人物
安城豊次郎
水島喜多雄 弟
かよ子 異母妹
寺島某 学者
別荘番藤七
一
初夏の頃の夜明け前。芝生の庭園。その一端にある日本建の別荘の雨戸はまだ鎖されてゐる。庭園の一方は山の方へ接してゐる。豊次郎( 四十近い風采のよろしき男。寝衣の上に羽織を着てゐる。) 山を下りて、何か考へてゐる態で、プラプラ庭へ入つて来る。やがて、ステッキの先きで雨戸を叩きながら声を掛ける。返事がない。彼れは部屋の方ヘ耳を留めて、再び山の方へ行かうとしてゐるところへ、喜多雄(三十余歳で、兄よりも健康らしい。同じやうに羽織を着てゐる)が入つて来る。
豊次郎は弟を見て、驚いた表情をして見詰める。
喜多雄 (努めて懐つこさうに)兄さんは朝が早いと聞いてゐたが、こんなに早いとは思はなかつた。
豊次郎 お前はいつ此方へ来たのだ? (詰問するやうに云ふ)
喜多雄 昨夕遅く来たのさ。あんまり遅かつたから此方へ知らせなかつたのだ。来ると直ぐに、一人でビール二本ばかり飲んで寝たら、熟睡したものだから、今朝は馬鹿に早く目が醒めてね。寝床でもぐもぐしてゐても詰らないから、久振りに大磯の朝景色を見ようと思つて出て来たのだが、田舎はいゝね。
豊次郎 朝景色を見るにやまだ早過ぎらあ。あの通り月が照つてゐて、まだ夜のうちぢやないか。……お前は朝色を見るよりおれの様子を見に来たのだらう。おれが狂人にでもなつてゐるかと思つて。
喜多雄 いやさういふ訳ぢやないよ。(努めて何気ない顔をして)今朝兄さんがこんなに早く起きてゐようとは思ひも染めなかつたんだからね。(雨戸の方を見て)かよ子はまだよく眠つてるんだらうな。
豊次郎 あゝ。朝早く目を醒ますのはおればかりだ。今朝はあいつに夜明け前の田舎の静寂な景色を見せようと思つて、さつき声を掛けたのだが、なかなか目を開けない。しかし、眠れるうちは眠らせといた方がいゝのだらうよ。
喜多雄 かよ子も此方へ来てから丈夫になつたんだらう。此間僕に寄越した手紙には、大変元気のいゝ快活なことを書いてたよ。兄さんだつてこの前よりも血も血色がよくなつてゐるぢやないか。
豊次郎 血色なんぞどうだつていゝさ。……おれはお前にだけ話したいと思つたことがあるんだから丁度よかつた。家の者が起きるまで、此処で、夜明けの景色を見ながら話すことにしようか。
豊次郎が芝生の上に無造作に腰をおろすと、喜多雄も同じやうに腰をおろす。
喜多雄 僕は煙草を持つて来ればよかつたのに、忘れたよ。兄さん持つてゐないのかい。
豊次郎 おれは一週間ばかり酒も煙草も止めてるんだ。コーヒーや茶も成るべく飲まないことにしてゐる。飲食物や外界の刺戟なんかでおれの心を濁らされないやうに用心してるんだ。さうして、本当のおれの心を磨ぎ澄まして考へてることをお前に話すのだから、お前も煙草なぞを吸はないで聴いて呉れろよ。……おれが何を云はうと、真面目に聴かなきやいけないぜ。
喜多雄 それは真面目に聴くがね。(強ひて笑ひを洩らして)しかし、膝の上に両手を突いて畏まつて聴くには及ぶまい。芝生の上に寝ころんでゐても、心が真面目ならいいだらう。(芝生の上へ足を伸して) さつき家を出た時にや頭がボンヤリしてたが、冷つこいスガスガした空気を吸つたために、頭のドン底までハツキリして来たよ。かういふ時には何だかいゝ話が聞かされさうだね。
豊次郎 (暫らく瞑想的な表情をしたあと)お前はかよ子のことをどう思ふ?
喜多雄 かよ子のこと?
豊次郎 僕は花が咲いてゐた時分に此処へ来て一ケ月あまりもかよ子と一しよに暮らしてゐるんだが、かよ子は今のうちに死んだ方が、当人のためにも幸福だし、社会のためにもいゝと思はれるんだがね。お前はさうは思はないか。
喜多雄 (吃驚して〉出抜けにそんなことを云はれちや、僕も面喰つちまふ。かよがどうかしたのかい。脅かさないで、詳しく訳を聞かせてお呉れよ。
豊次郎 あいつは丙午の生れだからね。俗に丙午の女は男を喰ふといふぢやないか。
喜多雄 何だい。真面目な話つてそんなことなのか。(安心したやうに)お母さんがかよにケチをつけるために、時々そんなことを云つてたが、そんな旧弊なケチのつけ方ぢや、われわれに反感を起させるばかりだからね。
豊次郎 そりや、母親はかよ子に難癖をつけるためのいゝ口実にさう云つたのだらうが、おれの云ふ丙午の意味はさうぢやないよ。……おれやお前は、かよ子がたとひ死んだ親父の罪悪の記念だつたにしても、たつた一人の妹として可愛がつて来たので、かよ子もおれたちを手頼りにしてゐるんだが、あの子はこの先き生きてゐても幸福ぢやあるまいよ。
喜多雄 そんなことはないさ。容貌は悪かないし、人間も馬鹿ぢやないし、相当な家へ縁づかせれば、幸福に世が渡れるだらう。寺浜さんも、此間いゝ縁談の口があるやうなことを云つてゐたよ。僕たちは、一人の妹のために、理想的の男子を捜して花々しく結婚させるんだね。しかし、僕等が傍からおせつかひをするまでもない。かよ子は、ちやんとした当てがあるんぢやないかな。まだ子供だと思つてるうちに、案外なことがあるものだからね。…… 兄さんは此方へ来てから、何か感付いたことがあつて、さつきのやうなことを云つたのぢやないかしらん。
豊次郎 お前はいつものやうに世間的のことを云つてる。百人のうち九十九人までが云ひさうなことを云つてる。女が年頃になりや結婚させる。結婚させれば幸福になる。それに、十九にもなつたら、自分の好きな男のことを考へてるかも知れないなんて。さういふ風に手軽く事を極めてしまつていゝのなら、おれも頭を痛めて物を考へたりなんかしないよ。……かよ子の胸の中には、まだ恋の芽は少しも萌してゐないね。それはおれが断言するよ。
喜多雄 いくら兄さんが炯眼でも、その点はどうだかな。僕には信じられないからね。しかし、かよの胸中が白紙のやうに純白で、まだ男子の影で汚れてゐないといふのなら結構ぢやないか。
豊次郎 今日の日までは、あれの胸の中が純白でも、明日の日何処で誰れを見つけて、俄かに恋の芽が萌えださんとも限らないのをおれは恐れてるが、おれの恐れてるのはそればかりぢやないんだ。かよ子は一人前の女になるとともに、おれやお前にも復讎しようとするのに違ひないよ。生みの母親の霊魂があれの腹の中には完全に宿つてるんだが、それが今はまだ眠つてゐても、いつ目を醒ますかも知れない。いや、今目を醒ましかけてゐるやうにおれには思はれるんだ。
喜多雄 何のための復讎? 死んだ親爺に対する怨みを僕等にむくいるだらうと云ふのかい。女つて執念深いから、かよの母親は死ぬる間際に、どんな恐ろしい遺言をしたかも知れないが、あの子は、怨みや憎みはどんなものだか、皆目分らないやうな女に生れついてるんだからね。時々、お母さんに邪慳な仕打をされても、いつも無邪気に受けてるぢやないか。(ふと気づいたやうに調子を変へて)こんな下らない話はもう止さうよ。僕は久振りで此方へ来たのだから今日は三人で愉快に遊ぶことにしようぢやないか。僕はこゝで朝餐を御馳走になるから、飯を食つたら三人で千畳敷へでも登つて見ようぢやないか。僕は土産に苺のいゝのを持つて来てるから、あとで届けよう。
豊次郎 お前は悠長な顔をしておれに気休めを云つてる。かよ子が手紙で何か云つてやつたために、お前はおれの身体を気遣つて来たのに違ひない。隠さなくつてもいゝよ。……おれの頭は狂つてやしないから安心しろ。不断よりも頭の中がハツキリしてる位だよ。たゞ、かよ子は早く死んだ方が、当人のためにも、傍の者のためにも幸福だと、おれが思つてるのを、あの子が多少感付いて、お前にそんな手紙を送つたのだらう。
喜多雄 なに、かよが此間寄越した手紙には、無邪気な事が書いであつただけだよ。あんまり退屈だから、兄さんに五目並べを教はつたとか、朝早く起きて、曳網を見に行つて、鰺を買つて来て、自分で料理をして食べたが、まだピクピク動いてる魚に庖丁を当てるのは気味が悪いから、一度で懲り懲りしたとか、その時兄さんが鰒を一尾漁夫に貰つて来たけれど、食べずじまひで打遣つたとか、さういふやうなことが書いてあつただけだ。
豊次郎 それだよ。かよ子もいくらか感付いてるんだな。(独言のやうに云ふ)
喜多雄はふと、兄に対して不安な感じを起して、思はず後退りをする。藤七 ( 水島家の別荘番、五十歳ぐらゐ) が裏木戸の側へ現はれ、此方を覗く。夜は明けかかる。
豊次郎 何のためにおれがかよ子を連れて曳網を見に行つたと思ふ? 何のために鰒を貰つて来たと思ふ?
喜多雄 何のためだか、僕はそんなことまで研究しやしないがね。 ( 立上つて ) さあ、もう家の中へ入らうぢやないか。東の方が薄明るくなつた。何処かで雨戸の開く音がしてる。
豊次郎 まあ、もつと其処にゐて、おれの話すことを聞け。まだ誰れも起きやしないよ。おれの真面目な考へを打明けられるのはお前一人なんだから。……かよ子を生かして置けば、あれのためにもおれ達のためにも決してよくないんだよ。おれは長い間考へ抜いた挙句にさう思つてる。 (重々しく云ふ)
喜多雄 (笑ひ笑ひ)だつて殺す訳にや行かないでせう。
二人は足音を聞きつけて、そちらへ目を向けると、藤七が入つて来る。豊次郎は吃驚する。
喜多雄 (怪訝な顔して)おれに急用でも出来たのかい。
藤七 いえ、別段用事があつて参つたのぢや御座いません。少し気にかゝ ることが出来まして、旦那様はどちらへいらつしやつたのかと思ひまして。
喜多雄 気にかゝることつて何だい。おれが家を出た時にや、お前はまだよく眠つてたやうだが、急に何か異つたことがあつたのかい。
藤七 戸倉さんの御別荘の裏で、若い女が殺されてゐるんで御座いますよ。隣の婆さんが、御嶽さんへ朝詣りに出掛ける途中で見つけて、近所で大騒ぎになつてゐるんです。喉を締められたらしいんですが、女は土地の人ぢや御座いません。東京か浜の可成りに身分のいゝ人らしいんですよ。
喜多雄 それは大変だな。しかし、その人殺しがおれと関係がある訳ぢやあるまい。(口軽く云つたが不愉快を顔に現はす)
藤七 それは旦那様の御存じのことぢや御座いませんが、……その婦人の方が男の人と一しよに、昨夕夜汽車で東京の方から来たのを見たといふ者が御座いますから、若しも旦那様もその人たちと同じ汽車にお乗りになつて、顔を知つていらつしやるのぢやないかと思ひまして。
喜多雄 知らないね。お前はいゝ加減なことを人に話しちやいけないよ。 (叱るやうに云ふ)
藤七 はい。…… 私も久振りに死人の顔を見ましたが、死人なぞ見るものぢや御座いません。怨めしさうな目をして、鼻汁を滴らして。……旦那様はあんな者を御覧にならない方がよろしう御座いますよ。
喜多雄 誰れが死人なぞ見に行くものか。……あゝさうだ。お前は、昨夕おれが持つて来た苺の箱を直ぐに此処へ届けて呉れ。
藤七 承知いたしました。(会釈して出て行く)
喜多雄 あいつは、慾に掛けちやすばしこいくせに、人間が少し抜けてるから、馬鹿なことを云つていけないよ。
豊次郎 藤七はおれたちの話を立聞きしてゐたのだよ。油断が出来ないよ。
喜多雄 聞かれて悪いことを云つてやしなかつたから、それは関はないがね。
豊次郎 いや、さうでない。おれ達はこゝで、大切な秘密を話してゐたのだから。
喜多雄 (はじめの快活さを失つた人間らしく)兄さんは独りでいやなことばかり考へて、それを僕に押付けるからいけないよ。僕には誰れに対しても秘密なんかありやしない。
豊次郎 おれはこの頃、頭のなかが澄んでるから、いろんなことが分るんだ。かよ子の身に附纏つてる運命も、おれには分つてる。お前が藤七の云つた死人の話を気に掛けてることも、おれにはちやんと分つてる。
喜多雄 僕は気に掛けてやしないよ。僕が夜汽車で大磯へ来たことや、今朝早く山の方を散歩したといふことが、ちつとも死人と関係があるんぢやないからね。
豊次郎 それはさうさ、おれはお前よりももつと早くから山の方を散歩してゐたんだよ。御嶽さんの側の暗い森の中も確かに歩いた筈だ、……しかし、喜多雄、お前は、ある女を殺さうと思つたことはなかつたか。(弟を見詰める)
喜多雄 ないねえ。男だつて女だつて、人間を殺さうなんてことは、僕は一度も思つたことはないよ。そんな質問をされるのは今がはじめてだよ。兄さんは、なぜ、真面目らしくそんな不愉快な事に拘るんだね……(空を見上げて) 僕は久振りに夜明けの景色を見るんだが、兄さんも詰らない考へに凝らないで、このよく澄んだ空でも見るといゝ。
豊次郎 お前に教へられなくつたつて、澄んだ空なら、おれは毎日よく見てるよ。日の出も日の入りも、此方へ来てからよく見てるよ。……だけど空を見たつて、朝日を見たつて、おれの考へが変る訳ぢやない。……お前は本当に、女でも男でも殺さうと思つたことはなかつたか。憎いから殺したくなるばかりぢやない、その人間の幸福のためにも殺したいと思つたことはなかつたのか。
喜多雄 ないよ。僕は虫けらだつて殺すのは嫌ひだ。
豊次郎 臆病だねえ。……おれは藤七が知らせに来た女殺しが、お前の所為だと極つても、そんなに驚きやしないよ。
喜多雄(顔を顰めて)馬鹿云つちやいけない。(兄の側をとかくうち離れて)兎に角家の中へ入ることにしよう。
喜多雄は雨戸の側へ寄って、かよ子に声を掛ける。その間に、豊次郎は庭から外へ出て行く。
喜多雄 ぢや、此方へ出ておいでよ。散歩したきや一しよに散歩してもい
ゝから。
喜多雄は兄のゐないのに気づいて、あたりを見廻す。そして、却つてそれをいゝ
こととしたやうな態度で、空を見上げたり口笛を吹いたりする。そこへ、かよ子(十九歳
の可愛らしい女、不断着のまゝ)が、横手から入つてくる。
かよ子 豊兄さんはゐないの?(不思議さうに見廻す)
喜多雄 あゝ。
かよ子 さつき、何だか、二人で面白さうな話をしてゐたわね。わたし、話声を聞いて喜い兄さんにちがひないと思ふと、直ぐに出て来て、お話の仲間に入れて貰ひたかつたのだけど、髪が壊れてゐたから、大急ぎで直してゐたのよ。わたし、寝相が悪いから、毎晩頭をぐちやぐちやにしてしまふの。
喜多雄 ぢや、お前はさつきから起きてて、おれたちの話を聞いてたのか。
かよ子 えゝ、よく聞取れなかつたけれど、今日は三人で箱根へ遊びに行かうつて、そんな相談をしてゐたでせう。わたし昨夕の夢見がよかつたと喜んでゐたのよ。
喜多雄 ( 笑つて )うまいこと云つてらあ。真顔でそんなことを云つて。かよもずるくなつたなあ。
かよ子 では、わたしの聞きちがひだつたかしら。若し聞きちがひだつたと分つたら、わたし大変に失望してよ。
喜多雄 そりや、事によつたら、箱根へでも修善寺へでも連れてつてやらないこともないがね。お前は身体の加減はい ゝのかい。
かよ子 えゝ。わたし東京にゐた時よりも太つたでせう。千畳敷くらゐなら一息で登れるわ。
喜多雄 えらいなあ。……此方へ来てからは、気を使ふやうなことはないんだらうね。兄さんと仲よく暮らしてるんだらうね。
かよ子 えゝ、それは、……豊兄さんと喧嘩を一度したこともないわ。わたしの養生にもよく気をつけて呉れるのよ。
喜多雄 さうか……(腑に落ちぬやうな態度をする。そしてあたりを顧みて)此間のお前の手紙に、兄さんは暗いうちに家を出て外を歩廻つたり、六ケ敷い顔して独りで考へ込んだりしてゐると書いであつたが、それだけのことで、兄さんの不断の様子に格別変つたところはないんだらうね。
かよ子 えゝ。(暖味な調子で答へて)死んだ義姉さんのことでも思出してるんぢやないかと、わたしには思はれるんだけど、訊いて見たことないのよ。それで、兄さんが欝いでる時には、わたし側へ寄付かないでソツとして置くのよ。……義姉さんがいくらいゝ人だつたにしても、死んだ人のことを考へるのは詰らないぢやないの。(はじめの無邪気に似合はない皮肉な調子で云ふ) わたしも、豊兄さんの気持が伝染したのか、此方へ来てからは、どうかすると、死んだ人のことが考へられたりするんですけど、それはいけないことだと思つて、成るべく忘れるやうにしてゐるのよ。
喜多雄 かよちやんも死人のことを思出すのかい。いやだねえ。お前のやうな、これから世の中の幸福ばかり味つて行ける女が、死人のことなぞ思出して、大切な純潔な心を濁らすつてことがあるものか。
かよ子 嘘にでもさう云つて、力をつけて貰へると、わたしうれしいわ。豊兄さんと喜い兄さんとは云ふことが反対なのね。
喜多雄 なあに、兄弟だから性分はよく似てるんだよ。上べは違つてゐるやうに見えても、腹の底は同じことなんだよ。(感慨を籠めて云ふ)おれはね、他家の家の人間になつてゐて、偶にしか会はないから、お前にもよく分らないのだらうが、おれは兄貴と同じやうに欝ぎ込んでることもあるんだよ。
かよ子 いやなことねえ。……ぢや、喜い兄さんも死んだ人のことを考へてるの? でも、水島の義姉さんは丈夫で生きてゐるんだし、兄さんのお友だちで死んだ方もないやうだし、誰れのことを考へ出すのかしら。
喜多雄 おれが物を考へて欝ぎ込むと云つたつて、死人のことと極めなくつてもいゝよ。お前も今朝は少し変だ。(ふと厳かな顔付をして、稍ゝ声を潜めて)それよりも、兄貴の精神状態はどうも調子が外れてるやうだから、お前は気をつけなきやいけないぜ。兄貴の云ふことや挙動に変なところがあつたら、一々おれに知らせるやうにして呉れ。
かよ子 豊兄さんの精神状態がどうかしてゐるの? 今朝此処で会つた時の様子が変だつたの? (物に驚いたやうに)それで、豊兄さんは今何処へ行つたんでせう。
喜多雄 御嶽さんの近くで、女が締殺されてるさうだから、それでも見に行つたのだらうよ。
かよ子 女が殺されてる?……嘘でせう。兄さんはわたしを脅かさうと思つて。
喜多雄 本当だよ。疑ふのなら見て来るといゝ 。
かよ子 本当なら、わたし恐ろしい。(恐怖に震へながら空間を見て)……それは誰れが殺したんでせうか。殺した男は誰れだか分つたんでせうか。
喜多雄 加害者は誰れだかよく分らないだらうが、お前はなぜそんなに怖がるんだ。お前やおれに関係がある訳ぢやあるまいし。
かよ子 でも、わたし、急に恐ろしい気がしてならないの。……殺された女の人の顔が見えるやうだわ。首を絞められるのはつらいでせうね。同じ殺されるにしても、首を絞められるのと、刃物で喉を突かれるのと、どちらが苦しいんでせう。
喜多雄 おれはまだ殺された経験がないから分らないよ。……そんな役にも立たないいやなことを考へる必要はないね。……あの車の音は牛乳屋だらう。おれの持つて来た苺に牛乳をかけて直ぐに食べることにしようぢやないか。……穏かないゝ朝だ。
喜多雄は努めて快活を装つてさう云ひながらも、不安な思ひが、隠しきれないやうに微見えてゐる。藤七、風呂敷で包んだ苺の箱を提げて入つて来る。
喜多雄 御苦労だつたな。そこへ置いて行けばいゝよ。
藤七 (苺の箱を下へ置く。そして、かよ子に目をつけて挨拶して)お嬢様は今度は一ぺんも爺やの処へお遊びにいらつしやいませんね。此方の旦那様も寄つて下さらないし、何かお気に障つたことがあるのぢやないかと、爺やは心配してゐたので御座いますよ。
かよ子 (返事するのが懶いやうに)わたし、この頃は滅多に外へ出掛けなかつたのよ。
藤七 爺やは此間、太田の御隠居様が東京へお引上げになる時、緋鯉や金魚を頂いてお池へ放しときましたから、今日でも御一しよに見にいらつしやいまし。お気に召したのがあつたら買つて頂きたいと思つてるので御座いますよ。
喜多雄 金魚は食べられないから、売つて金にして一杯やらうと思つてゐるのかい。かよちやんは用心してゐないと、詰らない金魚を爺やから高く売付けられるかも知れないよ。
藤七 へゝゝ。旦那様は直ぐにわたくしの申上げることをケナしておしまひなさると思ひましたから、旦那様にはお願ひしないで、お嬢様に高く買つて頂かうと思つてるんで御座います。あの金魚は、御覧になつたら、屹度お嬢様のお気に召すだらうと思はれます。
喜多雄 爺やも商売の時機が悪かつたよ。もつと早かつたら買つて貰へただらうが、かよちやんは、今は金魚なんぞ見たかあないんだ。
藤七 どうかなすつたので御座いますか。(かよ子を見詰めて)さう云へば、お顔の色もお悪いやうだ。
かよ子 (煩ささうに、顔を外して)わたし、どうもないのよ。そのうち爺やの金魚でも緋鯉でも見せて貰ふわ。
藤七 どうぞ御覧なすつて下さいまし。(帰りかけてまた後戻りして、喜多雄に向つて)さつきの女殺しの話で御座いますがね。伊豆屋の平吉、が怪しい男を見たと云つて居ります。顔はよく見なかつたけれど、変な男が御嶽さんの方から下りて来るのを見たさうで御座います。どうも訳がありさうに思はれたから、突立つてあとを見てると、も一人の男が同じ道を駆けて来たさうです。それで、殺し手は一人ぢやあるまい、二人でやつた仕事だらうと、平吉は申して居ります。物取りぢやあるまいし、遺恨があつてやつたことで御座いませうが、若い女一人を、男が二人がかりで絞殺すなんてあんまりむご過ぎるやうに、わたくしには思はれます。
喜多雄 さうだね。(空々しく云ふ)……お前は早く帰つて庭をよく掃除しといて呉れ。今日はみんなを誘つて行くから。
藤七は出て行く。
かよ子 爺やは何だつてあんないやなことをわたしたちに話して行くんでせう。
喜多雄 人殺しの話なんか、誰でも話したがるものなんだよ。本当に、いゝ加減な想像なんだよ。平吉といふ男が見たつて云ふのも当てにやなりやしないさ。
かよ子 わたし、此間豊兄さんに誘はれて、御嶽さんの裏山へ登つたのだから、あの辺のことよく知つてるわ。山の上からは松原越しに海が見えて、そりや眺めがいゝのよ。……殺された人は、御嶽さんへ行くまでは、自分がどんな目に会はされるかちつとも知らなかつたでせうのに。わたし、殺された人が殺した人に随いて何も知らないで、あの坂を上つてつた様子が、今目の前に見えるやうなの。邪慳に絞殺されるくらゐなら、自分で海へ身を
投げるとか、汽車の線路へ飛込むかして、早く死んぢやつた方がよかつたでせうのに、その女の人はなんにも気がつかなかつたのね。
喜多雄 それは極まつてるさ。殺されると知つて誰れが随いて行くものか。(また不安な思ひに襲はれたやうに)折角暇をこしらへて保養に来たのに、朝から縁起が悪いよ。兄貴ばかりぢやない、かよまでもどうかしてゐる。(雨戸の方を見て)おさよはまだ寝てるのか。もう起したらいゝぢやないか。早く雨戸でも開けたらいゝだらうに。いつまで庭に立つてても為様がないから、家の中へ入つて、気分を変へて、その苺でも食べることにしようぢやないか。
かよ子 (兄に促されても家の中へ行かうとはしないで)此方にはお母さんがいらつしやらないから、下女も寝たいだけ寝かせるんです。
喜多雄 此方にはお母さんがゐないから、お前も気が楽なんだらうね。(ふと優しく云ふ )
かよ子 えゝ。(邪気なく云つて)それは、時々は退屈して東京の恋しくなることもあるし、何かしら詰らない気持のする時もあつたのだけど、大抵はスーツとしたやうな気持で毎日を暮らしてゐたのだわ。…… でも、それは今朝までのことなの。兄さんに呼ばれて比処へ出て来てから、わたしはじめて気がついたの。今までわたし無智だつたのね。豊兄さんは死んだ義姉さんの事を考へて欝いでるのだとばかり思つてゐたんですもの。
喜多雄 それは、兄貴の様子はちよつと変なやうにおれには思はれるんだが、おれがさう云つたからつて、お前は兄貴を怖がらなくつてもいゝよ。おれが余計なことを云つたために、お前に心配をさせて済まなかつたね。
かよ子 いゝえ。余計なことぢやないの。(あたりを見廻して)わたし黙つてゐられないから思つたこと云つちまふわ。豊兄さんの知つてる女の人がこの土地にゐるらしいのよ。暗いうちに外へ出て行くのは、その人に会ふためなんでせう。それで、しよつちうわたしに何か隠してるやうに気兼ねをしてゐたのは、そのためだつたの。わたしに悟られやしないかと、豊兄さんがビクビクしてゐる訳が今やうやく分つたんです。……だから、わたし怖くなつたの。爺やの話を聞いて、恐ろしいことが考へられてならないの。わたしの思違ひならいゝんだけれど。……喜い兄さんも、豊兄さんの精神状態が今朝は変だつて、さつきさう云つたわね。
喜多雄 兄貴にそんな秘密があるつてことは、おれは今まで知らなかつた。(信じかねる風)
二人は陰欝な顔して、めいめい思ひに沈む。やがて、
喜多雄 しかし、平吉が見たつていふ男は、兄貴ぢやあるまいよ。……おれも詰らない心配をしていた。……いくら兄貴の頭が変になつても、そんな馬鹿なことがあるものぢやない。
かよ子 男が二人通つたのを見たといつたわね。
喜多雄 偶然其処を通つたために嫌疑を受けちやたまらないね。
豊次郎が入つて来る。二人に対して疑惑の目を放つ。
喜多雄 何処へ行つてゐたの?
豊次郎 戸倉の別荘の側まで行つて来た。死骸には薦が掛つてたから顔がよく見えなかつた。
喜多雄 何だつてそんなものを見に行つたのだい。かよは非常に心配してゐたよ。
豊次郎 お前が何か余計なことを喋舌つたんぢやないか。(詰問するやうに)
喜多雄 僕は余計なことなんぞ云やしないよ。(ドギマギしながら)
豊次郎 だつて、かよ子はあの通り震へてるぢやないか。あんなに熟睡してゐたものが、三日も眠らなかつた人間のやうな元気のない顔をしてゐるのに、おれが気がつかないと思つてゐるのか。(怒りを含んだ声で言ふ)
喜多雄 それは僕の所為ぢやないよ。
豊次郎 ぢや、おれがちよつと出て行つた間に、お前の外の誰れかがやつて来て、かよ子に何か云つたのか。
かよ子 わたしどうもしてやしないの。兄さんこそ気を鎮めて聢りしてゐて下さい。
豊次郎 おれこそどうもしてゐやしないよ。喜多雄が何か云つたか知らないが、誤解しちやいけない。
かよ子 (外の方を気にして)こんな処にいつまでも立つてゐちやいけないから、家の中に入りませう。わたし、今雨戸を開けるわ。
かよ子は顧み勝ちに、豊次郎の方を気にかけながら出て行く。
豊次郎 (弟に向ひ顔を和げて)お前は本当にかよ子に何も云はなかつたのか。おれはあの子の生きてるうちは、無駄な心配はさせまいと思つて、此方へ来てからも、おれの思うてゐることは微塵も外へ現はさないやうにしてゐたのだ。それに、無邪気な相が消えてしまつた。一日でも一刻でも時を延してゐるうちに、人間の心は不意に邪念が芽を吹いて来るものだが、一度芽を吹いたが最後、この頃の草や木のやうに、どしどし蔓つて繁つて行くのだ。昨日までは、苦しみの種から生れてゐながら、苦しみを感じなかつたかよ子も、今はそれを感じだしたのだ。あれの母親はおれたちの母親に虐殺されたやうなものだからな。
喜多雄 虐殺だなんて考へるのは、兄さんの頭がどうかしてるんだよ。親爺のしたくらゐなことは世間に有りがちのことなのだからね。……かよは兄さんが、死んだ義姉さんの事か何か考へて毎日欝いでると云つて心配してゐたのだ。
豊次郎 おれはかよ子だけには、おまきのやうな苦労をして死なせたくないよ。おれやお前の敵にしときたくはないよ。……おれは今、気にかゝつたから死人を見に行つたのだが、加害者は昨夕のおそい汽車で大磯へ来たのだと、みんなが噂をしてゐる。
喜多雄 それが僕にでも関係があるのかね。(反抗するやうに云ふ)
豊次郎 御嶽さんの辺は、人殺しをやるのにいゝ処だ。おれはさう思つて、毎朝散歩してゐたのだ。
喜多雄 兄さんはどう思はうとも、僕はあすこが眺望がいゝから、行つて見ただけだ。かよもさつきあそこは眺めがいゝと云うてゐたよ。……しかし、朝からこんないやな話をしてゐても為方がないから、僕は一先づ家に帰つて出直して来ることにしよう。
喜多維が行きかけると、豊次郎はふと手をのばして引留める。喜多雄はその手を振放して行かうとする。そのはずみに、二人は芝の上にころぶ。
二
二三十分後。前の幕の別荘の一室。食卓を囲んで、兄妹三人が苺を食べてゐる。かよ子の居室らしく、鏡台や箪笥などあり、西洋画の額が掛つてゐるが、それは、観客の目には見えない。
かよ子 この苺は随分おいしい苺ね。(匙を持つたまゝ、喜多雄の方を見る)
喜多雄(夢から醒めたやうに)うん。うまいだらう。和泉屋へ頼んで特別にいゝのを選択させたんだ。
豊次郎 この土地にはろくな果物がないんでね。(平静な態度で云つて、皿の苺を見てゐる)
かよ子 水島の義姉さんでもおたまちやんでも、誰れか東京から遊びに来てくれればいゝと、わたし此間うち独言のやうに云つてゐたのよ。だから、今朝喜い兄さんの声を聞くと飛上るやうに悦しかつたのだけれど、出抜けに脅かされちやつたので、スツカリ悄げたの。藤七がいけないのよ。いけ好かない爺やだわ。死人があらうと人殺しがあらうと、係合ひもないわたし達の処へ、朝つぱらから知らせに来なくつてもいゝぢやないかね。
喜多雄 さうだとも。あいつ他所へ行つても余計なおしやべりをしてゐるに違ひない。(それを気遣つてゐるらしく忌々しさうに云ふ)
豊次郎 藤七のおしやべりくらゐは構はないが、お前は後暗いことはないのか。(声を稍ゝ低めて)おれ達の前ではもう秘密にするには及ばないよ。さつき草原に転んでた時に、おれはお前の心臓に触つて、激しく鼓動してゐるのを知つたのだ。お前の胸の底には、何か異常な事を実行したあとのやうな震へが残つてゐるのを、おれはちやんと感じてるのだ。お前はおれだけには隠せないよ。二人は幼い時から一しよに育つて来た人間だもの、おれにお前の心の中が読めないでどうする……昨日までのかよ子になら、世間の者の恐ろしがるやうなことは決して聞かせたかないのだけれど、今はかよ子も、恐ろしいことが自分の周囲に起つてることを感付いてるのだから、今更おれ達がかよ子の目に蓋をしてゐようとしたつてもう遅いんだ。だから、お前も、遠慮しないで正直に打明けて見ろ。おれは決してお前を非難しようとは思つてゐない。軽蔑もしない。都合によつたら、おれが責任を背負つてお前の身代りになつてやつてもいゝと思つてるのだ。
喜多雄 僕の身代りになると云つて、何のために身代りになるんだね。(自分の胸をおさへながら)僕はさつき芝生に転んでた時、柔かい草が身体に触つていゝ気持だつたよ。あの上をいつまでもコロコロと転んでゐたかつたくらゐだ。動悸も打つてやしないし、手も震へてやしないよ。
豊次郎 お前はまだおれのこの目を眩ましてゐようと思つてるんだな。(詰責する語調)ぢや、かよ子に訊いて見ろ。
喜多雄 (強ひて笑ひを浮べて)おれの顔付が不断に比べてそんなに違つて見えるか。かよの目でよく見て公平に判断して呉れないか。
かよ子 (よく見て)さう云へば、喜い兄さんも今朝は変ね。目付が凄いぢやないの。
かよ子は、喜多雄を見た目を転じて豊次郎の方をぬすみ見して、それから、額を見上げて、ひそかにおびえる。
豊次郎 かよもいよいよ気がついたのだな。お前があの親爺の肖像がよく出来てると云つて此処へ掛けた時から、おれは気遣ひでならなかつたのだ。親爺は一生のうち二人も三人もの人間を殺してゐるのだよ。そのうちの一人は、西南戦争で殺したので、親爺自身も自慢をして人に話してゐたのだが、生物を殺したのは何のためだつて同じことだ。殺す生すは戦争の時に限つたことはない。(厳然として )喜多雄、お前は、戦争でもない時に親爺と同じことをやつたな。他所の人聞はどうか知らないが、親爺の一族は、一生に一度は親爺と同じことをやらなければ生きてゐられないと、おれは此間から考へてゐたよ。
喜多雄 親爺と同じことをやつたのならやつたでいゝから、兄さんは心を鎮めて下さい。
豊次郎 馬鹿、おれを狂人とでも思つてゐるのか。おれはこの通り落着いてゐるぢやないか。おれが狂人なら、親爺も狂人だつたのだ。お前も狂人だ。…… かよ子でも喜多雄でも、おれに何事でも訊ねて見ろ。それで、おれの返答が間違つてゐるかゐないか試験をして見ろ。この頃のやうに澄んでゐるおれの頭には、分り過ぎるぐらゐ何でも分つてるつもりだ。
かよ子 お父さんはいゝ方だつたのよ。だから、わたしもお父さんの肖像を此処に掛けてゐるんだわ。夜もお父さんに守つて貰つてるから、安心してよく眠られるやうにと思つて。
豊次郎 親爺の肖像が魔除けになると思つてゐたのか。人間にいろいろな苦しみを与へた根本の神様を、人聞が崇拝してゐるやうに、かよ子は自分に苦しみの種を授けてくれた親爺を有難い神様にして奉つてゐるのか。……馬鹿だなあ。
豊次郎、ふと立つて、肖像画を取りおろす。そこへ、姿は見えないで、藤七の声だけが、庭の方から聞えて来る。
藤七 旦那様、至急の御用がある方がいらつしやいました。此方へ御案内いたしましたが、此処へお通し申しませうか。旦那様は直ぐにお家にお帰りになるでせうか。
三人はふと目を見合はす。喜多雄は慌てゝ立上つて、「ぢや、ちよつと行つて来よう」と独言のやうに云つて出て行く。
豊次郎 (肖像画を下に置いて)彼奴はおれよりも先きに実行したのだ。 (歎息する)
かよ子 喜い兄さんは何を実行したのよ。
豊次郎 何を実行したか、お前も分つてゐるだらう。この苺はおれのところへ手土産に持つて来て呉れたのか、外の者と一しよに食べた滓だか分らないのだ。
かよ子 ぢや、爺やの話してゐたことが喜い兄さんに関係があるつて云ふの。
豊次郎 あいつ今は、その事で調べられるのだが、言逃げるすべはあるまいよ。……あいつ、おれよりも先きに実行したのだ。(次第にかよ子を見詰める)
かよ子 (おどおどしながら)だつて、喜い兄さんのやうな快活な面白い人が、そんな恐ろしいことをする訳はないと、わたしには思はれてよ。水島の家に入つてからは、今まで幸福な日を送つてゐるのぢやないの。
豊次郎 世間の出来事の訳が一々お前なぞに分つてたまるものか。筋の通つた道を踏んで人間は日を送つてゐるんぢやないぜ。……お前は喜多雄のしたことを手はじめにこれから怖い世の中を見なければならないね。
かよ子 わたし、兄さんが怖い。(座を立つて庭へ下りようとする)
豊次郎 いよいよおれが怖くなつたのか。おれはお前を幸福にしてやらうと、いつも思つてゐたのだ。
庭へ下りようとするかよ子を、豊次郎は手を伸ばして引留める。
かよ子 兄さんは、わたしをどうするの?……堪忍して頂戴。
豊次郎 お前はまだ誰に対しても悪事をしたことのない女だ。あやまるには及ばない。
かよ子 だから、兄さんは私を虐めないで下さい。
豊次郎 おれが虐めるものか。まあ、此処へ座れよ。
かよ子は手を執られてゐるので、逃げようとしても逃げられないで、おどおどしながら、肖像画の側に座る。
かよ子 わたしお父さんの側に坐つてゐてよ。
豊次郎 おれたち三人は、その親爺に生みつけられたのだからな。よくその肖像を見るといゝ。人間が神に似てるやうに、三人が親爺にどれだけよく似てゐるかを見るといゝ。
かよ子 わたし今から海へ行つて見たいのだけれど、兄さんは行きたくない? (隙間を見てゐるやうに目を左右に向ける)
豊次郎 まあ、も少し此処に坐つてゐろ。おれを恐れなくてもいゝよ。おれはたつた一人の妹の真実の幸福を考へてゐるのだ。
豊次郎はやさしくさう云ひながら、出抜けにかよ子を後から抱へて、喉を締めようとする。かよ子は微かに声をたてて藻掻きながら抵抗する。豊次郎は女の苦しさうな顔面を見ると、知らず知らず手をゆるめる。すると、かよ子は猛烈な抵抗をはじめて、兄の手から脱出するや否や、鬼女の如く兄の喉仏を圧へつける。豊次郎は脆くも気絶する。かよ子はよろよろと食卓に凭れて俯伏しになる。そこへ、喜多雄が入つて来る。二人の様子を怪しんで、かよ子の肩を叩いて、
喜多雄 おい、どうしたのだ?
かよ子 (目を見上げて)わたし、兄さんに殺されかけたの。何の罪もないのに兄さんに喉を締められかけたのです。わたしどうもしたのぢやないの。兄さんがどうなつてゐてもわたしの所為ぢやないの。兄さんは気が狂つてゐるんです。(_奮した調子で、しかしあたりを憚つてゐるやうに云ふ)
喜多雄 お前はよくそれで無事だつたな。兄貴は頭が変だと今朝から思つてゐたのだ。
かよ子 兄さんの気の狂つてゐることを、あなたはよく知つてゐるでせう。
喜多雄は気絶してゐる豊次郎の様子を側へ寄つて薄気味悪さうに見る。
喜多雄 兄さんは狂人だかどうだか、おれには分らない……。兎に角、早く医者を呼んで来なきやならないよ。
かよ子 若しも豊兄さんが息を吹返したら、わたしまたどんな目に会はされるか知れないから此処にゐられないわ。
喜多雄 だつておれ達が打遣つといて逃出す訳には行かないよ。
かよ子 ぢや、お医者と一しよに藤七をも呼んで、豊兄さんがあばれだしたら、取鎮めて貰はなきや恐いわよ。それに、喜い兄さんは、豊兄さんの狂人だつたことを、よく説明して下さいね。
喜多雄 おれにはよく分らん。とに角直ぐに医者を呼んで来させよう。
喜多雄が出て行くと、かよ子は、怖々豊次郎の側へ寄つて、警戒しながら、兄が気絶してゐるか否かを検査する。そして、あたりを見廻しながら、兄の喉をおさへつける。脆くも息の根の絶えてゐるのを認めたあとで、鏡の前に寄つて、乱れた髪を直しにかかる。喜多雄が入つて来る。
喜多雄 兄貴は寝てるんぢやないか。気が変になつたからつて気絶する訳はあるまいよ。
かよ子 さうかも知れないわ。兄さん、側へ寄つてよく見て御覧なさい。わたしは怖くつて寄りつけないわ。
喜多雄 (兄の側へ寄つて、その死相を注意して)変だなあ。昂奮して心臓麻痺でも起したのかしら。
かよ子 さうかも知れないわね。(落着いた顔して振向いて)豊兄さんはもういやなことを考へてゐないで幸福ね。あんなことばかり考へて日を暮らしてるよりは、気絶でもしてゐる方が幸福だつてことが、わたし今やうやく分つてよ。
喜多雄 お前はどうしてそんな呑気なことが云つて居れる?
かよ子 さつき、急用があつて兄さんに会ひに来た人は誰れだつたの?
喜多雄 おれはスツカリ忘れてゐた。お前も知つてゐる琴平の寺浜さんが、偶然此方へ来てゐておれを訪ねて来たのだ。兄貴の様子があたりまへなら、此処へ通さうと思つて、外に待たしてゐるんだが、こんな風ぢや駄目だな。
かよ子 お通ししたらいゝぢやないの、わたし、異つた人に会ひたくつてたまらないのよ。
喜多雄 かういふ時だ、寺浜さんの意見でも訊いて見るんだな。
喜多雄が奥へ入つて行くと、かよ子は鏡面を見入つてクリームなどで顔の磨きに取り掛る。庭の方から藤七が入つて来て、「旦那様」と声を掛ける。かよ子、聞耳を立てて、不安な態度で座を立つ。外を覗いて、
かよ子 爺やだつたの? まあいゝ所へ来て呉れたわね。此方の旦那様はさつき不意に目を廻してお倒れになつたのよ。上へ上つて御様子を見ておくれな。
藤七 それは大変だ。お顔へ水でもぶつかけたら、息をぶつ返しなさるかも知れない。(上へ上つて豊次郎の側へ寄つて)こりや、あたりまへの気絶ぢやねえな。
かよ子 たゞの気絶ぢやないつて。(驚いたやうに云ふ)
藤七 お医者様に見て貰うまでもない。わたくしが一目見てさへ分りまさあ。全体旦那様はいつの間にこんなにおなんなさつたんでせう。お嬢様御存じないんで御座いますか。
かよ子 わたしはちつとも知らないわ。朝御飯の支度に台所の方へ行つてる間に、兄さんはそんなになつたのよ。……早くお医者さんが来てくださればいゝのに。
藤七 昼間に外から人が入つて来て御主人を絞殺して行くつてことはない訳だ。まさか、昨夕の女殺しぢやあるまいし。(独言のやうに云つて)お嬢様、こりや、お医者様を呼ぶさきに、警察へ届けなきやなりますまいよ。
かよ子 爺やは自分で警察へ届けに行かうつて云ふの?(咎めるやうに云ふ)
藤七 わたくしは家の旦那様のお指図次第でどうにでもいたします。
かよ子 それで、御嶽さんの人殺しの殺し手は誰れだか分つたのかい。
藤七 いゝえ、まだハツキリ分からないやうですよ。殺された女を連れて停車場を下りた男があつたらしいので、警察では昨夕のおそい汽車で来たお客を調べると云つてゐます。殺した男が、いつまでも、この土地に愚図々々してやしまいと云つてゐますが、御嶽さんの死人も絞殺されてゐるし、此方の旦那様もこんなになつていらつしやるし、……
かよ子 わたし、此処にゐるのが怖いわ。
藤七 爺やも気味が悪う御座いますよ。こりや、たゞ事ぢやない。
かよ子 喜い兄さんも気が変になつてるやうだから、わたし怖いわ。
藤七 わたくしも今朝此方へお伺ひした時からさう思つてゐました。(耳を澄まして)旦那様の声がする。不断のお声とはまるで違つてる。お嬢様も御用心なさいませ。
藤七は事があったら庭の方へ飛出せるやうに身構へをする。
三
ある田舎町の街上。夜。電柱につけられた街燈が暗い道をかすかに照らしてゐる。今様の耳かくしに髪を結つて、派手な浴衣を着たかよ子が、一方から入つて来る。向うから寺浜某 (四十余歳、体格逞しき男)が入つて来る。行きちがひさま、
寺浜 かよ子さんぢやないか。
かよ子 あら。 ……先生が此方へ来ていらつしやるとは、ちつとも存じませんでした。
二人は留つて、顔を向合つて立つ。しかし、かよ子の顔のみハツキリ電燈の光を受けて、寺浜の顔は光の外にあつて、絶えずボンヤリしてよく分らない。
寺浜 避暑をかねてあなたに会ひたいと思つて、夕方此方へ来たんです。明日の朝はお訪ねしようと思つてゐたのだが、此処で会つてよかつた。どうです身体の工合は?
かよ子 おかげで大変よくなりまして、この頃はお薬も頂かないので御座いますわ。
寺浜 それは何よりだ。
かよ子 先生は最近に兄にお会ひ下さいまして?
寺浜 それについてあなたをお訪ねしたいと思つてゐたのだ。兄さんはこの頃は精神状態がよつぽどよくなつてゐますよ。もう大丈夫でせう。此間会ひに行つた時には、あの時のことを夢のやうに思出して話してゐましたよ。それから、あなたのことも云つてゐました。安城家の血統はかよ子一人に残つてるんだから、結婚をさせるやうに骨を折つてくれと、わたしに頼んでゐました。わたしは以前、自分から縁談を持出したことがあるくらゐだから、お受合ひはして置きましたがね。
かよ子 わたしの結婚のことなぞ仰有らないやうにして下さいましな。二人の兄が一度期にあんな恐ろしいことになつたのですもの。
寺浜 しかし、あの時の記憶を消すためにも、あなたは結婚なすつた方がいゝでせう。わたしのためにもいゝんですよ。わたしもあの時には関り合ひがあつたので、あの時の気持が今でも頭の中に残つてていけない。
かよ子 それで、若しも兄の精神状態が完全に回復しても、罪人になるやうなことはないので御座いませうか。
寺浜 そのことは心配なさらなくつてもいゝでせうがね。……わたしはあの後、心の落着いた時分に時々思出しては、不思議でならないんですがね。あなたによくお訊ねしたいと思ふこともあるんですよ。かういふことをお訊ねしちや、あなたがいやに思ひなさるか知れないが、……わたしが門の外で会つた時には、不断とそれほど変つてもゐなかつた喜多雄君が、その前から発狂してゐてあゝいふ恐ろしい犯罪をしたといふのも解らないことだし、ことに、御嶽さんの前の殺人が喜多雄君の所為だと極つたのも、僕にはよく呑込めないんです、警官や検事の訊問に対しては、わたしは批評がましいことを口へ出すのは遠慮して、藤七の云つた通りに同意したのだつたが、警官や検事の解決した問題が、わたしにはどうも得心の行くまでに解決されてゐないのです。
かよ子 ぢや、先生は、兄の罪は冤罪だと思つていらつしやるんでせうか。
寺浜 わたしは疑つてゐる。…… 人間以外に、魔物とか何とかいふやうな物があつて、豊次郎君に仇をして生命を取つて、御嶽さんの側でも女の生命を取つたのだと信じられれば、至極都合がいゝのだが、我々はさういふことを信じられなくなつたので、都合が悪い。喜多雄君は、御嶽さんの側の殺人も自分のしたことだと思つてゐるやうだが、わたしには、どうしてもさう思はれませんな。
かよ子 でも、上の兄なぞは、上べは何ともないやうでも、精神に異状があつたのですから。
寺浜 喜多雄君の精神が何かの刺戟で突然狂つたにしても、理由のないのに、兄さんの喉を締めにかゝつたのは、不思議でならない。二人は不断仲のいゝ兄弟だつたのだから。それに、豊次郎君が抵抗もしないで、たやすく息を引取つたのも、わたしには理解の出来ない問題なのです。……喜多雄君自身は、精神が鎮まつて来ると、自分が続けて二度も殺人をしたつてことを認めてゐるやうな口を利くので、当人さへさう認めてゐることを、わたし一人が疑ふのは変だが、かよ子さんはどう思ひます? あなたはあの時側にゐたことだし、ことにあなたのやうな無邪気な女の方の観察は参考に訊いて置きたいと、わたしは思つてゐるんです。これはわたしとあなただけの間の話にして、決して外に洩らすやうなことはしないから、腹蔵なく聞かせて貰ひたいんですがね。
かよ子 それでは、兄は自分を罪人として認めるので御座いませうか。(気色ばんで云ふ)
寺浜 さうです。喜多雄君のやうな不断快活だつた青年が、自分が犯したかどうか分らないやうな罪を自分で認めてゐるのが、わたしには、一層不憫に思はれるんです。むしろ狂人になり切つてる方が、兄さんのためには幸福なんでせう。なまなかに、ボンヤりした自意識があるのがみじめです。
かよ子 先生のやうな方がさう仰有れば、わたくしもさういふ気がいたしますわ。死んだ兄は、兄弟に殺されたにしても、魔物とか何かの手で殺されたにしても、結局幸福なのぢや御座いますまいか。ですから兄は自分を手に掛けた者に逆ひはしなかつたので、恨んでもゐないのだらうと思はれますわ。
寺浜 ホウ、かよ子さんはあの事件をそんな風に考へてゐるんですか。(不愉快さうに云ふ)
かよ子 さう思つてゐちやいけないんで御座いませうか。
寺浜 いけないこともないだらうが、あなたは二人の兄さんのたつた一人の妹さんだ。兄さんがあんな死方をしたのを幸福だといふのはあんまり無邪気過ぎますね。
かよ子 わたし、先生にだけ、打明けてお話しいたしますわ。……精神に異状があつた兄さんが、わたしを幸福にしてやるつて、わたしの喉を締めようとしましたから、わたし、怖くなつて逃出さうとして、思はず知らず、兄さんの喉を圧へつけてやつたのです。御嶽さんの女殺しは誰れの所為か知りませんけれど、兄さんの死んだのは、喜多雄兄さんの所為ぢやないんですわ。わたしのしたことです。
寺浜 かよ子さんはなぜそんなことを云ふんです? あなたがあんなことをする筈もないし、第一あなたのか細い手で、何で大の男の生命を取ることが出来るものですか。わたしが、心安立てで、出抜けに変な事を訊いたのがいけなかつたか知れないが、昂奮しないで心を落着けて下さい。
かよ子 検事も巡査も、誰れもわたしに疑ひをかけないから、何も知らなかつたと云つて、藤七の云ふ通りに、喜多雄兄さんの所為にしてすましたのですけれど、本当はわたくしのこの手が兄の喉を圧へつけたのです。それを喜多雄兄さんは御自分の所為のやうに、今思つてゐるのなら、わたし怖う御座いますわ。喜多雄兄さんが、無実の罪だつたことも知らないで青い顔して、狂人らしい目をして御自分の手を兄殺しの手としてボンヤリ見てゐることを思ふと、わたしぢつとしてゐられなくなりました。(自分の手を出して電燈の光で見ながら物狂はしい態度をする)
寺浜 そんな華者な手で人間の生命が取れるものですか。(かよ子の手を執つて)あなたは安城家のたつた一人の相続者なんだから自重しなければいけませんよ。……わたしがこれからあなたの宿までお送りしませう。
二三人の人間が薄暗いところを、影の如く通り過ぎる。一人の男、片端に立留つて此方を見てゐる。その男の顔は分らない。寺浜はかよ子の手を執つて帰りを促してもかよ子は動かない。
かよ子 わたしはあの時豊次郎兄さんにおとなしく絞殺されてゐたら、却つて幸福だつたかも知れませんわ。逃げようと思つたばつかりにあんな恐ろしいことをして。……先生、わたしはこれからどうしたらよろしいのでせう。
寺浜 あなたも兄さんのやうになつたんだな。(歎息する)
立つて見てゐた男、野卑な嘲笑を洩らして行く。寺浜驚いてその後姿を顧る。
(大正十三年四月)