「それぢや歩いて行かうぢやないか」と僕は云ひ出した。「君等の中の一人が真先きに歩くんだ。其の足あとを伝つて僕が真ん中になつて行く。其のあとへ又、君等の一人が殿になつて僕の荷物をかついで行く。そして先頭のものと殿のものとは時々交代するんだ。僕だつて、時には先頭に立つたり、殿になつて荷物を持つたりしたつていゝよ。」
俥夫等は此の提案を喜んだ。
「わしらだつて、うちのお神さんや奥様とお約束して、なあに大丈夫でさあつて引受けて来たんですからね。今更とても駄目でしたつておめおめ帰れもしませんよ。」
そして彼等は急いで其の橇を近所のどこかへ預けて、僕の云ふ通りにして歩きだした。
が、道は遠いのだ。北越線の一番近い停車場の新津へ出るのに、新発田からは七八里あるのだ。そして其の間には、半里も一里もの間家一軒もない、広い野原を幾つも通り抜けなければならんのだ。雪は降る。眼前数歩の先きは何んにも見えない程に、細かい雪がをやみなく降る。降るばかりならまだいゝ、時々強い風が来ては、足もとの雪を顔に吹きあげる。そんな時には、たゞしつかりと踏みとゞまつて、顔を押へて其の風の行つて了ふのを待つてゐるほかはない。そして又、たゞほかよりは少し小高くなつてゐる道をあてに、一歩一歩腿まで埋まりながら重い雪靴の足を運んで行くのだ。
ちやうど新発田と新津との中間の、水原と云ふ町の向うの、一里ばかりの原に通りかゝつた時には、三人とも疲れと餓ゑとでへとへとになつて了つて、幾度其の原の中で倒れかゝつたか知れなかつた。そして五歩歩いては休み十歩歩いては休みして、漸く其の原の真中の一軒家に着いた時には、皆んなもうまるで死んだもののやうだつた。
しかし、其の一軒家で大きな囲炉裏に火をうんともして、一時間程其のまはりに転がつて寝て、そして、あつい粥を七八はい掻つこんだあとでは、すつかりもとの元気になつてゐた。
そして夕方近い頃に、一番の汽車に間に合ふ筈であつた新津に、漸く着く事が出来た。
東京に着くと直ぐ、(編注・一九○二 明治三十五年一月)僕は牛込矢来町の、当時予備か後備かになつてゐた退役大尉の、大久保のお父さんを訪ねた。上京のたんびに僕(編注・十八歳)は此の大久保のうちへ遊びに行つて、其の直ぐ向ひに下宿屋のある事を知つてゐたので、大尉の監督の下にそこへ下宿するやう、父に申し出てあつたのだつた。
若松屋と云ふ其の下宿には、幸ひに、奥の方に四畳半の一室があいてゐた。そして僕は、正月の休みの間に探し歩いた、猿楽町の東京学院へ(今はもうないやうだが)、中学校五年級受験科と云ふのにはひつて、毎日そこから通ふ事となつた。そこでは僕は自分の学力の足りないと思つた数学や物理化学に特に力を入れて勉強した。そして同時に又、或は四月頃になつてからだとも思ふが、夜は、其頃四谷の箪笥町に開かれた仏蘭西語学校と云ふのに通つた。これは、庄司(先年労働中尉と呼ばれたあの庄司何んとか君の親爺さんだ)と云ふ陸軍教授が主となつて、やはり陸軍教授の安藤(其後早稲田の教授をしてゐた)だの、ジロオと云ふ高等学校の先生のフランス人だのが始めた学校だつた。
かうして僕は、東京に着く早々、何もかも忘れて夜昼たゞ夢中になつて勉強してゐた。
が、何よりも僕は、僕にとつての此の最初の自由な生活を楽しんだ。直ぐ向ひには監督であり保證人である大尉がゐるのだが、これはごくお人好の老人で、一度でも僕の室をのぞきに来るでもなし、訓戒らしい事を云ふのでもなし、又僕の生活に就いて何一つ訊いて見ると云ふのでもなかつた。僕は全く自由に、たゞ僕の考へだけで思ふまゝに行動すればよかつたのだ。
東京学院にはひつたのも、又仏蘭西語学校にはひつたのも、僕は自分一人できめた。そして大尉や父にはたゞ報告をしただけだつた。僕が自分の生活や行動を自分一人だけで勝手にきめたのは、これが始めてであり、そして其後もずつと此の習慣に従つて行つた。と云ふよりも寧ろだんだんそれを増長させて行つた。
僕は幼年学校(編注・名古屋の陸軍幼年学校)で、まだほんの子供の時の、学校の先生からも遁れ父や母の目からも遁れて、終日練兵場で遊び暮した新発田の自由な空を思つた。其の自由が今完全に得られたのだ。東京学院の先生は、生徒が覚えようと覚えまいとそんな事にはちつとも構はずに、たゞ其の教へる事だけを教へて行けばいゝと云ふ風だつた。出席しようとしまいと教授時間中にはひつて行かうと出て行かうと、居眠りしてゐようと話してゐようと、そんな事は先生には何んの関係もないやうだつた。そして仏蘭西語学校の方では、生徒が僕のほかは皆な大人だつたので、先生と生徒とはまるで友達づき合ひだつた。一時間の間膝にちやんと手を置いて不動の姿勢のまゝ瞬一つせずに、先生の顔をにらめてゐる幼年学校と較べればまるで違つた世界だつた。僕はたゞ僕自身にだけ責任を持てばよかつたのだ。そして僕は此の自由を楽しみながら、僕自身への責任である勉強にだけたゞ夢中になつてゐた。
三
けれどもやがて、此の自由を憧れて楽しむ気持が、たゞ自分一人のぼんやりした本能的にだけではなく、更にそれが理論づけられて社会的に拡張される機会が来た。ごく偶然に其の機会が来た。
僕は其頃の僕の記憶の一断片に就いて、嘗て「乞食の名誉」の中の一篇「死灰の中から」の中に書いた。
――僕が十八の年の五月頃だつた。(或はもう二三ケ月か、もつとあとの事かも知れない。)まだ田舎から出たてのしかも学校の入学試験準備に夢中になつて、世間の事なぞはまるで知りもせず、又考へても見ない時代だつた。僕は牛込の矢来に下宿してゐた。或る寒い日の夕方、其の下宿にゐた五六人のW(早稲田)大学の学生が、どやどやと出て行く。そとにも大勢待つてゐるらしいがやがやする音がする。障子をあけて見ると、例の房のついた四角な帽子をかぶつた二十人ばかりの学生が、てんでに大きなのぼり見たいな旗だの高張提灯だのを引つかついで、わいわい騒いでゐる。
――「もう遅いぞ。駈足でもしなくつちや間に合ふまい。」
――「あゝ、しかし其の方が却つていゝや。寒くはあるしそれに此の人数でお一二、お一二で走つて行けば、随分人目にもつくだらう。」
――「さうだ。駈足だ! 駈足だ!」
――皆んなは大きな声で掛声をかけて元気よく飛んで行つた。其時の「Y(谷中)村鉱毒問題大演説会」と筆太に書いたのぼりの間に、やはり何か書きつけた高張りの赤い火影がゆらめいて行く光景と、皆んなの姿が見えなくなつてからもまだ暫く聞えて来るお一二、お一二の掛声とは、今でもまだはつきりと僕の記憶に浮んで来る。これがY村と云ふ名を始めて僕の頭に刻みつけた出来事であつた。そしてそれ以来僕は其頃僕がとつてゐた唯一の新聞のY新聞(萬朝報に折々報道され評論されるY村事件の記事を多少注意して読むやうになつた。
――Y村問題は直ぐに下火になつた。今考へて見ると、ちやうど其頃が此の問題に就いて世間が大騒ぎした最後の時であつたのだ。従つてY村に就いての僕の注意も一時立消えになつた。しかし此の問題のお蔭で、僕はY新聞のD(幸徳秋水)やS(堺利彦)、M(東京毎日)新聞のK(木下尚江)、W大学のA(安部磯雄)などの名も知り、同時に又新聞紙上のいろんな社会問題に興味を持つやうになり、殊にDやSなどの文章に大ぶ心を引かれるやうになつた。そして其の翌年の春頃には、学校で「貧富の懸隔を論ず」などと云ふ論文を書いて、自分だけは一ぱしの社会改革家らしい気持になつてゐた。
――僕ばかりぢやない。更に其の翌年、DとSとが其の非戦論のためにY新聞を出て一週刊新聞(平民新聞)を創めて、新しい社会主義運動を起した時、それに馳せ加はつた有為の青年の大部分は、此の鉱毒問題から転じて来たものか、或は此の問題に刺戟されて社会問題に誘ひこまれたものであつた。
これは谷中村の鉱毒問題に就いて書いたものの中の一断片だ。従つて、勿論其の中には嘘はないのだが、多少一切を鉱毒問題の方へ傾けすぎた嫌ひはある。それを今は、此の行を書いてゐる最中の自由と云ふ気持の記憶の方へ、もう少し傾け直さなければならない。其の方が、少なくとも今は、本当だと思ふのだ。
僕はたゞ一番安いと云ふ事だけで萬朝報をとつた。田舎者でしかも最近数年間は新聞を見るのを厳禁されて、世の中はたゞ軍隊の生活ばかりのやうに考へこまされてゐた僕は、其のほかにどんな名のどんな新聞があるのかも碌には知らなかつた。其の数年間の世間の出来事に就いても、僕が今覚えてゐるのは、皇太子(今の天皇)の結婚と星亨の暗殺との二つ位のものだ。皇太子の結婚は僕が幼年学校にはひると直ぐだつた。僕等は二人が伊勢へお参りするのを停車場の構内で迎へて、二人のごく丁寧な答礼にすつかり恐縮し且つ有りがたがつたものだ。それを思ふと、これは全くの余談ではあるが、山川均君などは恐ろしい程の先輩だ。彼れは既に其頃キリスト教主義の小さな雑誌を出してゐて、此の結婚に就いての何かを批評して、そして不敬罪で三年九ケ月とか食つてゐるのだ。星亨の暗殺は僕が幼年学校を出る年の事だつたが、僕はそれを学校の庭で、暫く星の家に書生をしてゐたと云ふ一学友から聞いただけだつた。そしてそれに対してはたゞ、剣客伊庭某の腕の冴えに感心した位のものだつた。星がどんな人間でどんな悪い事をしたかと云ふやうな事はまるで知らなかつた。
此の盲の手をほんの偶然に手引してくれたのが萬朝報なのだ。僕は此の萬朝報によつて始めて軍隊以外の活きたいろんな社会の生活を見せつけられた。殊に其の不正不義の方面を目の前に見せつけられた。
しかし其の不正不義は、僕の目には、たゞ世間の単なる事実として映り、単なる理論としてはひつた位の事で、それが僕の心の奥底を沸きたゝせると云ふ程の事はなかつた。それより僕は其の新聞全体の調子の自由と奔放とに寧ろ驚かされた。そして殊に秋水と署名された論文のそれに驚かされた。
彼れの前には、彼れを妨げる、又彼れの恐れる、何物もないのだ。彼れはたゞ彼れの思ふまゝに本当に其の名の通りの秋水のやうな白刃の筆を、其の腕の揮ふに任せてどこへでも斬りこんで行くのだ。殊に其の軍国主義や軍隊に対する容赦のない攻撃は、僕にとつては全くの驚異だつた。軍人の家に生れ、軍人の間に育ち、軍人教育を受け、そして其の軍人生活の束縛と盲従とを呪つてゐた僕は、たゞそれだけの事ですつかり秋水の非軍国主義に魅せられて了つた。
僕は秋水の中に、僕の新しい、そしてこんどは本当の「仲間」を見出したのだ。が、たつた一つ癪にさはつたのは、僕が水のしたゝるやうな刀を好きなところから竊かに自ら秋水と号してゐたのを、こんど別に秋水と云ふ有名な男のある事を知つて、自分の其の号を葬つて了はなければならない事だつた。
それと、もつと近くにゐて僕の目をあけてくれたのは、同じ下宿の直ぐそばの室にゐた佐々木と云ふ男だつた。彼れはもう二三年前に早稲田を出て、それ以来毎年高等文官の試験を受けては落第してゐる三十位の老学生だつた。いつも薄ぎたない着物を着て、頭を坊主にして、秋田あたりのズウズウ弁で愛嬌のある大きな声をだして女中を怒鳴つてゐた。其の顔も厳めしさうな八字髭は生やしてゐたが、両頬に笑くぼのある、丸々とした愛嬌面だつた。友達のない僕は直ぐ此の老書生と話し合ふやうになつた。彼れは議論好きだつた。そして僕のやうな子供をつかまへても議論ばかりしてゐた。僕も負けない気で、秋水の受売りか何んかで、盛んに泡を飛ばした。
それから、此の佐々木の友人で、仏蘭西語学校で同じ高等科にゐた小野寺と云ふのと知つた。これもやはり、二三年前に早稲田を出て、其頃は研究科でたつた一人で建部博士の下に社会学をやつてゐた。少し出歯ではあつたが、からだの小さい、貴公子然とした好男子だつた。
或晩、学校からの帰りに、同じ生徒の高橋と云ふ輜重兵大尉が、彼れに社会学と云ふのはどんな学問かと尋ねた。
「たとへば国家と云ふものが、又其の下にあるいろんな制度がですね、どんな風にして生れて、そしてどんな風に発達して来たかと云ふやうな事を調べるんです。」
小野寺は得意になつて、やはり佐々木と同じやうに少々ズウズウ弁ながら、多少演説口調で云つた。
「それや面白さうですな。」
士官学校の馬術の教官で、縫絲を一本手綱にしただけで自由に馬を走らせると云ふ馬術の名手の高橋大尉は、本当にうらやましさうに云つた。
社会学と云ふのは、又それがどんなものかと云ふ事は、これが僕には初耳だつた。そして僕も、高橋大尉と一緒にこんな学問をしてゐる小野寺をうらやましがつた。そして小野寺や佐々木に頼んで、社会学の本だの、其の基礎科学になる心理学の本だのを借りて、まるで分りもしないものを一生懸命になつて読んだ。多分早稲田から出た遠藤隆吉の社会学であつたか、それとも博文館から出た十時何んとか云ふ人の社会学であつたか、それとも其の両方であつたかを読んだ。又、金子馬治の最近心理学と云ふ心理学史のやうなものも読んだ。そして次いでに、同じ早稲田から出てゐる哲学の講義のやうないろんなものも読んだ。
小野寺は又僕に仏文のルボン著「群衆心理」と云ふのは面白い本だから読めと言つて勧めた。それも撲は、字引を引き引き、しかもたうとう碌に分らないながらも読んで了つた。
学習院は欠員なしでだめ、暁星中学校もだめとあつて、其の四月に、僕はあとたつた一つ残つてゐる成城中学校へ試験を受けに行つた。が、願書を出す時には外国語をフランス語として出して受けつけたのが、いよいよ試験の日になつて「こんどの五年にはほかにフランス語の生徒がないから」と云ふので無駄に帰されて了つた。
そして僕は九月まで待つて、どこか英語の中学校の試験を受けなければならないはめになつた。それで僕は急に英語の勉強を始めた。そしてユニオン読本の四が読めさへすればどこへでもはひれると聞いて、ほかの学科の方は止して、其のユニオンの四を近所の何んとか云ふ英語の先生のところへ教はりに行つた。もう幾年かまるで英語の本をのぞいても見なかつたので、始めからユニオンの四にぶつかるのは実に無茶な事だつた。しかし僕は先生のところで其の講義を聞いて来ては、更にうちへ帰つて字引と独案内とを首つ引きにして、それこそ本当に一生懸命になつて勉強した。そして一月二月するうちには其のユニオンの四も大した苦にはならなくなつた。
すると七月か八月の幾日かに、突然僕は「母危篤直ぐ帰れ」と云ふ父の電報を受取つた。
六 母の憶出
一
父の家は尾上町の直ぐ近所の西ケ輪と云ふ町の、練兵場の入口の家に引越してゐた。もと谷岡と云ふ少佐が住んでゐて、僕は其の息子と中学校で同級だつたので、前からよく知つてゐる家だつた。谷岡は幼年学校や士官学校の試験にいつも失敗つて、たうとう軍人になりそこねて、後、慶応にはひつて、今はどこかの新聞の経済記者になつてゐると聞いた。そして其の家の裏には、先年社会主義思想を抱いてゐると云ふので退校された、松下芳男中尉が住んでゐた。勿論まだ当時はほんの子供で僕の弟の友達だつた。
玄関にはひると、僕は知つてゐる人達や知らない人達の多勢が皆な泣きながら、あつちへ行つたりこつちへ行つたりしてうろうろしてゐるのを見た。僕は母はもう死んだのだと思つた。しかもたつた今死んだばかりのところだと思つた。そして其のうろうろしてゐる人達の一人をつかまへて「お母さんはどこにゐます」と訊いた。が、其の女の人はちよつと大きく目を見はつて見て、何んにも答へないで、わあと声を出して泣いて、逃げるやうにして行つて了つた。僕は又もう一人の女の人をつかまへた。が、やはり又、前と同じ目に遭つた。
仕方がないので、どこか奥の方の室だらうと思ひながら、先づ先きの人達の逃げこんだ玄関の直ぐ次ぎの室にはひつた。其の室と其の奥の座敷との間の襖は取りはづされて、其の二つの室一ぱいに多勢の人達が坐つてゐた。僕がはひつて行くと、皆んなは泣きはらした目をやはり先きの人達と同じやうに大きく見はつて僕の顔を見つめてゐたが、僕が又「お母さんはどこにゐます」と訊くと、其の中の女の人達は又わあつと声をあげて泣きだした。そして誰れ一人僕の問ひに答へてくれる人はなかつた。僕は変な気持になりながら、仕方なしに、又襖をあけて玄関の奥の一室にはひつた。そこは母の居室になつてゐたものと見えて、箪笥だの鏡台だのがならんでゐるだけで、誰れもゐなかつた。僕はそこに突つたつたまゝ、一体どうした事なんだらうと思ひながら、ぼんやりしてゐた。
そこへ、それが誰れだつたかはもう忘れて了つたが、とにかく母と親しくしてゐたそして僕も好きだつた或る軍人の細君がはひつて来た。
「あなたはまあどうしたんです。お先にいらつしたんですか。」
彼女もやはり目を泣きはらしながら、しかししつかりした口調で叱るやうに云つた。僕は其の「お先に」と云ふ言葉が何んの事だか分らなかつた。しかし、とにかく、
「いや、僕は今東京から来たんです。」
とだけ答へた。
「それぢやあなたは新潟へはいらつしやらなかつたんですか。」
「え、行きません。母は新潟にゐるんですか。」
「あゝ、それぢやあなたは何んにも知らないんですね。まあ……」
と云ひながら彼女はほろほろと涙を流した。
「母はもう死んだんですか。」
「えゝ、きのふ新潟病院でおなくなりになりました。そして、けふ、もう直ぐ皆さんでこちらへお帰りの筈です。」
僕はさう聞くと、成程、うちのものは誰れもゐないと気がついた。そして同時に又、始めて自分で電報と云ふものを受取つた僕が、其の差出人のところはちつとも見ずにたゞ中の「母危篤直ぐ帰れ」と云ふのだけを見て、驚いて向ひの大久保から旅費をかりて上野の停車場へ駈けつけた事を思ひついた。
「お着きです。」
と云ふ声がして、皆んなが玄関へ出て行くのが聞えた。
「さあ、お着きださうです。」
彼女はぼんやりと考へてゐる僕を促すやうに云つて、玄関へ出て行つた。僕も其のあとに随いて行つた。
棺の前後に父や弟妹等や其他四五人の人達が随いて、今車から降りたばかりのところだつた。
あとで聞くと、さつき僕が車から降りた時にも、やはり「お着き」だと思つて多勢出て来たのだが、僕がたつた一人でしかもうろうろしながら「お母さんはどこにゐます」なぞと訊くもんだから、これやきつと気でも変になつたんぢやあるまいかと、皆んながさう思つたんださうだ。
母は卵巣膿腫、即ち俗に云ふ脹満で死んだのだ。
其の少し前に、九人目の子供を流産してからだを悪くしたので、暫くどこかの温泉へ行つてゐたのだが、帰つて直ぐ手術すると云つて新潟へ出かけたのださうだ。しかも、「なあに、二週間もすれば、ぴんぴんしたからだになつて帰つて来ますよ」と云つて、大元気で出かけたのださうだ。
「そんな風でしたし、それにお母さまは榮は今試験前で勉強で忙しいんだから心配さしちやいけないと仰しやつて、どうしてもあなたのところへお知らせするお許しが出なかつたんですよ。」
母の死骸が着いた晩、三の町のお嚊と云つて、昔僕の家が新発田へ行つた其日から母の髪結さんとして出入りして、そして其後髪結をよしてからもずつと母の一番親しいお相手として出入りしてゐた女が、お通夜をしながら僕に話しだした。僕が去年の夏、此の自叙伝を書く準備に二十年目で竊と新発田へ行つた時にも、僕が最初に訪れたのはもういゝ婆さんになつた此のお嚊さんだつた。
「すると、三四日もしないうちに、危篤と云ふ電報なんでせう。で、私、お子さん方を皆さんお連れ申して参つたんですけれど、それやもう大変なお苦しみでね。注射でやつと幾時間幾時間と命をお止め申してゐたんです。時々、『榮はまだかまだか』と仰やいましてね、そしてあの気丈な方がもう苦しくて堪らないから早く死なしてくれ死なしてくれと仰しやるんです。それでも、私がもう直ぐお兄さまがいらつしやいますからと云ふと、うんうんとお頷き遊ばして黙つてお了ひなさるんですもの。それや、どんなにかあなたをお待ち遊ばしたんですが。幾度も早く死なして死なしてと仰しやるんですけれど、其のたびに私があなたの事を申しあげると、頷いては、黙つてお了ひになるんですもの。」
お嚊は一晩ぢう、殆んど此の話ばかり繰返して云つて聞かしては、自分も泣き又僕をも泣かした。
「それに、お母さまは、お嚊丈夫になつて直ぐ帰つて来るからねと大きな声で仰しやつてお出かけなすつたんだけれど、実はご自分でも覚悟をしていらつしたんですよ。私、お子さん方をお連れして行く時に、お召物を出しに箪笥をあけて見ますと、お母さまのお召物に何んだか妙な札がついてゐるんです。よく見ますと、それが皆んな春とか菊とか松枝とかとお嬢さん方のお名前が書いてあるんでせう。私、腹が立ちましてね。何もそんな覚悟までして、わざわざ新潟くんだりへ手術なぞしにいらつしやらなくてもよささうなものだと思ひましてね。私、其の事はお母さまに存分お怨みを申しあげましたわ。」
お嚊は又こんな話もした。そして、母の死は実は医者の過失なので、手術後腹が痛み出して又切開して見たら中から絲が出て来て、大変な膿を持つてゐたなぞとも話した。これは、そこに立会つた人達が皆んな非常に憤慨して話して、病院へ何んとか掛合はなければならんなぞと云つてゐたが、父は悲痛な顔をしながら、「いや、済んだ事はもう仕方がない」と一人あきらめてゐた。
そんなお通夜が二晩か三晩続いて、大阪にゐたお祖母さん(母の母)と僕の直ぐ妹の春とが到着すると直ぐ、葬式が出た。
ちやうど新発田の町の殆んど端から端までの一番賑かな大通りを通つて、僕が位牌を持たせられて、宝光寺と云ふ旧藩主の菩提寺まで練つて行つた。新発田にもう十幾年もゐて、それに母はそとへ出ると新発田言葉で大きな声で会ふ人毎に挨拶して歩くと云ふ程だつたので、見送りの人も随分多かつた。そして殆んど通りの町ぢうの人がそとへ出て見送つてくれた。
「あんなご立派なお葬式はまだ見た事がありません。」
と云つて、三の町のお嚊なぞは今でもまだ、其の人並すぐれた小さなからだを揺すりながら、おかめを皺くちやにして自慢にしてゐる。
葬式が済んでから、母の棺を六人ばかりの人足にかつがして、僕と弟の伸とが引きつゞいて、五十公野山と云ふ僕等がよく遊びに行つた小さな山の奥の方へ火葬に行つた。人足共は其の場所まで行くと、先づ藁を敷いて、其の上へあたりの松の枝を折つて来ては積み重ねて、そして其の上へ棺を乗せて又松の枝を積み重ねた。そして、自分等はそこから二三間離れたところに蓆を敷いて、車座になつて、持つて来た大きな徳利だの重箱だのを幾つか並べたてた。かうして朝まで飲みあかしながら、死骸がすつかり骨になつて了ふまで待つんだと云ふ。
僕は其の人足共の云ふまゝに、一束の藁に火をつけて、其の火を棺の一番下に敷いてある藁の層に移した。藁は直ぐに燃えあがつた。其の火は更に、其の上の松の枝や葉に燃え移つた。そして僕は其の焔々として燃えあがる炎の中に、ふだんのやうにやはり肉づきのいゝ、たゞ夏のさ中に幾日も其儘に置いたせゐかもう大ぶ紫色がかりながらも、眠つたやうにして棺の中に横はつてゐる母の顔を見た。僕は其の棺箱が焼けて、母の顔か手か足かが現はれて出たら、堪らないと思つた。それでも僕はぢつとして其の炎を見つめてゐた。
人足共の一人は急いで僕等兄弟をわきへ連れて行つて、直ぐ帰るやうにと勧めた。もう日も大ぶ暮れてゐたのだ。そして、僕は其の場所へ行つたら直ぐ帰るやうにと予め云ひつけられて来たのだ。僕等は其の人足に送られて山の麓まで出て、そこから車に乗つて帰つた。
二
母の死体がうちへ着いた時に、僕は其の棺のそばに暫く忘れたやうになつてゐた礼ちやんが立つてゐるのを見た。礼ちやんも二三日前から新潟の母の所へ行つてゐたのだ。たしか其の晩だつたと思ふが、夜遅くなつてから、お通夜をすると云ふのを無理やりに皆んなに帰れ帰れと勧められてうちへ帰つた。そして高級副官の父のもとにやはり旅団副官をしてゐた何んとか云ふ中尉の細君が、それはまだ若い、さうして聯隊ぢうで一番綺麗な細君で、僕は前から随分親しくしてゐたのだつたが、竊と僕の肩をつゝいて、しかし高い声で、僕に礼ちやんを送つて行くやうにと勧めた。ほかの人達もそれと一緒になつて、同じやうに僕に勧めた。僕は急に胸をどきどきさせながら、ちよつとためらつた。礼ちやんはもじもじしながら、にこにこして、僕が座を立つのを待つてゐるのだつた。綺麗な細君もやはりにこにこして、僕の顔を見てゐるやうだつた。僕は此の二人の若い細君の微笑みに妙に心をそゝられた。
僕は直ぐ提灯を持つて、礼ちやんと一緒にうちを出た。そとは真暗だつた。礼ちやんと僕とは殆んどからだを接せんばかりに引つついて行つた。二人がこんなにして歩くのはこれが始めてだつたのだ。僕はもう母が死んだ事も何もかも忘れて了つた。そして提灯のぼんやりした明りを二人の真ん中の前にさし出して、益々引つついて歩いて行つた。二人は何か声高に話しながら笑い興じてゐたやうだつた。
「あら、齋藤さんぢやありませんか。」
二人は向うから軍服を着て勢よく歩いて来る男にぶつかりさうになつて、礼ちやんは其の男の顔を見あげながら叫ぶやうにして云つた。それは礼ちやんのうちと同僚の齋藤中尉だつたのだ。此の中尉は、僕が幼年学校にはひる前、彼れがまだ見習士官だつた頃から、僕もよく知つてゐた。が、中尉の方ではちよつと僕等が分らないらしかつた。
「君は何んだ。」
中尉は礼ちやんの方へ食つてかゝるやうに怒鳴つた。
「いや、僕ですよ。」
僕は礼ちやんをかばふやうにして一足前へ出て云つた。中尉はぢつと僕の顔を見つめてゐたが、
「やあ、君でしたか。これはどうも失礼。僕は又……いや、これからお宅へ行くところなんです。どうも失礼。」
と、多少言葉を和らげながらも、まだぶりぶりしたやうな様子で行つて了つた。
「まあ、ほんとにいやな齋藤さん。お酒の臭ひなぞぷんぷんさして。」
礼ちやんはもう大ぶ行つて了つた後ろをふり返りながら呟いた。
「でもきつと、僕らがあんまりふざけて来たもんだから、此辺の何かと間違へたかも知れないね。」
僕は少々気がさして云つた。僕等か歩いてゐる西ケ輪の通りと云ふのは其の裏の小人町と一緒に、主として軍人をお得意とする魔窟だつたのだ。
「さうね。けれど、これぢやあんまり失礼だわ。」
礼ちやんはまだ多少憤慨しながらも、しかし自分を省みない訳ではなかつた。
二人は暫く黙つて、しかし相変らず殆んど接触せんばかりに引つついて歩いて行つた。
「ねえ、榮さん、私お嫁に行つて随分つらいのよ。」
礼ちやんはしんみりした調子で口を切つた。
「どうして?」
「おしうとさんがそれやひどいのよ。お母さんの方はまださうでもないんですが、お父さんがそれや難しい方でね。本当に箸のあげ下ろしにもお小言なんだけれど、そんな事はまだ何んでもないわ。私がちよつとうちを留守にすると、其の間に私のお針箱から何やかまで引掻き廻して何か探すんですもの。私もうそれが何よりもつらいわ。」
「へえ、そんな事をするんかね。」
僕は驚いて彼女の顔を見た。彼女は黙つてうつむいてゐた。が、僕にはそれ以上何んと云つて話していゝのか分らなかつた。僕も仕方なし黙つて了つた。
道は川のそばだの、あまり家のこんでゐないところだので随分寂しかつた。それでも二人は又暫く黙つて、引つつき合つて歩いて行つた。
礼ちやんは又口を切つて、東京での僕の学校の様子を訊いた。僕は去年の暮れに、此の礼ちやんのためだけでも偉い人間になつて見せると私かに決心した事を思ひ出した。が、そんな事を話さうとも思はず、又よし思つたとしても話する事は出来ずに、たゞ礼ちやんの訊くまゝに受け答へしてゐた。そしてたうとう礼ちやんのうちの直ぐ近くまで行つた。
僕はもう帰ると云ひだした。礼ちやんは、ぜひ、ちよつと寄つて行けと引きとめた。
「僕はいやだ。さつきの齋藤さんのやうに、又隅田さんに変に思はれるかも知れないからね。」
僕はそんな事を云ふつもりでもなく、ふいと戯談のやうに云つて了つた。
「あら、いやな榮さん、それぢやいゝわ。」
礼ちやんは手をあげて打つまねをしながら、ちよつと僕をにらんだか思ふと、其儘ばたばたと駈けだしてうちへはひつて了つた。
僕はぼんやりしたやうになつてうちへ帰つた。
翌日、礼ちやんは又うちへ来た。そして其後も、毎日、日に一度はきつとやつて来た。
母の死骸がうちにあつた間は、二人とも顔を見合はしても先夜の事などはまるで忘れたやうにしてゐた。そして又実際いろんなほかの人達と一緒に母の死に就いての歎きに胸を一ぱいにしてゐたが、葬式が済んだ翌日からは、二人とも顔さへ合せれば、もう母の死の事などは忘れたやうになつて、そしてまだほんの子供のやうな気になつて、先夜二人で門を出た時と同じやうに一緒に笑ひ興じたり騒いだりばかりしてゐた。
例の綺麗な細君も殆んど毎日のやうに見舞ひに来た。そして二人のそんな風なのを黙つてにこにこしながら見てゐて、時々、本当にお二人は仲善ささうね、なぞとからかつてゐた。
お祖母さんは苦々しさうにして、いつも顔をしかめてゐた。
此の綺麗な細君は、其後、日露戦争の留守中に何か不都合な事があつたとかで離縁になつたと云ふやうに聞いたが、そしてそれから間もなく一度銀座でたしかに其の人らしい顔をちよつと見たのだが、どこにどうしてゐる事か。
しかし、学校の入学試験を直ぐ目の前に控へてゐた僕は、いつまでもさうしてゐる事が出来なかつた。母の葬式が済んでから一週間目位で、僕は又上京した。そして又、母の事も礼ちやんの事も綺麗な細君の事も何もかも忘れたやうになつて、勉強しだした。
三
十月の始めになつて僕は東京中学校(今はもうないやうだ)と順天中学校との五年の試験を受けた。
今はどうか知らないが、其頃の東京の私立のへぼ中学校では、殆んど毎学年毎学期に各級の入学試験をやつた。そして其の毎学期の始めに二三回生徒募集をして、其のたびに試験を受けさしては受験料を儲けるのを例としてゐた。東京中学校のも順天中学校のも其の最後の第三回目の生徒募集の時だつた。
僕は其のどつちかにどうしてもはひらなければならないと思つた。が、其の試験は二つとも殆んど同時に行はれるのだつた。僕はもう自分の学力には自信があつた。しかし、万一の時にはと思つて、少し早くから始まる東京中学校のは自分で受けて、順天中学校のは換玉を使ふ事にきめた。それには、ちやうどいゝ下宿の息子の友達で僕もそれを通じて知つてゐた早稲田中学卒業の何んとか云ふ男があつた。
ところが僕自身が受けた東京中学校の方は、僕の大嫌ひな用器画が三題ともちつとも分らないで、其れでもう落第となつた。換玉の方はうまく行つて、了ひまで通過して行つて、及第となつた。そして僕は其のお蔭で順天中学校の五年級にはひつた。
しかし僕は、かうして話を年代通りに進めて行く前に、さつきの礼ちやんの事が少し気にかゝるのだ。と云ふのは、あんな甘いしかも蜜も何んにもない初恋の話の続きを今後まだあちこちに挟んで行くのは少し気が引けるので、少々年代を飛ばして、今こゝで話しついでに其後のいきさつをも一思ひに皆んな話して了はうと思ふのだ。そしてこんどは、礼ちやんの夫の隅田が死んだ時の二人の関係の場面になつたのだから、前の話のいゝ対照にもなると思ふので、猶更それを先づ書きたいのだ。
礼ちやんとは其後三度会ふ機会を持つた。
最初の一度は、殆んど一度とも云へない位なので、其後四年ばかりして、僕が外国語学校を出て社会主義運動に全く身を投じようとした頃の事だつた。堺君や田川大吉郎君や故山路愛山君なぞが一緒になつて、即ち当時の社会民主主義者や国家社会主義者なぞが一緒になつて、電車の値上反対運動をやつた。そして日比谷で市民大会と云ふのを開いて、そこで集まつた群集の力で電車会社や市会なぞへ押しかけた。其の前日だ。僕は堺君の家からあしたの市民大会のビラを抱へて、麹町三丁目のあたりからそれを撒き歩きはじめた。其時僕はふと礼ちやんらしい姿を道の向う側に認めた。たゞそれだけの事なのだ。
が、あとで聞くと、それは本当に礼ちやんだつたので、僕が其の市民大会の直ぐあとで兇徒聚集と云ふ恐ろしい罪名で未決監に入れられた時に、礼ちやんが僕の留守宅に見舞ひに来てくれたさうだ。其頃僕は僕よりも二十歳ばかり上の或る女と一緒に下六番町に住んでゐたのだ。
其の次の二度目は、それから又二三年してからの事と思ふが、彼女と其の夫とを東京衛戌病院に訪ねた。どうして彼女等がそこにゐる事を知つたのか、又隅田がどんな病気でそこにゐたのかも忘れて了つたが、僕が其の病室にはひるといきなり礼ちやんはそとへ飛びだして行つて暫く姿を見せなかつた。そして隅田はマッサアジをやらしてゐた。
「はあ、奴、知らないお客だと思つて逃げ出したんだ。」
隅田は笑ひながらさう云つて、其のマッサアジ師に彼女を呼びにやつた。
彼女は「まあ」と云つて、びつくりしたやうな顔をしてはひつて来た。
其時隅田は、前に東京へ出て英語を勉強したいために憲兵になつて、憲兵何んとか云ふ学校にはひつてゐたが、其後どこかへ転任して、今病気で東京に帰つてゐるんだと云ふやうな話をしてゐた。そして僕が社会主義者になつてもう二三度入獄してゐる事に就いても、困つたものだがしかし君の性格上仕方があるまいと云ふやうな事を云つて、礼ちやんはそれに「えゝ、あんまり出来すぎるからだわ」と弁解して附け加へてゐた。
が、其時には僕は三十分ばかりで帰つて、其後又彼女夫婦がどうなつたかは暫くちつとも知らなかつた。
すると、それから又四五年して、僕が例の神近(市子)や伊藤(野枝)との複雑な恋愛関係にはひり始めた頃の事、最後の三度目に、又突然と礼ちやんが現はれて来た。
或日僕は、僕がフランス語の講習会をやつてゐた牛込の藝術倶楽部へ行つた。そして僕が借りてゐた一室のドアを開けると、そこの長椅子に礼ちやんが一人しよんぼりと腰をかけてゐるので、実にびつくりした。
「隅田は大変肺を悪くしましてね、熊本の憲兵隊長をしてゐたのをよして、今はこちらに来てゐるんです。そして寝たつきりでゐるんですが、あなたが前に肺が大変悪かつたのに今はお丈夫だと云ふ事を聞きましてね。ぜひあなたにお会ひして、あなたの肺のお話を聞きたいつて云ふんですの。お医者もいろんな事を云つてちつとも分りませんし、隅田ももう長い間の病気ですつかり弱りこんでゐるんです。」
礼ちやんがいろいろと詳しく話してゐるうちに、もうフランス語の時間が来て、生徒も二三人やつて来た。
「え、それぢや明日お宅へ参ります。」
と云つて、僕は礼ちやんを入口まで送り出した。
翌日行つて見ると、隅田の病気は話で聞いたよりよほど悪いやうに見えた。今まで僕が見た、肺で死んだ幾人かの人の、もう末期に幾ばくもない時のやうないろんな徴候を持つてゐた。僕はこれやもう一月とは持つまいと思つた。それでも、僕が悪かつた時の容体やそれに対する手当などをいろいろと訊かれるので、僕も詳しくいろんな話をして、何大丈夫ですよなぞと慰めた。が話してゐるうちにだんだん咳がひどくなるので、僕はあんまり長く話してゐてはいけまいと思つて、皆んなが切りにとめるのも聞かずに、礼ちやんにだけ竊と僕の思つた通りの事を話して、いゝ加減に切りあげて帰つた。
其後も折々見舞はうとは思つたのだが、僕は伊藤の行つてゐる九十九里の御宿へ行つたり来たりしてゐて、其のひまがちつともなかつた。そして、さうかうしてゐるうちに、礼ちやんから隅田死亡と云ふ知らせを受けとつた。
早速行つて見ると、隅田の死骸のそばでは多勢の男女が集まつて、大きな珠数のやうな綱のやうなものを皆んなでぐるぐる廻しては、ナムアミダー、ナムアミダー、と夢中になつて怒鳴つてゐた。下のほかの室にも僕の知らない多勢の人がゐた。礼ちやんは直ぐ僕を二階へ案内して行つた。
僕は今でもまださうだが、死んだ人の家へ行つてどうお悔みを云つていゝか知らなかつた。で、黙つてたゞお辞儀をした。
「やつぱりあなたの仰しやつた通りでしたわ。」
礼ちやんはすつかりやつれて泣顔をしながらも、それでもいつもの生々とした声で話しだした。
「私、こんな事を云つちやいけないんでせうけれど、隅田のなくなる事はもうとうから覚悟してゐましたし、今ぢや隅田のなくなつた悲しみよりも私の是からの身体の方が余ッ程心配なんですの。」
僕は来る早々意外な事を聞くものだと思つた。
「経済上の心配ぢやないんです。それはどうとかしてやつて行けます。けれど、隅田がなくなつて方々から親戚のものが集まつて来てから、私今までまるでいぢめられ通しでゐるんです。そしてこれからも多分一生いぢめられ通しで行くんだと思ふんです。」
僕は益々意外なことを聞くものだと思つた。そしてやはり黙つたまゝ聞いてゐた。
「隅田の国の方の人が来ると直ぐ、私をつかまへて、おやお前はまだ髪を切らずにゐるのかい、と云ふんでせう。私、今時まだこんな事を云ふ人があるのかと思つて、何んとも返事が出来なかつた位ですわ。するとこんどは、壁にかけてあるヴァイオリンを見つけて、あゝこれは何んとかさんに直ぐあげてお了ひ、後家さんにはもう鳴物なぞ一切要らないんだから、と云ふんですもの。私、髪なんか切る事は何んとも思ひませんわ。又、ヴァイオリンなぞもちつとも欲しくありませんわ。けども今そんなにして、皆んなの云ふやうに本当の尼さんのやうになつたところで、それがいつまで辛抱出来るかと思ふと、自分でも恐ろしくなりますの。私今まで軍人の奥さんで、殊に日露戦争の間に、旦那が戦死して直ぐ髪を切つた方を沢山知つてゐますわ。そしてそれが四五年かしてどうなつたかもよく知つてゐますわ。其儘立派な未亡人で通した方はまるでないんですもの。そして本当の尼さんのやうな生活にはひつた人ほど、それがひどいんですもの。」
僕はたゞの平凡な軍人の細君と思つてゐた彼女が、これほどはつきりと、謂はゆる未亡人生活を見透してゐるのに驚いた。
「それであんたにはどうしても其の辛抱が出来ないと云ふんですか。」
僕は彼女がそれに就いてどこまで決心してゐるのかを問ひたゞさうと思つた。
「いゝえ、どこまでも辛抱して見るつもりです。今私は隅田の御里に帰つて、世間との一切の交渉を断つて、たゞ一人の子供を育てあげる事と、隅田の位牌を守つて行く事との、本当の尼さんのやうな生活をするやうに、毎日皆んなから責められてゐます。しかしそれも辛抱して見るつもりです。どこまでこれが辛抱出来るか知りませんが、とにかく出来るだけどこまでも、辛抱して行きます。」
「けれども其の辛抱が出来なくなる恐れがあるんでせう。其時にはどうするつもりなんです。」
「え、それが心配なんですの。けれど、やつぱり、どこまででも辛抱しますわ。」
「で、あなたの方のお父さんやお母さんはどう云つてゐるんです。」
「私には可哀想だ可哀想だと云つゐますが、やはり一旦隅田家へやつた以上は、隅田の云ふ通りにしなければならんと云つてゐます。」
「あなたがさうまで決心してゐるんなら、それでもいゝでせう。しかし、出来るだけやはり辛抱はしない方がいゝです。辛抱はしても、もうとても出来ないと思ふ以上の事は決して辛抱しちやいけません。それが堕落の一番悪い原因なんです。」
「でも、それでも辛抱しなきやならん時にはどうしませう。」
「いや、辛抱しなきやならん理屈はちよつともないんです。そんな場合には、もう一切をなげうつて、飛び出すんです。直ぐ東京へ逃げていらつしやい。僕がゐる以上は、どんな事があつても、あなたを勝たして見せます。」
「えゝ、有りがたう御座います。私本当にあなたをたつた一人の兄さんと思つてゐますわ。けれど私、どうしても辛抱します。どこまでも辛抱します。たゞね、本当に榮さん、私あなたをたつた一人の兄さんと思つてゐますから、どうぞそれだけ忘れないで下さいね。」
僕は彼女と殆んど手を握らんばかりにして、又近いうちに会ふ約束で分れた。
其の翌日、隅田の葬式があつたのだが、僕は着て行く着物も袴も何んにもなし、又借りるところもないので、わざと遠慮して、そこから余り遠くない麻布の神近の家で一日遊んで暮した。
それから幾日目だつたか、或日、礼ちやんが麹町の僕の下宿に訪ねて来た。
いよいよあすとかあさつてとか、隅田の郷里に帰るので、牛込の或る親戚へ用のあつたのを幸ひに、内緒で立ち寄つたとの事だつた。話はやはり、いつかの彼女の家での話を、も少し詳しくして繰返したに過ぎなかつた。が、さうして彼女と話してゐる間に、僕は幾度彼女の手を握らうとする衝動に駆られたか知れなかつた。
しかし、彼女もいつまでさうしてゐられる訳でもなく、又僕ももう藝術倶楽部へ行く時間が迫つてゐたので、下宿を出て一緒に倶楽部の直ぐ近くまで行つた。そして無事に、お互に「ご機嫌よう」と云つて分れて了つた。
四
順天中学校と云ふのは、尤もほかにもそんなのが幾つもあつたのだらうが、ちよつと妙な学校だつた。
僕のはひつた五年は三組で二百人か二百五十人かゐた。四年は二組で百五十人、三年は百人、二年一年は四五十人と云ふやうに、級がさがるに従つて生徒の数が減つてゐた。わざわざこんな学校に一年や二年からはひるものはないんだ。そして大がいは直ぐと四年か五年かへはひるんだ。
僕等の組には、哲学院(東洋大学の前身)を出たものだの、早稲田を出たものだの、其他いろんな専門学校を出たものがゐた。そんなのは何かの必要からたゞ中学校卒業の免状だけを貰ひに来たのだ。又、顔を見ただけでも秀才らしいまだ年少の、或はぼんやりとした年かさの、独学の人も可なりゐた。それから又、僕なぞと同じやうに、どこかの学校で退学させられた不良連も随分ゐた。そして、僕と同じやうに、換玉ではひつたのも此の不良連の中に多かつた。
僕と一緒に此の順天中学校へはひつた友人に登坂と云ふのがゐた。やはり僕と殆んど同時頃に、男色で、仙台の幼年学校から逐はれて来たのだつた。
此の登坂とは、其の年の一月、即ち僕が東京へ出て来ると直ぐ、市ケ谷の幼年学校の面会室で出遭つた。そして彼れから、新発田での旧友で同時に幼年学校へはひつた谷と云ふ男ともう一人とがやはり彼れと一緒に退学させられた事を知つた。四人は直ぐ友達になつた。ほかにもまだ、やはり同時頃に同じやうな理由で大阪の幼年学校を退学させられた島田と云ふのともう一人と、どこかで落ち合つて、これも直ぐ友達になつた。皆んな、名古屋仙台大阪と所は違ふが、同じ幼年学校の同期生だつたのだ。
皆んなは其の名誉恢復のためと云ふので、互に戒めて勉強を誓つた。そして其の年の九月十月には皆んなどこかの中学校の五年にはひつた。
其の中でも登坂と僕とは、最初に出遭つた関係からか、又お互に文学好きで露伴と紅葉との優劣を論じ合つたりしてゐたせゐか、一番近しくなつて、殊に一緒に順天中学へはひると直ぐ、本郷の壱岐坂下に一室をかりてそこに一緒に住んだ。
二人とも、学校の方もよく勉強したが、小説も随分よく読んだ。坂上にちよつとした貸本屋があつて、そこから借りて来るのだが、暫くの間に其の貸本屋の本を殆んど皆な読んで了つた。
後には島田も此の下宿に仲間入りした。島田は撃劔がお自慢で、真黒な顔をした巌乗なからだの男で、いつも僕等が小説なぞを読むのを苦々しさうにしてゐた。そこで、登坂と僕とが一策を案じて、其のいやがるのを無理押しつけに、「不如帰」を借りて来て読ました。先生、最初の間はむづかしさうな顔をしてペエジをめくつてゐたが、だんだん眉の間の皺をのばして来て、たうとう了ひには其のさゞえのやうな握拳でほろほろと落ちる涙をぬぐひ始めた。「それ見ろ」と云ふので、其後二人は島田の喜びさうなものを選んでは読ましてゐたが、島田は浪六の「五人男」がすつかりお気に召して、「俺れは黒田だ、大杉、貴様は倉何んとかだ」と云ふやうな事を云つて一人で喜んでゐた。
浪六物や弦齋物はとうの昔に卒業して、紅葉露伴のものまでももう物足りなくなつていた僕等は、島田のそんな話にはまるで相手にならなかつた。しかし僕は、其の「倉何んとかだ」と云はれたのが、内心は余程の不平だつた。
「成程、僕は今倉何んとかのやうに、一面にはごく謹厳着実に済ましてゐる。しかし、それだけ他のもう一面には、黒田のやうな豪放が私かに燃えてゐるんだ。貴様なんかのえせ豪放が何んのあてになるもんか。」
僕は自分で自分にさう叫んで、「今に見ろ」と腹の中で一人で力んでゐた。
其頃、僕よりも一期上でやはり名古屋出身の田中と云ふのが、中央幼年学校から逐ひ出されて、これも僕等の下宿にころがりこんだ。其他にも、登坂の仲間の何んとか云ふのと、島田の仲間の何んとか云ふのと、これも一時僕等の下宿に来たが、此の二人は僕等の謹厳着実な生活に堪へきれないで、直ぐほかへ出て行つて了つた。
又、僕等よりもやはり一期上で、そして僕等よりも一年程前に仙台を出た箱田と云ふのが、其の年に高等学校へはひつて、ちよいちよい僕等の下宿に遊びに来た。僕等よりも一期二期あとの、其後に退校させられた二三のものも、学校や其他のいろんな事に就いて、僕等のところに相談に来た。
かうして、幼年学校の落武者共が、殆んど皆な僕等の下宿を中心にして集まつた。そして其の次の年には、皆んな無事に中学校を終へて、僕と島田とは外国語学校に、登坂と田中とは水産講習所に、谷は商船学校に、皆な可なりの好成績ではひつた。
谷は今郵船の船長をしてゐる筈だ。田中はどこかの県の技師になつてゐると聞いた。島田は、もう大ぶ古い頃に、どこかの田舎の聯隊の將校集会所でドイツ語を教へてゐると云ふ話だつた。登坂は一時水産で大ぶ儲けて、山陰道のどこかで土地の藝者を二人ばかりかこつてゐたと云ふ程の勢だつたさうだが、十年ばかり前に失敗してアメリカへ行つた。そして今でもまだ失意の境遇にゐるらしい。箱田は朝鮮で検事かをやつてゐる。
僕は又、壱岐坂上の貸本屋のほかに、神保町あたりの或る貸本屋のお得意にもなつてゐた。そこには、小説本のほかに、いろんな種類のむつかしい本があつた。僕は矢来町の下宿にゐた時から引続いて、そこから哲学だの宗教だの社会問題だのの本を借りて来ては読んでゐた。矢野龍渓の「新社会」は矢来町時代に、丘博士の「進化論講話」は壱岐坂下時代か或は其の少し後かに、幾度も繰返しては愛読した。
「新社会」は少し早く読みすぎたせゐか、其の読後の感興と云ふ程のものは今なんにも残つてゐない。しかし「進化論講話」は実に愉快だつた。読んでゐる間に、自分のせいがだんだん高くなつて、四方の眼界がぐんぐん広くなつて行くやうな気がした。今までまるで知らなかつた世界が、一ぺエジ毎に目の前に開けてゆくのだ。僕は此の愉快を一人で楽しむ事は出来なかつた。そして友人には皆な、強ひるやうにして、其の一読をすゝめた。自然科学に対する僕の興味は、此の本で始めて目覚めさせられた。そして同時に、又、すべてのものは変化すると云ふ此の進化論は、まだ僕の心の中に大きな権威として残つてゐたいろんな社会制度の改変を叫ぶ、社会主義の主張の中へ非常にはひり易くさせた。
「何んでも変らないものはないものだ。旧いものは倒れて新しいものが起きるのだ。今威張つてゐるものがなんだ。直ぐにそれは墓場の中へ葬られて了ふものぢやないか。」
しかし、僕にはまだ、何かの物足りなさがあつた。母が死んで、と云ふやうな事をも殆んど忘れたやうにはしてゐたが、自意識の中では余程さびしかつたに違ひない。又、礼ちやんの事はやはり同じやうに忘れたやうにはしてゐたが、幾年も続けて来た同性の謂はゆる恋を全く棄てた僕は、其の方面でも余程さびしかつたに違ひない。友人と云へば、さつき云つた幼年校の落武者連だけだつたが、それもたゞ同じ境遇から互に励み合つたと云ふ程の事で、本当に打解け合つた親しい間柄ではなかつた。
多分そんな饑ゑを充たすためだつたのだらう、僕はよく飯倉の親戚の家へ出かけた。従兄の山田良之助(今陸軍の少將で憲兵司令官をやつてゐる)の細君の家だ。山田は当時陸軍大学校の学生で、此の飯倉の小さな家に住んでゐた。僕はそれらの人のしんみな親しみの中にもひたりたかつた。其の邸の可なり贅沢な適位な生活の中にもひたりたかつた。そして又、そこのいろんな綺麗な女の人達の笑顔も見たかつた。しかし、そこの人達は皆な、男も女も綺麗ではあつたが、其の顔も心も冷たかつた。殊に僕が幼年学校を逐ひだされてからは、猶更さうのやうな気がした。僕よりも二つ三つ年下の何んとかさんと云ふ娘なぞは、僕の幼年学校時代には随分よく一緒に遊びもしふざけもして、僕は心中竊かに「僕が任官したら」と云ふ望みをすら持つてゐたのだつたが、もう大ぶ娘らしくなつてツンと済ましてゐた。
そんな寂しさがきつと主になつて、そして其のほかにもまだ、新しい進歩思想を求める要求なぞが手伝つて、順天中学校を終る少し前から僕はあちこちの教会へ行き始めた。そして下宿から一番近い、又其のお説教の一番気にいつた、海老名弾正の本郷会堂で踏みとゞまつた。
海老名弾正の国家主義には気がついたのかつかなかつたのか、それともまだ僕の心の中に多分に残つてゐた謂はゆる軍人精神とそれとが合つたのか、それは分らない。とにかく僕は先生の雄弁にすつかり魅せられて了つた。まだ半白だつた髪の毛を後ろへかきあげて、長い鬚をしごいては、其の手を高くさしあげて、「神は……」と一段声をはりあげる其のいゝ声に魅せられて了つた。僕は他の信者等と一緒に、先生が声をしぼつて泣くと、やはり一緒になつて泣いた。
先生はよく「洗礼を受ける」事を勧めた。「いや、まだキリスト教の事がよく分らんでもいゝ。洗礼を受けさへすれば、直ぐによく分るやうになる」と勧めた。僕は可なり長い間それを躊躇してゐたが、遂に洗礼を受けた。其の注がれる水のよく浸みこむやうにと思つて、わざわざ頭を一厘がりにして行つて、コップの水を受けた。
此のキリスト教は、僕を「謹嚴着実」な一面に進めるのに、大ぶ力があつたやうだ。しかしそれも長くは続かなかつた。
五
僕は外国語学校の入学試験に及第すると直ぐ、父のゐた福島へ行つた。父は其の少し前に、部下の副官の何かの不しだらの責を負うて、旅団副官から福島聯隊区の副官に左遷されたのだつた。
其後父の兄から聞いた話ではあるが、其頃父は師団長と喧嘩してゐたのださうだ。旅団長の比志島義輝が師団長の誰れとかと仲が悪くて、と云ふよりも寧ろ其の師団長に憎まれてゐて、副官たる父はいつも旅団長を擁護する地位に立たなければならなかつた。比志島は以前にも借金のために休職になつたのだが、日清戦争で復活して、又以前のやうに盛んに借金してゐた。そして父は、表向きの副官であるよりも、より以上に比志島家の財産整理のために忙がしかつた。旅団長は又幾度も休職になりかゝつた。父は其のたびに仙台へ行つて、旅団長のために弁解して、師団長と激論した。そんな事から、旅団長の出す進級名簿の中からは、いつも師団長の手で父の名が削られた。そして遂に比志島は休職となつて、其のあとへ師団長のそばにゐた何んとか云ふ参謀長がやつて来た。其の結果が父の左遷となつたのださうだ。
更に其後、これは父が誰かに話してゐるのを聞いたのだが、比志島は日露戦争で又復活して、戦地から一万円二万円と云ふやうな金を幾度も其の債権者のもとに送つて、帰る頃には借金を全部済ました上に、猶可なりの財産までもつくつてゐたさうだ。
父は聯隊区司令部の直ぐそばの、僕等がまだ住んだ事もない程の、小さな汚ない家にゐた。そして女中も置かずに、僕の直ぐの妹に学校をよさして、多勢の弟妹等の世話や其他の一切をやらしてゐた。
が、僕の驚いたのは、それよりも父の甚だしい変りかただつた。年はまだ四十三四だつたのだらうが、急にふけて、もうたしかに五十を幾つもこえた老人のやうになつてゐた。そして以前には、うちの事は一切を母に任して金の事なぞはつい一ことも云つたのを聞いた事がなかつたのに、妙にけちんぼな拝金宗になつてゐた。
尤も、以前からごく質素で、自分で自分の小使銭を持つていた事もなく、又恐らくは金の使ひ道も知らなかつた程なので、其の由来のけちんぼが少しもそとに現はれなかつたのかも知れない。が、母が死んで、自分でうちの細かい会計までやつて見るとなると、之れが急に目立つて来たのかも知れない。
とにかく父は、月給や勲章の年金だけではとてもやつて行けない、と云つてゐた。そして、どうして母が今よりもずつとはでな生活をしてゐて、それで毎月幾らかづつ残して行つたのかと不思議がつてゐた。父はそんな心配や、母のない多勢の子供等のための心配なぞで、急に年がふけたのだ。急に金の有りがた味を感じだしたのだ。
それで、父の兄の話を本当だとすると、父はもう軍人生活に見切りをつけて、実業界へでも鞍がへするつもりでゐたらしかつた。毎朝新聞を見るのにでも、きつと相場欄に目を通してゐた。そして僕にもそこを読むやうに勧めて、其の読みかたなどをいろいろと講釈までしてくれた。僕はいつの間に父がそんな事を知つたのだらうと怪しんだ。が、此の実業熱も新聞の相場欄に対する熱心も、実は其の先生があつたのだ。或日、聯隊区司令官の何んとか云ふ中佐か大佐のうちへ遊びに行つたが、僕は其の司令官から父の講釈其儘の講釈を又聞かされた。
僕は父が急にふけて見すぼらしくなつたのは傷ましかつたが、しかし其の心の変化には少しも同情が出來なかつた。寧ろ父を賤みさへした。そして父の先生が其の司令官であつたのを見て、軍人が皆なそんなさもしい心になつたのぢやないかと憤慨し且つさげすんだ。
従つて、暫く目の僕の帰省も大して愉快ではなかつた。そして一ケ月ばかりして又東京に帰つた。
外国語学校ははひつて見て直ぐがつかりした。幼年学校で二年半やつて、更に其後もつい数ケ月前まで仏蘭西語学校の夜学で勉強しつゞけて、もう分らんなりにも何かの本を読んでゐたフランス語も、又アベセの最初から始めるのだ。
たゞ、一ケ月ばかりしてから、仏人教師のジャクレエの心配で、卒業の時には本科卒業として出すと云ふ約束で全科目選修の選科生として二年へ進級したが、其の二年も素より大した事ではなかつた。そして此の二年へ行つてから気がついたのだが、先生のまるきり無茶なのに驚かされた。フランスに十年とか十五年とかゐたと云ふ先生が、二年生の出来のいゝものよりももつと出来ないんだ。そして本一ぱいに鉛筆で何か書きつけて来て、それを拾ひよみしながら講義して、それ以外の事には何一つ生徒の質問に答へる事が出来ないんだ。そして出来る二人ばかりの先生は、怠けもので随分よく休みもし、又出て来てもほんのお義理にいゝ加減に教へてゐた。そして其の多勢の先生の教へるものの間に、殆んど何んの聯絡もないんだ。
たゞ一人、ジャクレエ先生だけが、実に熱心に、一人で何もかも毎日二時間づつ教へた。僕は此の先生の時間だけ出ればそれで十分だと思つた。そしてそれ以外の先生の時間は出来るだけ休む事にきめた。
ちやうどその頃だ。日露の間に戦雲がだんだんに急を告げて来た。愛国の狂熱が全国に漲つた。そしてたゞ一人冷静な非戦的態度をとつてゐた萬朝報までが、急に其の態度を変へだした。幸徳と堺と内村鑑三との三人が、悲痛な「退社の辞」をかゝげて、萬朝報を去つた。
そして幸徳と堺とは、別に週刊「平民新聞」を創刊して、社会主義と非戦論とを標榜して起つた。
それまで僕は、それらの人々とは、たゞ新聞の上の議論と、時に本郷の中央会堂で開かれた演説会での雄弁とに接しただけで、直接にはまだ会つた事がなかつた。しかし此の旗上げには、どうしても一兵卒として参加したいと思つた。幸徳の「社会主義神髄」はもう十分に僕の頭を熱しさせてゐたのだ。
雪のふる或る寒い晩、僕は始めて数寄屋橋の平民社を訪うた。毎週社で開かれてゐた社会主義研究の例会の日だつた。
玄関をはひつた直ぐ左の六畳か八畳の室には、まだ三四人の、しかも内輪の人らしい人しかゐなかつた。そして其の中の年とつた一人と若い一人とが切りに何か議論してゐた。僕は黙つて、そこから少し離れて、壁を背にして坐つた。議論は宗教問題らしかつた。年とつた方は安坐をかいて片肱を膝に立てて頭をなでながら、切りに相手の青年をひやかしながら無神論らしい口吻をもらしてゐた。青年の方はきちんと坐つて、両手を膝に置いて肩を怒らしながら、真赤になつて途方もないやうなオオソドクスの議論に、文字通りに泡を飛ばしてゐた。そして其の間に、ちよいちよいともう一人の年とつたのが、それが堺である事は始めから知つてゐた。先きの男ほど突つこんでではないがやはり其の青年を相手に口を入れてゐた。
僕は其の青年の口をついて出る雄弁には驚いたが、しかし又、其の議論のあまりなオオソドクスさにも驚いた。僕も彼れとは同じクリスチャンだつた。が、僕は全然奇蹟を信じないのに反して、彼れは殆んどそれをバイブルの文句通りに信じてゐた。僕は神は自分の中にあるものと信じてゐたのに反して、彼れは万物の上にあつてそれを支配するものと信じてゐた。僕はこんな男がどうして社会主義に来たんだらうとさへ思つた。そして無神論者らしい年とつた男の冷笑の方に寧ろ同感した。
此の年とつた男と云ふのは久津見蕨村で、青年と云ふのは山口孤劔だつた。
やがて二十名ばかりの人が集まつた。そして、多分堺だつたらうと思ふが、「けふは雪も降るし、大ぶ新顔が多いやうだから、講演はよして、一つしんみりと皆んなの身上話やどうして社会主義にはひつたかと云ふやうな事をお互に話しよう」と云ひだした。皆んなが順々に立つて何か話した。或る男は、「私は資本家の子で、日清戦争の時、大倉が缶詰の中へ石を入れたと云ふ事が評判になつてゐるが、あれは実は私のところの缶詰なんです。尤もそれは私のところでやつたんではなくつて、大倉の方で或る策略からやつたらしいんではあるが」と云つた。
「それぢや、やはり大倉の缶詰ぢやないか。どうもそれや、君のところでやつたと云ふよりは大倉がやつたと云ふ方が面白いから、やはり大倉の方にして置かうぢやないか。」
かう云つたのもやはり堺だつたらうと思ふが、皆んなも「さうだ、さうだ、大倉の方がいゝ」と賛成して大笑ひになつた。其の資本家の子と云ふのは、今の金鵄ミルクの主人邊見何んとか云ふのだつた。
もう殆んど最後近い頃に僕の番が来て、僕も、「軍人の家に育ち、軍人の学校に教へられて、軍人生活の虚偽と愚劣とを最も深く感じてゐるところから、此の××××××のために一生を捧げたい」と云ふやうな事を云つた。
そして最後に又堺が立つて、「こゝには資本家の子があり、軍人の子があり、何んとかがあり、何んとかがあり、実に吾々の思想は今や天下の有らゆる方面にまで拡がつてゐる。吾々の運動は天下の大運動にならうとしてゐる。吾々の理想する社会の来るのも決して遠い事ではない」と云ふ激励の演説があつた。
僕はさう云はれて見ると、本当にそんなやうな気がして、非常にいゝ気持になつて下宿へ帰つた。其日、幸徳がそこにゐたかどうかはよく覚えてゐない。
それ以来僕は毎週の研究会には必ず欠かさずに出た。そして、それ以外の日にもよく遊びに行つたが、殊に下宿を登坂や田中のゐた月島に移してからは、殆んど毎日学校の往復に寄つて、雑誌の帯封を書く手伝ひなぞをして一日遊んでゐた。
六
平民社は幸徳と堺と西川光二郎と石川三四郎との四人で、石川を除くほかは皆な大の宗教嫌ひだつた。尤もそとから社を後援してゐた安部磯雄や木下尚江は石川と共に熱心なクリスチャンだつた。そしてそこに集まつて来た青年の大半も、やはりクリスチャンだつた。当時の思想界ではクリスト教が一番進歩思想だつたのだ。少なくとも忠君愛国の支配的思想に背く最も多くの分子を含んでゐたのだ。
幸徳や堺等は可なり辛辣に宗教家を攻撃もし又冷笑もした。そして研究会ではよく宗教の問題が持ちあがつた。しかし幸徳や堺等は、宗教は個人の私事だと云ふドイツ社会民主党の何かの決議を守つて、同志の宗教には敢て干渉しなかつた。
石川は本郷会堂での僕の先輩だつた。が、其頃にはもう教会と云ふものにあいそをつかして、殆んど教会に行く事もなかつたらしい。僕も平民社へ出入りするやうになつてからは、皆んなの感化で、先づ宗教家と云ふものに、次には宗教其者に、だんだん疑ひを持ち始めた。そして日露の開戦が僕と宗教とを綺麗に縁を切つてくれた。
僕は、海老名弾正が僕等に教へたやうに、宗教が国境を超越するコスモポリタニズムであり、地上の一切の権威を無視するリベルタリアニズムだと信じてゐた。そして当時思想界で流行りだしたトルストイの宗教論は、益々僕等に此の信念を抱かせた。そして又僕は海老名弾正の「基督伝」やなんとか云ふ仏教の博士の「釈迦牟尼伝」の、クリスト教及び仏教の起原のところを読んで、やはりトルストイの云ふやうに、原始宗教即ち本当の宗教は貧富の懸隔から来る社会的不安から脱け出ようとする一種の共産主義運動だと思つてゐた。
然るに、戦争に対する宗教家の態度、殊に僕が信じてゐた海老名弾正の態度は、尽く僕の此の信仰を裏切つた。海老名弾正の国家主義的大和魂的クリスト教が、僕の目にはつきりと映つて来た。戦勝祈祷会をやる。軍歌のやうな讃美歌を歌はせる。忠君愛国のお説教をする。「我れは平和を齎さんがために来れるに非ず」と云ふやうなクリストの言葉を飛んでもないところへ引合に出す。僕はあきれ返つて了つた。そして、海老名弾正だの、当時よくトルストイ物を翻訳してゐた加藤直士だのと数回議論をしたあとで、すつかり教会を見限つて了つた。そして又同時にうつかりはひりかけた「右の頬を打たれたら左の頬を出せ」と云ふ宗教の本質の無抵抗主義にも疑を持つて、階級闘争の純然たる社会主義にはひることが出来た。
戦争が始まると直ぐ、父は後備混成第何旅団かの大隊長となつて、旅順へ行つた。
僕は父の軍隊を上野停車場で迎へた。そして一晩駅前の父の宿に泊つた。
僕は父が馬上で其の一軍を指揮する、こんなに壮烈な姿は始めて見た。ちよつと涙ぐましいやうな気持にもなつた。しかし、何んだか僕には、父の其の姿が馬鹿らしくもあつた。「何んのために、戦争に勇んで行くのか」と思ふと、父のために悲しむと云ふよりも寧ろ馬鹿々々しかつたのだ。
宿にはひつてからも、父や其の部下の老將校等は皆な会ふ人ごとに「これが最後のお勤めだ」と云つて、たゞもう喜び勇んでゐた。僕は又それが益々馬鹿々々しかつた。
父は僕にたゞ「よく勉強しろ」と云つただけで、別に話したい様子もなく、たゞそばに置いて顔を見てゐればいゝと云ふやうな風だつた。
七 獄中生活
一 市ケ谷の巻
東京監獄の未決監に「前科割り」と云ふあだ名の老看守がゐる。
被告人共は裁判所へ呼び出されるたびに、一馬車(此頃は自動車になつたが)に乗る十二三人づつ一組になつて、薄暗い広い廊下のあちこちに一列にならべさせられる。そして其処で、手錠をはめられたり腰縄をかけられたりして、護送看守部長の点呼を受ける。「前科割り」の老看守は一組の被告人に普通二人づつつく此の護送看守の一人なのだ。いつ頃から此の護送の役目についたのか、又いつ頃から此の「前科割り」のあだ名を貰つたのか、それは知らない。しかし、少なくとももう三十年位は、監獄の飯を食つてゐるに違ひない。年は六十にとゞいたか、まだか、位のところだらう。
被告人共が廊下に呼び集められた時、此の老看守は自分の受持の組は勿論、十組あまりのほかの組の列までも見廻つて、其の受持看守から「索引」をかりて、それと皆んなの顔とを見くらべて歩く。「索引」と云ふのは被告人の原籍、身分、罪名、人相などを書きつけた云はゞまあカアドだ。
「お前は何処かで見た事があるな。」
しばらく其のせいの高い大きなからだをせかせかと小股で運ばせながら、無事に幾組かを見廻つて来た老看守は、ふと僕の隣りの男の前に立ちどまつた。そして其の色の黒い、醜い、しかし無邪気なにこにこ顔の、如何にも人の好ささうな細い眼で、じろじろと其の男の顔をみつめながら云つた。
「さうだ、お前は大阪にゐた事があるな」
老看守はびつくりした顔付きをして黙つてゐる其の男に言葉をついだ。
「いや、旦那、冗談云つちや困りますよ。わたしや、こんど始めてこんなところへ来たんですから。」
其の男は老看守の人の好ささうなのにつけこんだらしい馴れ馴れしい調子で、手錠をはめられた手を窮屈さうにもみ手をしながら答へた。
「うそを云へ。」
――以下・割愛――