義經のばか ─ 「吉野山」の忠信

 それまでに何度か吉野へ行ったことがあったけれど、なぜか、いつも冬だった。みぞれに凍えながら、蕭条と枯れわたった花なき吉野をあるいたり、 西行庵のあたりで凍った残り雪に足をとられそうになったりした。足もとの枯れ草むらから、鋭い声とともに飛び立った雉におどろかされたこともあった。

 はじめて花を目的に行ったとき、吉野の山は、しもは声なく散り初めており、

なかは花ざかり、そして、かみは五、六分咲きといったところだったろうか。

まさに、「霞か雲かにほひぞ出づる」花の吉野だった。

 吉野のさくらは山ざくら、シロヤマザクラともいうと教わった。が、白というより、かすかな翳りを帯びた白、あるいは、薄明かりの感じられる白とも、いったらよいだろうか。そして、花よりも一足早く芽吹いた葉のみずみずしい赤みを映して、ものはかなげなはなびらは淡い鴇色を帯びる。それが風や陽の光の具合で、微妙に翳ったり発光したりする。見飽かなかった。ただ、ぼうっとさくらをながめ、さくらのなかをさまよい歩いていた。こぼれたはなびらを掬って見れば、 はなびらのひとひらひとひらの萼に接していたところに、蘇芳色を帯びた薄紅が点じられていた。

 あとで気づいたのだけれど、この時、梶井基次郎の、

  櫻の樹の下には屍體が埋まつてゐる!

  これは信じていいことなんだよ。        

 も、石川淳の「花よりも濃くにほひ出でゝ、『花かげの鬼とのみおもはれよ』」と言い捨てて闇に走り去った女(『修羅』)も、坂口安吾の『櫻の森の満開の下』に吹く風も思い浮かばなかった。それに何よりも花の吉野は、『義經千本櫻よしつねせんぼんざくら』の「道行初音旅みちゆきはつねのたび」の舞台であることを思い出さなかったとは、どうしたことだろう。

 『義經千本櫻』は、兄頼朝と不仲になった源義經の都落ちから、吉野山に潜んでいるのを頼朝方に知られるところまでを、人形浄瑠璃に仕立てたものである。竹田出雲、三好松洛、並木千柳の三人の合作で、初演は延享四年(一七四七)、大阪の竹本座でだった。

 この人形浄瑠璃はたいへんな評判を呼び、わずか半年後には江戸で歌舞伎役者によって上演されている。今日でも人気の高い演目の一つで、歌舞伎・人形浄瑠璃ともに、よく上演されている。

 構成は全五段、その五段がそれぞれ「くち」「なか」「きり」の三つに分たれており、全部、上演したら何時間かかるか。前半を昼の部、後半を夜の部とに分ける、あるいは、二ヶ月にわたっての上演ということもある。それでもカットされる場面があり、歌舞伎の場合、見どころがあって人気もある 一まとまりを切り取って上演されることが多い。

  にも名高き大將と、末世に仰ぐ篤實の強くいうなる其の姿。 

  一度にひらく千本櫻榮え久しき。

 これは序段の口「院の御所の段」のしめくくりに謡われる一節。まだ、義經が落魄の身となる前で、凱旋将軍として後白河院の御所に参上した彼が退出するところである。『義經千本櫻』全篇で「千本櫻」ということばが出てくるのはここだけである。

 歌舞伎だと、舞台上手かみて二階御簾内にかいみすうちから、太棹ふとざおの三味線の音とともに太夫の声が降ってきて義經を讃え、舞台では烏帽子狩衣姿えぼしかりぎぬすがたも美々しい義經が見得をする。判官贔屓ほうがんびいきの観客をよい気分にしてくれるところである。残念なことに、人形浄瑠璃はともかく、歌舞伎ではめったに上演されない。

 「千本櫻」でもっともはなやかで夢見心地にさそわれるのは、「道行初音旅」であろう。『義經千本櫻』と銘打ちながら、舞台が一目千本という吉野のさくらに彩られるのは、ここしかない。

 この場、幕が開いただけで、「はぁー」と溜息が洩れるうつくしさ、はなやかさである。背景は、満開のさくらで埋った吉野の山のゆるやかな起伏を見渡している感じ、蔵王堂の屋根も小さく描き込まれている。吊枝つりえだ(舞台前面の上部からずらり吊り下げる造花や木の枝)まですべてさくらである。舞台の上手・下手で演奏する清元や竹本の太夫、お三味線まで、さくら模様の衣装ということが多い。

 人形浄瑠璃と歌舞伎とどちらが好きと言われると困ってしまうが、強いて言えば、そしてこの「道行初音旅」にかぎって言えば、わたしは歌舞伎をとる。

 この一幕、靜御前と義經の家来の佐藤忠信が、吉野に潜伏しているという義經を尋ねてゆく、その道中を舞踊劇にしたものなのだが、忠信はじつは狐なのである。本物の忠信が郷里にもどっているのをさいわい、狐が忠信に化けて靜の供をしているのである。

 狐の目的は何か。靜がたいせつに紫のふろしきに包み、背に負うている鼓である。この鼓は、義經が後白河院から拝領した「初音」の銘あるもので、都落ちの際、靜に預けていったのである。その鼓には千年、こうを経て神通力があるという狐の皮が張ってあり、佐藤忠信に化けている狐は、その鼓の皮にされた狐の子なのである。

 彼は父母恋しさに人間に化けて鼓のあとをついてゆく。しかし、ふっと狐にもどってしまう瞬間がある。それを人形浄瑠璃は、遣っている人形──忠信──を、すいと縫いぐるみの白狐に取り替える。あわてて人間にもどるところも、ぱっぱっと縫いぐるみと人形が取り替えられて、鮮やかといえば鮮やかだけれど、人間の姿にったときに、たった今まで狐であった名残りのようなものが感じられない。狐にもどったときもそうである。それで「道行初音旅」と、続く「四ノ切」と呼ばれる「河連法眼館かはつらほふげんやかた」は歌舞伎、となってしまう。

  戀と忠義はどちらが重い、かけて思ひは、はかりなや

 幕が開く。そこは見わたすかぎり花ざかりの吉野山。誰もいない舞台に、清元のびっくりするような高音域で謡われるこの一節がひびく。そして靜の登場。彼女は白拍子といって、今の藝者さんかタレントのような女性なのだけれど、吹輪ふきわという大名の息女などが結う髪形に銀の花かんざし、そして 演者によって多少、色がちがうが、赤のきものの上に鴇色の裲襠うちかけといったお姫さま風の拵えである。ただ、袖丈がふつうの振袖より短く仕立てられている。これはお姫さまではないことを示したものと言われている。

 「道行」の靜を演ずるにあたって当代の菊五郎は、見たところ普通のお姫様のなりをしていますが、義経のご愛妾なのですから、姫であってはいけないといわれるむつかしい役です。

 と語っている(「国立劇場」八十号)。

 わたしはこの時の菊五郎の靜を観ている。一九七六年の国立劇場開場十周年記念の興行だった。もう三十年も前のことになる。菊五郎は七代目を襲名してまだ間のなかったころとおもう。若々しくて愛らしい靜だった。

 靜かに忍ぶ旅立ちて、馴れぬしげみのまがひ道、弓手ゆんで馬手めても若草を、分けつゝ行けばあさる雉子きぎすの、ぱつと立つては、ほろゝけん、ほろゝけん、ほろゝ打つ、 なれは子ゆゑに身を焦がす、われは戀路に迷ふ身の、アヽうらやましやねたましや。

 さきの「戀と忠義は……」に続く部分である。「靜に」に靜御前の「靜」と、形容動詞の「しずかに」を懸け、ひっそり人目を忍んで出立し、迷いそうになりながら薮めいたところや野道をたどりゆく、その野から飛び立つ雉から「焼け野の雉子」が喚起され、そこから子と恋人と違いこそあれ、相手をおもう切なるじょうが呼び出される。中世や近世の謡いもの、語りものによく見られる手法だが、現代の構文に慣れた者には、まばゆく見える。

 舞台にもどろう。

 菊五郎の靜は、品よくこの部分を踊ったあと、供をしていた忠信が見えないことに気づき、ひとりうなづいて背に負うていた紫の包みを解いて鼓を取り出す。忠信の姿を見失ったとき、この鼓を打つと必ず彼があらわれる。何やらふしぎ、そう思いつつ靜は鼓を打つ。花ざかりの吉野の山々に澄んだ鼓の音が谺する。と、「来序らいじょ」といって、狐の出るときなどの鳴物が、「テン、ドロドロドロドロ」と薄気味わるく鳴り、「すっぽん」(花道の本舞台寄りに設けられたセリの装置)から、ゆっくり忠信がせりあがってくる。

 まず、狐のとがった耳をあらわすという、高やかに結びあげた元結の蝶結びが見え、剃りあげた青い月代さかやきが見え……。

 わたしはこの時、すっぽんに近い席にいたのだけれど、スローモーションのシーンを見ているような気がした。身体中がぞくぞくして来た。忠信が全身をあらわすまで、じっと息をつめて見つめていた。

 忠信は目を伏せたまま、せりあがってきた。鼓に聴き入っているからであろう。ややあって、ふっと気がついたように目をあげた。目尻に差した紅が匂うようだった。思わず「恰好かっこいい」と小声が出てしまった。と、それが忠信、いや、二代目松緑の耳に入ったらしい。切れ長の大きな目でちらと こちらを見た。足元からへんな声がしたのをとがめている眼差しではなかった。「聞えたよ」、そう応えてくれた流眄ながしめだった。

 忠信は何かを振りはらうように首を振った。初めの二度は狐の心で、あとの一度は人間の心で振るという口伝があると聞いたが、二つの世界を行きつ戻りつする彼の、自身は意識しない儀式のようなものであろうか。

「忠信どの、待ちかねました」と、本舞台からおっとり声をかける靜に、「これはこれは靜さま、女中の足とあなどつて思はぬ遅参、まつぴら御免下さりませ」と恐縮のていの忠信。「さいはひ、あたりに人目もなし」と続くせりふは、「道行」によくある恋の逃避行めくが、もちろん、靜と忠信の二人の関係は主従であって、恋人どうしではない。けれど、一方ははなやかなお姫さま風、一方も、黒か濃紫ながら、裾に大きな源氏車の金のぬいのある派手やかな衣裳、パッと両肩脱もろかたぬぎすると、燃え立つような緋の襦袢が似合う若い男、似合いのご両人といってよい。浄瑠璃の詞章も、

 彌生は雛の妹背仲いもせなか女雛男雛めびなをびなと並べて置いて、眺めに飽かぬ三日月の、宵に寝よとは後朝{きぬぎぬ}にせかれまいとの戀の欲、

 と色っぽく、意味ありげである。そう言えば、幕開きに謡われた「戀と忠義はどちらが重い、かけて思ひは、はかりなや」も、意味ありげである。

 それゆえ、主従であることを忘れぬようにというのが、忠信をる役者の心得とされているという。

 この「彌生は雛の妹背仲、女雛男雛と……」のところで、靜は袖を抱くようにして手を胸のところで交叉させて立ち、忠信がその背後で両袖を左右にひろげて、立雛の型になる。そこのところを六代目菊五郎は松緑に、

  けっして靜の後ろに入るなよ。後ろへくっ付くと、わけありの男女みたいに思われるぞ。だから、蟹じゃないが横から入るんだぞ。

 と、厳しく言ったという(『松緑芸話』)。

 けれど、松緑の忠信が、あの大きな体を小さくして遠慮がちに靜の斜めうしろにやや離れて立ち、それでも両腕をすっきり伸ばし、左右に大きく袖をひろげて女雛男雛の型がきまったとき、こんな佳い男に恋人を預けておいて、義經のばか、二人がどうにかなったって知らないから、と、埒もないことを思ったものである。

 しかし、この忠信はやはり狐だった。このあと思わず鼓に頬ずりをしてしまう一瞬がある。耐えきれなくなったのだろう。そこへ手を出した靜を見あげた目が尋常ではなかった。きらり光った目の凄かったこと。このとき、彼は紙一重のところで、人間のかたちを保っていたのだろう。俺のおとっつぁん、おっかさんだ、手なんか出したら承知しねえぞ。声にならぬ声で叫んでいたにちがいない。

 彼はやがてその正体をあらわし、親を思う情に打たれた義經から初音の鼓をもらうことになる。義經も父母の縁うすく育ったひとだった。