巴里に死す

  原作 芹沢光治良

  脚本・演出 高野悦子

登場人物

  宮 村 … 佐田啓二

  石 沢 … 森 雅之

  築 城

  万里子・伸 子(同一)… 香川京子

  鞠 子(声)

  赤ん坊

  安 藤 … 中村伸郎

  岡 田

  斉 藤

  マルセル未亡人(仏人)

  保姆レイノー ( 〃 )

  ブランド教授 ( 〃 )

  結婚披露宴の来賓、友人、仲人夫妻等。

  教会へ行く男女、洗礼をうける女の子(仏人)

場面

  Tホテルの前(雨)

  同・二階のロビー

  自動車の中 (雨)

  石沢、階下の書斉

  築城、廊下の電話

  巴里ミケランジユ街の建物

  同・三階の一室

  同・隣室

  同・廊下

  同・窓外

  この「巴里に死す」の原作は、私が巴里留学中、幾度も読み返えし、愛読したものなので、是非テレビ、ドラマに脚色してみたく、帰国後早速、芹沢先生にお話しましたところ、御快諾を得ましたので、不取敢(とりあえず)まとめてみました。

  読み返えしてみると、至らぬところが多多ございますが、それはコンテを作る時に推敲し、訂正することにして、このまゝお目にかけます。何分、はじめての仕事なので、お気付きのところを御教示下さいますれば幸甚に存じます。

  尚、主役の伸子、万里子は、香川京子さんが扮して下さるので、そのことも芹沢先生に申上げ、香川さんの伸子で先生にお目を通していたゞきました。

                                          悦 子

    時、一九五〇年代から、一九三〇年代に遡る。

    所、東京と巴里。

〈1〉タイトル

  タイトルバツクは白。それに黒い活字で題名、スタツフ、キヤスト。

  激しい雨音に混つて、細く、長く、甲高く、それが直線のようになつて、吸い込まれてゆく金属性の音。

  音―全く止む。

〈2〉Tホテルの前(夜)

    春。

    鳥瞰に近い俯瞰。

    春雨が玄関前の黒い自動車を、音もなく濡らしている。

    音楽――。

    黒い洋傘、黒い服、黒い礼装の男女が、若い新婚の二人に花束を渡し、自動車に乗せる。

    仲人らしい夫婦や、見送りの男女が、傘のうちで手をふる。

    新婚の自動車、春雨の中を静かに辷り出す。

〈3〉同・ホテルのロビー(夜)

    受付の卓上の硯箱や署名帳、案内状、名刺などを片付けるモーニングの男達の手。

    黒い板に、白字の『宮村家、築城家、結婚披露宴会場』の立札が、片隅に寄せられ、裏に返える。

〈4〉同・廊下(夜)

    挨拶を交わしたり、話し乍ら出て行く盛装の来賓が見える場所。

    新婦の父、医科大学、物療科主任教授の宮村博士が、作家らしい一人の来賓を追つて来る。

  宮村「石沢さん」

  石沢「(ふり返えり)あゝ、どうも、御馳走になりました」

  宮村「いや、粗末なことで、時に娘のことでお願いがあるんですが」

  石沢「お嬢さん? 万里子さんのことで」

  宮村「そうです、新婚旅行から帰る前に、作家であられるあなたの御意見を聞かせていたゞきたいので、一度お伺いしたいんですが」

  石沢「(不審気に宮村を見るが)私は何時でも結構です」

  宮村「じや明日の午後は如何でしよう」

  石沢「どうぞ、お待ちしております」

    立話する宮村に挨拶して行く来賓もある。

〈5〉走る自動車の中(夜)

    花束に埋まる新郎、新婦。

    新郎の築城は、大学の研究室で社会学の助手をしている。

    新婦の万里子は、巴里の生れ、屈託のない明るさを持つた聰明な一人娘。

    築城、微笑して何か万里子に言いかけるが、止める。

    絶えず、窓ガラスの水滴を拭つている運転台の二つのワイパー。

〈6〉石沢の書斉(午後)

    壁一杯の本棚に詰つた洋書や書籍。卓上にも乱雑に積み上げてある。

    石沢が、宮村を案内して来て、椅子をすゝめる。

  宮村「(立つたまゝ)私は人の体ばかり診ていて、人間の感情や心理を的確に判断する自信がないので、あなたを煩わすわけですが‥‥‥(風呂敷を解いて、紙包を取り出す)」

  石沢「(紙包に見入る)」

  宮村「実は、これをあなたに読んでいたゞいて、娘に渡すべきものか、それとも、永久に娘には見せない方がよいものか、判断していたゞこうと思いまして」

  石沢「(紙包と宮村を見較べる)」

  宮村「娘の結婚前から判断に迷つて、苦しんでいたんですが、昨晩、お顔を見たとたん貴方にお願いすべきだと思いましてね」

  石沢「(紙包を取り上げると、厳重に赤い封蠟がしてある)開けて、拝見してもよろしいですか」

  宮村「いや、私が帰つてから読んで下さい。何しろ二十年も見ないのですから(てれくさそうな微笑)若い頃の、過失や悔恨を封じてあるのです。こゝで開けられるのは辛い」

  石沢「(紙包に眼を寄せ)巴里の文房具店のマークが入つてますな」

  宮村「巴里で封をしたまゝです。貴方のように、人間の感情や心理を常に凝視している方の診察に従つて、処理すれば安心ですから」

  石沢「責任重大ですな(笑う)」

〈7〉同じ部屋(夜)

    卓上のスタンドの灯がつく。

    あたりは暗く、外に人影はない。石沢が赤い封蠟を丁寧にこわし、紙袋の中から、部厚い三冊のノートを取り出す。

    その頃から宮村の声が入る。

  声 「‥‥‥御承知のように、万里子の母の伸子が亡くなつたのが巴里でしたから、亡くなる時、娘が大きくなつたら読ませてやつて下さい。私には、読まないでくれ、万里子が母を求めるようになつたら渡して欲しい‥‥‥と、くれぐれも頼んで息を引きとつたのです。あの病気は、息を引きとるまで頭脳が明晰ですから、最後の日まで書いてあります」

    三冊のノートの表紙には、無造作に、一、二、三としてあり、ところどころの頁に写真も貼つてある。

    その第一頁に『わが娘に書き遺す。これを書くことが今の私の生活である』としてある。

    宮村の声はつゞく。

  声 「これを私が読んだことは、伸子の遺志に逆らうことになるのですが、読まずにいられなくなりましてね。それに、せめて巴里にいる間だけでも、伸子を身近に感じていたくつて、淋しくなると、このノートを読みました。私も若かつたものですから」

    石沢、くい入るように読みはじめる。

  石沢「‥‥‥巴里十六区、ミケランジユ街二十六と‥‥‥(抽出しから、古い巴里の地図を出して見入る)」

    色も褪せ、折目のところどころが切れている地図。それをよせて、石沢の指先が動く。

                             (深いO・L)

〈8〉巴里・ミケランジユ街(昼)

    五階建、近代的な大建築物の表。

    入口に二十六の、黒に白の番地札。

〈9〉同・三階の一室(昼)

    二十余年前、宮村夫妻が下宿した部屋である。

    部屋には、誰もいない。

    この家は、画家、マルセル未亡人の住居で、部屋にも廊下にも、亡き主人の遺作の画が、壁を埋めるほど掛けてある。

    窓から、青葉の繁つたマロニエの街路樹が見えている。

    初夏――。

    扉をノツクして、小包を三つ抱えたマルセル未亡人が入つて来る。

  マルセル「(仏語)マダム、宮村‥‥‥」

    すると、隣室から綺麗な女の声で、

  声 「(仏語)はい」

〈10〉同・隣室(昼)

    隣室には二つのベツドがあり、窓際の本棚には日仏独の医書が一杯詰つている。

    その上に、若き日の宮村、妻の伸子、それにユルム街のキユリー研究所の門前で写した宮村と伸子の写真が飾つてある。

    窓際で、体温を計つていた伸子、驚いてふり返り、体温器をかくす。――

    万里子よりは三つ四つ年上であるが、生写しである。

    扉を開けて、夫人が入つて来る。

    以下、仏人との会話は凡て仏語。

  マルセル「日本から、小包が着きましたよ」

  伸子「あら、すみません(思わず、日本語で言い)主人の本ですわ、毎日、待ち兼ねていたようです」

  マルセル「(小包を卓上に置く)」

  伸子「今朝、マロニエの若葉が、一度にひらいているのでびつくりしました」

  マルセル「パリには四季がありませんからね(窓を覗き)今に白い花が一時に咲きますよ」

〈11〉街に聳えるマロニエ(昼)

    若葉が風にゆらぐ。

〈12〉元の隣室(夕方)

    卓上で、三つの本の小包を開けている宮村の手。

  宮村「(日附を見て)随分この小包は遅れたね」

    本は、すべて宮村が日本で使つていた古いものばかり。その一冊の頁の間から、厳重に封をした白いものが落ちる。

  伸子「(気付き)何か落ちましたよ」

  宮村「‥‥‥?(拾い上げて、無造作に封を切ると、四五通の既に開封した古い手紙が出て来る)」

  伸子「(見ている)」

  宮村「(狼狽して、直ぐポケツトに入れる)」

  伸子「何ですの」

  宮村「別に、何でもないものだよ(本を取り上げ)こいつが今日届いたことは有難いな、ちゆう、ちゆう、たこ、かい、な」

    全部の本を抱えて、窓際の卓子へ持つて行く。

    伸子、その宮村の素振りを訝し気に見ている。

    宮村、ポケツトの手紙を抽出しの奥深くに(しま)((ママ))、スタンドの灯をつけて、本の頁を操る。

  宮村「今夜はこれで徹夜か(時計を見て)伸子、食事を頂いて来ようか」

  伸子「えゝ」

〈13〉同・廊下(夜)

    宮村と伸子が部屋から出て来る。

    廊下の電話が鳴る。

  宮村「(受話器をとつて)もしもし、えゝ、四六、 一五です(急に日本語になつて)僕だよ、宮村だよ‥‥‥八時‥‥‥? いゝとも斉藤君も一緒にかね、えゝどうぞ、じや(電話を切り、伸子に)岡田君だよ」

  伸子「いらつしやるんですか」

  宮村「うん」

  伸子「お断りになればよろしいのに」

  宮村「そうもいかんよ」

  伸子「でも今夜は御勉強でしよう」

  宮村「あれは、今夜に限つたことではないんだ」

    食堂の扉を開けて入ると、マルセル夫人の声がする。

    電話の横の、大きな掛時計が鈍い音で八時を打つ。

〈14〉同・宮村の一室(夜)

    宮村と、外交官の岡田、外交官補の斉藤が話している。

    伸子が、日本茶を配つている。

  斉藤「(無遠慮に)日本茶は有難いですな。ついでに奥さん、和服を着てみせて下さい」

  伸子「あら、こちらへ来てから一度も着たことがないんですのよ」

  斉藤「そうですか、奥さんが和服でお相手をして下さると寛ろげるんですがね(笑う)」

  伸子「どうぞ、ごゆつくり」

    会釈して隣室へ入つて行く。

〈15〉同・隣室(夜)

    伸子、卓上に積み上げられたさつきの本に手を触れるが、不図(ふと)気付いて、抽出しから宮村の(しま)((ママ))た手紙の束を取り出す。

    封書の裏には、見事な筆蹟で『青木(まり)子』としてある。

  伸子「(はつとして見入る)」

    何れも同一の差出人、青木鞠子である。

  伸子「(手紙を読もうとするが、止める)」

    隣室の談笑はつゞいていたが、突然、宮村が入つて来る。

  伸子「(驚くが、咄嗟に)あなた、この手紙、私いただいておきますわ」

  宮村「(一瞬、顔色を変えてためらうが)あゝ、いいとも」

    書棚の本を一冊抜き取つて出て行く。

  伸子「(見送る――何故か胸騒ぎがする)」

    手紙から、写真が出て来る。裏には、『巴里の下宿の庭で、下宿のお嬢さんと共に、鞠子』としてある。

    表に返えして見ると、寂しそうに澄んだ眼、うすい唇、すらりとした容姿。

  伸子「(くい入るように見入る)」

    鞠子の写真が、一枚二枚、三枚四枚、五枚と数を増して、卓上一杯に()((ママ))がる。

    隣室から、斉藤の下品な笑声がしている。

  宮村の声「伸子、伸子‥‥‥」

  伸子「‥‥‥」

  宮村の声「伸子!」

  伸子「(気付き)はい」

  宮村の声「茶をいれてくれないか」

  伸子「はい」

    手紙を急いで洋服簞笥の小箱に入れ、隣室へ入つて行く。

〈16〉窓から見えるマロニエ(昼)

    白い花を、青樹一杯に咲かせている。

〈17〉宮村の一室(昼)

    体温器を口にくわえた伸子が、椅子に凭れてマロニエの花を見ている。

    廊下で電話のベルが鳴つて、マルセル夫人の声がする。

  夫人の声「マダム、宮村‥‥‥キユリー研究所から電話ですよ」

  伸子「(口の体温器を卓上に置いて)はい、宮村からですか‥‥‥?」

    出て行く。

〈18〉同・廊下(昼)

    伸子、来て電話口に出る。

    マルセル夫人、自分の部屋へ入つて行く。

  伸子「えつ、伸子です。今夜は研究所でお泊りになるんですか」

  宮村の声「十二時頃にすめば帰るよ、先に寝ていなさい。それから伸子、あの手紙のことは繰返して言つたように気にかけないでくれよ」

  伸子「えゝ、判つてます」

  宮村の声「じや最愛の伸子へ、チユツ!(電話を切る音)」

  伸子「(暫く考えていたが、受話器を置く)」

〈19〉同・隣室(昼)

    伸子、入つて来る。

    洋服簞笥の小箱から、例の鞠子の手紙を取り出し、ベツドにかけて、一通を黙読する。

    白無地の便箋に、細字がぎつしり詰つている。

    その便箋に、鞠子の下宿の写真がダブつて読みはじめる。

  鞠子の声「巴里へ着いて、もう一ケ月過ぎました。毎朝、大使館へお手紙が着いていないかと見に参ります。到着した日に、二つ待つていてくれた他には、いつも失望して帰ります。昨日から私、ラテン語をはじめました。フランス語がまだものにならないのにと、お笑いになるかも知れませんが、いつか貴方のお仕事の助手となる時の準備ですの。フランス語の方は、この前お送り下さつたモーパツサンの短篇集が、もう二つで終ります。さて、父のことで御心慮を煩わしていることゝ思いますが、私達が愛し合つていると言うことが、父の時代の人には、惚れると言う言葉しか知らないのです。愛すると言うことが、お互に精神的な精進として、完全な人間となつて、運命を共にする必死の努力であることを、父は知らないのです。愛する故によい娘になり、よい人間になりましよう。

    私は貴方を想うことで生き甲斐を感じ、勉強して自分を磨いているのだと、父にも識つて貰わなくては。そして、貴方に相応しい立派な女性になるように努力する以外に、今の私には貴方を愛する方法がありません‥‥‥」

  伸子「(突然)やめて!」

    手紙をベツドの上に投げ出す。

  伸子の声「あの人は、何故私と結婚したのだろう」

    その時、ゆれるカーテンの方から宮村の声がする。

  宮村の声「そのことは、見合の席で石崎の小父様に言つただろう、君も側にいたではないか」

  伸子の声「あの時は私、あがつてしまつて、貴方が何を仰有つたか覚えていません」

    宮村の手が、ぐるつと椅子を廻して、深く腰をかける。

  宮村「それに僕は、彼女のことは、君に話さない方がよいと思つていた。然し、今は、話すことが、すつかり彼女を胸から洗うためにも必要かも知れん」

    伸子は、宮村の前の椅子に腰をかけて、

  伸子「えゝ、傾聴しますわ」

  宮村「僕はあの手紙の鞠子さんに会わなければ、人間に精神がある、魂があると言うことに気付かなかつたかも知れない」

  伸子「‥‥‥」

  宮村「人間を生理的にばかり見て、医学的に研究していると、人間の肉体ばかり目について、精神なんて忘れてしまうのだ」

  伸子「‥‥‥」

  宮村「鞠子さんは、僕が唯物的な考えになることを心配して、読んだ書物の話をしたり、音楽や絵画について、よく僕に説明したものだ」

  伸子「(蒼白になつて、息づかいも荒い)私は貴方と結婚するまで、人に愛されたことも、愛したこともありませんからよく判りませんが、どうしてそんなに立派な方と結婚なさらなかつたのです」

  宮村「それは前にも言つた通り、学資の都合で、僕の巴里へ来るのが三年も遅れた為、お父さんに孝行がしたくなつたんだろう。経済学を専攻してる人と、この巴里で婚約して日本へ帰つたんだよ」

  伸子「五年も愛し合つていて、そんなものですか、恋愛つて」

  宮村「責任は僕にあるんだ」

  伸子「どんな責任があるんですの」

  宮村「(黙る)」

  伸子「お腹の中では、未だに愛していらつしやるのでしよう」

  宮村「そんなことなら、何も打明けて話をしやしないよ」

  伸子「判るものですか」

  宮村「伸子!」

  伸子「(泣く)」

  宮村「‥‥‥」

    ベツドの上の手紙の側につゝ伏している伸子。

    部屋には誰もいない。

    扉をノツクする音。

  伸子「(はつとして顔を上げ)はい‥‥‥」

    マルセル夫人が扉を開けて顔を出す。

  マルセル「フランス語を教える娘さんが、いくらノツクしても返事がないと言うので、案じて来たんですよ」

  伸子「あら、もう帰られたのですか」

  マルセル「えゝ」

  伸子「ちつとも知りませんでしたわ」

  マルセル「お顔の色が悪いが、どこかお悪いのですか」

  伸子「いゝえ(手紙を片付ける)」

  マルセル「(つくづく見て)本当にお悪いですよ、お気をおつけになつて‥‥‥(扉を閉めて出て行く)」

  伸子「(鏡に写して見る。いつか涙が溢れる)」

〈20〉窓から見えるマロニエ(昼)

    白い花が風に舞つて散つている。

    日曜日の教会の鐘が鳴る。

〈21〉同・並木道(昼)

    俯瞰。

    散る花吹雪の中を、教会へ行く人達が通る。その中に、洗礼を受ける女の子が、白い服を着飾つて、家族の者と楽し気に行く。

〈22〉宮村の隣室(昼)

    窓寄りの卓子で、宮村が日本から着いた書籍を読んでいる。

    伸子が、疲れ切つた様子で帰つて来る。

  宮村「(ふり返えり)どこへ行つていたんだ」

  伸子「(答えず、ベツドに腰を掛ける)」

  宮村「(やゝ荒々しく)尋ねたら返事をしなさい」

  伸子「ラ・フオンテーヌ通の家を訪ねて来たんです」

  宮村「ラ・フオンテーヌ?」

  伸子「えゝ、鞠子さんがいらしつた家です」

  宮村「(驚いて)どうして君は、そんなところを訪ねたのだ」

  伸子「もしそこにいらつしやるんなら、宮村の妻として、お目にかゝつておいた方がいゝと思つて」

  宮村「(思わず)馬鹿!」

  伸子「(宮村を見て)えゝ、私は馬鹿な女です」

  宮村「(立上り)君は、あれほど話したのに、僕が、信じられないのか」

  伸子「でも鞠子さんは、未だ巴里にいらつしやるような気がしたんですもの」

  宮村「それで、鞠子さんはその下宿にいたのか」

  伸子「‥‥‥」

  宮村「君は鞠子さんに会えたのか」

  伸子「‥‥‥」

  宮村「鞠子さんは日本へ帰つて式を挙げた、それ以来、僕は鞠子さんとは会つていない。どうして君は、僕の言うこと判ろうとしないのだ」

  伸子「‥‥‥」

  宮村「明日から、毎日巴里中を探し廻るといゝ、どこかで鞠子さんに会えるかも知れないよ」

    そのまゝ、机に向つて調らべ物をはじめる。

    宮村、本を閉じたり開いたり、ペンにインクをつけたりするが、気が静まらない。不図、振り返えると、伸子がべツドに片手をかけて倒れている。

  宮村「(驚いて)どうしたんだ伸子」

    急いで駈け寄つて見ると、貧血を起している。

〈23〉同・廊下(昼)

    宮村、来て、手帖を見乍ら電話のダイアルを廻わす。

  宮村「(仏語)あ、もしもし、ブランド教授のお宅ですか、あゝ先生ですか、宮村です、キユリー研究所の宮村です。どうも突然電話しまして‥‥‥実は、妻の様子が、私では腑に落ち兼ねるのです。一度御診察を願えないでしようか‥‥‥はい、はい、ミケランジユ街二十六、マルセル未亡人宅です」

    電話を切つて、急いで部屋に戻る。

〈24〉同・隣室(昼)

    ベツドの中に伸子が寝ている。

    側に宮村と、五十年配のブランド教授がいる。

    教授、診察を終つて、

  教授「(早い仏語で)肺尖が悪いんだね」

  宮村「はい、検温は毎日やらせているんですが」

  教授「それに、妊娠していられるようだが、知つてましたか」

  宮村「(驚き)妊娠‥‥‥? そうでしたか‥‥‥」

  教授「今動かすのは無理だが、一度精密検査をやりましよう」

  宮村「はい」

  教授「貧血は、一時の過労からだから、心配はいらんようですな」

    鞄から注射器を出して、伸子の腕に注射する。

〈25〉窓から見えるマロニエ(昼)

    花も散り、葉が赤く蝕んで巻いている。

〈26〉同・隣室(昼)

    外出着の伸子を、労るように連れて来た宮村、椅子にかけさせる。

    宮村も、前の椅子に掛けて、

  宮村「ブランド博士は、母体を保護すると言う見地から、妊娠を中絶した方がよかろうと言う意見なんだよ。それには早い程よいと言つて、心配して下さるんだ」

  伸子「‥‥‥」

  宮村「中絶と言つても、たいした手術ではなし、安心して博士にお委せして置けばいゝのだし、病院も博士がお世話下さるそうだし」

  伸子「‥‥‥」

  宮村「胸の方も危険な程悪いのではないが、出産するまで待つたら、進む恐れがあるからね」

  伸子「(ハンカチを押えていたが、流れる涙をふいて)私、そんな卑怯な真似は出来ません」

  宮村「何が卑怯だ」

  伸子「子供を殺して、自分が助かろうなんて思いません」

  宮村「‥‥‥」

  伸子「ねえ、お産をさせて下さい。譬えお産をすることで私が死ぬようなことになつても‥‥‥」

  宮村「‥‥‥」

  伸子「ねえ、あなた、私の我儘を通うさせて、子供の為に命を捧げることは、母としての喜びですもの‥‥‥」

  宮村「‥‥‥」

  伸子「それに、出産したから私が死ぬとは決まつていないんですもの」

  宮村「(立上り)判つたよ、よく先生方とも相談してみるよ」

  伸子「お願い、きつとよ」

    宮村、窓近くに来て、凝つと外を眺める。

    教会の鐘に混つて、子供達の遊んでいる声が聞えて来る。

    宮村、書棚に挟んだ巴里の絵葉書を二三枚取つて、

  宮村「石崎の小父様に、この間のお礼を出して置くよ」

  伸子「えゝ、私からも宜敷く言つたと書き添えて下さい」

  宮村「あゝ」

    絵葉書にペンを走らせる。

〈27〉窓から見えるマロニエ(昼)

    すつかり落葉して、太い幹に無数の小枝が美しく伸びている。

〈28〉同・隣室(昼)

    ベツドの中の伸子、体温を計り、温度表に書き込む。

    その横に、また読み返したのか、鞠子の手紙と写真が置いてある。

    ノツクの音がして、

  マルセルの声「あたし」

  伸子「どうぞ」

  マルセル「(入つて来て)キユリー研究所にいらつしやる安藤さんが見えたんだが、どうします? 今、臥つていると申上げたんだけど」

  伸子「どうぞお通しして下さい。私、直ぐ着換えます」

  マルセル「そう」

    扉を閉めて出て行く。

    伸子、洋服簞笥の側に寄る。

〈29〉同・一室(昼)

    扉を開けて、安藤が入つて来る。――既に五十を過ぎた年配で、やはりキユリー研究所にいる九州医大出の山口の開業医。

  安藤「(隣室の扉をノツクして)奥さん、入つてもかまいませんか」

  伸子の声「はい、どうぞ」

〈30〉同・隣室(昼)

    安藤が入つて来る。

    着換えをすませた伸子が出迎える。

  安藤「明日は、愈々日本へ帰るのでね」

  伸子「あら、明日ですの」

  安藤「それで一寸御挨拶に寄つたんですよ、宮村君とは研究所ですませて来ました」

  伸子「お名残惜しいですわ」

  安藤「また来ますよ、美容術の方も中途半端だから(笑う)」

  伸子「でもお上手になられたと伺いましたわ」

  安藤「(笑つて)いやいや、やつてみると仲々難しいものですよ」

    花瓶の後に廻り、顔に見立てゝ、器用な手つきでマツサージする。

  伸子「(笑つて)お上手ですわ」

  安藤「これを覚えるのに、先づ三月ですな、病院の女中に、帰つたら美容院を出してやると、約束して来たもんだから」

  伸子「先生が、身を以つて体験してお帰りになるなんて、御親切ですわ」

  安藤「(ベツドの側に落ちた鞠子の写真を拾い上げ)ほう、この御婦人を御存知ですか」

  伸子「(狼狽するが)えゝ」

  安藤「(写真の裏をかえしたりして)日本へ帰つてから、もう一年にもなるかな」

  伸子「私、余り存じ上げてないんですけど、大変優れた方ですつてね」

  安藤「立派ですね、僕が独身だつたら結婚を申込んでますよ(笑う)」

  伸子「そんなに立派な方ですか」

  安藤「女としてで悪ければ人間として、若いのに、あれだけの才能を持つた人は稀ですね」

  伸子「そうですか‥‥‥」

  安藤「基礎的な学問がみつちりしてあるんですな、それでいて女らしさを忘れない、男から見れば理想の婦人ですよ」

  伸子「‥‥‥」

  安藤「僕も二三回しか会つてないが、随分、啓蒙されましたね」

  伸子「(自分に言う如く)勉強して、誰でも人様から、そのよう言つて頂けるようにならなくちやいけませんわね」

  安藤「然し、どうしてこの写真が此処に‥‥‥(部屋を見廻し、不図気付き、伸子を見て)どうぞおしまい下さい」

  伸子「(眼を外らせて)はい」

〈31〉窓から見えるマロニエ(夜)

    葉のないマロニエに、雨がしとしとと降りそゝぐ。

    その向う側に、虹のように鈍い街灯の輪。

〈32〉宮村の一室(夜)

    宮村が、隣室から持ち出した卓子で、何か一心に調らべ物をしている。

    やがて、洋服のポケツトから小銭をざらざら取り出す。

    廊下の時計が十一時を打つ。

〈33〉同・隣室(夜)

    ベツドの中の伸子、白い毛糸で赤ん坊の靴下を編んでいる。

  伸子「(金の音に)あなた、お金なら此処にもありますよ」

    隣室の扉を開けて、宮村が顏を出す。

  宮村「何も金の勘定をしてやしないよ。もう十一時だよ、何故寝ないのだ」

  伸子「(手を止めず)あなたこそ、おやすみになればいゝのに」

  宮村「僕が起きているのは、仕事の一部なんだよ」

  伸子「私、とても気分がいゝんですもの、今に、貴方のいゝ助手になりますわ」

  宮村「(窓を開け、体温器を伸子に渡す)仕様がないね、言うことを聞かなくて」

  伸子「(受取つて脇に挟み)これでも貴方のように、高いところから物事を見ようと努力してますのよ(毛糸の玉が落ちて転がる)」

  宮村「(拾う)」

  伸子「私、物心がついてからのことをずつと考えてましたの、すると、ちつともいゝところのない女ですわ」

  宮村「どうして?」

  伸子「とても嫉妬深いようですし」

  宮村「大なり小なり、誰しも持つているものだよ」

  伸子「父の責任よ。母を泣かせてばかりいたから、男つて、みんな父のような人だと思い込ませてしまつて」

  宮村「そう言うタイプの人は何処にもいるよ」

  伸子「それに、本当の愛情だつて、貴方と一緒になるまでは、よく判らなかつたんですもの、こんなことで、子供が育てられるのかと思つたら、ぞつとしましたわ」

  宮村「(体温計を受取つて調らべ)有難い、熱はないね」

  伸子「そうでしよう、もう完全よ(冗談らしく言つて笑う)」

  宮村「ブランド博士にね、妊娠中絶のことで君の意見を話したら、流石にハラキリの国の女性だと、ひどく感動しておられたよ」

  伸子「あの時は私、真剣でしたもの。でもよかつたわ、先生方も私の願いを叶えて下すつて」

  宮村「だから、母体を大切にしなきや。かけがえがないんだよ」

  伸子「えゝ」

  宮村「さ、早くおやすみ。休養、食事、運動、検温、君は固く守ると約束した筈だ」

  伸子「えゝ、判つてます、でも今が一番倖せな時のような気がしますわ(お腹のあたりに手をやり)私の中の貴方が、いつも元気ずけてくれますの、その為にも一生懸命勉強しなくては‥‥‥」

  宮村「誰だつて絶えず磨かなくてはね。それに、倖せはお互の努力で築き上げるものだよ。さ、おやすみ、電気を消すよ?」

  伸子「あなたは?」

  宮村「うん、僕も寝るよ」

    立つて、スタンドのスイツチを切る。

    部屋が一時に暗くなる。

    宮村、隣室へ行き、扉を閉める。

〈34〉窓から見えるマロニエ(朝)

    葉のない木立越しに、珍らしく朝の陽が窓辺に射し込んでいる。

〈35〉廊下の電話(朝)

    大きな紙箱を側に置いた宮村が、電話している。

  宮村「(仏語)はい、これから妻と伺いますから、病室の方を宜敷くお願いします。少し早いようですが、先生にキユリー研究所の宮村だと言   つて頂けば判ります。はい、はい、どうぞ宜敷く‥‥‥えゝ、えゝ」

〈36〉同・隣室(朝)

    伸子がスカーフを巻き、オーバーを着て、温かくしている。側にマルセル夫人が付添つている。

  マルセル「(不図気付き)あら、あのお写真を入れるのを忘れてましたよ」

    書棚の上の、宮村と伸子の並んだ写真を取つて、スーツケースに入れる。

    大きな紙箱を抱えた宮村が入つて来る。

  宮村「流石は出産奨励のフランスだよ、何もかも揃つているんだ」

    紙箱を開けると、おしめ、肌着、洋服、靴下、その他細々としたものや、赤ん坊の蒲団、毛布まで入つている。

  伸子「(覗き込んで)まあ‥‥‥」

  宮村「これがおしめ、これが肌着、洋服、靴下まで入つているだろう」

  伸子「ほんと、心配して色々集めなくてもよかつたんですね」

  宮村「寝台や乳母車も必要な時は、安く買えるよ」

  伸子「そうですか(軽く咳込む)」

  宮村「(紙箱の蓋をして)さ、早く行こうか」

  マルセル「(宮村に)お産がすんだら、直ぐ知り合いの保姆さんを頼みますからね。気のおけない良い娘さんですよ」

  宮村「色々お世話をかけました」

  マルセル「そんな御心配はいりません」

    三人、荷物を持つて、部屋を出て行く。

〈37〉窓から見えるマロニエ(夜)

    マロニエの伸びた小枝を、鈍い街灯が照らしている。

    クリスマイブの教会の鐘が、しきりに鳴り響いている。

〈38〉宮村の一室(夜)

    机の上に、小さなクリスマスツリーが飾つてある。

〈39〉同・廊下(夜)

    廊下の卓上にもクリスマスツリーが飾つてあり、何本かの色蠟燭に灯がついている。

    宮村と、マルセル夫人がその側で立ち話している。

  宮村「出産の予定日は一月早々なのですが、伸子の胸の方がどうも思わしくないのです」

  マルセル「それは困りましたね」

  宮村「教授は、設備の完全な、親切な医者の経営している託児所へ赤ん坊を預けることだと、二三紹介して下さつたのですが、伸子はどうしても自分で育てると言つて(き(マ)()}んのです」

  マルセル「母親として無理のないことですわ、ではこうしたら如何でしょう、一先づ退院されたら、マダムは、元の部屋で、あなたはこちらの部屋に、赤ちやんは私の部屋の隣りに、壁紙も新しく、消毒もさせて」

  宮村「そんなにお宅を占領してしまつては」

  マルセル「いゝんですよ、私も子供を育てた経験はあるし、昼間は保姆さんがうまくやつてくれるだろうし、何事も神様の思召しと思つて。それに、亡くなつた主人も胸を患つていたんですから、私は病院の看護婦長位いの資格はありますよ(笑う)」

  宮村「(感謝のこもつた眼差しで、マルセル夫人を見詰める)」

〈40〉窓から見たマロニエ(声)

    深い靄の中に、マロニエの幹と小枝が黒く浮かび出ている。

〈41〉宮村の一室(朝)

    壁に新しいカレンダーが掛けてある。

    日付は、一月二十日になつている。

    扉の外で賑やかな声がして、伸子と、荷物を持つた宮村、それに白ずくめの赤ん坊を抱いた保姆のレイノーと、マルセル夫人が入つて来る。

    宮村、荷物を置くと、保姆から赤ん坊を受取つて、窓辺に抱いて行く。

    伸子、嬉しそうに覗き込んで、後からつゞく。

  マルセル「(保姆に)ではあなた、一寸部屋のベツドを見てあげて下さい」

  保姆「はい(スーツケースを持つて、隣室へ入つてゆく)」

    マルセル夫人は廊下へ出て行くが、直ぐ消毒液の入つた容器を持つて来て、隣室へ入つてゆく。

  宮村「ね、伸子、今日は大使館と巴里の区役所へ出産届を出しに行かなくちやならないが、何としようね、この赤ん坊先生の名を」

  伸子「(椅子に深くかけ)あら、あなたが考えて下さるものとばかり思つていて」

  宮村「どうも苦手でね、卑俗な名前ばかりで駄目だ。君に委せるよ(笑つて赤ん坊を覗き込む)」

  伸子「マリコつて、どうでしよう」

  宮村「(はつと、歪んだような顔を上げて、伸子を見る)」

  伸子「日本から遠く、万里の地で生れた記念にもなりますし、万里と書いてマリ子と読めばいいし‥‥‥フランス人からは、マリーと呼んで貰える便利もありますもの」

  宮村「‥‥‥」

  伸子「それに、青木鞠子さんのように、立派な精神と理智とを兼ね備えた娘になるようにも」

  宮村「君は本気で言つているのか」

  伸子「もしお気持を悪くなすつたのなら、私の言葉が足りないんですわ」

  宮村「後で悔いることはなかろうね」

  伸子「えゝ、生れる前から考えていた名前ですもの」

  宮村「‥‥‥」

  伸子「万里子、万里子、そう呼ぶだけでも、私まで磨き上げられるようで(につこりする)」

  宮村「君が本気でそう言うのなら」

    其処へ保姆が来る。

  保姆「どうぞ奥さん、おやすみになつて下さい」

  宮村「そうだ、今日からはよく眠ること、よく休養すること、よく食べ、そして風邪をひかぬことだ」

  伸子「はい」

  宮村「熱も、三十六度の線は絶対に上げぬこと」

  伸子「はい」

    宮村、赤ん坊を保姆に渡す。

  伸子「その代り、私にも一つお願いがあるの」

  宮村「何んだね」

  伸子「お乳がはるから、自分のお乳で育てることを許して頂きたいの」

  宮村「そんな我儘を言つては困るな」

  伸子「これは我儘でなく、母性愛としてのお願い」

  宮村「ね、母性愛と言うが、本能的な母の愛情を、理性的な愛情にまで高めないといけないよ。君はもう、君自身ではなくて赤ん坊の母だ。母乳で育てゝ貰いたいとは、僕の持論だが、今は君の体を恢復させることが急務なんだよ」

伸子「(顔色を変え)そんなに私の健康はいけないのでしようか」

  宮村「将来に悔を残さぬ為にだよ、赤ん坊は立派に人工栄養で育てられるから。君は一日も早く健康体になることだ、それが君の赤ん坊に対する義務だよ」

  伸子「えゝ、判りましたわ」

〈42〉同・隣室(朝)

    マルセル夫人が、スーツケースのものや荷物を、(しま)((ママ))べきところへ片付けている。

    伸子が入つて来る。

  マルセル「さ、お手をお洗いになつて」

  伸子「はい」

    言われるまゝに、消毒液で手を洗う。

    赤ん坊を抱いた保姆が、開いた扉の外から声をかける。

  保姆「あちらのお部屋が温くしてあるそうですから、赤ちやんはそちらへお連れします」

  伸子「もう連れてゆくの?」

  保姆「お乳の時間ですから」

  伸子「そう」

  保姆「(去る)」

  宮村「(入つて来て)じや大使館と区役所へ行つて来るよ」

  伸子「早く帰つて下さいね」

  宮村「あゝ(マルセル夫人に)じやお願いします」

  マルセル「行つていらつしやい」

  宮村「(出て行く)」

  伸子「(ベツドに腰をかける)」

  マルセル「赤ちやんは、生れた時、三キロ半もあつたそうですね」

  伸子「えゝ、とても健康児ですよ。初め、病院へ着くと、先生方は私の健康上から、直ぐ手術にかゝるおつもりらしかつたの」

  マルセル「(側へ寄つて来る)」

  伸子「でも、月が満ちて、自然に生れるまでお待ち願つたの、胎児は大丈夫保証すると仰有つたけど、万一(きずつ)けたらと、そればつかりが恐しくつて」

  マルセル「よかつたですね、すべて神様のお恵みですよ」

  伸子「本当に、病院では神様にお縋りばかりしていました」

  マルセル「(壁を見て)あすこへ、お掛けして置きましたよ」

  伸子「(見ると、壁に聖母マリヤの額がかけてある)まあ、マリヤ様‥‥‥(額を見詰める)」

    マリヤの額を次第に拡大して――。

                            (深いO・L)

〈43〉同じ部屋(夜)

    伸子がベツドの中で、三冊目のノートを書き綴つている。

  伸子の声「万里子よ、この手記も私自身のために書きつけていたが、もう、お前のために書かなければならないような気がする。お前にかける希望以外に、私にはまだ未来が残されているのであろうか‥‥‥」

    ノツクの音。

  伸子「(驚いて、ノートをベツドの中に隠し)はい」

    宮村が入つて来る。

  宮村「(入るなり、壁の寒暖計を見て)どう、今夜は?」

  伸子「とつてもいゝわ」

  宮村「(枕許の体温表を見る)本当? これ」

  伸子「本当よ、いつも三十六度台ですもの」

  宮村「これならいゝね」

  伸子「ね、一度、万里子を抱いてもいい、手も消毒するし、マスクも掛けるから」

  宮村「いゝだろう、抱きなさいよ」

  伸子「うれしいわ」

  宮村「(出て行く)」

  伸子「(手を消毒液で洗う)」

  宮村「(万里子を抱いて来る)」

  伸子「(マスクを掛けて抱き取る)こんなに大きくなつて‥‥‥あら、笑つてるわ」

  宮村「早いもんだね、もう笑うんだから」

  伸子「お乳をやつては駄目かしら」

  宮村「伸子、それだけはよしなさい」

  伸子「えゝ(凝つと万里子に見入る)」

  宮村「君にそつくりだよ、眼も鼻も」

  伸子「そうかしら」

  宮村「今度は僕も君に教えられたよ」

  伸子「あら、何を?」

  宮村「万里子を、君の言う通りの方法で産んでよかつたと思うよ」

  伸子「随分我儘を言つて、貴方を困らせたわ」

  宮村「医者は科学的な処理しか考えないからね」

  伸子「特にあの病院の先生方は、何事も現在に基礎をおいて仰有るでしょう? 私は、未来を考えて、子供に重点をおくものですから――。先生方のお考えは西洋的で、私のは東洋‥‥‥ねえ、そうでしよう」

  宮村「そうだよ、東西二つの理論ありだ」

  伸子「だから、先生方に、一時の昂奮からではなく反対が出来て、よかつたと思つてますわ」

  宮村「確かに、あの時も、九ケ月そこそこで出産していたら、万里子はそんなになつてない」

  伸子「(万里子に頬ずりして)よかつたわねえ万里子‥‥‥」

    万里子、急に泣き出す。

  伸子「(驚いて)どうしたのでしよう」

  宮村「(気付き)おしめだよ、おしめだよ(慌てて抱き取り部屋から連れ出してゆく)」

  伸子「(淋しそうに、マスクを外して見送る)」

〈44〉窓から見えるマロニエ(昼)

    マロニエの小枝にも、そろそろ青葉の芽がほころびはじめている。

〈45〉同・隣室(昼)

    伸子が、時々咳き込み乍ら、ベツドの中でノートを書いている。

  伸子の声「四月二日、万里子よ、巴里で迎える二度目の春が来たと言うのに、悲しや、母さんは今朝も喀痰に赤いものが混つている。熱も七度四分、宮村が安心するように、六度台の熱線ばかり書いてもいられなくなつた。宮村は既にそれを知つているのであろうか、今朝も研究室へ出掛ける時に『人間の最も不幸な病気をなくすためには、患者の一人ひとりが殉教者になつたつもりで、生活をかけて闘う覚悟がいる』と言つた。親子三人、ともに暮し乍ら、まるで他人のように部屋をわかれているのも、宮村は『忍耐の中にのみ幸福がある』と言う。私は宮村の高さまで、自分を高められるのはいつの日であろうか」

    伸子は尚も書きつづける。

  伸子の声「万里子よ、私は、愛情というものが自然に発生するのではなく、創るものだと言うことを、つい先頃発見した。母と子の愛情さえ、苦しんで創るもの、まして夫婦の愛情は、生涯精進して最後に授けられるものであると言うことに気がついた」

    尚も、ノートの上を走る伸子のペン先――。

  伸子の声「私はお前にはかけがえのない母である。その母の愛情が、太陽の光のようにお前に必要な時であるのに――。早く健康を取り戻して、病気の感染の心配がなくなつた時‥‥‥(激しく咳き込む)」

    伸子、ハンカチで口を拭う。

    白いハンカチを赤く染めているようである。

    伸子、書くのを止めて、静かに眼をつむり、仰向きに寝る。

  伸子「(呟くように)神様、せめて子供をつれて、日本へ帰る日まで、私をお召しになりませんように‥‥‥万里子のためにも、宮村のためにも、私は、どんな辛い闘病生活でも耐えぬきます。神様、どうぞそれまで、お恵み下さい‥‥‥(眼に光るものがある)」

    それを見(おろ)すかの如く、聖母マリヤの額。

〈46〉窓から見たマロニエ(昼)

    マロニエの葉が、黒く、樹々一杯に繁り、夏の陽射しがぎらぎらと照りつけている。

    七月十四日、フランス革命記念日、巴里祭の当日――。

    向いの建物の窓には、色紐や金銀のモール、三色旗などが飾り立てゝあり、近くの森の広場に急造したメリーゴーラウンドから、絶えず音楽や子供の声が流れている。

    それをかき消すように、街角に出来た屋台の音楽隊のジヤズが炸裂叫騒する。かと思えば、古風なワルツのアコーデイオンが波のようにうねりを伝えて来る。

    窓下の鋪道の靴音しきり、すでに町をあげて巴里祭は始つている。

〈47〉同・隣室(昼)

    伸子はベツドの中で寝ている。

    静かに扉を開けて宮村が入つて来て、伸子の寝息をうかがい、そのまゝ足音を忍ばせて出て行く。

〈48〉同・一室(昼)

    隣室から出て来た宮村、窓辺によつて外を眺める。

    万里子を抱いた保姆が入つて来る。

  宮村「(ふり返えり)万里子は、あれから少しは眠りましたか」

  保姆「いゝえ、表の音楽に合わせて、手足をばたばたさせて、笑つていらつしやいます」

  宮村「七月十四日、万里子には初めての巴里祭だ」

  保姆「不思議なお祭でしよう、何を誰に言おうとおかまいなしの日なんですもの」

  宮村「伝統的な風流とでも言うのかな」

  保姆「本当に若い者にとつては出会がしらの巴里ですの、恋の巴里とも言うんですつて(笑う)」

  宮村「町は楽しそうだな」

  保姆「誰とでも一日中踊り歩くんですもの」

  宮村「避暑に行けず、巴里に居残つたやけも手伝うのかな(笑う)」

  保姆「(笑つて)そうかも知れませんわ」

  宮村「お母さんはよくやすんでいるから、玄関まで降りて、万里子に表の騒ぎを見せてやりましようか」

  保姆「はい、そうですね」

    二人、万里子を覗き込み乍ら部屋を出て行く。

〈49〉同・隣室(昼)

    寝ている伸子、夢でも見ているのか、(うな)されている。

  伸子「‥‥‥あら、誰か、万里子の首に、虫が、虫が‥‥‥早く、誰か、取つてやつて‥‥‥(蒲団をはねて、起き上る)あなた、あなた、万里   子に大きな虫が‥‥‥」

    ベツドから降り、跣のまゝふらふらと部屋を出て行く。

〈50〉同・廊下(昼)

  伸子「万里子、万里子‥‥‥」

    壁伝いに来て、部屋の扉の把手に手をかけるが、廻すだけの気力もないのか、そのまゝ其処に倒れてしまう。

    物音に、マルセル夫人が出て来る。

  マルセル「(驚いて)どうしたのですマダム、しつかりして下さい。しつかりして‥‥‥」

  伸子「(ぐつたりとしている)」

    階段を昇る足音がして、入口から宮村が入つて来る。

  宮村「(驚き)どうかしましたか(側へ駈け寄る)」

〈51〉同・隣室(昼)

     伸子を抱えた宮村、ベツドに寝かせ、急いで手を消毒すると、机の抽出しから聴診器を取り出し、胸を開けて診察する。

    扉の側に、マルセル夫人が案じ気に立つていたが、水枕を取りにゆく。

    宮村、注射器を出し、薬を取つて、伸子の腕に注射する。

    そして、眼を調らべ、脈をとり、足の爪を調らべる。

  マルセル「(水枕を変え)如何です」

  宮村「(額に手を当てたまゝ)大丈夫のようです(凝つと伸子を見守る)」

  伸子「(やゝして眼を開く)あら、あなたですの、綺麗な花畑にいましたの、沈丁花が一杯咲いてゝ」

  宮村「夢を見てたんだろう」

  伸子「(あたりを見て)今日は巴里祭ですのね」

  宮村「外は賑やかだよ」

  伸子「そうでしようね。あなた、見て来て下さい」

  宮村「僕はいゝよ、去年見たから」

  伸子「でも、病人の側ばかりにいては退屈でしよう」

  宮村「馬鹿な、僕がいたいのは君の側だよ」

  伸子「(凝つと見て)うれしいわ」

  宮村「少しやすみなさい。部屋を暗くするから(カーテンを引きに行く)」

  伸子「いゝのよ、そのまゝで、とても気分がいゝんですもの。ねえ‥‥‥」

  宮村「何んだよ」

  伸子「あなたにお願いがありますの」

  宮村「なんでもきいてあげるよ」

  宮子「これね‥‥‥(枕許から、白いリボンを十字にかけた三冊のノートを取り出す)」

  宮村「‥‥‥(覗きこむ)」

  伸子「これを、万里子が結婚するような年令になつたら渡して下さい。あなたがお読みになつては嫌ですよ。いろんなことを、何もかも偽らずに、正直に書きましたの‥‥‥あなた、読まないと約束して」

  宮村「いゝとも、然し、そんなことを僕に頼むのは、まだ早いだろう」

  伸子「いゝえ、さつきも、神様のお使いが、私をお召しに来ていらつしやいました〕

  宮村「‥‥‥」

  伸子「あなたに無理ばかり言つて、何一つお酬いすることも出来ず、悪い妻でしたわね。それが一番つらい‥‥‥(泣く)」

  宮村「(伸子の手を執り)そんなことを伸子、言うもんじやないよ(涙ぐむ)」

  伸子「でも私は倖せでした、貴方のような方を主人に持てゝ‥‥‥万里子も倖せですわ」

  宮村「伸子、諦めてはいけないよ、最後の最後の時まで頑張るんだ」

  伸子「えゝ、でも、その時が遂々(とうとう)来ました」

    また一段と、戸外の音楽が高くなる。

    花火の音――。

  伸子「あら、花火が‥‥‥」

  宮村「去年も、セーヌの畔りで見た花火は、夜空を一面に彩つて、綺麗だつたね」

  伸子「(につこりする)あなた」

  宮村「何んだね」

  伸子「あなたの研究論文は、もう発表になりましたの」

  宮村「うん、もうじき、フランスとドイツの医学雑誌に出るよ」

  伸子「よかつたわ(手を出す)」

  宮村「有難う(手を握る)」

    其処へ、マルセル夫人が知らせたのか、万里子を抱いた保姆が入つて来る。

  伸子「(見て)あら万里子‥‥‥」

  保姆「(万里子に顔を見せて)ほらお母様ですよ」

  伸子「マドモアゼル、レイノー、あなたには、いろいろお世話になつて」

  保姆「あら、ちつとも行届きませんのに」

  伸子「お礼の申しようもありませんわ(枕許の小箱から真珠のブローチを出して)これ、記念に貰つて下さいな(渡す)」

  保姆「まあ、私に‥‥‥」

  伸子「万里子が日本に帰つても、文通して、いつまでも見守つてやつてほしいの」

  保姆「えゝ、きつといたしますわ」

  伸子「お願いね」

  保姆「えゝ(涙を浮かべる)」

  伸子「それからマルセルの小母様‥‥‥」

  マルセル「(側に寄る)」

  伸子「こんなに可愛がつていたゞいたのに、私、もういけないの」

  マルセル「マダム、そんな気の弱いことで‥‥‥」

  伸子「御恩は忘れませんわ」

  マルセル「(ハンカチで顔をおゝう)」

  伸子「(枕許の小箱から、ダイヤの指輪のサツクを出して見せ)これ、私達の結婚記念の指輪ですの、私だと思つて頂けたら嬉しいわ」

  マルセル「まあ、マダム‥‥‥」

  伸子「私、宮村と巴里へ着いた時、何て魅惑的な都会でしよう、こんな美しいところで死ぬことが出来たらと、不図思つたことがありますの、しかも巴里祭の日に‥‥‥満足して死んでいつたと思つて下さいね」

  宮村「(思わず)伸子‥‥‥」

  伸子「あなた‥‥‥万里子をお願しますわ」

  保姆「(万里子を近ずける)」

  伸子「(小さな可愛いゝ手を握りしめる)」

  万里子「(ベソをかく)」

  伸子「まあ、そんな顔をして‥‥‥大きくなつたら、私の手記を読んで、母さんを偲んで頂戴ね」

    また花火の音がして、戸外の音楽がひとしきり高まる。

    一同、声もなく、伸子を見守る。

  伸子「あなた‥‥‥」

  宮村「(手を握る)」

  伸子「‥‥‥さようなら」

  宮村「伸子、僕は医者であり乍ら、君を救うことが出来なかつたとは‥‥‥」

  伸子「(首を横にふつて、静かに眼を閉じる)」

    一同、ハンカチで口を押えて見守る。

    巴里祭の音楽、ますます高潮。

    壁のマリヤの額が、レースのカーテン越しに、西陽を受けて神々しい。

〈52〉石沢の書斉(朝)

    既に、卓上のスタンドは消えている。

    石沢、三冊のノートの手記を読み終り、頁を閉じる。

    そして、立上ると窓を開け、朝の外気を胸一杯に吸う。

〈53〉築城の新居(昼)

    廊下の電話に、新婚旅行から帰つたばかりの万里子が出ている。

  万里子「‥‥‥石沢先生、私は母が巴里で亡くなつたことは、いつ知つたのか記憶がございませんの。でも、子供の時から、実母は遠い国にいるとぼんやり感じていたようですわ。お渡し下さいました母の手記、えゝ、全部読みました。御自分の亡い後は、青木鞠子さん、現在の野川鞠子さんを頼れと、せつなく書いてありますが、只今の私の母は、父にとりましても、あの遺書の中の鞠子さんのようで、婦人としても立派でございますから、私は只今の母を、継母だと感じたことは一度もございませんの。でも母が、巴里で私のことをあれ程までに案じ、闘病されていたことは勿体なくて、有難いことだと思います。でも、先生、人はそれぞれ、その時代と共に成長して行くものなんですわね。母の時代、私の時代、そしてこれからの時代‥‥‥」

    万里子の声は尚もつづくが、終りの音楽が高まり、電話する万里子の声を全く消してしまう。

                          (終) 1962.2.23