しまちどりつきのしらなみ
口上
若葉の闇に奥山から西と東へ別れたる千太は親の世になきを白川宿で伯父に逢ひ聞て泪に袖濡す弁天お照が母親の無心に困る百圓を恵む替りに貰ひし指輪夫を證拠に抜き差のならぬ輝へ言掛れど瓦解以前に強談で人に知れし浪士ゆゑ余義なく其場は物別れ 扨島藏は霧深き旅路に幾夜明石潟三歳ぶりにて磯右衛門お濱に廻り大津絵の心の鬼も忽に発起なせしは伜の片輪悪の報ひは早手の難船 憂事積る牛込に今は堅気の酒屋店醤油を買ひし小娘から辛き浮世に清兵衛が難義を知つて百圓を貢いで帰る我家の門然も九月の約束に尋ねて来たる松島を連出す九段の招魂社真身も及ばぬ明石が意見に小蔭に忍ぶ野州徳迄改心なして浮雲の空も晴行望月が助力に千圓金整ひ科を自訴なす大切迄 夏より冬へ続き狂言
序幕 白川宿旅籠屋の場 同明神峠山越の場
一 旅藝者弁天お照 半四郎
一 旅籠屋の女房おみち しげ松
一 同下女おしの 此 糸
一 同おのぶ あやめ
一 百姓東右衛門 鶴 藏
一 奥州同者陸兵衛 猿十郎
一 同奥藏 幸 升
一 人力車下総松 升 藏
一 旅役者市川邊丹次 小半治
一 同岩井鈍四郎 しやこ六
一 望月の下男宅助
一 士族望月輝 團十郎
一 銀行手代濱崎千右衛門
実は松島千太 左團次
一 お照の母ねぢ金お市 松 助
一 人力車野州徳 同
一 辻講師古川弁山 門 蔵
一 探索方瀬栗菊藏 竹治郎
一 同鳥形幸助 尾登五郎
一 旅籠屋の若者太助 橘 治
一 同半次 八平治
一 同佐七 利喜松
本舞台四間通の家躰上手、貳間常足の貳重揚縁付、下手一間落間、向ふ奥州屋と云紺の暖簾口、上手まゐら戸の戸棚、落間の折廻し、板羽目上の方戸袋、石灰塗にて御泊宿白川宿奥州屋と記し有。見附の柱、御泊宿奥州屋と書し行燈を掛、軒口に一新講の籏を立、下の方冠木門見越しの松、都て奥州街道白川宿旅籠屋の躰。見世先の床几へ、邊丹次立役鈍四郎女形旅役者の拵へにて腰を掛、太助、半次、宿屋の若い者着流し駒下駄にて立掛り、貳重におしの、おのぶ、宿屋下女の拵へ、燭台の掃除をして居る此見得、米山甚九にて幕明く。
(太助) モシ明神の夜芝居は大層這入るさうで厶り升ね
(邊丹次) 仕合と初日から一ぱいで厶り升
(半次) 是りやア全く花形のお前さん方が出るせへだ
(鈍四郎) 有難い事に何所へ行ても這入らない事はない
(邊) 爰は二人共東京でたゝき込だ腕だから
(おしの) ヲヤヲヤお前さん方は東京で厶り升か
(おのぶ) 私達は田舎廻りの役者衆かと思ひました
(邊) 白川は開けた所と兼て噺に聞て居たが私等を田舎役者と見る様では開けないね
(鈍) 大方舞台を見なさるまいが名を聞た計りでも東京役者か田舎役者か知れさうな物だ
(太) まだ番付を見なかつたが額の出張つたお前さんは何と云名で厶り升
(邊) 只お前さんで能事を額が出張て居丈余計な事だ
(太) ツイ目に付たから云ましたがお前さんは何と云升
(邊) 額の出張た私かへ
(しの) 人の事よりお前さんが出張つたと云くせに
(邊) 浮ツかり是は巻込まれたのだ私は市川左團次の弟子で市川邊丹次と云升
(太) 成程名は体を顕すとへたん次は能名だ
(半) そちらの色の黒いお方は
(鈍) 私は岩井半四郎の弟子で岩井鈍四郎と云升
(半) 誰が付たか是も能名だ半四郎の弟子だと云ては夫ぢやアお前は
(鈍) アイ娘形で厶り升
(半) 貉形とは珍らしひ名だがハア顔が貉に似て居るからか
(鈍) イエ貉ではない娘形さ
(太) 貉と云のも無理はないどうでお前方は旅稼で獣物に違ひない
(しの) 爾して毎晩狂言が替るさうで厶り升が
(のぶ) 今夜は何を被成い升
(邊) 御贔屓様からお好みで忠臣藏の五六七と三幕続けて致し升
(鈍) 邊丹次さんが勘平で私がおかるを致し升
(太) 夫ぢやア猪が出升ね
(邊) ハイ五段目へ出升
(半) 狸も出升か
(鈍) 狸の出るのは六段目さ
(太) 豚も出升か
(邊) 何で豚が出る物か
(太) 然う云お前が東京の奥山の豚に能く顔が似て居るからさ
(しの) 夫ではお輕勘平は
(のぶ) 豚と貉で厶り升ね
(太) 是りやア犬のカメ芝居や猿芝居より増しだらう
(邊) あんまり馬鹿に仕なさんな
(鈍) 是でも役者一疋だよ
(太) イヤ獣物と云はれた迚腹を立事はない左團次だの半四郎だのと虎の威をかる狐だ物
(両人) 何狐とは
(太) 東京役者と云被成のは人を化し被成るからさ
(邊) こいつア旅と知られたか
(鈍) 尻尾を出さない其内に
(邊) 早く行てシヤギらせやう
(太) 狸囃子をかへ
(鈍) モウいい加減にしてお呉
(邊) ドレ楽屋へ行と仕様か ト米山甚九で両人下手へ這入る
(太) 彼等は旅役者で下ツ腹に毛のない奴だ
(半) 併し二人で燻し付とうとう尻尾を出さして遣つた
(しの) どんな事をする物だか昼だと行て見られるけれど
(のぶ) 暮方から忙しひので夜芝居では行れない
(太) 今年春の博覧会から日光参り伊勢参り大層田舎が出たではないか
(半) 夫と云のも近年は何所の田舎も豊年で宿屋も同者が一番多ひ
(太) 噂をすれば影とやら同者が一群やつて来た ト米山甚九に成り向ふより東右衛門老たる田舎同者脚半草鞋二枚継の蓙を引掛蝙蝠傘を持陸兵衛奥蔵同じ拵へにて出て来り花道にて
(東右衛門) 作右衛門が博覧会の帰り掛に泊ツた時大層手当が能かつたと云奥州屋と云は向ふの向だ
(陸兵衛) 旅籠代は世間並二十五銭取るさうだが食物が能て夜具が能く
(奥藏) 其上団扇を一本宛土産に呉ると云事だから外の宿より余ツ程徳だ
(東) 少し泊にやア早ひけれど悪ひ所へ泊るより奥州屋へ泊らう
(陸) 随分今日は草臥たから早泊が能厶らう(奥) 綺麗な内に湯へ這入ゆつくり一ぱい遣りませう ト甚九で本舞台へ来る 太助半次立掛り
(太) あなた方はお泊で厶り升か
(半) 一新講の奥州屋で厶り升る
(東右) 在所の者の指図によりお前の所へ泊る積りだ
(両人) 夫は有難ふ厶り升る
(半) サア是へ掛被成ませ
(しの) お荷物やお笠はこちらへお出し被成ませ ト此内捨ぜりふにて三人腰を掛半次すゝぎの盥を持て来るおしのおのぶは荷物笠を片付る三人は草鞋を解足を洗ふ
(のぶ) おかみさんお泊が厶り升 ト奥にて
(おみち) アイアイ ト右合方にて奥よりおみち宿屋女房の拵へにて出て来り 是は是はどなた様もお早うお着で厶り升
(東右) 先達て村の者が博覧会の帰り掛お前の所へ泊た所丁寧にして呉られたから少し早くも泊れと云ので
(陸) モフ一宿行れるのを
(奥) お前の所へ泊りました
(みち) 夫は御贔屓に被成て下さいまして有難ふ厶り升る ○{=思い入れを示す符号} あなた方はどちらでいらつしやい升
(東右) 私等は奥州松島在で
(みち) ヘイ松島のお方で厶り升か此三月から引続き博覧会を御見物に多くのお泊が厶りましたが作右衛門様の御近所で厶り升か
(東右) ヲゝ其作右衛門の隣で厶り升
(みち) 左様で厶りましたか ト此内足を洗ひ上へ上る
(のぶ) お茶をお上り被成ませ ト三人へ茶を出す半次は脚半草鞋を片付る
(陸) コレ若イ衆脚半の間違ぬ様に仕て下さい
(奥) 幸便に草鞋も頼み升ぞ
(半) 直に札を付升から決て間違は致しませぬ
(しの) お湯が宜しふ厶り升が直にお這入被成升か
(のぶ) 御膳を先へ召上り升か
(東右) どうで一杯やり升から湯へ先へ
(三人) 這入ませう
(みち) 夫ではお湯へ御案内申しや
(女両人) 畏りました
(東右) ドレ草臥を休め様か
(女両人) サア入らつしやいまし ト米山甚九に成り東右衛門外両人おしの荷物を持おのぶ付て暖簾口へ這入る
(みち) 脚半へ直に札を付なよ
(太) 何札を付るには及びませぬ三足共汚ない脚半だ
(半) 是よりきたない脚半はないから間違た方が徳用だ
(みち} 又そんな事を云か堅いが名代でお客様の絶間のない此方の内仮令 脚半一足でも間違が有ては家の疵能く気を付て置て呉りや
(両人) 畏ました ト右の合方にて下手より幸助菊藏羽織まち高袴半靴探索方の拵へにて出て来り
(菊藏) おかみさん此間は
(みち)是は瀬栗さんに鳥方さん何ぞお調で厶り升か
(幸助) 些とお前に聞たい事がある
(みち) 旅人の事で厶り升か ト両人揚縁へ腰を掛
(菊) 十日程お前の所に天気の能に逗留して土地の藝者の弁天お照を
(幸) 毎日車へ相乗で爰ら近所を遊で歩行東京の客は何者だ
(みち) アノお方は東京の銀行の御手代衆だと申事で厶り升
(菊) 宿帳をお見セなさい
(みち) ハイ畏ました ○ト宿帳を出繰出し見て 是に名前が厶り升 ト菊藏見て
(菊) 東京日本橋区南茅場町五十番地濱崎千右衛門
(幸) 是りやアお前の所で馴染の客かへ
(みち) イヱお馴染では厶りませぬ
(太) アノお客は人力車の野州徳が連て参つた
(半) 初めてのお客で厶り升
(菊) 一躰何所へ行く旅人だね
(みち) 松島が生れ古郷で親を尋ねて参るとやら申事で厶り升
(菊) 遊山旅か知らねへが十日間の長逗留名所古跡を見るでもなく
(幸) 藝者を連て遊び歩行荒ツぽい遣ひ振だから此間から目を付て居たのだ
(みち) 然う仰有れば銀行の御手代衆にはそぐはぬ物言ひ漢語交の其内に勇みな詞が厶り升
(太) めったな事は云れないが
(半) どろ衆かも知れませぬ
(菊) 何ぞ怪しい事が有たらそつと知らしてお呉んなせへ
(みち) 畏ました
(菊) 決て迷惑は掛ねへから隠しだてを仕なさんな
(半) 跡で露顯する日には叱られた上何がしか罰金を取られるぜ
(みち) 決て隠しは
(三人) 致しませぬ
(菊) 夫ぢやアおかみさん頼みましたよ
(みち) 畏ました
(幸) ドレ料理茶屋を
(両人) 探ツて来やう ト右の合方にて下手へ這入る
(太) どうも怪しひと思つたが探索方の目に留り
(半) 内々調に成てゐるとは誰の目も違はぬ物だ ト向ふより千右衛門麦藁のシヤツポ単羽織袷着流し駒下駄お照縮緬の着付宿場藝者の拵へにて出て来り跡より下総松半天半股引人力車夫の拵へ肩ヘケツトを掛二人乗の車を引出て来り
(千右衛門) 車も一日乗続けは却て腰が痛く成歩行方が余ツ程楽だ
(お照) わたしきうくつあしたあいそりやア私が大きいから窮屈なせへで厶りませう
(松) 明日は相乗でなく一人乗で一人宛お乗被成ませ
(千) 程の悪ひ事を云ぢやアねへか東京にも二人とない弁天お照と名の高ひ白川一の藝者衆と相乗が仕たい斗りに腰の痛へを我慢するのだ
(照) エゝモ憎らしひそんな事を云つて ト右の騒ぎ唄にて三人舞台へ来り
(太) 是は旦那お帰り被成ませ
(千) 車を下りて歩行たので思ひの外遅く成た
(半) イヱお遅ひ事は厶りませぬ
(みち) 今日は何地らへお出被成ました
(千) 何所と云当はなく松公が案内者で方々名所を見て歩行き今夜は温泉へ一泊しやうと思ツたが何所へ泊てもこつち位泊り心の能内はねへ
(みち) 夫は有難ふ厶り升る
(松) さつき左様仰有りましたが夜芝居へお出被成升か
(千) どんな役者が出て居るか咄の種に行て見やう
(照) 上手な役者が居ると云から一幕見たう厶り升ね
(太) そりやアおよし被成ませ中々以てあなた方の御覧被成芝居ぢやア厶りませぬ
(半) 先刻も見世へ参りましたが市川へたん次に岩井鈍四郎下手らしひ役者で厶り升
(千) イヤ生中な役者より妙な方が可笑くつて能イ
(照) 私も行て見たいから松さん晩に来てお呉よ
(松) 畏まして厶り升 ○ 今日は旦那の御贔屓の徳が用事が厶りまして替りに私が上りましたが嘸お乗憎くふ厶りましたらう
(千) 少しも乗憎ひ事はない
(松) 今晩芝居へ入らつしやい升には徳がお供を致し升
(千) お前も一緒に来て呉んねへ
(松) ヘイ跡押に上り升
(千) 夫迄行て一ぺいやんねヘ ト紙入から小札を出して遣る
(松) 是は有難ふ厶り升 ○ お照さん旦那へ宜敷 ト辞義をする
(太) 松公しつかり呑るな
(松) イエ晩の仕事が厶り升から一合やつて置升 ト下手へ車を引て這入る
(みち) 旦那お湯をお召被成いませんか
(千) 今温泉へ這入て来たから今夜は湯はよしに仕ませう
(太) 左様なれば
(両人) お二階へ
(千) イヤ爰で一ぷくやりませう ト千右衛門お照床几へ腰を掛る 又元の米山甚九に成り向ふよりお市色気のある婆アの拵へ草履がけ 弁山半合羽草履カバンを提 両人共蝙蝠傘を杖に突出て来り花道にて
(弁山) おつかア奥州屋と云は向ふだぜ
(お市) 爰の宿屋に逗留して居る銀行の手代衆に毎日呼れて出て居るさうだ
(弁) 何にしろ銀行の手代と云やア金が有らう
(市) 無心を云にやア能幸先だ
(弁) おつかアお照は向ふの床几に居るゼ
(市) ヲゝ違へねへあれは娘だ ○ ト右鳴物にて両人舞台へ来り お照此間は
(照) ヲヤおつかさん能お出だね
(市) あんまり能も来ねへのさ五十里有る白川迄態々来るからはどうでろくなコトではねへ
(弁) お照さん久敷お目に掛りませぬ
(照) 誰かと思つたら弁山さんお前一所にお出かへ
(弁) 席の都合で此間から遊んで居り升所故座舗でも出来様かとおつかさんの供をしてこちらへ一所に参りました
(太) まア是へお掛被成ませ ト床几を出す
(市) 是は有難ふムり升 ト捨ぜりふにてお市弁山床几へ腰を掛る 千右衛門は脇を向て莨をのみゐる
(照) おつかさん何の用で出てお出だへ
(市) 用と云のは外でもねへ欝陶しいと云だらうが又金を借に来たのだ
(照) 此間郵便で持して上た十圓はお前の方へ届いたらうね
(市) そりやア郵便だから三日目に間違なく届たが此節諸色が高いので今の夷の十圓は大黒銀の有た時分の壱両にか成らないから直になく成て仕舞はな
(照) さうしてお前内へお出か
(市) 今泉屋へ往たらば御客様で此方の内に出て居ると聞たから
(弁) お前を尋ねて爰へ来たのだ
(みち) モシお照さん何の御用か知らないが爰は人が来升から二階へお出被成ましな
(照) ハイ有難ふ厶り升 トお市弁山思入有て
(市) どうで今夜は此宿へ泊らうと思つた所爰のお内が奇麗だから爰へ泊と仕様かね
(弁) 私も然う思つて居た所だ
(太) 左様ならお泊被成升か
(市) 今夜はお世話に成ませう
(太) 旦那あなたもお二階へ入らつしやいませ
(千) 暮ると芝居へ出掛るから今の内一杯やらうか
(照) お相手を致しませう トお市お照の袖を引
(市) お照あなたは ト思入
(照) アイ銀行へお勤め被成る濱崎様と仰有るお方で御贔屓に成升から一寸お礼を申てお呉
(市) 是はお初にお目に掛り升が不束な娘をば御贔屓に被成て下さいまして有難ふ厶り升
(千) 此子の噺に聞て居たおつかさんはお前かへ幾つの時の子かしらぬが大層お前は若イね
(市) 是は私が十八の時に産だ子で厶り升
(千) 夫ぢやアお前のほんの子かへ
(太) ほんの子ならば鳶が鷹だ
(市) 何だとへ
(太) イヤ兎も角も旦那を初め
(半) お二階へ入らつしやいまし
(千) 夫ぢやアお照
(照) おつかさんも御一所に
(市) ドレ御厄介に
(市弁) 成ませう
(半) サアいらつしやいまし ト宿場騒ぎに成り千右衛門お照お市弁山半次付て暖簾口へ這入る 太助傘を片付る
(太) モシお内儀さん今のお袋だと云人は一筋縄ではいけませんね
(みち) 中々喰へそうもない婆アさんだが一所に来たのは何だらう
(太) 何でも講釈師か咄し家だが私の監定ではあの婆アさんの色だと思ひ升
(みち) 成程貴様の云通り大方そんな事だらうよ
(太) 夫はそうと探索方の頼んで往つた濱崎様
(みち) どうも様子がおかしいが
(太) 證拠の上らぬ其内に
(みち) 早く立て ○ ト立上るを道具替の知らせ 下されば能が ト宿場騒ぎになり心に掛る思入宜敷 道具廻る
本舞台一面の平舞台、向ふ上手床の間、下手秋田蕗の襖上下折廻し、障子下の方階子の上り口 都て旅籠屋二階の躰。爰にお市弁山下手にお照住居宿場騒ぎの合方にて道具留る
(市) コレお照今度が無心の云仕舞だが百圓都合して呉んねへな
(照) 此間郵便で態々持して上たのを何にお前仕なすつたのだ
(市) 何にもしねへ朝夕の暮しに皆んな遣ツたが子に親が世話に成るのは当り前とは云乍度々云のも気の毒故今度上野の山下へ大道講釈の席を拵へ弁山さんに叩かして己らが木戸から中売按摩三人前も稼ぐ積りだ
(弁) 不図した事からおつかアと今では夫婦の様に成り共稼に挊で居れど人の持て居る場所へ出ては長ひ銭も取ないが自前稼に骨ツ限昼夜を掛て叩ひたら屹度儲るに違ひない其所で資本を拵へて山下もよりへ席を建生涯楽にする積りだ
(市) 弁山さんと共稼に挊で苦労は掛ないから是を無心の云納めと思つて百圓貸て呉んな
(照) 夫りやアあんまり無理ぢやアないか
(市) 何無理とは ト合方に成り (照) 是が東京の新橋か柳橋に出て居たら頼んで借るお客もあれど通一遍の奥州海道土地の人でも曖昧な事を仕なけりや一圓でも呉るお客は有りやア仕ない十圓お前に上るのも並大躰な事ぢやアないお気の毒だがおつかさん所詮都合が出来ないから堪忍してお呉んなさい
(市) イや堪忍する事は出来ねへ忘れもしめへ六ツの時手前の親父に死失られて跡は女の手一ツ故困る中で藝事迄仕込で己が育たのは斯う云御難の其時に役に立様爲斗り藝者で金が出来ねへなら娼妓に成て一年斗り稼で呉りやア出来る金だ
(弁) 旅の藝者は曖昧な皆娼法をする中で真じ目にするのは大きな損其曖昧をすると思つておつかさんの頼みを聞娼妓に成て呉んなせへ夫共それが出来ないならお前を贔屓に逗留して居るアノ銀行の旦那殿へ無心を云たら出来様に
(照) お金は持て居被成るがわづか十日斗りのお馴染そんな事が云れる物かね
(市) 客へ無心が云れずば娼妓に成て拵へて呉
(弁) お前がウンと云被成ば宇都宮の貸座敷に私の懇意の者が有れば其所へ噺を向たらば直に百圓前借で右から左へ出来る金
(市) 否でも応でも手前の躰で百圓拵て貰ひたい
(照) 是が初めての事ならば丸々出来ずば半分でも都合して上様けれど今度は貸て上られない路用位は上様から明日帰ツて下さんせ
(市) 路用位な端した金を貰つて何で帰る物だ親の為に娼妓に成のは世間に幾らも有る事だ嫌と云やアこつちも意地づく何でもかでも娼妓にして百圓取らにやア帰らねへ
(弁) お前も嫌では有ふけれど実は負債が多いので裁判所や勧解へ出訴されて毎日出るが其所はでもだが席上で多弁付てる弁山故舌に任して云訳すれど借た物なら返せと云此一言に限りでも出さうと思ふ大困難お前が百圓貸て呉ねばたつた一人のお袋が路頭に迷はにや成ないからうんと云て娼妓に成金を貸て呉んなせヘ トお照思入有て
(照) 折角のお頼みだが今日斗りはおつかさんお断申升よ
(市) 何断るとは
(照) お前が真事に身を持て席を出すと云事なら出来ない乍も都合して上まい物でもないけれど弁山さんと二人して今日は芝居翌日は涼み栄曜に遣ふ金の為苦界へ此身を沈るのは私や嫌で厶り升
(市) 嫌とは何の事だ云して置ば能かと思つて口巾ツてへ事を云やアがるな弁山さんを亭主に持たも手前の仕送が足りねへからだ五圓や十圓の端した金で芝居や花見に行れる物か能考へて見やアがれ
(弁) 私だつて十九や二十の若イ者と云ではなし互ひに天窓の兀た同士斯うして夫婦に成つたのも云はゞ茶呑友達だ中々お前が送た金で芝居や納涼に行様なそんな浮た中ぢやアない
(市) 喰に困ツて借に来たがどうでも金は出来ねへか
(照) お気の毒だが今度斗りは
(弁) 夫ぢやア出来ないと云なさるのか
(照) どうぞ堪忍して下さいまし トお市思入有て
(市) 金が出来にやア東京へ帰る事の出来ねへ体身でも投て死なにやア成らねへ迚も死ぬなら爰で死んでお照に恥をかゝせて遣らう トお市手拭を首へ巻己が手に引張ハツト云弁山是を留
(弁) コレおつかアあぶねへ何を為るのだ
(市) 首を締て己らア死ぬのだ
(弁) 死ぬのは何時でも死なれるから短気な事を仕なさんな
(市) イゝヤ留ずに放して下せへ
(弁) 是が留ずに居られる物か トお市首を〆様とするを弁山留る事宜敷
(照) 何でお前は其様に早まつた事を仕なさんす
(市) 誰しも惜ひ命だけれど死ねと覚期を極たのは手前が己を殺すのだ
(照) 私がお前を殺すとは
(市) 頼みを聞て呉ねへからこんな不孝な奴はねへ ト大きな声をする
(弁) 是さ是さ大きな声を仕なさんな
(市) アゝ親殺しだ親殺しだ トお市わざとどたばた騒ぐ是を弁山留るお照も留て
(照) コレかゝさん何が恨みで此様に私に恥をかゝせ被成んす
(市) 金を貸て呉ねへからアゝ親殺しだ親殺しだ ト奥よりおみち太助半次出てお市を留
(みち) アモシお袋様まアまアお静に被成まセ
(太) 親殺し親殺しと大きな声を被成升が
(半} 御廻り様のお耳へでも這入た日には大騒動
(市) イヤイヤ何でもかでも爰で死ぬのだ留て下さるな
(みち) 隣近所へ聞へましても内の外聞に成升から
(太) お静に被成て
(三人) 下さりませ
(市) イヤイヤ何でも死ぬのだ死ぬのだ
(みち) そんなに死ぬ死ぬと仰有い升が自分で首が〆られ升か
(市) エ
(太) 締られるなら己が手に
(半) 首を締て御覧じませ
(市) ムゝ ト詰る 弁山思入有て
(弁) コレコレおつかア自分で死なれぬ事もないが爰の内へ厄介を掛るのが気の毒だ死ぬのは止めにしたが能イ
(市) ヲゝ然うだ然うだ娘に恥はかゝせたいがお内儀さんへ済ないから爰で死ぬのは止めにして是から宇都宮へ連て往つて娼妓にせう
(弁) 夫が何より上策だ
(市) サア己と一所にあゆびやアがれ トお市お照の手を取引立る此時奥より以前の千右衛門出てお市を留
(千) 様子は奥で委しく聞た立騒がずと静にしねへ
(市) 貴君がお留被成るなら無理にとは申升ぬが親を蔑にし升から
(千) 定めて腹も立ふけれど私が何うか捌ふからまア不肖して呉んなせへ
(弁) 折角旦那が立入て不肖しろと仰有るからまアおつかア静に仕ねへ
(市) 静に仕様けれど金が出来ねへ其時は
(千) 夫りやア心配仕なさんな金は己が出して遣る気だ
(市) エ夫では貴君が
(両人) 其金を
(千) 後共云ずそれ百圓 ト千右衛門懐から十圓札で紙に包し百圓を投出し遣るお市取上
(市) 夫では是を下さり升か
(弁) 是で命が助り升
(両人) エゝ有難ふ厶り升 ト頂く お照思入有て
(照) 夫を貴客に出させては
(千) ハテ大した金と云ぢやアなし纔百圓斗りの金決て心配仕なさんな
(照) 夫りやさうでも厶りませうが未だまア纔十日斗り深ひお馴染でもない事故
(千) 仮令三日でも懇意に成りやア己等ア百年も馴染の気だ今此金を出さなけりやア留に這入た甲斐がないから黙止て己に出させなせへ
(照) 何とお礼を申さうか有難ふ厶り升 ト礼を云おみち不審に思ひ
(みち) 田舎と違つて東京の繁花な土地のお客様お馴染浅ひお照さんへ百圓お上被成るとは
(太) 多くのお金を取扱ふ
(半) 銀行勤めのお方故
(市) 何にしろ能旦那に御贔屓に成るはお照の仕合就ては親の私迄大仕合で厶り升
(弁) 若此金の出来ぬ時は我持前の張扇で叩き立様と思つたが旦那が綺麗なお捌できざを云ずに帰られ升
(千) お前方も爰の内へ今夜泊ると有るからは後に寛くり咄しませう
(市) 何れお礼に改めて
(両人) 上り升で厶り升
(太) イヤお二人様は此間に
(半) お湯へお這入被成ませ
(市) 思はぬ汗をかきましたから
(弁) ドレ一ぱい這入ませうか
(太半) サアお出被成ませ ト宿場騒ぎに成りお市弁山太助半次奥へ這入る 跡千右衛門お照おみち残り
(みち) お照さん能旦那へお礼をお云ひよ
(照) 誠に貴客のお蔭故危ひ難義を遁れまして有難ふ厶り升
(千) 何其礼には及ばねへ旅藝者には人の能お前が可愛さうだから百圓出して遣たのだ
(照) お馴染薄ひお前様に百圓と云大金をお気の毒で厶り升
(千) 其日稼の人ならば百圓は大金だが銀行抔へ勤る者は何十萬と云金を取扱ふが商売故百や二百は端した金決て心配仕なさんな ○ 併し気の毒だと思ふなら百圓替りにお前から貰ひたい物が有る
(照) エ百圓替りに貰ひたい物とは
(千) そんなに恟り仕なさんな望と云はお前の掛てゐる其指輪を己に呉んねへ
(照) こんな麁末な指輪をば
(千) 唯お前のを貰ひたいのだ
(照) お望みならば上ませう トお照指輪を抜て千右衛門へ遣るおみち思入有て
(みち) 是はどうか二番目の筋に成さうで厶り升な
(千) そんな株は自分にないのだ
(照) 夫はそうと三年跡迄東京に居りましたが旦那は何地らで厶り升
(千) 己等の内は茅場町だ
(照) 茅場町は薬師様の御近所で厶り升か
(千) 直薬師の裏門前だ
(照) ヲヤ私もあすこに居りましたが
(千) エ
(照) 何番地で厶り升
(千) 慥四十六番地だ
(みち) 夫では旦那宿帳と
(千) 何違やアしねへ筈だが ト千右衛門困る思入下手障子を明以前の東右衛門陸兵衛奥蔵出て来り座舖を間違し思入にて
(東右) イヤ是は御免被成いましツイ坐敷を間違ました
(陸) 飛だ麁相を
(三人) 仕ましたな
(みち) イエ同じ間取で厶り升から御尤で厶り升 ト東右衛門千右衛門を見て
(東右) ヤ其所に居るのは ト千右衛門見て
(千) ヲゝお前は伯父御か
(東右) ヤレ千太か能く達者で居たな
(陸) 何千太と云は誰だへ
(東右) 苫作の伜の千太よ
(陸) 立派な男に成たから
(奥) 途中で逢ては分らねへ
(照) 夫では旦那は皆さんと
(みち) 御懇意で厶り升か
(千) ヲゝみんな以前の馴染の衆だ
(みち) お馴染と厶り升なら是へお出被成ませ ト是にて三人捨ぜりふにて能所へ住居
(千) 伯父さん初め皆さん方お替りも厶りませずお目出たふ厶り升
(東右) 四五年此方便りがないから死んだかと思つて居た
(千) 在所に居升お袋へ久敷便りをしませなんだが替る事は厶りませぬか
(東右) 夫ぢやア手前何にも知らぬか
(千) 何知らぬかとは ト誂への合方に成り
(東右) 替る共替る共大替りに替つたは
(千) 内を出てから商売用で九州路から長崎へ長らく往て居りましたからさつぱり存ませなんだが替りましたと仰有るのは
(東右) 其方の親父は正直だつたが所謂前世の因果とやら便りに思つた一人の其方は内を出て仕舞爺々い婆アで漸々と其日を送つて居た所生れ付ての酒好が病ひの元で中気に成り口はもどらず体は利ず田畑の仕事も出来ぬ上薬の代は段々溜り煎じ詰ツた痩世帯明日の米にも困る様に成たを近所で不便に思ひ米や麦や味噌醤油野菜物迄送つて呉れ人の恵みで生て居たが定業故か私が所へ礼に来るとて二本杖で出たさうだが転びでも仕た事か常願寺の池へ落遂にはかなく死んで仕舞た
(千) 親父が死だと云事は東京へ出た村の人に立ながら聞ましたがそんな死に様を仕た事は咄さぬ故に知りませなんだ
(陸) 寺から知らして来た故に村中往つて池から引上直に内へ連て行たが早桶を買銭もなく
(奥) せう事なしに味噌樽の古いのへ死骸を入れさし荷ないで寺へ持込みお経をざつと上て貰ひ
(東右) 私が施主で葬たが可愛さうなは手前のお袋跡に残つた婆ア殿中気病でも亭主故杖に思つて居た所非業な死をばした後は明ても暮ても泣て計り千太が居たならば居たならばと云ても返らぬ旅の空生死の程も知れざれば喰ふに困ると無為き浮世に倦たか苫作殿が百ケ日の晩に裏の井戸へ飛込んで是もはかない死をしました ト泪を拭ひ乍いふ
(千) スリヤお袋も死んだ親父の百ケ日の其晩に井戸へ身を投死にましたか二人が二人水で死ぬとは何たる因果な事成るか ト愁ひの思入
(陸) ほんに爺様も婆ア様も村の日待に寄合ても噺の末はこなたの噂親を捨て家出なし憎ひ奴だと口には言へど目には一ぱい泪を持
(奥) 達者で居るなら逢ひたいと明暮言て居られたが到々逢ずに非業な最後斯う云立派な男に成たを一目見せて遣りたかつた ト此内始終千右衛門はお照へ憚り幾加減に云て呉れば能と云こなしの内親の死だ事を聞愁ひの思入
(東右) 然うして見れば以前と違ひ立派な形をして居るが今は何をして居るぞ
(千) 在所に居ては一生涯大した出世も出来ませねば東京へ出て人に成らうと古郷を跡に五年跡伝手を求めて銀行へ奉公に這入ましたが此身に運の向時節か重役衆の気に入りて段々出世仕升故爰ぞ人に成る所と勉強をした功顯れ今は二等手代と成り商法上で九州路へ久敷行て居りましたが今度帰りました故五周間の暇を貰ひ親父はなく共お袋へ出世を噺して悦ばせ様と参つた甲斐も情なひ今は世に亡き二人の衆モウ一年早かつたら逢れましたに残年な手当にに持て参つた金も手向の金に成りましたか果敢ない事で厶り升る ト泪を拭ひ宜敷思入
(陸) ほんに其方が立派に成たを二人の衆が見たならば何様に悦ぶ事だらうに
(奥) 一年遅ひばつかりに墓場へ行ねば逢れぬ両親惜ひ事を仕ましたな
(東右} シテ今聞ば銀行の二等手代に成たと云が千太手前が勤て居る其銀行は何と云銀行だ
(千) 只銀行で厶り升
(東右) 三井を初め所々に有がさうして所は何所であるぞ
(千) 茅場町で厶り升
(東右) シテ何番の銀行だ ト千右衛門ぐつと詰り
(千) 三百三十三番で厶り升 ト東右衛門は心得ぬ思入にて
(東右) 近頃諸県に銀行が大層出来たと云事だがまだ日本全国中に二百番は出来ぬ筈だが
(千) エ トぎつくり思入
(東右) 三百三十三番とは
(千) サア是は近所に山王の御旅所が有る故に山王の猿にかた取り三百三十三番で厶り升
(東右) 夫は珍らしい銀行だな
(陸) わし等は田舎者だけれど新聞が大好故凡東京の小新聞はあらかた買て読で見るが
(奥) まだ広告の其内にも三百三十三番と云銀行はまだない様だ
(東右) 何にしろ出世して折角親に逢ひに来たに二人共死んで仕舞逢ひに来た詮がないな
(千) イヤ思ひ掛なく伯父さんに爰でお目に掛り升れば親に逢たも同じ事直に是から帰ツても能ひ訳でも厶り升が爰迄参りましたから墓参りを仕て参りませう
(東右) 手前が行て花を上水を手向て遣つたらば草葉の蔭で悦ぶだらうは夫に付ても二人が死んだ跡が仕様がなく手前は出た限便りはなく死んだか生たか分らぬから此衆達共相談して一先内を畳んで仕舞家財を売た其金は永世無縁にならぬやうみんな寺へ納めて仕舞た
(千) 何から何迄伯父さんの厚ひお世話に成りまして有難ふ厶り升 ト此時おのぶ出て来り
(のぶ) 松島のお客様御膳をお上り被成ませ
(陸) 酒肴も出来ましたかな
(のぶ) ハイお燗も出来て居り升る
(奥) 夫では一杯やりませうか
(千) まだ伯父さんに色々とお聞申たい事も厶り升が
(東右) こつちも云たい事が有るがどうで一ツ旅籠屋故後に又咄しませう
(みち) 左様なればお客様
(東右) イヤおやかましう厶りました ト米山甚九に成り東右衛門陸兵衛奥藏おのぶ付て下手へは入る跡見送り千太伸を仕様として心付俯き悒ぎ居る思入
(照) 今お聞申升ればお前さんの親御さんはお二人共お亡なり被成嘸本意ない事で厶りませうな
(みち) 傍でお聞申さへお気の毒で厶り升る
(千) 若い時には親達に少しは苦労も掛たから生涯楽をさせやうと態々金を持て来た其甲斐もなく死だと聞たら俄に胸が塞がつて心持が悪く成た ト悒ぐ思入
(照) さう云時には憂さ晴し一ト口どうで厶り升
(千) イや酒もあんまり呑たくない ト此時階子の口よりおしの出て来り
(しの) モシ旦那様夜る芝居へお出被成ましとて車屋の徳殿がお迎ひに参りました
(千) ヲゝ迎ひに來たか ○ ト千太思入有て 是りやアうさ晴しに芝居へ行ふか
(みち) 夫が宜しふ厶りませう
(千) お照お前も一所に行な
(照) アイお供致しませう
(千) おかみさんカバンを出して下さい
(みち) 畏りました
(照) そんなら旦那
(千) 芝居で憂さを晴らさうか ト端唄に成り千太思入有てお照おみちおしの付て階子の口へ這入る合方に成り下手より東右衛門陸兵衛奥藏出て来り階子の口を覗き思入有て
(陸奥) 東右衛門殿
(東右) 二人の衆 ト合方きつぱりと成り
(陸) 千太が立派な形に成たは
(奥) どうも合点が行ないな
(東右) ヲゝ行ぬ共行ぬ共第一合点の行ぬのは三百三十三番と云銀行は聞た事がない
(陸) 多分口から出任せに
(奥) 嘘をついたと思はるゝ
(東右) 子供の折柄手癖が悪く十五の年に懲役に行てから猶悪く成り色々意見も加へたが糠に釘で少しも利ず再び赤い仕着セを着たが夫から国にも居られなく上州辺から東京へ行たと云噂を聞たが夫限り便もない事故大方終身懲役に成た事と思つて居たが思ひ掛ない今夜の出会
(陸) 見れば立派な形をして爰の内に十日程
(奥) 藝者を上て逗留するは
(東右) どうで堅気な金ではあるまい
(陸) 掛り合にならぬ内
(奥) 明日早く立ませう
(東右) 翌日は兎もあれ今宵の内も ○ ト此内上手の障子を明以前の弁山伺ひ居て扨は盗人で有たかと云思入東右衛門是を見て恟りなす弁山障子を〆る 成程譬の ○ トうなづくを道具替りの知らせ 壁に耳だ ト三人思入宿場騒ぎにて此道具廻る
本舞台上寄に三間高二重岩組後ろ同く画心の岩組にて見切 平舞台上の方柱迄岩の張物で見切 下手谷の心にて杉の梢を見せ能所に飛込の穴向ふ遠山夜るの遠見 日覆より杉の釣枝都て明神山の躰 道具中程より時の鐘山おろしにて道具留るト合方山颪にて下手より宿屋の若イ者弓張提灯を持紺看板の中間手紙を持出て来り舞台にて
(中間) コレ宿屋の若イ衆おらが旦那は暮合から何所へお出被成たのだ
(若者) 此山向ふの大信寺と云禅寺の和尚様は學文が能く詩作が能く分て書を能書ツしやるので旦那様に逢ひたいと内の主人が檀家故和尚様に頼まれて今日お連申たのだ
(中) 夫では大方詩や歌の面白くない咄だらう今日のお倶を遁れたのは大仕合を仕ました
(若) 今又お前が旦那様に急に逢ひたいと仰有るのは
(中) 東京から別配達で郵便が来ましたからどんな御用か知れぬ故直にお届け申たいのだ
(若) 一躰お前の旦那様は官へお勤め被成るのか
(中) イや旦那は勤をさつしやれば能イ月給が取れるさうだが窮屈な事が嫌ひ故金を貸て気楽に暮らし今度も松嶋見物から帰り掛で厶り升
(若) 併しさうして遊歴を被成は何よりお楽み結構な事で厶り升
(中) 是と云のも内證が能イ故
(若) 兎角世界は金の事だ ト時の鐘
(中) やあの鐘は
(若) モウ十時だから急ぎませう ト時の鐘合方山颪にて貳重を上り上手へ這入る 平舞台上手より二人乗の人力車へ以前のお照千太を乗せ車夫の徳是を引以前の松跡押をして出て来り
(千) ヲイ徳公爰で能から下してくんな
(徳) 芝居へお出被成ませぬか
(千) 芝居は是からモウわづか此山道を越斗りどうで車は引ないから爰から下りて歩行て行ふ
(照) 何だか気味の悪い所爰へ下りずと芝居迄乗て行ふぢや有りませんか
(千) 何此山を越斗り強い事はありやア仕ねへ
(徳) 何ならお供を致しませうか
(千) イや送るにやア及ばねへ ○ ト是にて車より千太お照下りて千太小サなカバンより紙包の札を出し 是で帰て呑がいゝ ト徳取て
(徳) 毎度有難ふ厶り升 ○ コレ松や旦那へ御礼を申せ
(松) 旦那有難ふ厶り升
(千) 大きに夜道を御苦労だつた ト徳思入有て
(徳) モシ旦那おねだり申ては済ませんが最う少し下さいませぬか
(千) 何モウ少し呉と ○ ト思入有て わづかな所も夜道故五十銭遣つたらば云ぐさを云ふ所は有るめへ
(徳) 夫りやア只のお客なら結構過た酒手だが江戸で名高い銀行の旦那にしては少ねへ酒手だ ト不肖不肖に云
(照) コレ徳殿お前酒にでも酔たのかへ毎日旦那にお貰ひ申に何でそんなきざを云のだ
(徳) 云ても能から云ひ升のさ ト松聞兼し思入にて
(松) 是サ兄貴何を云のだ此間から仲間内でも能旦那に可愛がられると皆んなが羨ましがつて居るのだ
(徳) 手前達の知ツた事ぢやアねへ今に酒手を貰つて遣るから黙止てそつちへ引込で居ろ
(松) 何だか己にやアさつぱり読ねへ
(千) コレ通り一遍の旅先だが斯うして毎日乗るからは吝嗇な事をする時は東京の恥に成るから出る度毎に酒手を遣り手前達に兎やかうと云れる事は仕ねへ気だが己に酒手を増て呉とはどう云訳が有て云のだ ト是にて徳ずうずう敷
(徳) ヲイ千兄イお前己を忘れたか
(千) 何忘れたとは ト少し凄みのある誂の合方に成り
(徳) 五年跡に窃盗でお前と一所に佃に居た野州生れの徳次郎だ
(千) エ トぎつくり思入
(徳) 間もなくおらア満期で出たから見忘れたかも知れねへが外役先でお前と一所に一ツ鎖に繋れて土を担いだ事があるぜ
(千) 夫ぢやア手前も窃盗で
(徳) 赤い仕着せも二三度着やした
(松) コウ兄貴あの旦那も五年跡懲役に成たのか
(徳) やつぱり己と同じ科で佃で苦役を仕なすつたのだ
(松) 見掛に寄らねへ物だなア
(徳) 南部の袷に博多の帯無地御召の単羽織にゴウルの時計麦藁シヤツポ何所へ出しても銀行の立派な手代と見える拵へ虚か真事か灰吹にかけて分せき仕たならば能か悪いが知れやせう
(千) 世間に幾らも似者が他人の猿似で有る物だそりやア人違ひだぜ
(徳) お前の目からは小僧子と思つてごまかす気だらうが仮令三日が間でも一ツ飯を喰たからは人違をする物か是が六十七十なら耄ろくをする事も有るがまだ二十五にならねへ己だ何で顔を忘れる物だ併しお前は忘れたらうこつちはけちな窃盗に差入物はろくには来ず巾の利ねへ無籍者満期で出たから古郷へ帰り上州路から奥州かけか細い腕で車を引のも云はゞ此身のぼく除だ一里引てもわづか六銭長ひ銭の取れねへのも内職にする荒かせぎ(=手ヘンに、ツクリ上下}で太く短く栄曜をせし為一晩宿場へ友子を連兄いと云れて呑る程お前も苦役をした体器用に金を呉んなせヘ ト屹度思入千太悔しき思入有て
(千) 手前達に威されて酒手を遣るもこけな訳だが些とこつちに目的が有から今夜は云なりに酒手を遣るから早く帰れ ト千太カバンから十圓札を出して遣る徳取て
(徳) 兄貴十圓かへ
(千) 夫で不足を云ならばこつちも意地だ一銭でも余計な銭は遣らねへぞ ト千太急度云
(徳) 只貰ふ金だから不足と云わけはねへがモウ十圓も貰てへのだ
(松) コウコウ徳兄イ能加減に云はねへかわづか宿から十町斗り堅気の人なら二銭の酒手だ十圓貰らやア五圓づゝ単物の一枚も着られる訳だ
(徳) ヱゝ目先の見えねへ事を言へ己が腕で取る金だ誰が山にする物だ
(松) 夫ぢやア半分呉れねへのか
(徳) 二十銭か三十銭手前に遣りやア澤山だが壱圓やるから黙止て居ろ
(松) 只の酒手と違ふから半分呉れざア七分三分三圓己に呉んねへな
(徳) ヱゝ余計な口をきゝやアがるな
(松) 夫だと云つて一圓はあんまり酷い相場だから
(徳) 手前がぐづぐづぬかすのでこつちの咄の気が抜たモウ十圓と云てへのだが仕方がねへ不肖を仕せう
(松) 長追すりやアぼろよりか棒が出るから了簡しろ ト徳莨入へ札を入
(徳) 夫ぢやア千太 ○ イヤ酒手を貰へば旦那様
(千) 口数きかずと早く行ケ
(徳) お照さん宜敷お礼を ○ トお照へ思入松車を上
(松) 今夜は是で切上て
(徳) 宿場で愉快を極込うか ト時の鐘合方にて徳松車を引て上手へは入る此内お照気味の悪き思入にて
(照) サア旦那気味の悪ひ所故少しも早く参りませう
(千) そんなにせくには及ばねへ些とお前に咄しが有るからまア寛くりとするが能
(照) 何のお咄しか存ませぬがこんな所でなさらずと内でお噺し被成まセ
(千) 内ぢやア辺りの人目が有から云ひてへ事も云れねへ
(照) 夫だと云つて気味の悪い人通のない此山中私や怖くてなりません
(千) 其怖がるのも尤だ昼と違つて日が暮れば往来稀な明神越どんな咄しを仕様共狐狸の其外は聞人のねへのが己が山だ
(照) 然うして私に噺しとは何な事で厶イ升 ト千太思入有て
(千) 長く云にも及ばねへが色に成て呉んねへな
(照) ヱゝ ト恟りする時の鐘少し凄みの合方に成り
(千) そんなに驚く事はねへ先刻も聞て居たらうが久敷逢ねへ親達に逢ふと思つて東京から松島へ行一人旅お前の様な美しひ藝者がある共白川へおくれて泊つた奥州屋一人で酒も味くねへから相手に口を掛た時ハイ今晩はと座敷へ来たお前の顔を見て恟り弁天と云名を取た宿一番の女だと聞た其晩襟元へぞつと染込む夜嵐に少し風気を幸ひと長逗留を仕て居たも実はお前を手に入たく無駄な金も遣たが旅藝者には珍らしひ金で転ばぬ気性故さつき貰つた此指輪をお前と一所に居る心でのろい奴だが指へはめ明日は一先松島へ往つて帰りに口説ふと思つて居たも親達が死んだとあれば行のは無駄是から直に東京へ帰る土産に前借を返して連て行てへのだ定めて嫌でもあらうけれど惚られたのが身の因果うんと云て呉んなせへ
(照) 見る影もない旅藝者を夫程思つて下さい升は有難ふは厶り升がお前さんのお心に随はれない訳あればどうぞ免して下さいまし
(千) 何な事か知らねへが随はれぬと云訳は
(照) サア其訳は
(千) 夫を聞にやア思ひ切られぬ トお照思入有て
(照) 何をお隠し申ませう私しや東京に言交した男が厶り升る故
(千) 夫りやア男も有だらうが浮気家業をするからはそんな野暮を云ねへで旅の恥はかき捨とおれが云事を聞て呉んねへ
(照) 浮気家業はして居れど末は夫婦に成らうと云神へ誓ひを掛た中親の頼みに仕方なく浮世を忍ぶ文字摺の此奥州の白川へ前借をして来た私旅の藝者は十が八九お客の座敷で曖昧な事をするのが常なれど男がある故今日迄もそんな噂のない藝者御贔屓にして下さい升なら色気なしで御座敷計り御酒の相手に私をばどうぞ呼んで下さいまし
(千) 大方そんな言訳と思つて今夜夜芝居へ行と云て連出したは否応いはさぬ己が狂言さつき仕馴ぬ立役に成て百圓出したのも能ある筋だとお前の体へ金で恩を着せる為嫌でも有ふがお袋に娼妓にされたと諦めて堅ひ心を引て取夢と思つて濡の場を一幕見せてくんなせへ
(照) 夫程迄に仰有るなら幸ひ調度お袋が参つて居れば相談して明日御返事致しませう
(千) モウ此土地に足を留明日迄待ちやア居られねへ大概己が身の上も人の咄しで悟つたらうが今迄大きな螺を吹銀行手代と云たは偽り実はおらア盗人だ
(照) エゝ ト合方きつぱりと成り
(千) 何もそんなに恟りして迯るにやア及ばねへ盗人だとて同じ人間ぎやつと生れて其時から人の物を我物と盗む心は有りやアしねへ元はみんな堅気だが多くは酒と女と賭博身の詰りからする盗み初手は明巣のちよつくら持初犯で纔な懲役から二犯三犯段々と功を積んで強盗迄修行して来た松島千太どうで始終は天の罰運も佃で終身懲役爰で手前を助た所が一等減じる訳でもなけりやアかばつて遣るにも当らねへから夫で爰へ連出したのだ網に掛つた鳥同様最う羽根たゝきもさせやアしねへ
(照) 夫んなら何うでも此場にて
(千) 是程云ても迯る気か
(照) サアそれは
(千) サア
(照) サア
(両人) サアサアサア
(千) コリヤ手短に縛り上引さらつて行にやア成らねヘ ト尻を端折お照を手荒く引居る
(照) アレ誰ぞ来て下さいまし誰ぞ来て下さいまし
(千) エゝ喧しひ静にしやアがれ トお照振切て迯るを立廻て引付手拭で縛らうとする此時上手へ以前の徳案内して探索方両人捕縄を持松附て出て来り咡やき合ツカツカと出て
(菊) 松島千太
(両人) 御用だぞ ト千太見て
(千) ヤコリヤ探索が
(菊) 此間から盗賊と白眼だ眼に違ひなく
(幸) 慥な證拠が上つた上は遁れぬ所だ
(両人) 覚悟なセ
(千) さう知られたら仕方がねへ察の通強盗で其名を知られた松島千太汝らが縄に掛る物か
(菊) 明神山へ追込だ
(幸) 得物を逃して
(両人) 成る物か ト両人組付を振解く此内お照うろうろするを徳とらへ
(徳) お照さんは己等と一所に
(松) 早く此方へ迯なせへ ト徳松お照を引張上手へ這入る
(千) 扨は徳めが訴人をしたな
(菊幸) 知れた事だ ト時の鐘誂へ鳴物に成り両人千太へ縄を掛様と云捕物の立廻り宜敷有て千太カバンを引さらひ下手谷間の切穴ヘ飛込山颪烈敷
(菊) ヤア崖から谷へ飛込だが下は巌石尖き谷間
(幸) 多分は岩で体を打くたばつたに違ひねへ
(菊) 何にもせよ谷へ下り
(幸) 彼奴が行衛を
(両人) 捜して呉ん ト山颪ばたばたにて両人下手へ逸散に這入る矢張ばたばたにて上手よりお照迯て出て来るを徳松追掛来て徳お照を引付
(徳) ハテ聞訳のねへお照さん今夜千太が夜芝居へお前を連て行と云は深ひ巧みの有る事と悟た故に酒手をゆすり探索方へ密告して今の難義を助たのだ千太の替りに己達の此処で自由になつてくんねへ
(照) 危ひ所を助つてヤレ嬉しやと思つたらやつぱりお前も同じ事私を手込に仕様と云のか
(徳) そりやアお前が弁天と云れる顔のする事だ二目と見られぬ女なら自身も科を着る事だ誰が手込にする物だ
(松) 兎やかう云間に芝居のはね人通のねへ其内に
(徳) 些も早く
(松) ヲゝ合点だ ○ ト山颪早き合方にて両人お照を引倒す此時本鉄砲の音する三人恟りしお照は俯伏に成る坂の上より望月輝羽織まち高袴高帽子短銃を持出て来り此内徳は打れはしないかと体を見る事有てホツトして輝を見付 扨は今のは
(両人) 貴様だな
(輝) 理不尽致す人力車夫警察官へ引立やうか
(徳) そんな威しをくふ物か ト輝へ立掛る輝短銃を差附
(輝) 命はいらぬか
(徳) ヤアこいつは叶はぬ
(松) 迯ろ迯ろ トばたばたにて両人向ふへ迯て這入るお照顔を上
(照) 何方様で厶り升か危ひ所をお助け下されエゝ有難ふ厶り升る
(輝) お照嘸こわかつたらうな
(照) エ然う仰有るは ○ ト誂灯入の月を下しお照輝を見て ヲゝ望月様
(輝) コレ ○ と押へる木の頭 アゝいゝ月だな ト月を見上るお照は手を合せ嬉しき思入誂の合方山颪にて拍子幕
貳幕目 明石浦漁師町の場 同 播磨灘難風の場
一島蔵妹おはま | しう調 |
一 同倅岩松 | 菊之助 |
一 齋坊主西念 | 左伊助 |
一 漁師喜多六 | しやこ六 |
一 同藤助 | 八平治 |
一 明石の島蔵 | 菊五郎 |
一 漁師磯右衛門 | 團右衛門 |
一 同沖蔵 | 荒治郎 |
一 同波六 | 尾登五郎る |
一 在所かゝおくろ | 小半治 |
竹本連中 |
本舞台三間の間平舞台 向ふ真中柿木綿の暖簾口 上手押入戸棚、是へ三尺の仏壇阿弥陀の掛物仏具宜敷誂の位牌供物を備へ、燈明を付、此前へ手習机、此上へ香炉線香を乗せ下手鼠壁上の方一間折廻、障子家躰いつもの所丸太の門口竹簀戸、下の方粗朶垣後ろ海の遠見、都て播州明石浦漁師内の躰。上手に西念墨衣斎坊主の拵へ、続て喜多六藤助着流し漁師の拵へ、おくろ同じく女房の拵へ、四人共膳に向ひ真中に磯右衛門白髪鬘漁師の親仁にて住居。下手にお濱島田鬘漁師の娘の拵、お鉢を傍へ置盆を持給仕をしてゐる。岩松若衆鬘着流しにて香炉へ線香を上てゐる。此見得波の音濱唄にて幕明く。
(磯右衛門) 西念さんは職務だが皆の衆は忙しいのに能う来て下すつた
(藤助) 外と違ツて不断から親仁どんには一方ならず何やかや世話に成れば
(喜太六) 仮令職業を休んでも此方の内の法事故馳走に成りに来ましたのぢや
(お黒) 取分け私はおなぎさんと心安くした中故何事置ても来ずには居られぬ
(お濱) おくろさんのお蔭にて御膳拵が早く出来嘸姉さんも草葉の蔭で喜んで厶りませう
(西念) 今日の膳部の塩梅は妹御がさつしやつたか誠に味ふ出来ました
(濱) 何の味い事が厶りませう仕馴ぬ私の掴み料理何も彼も不塩梅で上りにくう厶りましたらう
(藤) 西念さんの云るゝ通中々味ひ事で有た
(喜) 爰ら近所の煮売屋ではこんな料理は所詮出来ぬ
(磯右) イヤ爰ら近所にないと云はチト誉過さつしやいませう
(黒) イヤイヤ酢合の胡麻ではなく能塩梅で厶りました
(西) トキニ膳を引て下さいませぬか
(濱) ハイ只今引升で厶り升
(黒) ドレ手伝て上ませう ト皆々捨台辞にてお濱お黒膳を片付岩松前へ出手をつき
(岩松) 今日は何方も母様へ御供養を下さいまして有難ふ厶り升る
(西) 最前から佛前へ絶ず線香上さつしやつて殊勝に回向さつしやるのはテモ感心な事ではある
(藤) 外の者が千遍の念佛を唱るより
(喜) 血の余りの岩松が十遍唱る念佛が
(黒) おなぎさんはどの位嬉しひ事か知れぬわいナ
(磯右) 今更云ても返らぬが此岩松がお袋は生れ立素直にて知ツての通の倅故無理な小言も云たれど遂に一度逆らうて喧嘩をした事もなければ仮令にも云小舅のお濱を邪魔にした事なく真身の如く可愛がり取分わしを大事にして痒ひ所へ手が届く程能う世話をして呉た申分のない嫁を惜ひ事を仕ましたわいの ト磯右衛門泪を拭ふ ──以下・割愛──