのぞく) おい、陽子。なんじゃい、おらんのか。(豊子に聞こえるように) ばかじゃね、気を利かしたつもりかね。おらん。(事務室に入る)

 豊子  (風呂敷を畳み、ガラス窓に寄って、外を見る)

 金蔵の声  ビールはどうかね。

 豊子  ……。

 金蔵  (カンビールとコップを一つ持って出てくる)……あんまり冷えとらんけど、ま、久しぶりということで……(言いながら、自分のコップにビールを注ぐ。豊子の分をどうしようかと思い前にいないのを幸いに豊子の分のジュースを、ぐっと飲んで、それにも注ぎ、入れ替えて置く) 変わったじゃろお……。バイパスがついたもんで、上田じょうでんがみんな宅地になって、大団地ができて。……昔は辛かったねえ、田圃仕事たんぼしごと……。……わしは、もう、こだわりは、ない、つもりじゃ……。お互い角つき合わせて、という歳でもなくなったわけで……まあ、水に流せるものは流して、たいしたことはできんけど、少しくらいなら、ま、ね。考えてみれば、あんたにも、苦労をかけたんだし……。

 豊子  ……。

 金蔵  妙なもんじゃね……昨夜ゆうべ、夢をみたんじゃ。二人でね、あんたと、広い広い川を、舟に乗って渡っているんじゃ。なんぼ漕いでも、前へ進まん。うんうん、うなって、漕いでいるうちに目が覚めた。……それだけじゃけどもね。広い川なんじゃ。

 豊子  (きっと顔を上げて、口を開きかけるがまた外を見る)

 金蔵  あんたが来なさる。そう思って寝たからじゃろうね。

 豊子  (つぶやく)……松花江ですわ。

 金蔵  うん?

 豊子  松花江……。

 金蔵  ……松花江。(自らの声に驚き、豊子を見つめる)

 豊子  ……

 金蔵  ……

 豊子  (決意して、近づく) 金蔵さん。

 金蔵  ……(うめくように) わしと、あんたとは、逃れられん、わけか……。

 豊子  金蔵さん。

 金蔵  (我に帰って) お、そうじゃった。言うてみなさい。小なりといえ、儂も、今は社長で、市会議員と呼ばれている身じゃ。遠慮なく言うてみなさい。……うん? どれくらい?

 豊子  そうではないのです。

 金蔵  ……。

 豊子  お金のことではないのです。そういうことでお伺いしたのではないのです。

 金蔵  ……。 

 豊子  あの……満子は……。本当に、……あの、金蔵さん。満子は、本当に死にましたのでしょうか。

 金蔵  満子?

 豊子  はい。満子です。……今さら、またしても、あの話を持ち出して、何のことかとお思いでしょうけど、どうしても、どうしても、私、お聞きしたいんです。金蔵さん、本当のことを聞かせてください。満子は、満子は、本当に死にましたのでしょうか!

 金蔵  ……。(深い沈黙)

 豊子  金蔵さん。お願いします。どうか、おっしゃってください!

 金蔵  ……それを聞きに……。

 豊子  はい。

 金蔵  そのために、わざわざ。

 豊子  はい。

 金蔵  (声を荒らげる) なぜじゃ。

 豊子  それは……。

 金蔵  なぜ、知りたいんじゃ。なんで、昔々の話をほじくりかえすんじゃ。

 豊子  ……。

 金蔵  何度、責めたら気が済むんじゃ。何度責めたら……。わしらは、そのことに疲れ果てて、離婚したのではなかったのか……。

 豊子  ですから。

 金蔵  なぜじゃ。

 豊子  満子は、金蔵さん、生きとるんじゃないかと……。

 金蔵  ……。

 豊子  いえ、生きておるんです。生きておったんです。……と思うのです。

 金蔵  ばかな!

 豊子  いいえ。

 金蔵  満子は確かにこの儂が……。(ふっと息を抜いて、いたわり深く)もう、いい、もう、いい。儂ら二人は、その償いは充分にしたんじゃ、そうじゃろう、充分にだ。

 豊子  (バッグから、折り畳んだ新聞を取り出し、机に広げる)これです。あなた。見てください。この娘、ほら、この娘。満子じゃないですか。見てください。

 金蔵  (そういう豊子の姿をいたいたしそうに眺めて)生きていてくれたらと、思いたい気持ちは、よーく分かる。けど、豊子、あの娘は、もうおらんのじゃ。……疲れているんじゃのお。……かわいそうに。

 豊子  この娘、ほら、この娘。(新聞をつきつける)

 金蔵  (仕方なく受け取り、ちらと見る)中国残留孤児の肉親捜し……。(すぐに机の上に置く)豊子……。豊子さん。そう思いたいのは無理のないことかもしれないけれど、そんなことはありゃあせん。ありゃあせんのじゃ。絶対に。

 豊子  どうか、お願いです。見てください、読んでみてください。この娘のところ……。

 金蔵  あの娘はね、もういないんじゃよ。遠い遠い、どこか知らんけど。うん、そりゃ、豊子さん、あんたの胸の中では生きとるんじゃろうけれども……。

 豊子  読んでみてください!

 金蔵  (気押されて、新聞を取り上げる)

 豊子  ここ、ほら。

 金蔵  「孫桂珍。女。ソ連参戦後、父母とともに避難中、父母とはぐれたものと思われ、ハルビン市の山の中で、養父孫忠文に保護された。」

 豊子  その先です。

 金蔵  その時、赤色の花柄模様の洋服を着、石榴ざくろの花のししゅうのあるエプロンをしていて、そのエプロンには、ミツコと日本名が糸で縫いつけられていた。」……ミツコ…… 、そんな……。

 豊子  満子でしょう?

 金蔵  しかし……。

 豊子  生きているんですよ。生きていたんですよ。あなた。私はっきりと覚えているんです。石榴の花のししゅう。私がしたししゅうですもの。糸でミツコって名前をかいたのも私です。ね、そうでしょう、満子でしょう? あなた!

 金蔵  そんな……いや、満子は死んだのだ。

 豊子  この写真、どこか私に似ていませんか。私の若いときに似てると思いませんか。

 金蔵  違う、違う、絶対に違う。

 豊子  金蔵さん。あなたは、私に嘘をついていらしたんです。

 金蔵  嘘? どうして。満子は、病気で死んだんじゃ。知っていようが。あんなひどい下痢をして、まるで骨と皮になって。

 豊子  そのことは、何度も聞きました。でも私は、見ていないんですもの、……見られなかったんですもの、…… (泣き出す) 私が帰ったときは、もう満子はいなかったんですもの。でも……生きていたんですよ。あなた。

 金蔵  満子は、……確かに、……死んだんじゃ。

 豊子  嘘です。

 金蔵  なんで、儂が嘘をつかねばならん!

 豊子  だって、現に、こうして……。

 金蔵  満子ではない。

 豊子  じゃ、誰です。

 金蔵  そんなことは、知らん!

 豊子  ですから……満子なのです。私の作ったエプロンをつけていたんですもの、何よりの証拠でしょ。あなたは、私に、隠していることがあるんですよ、そうでしょう。話してください。……ええ、隠す訳は分かっています。分かっていますとも。でも、でも、どうぞ、本当のことを話してください。

 金蔵  ……。

 豊子  あなた!

 金蔵  (ぐったり椅子に背をもたせ、遠く、かつ、いつも心の底にこびりついている記憶をたぐりよせる。そのための長い時間 ) こうなっては、話してしまうよりほかあるまいな。これは、満子ではないんだから。……豊子さん。その前に条件がある。

 豊子  条件?

 金蔵  これから言うことは、他言しないでもらいたい。

 豊子  ……。

 金蔵  もう一つ、この残留孤児に、会わない、ということを約束してもらいたい。

 豊子  前のことはともかく、あとのことは。

 金蔵  それならしゃべれん……。

 豊子  ……。

 金蔵  ま、いい。話してしまえば、会いに行くことが、どんなことを引き起こすか、分かることじゃろう。 …… この娘は、満子ではない。……やつらが、黒龍江の国境を越えて攻めてきたのが八月十日。儂ら八紘開拓国の百三十五名が、取るものもとりあえず、牡丹江を経て、ハルビンに向けて逃げ出したのは同じ十日。山を越え、川を渡り、何度もやつらの攻撃にあって高梁畑こうりゃんばたけへ逃げ込み、そのたびに何人かが死に、何日も何日も、昼は隠れ、夜歩き、満人部落で盗んだ食糧で飢えをしのぎ、それでも死ぬ者は死に……やがて、満子は、訳の分からぬ高熱を出し……ハルビンに着きさえすれば医者がいるからと、むずがり泣く満子を背中にくくりつけ……誰もが飢え……泥水を飲んで激しい下痢となり…… 。

 

舞台、溶暗。紗幕のセットの部分が、荒涼とした高梁畑を象徴する緑に染まる。わずかの風を受けてザワザワそよいでいる様子。

 

 金蔵  ある日、またまたやつらの一行に出くわし、一行の女という女は皆引きずり出され、引っ立てられ、おまえも引っ立てられ、……男どもはどうすることもできず、……いや、しようとせず、……我が命惜しきに首をたれ、……おのが女房がやつらの思いのままになることを知りながら、誰一人戦いもせず…… 。

 豊子  (あえぎながら) それから先のことです。私の知りたいのは、その先……。

 金蔵  (はげますように) ……我が身がかわいかった…… 死ぬことが恐ろしかった……卑怯で、残酷で、身勝手で……男どもは、ただ、我が妻の連れていかれるのを見ていただけじゃった。……人間のごうのなせる仕業なのか……いやいや今なら、何とでも言える、……あの時は、自分だけが助かりたかったのじゃ。……やがて、一人の男が、突然、しゃがみ込んで、泣き出した。つられて、残る男どもも、みんな泣き出した。泣きながら、儂は、虚しいと思った。ばかなことをしとると思った。どうして追いかけていって、殺されてもいいから、おまえを取り戻さないのかと思った。だが、大地にへばりついて泣くばかりで、誰一人立ち上がろうとしない。……(沈黙) それでも、しばらくして一人が、「これが日本男児か」と言った。「行って女房を取り返そう……どうせ死ぬなら、そうやって死ぬことが縁あって夫婦となり、縁あって満州まで来た我々の、せめてもの人間としての務めではないか」……みんな、その言葉で決心がついた。……それから……それから、何をしたか。……それから、我々が死ねば助からない……それぞれの連れている子どもを、……殺すことになった。…… そういうことになったのだ。……熱でぐったりしていた満子を、林の中に入って、背中からおろすと満子は、「母ちゃんは?」と、細い声で言う。「今すぐ、今すぐ一緒になるからな……」満子、は少し笑ったような気がした。向こうのほうで「父ちゃん、僕まだ歩けます。歩けますから、殺さんといて!」……儂は、満子の鼻と口を手で覆った。「父ちゃんも、すぐあとから行くからな。すぐに行くからな。すぐに、すぐに……」この手じゃ。この手。小さな、ぬくい柔らかい唇が、ごわごわしたこの手の中で二、三度揺れて、満子の歯が、きゅうっと儂の掌を噛んで、しばらくして、すーっと体中の力が抜けて……(すすり泣く) 赤色の、花柄の洋服、石榴の花の、ししゅうのある、エプロン。その満子が、儂の腕の中で……。(しぼり出すごとく) この儂が……殺したんじゃ。確かにこの手で。

 

  沈黙。

 

 金蔵  子ども殺しの父親どもの群れは、声もなく、とぼとぼと歩き出した。幽鬼の行列じゃった。……早く殺してくれ。……女房を助けに行くはずの男たちだったのに、誰もが、一刻も早く息の根をとめてほしいと思って歩いていた。……いくら歩いても、歩いても、高梁畑の、白い道は尽きない。ほこりの舞う道には、人は一人もおらん。機銃掃射でも何でもいい、早く殺してくれ……。二日ばかり歩いて遠くにハルビンの街が見え始め、おそらく奥地から逃げてきたに相違ない避難民が、次第に道に増えてきて、……一人が足を止めて言った。「ここで別れよう……。我々が生き延びられるかどうかは分からないが、女房らが生きているものなら、捜し出し、殺されていたとしても、ともかく、生きて日本に帰ろう。しかし、あの事は、お互い、絶対に口にするな。こんりんざい、他人に言うな」「そりゃ無理だ」わしは言うた。「無理だとしても言うな。女房にも言うな。川に溺れたとでも、やつらに殺されたとでも、病気で死んだとでも、なんとか嘘をつけ」「そんな嘘をついたところで……」「わしらが殺したんではない。やつらが殺させたんだ。だから、だから、いいか、生きて、生きて、生き抜いて、このかたきを討とう。死ぬことはいつでもできる。あの薬をちょっと口に入れるだけでいい。しかし、死ぬな。いつの日か、このうらみを晴らさねばならん。その日まで、死ぬな。鬼になっても生き抜け」……空白になった儂らの頭に、その言葉は呪文のようにしみ込んだ。満子のかたきを討とう。おまえの敵を討とう……。

 

   溶明。

 

 金蔵  ハルビンの手前の松花江の土堤で、舟を捜していたら、堤防の斜面の草むらに、血だらけになって捨てられていたおまえたちを見つけた。ぼろぼろになりながらもおまえたちは生きていた。……これで全部だ。満子と一緒に死んでおれば、よかったんじゃ。それが、わしに与えられた人生だったんだ。……しかし、あの薬を口する日はとうとうなかった。儂は、おめおめと生きてきたんじゃ。

 豊子  いいえ。満子はやはり、生きているんです。生きているんです。

 金蔵  いや。

 豊子  ともかく、私は、満子に会いに行きます。

 金蔵  待て。それは、話が違うぞ。会わないことを条件に、話したはずだぞ。

 豊子  いいえ。満子は死ななかったのです。そのあとで生き返ったんです。

 金蔵  分からんやつじゃな。満子は、確かに、この儂が。

 豊子  いいえ。この娘は満子です。私の体に響くものがあります。

 金蔵  ばかなこと言うものではない。

 豊子  (新聞を取って) 「ハルビン市の山の中で、養父孫忠文に保護された。」保護されたんです。

 金蔵  そんなことはない。いや、満子の遺体から、着物をはぎ取って持ち帰った者がいて、今ごろになって持ち出してきたのかもしれんと考えることもできるではないか。……見ろ、この写真、おまえにも、儂にも似ていないぞ。

 豊子  じゃ、この娘は身代わりだとでもおっしゃるんですか。そんなこと、 なぜしなけりゃならないんです?

 金蔵  日本へ来たかったからとか……。

 豊子  ばかなことをおっしゃるものじゃありません。……あなたには、満子が生きていたら困ることでもあるんですか。

 金蔵  それは……。

 豊子  だったら。

 金蔵  ……。

 豊子  そりゃ、会ってみなければ、確実なことは言えませんわ。でも、このエプロンは私の作ったものに間違いありません。

 金蔵  (おだやかに、しかも威圧的に) その娘に会って、それで、どうするんじゃね。

 豊子  引き取ります。

 金蔵  誰が?

 豊子  …… 私が、です。

 金蔵  あんたさんは、そんな簡単なことで、済むと思っておいでなんですか?

 豊子  先のことは分かりませんけど、母親ですもの、名乗って引き取るのは、当然のことですわ。

 金蔵  そりゃ、だめだ。

 豊子  どうしてです?

 金蔵  考えてもみなさい。日本人だと言うたところで、中国残留孤児というのは、四十年間中国人として育ち、生活習慣も、言葉も違って生きてきたんじゃ。

 豊子  それが、どうしたというんです。

 金蔵  つまり……中国人なんじゃよ。血は日本人かもしれんけど。

 豊子  なんということ…… 。あなたはそれでも人の親ですか! 私たちの子どもですよ。かわいくないんですか。

 金蔵  満子ではない……。

 豊子  わずか三つで、我が親に殺されそうになり、それでも今日まで生きていてくれたんですよ。どんなにか辛かったことでしょう。苦しかったことでしょう。その子が、今、父、母を呼んでいるんですよ。その心が分からないんですか。娘のせつない心が、あなたには分からないんですか。どんなにか辛かったでしょう。下着一枚買ってやれなかった。靴下も手袋も、リボンも、フリルのついたスカートも、あの娘は知らないで育ったに違いありません。お雛さまもない、七五三もない、ああ……ああ、たまりませんわ。なんてかわいそうな満子!

 金蔵  ばかなことを言うもんじゃありません、だ。自分の感傷に酔うとるんじゃ。

 豊子  感傷!

 金蔵  ……。

 豊子  どこが感傷なんです。(鼻白んで) それでもいいじゃありません? 酔うては、いけませんか。

 金蔵  いかんね。

 豊子  あなたは、ご自分のなさったことをとがめるあまり、そんなふうにわざと頑迷に見せようとなさるんでしょう? それにしてもあなたの言葉を聞いていると、こんなことをしている日本政府は、中国残留孤児に、まるでよくないことをしているみたいじゃありませんか。

 金蔵  政府の思惑は知らないけれども、あるいはそうかもしれないね。

 豊子  新聞もテレビもですか。

 金蔵  少なくとも、思慮深いとは言えんね。……それは、わしも残留孤児と聞けば、胸の底に、誰にも言えん激痛が走る。毎度走る。昔のことを思い出し、深夜ひとりで泣いたこともある。そういう当事者の心の痛みなど、誰にも分かるまい。ましてや、この写真の人たちの心中は、儂らにさえ分からない。だのに、分かりもしない第三者が、瞬時の出会いを書きたて、はやしたてとるんじゃ。だいたい、残留孤児という呼び方からしておかしいじゃないか。残留ではない。捨ててきたんじゃ。いや、捨てさせられたのだ。誰が残りとうて残ったじゃろうか。儂らも誰が残しとうて残してきたじゃろうか。……捨てたんじゃよ。捨てられたんじゃよ。そのことを知っておる親なら、そして本当に子どもを愛しておる親なら、今さら名乗り出られるはずがないではないか。

 豊子  分かりません。あなたの言うこと、少しも分かりません。

 金蔵  それに孤児とは何じゃろ。みんな、四十、五十のおとなじゃないか。中国の大地を踏みしめて、幾多の艱難辛苦を乗り越えて成長したおとなじゃないか。中国人として一人前に育った人格をつかまえて、孤児と言う。生きてきた苦労に対する尊敬の念がないからじゃ。中国の養父母のことも考えんからじゃ。捨てた親には、もう、親の資格がないはずじゃ。捨てておいて、育ててもろうておいて、今さら生みの親だと現われ出ることの、どこに愛情がある? そんなものは、まったくの手前勝手じやろうが。……。

 豊子  だって、あなた。そんなこと言われたって、ああして会いたい会いたいと、せつなく叫んでいる孤児たちは、どうなるんです。

 金蔵  大岡裁きの話があるじゃろうが。二人の親が子どもの両手を引っぱる、あれじゃ。手を離したのは、どっちの親じゃったと思う。

 豊子  ……。分かっております。あなたが、そういう理屈をこねられる胸のうちは、私には分かっております。

 金蔵  何が?

 豊子  あなたは、満子が生きていては、満子が現われては困るというわけですね。

 金蔵  そうではない。そうではなくて……。

 豊子  だから私に、満子に会うな、母親だと名乗り出るな、そうおっしゃるのでしょう? それはいやです。養父母や夫や子どもがいて、日本へ帰国できないなら、また帰って中国で生きればいいじゃありませんか。娘が中国へ嫁に行ったと考えればいいじゃありませんか。……それでも、私は、母としてできるかぎりのことをしてあげるつもりです。それが、母親というものじゃありませんか。

 金蔵  仮にだよ、その娘が、あんたに、中国へ行って一緒に生活しましょう、と言ったら行くかね。……行かんじゃろう。

 豊子  ……。

 金蔵  そういうもんじゃよ。あんたを非難したり、けなしたりしとるんじゃないんだ。人間というものは、そういうところで生きとるんだ。一時いっときの美談は後日の醜聞になりかねん。

 豊子  あいかわらずね。そういう物言いが、どれほど、他人ひとを傷つけているかということを、考えたこともないのでしょう。…… そりゃ、私だって、この身体にへどが出そうなほど、いろいろの汚点を記しておりますよ。でも、少しでも、良くなろうと……。(ふっと話題を変える) お互い赤の他人になって、三十年以上たったんです。今さら、あなたにお説教されようとは思いませんでした。私は、もう、この歳ですもの、勝手にやらせてもらいます。人間、誰だって自分がかわいい、自分が正しい、そう思ってるんじゃありません? そうおっしゃるあなただって、自分が正しいと思えばこそ、私にいろいろ注文をつけられれるんじゃありませんか。……もう、あなたの指示は受けません。また、そんなつもりで来たのではないのですから。

 金蔵  どうしても、会うつもりか。

 豊子  はい。

 金蔵  ……どうしても…… か。

 豊子  あなたの子どもでないのなら、それはそれで、いいじゃありませんか。でも満子は、私の娘です。

 金蔵  頼むから……やめて……くださらんか。いや、どうかやめてくれ。

 豊子  どうしてですか。

 金蔵  過ぎてしまったことじゃ。あばきたてんでくれ。

 豊子  暴きたてる? 何をでしょう。我が娘の前に、母だと名乗り出るだけのこと。……言いませんよ、あなたのことなど。それこそ、もう父親は死んでしまった。病死でも溺死でも、お好きなように死なせてあげます。

 金蔵  そんなものではないぞ。国家というものは、そんな母もの映画のような、お涙ちょうだいとは違うんだ。徹底的に調べ上げるんじゃ。

 豊子  だから、どうだと言うんです。(皮肉に) 調べられたら困ることでもありますの? (立つ) 帰ります。

 金蔵  (激しい眼でにらみつけて、豊子の前に立ちはだかる)

 豊子  通してください。

 金蔵  (一歩前へつめ寄る)

 豊子  (後ずさりをする)

 金蔵  (突然床に土下坐をする)

 豊子  金蔵さん。

 金蔵  頼む。

 豊子  あなたという人は……。

 金蔵  頼む、豊子。

 豊子  理由を聞きましょう。

 金蔵  かつて、何も言わずに、わしは、離婚届のハンコを押したじゃないか。今度は、儂の頼みを、黙ってきいてくれ。

 豊子  いや! だめです。

 金蔵  このとおりだ。

 豊子  満子はどうなるのです。

 金蔵  頼む。

 豊子  ……。

 金蔵  儂を、儂を男にしてくれ!

 豊子  男……に?

 金蔵  男の花道を歩かせてくれ!

 豊子  何ですか。それは……。

 金蔵  ……次の……。

 豊子  ……。

 金蔵  県会議員の選挙に出馬…… することになって……おるんじゃ。

 豊子  ……。

 金蔵  だから、今は……。察してくれ。

 豊子  たった……それだけ?

 金蔵  桜井金蔵、生涯かけての頼みじゃ。

 豊子  なんという、なんという……情けない!……それが、男というものですか。

 金蔵  そうだ。これが、男だ。何と言われようと……。

 豊子  何の話を……、今、私が何の話をしているのか、お分かりなんでしょうね。

 金蔵  分かっとる。

 豊子  犬畜生にも劣るとは、思いませんか。あなたには、人間の心というものがないんですか。……あなた!

 金蔵  ……人間の心は……ない ……か、あるか、そんなことを、お前に言う必要もない。降ってわいたようなことで、儂の人生をめちゃめちゃにさせるわけに、いかん。

 豊子  …… あなたという人は。……それでは、満子の人生は、満子の生涯は、どうなんです。

 金蔵  だから、……何度言わせるのだ。それは満子ではない。

 豊子  分かりました。もう結構です。

 金蔵  何が。何が結構なのじゃ。(ゆるゆる立つ)

 豊子  満子でなきゃ、あなたに何も関係のないことでしょう。

 金蔵  お前は、儂をめちゃめちゃにするつもりじゃな。豊子。儂が、営々として築き上げたものを、お前は、一瞬に、ぶっこわすつもりなんじゃな。豊子!(憎悪と殺意をもってにらみつける)

 豊子  …… (つぶやく) 満子を……殺し、私を……見捨て……あなたこそ、私たちの家庭を、めちゃくちゃにしたではありませんか。(真正面から金蔵に対し)何が今さら、こわれるんです。こわされて、暗い闇に葬られたのは、誰ですか。いつも、うまい汁を吸って、平気でいるのは誰ですか。……あなたはいつも、戦争が悪い、時代が悪い……こんな時に生まれ合わせたのが身の不運だと、慰めたり、言いのがれたり……でも、それを乗り越えようとも、改革しようともせず、時の流れに身をまかすだけ、成り行きまかせばかり、それで市会議員だの県会議員だの男の花道だの……よくまあ、そんなことが言えますねえ。見下げ果てた……。怒ったって、しょうがないわね。昔も、なんか、こんなことを言って別れたんですものね。

 金蔵  お互い、何も変わっとらんわけだ。(気弱そうな様子を見せ始める)

 

 電話のベルが鳴る。何度も鳴る。

 

 豊子  ……あの、電話が……。

 金蔵  (ふらりと身を返して、事務室に行く)

 豊子  (バッグなど持ち、急いで出ようとする)

 

 受話器を取らない先に、電話のベル、やむ。金蔵、入ってきて、豊子に出会う。

 

 金蔵  (懸命に顔のこわばりをゆるめながら)申しわけなかった。つい、大声を出してしもうた。

 豊子  私、帰ります。

 金蔵  いや、だめだ。いや。いいじゃないか。夕飯ゆうめしを一緒にどうじゃろ。

 豊子  いえ、私、帰りますから。

 金蔵  謝る。おとなげないことじゃった。お互い積もる話がないわけじゃなし、いいじゃろうが。ちょっとだけ、付き合ってくださいや。

 豊子  ……。

 金蔵  いいじやろうが。

 豊子  でも、あなたはご用がおありなんでしょう? 今夜は。

 金蔵  ご用?

 豊子  ほんとに帰ります。

 金蔵  ああ、あれ。いい、いい。国会議員の秘書じゃけど、いつだって会えるんだから。あんたとは、何といったって、三十年ぶりなんじゃから。

 豊子  ……。

 金蔵  何やら、こう、昔のことが、一ぺんに出てきて、儂の頭の中は、ごちゃごちゃになってしもうとって、判断がつかん。つい失礼なことを言うてしもうた。……それとも何かね、いいお人が、待っておる……。

 豊子  私は……結婚なんか……していません。

 金蔵  ……そう。そうかね。で、ずっと?

 豊子  ……。(少し気持ちをゆるめる)

 金蔵  ……そう。そうだったの。そりゃあ。

 豊子  あなたは、お子さん、あるんでしょ?

 金蔵  まあ、ね。長女に、孫が二人だ……。

 豊子  そう。

 金蔵  ……悪いね。

 豊子  何を言ってるんです。……悪いも良いもないじゃありませんか。

 金蔵  そりゃ、ま。

 豊子  ひとりってのも、気楽でいいわよ。どこに行くのも自由だし、誰に気がねもなく……。

 金蔵  だったら、なおさらだ。ちょっと、いい店があるんだ。

 豊子  分かった。また、いい人にやらせてる店でしょう。

 金蔵  ばか……。

 豊子  ほら、すぐ顔に出るんだから。昔、そんなことがあったでしょう。

 金蔵  どんなこと?

 豊子  しらばっくれて。

 金蔵  ……では、決まった。

 豊子  奥さんに怒られても知りませんよ。

 金蔵  今夜は、婦人後援会の御一行様と温泉だ。慰安会をしたり、旅行に連れてったり、なかなか……大変なんだよ。

 豊子  離婚してて、よかった。

 金蔵  そうかもしれないな。

 豊子  ……そんなに……おもしろい?

 金蔵  まあ、おもしろい……というか……やっぱり、人間が動くんじゃもんね。どうにでも動くんじゃもの……今の儂には……おもしろい。

 豊子  正直なのね。

 金蔵  人間というものは、いろいろでな。まことにいろいろだ。金に弱い奴。権力に弱い奴。名誉に弱い奴。地位に弱い奴。理屈に弱い奴に、威嚇に弱い奴。女に弱い奴に男に弱い奴。しかしそういう弱い奴は、まだ、愛敬があってかわいい。ところが、まじめで、善人で、正義感あふれる優等生ってのがいる。これがどうにもならん。そういう奴の善意ほど、世間に害毒を作るものはない。

 豊子  それ、私のことなのね。

 金蔵  いや、あんたは……。

 豊子  融通がきかないものね。

 金蔵  この街にも、たくさんいるんじゃな。そういう手合いが。

 豊子  どうするの、そういう「手合い」は。

 金蔵  金を積んだり、仕事を与えたり、小悪人にするさ。

 豊子  ……。

 金蔵  小悪人になれば、しめたもんじゃ。

 豊子  ……それが、おもしろいわけ?

 金蔵  やがて、思いのままに動く。

 豊子  それで、私を誘ってみてるのね。

 金蔵  いや、それは……。

 豊子  いいわ、どちらでも。(立つ) ほんとに暑いわねえ。お手洗いどこかしら。ちょっと顔を直させてちょうだい。

 金蔵  入り口の脇。

 豊子  ちょっと失礼。(出ていく)

 

 豊子の背を見送って、金蔵、きっと真顔になり、逡巡の末、金庫の前に行き、手早くダイヤルを回し、中の引き出しを探って赤い薬包みを取り出し、ポケットに入れる。金庫を閉め、大きく息をして坐る。再び逡巡の様子。コップのビールをぐいと飲んで、はっと気づき、急に立ち上がり、事務室に行き、ビールのカンを取ってきて、また、ためらう。

 

 金蔵  今も後も、いずれであっても……人目につかねば、いつでも、どこでも……同じこと。金蔵、ためらうことはない。何もかも、さだめのうえのこと……。

 

 ポケットの赤い薬包みを掌に載せて、やがて、決心がついたので、一方のコップに薬を入れ、そこへビールを注ぐ。それを豊子の椅子の前にあいまいな位置に置く。包み紙の処理を思案しているところへ豊子が帰ってくる。慌てて手許てもとのタオルに巻き込み、それをポケットに押し込む。

 

 豊子  (坐らず、窓の辺りまで行きながら) よくよく考えてみれば、そうなのね、おっしゃるとおりですわ。私の頭には、三歳の満子しかいないのね。あの子は、ハルビンの街で、四十年も生きていたのに、子どものころのことしか考えないって、やっぱり母親じゃないのかもしれません。でも、それでも、私、会いに行きます。あなたのことは言いません。……それでいいんでしょう? ……いいんですね、言わなくても。

 金蔵  (こわばって) ああ、ああ。

 豊子  ありがとう。……分かってるんです。あなたは、本当は優しい方なのよ、今はそんなこと言ってでも……。大丈夫、誰にも知られないように、密かに会わせてあげるから。

 金蔵  (うわの空である) ああ、そうしてくれても、いい……ね。(自分の前のコップにカンからビールを注ぎ、一息に飲んで、タオルで汗をふこうとして、思いとどまり、手で顔をぬぐう)

 豊子  (つかつかと金蔵のかたわらに来て手を差し出す)

 金蔵  (豊子の手につられ、思わず立つ)

 豊子  こんなことで、会えるとは、思わなかった……。

 金蔵  (戸惑いながら、豊子を抱擁している)

 豊子  (うるんだ眼で、キスを促すような風情)

 

 電話のベル。

 

 金蔵  (慌てて豊子の手をほどき、事務室ヘ)

 豊子  (自分のこびに気づかないが、金蔵の背後を見送って、金蔵の坐っていた椅子に坐り、金蔵の、ビールを飲んだコップを取り上げ、いとしそうに金蔵のふれた部分にちょっとキスをする)

 金蔵の声  はい、もしもー し。ああ、河内さん。どうも、どうも。……はい。はい。……はい。……はい、分かりました。八時ですね……。はい。どうも…… よろしく。では。はい……はい。どうも。(切る)

 豊子  (金蔵のコップにビールを注ぎ、持って窓ぎわに行き、外を見ている)

 金蔵  (ゆっくりと入ってきて、様子をうかがう。机の上から、窓ぎわの豊子を見る)……さっきの、秘書でね……(豊子の動きを注視する)……まいったよ、八時にしてくれって……はは……。

 豊子  (掌の中のコップをもてあそんでいる)

 金蔵  (自分も机のコップを取って) 八時だけど、……八時だから……。

 豊子  (金蔵と目を合わせ、乾杯をするように、ちょっとコップをかかげる ) 三十年ぶりの二人のために……。

 金蔵  (ごくっとつばを飲みこんで、それに合わせる。小さく) 満子じゃないんだ。その子はやっぱり。

 豊子  え?(飲む)

 金蔵  (つられたように、飲む。コップを置き、豊子を見つめていたが、ばったりと机にうつぶせる)

 豊子  あなた……どうしたの。あなた……金蔵さん。

 金蔵  (ずるずると、床に崩れる)

 豊子  (事の成り行を理解しかねて、しばらくはぼんやり立っている)金蔵さん。どうなさいました。具合が悪いんですか。( 近づく) どうしました。(コップを机に置いて、金蔵の身体をゆする)ひどいの? あなた。(事務室をのぞいて) どなたか、あの、社長さんが……。誰か。(誰もいないので、金蔵の背後から抱きかかえ、床におろし、服のボタンをはずしたりする) あなた、大丈夫? 金蔵さん。(金蔵の汗を自分のハンカチでぬぐい、それで間に合わず、金蔵のポケットからはみ出たタオルを見つけ、それでぬぐう。……と、中から、薬の赤い包み紙を見つける。しげしげと眺め)どうして、あなた。こんなもの持ってるの……。(あっと驚き投げ出す) あなた! どうして、どうして、そんな……。(胸に手を当て、口もとに手を当て、調べる) なんてばかなことを! どうして? どうしてなの? こんなもの、今まで持っていたのよ? (ふいに顔を上げ、考え、思い当たる)……。そう……そうなの……そう。私を……そうだったの。……。私が飲むべきだったのね。コップを取り違えたとも知らず、自分で盛った毒を、自分で飲んじゃったというわけなのね。……ばかよ。ばかよ。……とても、あなたらしい、大ばかよ。(笑い出す、次第に哄笑になり、やがて、金蔵への憐憫れんびんと、同情と、自嘲と、いろいろ混ざった笑いとなり、やがていつくしみの忍び泣きに変わっていく) 赤い夕陽の満州へ、そこに、何か、すばらしい大地があると、思って行ったのね。あなたも、私も。あなたが二十、私が十七。……日本が、どんなカラクリで満州を作ったかも知らず、そのため世界がどんなふうに変わるのかも考えず、私たちの幸せが、そこにはあると、あなたも、私も信じたの……ね。ね、信じたのよね。だから、どんなことも平気だった。一鍬ひとくわ一鍬、春の遅い牡丹江の土の堅さも、あの広さも、そして貧しさも平気だった。

 

   舞台、溶暗。

 

 豊子  (金蔵の横に坐り続ける) 満子が生まれて、満州の満という字をつけて、ミツコ。そう、あなたがつけた名前……どんなに厳しく寒い冬も、私たち三人の温かさを凍えさせることはできなかった。オンドルのぬくもりより、もっと温かい幸せ……だから、戦争の動向が、悪いという話が伝わってきても、日本が空襲で焼けたと聞いても…… 迫ってくる危険など、これっぽっちも考えなかった。そう、自分のことしか見えなかったのよ。

 あの日……あなたと私は、満子を連れて家からいちばん遠い大豆畑の手入れに行ってたの……ね。満子は自分の背丈ほどの大豆のうねの間を、ぴょんぴょん走り回っていた。……開拓団の団長さんが、遠くから、馬で駈けてきた。……「ただちに退避、退避だ!」……それからよ。何が何だか分からないまま、私たちの、放浪……。

 

 舞台は、紗幕により、再び高梁の緑に包まれる。

 

 豊子  開拓国の本部前へ駆けつけると、ソ連参戦、侵略。守るはずの関東軍は、すでに撤退。ソ連兵による略奪蹂躙じゅうりん。……団長は、全員に、青酸カリの赤い薬包みを渡し…… どうして、そんなものが手回しよく、用意されていたのか……。そんなことに気を回すゆとりもなく、お互い目ぼしい荷物を持って、夕方だというのに歩き出し……。やっと、私たちは自分が、異国で生きてきたことを知ったわ。私たち自身が、あの国を侵略していたことを知った……。途中、女たちは、髪を切って男の着物を着こみ、顔に墨や泥をつけ……。……それでも、私は、あなたの頑丈な手をにぎり、背に満子の軽い重さを感じ、幸せだった。何が滅びようが、あなたと私と満子の世界……。……そのあなたが、私のただ一人のあなたが、やつらの銃口に囲まれたとき、私の腰を、後ろから押した。それが、信じていたあなただったわけ。……。押したのよ、あなたは。……でも、私はこらえた。満子のため、あなたのため……。そんなこと、自分だけの慰めだったのよ。でも、あの時、全員殺されるくらいなら、私の身体で助かるなら……そうよ、女たちの誰もがそう思って納得したのよ。私は、満子の母なんだから。だのにその満子は死んでいた。……あなたの手の中の、満子の遺髪。赤いリボンにくくられた、柔らかい髪の毛の一束……。それがすべてのおしまい……。……いえ、私の魂の放浪の始まり……。

 

 高梁の緑は、空漠たる川の流れに変わる。

 

 豊子  満子のあとを追って、死ねばよかった。死ねばよかった……死ねばよかった。私のポケットにあるあの赤い薬包み。いつでも死ねる。……変なものね、人間って。あんな絶望的な中で、私は、満子の髪を、日本の土に埋めてあげよう……一度も見たことのない日本を、満子に見せてあげよう、……それが、私を支えた。あなた、……あなたは、どう思っていたの? ……日本に帰り着くまでのあなたは、……そうね、まるでふぬけだったものね。ハルビンから、新京、奉天、錦州、コロ島……汽車に乗り、降ろされ、歩き、また乗り、襲われ、逃げ回り、何日も空しく留まるかと思うと、また歩き……。この身体の上を何人もの男たちが通りすぎ、……それで、わずかに飢えをしのぎ、……破れたとはいえ松の緑の美しい佐世保に着いたとき、……覚えているわ。突然あなたは、よみがえって、頼もしくなって……はは……それがあなたの正体だったのね。……さっき、何て言った? 「金に弱い奴」……あなたのことじゃない! 「権力に弱い奴」、あなたよ。「名誉に弱い奴」、それから……そう「地位に弱い奴」「理屈に弱い奴」、みんなみんな、あなたのことよ。そして「女に弱い奴」。……あはは……「男に弱い奴」は、私ね。そう、私。……帰国して、流産した。あなたは、ぎらぎらした眼で、私を見た。嫉妬に狂って、私を責めたわ。……それからの長い狂おしい、愛の不毛の日々……。二人の心のばらばら……。私たちの敗戦が始まった……。あなた、私、今、何をしてるか分かる? ……分からないわよね。言ってあげましょうか。……あの男と飛び出したあとは、お決まりのコースよ。はやり歌そっくりに、媚を売ったり身体を売ったり。……そうよ、私の手許の満子の髪は、暗い冷たい小さなお墓に入っちまったんだもの。生きる意味はとっくに失ってしまっていたわ。四十年、何をしてたのだろう……流れ流れてよ、あはは…… 今は、ホテルの従業員……ラブホテルのね。……シーツを替え、ゴミを捨て……男と女の宿業のすがたを見て、毎日を送ってるの。老いも若きも、毎日毎日……はは……何のこったい。あの戦争の苦労の末が、シーツの取り替え。…… 淋しいもんだね、人間は。 (金蔵をひざに抱き上げる) いずれ、誰もが、こうやって死んでいく。こんな暑い日なのに、ほら、あなたの身体はだんだん冷たくなっていく。六十年、うれしいの悲しいの、楽しいの苦しいのって、動き回ったこの身体。この手。この顔。 (金蔵の顔を抱きかかえ、長いキスをする。それから、しみじみと金蔵を見る) 満子であろうとなかろうと、…… あなたは、会えない。私も会わない。……満子、満子、もしあなたが満子なら、誰にも会わずに帰りなさい。……少なくとも、日本よりはあなたの育った国は、今はまだ健康なんですから。(身をよじって、机の上の毒の入ったコップを取る)こうして、……命ぜられるままに、……信ずることしか知らなかった、一組の男と女が、その最初から棄てられているとも知らず、おめおめと生き長らえた、小さな物語は、……ふふふ……あの娘さん、帰ってきたら、どんなに驚くでしょう。社長と見ず知らずの女が……。……でも真実は、いつもこうやって、闇から闇に……本当のことは、いつもそうなのね。闇から闇に消えていくのね。……誰にも語り伝えられない人間宿業の苦しみは、ひっそりと、消えていく。そしてまた、懲りもしないで、その最初から営々と繰り返され、続けられる……のね。満子、満子、もしあなたが満子なら、もう私は、あなたに、なんにもしてあげられない。それでもいいわね。……人間のできることなんて、たかが知れてるのよ。やっと分かった。

 

 舞台は、セットの一角から、全面に、とうとうと流れる大河に広がる。大地の底の声が低く低く、重く重く、合唱となって、連綿と響く。

 

 豊子 (コップを高くかかげて)ふふ……。あなた、乾杯。あなたの突然の死に。そして私の……私の、……私が、自分の意志で初めてする、選択、決断に……乾杯。(慈愛そのものの思いで) あなた。金蔵さん。長い間、すみません……でした。

 

 静謐なる時間が流れる。

 

 豊子  人の世の、愚かなる、浮き沈み……楽しかったわ……。あなた……。いろいろあったけど、ありがとう。(一口飲む)愛した人は、あなただけ。ずーっと。……ありがとう。(コップを下に置くや、永い休息が豊子をつつむ。豊子、静かに金蔵に折り重なる)