祖国に平和はいつ来るのか


  ―アフリカ難民キャンプを訪問して―

 一九九四年二月二十一日から三月十四日の約三週間、第七回上智大学アフリカ難民現地調査団が、ケニア、エチオピア、タンザニア、マラウイ、モザンビークを訪れた。一九八三年以来、二年ごとに行われている現地調査である。

 本文ではこのうち、ケニア、エチオピアの二カ国の報告をする。

帰還する難民たち

 二月二十六日早朝、ナイロビからエチオピアの首都アディスアベバに五年ぶりに入った。一九八三年以来五度目の訪問である。

 エチオピアの状況は一変していた。十七年間、〝社会主義″軍事独裁を欲しいままにした前指導者が国外に逃亡した後、反政府ゲリラの北部ティグレ人が首都を制圧して、九一年、暫定政権を作った。アフリカで最も長い独立闘争を三十年間闘いぬいたエリトリア人は、ついに念願のエチオピアからの分離独立を達成した。そして、いま多くの難民たちが帰還しようとしている。

 空港の混雑のなかで、旧政権時代に難民となっていた子ども連れの母親数十人が、入国係官に助けられている。手に持てるだけの荷物を持って、飛行便でスーダンからだろう、到着した。パスポートに代わる国連難民高等弁務官事務所発行の入国書類を係官に手渡しながら、空港を次々と後にする。懐かしい郷里へと足早に向かう姿には、「祖国帰還」の抑え切れない喜びが表れていた。

 いまだ七十万人という膨大なエチオピア難民や〝エリトリア″難民が北部スーダンに待機中である。エチオピア新政権やエリトリアにとって、国内の民主化、和解、市場経済導入による破綻した経済の再建と、いずれも多難なスタートである。

 そしていま、難民の帰還の波が押寄せようとしている。

 「帰還難民のプログラムは、国際機関や国際社会の協力がない限り、私たちの経済状態では実現できない」と、アディスアベバ政府の難民行政担当官はその難しさを率直に話してくれた。超大国から億ドル単位の軍事援助をもらい、住民の強制移住や集団村落化をして、戦争ゲームを果てしなく行なった旧政権下の十数年にわたる軍事化の後遺症(経済危機・環境危機・難民危機)は実に重い。

平和に向けての第一歩

 確かに難民流出の国家責任は大きいが、外部勢力の介入の責任も同時に問われなければならない。難民帰還プログラムをはじめとする復興開発には、その意味で二国間・多国間、国際機関、草の根NGO(非政府団体)などの援助協力がより効果をあげると思われる。

 実際、私は二十八日から三日間、戦闘が最も激しかった北部ティグレ州の貧農村での、農業・植林・水・女性プログラム・学校教育などのJSR(イエズス会難民救済事業)の小規模復興開発プロジェクトの視察をしたが、壊れた平和を取り戻すべく、地道なこうした復興活動が各地で始められている。

 首都から北へ八百キロ、飛行機で約二時間、さらに舗装のないゴツゴツした山道を4WDのジープで二時間かけて行った。ティグレ州のハウゼンという人口二千人ほどの小さな町では、文字どおり瓦礫を片付け、平和の足音が聞こえてくる。「空爆を受けて破壊した校舎の再建は、とりわけ生徒たちや地域の住民が喜んで歓迎したものだ」と、かつてアフガンでドイツの平和部隊として農業に従事し、いまはカトリックの神父となり、ここで農園芸を指導するアントンさんが教えてくれる。「今後三カ年、地雷撤去と農業・水の基盤整備と復興活動によって、帰還民の受け入れも少しずつ可能になるのでは」と、案内しながら彼は明るく笑って語ってくれた。

急増するケニア難民キャンプで

 ケニアの首都ナイロビから九人乗り小型飛行機に揺られること約二時間、ロードワ地区カタマ難民キャンプを三月十日に訪れた。この訪問は、UNHCR(国連難民高等弁務官事務所)とルーテル世界連盟(難民救援NGO)、JSR(イエズス会難民事業)のお世話で実現した。

 ナイロビから北西七百キロ、大地溝帯を越え、一帯は果てしない半砂漠が続く。眼下に点々と地元遊牧民トルカナ族の円形住居が散在するなか、周囲約七キロにわたって難民キャンプが広がる。これは南部スーダンからの難民二万人流出という緊急時に対応すべく、二年前に設営されたものだ。

 地表温度、摂氏四十度の猛暑の地、スーダン国境までわずか百二十キロしかない。大河を越えれば、ウガンダにもエチオピアにも隣接する。昨年来の猛烈な旱魃で、二十六万人の地元トルカナ族は飢餓状態。ケニア全土で三百万頭の家畜が死滅したと聞く。降雨は無く、河川も干上がり、吹く強風と舞い上がる砂塵。劣悪な環境だ。ここで「難民生活」をあてもなく強いられる女性と子どもや老人たちは、過酷な状況に耐えなければならない。キャンプの難民人口は約四万人を数える。

 難民に聞いた。「国境を越えた理由は?」「スーダンのイスラム原理主義軍事政権による政治的、軍事的、宗教的弾圧、それに南部人民解放戦線との内戦。食料も何もない」と。貧困→抑圧→軍事化→難民危機のパターンである。

 カクマ難民キャンプの特徴は家族もなく、肉親と離れ離れになったまま、スーダンからエチオピアに逃れ、またエチオピア政変によって追われてきた一万二千人の孤児がいることだ。「避難途中、数千人の子が濁流で命を落してしまった。そのことは世界に知らされなかった」と当時を話すスーダン難民の校長先生の表情は硬い。

 難民キャンプは小さな病院、母子健康センター、食料配給・補助給食センター、共同井戸、屋外教会、ミニライブラリィ、地酒つくり、小学校、木工・石工など訓練学校、サッカー、バスケット・コート、川べりの菜園、相談所など、とりあえず最低限度のコミュニティ・サービス施設を完備していた。砂漠のなかに出来た人為的タウンさながら。二万人の子どもが十九校ある学校に学んでいる。三つの小学校を視察してみて感心したのは、ナイロビから地元の子どもと外国人学校の生徒らが、バスで二日かけて実際に難民キャンプにやって来て、難民の子どもが楽しく集い、勉強しているその校舎造りを、三日間寝泊りして手伝っていったこと。NGOのセイブ・ザ・チルドレンの現場での実践である。

 しかし、「難民キャンプ地で百パーセント支援出来たとしても、彼らの自国での幸せのわずかでしかない」と、キャンプマネジャーのスウェーデン人、ステファノさんが語る。確かに。「国内に留まる権利」を保障することこそ難民化予防の措置である。

ドナチ神父と子どもたち

 キャンプ内のドン・ボスコの木工・石工訓練校で熱心に技術と規律を修得する二百人もの子どもたちの姿は「砂漠のなかの希望のオアシス」と表現したい。

 二年前からアフリカの貧しい子どもたちの伝え聞く苦労に共感して、日本からこの難民キャンプに飛び込んできて一年間共に生活し、無為失意のどん底にあった若者たちを励まし続けたひとりの神父さんに思いがけず知りあった。日本で司祭となって信仰に奉仕した三十年。ビンセンテ・ドナチさん(サレジオ会)。

 「聞いてほしい。ようやく落ち着いてきた子どもたちが、なんと夜秘かにトラックで、再三忍び込んでくる南部SPLA(スーダン人民解放戦線)の兵士らによって、スーダン領内に連れ戻される。長い戦争のため、成人兵士が足りない。そこで、丈夫になった男の子らの強制「徴用」に出た。その数、七百か八百人。先週もそうだった。いつもキリスト信者の子たちは『神父さん、どうか祝福してください』と、人なつっこくよくやって来てたんだ。だが、やがて、手に手に聖書を持ちながら、戦争に狩り出されていく」と。UNHCRもこの事実をつかんでいる。

 驚いたことに北部のアラブ・イスラム教徒の子どももコーランを手に、南部と対決、内戦に狩り出されているという。幼い子どもたちに容赦なく叩き込まれる「戦争のロジック=憎しみ」。恐ろしい大人のエゴイズム。あきらかに「子どもの権利」の侵害である。

 その日ちょうど六十六才の誕生日を迎えたドナチさんは「来週にはスーダンの南部で仕事が待っている。私のために祈ってください」と、さらに過酷な状況のなかで信仰に奉仕する決意をいまだ流暢な日本語で伝えてくれた。

〝平和のための祈り″の実践

 カクマ難民キャンプでは、他の多くの例と同じように青少年難民の心の傷をいやすことに努力がはらわれていた。孤児たちはお互いに五~十人の共同生活をしている。彼ら三千人を対象とした保育プログラムがあった。JRSの難民カウンセリング・センターではカナダ人シスター、コレッテさんやアイルランド人シスター、ドローレスさんがマラリヤや風土病に幾度か倒れながらも献身的に心の相談にのり、子どもたちを励ましている。

 コレッテさんは、キャンプにいる八千人のカトリックの信者と共に、〝平和のための祈り″の輪を広げている。とくに難民キャンプには各部族や民族の対立関係がそっくり持ち込まれ、一触即発の危機を常にはらんでいる。数少ない娯楽であるサッカーなどの親睦交流では興奮のあまり乱闘になり、死傷者も出るという。〝平和のための祈り″の実践によって、キャンプの緊張対立を緩げ、また、祖国に平和をとりもどすようにと部族の長老も女性も子どもも明日への希望を願うのであった。祈りの種をまくシスターたちの存在は大きい。

 慌ただしいキャンプ地訪問であったが、ナイロビに戻り改めて感じた。家族との温かい絆を奪われた子どもたちが「平和の合唱」を一日も早く取り戻すためにも、いまこそ難民の子どもに愛の手を差し伸べよう。国際社会の連帯によって。今年は国際家族年でもある。

 今回のケニアの難民キャンプ訪問や、帰還民の受け入れ計画のエチオピアの農村復興プログラムをじかに見てきて、貧しい人々を代表する草の根レベルの活動を大切に、彼らを支援してともに働く多くの素晴らしい世界の仲間に出会ったことが、何よりも私にとって喜びであった。