島鵆月白浪 全五幕の序幕

しまちどりつきのしらなみ

 

   口上

若葉の闇に奥山から西と東へ別れたる千太せんたは親の世になきを白川宿じゆくで伯父に逢ひ聞きいて泪なみだに袖濡す弁天お照が母親の無心に困る百圓を恵む替りに貰ひし指輪夫それを證拠に抜き差さしのならぬ輝あきらへ言掛いひがかれど瓦解ぐわかい以前に強談で人に知しられし浪士ゆゑ余義なく其場は物別れ 扨さて島藏は霧深き旅路に幾夜明石潟三歳みとせぶりにて磯右衛門お濱に廻めぐり大津絵の心の鬼も忽たちまちに発起ほつきなせしは伜せがれの片輪悪の報ひは早手の難船 憂事うきこと積る牛込うしごめに今は堅気の酒屋店みせ醤油を買ひし小娘から辛からき浮世に清兵衛が難義を知つて百圓を貢いで帰る我家の門かど然も九月の約束に尋ねて来たる松島を連出す九段の招魂社せうこんしや真身も及ばぬ明石が意見に小蔭に忍ぶ野州徳やしうとく迄改心なして浮雲の空も晴行はれゆく望月もちづきが助力じよりきに千圓金整ひ科とがを自訴なす大切おほぎり迄 夏より冬へ続き狂言

 

 序幕 白川宿旅籠屋の場 同明神峠山越の場

一 旅藝者弁天お照     半四郎

一 旅籠屋の女房おみち   しげ松

一 同下女おしの      此 糸

一 同おのぶ        あやめ

一 百姓東右衛門      鶴 藏

一 奥州同者陸兵衛     猿十郎

一 同奥藏         幸 升

一 人力車下総松      升 藏

一 旅役者市川邊丹次    小半治

一 同岩井鈍四郎      しやこ六

一 望月の下男宅助  

一 士族望月輝       團十郎

一 銀行手代濱崎千右衛門  

  実は松島千太      左團次

一 お照の母ねぢ金お市   松 助

一 人力車野州徳      同

一 辻講師古川弁山     門 蔵

一 探索方瀬栗菊藏     竹治郎

一 同鳥形幸助       尾登五郎

一 旅籠屋の若者太助    橘 治

一 同半次         八平治

一 同佐七         利喜松         

本舞台四間通しけんとほしの家躰やたい上手かみて、貳間にけん常足つねあしの貳重にぢう揚縁付あげえんつき、下手一間しもていつけん落間おちま、向ふ奥州屋おうしうやと云いふ紺の暖簾口のれんぐち、上手かみてまゐら戸の戸棚、落間の折廻し、板羽目いたばめ上かみの方かた戸袋、石灰塗しつくいぬりにて御泊宿おんとまりやど白川宿奥州屋と記し有。見附みつきの柱、御泊宿奥州屋と書し行燈あんどんを掛、軒口に一新講の籏はたを立たて、下しもの方かた冠木門かぶきもん見越しの松、都すべて奥州街道白川宿旅籠屋の躰てい。見世先みせさきの床几しやうぎへ、邊丹次立役へたんじ・たちやく鈍四郎女形どんしろう・おんながた旅役者の拵へにて腰を掛かけ、太助、半次、宿屋の若い者着流し駒下駄にて立掛り、貳重におしの、おのぶ、宿屋下女の拵へ、燭台の掃除をして居る此この見得みえ、米山甚九よねやまじんくにて幕明く。

 

 (太助) モシ明神みやうじんの夜芝居よしばゐは大層這入るさうで厶ござり升ますね

 (邊丹次) 仕合しあはせと初日から一ぱいで厶り升

 (半次) 是りやア全く花形のお前さん方が出るせへだ

 (鈍四郎) 有難い事に何所どこへ行ても這入らない事はない

 (邊) 爰こゝは二人共東京でたゝき込だ腕だから

 (おしの) ヲヤヲヤお前さん方は東京で厶り升か

 (おのぶ) 私わたし達は田舎廻りの役者衆しゆかと思ひました

 (邊) 白川は開けた所とこと兼かねて噺はなしに聞て居たが私等わたしらを田舎役者と見る様では開けないね

 (鈍) 大方舞台を見なさるまいが名を聞た計ばかりでも東京役者か田舎役者か知れさうな物だ

 (太) まだ番付を見なかつたが額の出張でばつたお前さんは何と云いふ名で厶り升

 (邊) 只お前さんで能いゝ事を額が出張て居丈ゐるたけ余計な事だ

 (太) ツイ目に付ついたから云ましたがお前さんは何と云升

 (邊) 額の出張た私わたしかへ

 (しの) 人の事よりお前さんが出張つたと云いふくせに

 (邊) 浮ツかり是は巻込まれたのだ私わたしは市川左團次の弟子で市川邊丹次へたんじと云升いひます

 (太) 成程名は体を顕すとへたん次は能いゝ名だ

 (半) そちらの色の黒いお方は

 (鈍) 私は岩井半四郎の弟子で岩井鈍四郎と云升

 (半) 誰が付つけたか是も能名だ半四郎の弟子だと云ては夫それぢやアお前は

 (鈍) アイ娘形で厶り升

 (半) 貉形むじながたとは珍らしひ名だがハア顔が貉に似て居るからか

 (鈍) イエ貉ではない娘形さ

 (太) 貉と云のも無理はないどうでお前方は旅稼たびかせぎで獣物けだものに違ひない

 (しの) 爾さうして毎晩狂言が替るさうで厶り升が

 (のぶ) 今夜は何を被成なさい升

 (邊) 御贔屓ごひゐき様からお好みで忠臣藏の五六七と三幕みまく続けて致し升

 (鈍) 邊丹次さんが勘平で私がおかるを致し升

 (太) 夫ぢやア猪しゝが出升ね

 (邊) ハイ五段目へ出升

 (半) 狸も出升か

 (鈍) 狸の出るのは六段目さ

 (太) 豚も出升か

 (邊) 何で豚が出る物か

 (太) 然さう云お前が東京の奥山の豚に能く顔が似て居るからさ

 (しの) 夫ではお輕勘平は

 (のぶ) 豚と貉で厶り升ね

 (太) 是こりやア犬のカメ芝居や猿芝居より増ましだらう

 (邊) あんまり馬鹿に仕なさんな

 (鈍) 是でも役者一疋だよ

 (太) イヤ獣物けだものと云はれた迚とて腹を立事たつことはない左團次だの半四郎だのと虎の威をかる狐だ物もの

 (両人) 何狐とは

 (太) 東京役者と云被成いひなさるのは人を化し被成なさるからさ

 (邊) こいつア旅と知られたか

 (鈍) 尻尾を出さない其内に

 (邊) 早く行てシヤギらせやう

 (太) 狸囃子をかへ

 (鈍) モウいい加減にしてお呉くれ

 (邊) ドレ楽屋へ行と仕様か  ト米山甚九よねやまぢんくで両人下手へ這入る

 (太) 彼等あいつは旅役者で下ツ腹に毛のない奴だ

 (半) 併しかし二人で燻いぶし付つけとうとう尻尾を出さして遣やつた

 (しの) どんな事をする物だか昼だと行て見られるけれど

 (のぶ) 暮方から忙しひので夜芝居よしばゐでは行れない

 (太) 今年春の博覧会から日光参り伊勢参り大層田舎が出たではないか

 (半) 夫それと云のも近年は何所どこの田舎も豊年で宿屋も同者どうしやが一番多ひ

 (太) 噂をすれば影とやら同者が一群ひとむれやつて来た  ト米山甚九に成り向ふより東右衛門老ふけたる田舎同者脚半きやはん草鞋わらじ二枚継つぎの蓙ござを引掛ひつかけ蝙蝠傘を持もち陸兵衛ろくべゑ奥蔵同じ拵へにて出て来り花道にて

 (東右衛門) 作右衛門が博覧会の帰り掛がけに泊ツた時大層手当が能よかつたと云いふ奥州屋と云は向ふの向うちだ

 (陸兵衛) 旅籠代はたごだいは世間並二十五銭取るさうだが食物くひものが能よくて夜具が能く

 (奥藏) 其上そのうへ団扇を一本宛づつ土産に呉ると云事だから外ほかの宿より余ツ程徳だ

 (東) 少し泊とまりにやア早ひけれど悪ひ所へ泊るより奥州屋へ泊らう

 (陸) 随分今日は草臥たから早泊はやどまりが能よう厶ござらう(奥) 綺麗な内に湯へ這入はいりゆつくり一ぱい遣りませう  ト甚九で本舞台へ来る 太助半次立掛り

 (太) あなた方はお泊で厶り升か

 (半) 一新講の奥州屋で厶り升る

 (東右) 在所の者の指図によりお前の所へ泊る積りだ

 (両人) 夫は有難ふ厶り升る

 (半) サア是へ掛被成かけなされませ

 (しの) お荷物やお笠はこちらへお出し被成ませ  ト此内このうち捨ぜりふにて三人腰を掛かけ半次すゝぎの盥を持て来るおしのおのぶは荷物笠を片付る三人は草鞋を解とき足を洗ふ

 (のぶ) おかみさんお泊が厶り升  ト奥にて

 (おみち) アイアイ  ト右合方みぎあひかたにて奥よりおみち宿屋女房の拵へにて出て来り  是は是はどなた様もお早うお着つきで厶り升

 (東右) 先達せんだつて村の者が博覧会の帰り掛がけお前の所とこへ泊とまつた所丁寧にして呉くれられたから少し早くも泊れと云いふので

 (陸) モフ一宿ひとしゆく行いかれるのを

 (奥) お前の所とこへ泊りました

 (みち) 夫は御贔屓に被成なされて下さいまして有難ふ厶り升る ○{=思い入れを示す符号} あなた方はどちらでいらつしやい升

 (東右) 私等わたしらは奥州松島在で

 (みち) ヘイ松島のお方で厶り升か此三月から引続き博覧会を御見物に多くのお泊とまりが厶りましたが作右衛門様の御近所で厶り升か

 (東右) ヲゝ其その作右衛門の隣で厶り升

 (みち) 左様で厶りましたか  ト此内足を洗ひ上うへへ上る

 (のぶ) お茶をお上り被成なされませ  ト三人へ茶を出す半次は脚半きゃはん草鞋わらじを片付る

 (陸) コレ若イ衆しゆ脚半の間違まちがはぬ様に仕て下さい

 (奥) 幸便ついでに草鞋も頼み升ぞ

 (半) 直すぐに札を付升つけますから決けして間違まちがへは致しませぬ

 (しの) お湯が宜しふ厶り升が直すぐにお這入被成はいりなされ升か

 (のぶ) 御膳を先へ召上り升か

 (東右) どうで一杯やり升から湯へ先へ

 (三人) 這入ませう

 (みち) 夫ではお湯へ御案内申しや

 (女両人) 畏かしこまりました

 (東右) ドレ草臥くたびれを休め様か

 (女両人) サア入らつしやいまし ト米山甚九に成り東右衛門外ほか両人おしの荷物を持もちおのぶ付て暖簾口のれんぐちへ這入る

 (みち) 脚半へ直に札を付つけなよ

 (太) 何札を付るには及びませぬ三足共汚ない脚半だ

 (半) 是よりきたない脚半はないから間違まちがへた方が徳用だ

 (みち} 又そんな事を云いふか堅いが名代なだいでお客様の絶間のない此方こつちの内うち仮令たとひ 脚半一足でも間違が有ては家の疵きず能よく気を付て置て呉くりや

 (両人) 畏かしこまりました  ト右の合方あひかたにて下手しもてより幸助菊藏羽織まち高袴たかばかま半靴はんぐつ探索方たんさくがたの拵こしらへにて出て来り

 (菊藏) おかみさん此間このあいだは

 (みち)是は瀬栗せぐりさんに鳥方とりかたさん何ぞお調しらべで厶り升か

 (幸助) 些ちつとお前に聞きゝたい事がある

(みち) 旅人りよじんの事で厶り升か  ト両人揚縁あげえんへ腰を掛かけ

 (菊) 十日程お前の所に天気の能いゝに逗留とうりうして土地の藝者の弁天お照を

 (幸) 毎日車へ相乗あいのりで爰こゝら近所を遊で歩行あるく東京の客は何者だ

 (みち) アノお方は東京の銀行の御手代衆おてだいしゆだと申事まうすことで厶り升

 (菊) 宿帳をお見セなさい

 (みち) ハイ畏ました  ○ト宿帳を出だし繰出し見て 是に名前が厶り升 ト菊藏見て

 (菊) 東京日本橋区南茅場町みなみかやばちやう五十番地濱崎千右衛門はまざきせんゑもん

 (幸) 是こりやアお前の所で馴染の客かへ

 (みち) イヱお馴染では厶りませぬ

 (太) アノお客は人力車の野州徳やしうとくが連て参つた

 (半) 初めてのお客で厶り升

 (菊) 一躰いつたい何所どこへ行く旅人りよじんだね

 (みち) 松島が生れ古郷で親を尋ねて参るとやら申事で厶り升

 (菊) 遊山旅か知らねへが十日間の長逗留名所古跡を見るでもなく

 (幸) 藝者を連て遊び歩行あるき荒ツぽい遣ひ振だから此間から目を付て居たのだ

 (みち) 然さう仰有おつしやれば銀行の御手代衆にはそぐはぬ物言ひ漢語交まじりの其内に勇みな詞ことばが厶り升

 (太) めったな事は云いはれないが

 (半) どろ衆かも知れませぬ

 (菊) 何ぞ怪しい事が有たらそつと知らしてお呉んなせへ

 (みち) 畏ました

 (菊) 決けつして迷惑は掛かけねへから隠しだてを仕なさんな

 (半) 跡あとで露顯する日には叱られた上何がしか罰金を取られるぜ

 (みち) 決て隠しは

 (三人) 致しませぬ

 (菊) 夫それぢやアおかみさん頼みましたよ

 (みち) 畏かしこまりました

 (幸) ドレ料理茶屋を

 (両人) 探ツて来やう  ト右の合方にて下手へ這入る

 (太) どうも怪しひと思つたが探索方の目に留り

 (半) 内々調しらべに成なつてゐるとは誰の目も違はぬ物だ  ト向ふより千右衛門麦藁のシヤツポ単羽織ひとへばおり袷着流あはせきながし駒下駄お照縮緬の着付宿場藝者の拵こしらへにて出て来り跡あとより下総松しもふさまつ半天半股引はんもゝひき人力車夫の拵へ肩ヘケツトを掛かけ二人乗の車を引出て来り

 (千右衛門) 車も一日乗続けは却かへつて腰が痛く成なり歩行あるく方が余ツ程楽だ

 (お照) わたしきうくつあしたあいそりやア私わたしが大きいから窮屈なせへで厶りませう

 (松) 明日あしたは相乗あいのりでなく一人乗いちにんのりで一人宛づゝお乗被成のりなされませ

 (千) 程の悪ひ事を云ぢやアねへか東京にも二人とない弁天お照と名の高ひ白川一の藝者衆と相乗が仕たい斗ばかりに腰の痛いてへを我慢するのだ

 (照) エゝモ憎らしひそんな事を云つて  ト右の騒ぎ唄にて三人舞台へ来り

 (太) 是は旦那お帰り被成ませ

 (千) 車を下りて歩行あるいたので思ひの外ほか遅く成た

 (半) イヱお遅ひ事は厶りませぬ

 (みち) 今日こんにちは何地どちらへお出被成いでなされました

 (千) 何所どこと云いふ当あてはなく松公が案内者で方々名所を見て歩行あるき今夜は温泉へ一泊しやうと思ツたが何所へ泊とまつてもこつち位泊り心の能内いゝうちはねへ

 (みち) 夫それは有難ふ厶り升る

 (松) さつき左様仰有りましたが夜芝居よしばゐへお出いで被成升か

 (千) どんな役者が出て居るか咄はなしの種に行て見やう

 (照) 上手な役者が居ると云いふから一幕見たう厶り升ね

 (太) そりやアおよし被成ませ中々以てあなた方の御覧被成なさる芝居ぢやア厶りませぬ

 (半) 先刻さつきも見世へ参りましたが市川へたん次に岩井鈍四郎下手らしひ役者で厶り升

 (千) イヤ生中なまなかな役者より妙な方が可笑をかしくつて能いイ

 (照) 私も行て見たいから松さん晩に来てお呉くれよ

 (松) 畏まして厶り升 ○ 今日こんにちは旦那の御贔屓の徳が用事が厶りまして替りに私が上あがりましたが嘸さぞお乗憎くふ厶りましたらう

 (千) 少しも乗憎ひ事はない

 (松) 今晩芝居へ入らつしやい升には徳がお供を致し升

 (千) お前も一緒に来て呉んねへ

 (松) ヘイ跡押あとおしに上あがり升

 (千) 夫迄それまで行て一ぺいやんねヘ  ト紙入から小札こさつを出して遣る

 (松) 是は有難ふ厶り升 ○ お照さん旦那へ宜敷よろしく  ト辞義をする

 (太) 松公しつかり呑るな

 (松) イエ晩の仕事が厶り升から一合やつて置升  ト下手へ車を引て這入る

 (みち) 旦那お湯をお召被成めしなさいませんか

 (千) 今温泉へ這入て来たから今夜は湯はよしに仕ませう

 (太) 左様なれば

 (両人) お二階へ

 (千) イヤ爰こゝで一ぷくやりませう  ト千右衛門お照床几しやうぎへ腰を掛る 又元の米山甚九に成り向ふよりお市色気のある婆アの拵へ草履ざうりがけ 弁山半合羽草履カバンを提さげ 両人共蝙蝠傘を杖に突出て来り花道にて

 (弁山) おつかア奥州屋と云は向ふだぜ

 (お市) 爰の宿屋に逗留して居る銀行の手代衆てだいしゆに毎日呼れて出て居るさうだ

 (弁) 何にしろ銀行の手代と云やア金が有らう

 (市) 無心を云いふにやア能いゝ幸先さいさきだ

 (弁) おつかアお照は向ふの床几に居るゼ

 (市) ヲゝ違へねへあれは娘だ ○ ト右鳴物にて両人舞台へ来り お照此間は

 (照) ヲヤおつかさん能よくお出いでだね

 (市) あんまり能よくも来こねへのさ五十里有る白川迄態々わざわざ来るからはどうでろくなコトではねへ

 (弁) お照さん久敷ひさしくお目に掛りませぬ

 (照) 誰かと思つたら弁山べんざんさんお前一所にお出いでかへ

 (弁) 席の都合で此間から遊んで居り升所故とこゆゑ座舗ざしきでも出来様かとおつかさんの供をしてこちらへ一所に参りました

 (太) まア是へお掛被成ませ ト床几を出す

 (市) 是は有難ふムり升  ト捨ぜりふにてお市弁山床几へ腰を掛る 千右衛門は脇を向て莨たばこをのみゐる

 (照) おつかさん何の用で出てお出いでだへ

 (市) 用と云のは外でもねへ欝陶しいと云だらうが又金を借に来たのだ

 (照) 此間郵便で持もたして上あげた十圓はお前の方へ届いたらうね

 (市) そりやア郵便だから三日目に間違なく届とゞいたが此節このせつ諸色しよしきが高いので今の夷ゑびすの十圓は大黒銀だいこくぎんの有た時分の壱両にか成らないから直すぐになく成て仕舞しまふはな

 (照) さうしてお前内うちへお出いでか

 (市) 今泉屋へ往いつたらば御客様で此方こつちの内に出て居ると聞たから

 (弁) お前を尋ねて爰こゝへ来たのだ

 (みち) モシお照さん何の御用か知らないが爰は人が来升から二階へお出いで被成なさいましな

 (照) ハイ有難ふ厶り升  トお市弁山思入おもひいれ有て

 (市) どうで今夜は此宿このしゆくへ泊らうと思つた所爰のお内が奇麗だから爰へ泊とまると仕様かね

 (弁) 私わたしも然う思つて居た所だ

 (太) 左様ならお泊とまり被成升なされますか

 (市) 今夜はお世話に成ませう

 (太) 旦那あなたもお二階へ入らつしやいませ

 (千) 暮くれると芝居へ出掛るから今の内一杯やらうか

 (照) お相手を致しませう  トお市お照の袖を引

 (市) お照あなたは  ト思入おもひいれ

 (照) アイ銀行へお勤め被成る濱崎様と仰有るお方で御贔屓に成升から一寸お礼を申てお呉くれ

 (市) 是はお初にお目に掛り升が不束ふつゝかな娘をば御贔屓に被成て下さいまして有難ふ厶り升

 (千) 此子このこの噺はなしに聞て居たおつかさんはお前かへ幾つの時の子かしらぬが大層お前は若イね

 (市) 是は私が十八の時に産だ子で厶り升

 (千) 夫それぢやアお前のほんの子かへ

 (太) ほんの子ならば鳶とんびが鷹だ

 (市) 何だとへ

 (太) イヤ兎も角も旦那を初め

 (半) お二階へ入らつしやいまし

 (千) 夫ぢやアお照

 (照) おつかさんも御一所に

 (市) ドレ御厄介に

 (市弁) 成ませう

 (半) サアいらつしやいまし  ト宿場騒ぎに成り千右衛門お照お市弁山半次付ついて暖簾口のれんぐちへ這入る 太助傘を片付る

 (太) モシお内儀かみさん今のお袋だと云人は一筋縄ではいけませんね

 (みち) 中々喰へそうもない婆アさんだが一所に来たのは何だらう

 (太) 何でも講釈師か咄はなし家かだが私の監定ではあの婆アさんの色だと思ひ升

 (みち) 成程貴様こなたの云通り大方そんな事だらうよ

 (太) 夫それはそうと探索方たんさくがたの頼んで往つた濱崎様

 (みち) どうも様子がおかしいが

 (太) 證拠の上らぬ其内に

 (みち) 早く立たつて ○ ト立上るを道具替がはりの知らせ 下されば能いゝが  ト宿場騒ぎになり心に掛かゝる思入宜敷 道具廻る

 

本舞台一面の平舞台、向ふ上手床の間、下手秋田蕗の襖上下かみしも折廻し、障子下しもの方かた階子はしごの上あがり口 都すべて旅籠屋はたごや二階の躰てい。爰こゝにお市弁山下手にお照住居すまゐ宿場騒ぎの合方あひかたにて道具留る

 (市) コレお照今度が無心の云仕舞いひじまひだが百圓都合して呉んねへな

 (照) 此間郵便で態々わさわざ持もたして上あげたのを何にお前仕なすつたのだ

 (市) 何にもしねへ朝夕の暮しに皆んな遣ツたが子に親が世話に成るのは当り前とは云乍いひながら度々云たびたびいふのも気の毒故ゆゑ今度上野の山下へ大道講釈の席を拵へ弁山さんに叩かして己おいらが木戸から中売なかうり按摩三人前も稼ぐ積りだ

 (弁) 不図ふとした事からおつかアと今では夫婦の様に成り共稼ともかせぎに挊かせいで居れど人の持て居る場所へ出ては長ひ銭ぜにも取とれないが自前稼かせぎに骨ツ限きり昼夜を掛て叩ひたら屹度きつと儲まうかるに違ひない其所そこで資本を拵へて山下もよりへ席を建たて生涯楽にする積りだ

 (市) 弁山さんと共稼に挊かせいで苦労は掛ないから是を無心の云納めと思つて百圓貸て呉んな

 (照) 夫そりやアあんまり無理ぢやアないか

 (市) 何無理とは  ト合方あひかたに成り  (照) 是が東京の新橋か柳橋に出て居たら頼んで借るお客もあれど通一遍とほりいつぺんの奥州海道土地の人でも曖昧な事を仕なけりや一圓でも呉くれるお客は有りやア仕ない十圓お前に上るのも並大躰なみたいていな事ぢやアないお気の毒だがおつかさん所詮都合が出来ないから堪忍してお呉んなさい

 (市) イや堪忍する事は出来ねへ忘れもしめへ六ツの時手前てめへの親父に死失ごねられて跡は女の手一ツ故ゆゑ困る中で藝事迄仕込しこんで己おれが育そだつたのは斯かう云いふ御難の其時に役に立様爲斗たてやうためばかり藝者で金が出来ねへなら娼妓しやうぎに成て一年斗り稼かせいで呉りやア出来る金だ

 (弁) 旅の藝者は曖昧な皆娼法しやうはうをする中で真じ目にするのは大きな損其その曖昧をすると思つておつかさんの頼みを聞きゝ娼妓に成て呉んなせへ夫共それともそれが出来ないならお前を贔屓に逗留して居るアノ銀行の旦那殿へ無心を云いふたら出来様やうに

 (照) お金は持て居被成ゐなさるがわづか十日斗ばかりのお馴染そんな事が云いはれる物かね

 (市) 客へ無心が云いはれずば娼妓に成て拵こせへて呉くれ

 (弁) お前がウンと云被成いひなされば宇都宮の貸座敷に私の懇意の者が有れば其所そこへ噺はなしを向むけたらば直すぐに百圓前借ぜんしやくで右から左へ出来る金

 (市) 否いやでも応でも手前てめへの躰からだで百圓拵こせへて貰ひたい

 (照) 是が初めての事ならば丸々出来ずば半分でも都合して上様あげやうけれど今度は貸て上られない路用位は上様あげやうから明日あした帰ツて下さんせ

 (市) 路用位な端した金がねを貰つて何で帰る物だ親の為に娼妓に成なるのは世間に幾らも有る事だ嫌いやと云やアこつちも意地づく何でもかでも娼妓にして百圓取らにやア帰らねへ

 (弁) お前も嫌では有あらふけれど実は負債が多いので裁判所や勧解かんかいへ出訴しゆつそされて毎日出るが其所そこはでもだが席上で多弁付しやべりつけてる弁山故ゆゑ舌に任して云訳すれど借た物なら返せと云いふ此一言このいちごんに限りでも出さうと思ふ大おほ困難お前が百圓貸て呉くれねばたつた一人のお袋が路頭に迷はにや成ならないからうんと云て娼妓に成なり金を貸て呉んなせヘ  トお照思入有て

 (照) 折角のお頼みだが今日斗ばかりはおつかさんお断ことわり申升よ

 (市) 何断るとは

 (照) お前が真事ほんとに身を持て席を出すと云事なら出来ない乍ながらも都合して上あげまい物でもないけれど弁山さんと二人して今日は芝居翌日あすは涼み栄曜えように遣つかふ金の為苦界くがいへ此身を沈しづめるのは私わたしや嫌いやで厶り升

 (市) 嫌とは何の事だ云して置ば能いゝかと思つて口巾くちはゞツてへ事を云やアがるな弁山さんを亭主に持もつたも手前てめへの仕送しおくりが足りねへからだ五圓や十圓の端した金で芝居や花見に行ゆかれる物か能よく考へて見やアがれ

 (弁) 私わたしだつて十九つゞや二十はたちの若イ者と云いふではなし互ひに天窓あたまの兀はげた同士斯かうして夫婦に成つたのも云はゞ茶呑友達だ中々お前が送た金で芝居や納涼すゞみに行様なそんな浮ういた中ぢやアない

 (市) 喰くふに困ツて借に来たがどうでも金は出来ねへか

 (照) お気の毒だが今度斗りは

 (弁) 夫ぢやア出来ないと云いひなさるのか

 (照) どうぞ堪忍して下さいまし  トお市思入おもひいれ有て

 (市) 金が出来にやア東京へ帰る事の出来ねへ体身からだでも投て死なにやア成らねへ迚とても死ぬなら爰こゝで死んでお照に恥をかゝせて遣やらう  トお市手拭を首へ巻まき己おのが手に引張ひつぱりハツト云いふ弁山是を留とめ

 (弁) コレおつかアあぶねへ何を為するのだ

 (市) 首を締て己おらア死ぬのだ

 (弁) 死ぬのは何時でも死なれるから短気な事を仕なさんな

 (市) イゝヤ留ずに放して下せへ

 (弁) 是が留ずに居られる物か  トお市首を〆様しめやうとするを弁山留とめる事宜敷

 (照) 何でお前は其様に早まつた事を仕なさんす

 (市) 誰しも惜ひ命だけれど死ねと覚期かくごを極きめたのは手前てめへが己おれを殺すのだ

 (照) 私がお前を殺すとは

 (市) 頼みを聞て呉くれねへからこんな不孝な奴はねへ  ト大きな声をする

 (弁) 是さ是さ大きな声を仕なさんな

 (市) アゝ親殺しだ親殺しだ  トお市わざとどたばた騒ぐ是を弁山留るお照も留て

 (照) コレかゝさん何が恨みで此様に私に恥をかゝせ被成なさんす

 (市) 金を貸て呉ねへからアゝ親殺しだ親殺しだ  ト奥よりおみち太助半次出てお市を留

 (みち) アモシお袋様まアまアお静に被成なされまセ

 (太) 親殺し親殺しと大きな声を被成なさい升が

 (半} 御廻おまはり様のお耳へでも這入はいつた日には大騒動

 (市) イヤイヤ何でもかでも爰で死ぬのだ留て下さるな

 (みち) 隣近所へ聞へましても内うちの外聞ぐわいぶんに成升から

 (太) お静に被成なすつて

 (三人) 下さりませ

 (市) イヤイヤ何でも死ぬのだ死ぬのだ

 (みち) そんなに死ぬ死ぬと仰有い升が自分で首が〆られ升か

 (市) エ

 (太) 締られるなら己おのが手に

 (半) 首を締て御覧じませ

 (市) ムゝ  ト詰る 弁山思入有て

 (弁) コレコレおつかア自分で死なれぬ事もないが爰の内うちへ厄介を掛るのが気の毒だ死ぬのは止めにしたが能よイ

 (市) ヲゝ然さうだ然うだ娘に恥はかゝせたいがお内儀かみさんへ済すまないから爰で死ぬのは止めにして是から宇都宮へ連て往つて娼妓にせう

 (弁) 夫それが何より上策だ

(市) サア己おれと一所いつしよにあゆびやアがれ  トお市お照の手を取とり引立ひつたてる此時奥より以前の千右衛門出てお市を留

 (千) 様子は奥で委くはしく聞た立騒がずと静にしねへ

 (市) 貴君あなたがお留被成なさるなら無理にとは申升まうしませぬが親を蔑ないがしろにし升から

 (千) 定めて腹も立たとふけれど私わたしが何うか捌さばかふからまア不肖ふせうして呉んなせへ

 (弁) 折角旦那が立入たちいつて不肖しろと仰有るからまアおつかア静に仕ねへ

 (市) 静に仕様けれど金が出来ねへ其時は

 (千) 夫そりやア心配仕なさんな金は己おれが出して遣やる気だ

 (市) エ夫では貴君あなたが

 (両人) 其金を

 (千) 後共のちとも云ずそれ百圓  ト千右衛門懐から十圓札で紙に包つゝみし百圓を投出し遣るお市取上

 (市) 夫では是を下さり升か

 (弁) 是で命が助り升

 (両人) エゝ有難ふ厶り升  ト頂く お照思入有て

 (照) 夫それを貴客あなたに出させては

 (千) ハテ大した金と云ぢやアなし纔わづか百圓斗ばかりの金決けして心配仕なさんな

 (照) 夫りやさうでも厶りませうが未だまア纔わづか十日斗り深ひお馴染でもない事故ゆゑ

 (千) 仮令たとへ三日でも懇意に成りやア己等おらア百年も馴染なじんの気だ今此金を出さなけりやア留とめに這入はいつた甲斐がないから黙止だまつて己に出させなせへ

 (照) 何とお礼を申さうか有難ふ厶り升  ト礼を云いふおみち不審に思ひ

 (みち) 田舎と違つて東京の繁花な土地のお客様お馴染浅ひお照さんへ百圓お上被成あげなさるとは

 (太) 多くのお金を取扱ふ

 (半) 銀行勤めのお方故ゆゑ

 (市) 何なんにしろ能よい旦那に御贔屓に成るはお照の仕合しあはせ就ついては親の私迄大仕合おほじあはせで厶り升

 (弁) 若もし此金の出来ぬ時は我持前わがもちまへの張扇はりあふぎで叩き立様たてやうと思つたが旦那が綺麗なお捌さばきできざを云ずに帰られ升

 (千) お前方も爰の内へ今夜泊ると有るからは後に寛ゆつくり咄はなしませう

 (市) 何いづれお礼に改めて

 (両人) 上り升で厶り升

 (太) イヤお二人様は此間に

 (半) お湯へお這入被成はいりなさいませ

 (市) 思はぬ汗をかきましたから

 (弁) ドレ一ぱい這入はいりませうか

 (太半) サアお出いで被成ませ  ト宿場騒ぎに成りお市弁山太助半次奥へ這入る 跡千右衛門お照おみち残り

 (みち) お照さん能よく旦那へお礼をお云ひよ

 (照) 誠に貴客あなたのお蔭故ゆゑ危あやふひ難義を遁れまして有難ふ厶り升

 (千) 何其礼そのれいには及ばねへ旅藝者には人の能いゝお前めへが可愛さうだから百圓出して遣やつたのだ

 (照) お馴染薄ひお前様に百圓と云いふ大金をお気の毒で厶り升

 (千) 其日稼そのひかせぎの人ならば百圓は大金だが銀行抔などへ勤つとめる者は何十萬と云金を取扱ふが商売故ゆゑ百や二百は端はした金決けして心配仕なさんな ○ 併しかし気の毒だと思ふなら百圓替がはりにお前めへから貰ひたい物が有る

 (照) エ百圓替りに貰ひたい物とは

 (千) そんなに恟びつくり仕なさんな望のぞみと云いふはお前めへの掛てゐる其指輪を己おれに呉んねへ

 (照) こんな麁末そまつな指輪をば

 (千) 唯お前のを貰ひたいのだ

 (照) お望みならば上あげませう  トお照指輪を抜て千右衛門へ遣るおみち思入有て

 (みち) 是はどうか二番目の筋に成なりさうで厶り升な

 (千) そんな株は自分こつちにないのだ

 (照) 夫それはそうと三年跡あと迄東京に居りましたが旦那は何地どちらで厶り升

 (千) 己等おいらの内は茅場町だ

 (照) 茅場町は薬師様の御近所で厶り升か

 (千) 直すぐ薬師の裏門前だ

 (照) ヲヤ私わたしもあすこに居りましたが

 (千) エ

 (照) 何番地で厶り升

 (千) 慥たしか四十六番地だ

 (みち) 夫では旦那宿帳と

 (千) 何違ちがやアしねへ筈だが  ト千右衛門困る思入おもひいれ下手しもて障子を明あけ以前の東右衛門陸兵衛奥蔵出て来り座舖ざしきを間違まちがへし思入おもひいれにて

 (東右) イヤ是は御免被成なさいましツイ坐敷を間違ました

 (陸) 飛だ麁相そさうを

 (三人) 仕ましたな

 (みち) イエ同じ間取で厶り升から御尤ごもつともで厶り升  ト東右衛門千右衛門を見て

 (東右) ヤ其所そこに居るのは  ト千右衛門見て

 (千) ヲゝお前は伯父御か

 (東右) ヤレ千太か能く達者で居たな

 (陸) 何千太と云は誰だへ

 (東右) 苫作とまさくの伜せがれの千太よ

 (陸) 立派な男に成たから

 (奥) 途中で逢ては分らねへ

 (照) 夫では旦那は皆さんと

 (みち) 御懇意で厶り升か

 (千) ヲゝみんな以前の馴染の衆だ

 (みち) お馴染と厶り升なら是へお出いで被成ませ  ト是にて三人捨ぜりふにて能所よきところへ住居すまゐ

 (千) 伯父さん初め皆さん方お替りも厶りませずお目出たふ厶り升

 (東右) 四五年此方このかた便りがないから死んだかと思つて居た

 (千) 在所に居升お袋へ久敷ひさしく便りをしませなんだが替る事は厶りませぬか

 (東右) 夫それぢやア手前てめへ何にも知らぬか

 (千) 何知らぬかとは   ト誂あつらへの合方あひかたに成り

 (東右) 替る共とも替る共大替りに替つたは

 (千) 内を出てから商売用で九州路から長崎へ長らく往いつて居りましたからさつぱり存ぞんじませなんだが替りましたと仰有るのは

 (東右) 其方こなたの親父は正直だつたが所謂いはゆる前世の因果とやら便りに思つた一人の其方こなたは内を出て仕舞しまひ爺々ぢゝい婆ばゝアで漸々やうやうと其日を送つて居た所生れ付ての酒好さけずきが病ひの元で中気に成り口はもどらず体は利きかず田畑の仕事も出来ぬ上薬の代は段々溜り煎じ詰ツた痩世帯やせぜたい明日の米にも困る様に成たを近所で不便ふびんに思ひ米や麦や味噌醤油野菜物迄送つて呉れ人の恵みで生て居たが定業故ぢやうごうゆゑか私わしが所とこへ礼に来るとて二本杖で出たさうだが転びでも仕た事か常願寺の池へ落おち遂にはかなく死んで仕舞しまふた

 (千) 親父が死だと云事は東京へ出た村の人に立たちながら聞ましたがそんな死に様やうを仕た事は咄はなさぬ故に知りませなんだ

 (陸) 寺から知らして来た故に村中往いつて池から引上直すぐに内へ連て行たが早桶を買かふ銭もなく

 (奥) せう事なしに味噌樽の古いのへ死骸を入れさし荷にないで寺へ持込みお経をざつと上て貰ひ

 (東右) 私わしが施主で葬ほうむつたが可愛さうなは手前てめへのお袋跡に残つた婆ア殿中気病ちうきやみでも亭主故ゆゑ杖に思つて居た所非業ひごうな死をばした後のちは明ても暮ても泣て計ばかり千太が居たならば居たならばと云いふても返らぬ旅の空生死しやうじの程も知れざれば喰ふに困ると無為あぢきなき浮世に倦あきたか苫作殿が百ケ日の晩に裏の井戸へ飛込んで是もはかない死をしました  ト泪なみだを拭ひ乍ながらいふ  

 (千) スリヤお袋も死んだ親父おやぢの百ケ日の其晩に井戸へ身を投なげ死にましたか二人が二人水で死ぬとは何たる因果な事成るか  ト愁ひの思入 

(陸) ほんに爺様ぢさまも婆ア様も村の日待ひまちに寄合よりあふても噺はなしの末はこなたの噂親を捨て家出なし憎ひ奴だと口には言へど目には一ぱい泪を持もち

 (奥) 達者で居るなら逢ひたいと明暮あけくれ言いふて居られたが到々逢あへずに非業な最後斯かう云立派な男に成たを一目見せて遣りたかつた  ト此内始終千右衛門はお照へ憚り幾加減いゝかげんに云て呉くれれば能よいと云いふこなしの内うち親の死だ事を聞きゝ愁ひの思入

 (東右) 然さうして見れば以前と違ひ立派な形なりをして居るが今は何をして居るぞ

 (千) 在所に居ては一生涯大した出世も出来ませねば東京へ出て人に成らうと古郷を跡に五年跡伝手つてを求めて銀行へ奉公に這入ましたが此身に運の向むく時節か重役衆の気に入りて段々出世仕升故しますゆゑ爰こゝぞ人に成る所と勉強をした功顯あらはれ今は二等手代てだいと成り商法上で九州路へ久敷ひさしく行て居りましたが今度帰りました故ゆゑ五周間の暇いとまを貰ひ親父はなく共お袋へ出世を噺して悦ばせ様と参つた甲斐も情なひ今は世に亡き二人の衆モウ一年早かつたら逢あはれましたに残年な手当にに持て参つた金も手向たむけの金に成りましたか果敢はかない事で厶り升る  ト泪を拭ひ宜敷思入よろしくおもひいれ

 (陸) ほんに其方こなたが立派に成たを二人の衆が見たならば何様どんなに悦ぶ事だらうに

 (奥) 一年遅ひばつかりに墓場へ行ねば逢あはれぬ両親惜ひ事を仕ましたな

 (東右} シテ今聞きけば銀行の二等手代に成たと云が千太手前てめへが勤て居る其銀行は何と云銀行だ

 (千) 只銀行で厶り升

 (東右) 三井を初め所々しよしよに有あるがさうして所は何所どこであるぞ

 (千) 茅場町で厶り升

 (東右) シテ何番の銀行だ  ト千右衛門ぐつと詰り

 (千) 三百三十三番で厶り升  ト東右衛門は心得ぬ思入にて

 (東右) 近頃諸県に銀行が大層出来たと云事だがまだ日本全国中に二百番は出来ぬ筈だが

 (千) エ  トぎつくり思入おもひいれ

 (東右) 三百三十三番とは

 (千) サア是は近所に山王の御旅所おたびしよが有る故に山王の猿にかた取り三百三十三番で厶り升

 (東右) 夫は珍らしい銀行だな

 (陸) わし等らは田舎者だけれど新聞が大好故ゆゑ凡およそ東京の小新聞はあらかた買て読よんで見るが

 (奥) まだ広告の其内にも三百三十三番と云いふ銀行はまだない様だ

 (東右) 何にしろ出世して折角親に逢ひに来たに二人共死んで仕舞しまひ逢ひに来た詮せんがないな

 (千) イヤ思ひ掛なく伯父さんに爰でお目に掛り升れば親に逢あふたも同じ事直すぐに是から帰ツても能よひ訳でも厶り升が爰迄参りましたから墓参りを仕て参りませう

 (東右) 手前てめへが行て花を上あげ水を手向たむけて遣つたらば草葉の蔭で悦ぶだらうは夫それに付つけても二人が死んだ跡が仕様がなく手前てめへは出た限ぎり便りはなく死んだか生いきたか分らぬから此衆達共相談して一先ひとまづ内うちを畳んで仕舞しまひ家財を売た其金は永世無縁にならぬやうみんな寺へ納めて仕舞しまふた

 (千) 何から何迄伯父さんの厚ひお世話に成りまして有難ふ厶り升  ト此時おのぶ出て来り

 (のぶ) 松島のお客様御膳をお上り被成なされませ

 (陸) 酒肴さけさかなも出来ましたかな

 (のぶ) ハイお燗も出来て居り升る

 (奥) 夫では一杯やりませうか

 (千) まだ伯父さんに色々とお聞申たい事も厶り升が

 (東右) こつちも云たい事が有るがどうで一ツ旅籠屋はたごや故ゆゑ後に又咄はなしませう

 (みち) 左様なればお客様

 (東右) イヤおやかましう厶りました  ト米山甚九に成り東右衛門陸兵衛奥藏おのぶ付ついて下手しもてへは入る跡見送り千太伸のびを仕様しやうとして心付こゝろづき俯うつむき悒ふさぎ居る思入おもひいれ

 (照) 今お聞申升ればお前さんの親御さんはお二人共お亡なり被成なされ嘸さぞ本意ほいない事で厶りませうな

 (みち) 傍でお聞申まうすさへお気の毒で厶り升る

 (千) 若い時には親達に少しは苦労も掛たから生涯楽をさせやうと態々わざわざ金を持て来た其その甲斐もなく死しんだと聞たら俄にはかに胸が塞がつて心持が悪く成た  ト悒ふさぐ思入

 (照) さう云時には憂さ晴し一ト口どうで厶り升

 (千) イや酒もあんまり呑たくない  ト此時階子の口よりおしの出て来り

 (しの) モシ旦那様夜る芝居へお出被成いでなさいましとて車屋の徳殿とくどんがお迎ひに参りました

 (千) ヲゝ迎ひに來たか ○ ト千太思入有て 是りやアうさ晴しに芝居へ行いかふか

 (みち) 夫が宜しふ厶りませう

 (千) お照お前めへも一所に行ゆきな

 (照) アイお供致しませう

 (千) おかみさんカバンを出して下さい

 (みち) 畏りました

 (照) そんなら旦那

 (千) 芝居で憂さを晴らさうか  ト端唄はうたに成り千太思入有てお照おみちおしの付ついて階子はしごの口へ這入る合方あひかたに成り下手しもてより東右衛門陸兵衛奥藏出て来り階子の口を覗き思入有て

 (陸奥) 東右衛門殿

 (東右) 二人の衆  ト合方あひかたきつぱりと成り

 (陸) 千太が立派な形なりに成なつたは

 (奥) どうも合点がつてんが行ゆかないな

 (東右) ヲゝ行ゆかぬ共とも行ぬ共第一合点の行ぬのは三百三十三番と云いふ銀行は聞た事がない

 (陸) 多分口から出任せに

 (奥) 嘘をついたと思はるゝ

 (東右) 子供の折柄手癖が悪く十五の年に懲役に行てから猶悪く成り色々意見も加へたが糠に釘で少しも利きかず再び赤い仕着セを着たが夫それから国にも居られなく上州辺から東京へ行たと云噂を聞たが夫限それぎり便たよりもない事故ことゆゑ大方終身懲役に成た事と思つて居たが思ひ掛ない今夜の出会であひ

 (陸) 見れば立派な形なりをして爰こゝの内に十日程

 (奥) 藝者を上あげて逗留するは

 (東右) どうで堅気な金ではあるまい

 (陸) 掛り合あいにならぬ内

 (奥) 明日あした早く立たちませう

 (東右) 翌日あすは兎ともあれ今宵の内も ○ ト此内上手かみての障子を明あけ以前の弁山伺うかゞひ居て扨さては盗人ぬすびとで有たかと云いふ思入おもひいれ東右衛門是を見て恟びつくりなす弁山障子を〆る  成程譬たとへの ○ トうなづくを道具替りの知らせ 壁に耳だ ト三人思入おもひいれ宿場騒ぎにて此道具廻る

本舞台上寄かみよりに三間高たか二重岩組後うしろ同く画心ゑごゝろの岩組にて見切 平舞台上かみの方柱かたはしら迄岩の張物で見切 下手しもて谷の心にて杉の梢を見せ能所よきところに飛込の穴向ふ遠山夜るの遠見 日覆ひおほひより杉の釣枝都すべて明神山の躰てい 道具中程より時の鐘山おろしにて道具留るト合方あひかた山颪やまおろしにて下手より宿屋の若イ者弓張提灯ゆみはりでうちんを持もち紺看板の中間ちうげん手紙を持もち出て来り舞台にて

 (中間) コレ宿屋の若イ衆おらが旦那は暮合くれあひから何所どこへお出被成いでなされたのだ

 (若者) 此山向ふの大信寺と云いふ禅寺ぜんでらの和尚様は學文がくもんが能く詩作が能く分わけて書を能よく書かゝツしやるので旦那様に逢ひたいと内の主人が檀家故ゆゑ和尚様に頼まれて今日けふお連つれ申まうしたのだ

 (中) 夫それでは大方詩や歌の面白くない咄はなしだらう今日のお倶ともを遁れたのは大仕合おほしあはせを仕ました

 (若) 今又お前が旦那様に急に逢ひたいと仰有おつしやるのは

 (中) 東京から別配達べつはいだつで郵便が来ましたからどんな御用か知れぬ故ゆゑ直すぐにお届け申たいのだ

 (若) 一躰お前の旦那様は官くわんへお勤め被成なさるのか

 (中) イや旦那は勤つとめをさつしやれば能よイ月給が取れるさうだが窮屈な事が嫌ひ故ゆゑ金を貸て気楽に暮らし今度も松嶋見物から帰り掛がけで厶り升

 (若) 併しさうして遊歴を被成なさるは何よりお楽み結構な事で厶り升

 (中) 是と云のも内證が能イ故

 (若) 兎角世界は金の事だ  ト時の鐘

 (中) やあの鐘は

 (若) モウ十時だから急ぎませう  ト時の鐘合方山颪にて貳重を上あがり上手かみてへ這入る 平舞台上手かみてより二人乗の人力車へ以前のお照千太を乗せ車夫の徳是を引ひき以前の松跡押あとおしをして出て来り

 (千) ヲイ徳公爰こゝで能いゝから下してくんな

 (徳) 芝居へお出被成おいでなさいませぬか

 (千) 芝居は是からモウわづか此山道を越斗こすばかりどうで車は引ひけないから爰から下りて歩行あるいて行いかふ

 (照) 何だか気味の悪い所爰へ下りずと芝居迄乗て行ふぢや有りませんか

 (千) 何此山を越斗り強こはい事はありやア仕ねへ

 (徳) 何ならお供を致しませうか

 (千) イや送るにやア及ばねへ ○ ト是にて車より千太お照下りて千太小サなカバンより紙包の札さつを出し  是で帰て呑がいゝ  ト徳取て

 (徳) 毎度有難ふ厶り升 ○ コレ松や旦那へ御礼を申せ

 (松) 旦那有難ふ厶り升

 (千) 大きに夜道を御苦労だつた  ト徳思入おもひいれ有て

 (徳) モシ旦那おねだり申ては済ませんが最もう少し下さいませぬか

 (千) 何モウ少し呉くれと ○ ト思入有て わづかな所も夜道故ゆゑ五十銭遣やつたらば云いひぐさを云ふ所とこは有るめへ

 (徳) 夫そりやア只のお客なら結構過た酒手さかてだが江戸で名高い銀行の旦那にしては少ねへ酒手だ  ト不肖不肖ふせうぶせうに云いふ

 (照) コレ徳殿とくどんお前酒にでも酔たのかへ毎日旦那にお貰ひ申まうすに何でそんなきざを云のだ

 (徳) 云ても能いゝから云ひ升のさ  ト松聞兼きゝかねし思入おもひいれにて

 (松) 是サ兄貴何を云のだ此間から仲間内でも能いゝ旦那に可愛がられると皆んなが羨ましがつて居るのだ

 (徳) 手前達てめへたちの知ツた事ぢやアねへ今に酒手を貰つて遣るから黙止だまつてそつちへ引込で居ろ

 (松) 何だか己おれにやアさつぱり読よめねへ

 (千) コレ通り一遍の旅先だが斯うして毎日乗るからは吝嗇けちな事をする時は東京の恥に成るから出る度毎たびごとに酒手を遣り手前達てめへたちに兎とやかうと云れる事は仕ねへ気だが己おれに酒手を増まして呉くれとはどう云いふ訳が有て云のだ  ト是にて徳ずうずう敷しく

 (徳) ヲイ千兄イお前めへ己おれを忘れたか

 (千) 何忘れたとは  ト少し凄みのある誂あつらへの合方に成り

 (徳) 五年跡あとに窃盗でお前と一所に佃つくだに居た野州やしう生れの徳次郎だ

 (千) エ  トぎつくり思入

 (徳) 間もなくおらア満期で出たから見忘れたかも知れねへが外役先ぐわいえきさきでお前めへと一所に一ツ鎖に繋れて土を担かついだ事があるぜ

 (千) 夫それぢやア手前てめへも窃盗で

 (徳) 赤い仕着せも二三度着やした

 (松) コウ兄貴あの旦那も五年跡あと懲役に成たのか

 (徳) やつぱり己と同じ科とがで佃で苦役くえきを仕なすつたのだ

 (松) 見掛みかけに寄らねへ物だなア

 (徳) 南部の袷あはせに博多の帯無地御召むぢおめしの単羽織ひとへばおりにゴウルの時計麦藁シヤツポ何所どこへ出しても銀行の立派な手代てだいと見える拵こしらへ虚うそか真事まことか灰吹はいぶきにかけて分せき仕たならば能いゝか悪いが知れやせう

 (千) 世間に幾らも似者にたものが他人の猿似で有る物だそりやア人違ひだぜ

 (徳) お前の目からは小僧子こぞツこと思つてごまかす気だらうが仮令たとへ三日が間でも一ツ飯を喰たからは人違ひとちがへをする物か是が六十七十なら耄ろくをする事も有るがまだ二十五にならねへ己おれだ何で顔を忘れる物だ併しかしお前めへは忘れたらうこつちはけちな窃盗に差入物さしいれものはろくには来ず巾の利きかねへ無籍者むせきもの満期で出たから古郷こきやうへ帰り上州路から奥州かけか細い腕で車を引ひくのも云はゞ此身のぼく除よけだ一里引てもわづか六銭長ひ銭ぜにの取れねへのも内職にする荒かせぎ(=手ヘンに、ツクリ上下}で太く短く栄曜ゑようをせし為一晩宿場しゆくばへ友子ともこを連つれ兄いと云れて呑のめる程お前も苦役くえきをした体からだ器用に金を呉んなせヘ  ト屹度思入きつとおもいれ千太悔しき思入おもひいれ有て

 (千) 手前達てめへたちに威おどされて酒手を遣るもこけな訳だが些ちつとこつちに目的めあてが有から今夜は云なりに酒手を遣るから早く帰れ  ト千太カバンから十圓札を出して遣る徳取て

 (徳) 兄貴十圓かへ

 (千) 夫それで不足を云ならばこつちも意地だ一銭でも余計な銭は遣やらねへぞ  ト千太急度云きつといふ

 (徳) 只貰ふ金だから不足と云わけはねへがモウ十圓も貰てへのだ

 (松) コウコウ徳兄イ能いゝ加減に云はねへかわづか宿から十町斗ばかり堅気の人なら二銭の酒手だ十圓貰らやア五圓づゝ単物ひとへものの一枚も着られる訳だ

 (徳) ヱゝ目先の見えねへ事を言へ己おれが腕で取る金だ誰が山にする物だ

 (松) 夫それぢやア半分呉れねへのか

 (徳) 二十銭か三十銭手前てめへに遣りやア澤山だが壱圓やるから黙止だまつて居ろ

 (松) 只の酒手と違ふから半分呉れざア七分三分三圓己おれに呉んねへな

 (徳) ヱゝ余計な口をきゝやアがるな

 (松) 夫だと云つて一圓はあんまり酷ひどい相場だから

 (徳) 手前てめへがぐづぐづぬかすのでこつちの咄はなしの気が抜たモウ十圓と云いひてへのだが仕方がねへ不肖ふせうを仕しませう

 (松) 長追ながおひすりやアぼろよりか棒が出るから了簡しろ  ト徳莨入たばこいれへ札を入いれ

 (徳) 夫ぢやア千太 ○ イヤ酒手を貰へば旦那様

 (千) 口数きかずと早く行ケ

 (徳) お照さん宜敷お礼を ○ トお照へ思入おもひいれて松車を上あげ

 (松) 今夜は是で切上て

 (徳) 宿場で愉快を極込きめこまうか  ト時の鐘合方にて徳松車を引て上手かみてへは入る此内このうちお照気味の悪き思入にて

 (照) サア旦那気味の悪ひ所故ゆゑ少しも早く参りませう

 (千) そんなにせくには及ばねへ些ちつとお前に咄はなしが有るからまア寛ゆつくりとするが能いゝ

 (照) 何のお咄しか存ぞんじませぬがこんな所でなさらずと内うちでお噺はなし被成なされまセ

 (千) 内ぢやア辺りの人目が有あるから云ひてへ事も云れねへ

 (照) 夫だと云つて気味の悪い人通のない此山中このやまなか私わたしや怖くてなりません

 (千) 其その怖がるのも尤もつともだ昼と違つて日が暮くれれば往来稀な明神越みやうじんごえどんな咄はなしを仕様共しやうとも狐狸の其外そのほかは聞人きゝてのねへのが己おれが山だ 

 (照) 然さうして私わたしに噺はなしとは何どんな事で厶イ升  ト千太思入有て

 (千) 長く云にも及ばねへが色に成て呉んねへな

 (照) ヱゝ  ト恟びつくりする時の鐘少し凄みの合方あひかたに成り

 (千) そんなに驚く事はねへ先刻さつきも聞て居たらうが久敷ひさしく逢あはねへ親達に逢ふと思つて東京から松島へ行ゆく一人旅お前めへの様な美しひ藝者がある共とも白川へおくれて泊つた奥州屋一人で酒も味うまくねへから相手に口を掛た時ハイ今晩はと座敷へ来たお前めへの顔を見て恟びつくり弁天と云いふ名を取た宿しゆく一番の女だと聞た其晩襟元へぞつと染込しみこむ夜嵐に少し風気かぜけを幸ひと長逗留を仕て居たも実はお前を手に入いれたく無駄な金も遣つかつたが旅藝者には珍らしひ金で転ばぬ気性故ゆゑさつき貰つた此指輪をお前と一所に居る心でのろい奴だが指へはめ明日あすは一先ひとまづ松島へ往つて帰りに口説くどかふと思つて居たも親達が死んだとあれば行ゆくのは無駄是から直に東京へ帰る土産に前借ぜんしやくを返して連て行ゆきてへのだ定めて嫌いやでもあらうけれど惚ほれられたのが身の因果うんと云て呉んなせへ

 (照) 見る影もない旅藝者を夫程それほど思つて下さい升は有難ふは厶り升がお前さんのお心に随はれない訳あればどうぞ免ゆるして下さいまし

 (千) 何どんな事か知らねへが随はれぬと云訳は

 (照) サア其訳は

 (千) 夫それを聞きかにやア思ひ切られぬ  トお照思入有て

 (照) 何をお隠し申ませう私わたししや東京に言交いひかはした男が厶り升る故

 (千) 夫そりやア男も有あるだらうが浮気家業をするからはそんな野暮を云いはねへで旅の恥はかき捨すてとおれが云事を聞て呉んねへ

 (照) 浮気家業はして居れど末は夫婦に成らうと云いふ神へ誓ひを掛かけた中親の頼みに仕方なく浮世を忍ぶ文字摺もじずりの此奥州の白川へ前借ぜんしやくをして来た私旅の藝者は十とおが八九はつくお客の座敷で曖昧な事をするのが常なれど男がある故今日迄もそんな噂のない藝者御贔屓にして下さい升なら色気なしで御座敷計ばかり御酒ごしゆの相手に私わたしをばどうぞ呼んで下さいまし

 (千) 大方そんな言訳と思つて今夜夜芝居よしばゐへ行ゆくと云て連出したは否応いはさぬ己おれが狂言さつき仕馴しなれぬ立役たちやくに成て百圓出したのも能よくある筋だとお前めへの体へ金で恩を着せる為嫌いやでも有あらふがお袋に娼妓にされたと諦めて堅ひ心を引ひいて取とり夢と思つて濡ぬれの場を一幕見せてくんなせへ

 (照) 夫程迄それほどまでに仰有るなら幸ひ調度お袋が参つて居れば相談して明日あした御返事致しませう

 (千) モウ此土地に足を留とめ明日あす迄待ちやア居られねへ大概己おれが身の上も人の咄はなしで悟つたらうが今迄大きな螺ほらを吹ふき銀行手代てだいと云たは偽り実はおらア盗人ぬすつとだ

 (照) エゝ  ト合方きつぱりと成り

 (千) 何もそんなに恟りして迯にげるにやア及ばねへ盗人ぬすつとだとて同じ人間ぎやつと生れて其時から人の物を我物と盗む心は有りやアしねへ元はみんな堅気だが多くは酒と女と賭博ばくち身の詰りからする盗み初手しよては明巣あきすのちよつくら持もち初犯で纔わづかな懲役から二犯三犯段々と功を積んで強盗迄修行して来た松島千太どうで始終しじうは天の罰ばち運も佃つくだで終身懲役爰こゝで手前てめへを助た所が一等減じる訳でもなけりやアかばつて遣るにも当らねへから夫それで爰へ連出したのだ網に掛つた鳥同様最もう羽根たゝきもさせやアしねへ

 (照) 夫そんなら何どうでも此場にて

 (千) 是程云ても迯にげる気か

 (照) サアそれは

 (千) サア

 (照) サア

 (両人) サアサアサア

 (千) コリヤ手短に縛り上あげ引ひつさらつて行ゆかにやア成らねヘ  ト尻を端折はしよりお照を手荒く引居ひきすへる

 (照) アレ誰ぞ来て下さいまし誰ぞ来て下さいまし

 (千) エゝ喧やかましひ静にしやアがれ  トお照振切て迯るを立廻て引付ひきつけ手拭で縛らうとする此時上手かみてへ以前の徳案内して探索方両人捕縄とりなはを持もち松附ついて出て来り咡さゝやき合あひツカツカと出て

 (菊) 松島千太

 (両人) 御用だぞ  ト千太見て

 (千) ヤコリヤ探索が

 (菊) 此間から盗賊と白眼にらんだ眼まなこに違ひなく

 (幸) 慥たしかな證拠が上あがつた上は遁れぬ所だ

 (両人) 覚悟なセ

 (千) さう知られたら仕方がねへ察さつしの通とほり強盗で其名を知られた松島千太汝うぬらが縄に掛かゝる物か

 (菊) 明神山へ追込だ

 (幸) 得物を逃して

 (両人) 成る物か  ト両人組付くみつくを振解ふりほどく此内お照うろうろするを徳とらへ

 (徳) お照さんは己等おいらと一所に

 (松) 早く此方こつちへ迯にげなせへ  ト徳松お照を引張ひつぱり上手かみてへ這入る

 (千) 扨さては徳めが訴人そにんをしたな

 (菊幸) 知れた事だ  ト時の鐘誂へ鳴物なりものに成り両人千太へ縄を掛様かけようと云いふ捕物の立廻り宜敷よろしく有て千太カバンを引ひつさらひ下手しもて谷間の切穴きりあなヘ飛込とびこむ山颪烈敷やまおろしはげしく

 (菊) ヤア崖から谷へ飛込だが下は巌石尖するどき谷間

 (幸) 多分は岩で体を打うちくたばつたに違ひねへ

 (菊) 何にもせよ谷へ下り

 (幸) 彼奴あいつが行衛ゆくえを

 (両人) 捜して呉くれん  ト山颪ばたばたにて両人下手しもてへ逸散に這入る矢張ばたばたにて上手よりお照迯て出て来るを徳松追掛おひかけ来て徳お照を引付ひきつけ

 (徳) ハテ聞訳きゝわけのねへお照さん今夜千太が夜芝居よしばゐへお前めへを連て行ゆくと云いふは深ひ巧たくらみの有る事と悟さとつた故に酒手さかてをゆすり探索方たんさくがたへ密告して今の難義を助たすけたのだ千太の替りに己達おらたちの此処で自由になつてくんねへ

 (照) 危ひ所を助たすかつてヤレ嬉しやと思つたらやつぱりお前も同じ事私を手込てごめに仕様と云いふのか

 (徳) そりやアお前が弁天と云いはれる顔のする事だ二目ふためと見られぬ女なら自身こつちも科とがを着る事だ誰が手込にする物だ

 (松) 兎とやかう云いふ間に芝居のはね人通ひとどほりのねへ其内に

 (徳) 些ちつとも早く

 (松) ヲゝ合点だ ○ ト山颪やまおろし早き合方あひかたにて両人お照を引倒す此時本鉄砲ほんてつぽうの音する三人恟びつくりしお照は俯伏うつぶせに成る坂の上より望月輝もちづきあきら羽織まち高袴たかばかま高帽子短銃ぴすとるを持もち出て来り此内徳は打うたれはしないかと体を見る事有てホツトして輝あきらを見付みつけ  扨さては今のは

 (両人) 貴様こなただな

 (輝) 理不尽致す人力車夫警察官へ引立ひつたてやうか

 (徳) そんな威おどしをくふ物か  ト輝あきらへ立掛たちかゝる輝短銃ぴすとるを差附さしつけ

 (輝) 命はいらぬか

 (徳) ヤアこいつは叶はぬ

 (松) 迯にげろ迯ろ  トばたばたにて両人向ふへ迯て這入るお照顔を上あげ

 (照) 何方どなた様で厶り升か危あやふひ所をお助け下されエゝ有難ふ厶り升る

 (輝) お照嘸さぞこわかつたらうな

 (照) エ然う仰有おつしやるは ○ ト誂あつらへ灯入ひいりの月を下おろしお照輝を見て  ヲゝ望月様

 (輝) コレ ○ と押へる木の頭かしら  アゝいゝ月だな  ト月を見上るお照は手を合せ嬉しき思入おもひいれ誂あつらへの合方あひかた山颪やまおろしにて拍子幕 

 貳幕目 明石浦漁師町の場  同 播磨灘難風の場

一島蔵妹おはましう調
一 同倅岩松菊之助
一 齋坊主西念左伊助
一 漁師喜多六しやこ六
一 同藤助八平治
一 明石の島蔵菊五郎
一 漁師磯右衛門團右衛門
一 同沖蔵荒治郎
一 同波六尾登五郎る
一 在所かゝおくろ小半治
 竹本連中

            

本舞台三間の間平舞台ひらぶたい 向ふ真中柿木綿の暖簾口のれんぐち 上手かみて押入戸棚、是へ三尺の仏壇阿弥陀の掛物仏具宜敷よろしく誂あつらへの位牌供物くもつを備へ、燈明を付つけ、此前へ手習机、此上へ香炉線香を乗せ下手しもて鼠壁上かみの方一間折廻、障子家躰やたいいつもの所丸太の門口竹簀戸、下しもの方粗朶垣そだがき後ろ海の遠見、都すべて播州明石浦漁師内の躰てい。上手かみてに西念さいねん墨衣すみごろも斎坊主ときぼうずの拵へ、続て喜多六藤助着流し漁師の拵へ、おくろ同じく女房の拵へ、四人共膳に向ひ真中に磯右衛門白髪鬘しらがかづら漁師の親仁おやぢにて住居すまゐ。下手しもてにお濱島田鬘漁師の娘の拵こしらへ、お鉢を傍へ置おき盆を持もち給仕をしてゐる。岩松若衆鬘着流しにて香炉へ線香を上てゐる。此見得このみえ波の音濱唄にて幕明く。

 

 (磯右衛門) 西念さんは職務しやうばいだが皆の衆しゆは忙しいのに能よう来て下すつた

 (藤助) 外ほかと違ツて不断から親仁おやぢどんには一方ひとかたならず何やかや世話に成れば

 (喜太六) 仮令たとへ職業しやうばいを休んでも此方こつちの内の法事故ゆゑ馳走に成りに来ましたのぢや

 (お黒) 取分け私わたしはおなぎさんと心安くした中故ゆゑ何事置ても来ずには居られぬ

 (お濱) おくろさんのお蔭にて御膳拵ごしらへが早く出来嘸さぞ姉あねさんも草葉の蔭で喜んで厶ござりませう

 (西念) 今日の膳部ぜんぶの塩梅あんばいは妹御いもとごがさつしやつたか誠に味うまふ出来ました

 (濱) 何の味うまい事が厶りませう仕馴ぬ私わたしの掴み料理何も彼かも不塩梅で上あがりにくう厶りましたらう

 (藤) 西念さんの云るゝ通とほり中々味うまひ事で有あつた

 (喜) 爰こゝら近所の煮売屋ではこんな料理は所詮出来ぬ

 (磯右) イヤ爰ら近所にないと云はチト誉過ほめすぎさつしやいませう

 (黒) イヤイヤ酢合すあひの胡麻ではなく能いゝ塩梅で厶りました

 (西) トキニ膳を引て下さいませぬか

 (濱) ハイ只今引升で厶り升

 (黒) ドレ手伝て上ませう  ト皆々捨台辞すてぜりふにてお濱お黒膳を片付かたづけ岩松前へ出いで手をつき

 (岩松) 今日は何方どなたも母様はゝさまへ御供養を下さいまして有難ふ厶り升る

 (西) 最前から佛前へ絶ず線香上あげさつしやつて殊勝しゆしように回向ゑかうさつしやるのはテモ感心な事ではある

 (藤) 外の者が千遍の念佛を唱となへるより

 (喜) 血の余りの岩松が十遍唱となへる念佛が

 (黒) おなぎさんはどの位嬉しひ事か知れぬわいナ

 (磯右) 今更云いふても返らぬが此岩松がお袋は生れ立たつて素直にて知ツての通の倅せがれ故ゆゑ無理な小言も云たれど遂に一度逆らうて喧嘩をした事もなければ仮令たとへにも云小舅のお濱を邪魔にした事なく真身の如く可愛がり取分とりわけわしを大事にして痒ひ所とこへ手が届く程能よう世話をして呉た申分のない嫁を惜ひ事を仕ましたわいの  ト磯右衛門泪を拭ふ ──以下・割愛──