私の歩んで来た道

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 過ぎ去った事を考へて、何よりも満足に思ふのは、自分のやりたいと思ふ事をして来た事である。一体私と云ふ人間は余程変なところがあつて、遅鈍で、性急で、才がないものだから、何事でも好い加減のところで止めるわけに行かない。酒にしても、女にしても、どこ迄も徹底しなければ気がすまないのである。それが好い事か悪い事かは別として、兎に角、自分はさう云う風にしてやつて来たのである。それは、社会の為とか、文藝の為とか云ふものでなくて、飽く迄も自分自身の要求から出て来たものである。

 自然主義の運動が起つた頃の自分にしても、西欧の文藝の影響をうけた事も重大な原因ではあるが、硯友社の人達の中で紅葉山人は別としても、その他の人々のあの遊びの気持にはどうしても同ずる事が出来なかつたのである。私だつて、遊戯的の気持が全然ないわけではない。酒を飲んで面白がつたり、女を見てうれしがつたりしなかつたのではない。併しさうした深い感興本位な、真剣にぶつかつて行くことを欲しない気持にはどうも不満であつた。かう云ふわけで、自然主義運動も起した次第である。

 

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「蒲団」を書いたのは、明治四十年で、今の代々木の家へ引越して来てからである。今からかんがへて見れば、大した作ではない。しかし、あの時は、いろいろくるしんだ結果何とかして落付いた気持になつて、一つ一転機を劃するやうな作をしたいと思つて書いたものである。二人の女と一人の男を主題にした作品は、その頃メーテルリンクや、ハウプトマンを読んで知つてゐたので、それ等の影響と、あゝした事件があつた際なので、あの作が出来たわけである。序でに云つて置くが、「西鶴」や「近松」のものもずつと以前にも読んだのであるが本当に理解して面白いと思ふやうになつたのは、矢張異性を知つてから後の事である。

 私の思ふのに、一体、不見転みずてんなどを買つて、面白く騒いで見たところで、それは何でもない事だと思ふ。それは唯、ホンの接触があるのみで、どちらでも許してゐるのではない。だから、到底魂に迄触れて行く事は出来ない。この魂に迄触れて行くと云ふ事は、男女の間にしても、徹底的に真剣になつて、深く入つて行かなければ駄目なのである。

 私が、社会の為とか、藝術の為とか云ふ、その「為に」と云ふ事を嫌ふのも、矢張そこなのである。人間はみんな魂をもつてゐる。それが社会とか、団体とか云ふものに蔽はれて、それを通して見るから、魂に触れてゆく事が出来ないのである。自分が純真に赤裸々になつて、すべてを出して行く事は、自分の為にも好い事であり、他人の為にも好い事であるから、現在の私などの心持では、かう云ふ心持で、一人の人間の魂をつき動かせれば万人の魂にも触れて行けると云ふ心持になつてゐる。

 

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 私は可なり多くの作を書いたが、今見返して見るとつまらない作が多い。作品として一番うまいと思ふのは、非常に技巧的になつてゐた「一兵卒の銃殺」や「時は過ぎ行く」などを書いた頃の作である。それは、藝術的に好いので、単に技巧的なものだから、うまくは書けてゐても、今から考へると不満である。

 その前「一握の藁」を書いた頃は、実に暗い気持になつてゐる際なので、このまゝ続いてはどうにもならないと思つてゐた。「残雪」を書いた頃も、つきつめた気持で、あのまゝで進んで行けば、とても藝術などでは満足は出来なさゝうに思はれた位である。併し、最近、「電気と文藝」に「黒猫」を書いて、つくづく「自分も藝術家だな。」と思つた位である。矢張り自分は藝術とは離れる事は出来ないやうに思ふ。

 私もまだ四十二三位では駄目だつた。人も恐れず世間も恐れなくなつたのは、四十五を過ぎて後である。さうでない人もあるかも知れぬが、人間と云ふものはどうしても年齢と云ふ事は重大な関係をもつてゐるものだと思ふ。殊に五十にもなれば、次第に死の方へ近づきつゝあるのだから、無理もないと思ふ。二十代などで年齢の事など考へてゐたら、何にも出来ないが、吾々のやうになるとさうは行かなくなる。仕事の方から考へても、自然主義運動などは何と云つても世間を対象にしたものであつた。それから後、だんだん思想も変つて来て、今日に到つたのである。

 まだまだ私もいろいろな変つたものが出来さうに思はれる。今「讀賣」に書いてゐる「恋草」なども自分のつもりでは通俗小説ではなく、多少変つた方面に筆をつけてゐる考へなのである。

 

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 文壇的の交友では国木田独歩君などは最も親密にしたが、あれは「我儘」の出しつこのやうなものであつた。国木田君ははでで、快活で、才気もあり、話好きであつた。私は陰気で、黙りこくつてゐると云ふ風なたちであつた。この二人が互ひに「我儘」ばかりをし合つてゐたやうな交友関係であつた。島崎(=藤村)君も私は前から尊敬してゐた。あゝ云ふ落付いた考への深い人だから、初めから好い作ばかりを書いた。案外「破戒」などは価値としては落ちるかも知れないと思ふ。「新生」は何と云つても意義のあるもので、考へさせられる作である。一番古くから交つて、西洋の書籍などを読むやうに勧めてくれたり、目録を見せてくれたりしたのは柳田国男君である。柳田君にはいろいろな意味に於て世話になつた。最初は歌の仲間で宮崎湖処子の紹介で知つたのだが、後私は国木田君をも紹介し、島崎君をも紹介したわけである。

 国木田君はひらめく方の人だから、今生きてゐても島崎君のやうに大きなものを書いた人かどうかは分らぬが、宗教にあきたらないで藝術に来た人だけに、よく分つてゐた。鋭いところもあり、人心の機微を穿つと云ふ事に優れた天分をもつてゐた。「酒中日記」や「運命論者」も今から見ると書き方に古臭いところもあるが、あれでよく実感も出てゐるし、決して空想のみの所産ではなかつた。前者の主人公が金で苦心するところは、彼の実感であるし後者の題材もつくりものではなかつた。私は天才であるが故に、どんなつくり事でも本当に書けるかどうかと云ふ事には疑ひをもつてゐる。

(了)

田山花袋記念文学館