時 | 現代 |
---|---|
場所 | 海底の 琅玕 殿。 |
人物 | 公子。 沖の僧都(年老いたる海坊主)。 美女。 博士。
女房。侍女(七人)。黑潮騎士(多數)。 |
森嚴藍碧なる
琅玕
殿裡
。
黑影
あり。──沖の僧都。
僧都 お腰元衆。
侍女一 (薄色の洋裝したるが扉より出づ)はい、はい。これは
御僧
。
僧都 や、目覺しく、美しい、
異
つた
扮裝
でおいでなさる。
侍女一 御挨拶でございます。美しいか
何
うかは存じませんけれど、
異
つた
支度
には違ひないのでございます。若樣、
豫
てのお望みが叶ひまして、今夜お
輿入
のございます。若奥樣が、島田のお
髮
、お振袖と承りましたから、私どもは、餘計其のお姿のお目立ち遊ばすやうに、皆して、
恁
やうに申合せましたのでございます。
僧都 はあ、
扨
てもお似合ひなされたが、
何處
の浦の風俗ぢやらうな。
侍女一
度々
海の上へお出でなさいますもの、よく御存じでおあんなさいませうのに。
僧都 いや、荒海を切つて影を
顯
すのは
暴風雨
の折から。
如法
大抵
暗夜
ぢやに
因
つて、見えるのは墓の船に、死骸の
蠢
く
裸體
ばかり。色ある
女性
の
衣
などは
睫毛
にも掛りませぬ。さりとも小僧のみぎりはの、蒼い炎の息を吹いても、
素奴
色の白いはないか、袖の紅いはないか、と胴の間、
狹間
、帆柱の根、錨綱の下までも、あなぐり
探
いたものなれども、
孫子
は
措
け、
僧都
に於ては、久しく心にも掛けませいで、一向に不案内ぢや。
侍女一 (笑ふ)お
精進
でおいで遊ばします。もし、これは、櫻貝、
蘇芳貝
、いろいろの貝を
蕊
にして、花の波が白く咲きます、其の渚を、靑い山、綠の小松に包まれて、大陸の
婦
たちが、夏の頃、百合、桔梗、月見草、夕顏の雪の
裝
などして、
旭
の光、月影に、
遙
に(高濶なる
碧瑠璃
の天井を、髮艶やかに打仰ぐ)姿を映します。あゝ、風情な。美しいと
視
めましたものでございますから、私ども皆が、今夜は此の
服裝
に揃へました。
僧都 一段とお見事ぢや。が、朝ほど御機嫌伺ひに出ました節は、御殿、お腰元衆、いづれも不斷の
服裝
でおいでなされた。其の節は、今宵、あの美女が
此
へ
輿入
の儀はまだ
極
らなんだ。
地體
人間は決斷が遲いに
因
つてな。……
其
ぢやに、
豫
てのお
心掛
か。
弥疾
く
裝
が間に合うたものなう。
侍女一 まあ、
貴老
は。私たち此の玉のやうな
皆
の膚は、白い尾花の穗を散らした、山々の秋の錦が水に映ると
同
じに、
恁
うと思へば、つい其れなりに、思ふまゝ、身の
裝
の出來ます體で居りますものを。
貴老
はお忘れなさいましたか。
貴老は。……貴老だとて違ひはしません。緋の
法衣
を召さうと思へば、お思ひなさいます、と右左、峯に、
一本
燃立つやうな。
僧都 ま、ま、分つた。(腰を
屈
めつゝ、
壓
ふるが如く
掌
を擧げて制す)何とも相済まぬ儀ぢや。海の
住居
の
難有
さに馴れて、
蔭日向
、雲の
往來
に、
潮
の色の變ると同樣。
如意
自在心のまゝ、
立處
に身の
裝
の成る事を忘れて居ました。
なれども、
僧都
が身は、
恁
うした墨染の
暗夜
こそ
可
けれ、
憖
緋の
衣
など
絡
はうなら、づぶ
濡
の
提灯
ぢや、
戶惑
をした鱏の魚ぢやなどと申さう。
壓
も石も利く事ではない。(細く丈長き
鐵
の錨を
倒
にして
携
へたる杖を、
輕
く突直す。)
いや、又忘れては成らぬ。忘れぬ前に申上げたい儀で
罷出
た。若樣へお取次を賴みましよ。
侍女一
畏
りました。唯今。……あの、
丁
ど
可
い折に存じます。
右の
方闥
を
排
して行く。
僧都 (謹みたる
體
にて室内を
眗
す。)はあ、爭はれぬ。
法衣
の袖に春がそよぐ。(錨の杖を抱きて
彳
む。)
公子 (
衝
と押す、
闥
を
排
きて、性急に登場す。
面
玉の如く
臈丈
けたり。黑髮を背に
捌
く。靑地錦の
直垂
、
黃金
づくりの
劍
を
佩
く。上段、一階高き
床
の端に、端然として立つ。)
爺
い、見えたか。
侍女五人、以前の一人を眞先に、すらすらと從ひ出づ。いづれも洋裝。第五の侍女、年最も
少
し。二人は床の上、公子の
背後
に。二人は床を下りて僧都の前に。第一の侍女は其の
背
に立つ。
僧都 は。(
大床
に
跪
く。控へたる侍女一、
件
の錨の杖を預る)これはこれは、御休息の處を恐入りましてござります。
公子 (親しげに)爺い、用か。
僧都
紺靑
、群靑、
白群
、朱、
碧
の
御藏
の中より、此の
度
の儀に就きまして、先方へお遣はしに成りました、品々の
類
と、數々を、念のために申上げたうござりまして。
公子 (立ちたるまゝ) おゝ、あの女の父親に
遣
つた、陸で
結納
とか云ふものの事か。
僧都 はあ、いや、御聡明なる若樣。若樣にはお
覺違
ひでござります。彼等
夥間
に結納と申すは、親々が縁を結び、
媒酌人
の手を以ち、婚約の祝儀、目録を贈りますでござります。然るに
此度
は、先方の父親が、若樣の御支配遊ばす、わたつみの財寶に望を掛け、もし此の念願の届くに於ては、
眉目
容色
、世に
類
なき一人の娘を、海底へ捧げ奉る段、しかと誓ひました。即ち、彼が望みの寶をお
遣
しに成りましたに
因
つて、是非に及ばず、
誓言
の通り、娘を浪に沈めましたのでござります。されば、お送り遊ばされた數の寶は、彼等が結納と申さうより、俗に女の
身代
と云ふものにござりますので。
公子 (輕く頷く)
可
、
何
にしろ
些少
ばかりの事を、別に知らせるには及ばんのに。
僧都 いやいや、鱗一枚、
一草
の
空貝
とは申せ、僧都が
承
りました上は、活達なる若樣、
斯
やうな事はお
氣煩
かしうおいでなさりませうなれども、
老
のしやうがに、お耳に入れねば成りませぬ。お腰元衆もお
執成
。(五人の侍女に目遣す)平にお聞取りを願はしう。
侍女三 若樣、お座へ。
公子 (顧みて)椅子を
此方
へ。
侍女三、四、兩人して白き枝珊瑚の椅子を捧げ、床の端近に据う。大楕圓形の白き
琅玕
の、沈みたる光澤を帶べる
卓子
、上段の中央にあり。枝のまゝなる見事なる珊瑚の椅子、紅白二脚、紅きは花の如く、白きは霞の如きを、相對して置く。侍女等が
捧出
でて位置を變へて据ゑたるは、其の白き
方
一脚なり。
僧都 眞鯛大小八千枚。
鰤
、
鮪
、ともに二萬疋。鰹、眞那鰹、
各
一萬本。
大比目魚
五千枚。
鱚
、
魴鮄
、
鯒
、
鰷身魚
、
目張魚
、
藻魚
、合せて七百
籠
。
若布
の其の幅六丈、長さ十五
尋
のもの、百枚一卷九千聨。
鮟鱇
五十袋。
虎河豚
一頭。大の
鮹
一番
。さて、別に又、月の灘の桃色の枝珊瑚一株、丈八尺。(此の
分
、手にて仕方す)
周圍
三抱
の分にござりまして。えゝ、月の眞珠、花の眞珠、雪の眞珠、いづれも一寸の珠三十三
粒
、八分の珠百五粒、
紅
寶玉三十
顆
、
大
さ鶴の卵、粒を揃へて、此は
碧
瑪瑙の盆に
裝
り、
綠
寶玉、三百顆、孔雀の尾の渦卷の數に合せ、紫の瑠璃の臺、五色に透いて輝きまする鰐の皮三十六枚、
沙金
の七十
包袋
。
量目
約百萬兩。
閻浮檀金
十斤也。
緞子
、
縮緬
、綾、錦、牡丹、芍藥、菊の花、
黃金色
の
菫
、
銀覆輪
の、月草、露草。
侍女一 もしもし、唯今の
其
は、あの、殘らず、其のお娘御の身の
代
とかにお遣はしの分なのでございますか。
僧都 殘らず身の代と? ……はあ、如何さまな。(心付く)
不重寶
。これはこれは
海松
ふさの袖に記して覺えのまゝ、
潮
に乘つて、
颯
と讀流しました。はて、何から申した事やら、品目の多い處へ、數々のゆゑに。えゝえゝ、眞鯛大小八千枚。
侍女一 鰤、鮪ともに二萬疋。鰹、眞那鰹各一萬本。
侍女二 (僧都の前にあり)
大比目魚五千枚。鱚、魴鮄、鯒、あいなめ、目ばる、藻魚の
類
合せて七百籠。
侍女三 (公子の背後にあり)
若布の其の幅六丈、長さ十五尋のもの百枚一卷き九千聨。
侍女四 (同じく公子の背後に)
鮟鱇五十袋、虎河豚一頭、大の鮹
一番
。まあ……(笑ふ。侍女皆笑ふ)
僧都 (額の汗を拭く)それそれ
然
やう、然やう。
公子 (微笑しつゝ)笑ふな、老人は眞面目で居る。
侍女五 (最も
少
し。
齋
しく公子の背後に附添ふ。派手に
美
しき聲す)月の灘の桃色の枝珊瑚樹、
對
の一株、丈八尺、
周圍
三抱
の分。一寸の玉三十三
粒
……雪の眞珠、花の眞珠。
侍女一 月の眞珠。
僧都
少時
。までじやまでじや、までにござる。……桃色の枝珊瑚樹、丈八尺、
周圍
三抱の分までにござつた。(公子に)鶴の卵ほどの
紅
寶玉、孔雀の渦卷の綠寶玉、靑瑪瑙の盆、紫の瑠璃の臺。此の分は、天なる(仰いで禮拜す)月宮殿に
貢
のものにござりました。
公子
私
も
然
うらしく思つて聞いた。僧都、それから
後
に言はれた、其の菫、露草などは、金銀寶玉の
類
は云ふまでもない、魚類ほどにも、人間が珍重しないものと聞く。が、同じく、あの
方
へ
遣
はしたものか。
僧都 綾、錦、牡丹、芍藥、
縺
れも散りもいたしませぬを、老人の
申条
、はや、又
海松
のやうに亂れました。えゝえゝ、其の菫、露草は、若樣、此の度の御旅行につき、
白雪
の
龍馬
にめされ、渚を掛けて浦づたひ、朝夕の、茜、紫、雲の上を山の峰へお
潛
びにてお出まの節、珍しくお手に
入
りましたを、
御
姉君、乙姫樣へ
御進物
の分でござりました。
侍女一 姫樣は、
閻浮檀金
の一輪挿に、眞珠の露でお
活
け遊ばし、お手許をお離しなさいませぬさうにございます。
公子
度々
は手に
入
らない。
私
も大方、姉上に
進
げた其の事であらうと思つた。
僧都
御意
。娘の親へ遣はしましたは、眞鯛より數へまして、珊瑚一對……までに止まりました。
侍女二 海では何ほどの事でもございませんが、受取ります
陸
の人には、鯛も
比目魚
も千と萬、少ない數ではございますまいに、僅な日の
間
に、ようお手廻し、お遣はしに成りましてございます。
僧都
然
れば其の事。一國、一島、津や浦の
果
から果を一網にもせい、人間
夥間
が、
大海原
から取入れます
獲
ものと云ふは、貝に溜つた雫ほどに
聊少
なものでござつての、お腰元衆など思うても見られまい、
鉤
の
尖
に蟲を附けて
雜魚
一筋を釣ると云ふ
仙人業
をしまするよ。此の度の娘の父は、
然
までにもなけれども、小船一つで網を打つが、
海月
ほどにしよぼりと擴げて、泡にも足らぬ
小魚
を
掬
ふ。入れものが小さき故に、
其
が
希望
を滿しますに、手間の入ること、何ともまだるい。鰯を育てて鯨にするより齒痒い段の行止り。(公子に向ふ)若樣は御性急ぢや。早く彼が
願
を
滿
たいて、
誓
の美女を取れ、と御意ある。よつて、黑潮、赤潮の
御手兵
を
些
とばかり動かしましたわ。赤潮の
劍
は、炎の稻妻、黑潮の黑い旗は、黑雲の峰を
築
いて、沖から摚と浴びせたほどに、一浦の津波と成つて、田畑も家も山へ流いた。片隅の美女の家へ、
門背戶
かけて、疊天井、
一齋
に、屋根の上の丘の腹まで運込みました儀でござつたよ。
侍女三 まあ、お勇ましい。
公子 (少し俯向く)勇ましいではない。家畑を押流して、浦のもの等は迷惑をしはしないか。
僧都
否
、否、黑潮と赤潮が、
密
と爪彈きしましたばかり。人命を斷つほどではござりませなんだ。尤も迷惑を
爲
ば、いたせ、娘の親が人間同士の
間
でさへ、自分ばかりは、思ひ
懸
けない海の幸を、
黃金
の山ほど
摑
みましたに因つて、他の人々の難澁如きは
聊
か氣にも留めませぬに、海のお
世子
であらせられます若樣。人間界の迷惑など、お心に掛けさせますには毛頭當りませぬ儀でございます。
公子 (頷く)そんなら
可
――僧都。
僧都 はゝ。(
更
めて手を
支
く。)
公子
彼
の親は、
此方
から遣はした、娘の身の代とか云ふものに滿足をしたであらうか。
僧都 御意、滿足いたしましたればこそ、當御殿、お求めに從ひ、美女を沈めました儀にござります。尤も、眞鯛、鰹、眞那鰹、其の金銀の魚類のみでは、滿足をしませなんだが、續いて、三抱へ一對の枝珊瑚を、夜の渚に差置きますると、山の
端出
づる月の光に、眞紫に輝きまするを夢のやうに抱きました時、
彼
の父親は白砂に
領伏
し、波の
裙
を吸ひました。あはれ龍神、一命を捧げ奉ると、御恩のほどを
難有
がりましたのでござります。
公子 (微笑す)
親仁
の命などは御免だな。そんな魂を引取ると、
海月
が殖えて、迷惑をするよ。
侍女五 あんな事をおつしやいます。
一同笑ふ。
公子 けれども僧都、そんな事で滿足した、人間の慾は淺いものだね。
僧都 まだまだ、
彼
は深い方でござります。一人娘の身に代へて、海の寶を望みましたは、慾念の
逞
い故でござりまして。……たかだかは人間同士、
夥間
うちで、白い
柔
な
膩身
を、炎の燃立つ絹に包んで蒸しながら賣り渡すのが、峠の關所かと心得ます。
公子 馬鹿だな。(珊瑚の椅子をすッと立つ)戀しい女よ。望めば生命でも遣らうものを。……はゝ、はゝ。
微笑す。
侍女四 お思はれ遊ばした娘御は、
天地
かけて、お仕合せでおいで遊ばします。
侍女一 早くお著き遊せば
可
うございます。私どももお待遠に存じ上げます。
公子 道中の樣子を見よう、旅の樣子を見よう。(
闥
の外に向つて呼ぶ)おいおい、居間の鏡を寄越せ。(闥開く。侍女六、七、二人、赤地の錦の
蔽
を掛けたる大なる姿見を捧げ出づ。)僧都も御覽。
僧都 失禮ながら。(膝行して進む。侍女等、姿見を
卓子
の上に据ゑ、錦の蔽を
展
く。侍女等、卓子の端の一方に集る。)
公子 (姿見の面を指し、僧都を見返る)
彼
だ、彼だ。あの一點の光が
其
だ。お前たちも見ないか。
舞臺轉ず。
少時
暗黑、
寂寞
として波濤の音聞ゆ。やがて
一個
、花白く葉の靑き蓮華燈籠、漂々として波に
漾
へるが如く
顯
る。續いて花の赤き同じ燈籠、
中空
の如き
高處
に出づ。又出づ、やゝ低し。尚ほ見ゆ、少しく高し。其の
數
五個
に成る時、
累々
たる波の舞臺を
露
す。美女。毛卷島田に結ふ。白の振袖、綾の帶、
紅
の長襦袢、胸に水晶の數珠をかけ、襟に兩袖を占めて、波の上に、雪の如き
龍馬
に乘せらる。凡そ手綱の丈を隔てて、
下髮
の女房。
旅扮裝
。素足、
小袿
に
褄
端折
りて、片手に
市女笠
を携へ、片手に蓮華燈籠を
提
ぐ。第一點の
灯
の影は此なり。
黑潮
騎士、美女の
白龍馬
を
犇々
と圍んで兩側二列を造る。
凡
十人。皆
崑崙奴
の
形相
。手に手に、すくすくと槍を立つ。穗先白く
晃々
として、
氷柱
倒
に黑髮を縫ふ。或ものは燈籠を槍に結ぶ、灯の高きは此なり。或ものは手にし、或ものは腰にす。
女房 貴女、お
草臥
でございませう。一息、お
休息
なさいますか。
美女 (夢見るやうに其の瞳を
睜
く)あゝ、(嘆息す)もし、
誰方
ですか。……私の身體は足を空に、(馬の背に
裳
を
搔緊
む)
倒
に落ちて落ちて、波に沈んで居るのでせうか。
女房
否
、お美しいお
髮
一筋、風にも波にもお
縺
れはなさいません。何でお身體が倒などと、そんな事がございませう。
美女
何時
か、何時ですか、
昨夜
か、今夜か、
前
の世ですか。私が一人、
楫
も
櫓
もない、舟に、
筵
に乘せられて、波に流されました時、父親の約束で、海の中へ
捕
られて行く、私へ供養のためだと云つて、船の左右へ、
前後
に、波のまにまに散つて浮く……蓮華燈籠が流れました。
女房 水に目のお馴れなさいません、貴女には道しるべ、また土產にもと存じまして、此が、(手に翳す)其の灯籠でございます。
美女 まあ、
灯
も消えずに……
女房 燃えた火の消えますのは、油の盡きる、風の吹く、
陸
ばかりの事でございます。一度此の國へ受取りますと、こゝには風が吹きません。たゞ花の香の、ほんのりと通ふばかりでございます。紙の細工も珠に替つて、葉の靑いのは、翡翠の
琅玕
、
花片
の紅白は、
眞玉
、白珠、紅寶玉。燃ゆる
灯
も、またゝきながら消えない星でございます。御覽遊ばせ、貴女。お召ものが濡れましたか。お髮も亂れはしますまい。何で、お身體が倒でございませう。
美女 最後に一目、
故郷
の浦の近い峰に、月を見たと思ひました。
其切
、底へ引くやうに船が沈んで、私は波に落ちたのです。唯幻に、其の燈籠の樣な蒼い影を見て、胸を離れて遠くへ行く、自分の身の魂か、導く鬼火かと思ひましたが、ふと見ますと、
前途
も、あれあれ、遙の下と思ふ處に、月が一輪、おなじ光で見えますもの。
女房 あゝ、(望む)あの光は。
否
。月影ではございません。
美女 でも、貴方、雲が見えます、雪のやうな、空が見えます、瑠璃色の。そして、眞白な絹絲のやうな光が射します。
女房 其の雲は波、空は水。一輪の月と見えますのは、此から貴女がお
出
遊ばす、海の御殿でございます。あれへ、お迎へ申すのです。
美女 そして、參つて、私の身體、
何
う成るのでございませうねえ。
女房 ほゝゝ、(笑ふ)何事も申しますまい。唯お嬉しい事なのです。おめでたう存じます。
美女 あの、
捨
小舟に流されて、海の
贄
に取られて行く、あの、(
眗
す)これが、嬉しい事なのでせうか。めでたい事なのでせうかねえ。
女房 (再び笑ふ)お國では
如何
でございませうか。私たちが
故郷
では、
最
う此の上ない嬉しい、めでたい事なのでございますもの。
美女
彼處
まで、
道程
は?
女房 お國でたとへは
煩
かしい。……おゝ、五十三次と
承
ります、東海道を
十度
づゝ、三百
度
、
往還
りを繰返して、三千
度
いたしますほどでございませう。
美女 えゝ、そんなに。
女房 めした
龍馬
は風よりも早し、お道筋は
黃金
の欄干、
白銀
の波のお廊下、たゞ花の香りの中を、やがてお著きなさいます。
美女 潮風、磯の香、
海松
、
海藻
の、
咽喉
を刺す
硫黃
の
臭氣
と思ひのほか、
眞個
に、
淸
しい、佳い薫、(柔に袖を動かす)……ですが、時々、
悚然
する、
腥
い香のしますのは?……
女房 人間の魂が、貴女を慕ふのでございます。
海月
が寄るのでございます。
美女 人の魂が、
海月
と云つて?
女房 海に參ります醜い人間の魂は、皆、海月に成つて、ふはふはさまようて
步行
きますのでございます。
黑潮騎士 (口々に)――
煩
い。
叱々
。――(と、ものなき龍馬の周圍を
呵
す。)
美女 まあ、情ない、お恥しい。(袖を以て
面
を蔽ふ。)
女房
否
、貴女は、あの御殿の若樣の、
新夫人
でいらつしやいます、もはや人間ではありません。
美女 えゝ。(袖を落す。――舞臺轉ず。眞暗に成る。)――
女房 (聲のみして)急ぎませう。美しい方を見ると、黑鰐、赤鮫が襲ひます。騎馬が前後を守護しました。お
憂慮
はありませんが、いざ參ると、斬合ひ攻合ふ、修羅の巷をお目に懸けねば成りません。――騎馬の方々、急いで下さい。
燈籠一つ行き、續いて一つ行く。
漂蕩
する趣して、高く低く奥の
方
深く行く。
舞臺燦然
として明るし、前の
琅玕
殿
顯
る。
公子、椅子の位置を
卓子
に正しく直して掛けて、姿見の
傍
にあり。向つて右の
上座
。左の方に赤き枝珊瑚の椅子、人なくしてたゞ据ゑらる。其の椅子を斜に
下
りて、沖の僧都、此の度は腰掛けてあり。黑き珊瑚、小形なる椅子を用ゐる。おなじ小形の椅子に、向つて正面に一人、
畧
唐代の
儒
の服裝したる、
髯
黑き一人あり。博士なり。
侍女七人、花の如く其の間を
裝
ひ立つ。
公子 博士、お呼び立てしました。
博士 (敬禮す。)
公子 此を御覽なさい。(姿見の面を示す。)
千仭
の
崕
を
累
ねた、漆のやうな波の間を、
幽
に蒼い
灯
に照らされて、白馬の背に
手綱
したは、此の
度
迎へ取るおもひものなんです。陸に獅子、虎の狙ふと
同一
に、
入道鰐
、
坊主鮫
の一類が、美女と見れば、途中に
襲撃
つて、黑髮を吸ひ、白き乳を裂き、美しい血を吞まうとするから、守備のために、旅行さきで、手にあり合せただけ、少數の
黑潮
騎士を附添はせた、
渠等
は
白刃
を揃へて居る。
博士 至極のお計ひに心得まするが。
公子 處が、敵に備ふる
此處
の守備を出拂はしたから不用心ぢや、危險であらう、と僧都が言はれる。……其は恐れん、私が居れば仔細ない。けれども、又、僧都の言はれるには、
白衣
に緋の
襲
した
女子
を馬に乘せて、黑髮を
槍尖
で縫つたのは、彼の國で引廻しとか
稱
へた罪人の姿に似て居る、私の手許に
迎入
るゝものを、
不祥
ぢや、忌はしいと言ふのです。
事實不祥なれば、途中の保護は他に
幾干
も手段があります。其は構はないが、私は
聊
かも不祥と思はん、忌はしいと思はない。
此を見ないか。私の領分に入つた女の顏は、白い玉が月の光に包まれたと
同一
に、
愈々
淸い。眉は美しく、瞳は澄み、唇の
紅
は冴えて、聊かも
窶
れない。憂へて居らん。淸らかな
衣
を著、
新
に
梳
つて、花に露の
點滴
る
裝
して、馬に
騎
した姿は、かの國の花野の
丈
を、錦の山の懐に
抽
く……
步行
より、車より、駕籠に乘つたより、
一層鮮麗
なものだと思ふ。其の上、選拔した
慓悍
な
黑潮
騎士の
精鋭等
に、
長槍
を以て
四邊
を拂はせて通るのです。得意思ふべしではないのですか。
僧都 (
頻
に
頭
を傾く。)
公子 引廻しと聞けば、恥を見せるのでせう、苦痛を與へるのであらう。槍で圍み、旗を立て、淡く淸く裝つた得意の人を馬に乘せて
市
を練つて、やがて刑場に送つて殺した處で、――殺されるものは平凡に
疾病
で死するより愉快でせう。――其が何の刑罰に成るのですか。陸と海と、國が違ひ、人情が違つても、まさか、そんな刑罰はあるまいと想ふ。僧都は、うろ覺えながら確に記憶に殘ると言はれる。……
貴下
をお呼立した次第です。一寸お
驗
べを願ひませうか。
博士
仰聞
けの記憶は私にもありますで。しかし、念のために驗べまするで。えゝ、陸上一切の刑法の記録でありませうか、それとも。
公子 面倒です、あとは
何
うでも
可
い。たゞ
女子
を馬に乘せ、槍を立てて引廻したと云ふ、そんな事があつたかと云ふ、それだけです。
博士 正史でなく、小説、淨瑠璃の中を見ませうで。時の人情と風俗とは、史書よりも
寧
ろ此の方が適當でありますので。(金光燦爛たる
洋綴
の書を展く。)
公子 (
卓子
に腰を掛く)大相氣の利いた書物ですね。
博士 此は、
佛國
の大帝
奈翁
が、西暦千八百八年、
西班牙
遠征の途に
上
りました時、
豫
て世界有數の讀書家。必要によつて當時の圖書館長バルビールに命じて
製
らせました、函入新裝の、一千卷、
一架
の内容は、宗教四十卷、敍事詩四十卷、戲曲四十卷、其の他の詩篇六十卷。曆史六十卷、小説百卷、と申しまするデユオデシモ形と申す有名な版本の事を……お聞及びなさいまして、御姉君、乙姫樣が御工夫を遊ばしました。蓮の絲、一筋を、凡そ枚數千頁に薄く織擴げて、一萬枚が一折、一百二十折を合せて一册に綴ぢましたものでありまして、此の國の微妙なる光に展きますると、森羅萬象、人類をはじめ、動植物、鑛物、一切の元素が、
一々
づゝ微細なる活字と成つて、然も、各々五色の輝きを放ち、名詞、代名詞、動詞、助動詞、主客、
句讀
、いづれも個々別々、七彩に照つて、
恁
く開きました眞白な
枚
の上へ、自然と、染め出さるゝのでありまして。
公子 姉上が、其を。――
嘸
、御祕藏のものでせう。
博士 御祕藏ながら、若樣の御書物藏へも、
整然
と姫樣がお備へつけでありますので。
公子 では、私の所有ですか。
博士 若樣は此の册子と同じものを、
瑪瑙
に靑貝の蒔繪の書棚、
五百架
、御所有で
居
らせられまする次第であります。
公子 姉があつて
幸幅
です。どれ、(取つて
披
く)此は……唯白紙だね。
博士 は、恐れながら、それぞれの豫備の知識がありませんでは、自然の其の色彩ある活宇は、ペエジの上には寫り兼ねるのでございます。
公子 恥入るね。
博士 いやいや、若樣は御勇武で居らせられます。入道鰐、黑鮫の襲ひまする節は、御訓練の
黑潮
、
赤潮
騎士、
御手
の
劍
でなうては御退けに成りまする次第には參らぬのでありまして。
雖然
、姉姫樣の御心づくし、
節々
は御閲讀の儀をお勸め申まするので。
僧都 もろともに、お勸め申上げますでござります。
公子 (頷く)まあ、今の引廻しの事を見て下さい。
博士 確に。(書を披く)手近に淨瑠璃にありました。あゝ、
此
にあります。……若樣、此は大日本浪華の町人、大經師
以春
の年若き女房、名だたる美女のおさん。
手代
茂右衛門と
不義顯
れ、即ち引廻し
磔
に成りまする處を、記したのでありまして。
公子 お讀み。
博士 (朗讀す)――
紅蓮
の井戶堀、焦熱の、地獄のかま塗りよしなやと、急がぬ道をいつのまに、越ゆる我身の死出の山、死出の
田長
の田がりよし、野邊より先を見渡せば、過ぎし冬至の冬枯れの、
木
の間木の間にちらちらと、ぬき身の槍の恐しや、――
公子 (姿見を覗きつゝ、且つ聽きつゝ)あゝ、
幾干
か似て居る。
博士 ――また冷返る夕嵐、雪の松原、此の世から、
恁
る
苦患
にわう
亡日
、島田亂れてはらはらはら、顏にはいつもはんげしやう、縛られし手の冷たさは、我身一つの
寒
の
入
、涙ぞ指の爪とりよし、袖に氷を結びけり。……
侍女等、傾聽す。
公子 唯、いゝ姿です、美しい形です。世間は其で其の女の罪を責めたと思ふのだらうか。
博士
先
、ト見えまするので。
僧都
然
やうでございます。
公子 馬に
騎
つた女は、殺されても戀が叶ひ、思ひが届いて、
嘸
本望であらうがね。
僧都 ――袖に氷を結びけり。涙などと、嘆き悲しんだやうにござります。
公子 其は、其の引廻しを見る、見物の心ではないのか。私には分らん。(頭を
掉
る。)博士――まだ
他
に例があるのですか。
博士 (朗讀す)……世の
哀
とぞなりにける。今日は神田のくづれ橋に恥をさらし、又は四谷、芝、淺草、日本橋に人こぞりて、見るに惜まぬはなし。是を思ふに、かりにも人は
惡
き事をせまじきものなり。天是を許し給はぬなり。……
公子 (眉を
顰
む。――侍女等
齋
しく不審の
面色
す。)
博士 ……此女思込みし事なれば、身の
窶
るゝ事なくて、每日ありし昔の如く、黑髮を
結
はせて
美
はしき風情。……
公子 (色解く。侍女等、眉をひらく。)
博士 中畧をいたします。……聞く人
一
しほいたはしく、其姿を見おくりけるに、限ある命のうち、
入相
の鐘つく
比
、
品
かはりたる道芝の
邊
にして、其身は憂き煙となりぬ。人皆いづれの道にも煙はのがれず、殊に不便は是にぞありける。――此で、鈴ヶ森で
火刑
に處せられまするまでを、確か江戶中
棄札
に槍を立てて引廻した筈と心得まするので。
公子 分りました。其はお七と云ふ娘でせう。私は大すきな女なんです。御覽なさい。
何處
に當人が歎き悲みなぞしたのですか。人に惜しまれ
可哀
がられて、女それ自身は大滿足で、自若として火に燒かれた。得意想ふべしではないのですか。何故其が刑罰なんだね。もし刑罰とすれば、
恵
の
杖
、
情
の鞭だ。實際其の罪を罰しようとするには、其のまゝ無事に置いて、平凡に愚圖愚圖に
生存
らへさせて、皺だらけの婆にして、其の娘を終らせるが可いと、私は思ふ。……分けて、現在、殊に其のお七の如きは、姉上が海へお引取りに成つた。刑場の鈴ヶ森は自然海に近かつた。姉上は御覽に成つた。鐵の鎖は手足を繫いだ、燃草は夕霜を置殘して其の肩を包んだ。煙は雪の振袖をふすべた。炎は
緋鹿子
を燃え拔いた。緋の牡丹が崩れるより、虹が燃えるより美しかつた。戀の火の白熱は、凝つて
白玉
と成る、其の
膚
を、氷つた
雛芥子
の花に包んだ。姉の手の甘露が沖を曇らして
注
いだのだつた。其のまゝ海の底へお引取りに成つて、現に、姉上の宮殿に、今も十七で、
紅
の珊瑚の中に、
結綿
の花を咲かせて居るのではないか。
男は死ななかつた。
存命
へて坊主に成つて老い朽ちた。娘のために、姉上は其さへお引取りに成つた。けれども、其の魂は、途中で
牡
の
海月
に成つた。――時々未練に娘を覗いて、赤潮に追拂はれて、醜く、ふらふらと生白く
漾
うて
失
する。あはれなものだ。
娘は
幸福
ではないのですか。火も水も、火は虹と成り、水は瀧と成つて、彼の生命を飾つたのです。拔身の槍の刑罰が馬の左右に、其の
譽
を輝かすと
同一
に。――博士
如何
ですか。僧都。
博士 しかし、しかし若樣、私は愼重にお答へをいたしまする。身は此の職にありながら、事實、人間界の心も
情
も、まだ
聊
かも分らぬのでありまして。若樣、唯今の仰せは、其は、すべて海の中にのみ留まりまするが。
公子 (穩和に頷く)姉上も、以前お分りに成らぬと言はれた。其の上、
貴下
がお分りにならなければ此は誰にも分らないのです。私にも分らない。しかし事情も違ふ。彼を迎へる、道中の此の(又姿見を指す)馬上の姿は、別に不祥ではあるまいと思ふ。
僧都 唯今、仰せ聞けられ承りまする内に、
条理
は
弁
へず、僧都にも分らぬことのみではござりますが、唯、黑潮の拔身で圍みました段は、別に忌はしい事ではござりませんやうに、老人にも、其の合點參りましてござります。
公子
可
、しかし僧都、こゝに蓮華燈籠の意味も分つた。が、一つ見馴れないものが見えるぞ。女が、黑髮と、あの雪の襟との間に――胸に珠を掛けた、
彼
は何かね。
僧都 はあ。(
卓子
に伸上る)はゝ、いかさま、いや、若樣。あれは水晶の
數珠
にございます。海に沈みまする覺悟につき、
冥土
に參る心得のため、
檀那寺
の和尚が授けましたのでござります。
公子 冥土とは?……其こそ
不埒
だ。そして
仇光
りがする、あれは……水晶か。
博士 水晶とは申す条、近頃は專ら
硝子
を用ゐますので。
公子 (一笑す)私の戀人ともあらうものが、無ければ
可
い。が、
硝子
とは何事ですか。金剛石、また眞珠の揃うたのが可い。……博士、贈つて然るべき
頸飾
をお
檢
べ下さい。
博士
畏
りました。
公子 そして指環の珠の色も怪しい、お前たち
何
う見たか。
侍女一 近頃は、かんてらの灯の
露店
に、
紅寶玉
、
綠寶玉
と申して、貝を
鬻
ぐと承ります。
公子 お前たちの化粧の泡が、波に流れて渚に散つた、あの貝が寶石か。
侍女二
錦襴
の服を著けて、靑い頭巾を被りました、立派な
玉商人
の賣りますものも、
擬
が多いさうにございます。
公子 博士、
次手
に指環を贈らう。僧都、すぐに
出向
うて、遠路であるが、途中、早速、
硝子
と其の
擬
ひ
珠
を取棄てさして下さい。お
老寄
に、御苦勞ながら。
僧都 (苦笑す)若樣には、
新夫人
の、まだ、海にお馴れなさらず、御到著の遲いばかり氣になされて、老人が、こゝに形を消せば、瞬く間もなう、お姿見の中の御馬の前に映りまする
神通
を、お忘れなされて、老寄に苦勞などと、心外な御意を
蒙
りまするわ。
公子 はゝは、(無邪氣に笑ふ)失禮をしました。
博士、僧都、
一揖
して廻廊より退場す。侍女等慇懃に見送る。
公子 少し窮屈であつたげな。
侍女等親しげに皆其の前後に
齋眉
き寄る。
公子 性急な私だ。――女を待つ間の
心遣
にしたい。誰か、あの國の歌を知つて
居
らんか。
侍女三 存じて居ります。
浪花津
に咲くや
此花
冬籠
、今を春へと咲くや此花。
侍女四 若樣、私も存じて居ります。淺香山を。
公子 いや、そんなのではない。(博士がおきたる書を
披
きつゝ)女の國の東海道、道中の唄だ。何とか云ふのだつた。此の書はいくらか覺えがないと、文字が見えないのださうだ。(呟く)姉上は貴重な、しかし、少しあてつこすりの書をお
拵
へに成つたよ。あゝ、何とか云つた、東海道の。
侍女五 五十三次のでございませう、私が少し存じて居ります。
公子 歌うて見ないか。
侍女五 はい。(朗かに優しくあはれに唄ふ。)
都路は
五十路
あまりの三つの宿、……
公子 おゝ、其だ、
字書
のやうに、江戶紫で、都路と
標目
が出た。(展く)あとを。
侍女五 ……時得て咲くや江戶の花、浪靜なる品川や、やがて越來る川崎の、軒端ならぶる神奈川は、早や程ケ谷に程もなく、暮れて戶塚に宿るらむ。紫匂ふ藤澤の、
野面
に續く平塚も、もとのあはれは大磯か。
蛙
鳴くなる小田原は。……(
極
惡げに)……もうあとは忘れました。
公子
可
、こゝに綠の活字が、白い雲の
枚
に出た。――箱根を越えて伊豆の海、三島の里の神垣や――さあ、忘れた所は教へて遣らう。此の歌で、五十三次の
宿
を覺えて、お前たち、あの道中
雙六
と云ふものを遊んで見ないか。
上
りは京都だ。姉の御殿に近い。誰か一人
上
つて、雙六の済む時分、丁度、此の女は(姿見を見つゝ)著くであらう。一番上りのものには、
瑪瑙
の
莢
に、紅寶玉の實を
裝
つた、あの造りものの
吉祥果
を遣る。繪は直ぐに間に
合
ぬ。此の
室
を五十三に割つて雙六の目に合せて、一人づゝ身體を進めるが可からう。……賽が要る、持つて來い。(侍女六七、うつむいてともに微笑す)――何うした。
侍女六 姿見をお取寄せ遊ばしました時。
侍女七 二人して盤の雙六をして居りましたので、賽は持つて居りますのでございます。
公子 おもしろい。向うの廻廊の端へ集まれ。そして順に成つて始めるが可い。
侍女七
床
へ振りませうでございますか。
公子 心あつて招かないのに來た、賽にも魂がある、寄越せ。(受取る)
卓子
の上へ私が投げよう。お前たち一から七まで、目に從うて順に動くが可い。さあ、集れ。(侍女七人、いそいそと、續いて廻廊のはづれに集り、貴女は一。私は二。
恁
う口々に樂しげに取定め、勇みて賽を待つ。)可いか、(片手に書を持ち、片手に賽を投ぐ)――一は三、かな川へ。(侍女一人進む)二は一、品川まで。(侍女一人また進む)三は五だ、戶塚へ行け。(
恁
くして順々に繰返し次第に進む。第五の侍女、年最も少きが一人衆を離れて賽の目に乘り、正面突當りなる窓際に進み、他と、
間
隔る。公子。これより
前
、姿見を見詰めて、賽の目と宿の數を算へ淀む。……此の時、うかとしたる
體
に書を落す。)まだ、誰も上らないか。
侍女一
漸
と一人天龍川まで參りました。
公子 あゝ、まだるつこい。賽を二つ一所に振らうか。(手にしながら姿見に見入る。侍女等、等く
其方
を凝視す。)
侍女五 きやつ。(叫ぶ。
隙
なし。其の姿、窓の外へ
裳
を引いて
颯
と消ゆ)あゝれえ。
侍女等、口々に、あれ、あれ、鮫が、鮫が、入道鮫が、と立亂れ騒ぎ狂ふ。
公子 入道鮫が、何、(窓に
衝
と寄る。)
侍女一 あゝ、黑鮫が三百ばかり。
侍女二 取卷いて、群りかゝつて。
侍女三 あれ、入道が口に
銜
へた。
公子
外道
、外道、其の女を返せ、外道。(叱咤しつゝ、窓より出でんとす。)
侍女等
縋
り留む。
侍女四 輕々しい、若樣。
公子 放せ。あれ見い。外道の口の間から、女の髮が
溢
れて落ちる。やあ、胸へ、乳へ、牙が喰入る。えゝ、油斷した。……骨も筋も
斷
れような。あゝ、手を悶える、
裳
を
煽
る。
侍女六
否
、若樣、私たち御殿の女は、
身
は綿よりも柔かです。
侍女七 蓮の絲を
束
ねましたやうですから、鰐の牙が、背筋と
鳩尾
へ嚙合ひましても、薄紙一重透きます内は、血にも肉にも障りません。
侍女三 入道も、一類も、色を漁るのでございます。
生命
は
頃刻
助りませう。
侍女四 其の
中
に、其の中に。まあ、お靜まり遊ばして。
公子 いや、俺の力は弱いもののためだ。
生命
に掛けて取返す。――
鎧
を寄越せ。
侍女二人
衝
と出で、引返して、二人して、一領の鎧を捧げ、
背後
より
颯
と肩に投掛く。
公子、上へ引いて、
頸
よりつらなりたる兜を頂く。
角
ある毒龍、
凄
じき
頭
と成る。其の頭を頂く時に、侍女等、鎧の裾を
捌
く。外套の如く背より垂れて、紫の鱗、
金色
の斑點聨り輝く。
公子、又袖を取つて肩よりして自ら
喉
に結ぶ、此の結びめ、左右一雙の毒龍の爪なり。迅速に
一縮
す。立直るや否や、劍を拔いて、頭上に
翳
し、ハタと窓外を
睨
む。
侍女六人、齋しく其の左右に折敷き、手に手に
匕首
を拔聨れて、
晃々
と敵に構ふ。
公子 外道、
退
くな。(
凝
と視て、
劍
の刃を下に引く)
虜
を離した。受取れ。
侍女一 鎧をめしたばつかりで、
御威德
を恐れて引きました。
侍女二 長う太く、數百の鮫のかさなつて、
蜈蚣
のやうに見えたのか、あゝ、ちりぢりに、ちりぢりに。
侍女三
めだか
のやうに遁げて行きます。
公子 おゝ、丁度黑潮等が歸つて來た、歸つた。
侍女四
眞個
に、おつかひ歸りの姉さんが、とりこを抱取つて下すつた。
公子 介抱してやれ。お前たちは出迎へ。
侍女三人づゝ、一方は
闥
のうちへ。一方は廻廊に退場。
公子、眞中に、すつくと立ち、靜かに劍を納めて、
右手
なる白珊瑚の椅子に
凭
る。騎士五人廻廊まで登場。
騎士一同 (槍を伏せて、
踞
り、同音に呼ぶ)若樣。
公子 おゝ、歸つたか。
騎士一 以ての外な、今ほどは。
公子 何でもない、
私
は無事だ、皆御苦勞だつたな。
騎士一同 はッ。
公子 途中まで出向つたらう、僧都は
何
うしたか。
騎士一 あとの我ら
夥間
を
率
ゐて、入道鮫を追掛けて參りました。
公子 よい相手だ、戰鬪は觀ものであらう。――皆は休むが可い。
騎士 槍は鞘に納めますまい、此のまゝ御門を堅めまするわ。
公子
然
までにせずとも大事ない、休め。
騎士等、禮拜して退場。侍女一、登場。
侍女一 御安心遊ばしまし、
疵
を受けましたほどでもございません。唯、
酷
く驚きまして。
公子 可愛相に、よく介抱して遣れ。
侍女一 二人が附添つて居ります、(廻廊を見込む)あゝ、
最
う御廊下まで。(公子のさしづにより、姿見に錦の
蔽
を掛け、
闥
に
入
る。)
美女。先達の女房に、片手、手を曳かれて登場。姿を
肅
に、深く
差俯向
き、面影やゝやつれたれども、
然
まで
惡怯
れざる態度、
徐
に廻廊を進みて、
床
を上段に昇る。昇る時も、裾捌き靜なり。
侍女三人、灯籠
二個
づゝ二人、一つを一人、
五個
を提げて附添ひ出で、一人一人、廻廊の
廂
に架け、其のまゝ引返す。燈籠を侍女等の差置き果つるまでに、女房は、美女を其の上段、紅き枝珊瑚の椅子まで導く順にてありたし。女房、謹んで公子に禮して、美女に椅子を教ふ。
女房 お掛け遊ばしまし。
美女、据置かるゝ
状
に椅子に掛く。女房は其の
裳
に
跪居
る。
美女、うつむきたるまゝ
少時
、皆無言。やがて顏を上げて、正しく公子と見向ふ。瞳を据ゑて瞬きせず。――
間
。
公子 よく見えた。(無造作に、座を立つて、
卓子
の
周圍
に近づき、手を取らんと
衝
と
腕
を伸ばす。美女、崩るゝが如くに椅子をはづれ、
床
に伏す。)
女房 何うなさいました、貴女、何うなさいました。
美女 (聲細く、
然
れども判然)はい、……覺悟しては來ましたけれど、餘りと言へば、
可恐
うございますもの。
女房 (心付く)おゝ、若樣。其の鎧をお解き遊ばせ。お驚きなさいますのも御尤もでございます。
公子 解いても可い、(結び目に手を掛け、思慮す)が、解かんでも
可
からう。……最初に見た目は何處までも
附絡
ふ。(美女に)
貴女
、おい、貴女、
此
を恐れては
不可
ん、
私
は此あるがために、強い。此あるがために力があり威がある。今も旣に此に因つて、めしつかふ女の、入道鮫に嚙まれたのを助けたのです。
美女 (やゝ
面
を上ぐ)お召使が鮫の口に、矢張り、そんな
可恐
い處なんでございますか。
公子 はゝはゝ、(笑ふ)貴女、敵のない國が、世界の何處にあるんですか。
仇
は至る處に滿ちて居る――
唯一人
の娘を捧ぐ、……海の
幸
を賜はれ――貴女の親は、旣に貴女の
仇
なのではないか。唯其敵に勝てば可いのだ。私は、此の強さ、力、威あるがために勝つ。
閨
に唯二人ある時でも私は此を脱ぐまいと思ふ。私の心は貴女を愛して、私の鎧は、敵から、
仇
から、世界から貴女を守護する。弱いものの爲に強いんです。毒龍の鱗は
絡
ひ、爪は
抱
き、角は枕しても
聊
も貴女の身は傷けない。ともに此の鎧に包まるゝ内は、貴女は海の女王なんだ。
放縱
に大膽に、
不羈
、
專横
に、心のまゝにして差支へない。鱗に、爪に、角に、一絲掛けない
白身
を
抱
かれ包まれて、
渡津海
の廣さを散步しても、敢て世に憚る事はない。誰の目にも觸れない。人は
指
をせん。時として見るものは、沖の其の影を、眞珠の光と見る。
指
すものは、
喜見城
の
幻景
に迷ふのです。
女の身として、優しいもの、
媚
あるもの、從ふものに慕はれて、
其
が何の本懐です。私は鱗を以て、角を以て、爪を以て愛するんだ。……鎧は脱ぐまい、と思ふ。(
從容
として椅子に戾る。)
美女 (起直り、會釋す)……父へ、海の幸をお授け下さいました、津波のお強さ、船を
覆
して、此處へ、遠い海の中をお聨れなすつた、お力。道すがらは又お
使者
で、金剛石の此の襟飾、寶玉の此の指環、(嬉しげに見ゆ)貴方の御威德はよく分りましたのでございます。
公子 津波
位
、家來どもが
些細
な事を。さあ、其處へお掛け。
女房、介抱して、美女、椅子に直る。
公子
頸飾
なんぞ、珠なんぞ。貴女の腰掛けて居る、其は珊瑚だ。
美女 まあ、父に下さいました枝よりは、幾倍とも。
公子 あれは草です。較ぶれば此處のは大樹だ。椅子の丈は
陸
の山よりも高い。
然
うして居る貴女の姿は、夕日影の峰に、雪の消殘つたやうであらう。少しく離れた私の兜の
龍頭
は、城の天守の棟に飾つた黃金の
鯱
ほどに見えようと思ふ。
美女 あの、人の目に、それが、貴方?
公子
譬喩
です、人間の目には何にも見えん。
美女 あゝ、見えはいたしますまい。お恥かしい、人間の小さな心には、此處に、見ますれば私が
裳
を曳きます
床
も、
琅玕
の一枚石。
恁
うした御殿のある事は、夢にも知らないのでございますもの、情なう存じます。
公子
否
、そんなに謙遜をするには當らん。
陸
には名山、
佳水
がある。峻嶽、大河がある。
美女 でも、こんな御殿はないのです。
公子 あるのを知らないのです。海底の
琅玕
の宮殿に、寶藏の珠玉金銀が、虹に透いて見えるのに、
更科
の秋の月、錦を染めた木曽の山々は劣りはしない。……峰には、其の
錦葉
を織る龍田姫がおいでなんだ。人間は知らんのか、知つても知らないふりをするのだらう。知らない振をして見ないんだらう。――
陸
は尊い、景色は得難い。今も、道中雙六をして遊ぶのに、五十三次の一枚繪さへ手許にはなかつたのだ。繪も貴い。
美女 あんな事をおつしやつて、繪には活きたものは住んで居りませんではありませんか。
公子 いや、
住居
をして居る。色彩は皆活きて動く。けれども、人は知らないのだ。人は見ないのだ。見ても見ない振をして居るんだから、決して人間の凡てを貴いとは言はない、美いとは言はない。唯
陸
は貴い。けれども、我が海は、此の水は、
一畝
りの波を起して、其の陸を浸す事が出來るんだ。たゞ貴く、
美
いものは亡びない。……中にも貴女は美しい。だから、陸の一浦を亡ぼして、こゝへ迎へ取つたのです。亡ぼす力のあるものが、亡びないものを迎へ入れて、且つ愛し且つ守護するのです。貴女は、喜ばねば
不可
い、嬉しがらなければならない、悲しんでは成りません。
女房 貴女、おつしやる通りでございます。途中でも私が、お喜ばしい、おめでたい儀と申しました。決してお歎きなさいます事はありません。
美女
否
、歎きはいたしません。悲しみはいたしません。唯歎きますもの、悲しみますものに、私の、此の
容子
を見せて遣りたいと思ふのです。
女房 人間の目には見えません。
美女
故郷
の人たちには。
公子 見えるものか。
美女 (やゝ意氣ぐむ)あの、私の親には。
公子 貴女は見えると思ふのか。
美女
恁
うして、活きて居りますもの。
公子 (
屹
としたる音調)無論、活きて居る。しかし、船から沈む時、此處へ來るに
何
う云ふ決心を
爲
たのですか。
美女 それは死ぬ事と思ひました。
故郷
の人も
皆然
う思つて、分けて親は歎き悲しみました。
公子 貴女の親は悲しむ事は少しもなからう。はじめから其のつもりで、約束の財を得た。然も滿足だと云つた。其の代りに娘を波に沈めるのに、少しも歎くことはないではないか。
美女 けれども、
父娘
の情愛でございます。
公子 勝手な情愛だね。人間の、そんな情愛は私には分らん。(
頭
を
掉
る)が、まあ、情愛として置く、
其
で。
美女 父は涙にくれました。小船が波に放たれます時、渚の砂に、父の
倒伏
しました處は、あの、
丁
ど夕月に紫の枝珊瑚を抱きました處なのです。そして、
後
の
歎
は、前の喜びにくらべまして、幾十層倍だつたでございませう。
公子 ぢや、其の枝珊瑚を波に返して、約束を戾せば
可
かつた。
美女
否
、ですが、
最
う、海の幸も、枝珊瑚も、金銀に代り、
家藏
に代つて居たのでございます。
公子
可
、其の金銀を散らし、施し、棄て、藏を
毀
ち、家を燒いて、もとの
破蓑
一領、網一具の漁民と成つて、娘の
命乞
をすれば可かつた。
美女 それでも、約束の女を寄越せと、海坊主のやうな黑い人が、夜ごと夜ごと天井を覗き、屛風を見越し、壁襖に立つて、責めたり、催促をなさいます。今更、家藏に替へましたッて、と然う思つたのでございます。
公子 貴女の父は、もとの貧民になり
下
るから娘を許して下さい、と、其の海坊主に掛合つて見たのですか。見はしなからう。そして、貴女を船に送出す時、磯に倒れて悲しまうが、新しい白壁、
艶
ある
甍
を、山際の月に照らさして、
夥多
の
奴婢
に取卷かせて、近頃呼入れた、若い妾に介抱されて居たではないのか。
何故
、其が情愛なんです。
美女 はい。……(恥ぢて
首低
る。)
公子 貴女を
責
るのではない。よし其が人間の情愛なれば情愛で可い、私とは何の係はりもないから。
些
とも構はん。が、私の愛する、この宮殿にある貴女が、そんな
故郷
を思うて、歎いては
不可
ん。悲しんでは不可んと云ふのです。
美女 貴方。(向直る。聲に力を帶ぶ)私は始めから、決して歎いては居ないのです。父は悲しみました。浦人は
可哀
がりました。ですが私は――約束に應じて寶を與へ、其の約束を責めて女を取る、――それが夢なれば、船に乘つても沈みはしまい。もし事實として、浪に引入るゝものがあれば、
其
は
生
あるもの、形あるもの、云ふまでもありません、心あり魂あり、聲あるものに違ひない。其の上、威があり力があり、
榮
と光とあるものに違ひないと思ひました。ですから、人は然うして歎いても、私は小船で流されますのを、
然
まで、
慌
騒ぎも、泣悲しみも、落著過ぎもしなかつたんです。もしか、船が沈まなければ無事なんです。生命はあるんですもの。
覆
す手があれば、それは活きて居る手なんです。其の手に
縋
つて、海の中に活きられると思つたのです。
公子 (聞きつゝ
莞爾
とす)やあ、(女房に)……此の女は
豪
いぞ! はじめから歎いて居らん、慰め
賺
す要はない。私はしをらしい、あはれな花を
手活
にしてながめようと思つた。違ふ! 此は樂く歌ふ鳥だ、面白い。それも愉快だ。おい、酒を寄越せ。
手を擧ぐ。忽ち
闥
開けて、三人の侍女、二罎の酒と、
白金
の皿に一對の
玉盞
を捧げて出づ。女房
盞
を取つて、公子と美女の前に置く。侍女退場す。女房酒を兩方に
注
ぐ。
女房 めし上りまし。
美女 (辭宜す)私は、
些
とも。
公子 (品よく盞を含みながら)貴女、少しも
辛
うない。
女房 貴女の
薄紅
なは桃の露、あちらは菊花の雫です。お國では御存じありませんか。海には最上の
飲料
です。お氣が
淸
しくなります、召あがれ。
美女 あの、桃の露、(見物席の方へ、半ば片袖を蔽うて、うつむき飲む)は。(と小さき呼吸す)何と云ふ涼しい、
爽
やいだ――
蘇生
つたやうな氣がします。
公子 蘇生つたのではないでせう。更に新しい
生命
を得たんだ。
美女 嬉しい、嬉しい、嬉しい、貴方。私が
恁
うして活きて居ますのを、見せて遣りたう存じます。
公子 別に見せる要はありますまい。
美女 でも、人は私が死んだと思つて居ります。
公子 勝手に思はせて置いて可いではないか。
美女 ですけれども、ですけれども。
公子 其の情愛、とかで、貴女の親に見せたいのか。
美女 えゝ、父をはじめ、浦のもの、それから
皆
に知らせなければ殘念です。
公子 (
卓子
に胸を
凭出
す歸りたいか、
故郷
へ。
美女
否
、此の宮殿、此の寶玉、此の指環、此の酒、此の榮華、私は
故郷
へなぞ歸りたくはないのです。
公子 では、何が知らせたいのです。
美女 だつて、貴方、人に知られないで活きて居るのは、活きて居るのぢやないんですもの。
公子 (色はじめて鬱す)むゝ。
美女 (微醉の瞼花やかに)誰も知らない命は、
生命
ではありません。此の寶玉も、此の指環も、人が見ないでは、
些
とも
價値
がないのです。
公子 それは
不可
ん。(卓子を輕く打つて立つ)貴女は
榮耀
が見せびらかしたいんだな。そりや不可ん。人は自己、自分で滿足をせねばならん。人に
價値
をつけさせて、其に從ふべきものぢやない。(近寄る)人は自分で活きれば可い、
生命
を保てば可い。
然
も愛するものとともに活きれば、少しも不足はなからうと思ふ。寶玉とても其の通り、手箱に此を藏すれば、寶玉其のものだけの價値を保つ。人に與ふる時、十倍の光を放つ。唯、人に見せびらかす時、其の艶は黑く成り、其の質は醜く成る。
美女 えゝ、ですから……來るお庭にも敷詰めてありました、あの寶玉一つも、此の上お許し下さいますなら、
屹
と慈善に
施
して參ります。
公子 こゝに、用意の
寶藏
がある。皆、貴女のものです。施すは可い。が、人知れずでなければ出來ない、貴女の名を
顯
し、姿を見せては施すことはならないんです。
美女 それでは何にもなりません。何の
効
もありません。
公子 (色やゝ嶮し)隨分、勝手を云ふ。が、貴女の美しさに免じて許す。歌ふ鳥が囀るんだ、雲雀は星を
凌
ぐ。星は蹴落さない。聲が可愛らしいからなんです。(女房に)おい、注げ。
女房酌す。
美女 (
怯
れたる内輪な態度)もうもう、決して、
虚飾
、
榮耀
を見せようと思ひません。あの、唯活きて居る事だけを知らせたう存じます。
公子 (冷かに)止したが可からう。
美女
否
、唯今も申します通り、
故郷
へ歸つて、其處に留まります氣は露ほどもないのです。
一寸
お許しを受けまして
生命
のあります事だけを。
公子、無言にして
頭
掉
る。美女、縋るが如くす。
美女 あの、お許しは下さいませんか。
些
との
外出
もなりませんか。
公子 (
爽
に)
獄屋
ではない、大自由、大自在な領分だ。歎くもの悲しむものは無論の事、
僅少
の
憂
あり、不平あるものさへ一日も
一個
たりとも國に置かない。が、貴女には旣に心を許して、祕藏の酒を飲ませた。海の
果
、陸の
終
、思つて行かれない處はない。
故郷
如きは唯一飛、瞬きをする
間
に行かれる。(
愍
む如く
染々
と顏を覗る)が、氣の毒です。
貴女に、其の
驕
と、
虚飾
の心さへなかつたら、一生聞かなくとも済む、また聞かせたくない事だつた。貴女、これ。
(美女顏を上ぐ。其の肩に手を掛く)こゝに來た、貴女は
最
う人間ではない。
美女 えゝ。(驚く。)
公子 蛇身に成つた、美しい蛇に成つたんだ。
美女、瞳を
睜
る。
公子 其の貴女の身に輝く、寶玉も、指環も、紅、紫の鱗の光と、人間の目に輝くのみです。
美女 あれ。(椅子を落つ。侍女の膝にて、袖を見、背を見、手を見つゝ、わなゝき震ふ。雪の
指尖
、思はず鬢を取つて
衝
と立ちつゝ)
否
、否、否。何處も
蛇
には成りません。
一
、一枚も鱗はない。
公子 一枚も鱗はない、無論何處も蛇には成らない。貴女は美しい女です。けれども、人間の
眼
だ。人の見る目だ。故郷に姿を
顯
す時、貴女の父、貴女の友、貴女の村、浦、貴女の全國の、貴女を見る目は、誰も殘らず大蛇と見る。ものを云ふ聲はたゞ、炎の舌が
閃
く。
吐
く息は煙を渦卷く。悲歎の涙は、硫黃を流して草を
爛
らす。長い袖は、
腥
い風を起して樹を枯らす。悶ゆる膚は鱗を鳴してのたうち
蜿
る。
不圖
、肉身のものの目に、其の丈より長い黑髮の、三筋、
五筋
、筋を透して、大蛇の背に黑く引くのを見る、それがなごりと思ふが可い。
美女 (髮みだるゝまでかぶりを
掉
る)噓です、噓です。人を
呪
つて、人を
詛
つて、貴方こそ、其の毒蛇です。親のために沈んだ身が蛇體に成らう筈がない。
遣
つて下さい。
故郷
へ歸して下さい。親の、人の、友だちの目を借りて、尾のない鱗のない
私
の身が
驗
したい。遣つて下さい。故郷へ歸して下さい。
公子 大自在の國だ。勝手に行くが可い、そして
試
すが可からう。
美女 何處に、
故郷
の浦は……何處に。
女房 あれ
彼處
に。(廻廊の燈籠を
指
す。)
美女 おゝ、(身震す)船の沈んだ浦が見える。(
飜然
と飛ぶ。……亂るゝ
紅
、炎の如く、トンと
床
を下りるや、
颯
と廻廊を突切る。途端に、五個の
燈籠齋
しく消ゆ。廻廊暗し。美女、其の暗中に消ゆ。舞臺の上段のみ、やゝ明く殘る。)
公子 おい、其の姿見の
蔽
を取れ。
陸
を見よう。
女房 困つた御婦人です。しかしお可哀相なものでございます。(立つ。舞臺暗く成る。――やがて明く成る時、花やかに侍女皆あり。)
公子。椅子に
凭
る。――其足許に、美女倒れ伏す――
疾
く旣に歸り
來
れる趣。髮すべて亂れ、
袂
裂け帶崩る。
公子 (
玉盞
を含みつゝ悠然として)故郷は
何
うでした。……何うした、私が云つた通だらう。貴女の父の
少
い
妾
は、貴女の其の恐しい蛇の姿を見て氣絶した。貴女の父は、下男とともに、鐵砲を以つて其の蛇を狙つたではありませんか。
渠等
は第一、私を見てさへ蛇體だと思ふ。人間の目は然う云ふものだ。そんな處に用はあるまい。泣いて居ては
不可
ん。
美女悲泣す。
公子
不可
ん、おい、泣くのは不可ん。(眉を顰む。)
女房 (背を
擦
る)若樣は、
歎悲
むのがお
嫌
です。御性急で
在
らつしやいますから、御機嫌に障ると惡い。こゝは、樂しむ處、歌ふ處、舞ふ處、喜び、遊ぶ處ですよ。
美女 えゝ、貴女方は樂しいでせう、嬉しいでせう、お舞ひなさい、お唄ひなさい、
私
、私は
泣死
に死ぬんです。
公子 死ぬまで泣かれて堪るものか。あんな
故郷
に何の未練がある。さあ、機嫌を直せ。こゝには悲哀のあることを許さんぞ。
美女 お許しなくば、何うなりと。えゝ、
故郷
の事も、私の
身體
も、
皆
、貴方の魔法です。
公子 何處まで疑ふ。(
忿怒
の形相)お前を蛇體と思ふのは、人間の目だと云ふに。俺の……魔……法。許さんぞ。女、悲しむものは殺す。
美女 えゝ、えゝ、お殺しなさいまし。活きられる身體ではないのです。
公子 (憤然として立つ)黑潮等は居らんか。此の女を處置しろ。
言下に、床板を跳ね、其穴より
黑潮
騎士、大錨をかついで
顯
る。騎士二三、續いて飛出づ。美女を引立て、一の騎士が
倒
に押立てたる錨に
縛
む。錨の刃越に、黑髮の亂るゝを
搔摑
んで、
押仰向
かす。
長槍
の刃、鋭く其の
頤
に臨む。
女房 あゝ、若樣。
公子 止めるのか。
女房 お
床
が血に汚れはいたしませんか。
公子 美しい女だ。花を挘るも同じ事よ、
花片
と
蕊
と、ばらばらに分れるばかりだ。あとは手箱に藏つて置かう。――殺せ。(騎士、槍を取直す。)
美女 貴方、こんな惡魚の牙は
可厭
です。
御卑怯
な。見て居ないで、御自分でお殺しなさいまし。(公子、頷き、無言にてつかつかと寄り、
猶豫
はず
劍
を拔き、颯と目に
翳
し、
衝
と引いて斜に構ふ。
面
を見合す。)
あゝ、貴方。私を斬る、私を殺す、其の、顏のお綺麗さ、氣高さ、美しさ、目の
淸
しさ、眉の勇ましさ。はじめて見ました、位の高さ、品の可さ。
最
う、故郷も何も忘れました。早く殺して。あゝ、嬉しい。(
莞爾
する。)
公子 解け。
騎士等、美女を助けて、片隅に
退
く。公子、
劍
を
提
げたるまゝ、
公子
此方
へおいで。(美女、手を曳かる。ともに
床
に上る。公子劍を輕く取る。)終生を
盟
はう。手を出せ。(手首を取つて刃を
腕
に引く、一線の紅血、
玉盞
に
滴
る。公子返す
切尖
に自から腕を引く、紫の血、玉盞に滴る。)飲め、吞まう。
盞
をかはして、仰いで飲む。廻廊の燈籠一齋に
點
り輝く。
公子 あれ見い、血を取かはして、飲んだと思ふと、お前の
故郷
の、浦の磯に、岩に、紫と
紅
の花が咲いた。それとも、星か。(一同打見る。)
彼
は何だ。
美女 見覺えました花ですが、私はもう忘れました。
公子 (書を見つゝ)博士、博士。
博士 (登場)……お召。
公子 (指す)あの花は何ですか。(書を渡さむとす。)
博士 存じて居ります。
竜膽
と
撫子
でございます。
新夫人
の、お心が通ひまして、折からの霜に、
一際
色が冴えました。若樣と奥樣の血の
俤
でございます。
公子 人間に
其
が分るか。
博士 心ないものには知れますまい。詩人、畫家が、しかし認めますでございませう。
公子 お前、私の惡意ある
呪誼
でないのが知れたらう。
美女 (うなだる)お見棄なう、幾久しく。
一同 ――萬歳を申上げます。――
公子 皆、休息をなさい。(一同退場。)
公子、美女と手を
携
へて一步す。美しき花降る。二步す、フト立停まる。三步を動かす時、音樂聞ゆ。
美女
一步
に花が降り、
二步
には微妙の
薫
、いま三あしめに、ひとりでに、樂しい音樂の聞えます。此處は極樂でございますか。
公子 はゝゝ、そんな處と一所にされて堪るものか。おい、女の行く極樂に男は居らんぞ。(鎧の結目を解きかけて、音樂につれて
徐
ろに、やゝ、なゝめに立ちつゝ、其の龍の爪を美女の背にかく。雪の振袖、紫の鱗の端に
仄
に見ゆ)男の行く極樂に女は居ない。
――幕――