横浜事件(抄)

第一章 検挙

1 一九四四年一月二十九日

 

 いわゆる横浜事件で私が検挙されたのは、一九四四年(昭和十九年)一月二九日の朝であった。それは土曜日の朝であった。

 その明けがた、私は、トントンとドアをたたく音でかすかに眼を覚ました。が、まだ夢ともうつつともつかず、それがはたして私の部屋であるかどうかさえ聞きわける意識も湧かなかった。前夜、つまり金曜日の晩に、陸軍報道班員としてジャワに従軍していた武田麟太郎の帰還歓迎会が、人形町の梅の里という料理屋でひらかれて、私は夜中の一時過ぎに帰宅して床についたのであった。

 しかし考えてみると、たとえ深夜にせよ帰宅したということに、私はなにか運命的なものを感ずるのである。という意味は、——私は、武田麟太郎には「改造」編集者としての仕事以外に、個人的なことでもいろいろ世話になっており、いつものことなら梅の里のあと二次会、三次会に浅草方面へ率先して流れて行き、そうなればもう飲み明かしで、下北沢のアパートへは帰らなかったであろう。むろん、逃げまわらねばならぬような悪事をした覚えはないから、すぐつかまるにきまっているが、それでも一月二十九日朝の検挙はまぬがれたにちがいない。

 ひとの一生にはときとして、このようないわば神秘的な瞬間があるのかも知れない。べつに二次会からはずれねばならぬ理由はなかったし、またどうしてもその晩アパートヘ帰らねばならぬ予定もなかった。偶然同じ下北沢に住居のある大谷藤子に「もう帰りましょうよ」と促されて、素直にその気持になったまでである。大谷藤子は「日暦」同人で、昔から武田麟太郎を尊敬し、「改造」の当選作家でもあるので、私のとくに親しい女流作家であった。

 また、運命とか神秘とかといえば、私はゾルゲ事件の尾崎秀実の言葉を思い出す。彼は、その獄中書簡『愛情は降る星のごとく』のなかで、検挙の朝の感慨として、——過去から将来につながる四十三年の生涯を、一瞬の稲妻の光芒のなかに見透すような、鋭くせつない運命的なものを感じとったと述べているのである。

 ところで、ドアをたたく音は次第にはげしく、やがて明らかに「青山君、青山君」と呼ぶ声を耳にした。その瞬間、私は一種の恐怖感で、さっと幕を切るみたいに眼をひらいた。言いようのない、不思議な悪い予感だが、私はそれを特高の踏込みかと思った。——この八カ月間、つまり去年の五月、同僚の小野康人、相川博が検挙されて以来、私のこころのどこかにたえず、このような恐怖がかげっていたのであろうか。

 眼をあけたものの、私はまだ薄暗い天井を見つめて、しばらくためらったが、思いきって起き上がった。顔を上げてキョトキヨトする妻の寝床をまたいで、そっとドアをあけた。

 はたして待っていたのは特高であった。一人はかねてから顔見知りの北沢署の特高で、もう二人は神奈川県警察の特高だと告げ、北沢署の特高を押しのけるような乱暴な勢いで土間へ踏み込んできた。

 六畳一間きりの部屋で寝床が二つ敷いであっては坐る場所もない。そのふとんをかたづけ着替えをするあいだ廊下で待つように言ったが、神奈川県の特高はその前に押入れを見せてくれ、と勝手に上がりこんだ。

 北沢署の特高は「いったい、どうしたというんだ、青山君」とあきれたような、嘆くような口調で言った。彼は二年ほど前から月に一回ぐらいのわりで、なんとなく私を訪ね、二、三十分雑談しては帰って行った。私は学生時代の左翼運動の前歴のために思想上の“保護観察”を受ける立場にあったが、もうその頃はほんの形式的で、北沢署の特高も友だちづきあいのように安心しているようすであった。それがときならぬ、しかも神奈川県の特高によるけさの検挙ということで、彼の表情にはいっぱい食わされたかと、いまいましさもただよって見えた。私は、自分自身にも理由つかめず、納得がいかない検挙で、その場の複雑な心情をどう話しようもなく黙っていた。

 押入れをかきまわしてみたところで何の非合法文書も出るはずがなかった。そこではじめて私はチャブ台をはさんで三人の特高と向き合って坐った。あらためて拘引状を読んだ。

 検事の名は山根隆二とあった。

「細川論文以来、参考人としての呼出しぐらいはあるかもしれないと思っていたが、いきなり治安維持法違反の拘引とはふにおちませんね。」

「それは取調官の前で言ってくれ。」

「ぼくが海軍に徴用されて、報道部の嘱託であることを知ってのことですか。」

「むろん、そうだ。」

 私は「海軍」と「報道部」という言葉の調子を意識して強めて言った。そのときの気持を正直に言えば、そしてやや誇張すれば、虎の威を藉るというか、そんな卑怯な気持もあった。

 私はその前年の四月から、改造社に在籍のまま大本営海軍報道部の嘱託として仕事をしていた。雑誌社からはほかにもう一人、講談社の茂木重平が徴用されていた。海軍に関する雑誌記事の検閲が主な仕事で、その他報道部軍人の雑誌原稿や講演の草稿を執筆したり、また座談会の斡旋などであった。しかし、私がとくに海軍軍事にくわしかったわけではなく、たまたま戦争以来、私が海軍係りのように報道部ヘ出入りして、当時の平出英夫大佐(軍務局第四課長)をはじめ、報道部の軍人と親しかったからである。でも、考えようによってはきわめて重大な意味をもつ仕事であった。また、だからこそ、私の身許は詳細に人事局で調査され、したがって学生時代の左翼運動、そして転向という私の思想経歴を承知のうえで、海軍大臣嶋田繁太郎の五センチ角もある印判を押した辞令を私はもらっていたのである。私が刑事を威圧するようにその点を強調して言ったのもけっして理由がないこともなかった。

 この海軍関係のことは、いずれ第二章でふれるが、結果は逆に、私はこのためよけいにひどい目にあわされた。特高は私が海軍報道部内で、何かスパイ活動でもたくらんでいるのではないかと疑惑を抱いたのである。また、これは釈放後に知らされたことだが、私の検挙は報道部内に大きな波紋を起こし、面子めんつ上なんとか私の身柄を海軍に引取り、取調の結果により、とにかく海軍として処分したい。それも報道部は、むしろ私を信用して善意に処理するはらであったらしいが、横浜の特高は私だけの孤立した事件ではないとして、引渡しに応じなかったということである。

 が、これにはもう一つその裏があることも私は知った。多少私の想像がまじるが、私たちが検挙されてまもなく、あの毎日新聞の「竹槍事件*」が起き、その主役が、やはり海軍報道班員の新名丈夫であった。長年にわたる陸海軍の確執が、何かのきっかけで火を噴くように爆発するのであった。そして横浜事件の核心を私なりに探ってみれば、当時の陸軍すなわち東条軍閥と神奈川県の特高当局とは太いパイプで結ばれていたことがうかがえる。このことはさらに詳しく後述するが、要するに同じ支配権力内部の争いで、横浜の特高は海軍には背を向けていたというわけである。

 それはそれとして、私を検挙にきた特高はよほど下っぱの刑事とみえて、書棚から抜き出す本がまるでデタラメだった。たまりかねて私が「それはマルクスじゃなく、マルサスの人口論ですよ」と皮肉な口調で抗議しても、「どっちみち毛唐の本じゃないか」といった態度である。私は生来何によらず収集癖というものはないが、それでも八年ちかい雑誌記者の職業がら、当時としては貴重な左翼文献もかなりあったが、みるみるうちに書棚は大きく歯の抜けたように荒らされてしまった。かつまた、不審に思えたのは、べつに積み重ねてあった雑誌「改造」を全部ひっからげて押収しようとすることであった。まさか、のちにこれが私たち改造社関係のもっとも重要な、唯一の証拠品にされるとは思いもつかなかった。

 私は、つとめて落ちついて妻の梅子に言った。

「細川先生の論文のことで調べられるんだと思う。ほかに何も思い当たることはない。心配しなくっていいんだ。」

 しかし、横浜の特高は横から割り込んで意地悪く言った。

「取調べは、そう簡単にはすまんよ。長期の覚悟をするんだな。」

 梅子はすでに涙ぐんでいたが、それがあふれて頬を流れた。

 私は食欲のあるはずもないが、でも、これでもういつ妻と食事をともにすることができるのかと、ふと感傷がこみあげてきて、梅子がふるえながらこしらえた味噌汁とイワシの干物で、わざとゆっくりと一粒ずつをかみしめるように、刑事たちに背を向けて朝食をとった。

「とりあえず改造社と海軍報道部へ連絡を頼むよ。」

 梅子に言って、私は両手に押収された「改造」と本の束をぶらさげてアパートを出た。特高もそれぞれ持てるだけ持った。

 ようやく明るくなって、霜柱が針のように輝いて見えた。

 

 *一九四四年二月二十三日の毎日新聞に「竹槍ではまにあわぬ、飛行機だ、海洋航空機だ」という四段見出しの記事が掲載された。これは海軍受持ちの新名丈夫記者が書いたもので、戦争に対する非科学的な考え方を戒め、海空軍充実の緊要であることを力説したものであった。この記事は、じつは海軍の意向をくんで書かれたものであったが、東条英機はこれを読んで激怒し、ただちに新聞紙の発売を禁止し、執筆者の厳罰を命じた。理由は記事の内容が敗戦主義であるということであったが、その実は東条式精神主義を誹謗したとみたからであった。

  毎日新聞は新名記者の処罰を拒み、吉岡編集局長と加茂次長が責任をとって休職処分をうけた。ところが二十六日になると、新名記者は懲罰の意味の指名召集をうけて、郷里の丸亀連隊へ、たった一人入隊させられた(新名記者は極度の近眼で兵役免除であった)。しかも連隊には「硫黄島か沖縄方面へ転属させよ」という厳命が中央から発せられていた。新名記者は大正年間に徴兵検査を受けたのであるが、まだ当時は大正の老兵は一人も召集されていなかった。そこで海軍側は「大正の兵隊をたった一人とるのは、どういうわけか」と陸軍にねじこんだ。そのため陸軍はあわてて大正の兵隊を二五〇人、丸亀連隊に召集してつじつまを合わせた。新名記者は召集三カ月の後、海軍の尽力で、その七月、東条の退陣とともに召集を解除された。

  太平洋戦争中、陸軍と海軍の対立抗争は国民が想像もつかないほどひどいものであったが、この「竹槍事件」などもそのよい事例の一つである。

 

2 勾留訊問

 

 私が留置されたのは、横浜の加賀町署であった。当時、私は横浜のどの警察署も知るはずがなかったが、加賀町署はそこの玄関を入るときの感じが、なにか異様に厳重で冷たかった。灰色のコンクリート建てのせいもあったが、いまでも私の眼に光るように焼きついているのは、正面玄関上にかかげられた金色の菊の紋章であった。

 私は、二階のだだっ広い部屋に連れていかれた。その一隅の細長い木の椅子に腰かけさせられた。前に木目の浮き出た大きな机があった。

 まもなく新しい三人の刑事が入ってきて、検挙にきた二人が出ていった。三人の一人が机をはさんで私と向き合い、二人が私の左右に立った。

「おれは神奈川県特高課の平賀警部補だ。」

 向き合った特高の声は、痰がまつわるようにかすれていた。そして拳を口に当てて一つ二つ軽いせきをした。私はとっさに、この刑事は胸をやられているなと想像した。私自身が改造社へ入社する以前に約二年間、軽い肺尖カタルで療養した経験があるので、こういう相手には敏感であった。そう思って見ると、平賀警部補の骨ばった頬が熱のあるように、へんに紅味を帯びていた。私は、しかし、たとえほんのわずかの時間でも、この場においてこんなことに気持を動かす自分がおかしくもあった。余裕があるといえば立派だが、実はまだそれだけ事件の深刻さに気づいていなかったのである。

「きさま、どうして検挙されたか、ようわかっとるだろうな。」

「細川事件について、当時の『改造』の編集者として、何か参考に調べを受けるのでしょうか。」

「きさま!……」と警部補はどんと机をたたいた。眼尻の切れ上がった眼でにらみ、かみつくように上体を突き出してきた。

 「きさま、小野や相川が検挙されてからどれだけ経つか知っとるだろう。たんに細川嘉六の参考ぐらいで何カ月もブタ箱ヘ放り込んでおくかよ。いいか、ネタはもうすっかり挙がっとるんだ。はっきりはらをきめて、きさまの共産主義運動における地位を言ってみろ。」

 私は思わず顔を上げて警部補を見た。たんなる脅しや、もちろん冗談ではなく、真剣に迫ってくる残忍な表情がけいれんしていた。

「そんなものは、まったく身におぼえがありません。」

 私は、低いが、しかしきっぱりと言った。

「おぼえがない。……まあいい、いまにいやというほどおぼえさせてやるからな。きょうのところはこれに拇印を押すんだ。」

 平賀警部補が突き出した罫紙の「勾留訊問調書」という文字が、まず私の眼にはいった。それには、「私は雑誌『改造』の編集を通じて共産主義思想の宣伝および啓蒙活動をいたしまして、まことに申訳ありません」と、私の名前まできちんと書き込んであった。

 私は、うかつな話だが、このときは勾留訊問調書のもつ実際の重い意味を知らなかった。ここで頑強に拇印を押すことを拒否すれば、法の形式としては留置できないはずであった。事実、第一次に検挙された満鉄調査部、世界経済調査会、それに改造社関係でも小野康人や相川博たちは、この拇印を拒否したために、いきなり言語に絶する拷問を受けたのである。が、私はすでにどういう名目にせよ、留置されることは観念しているも同然であった。ただ共産主義活動うんぬんの理由だけは、なんとしても納得がいかなかった。

「この調書は、私が『改造』の編集にたずさわった、そのことがすなわち共産主義活動だと解釈するのですか。」

「そうだ。きさまら、その意識のもとに『改造』を編集しとったじゃないか。立派な共産主義活動だ。」

「私はそんな意識はありません。しかし、それは眼に見えないところの問題です。いずれ調べがすすめば、はっきりすると思います。」

「なるほど。半年ばかり生簀いけすの中で泳がせておいただけあって、きさま、わりと落ちついたもの言いをするな。そのとおり。もうすでに、きさまらのたくらんだこと、やったことは、きれいに洗いざらいわかっとるんだ。しかし残念ながら、きさまの認識とは雲泥の差があるようだな。」

 病的に皮肉で冷酷な口調であった。そして突然すばやく私の腕をつかみ、手を押しつけるようにして私の捺印を取った。私は抵抗を意識したが、それよりもむしろ我慢するという消極的な気持でそれを承認した。警部補は、薄い赤い唇をゆがめて笑って言った。

「きさま、体があまり丈夫そうじゃないが、よっぽどしっかり覚悟をきめてかからないと、地獄行きだぞ。」

 こうして私はそのまま留置場へ放り込まれた。

 

3 発端は細川論文

 

 私は、すぐその日の午後にでも取調べが始まるものと思い、予想される訊問に対する答弁の仕方を、あれやこれやと不安のうちに整理した。

 まず当然に問題の細川嘉六の論文「世界史の動向と日本」を「改造」に掲載した経緯と、その波紋のありさまをふりかえってみた。

 あれは一九四二年の八月号、九月号の二号にわたり分載された。はじめは八月号に全部掲載の予定だったが、当時の用紙統制の都合で百六〇枚の長編論文はどうにも他の企画とのやりくりがつかず、やむをえず二号に割った。半年がかりでこの論文を手に入れた相川博は、分割掲載にはしきりに反対を主張した。彼は細川嘉六に対しては、執筆者と編集者の関係以上に、むしろ師弟関係のような尊敬を払っていた。

 この時分、ちょうど編集長の大森直道は中国ヘ出張中で、次長の若槻繁が原稿整理その他の責任を負い、相川博、小野康人、鍛代きたい利通、それに私が編集部員として協力した。同じ編集部員の北島宗人は二度目の応召中だった。相川にかぎらず若槻をはじめ部員一同も、分載は論文の迫力を弱めると考えたが、しかし相川ほどにはげしく感情的なまでにはこだわらなかった。

 八月号のことだから日時としては七月の初めのむし暑いなかを、大日本印刷市ヶ谷工場の校正室へ出張して追込み編集をしていた。細川論文は、まず相川が生原稿を読んで検閲的に気になる箇所をチェックした。初校は手分けして読み合わせで行い、再校は私が素読みをして若槻に回した。校正の上手下手はともかくとして、検閲的神経の点では相川も小野も甘いというかザツというか、編集部内でもあまり信頼されなかった。大森編集長がるすなので、若槻も私もふだん何倍かの神経をつかった。そして結論を言えば、細川論文はこのまますっぽり検閲を通るか、あるいは全くの掲載禁止のどっちかで、多少の字句をひねくるような小細工はきかない種類のものであるというところに編集部の意見は一致した。もちろん、ひどい曲解をしないかぎり掲載禁止になるべき性質のものではないと考えたが、戦時下の狂った官憲当局の態度に対しては安易に見当がつきかねるのであった。

 今日読み返してみれば、さすがの細川論文も遠くのほうから説教しているような、まだるっこい論旨のはこびかたではあるが、しかしそれは、当時の日本の軍政の致命的な欠陥を大局的な見地から衝いていた。

「我が民族のもつ八紘一宇の政治的理念が真実に大東亜に限らず全世界二十億民心を収纜すべき雄渾なる政治的良識たり従つて又雄渾なる世界政策の基礎たるがために必要不可欠の前提として、現世界の混乱を惹起しつつある世界史的発展の根本問題を検討し、それによつて敢へて我が民族の光輝あるべき将来のために資せんとするものである。」

 細川論文は冒頭でこう述べているごとく、批判といってもそれは建設的な批判であった。具体的に言えば、日本の目指す「東亜新秩序」の建設は、旧来の植民地支配政策ではいけない。民族の独立と自由を支持するソ連の新しい民族政策の成功に学ぶべきであるというのであった。したがってそれは、当時の満州国建国のスローガンとされた「五族協和」「王道楽土の建設」ひいては「大東亜共栄圏」の、そのあるべき方向を科学的に裏づけようとした、いわば真正の意味で次元の高い国策協力の論文であった。

 このことは細川嘉六自身が終戦後の一九四五年十月九日の朝日新聞紙上で、次のように語っていることからも明らかである。

 「この論文は新しい民主主義を主調としたもので、大東亜戦争に突入した日本が、将来いかにしたら悲惨な目にあわずにこの難局をきりぬけることができるかという憂国の至情にかられて筆をとったものです。当局は論文中にある“弁証法”とか“生産力”とかいう言葉は赤だといって責めあげましたが、誰がみてもこの論文から共産主義的主張が出てこぬことがわかると、こんどは私の友人たちを検挙し、友人たちの口から『細川は赤だ』といわせようとしたものです。」

 とにかく、私たちは細川論文を事前検閲に出すことにした。特別に軍の作戦や機密にわたる箇所はないと考え、校正刷は情報局の雑誌検閲課だけに届けた。この連絡には鍛代利通があたった。そして校了ぎりぎりに、内閲はわずかの削除と字句の訂正だけで許可が下りてきた。私たちは、まずまずほっとした。まずまずというのは、細川論文は前半つまり八月号に掲載する部分は、どちらかといえば概念的で、もし問題があるとすれば、むしろ後半つまり九月号のほうにあると想像されたからである。

 私たちは大森編集長の帰国が待ち遠しかった。責任を回避する気持からではなく、なんとなく荷の重味に堪えかねたのである。大森編集長は、この細川論文の具体的内容を知らない。彼は相川を通じて、細川嘉六の力作論文が八月号に間に合うべく脱稿されるだろうと期待して中国旅行に出た。しかし、細川嘉六の専門分野からして、その内容が植民政策か民族問題であると想像していたにちがいない。彼は旅行中の編集処理を慎重にするように、とくに言い残して出発した。

 まもなく「改造」八月号は、予定どおり書店に出た。そして反響は、ふだんの月よりもぐっと大きかった。やはり細川論文が話題を呼んだ。私の親しい評論家からも「よくやった」と、わざわざ電話で激励してくるものがあった。七月末に帰国した大森編集長も、細川論文の中国における好評を伝えたが、それだけに九月号に掲載する後半の具体的政策に関する叙述の校閲には、よりいっそうの神経をつかった。校正刷は回し読みをするうちに真赤になった。二校、三校とゲラ刷をとり、四校目を内閲に出した。そして何度も催促して、やっと今回も校了ぎりぎりになって「許可」の判を押した校正刷がもどってきた。それを受取って校正室へ帰ってきた鍛代がほっとして疲れた顔で「きょうのハンコは、ばかにでかく見えるな」と、にんまり笑って私たちの同感を誘った。あの表情が、いまも私の眼に浮かぶ。

 しかし、それから一カ月近くたって、思わぬ毒矢が「改造」編集部へ飛び込んできた。

 私はいま、その正確な日付を記憶していないが、その新聞——「日本読書新聞」(当時の日本出版文化協会の機関紙)を調べると、一九四二年九月十四日号であり、実際の発売は日付の四、五日前のはずだから、私がそれを新宿駅で買ったのは九月十日前後と思えばよかろう。私たちは「改造」十月号の出張校正で例月のように大日本印刷へ通っている最中であった。私は新宿から市ヶ谷ヘ走る国電のなかで、その読書新聞をひらき、第一面のトップの「戦争と読書」と題する、大本営陸軍報道部長・谷萩那華雄の署名入りの記事を読んで、ドキンと胸をつかれた。谷萩大佐はその談話の終りのほうで「長期戦と防諜問題、検閲強化の急務」という小見出しのもとに、次のように語っていた。

「戦争が長期にわたるということになれば、アメリカ、イギリスそのほかの国からの謀略や思想撹乱というようなことがさかんになってくるわけです。これは雑誌、書籍の検閲という方面をもう少し強化しなければ危いんじゃないかと思うんです。今月の九月号の『改造』の細川嘉六氏の『世界史の動向と日本』これは共産主義宣伝でしょう。手ぬかりですね。」

 私には最後の「共産主義宣伝でしょう。手ぬかりですね」という言葉が、真実、脳天に鉄槌をくらったようにひびいた。私は市ヶ谷駅から左内坂を上って大日本印刷へ駆け込むまで、まるで夢中だった。校正室ヘ飛び込むと、めずらしく早く大森編集長が来ており、若槻と二人で何か話し合っていた。濃いひげを、けさは剃らなかったとみえて、色白の大森の頬がやつれて夕暮れのように暗かった。

「これ、見ましたか。」

 私は二人の話に割り込むように、にぎっていた読書新聞を突き出した。大森が眼とあごで、

「うん」と一つ重い返事をした。

 私は興奮を吐き出すようにつづけて言った。

「いくらなんでも共産主義宣伝とはひどすぎるよ。この言葉は活字のうえのタブーじゃないですか。読書新聞のセンスが憎いよ。」

「そのことで若槻君と相談していたのだが、いよいよ困ったことになった。……」

 大森編集長は私の視線を避けて、机の向こうに暗い眼をやった。そして、いよいよ困ったという、そのいよいよに至るまでのこの数日来の苦悩を打ち明けた。

大森編集長は、実はその三、四日前の「六日会*」の席上で、陸軍報道部の平櫛孝少佐から細川論文について、こっぴどく痛めつけられていたのだった。

「——自分はなんの気なしに、寝ころんだままこの論文を読みはじめ、途中思わず卒然として起き上がった。筆者の述べんとするところは、わが南方民族政策においてソ連に学べということに尽きる。南方現地において、日本民族が原住民と平等の立場で提携せよというのは民族自決主義であり、敗戦主義である。しかもその方式としてはソ連の共産主義民族政策をそのまま当てはめようとするもの以外のなにものでもない。かくてこの論文は日本の指導的立場を全面的に否定する反戦主義の鼓吹であり、戦時下巧妙なる共産主義の煽動である。一読驚嘆した自分は、さっそくこのことを谷萩報道部長に報告すると同時に、専門家にも論文を審議させたところ、自分と全く同じ結論をえた。」

 平櫛少佐はこう言って大森編集長をにらみつけ、さらに「このような論文を掲載する改造社の真意を聞きたい。その返答如何によっては、自分は改造社に対し、なんらかの処置を要請する考えである。このような雑誌の継続は、即刻とりやめさせる所存である」と声を荒らげ、顔面に朱をそそいで言い放ったということである。

 大森は編集長の責任において、私たち部員の動揺をおもんぱかり、また個々の策動がけっしてよい結果を招かないことを考慮して、佐藤績(編集局長兼出版部長)と二人だけでひそかに対策を練り、打つべき手は打ちつつあったのである。もちろん平櫛少佐とは面談し、細川論文の趣旨の誤解を解こうと試み、その掲載の経緯、つまり情報局の内閲をパスしていることなどを説明したが、しかし肝心の谷萩大佐はすげなく面会にも応じようとしなかった。

 ところで、ここで私の臆測を付け加えると、当時陸軍部内で谷萩報道部長と情報局の新聞雑誌の指導部長松村秀逸大佐は、いわゆるそりが合わず、出世争いをする仲であった。そこで谷萩としては松村に意地悪く当たり、いかにも情報局の検閲の「手ぬかりですね」などと面当てがましい言葉が出てきたのではあるまいか。だとすると、「改造」にとっては二重にが悪かった。社長の山本実彦は松村大佐とは鹿児島の同郷人で、平素から親しい交渉があり、それはそれで何かと便宜があったが、こんどの事件のような場合にはかえって逆作用として働くわけである。戦時下の政治や文化面の、かりにも指導と名目のつく事柄が、ひねくれた個人の感情問題でいくぶんでも左右されるなどということは、ばからしいかぎりである。しかし、かれらの親玉の東条英機のやり口から推して、まんざら見当違いの想像でもないと思う。

 

 *「六日会」は、太平洋戦争が始まった直後から陸軍報道部が主催で、東京都下全雑誌の編集長を集め、戦時下の雑誌の編集方針について、各月の雑誌内容を例にして検討批判する会であった。例月六日、陸軍御用達の麹町の宝亭でひらかれ、表向きは懇談会ということになっていたが、実際は報道部の平櫛少佐たちから戦争協力への指導演説をきかされ、「改造」「中央公論」「日本評論」は、そのつど戦争協力が消極的だとの叱声を浴びていた。反面、「現代」「公論」はその積極性を賞讃された。

 

4 長野屋会議

 

 さて、その日の夕方、私たちは印刷所を早めに引き上げて、そのころ四谷見附にあった長野屋という古い飲み屋に集まった。この際、編集部全員の思想統一と善後策を講じようとしたのである。

 そのまえに私は大森編集長の指示によって、細川論文に対する海軍報道部の見解と態度をききだすことにした。平出大佐には会えなくて、雑誌担当の浜田昇一少佐(のち中佐)と面談した。そして浜田少佐の見解が即ち報道部の見解であると判断してよいと思ったが、細川論文についても海軍はその伝統に従って、形式的にはきわめて合理的な考え方をもっていた。海軍は海上で戦争をするのが第一の任務で、その作戦に影響する事項は厳重に取締まるが、内政一般には関与しない。まして情報局で一元的に言論統制をする建前であれば、そこの検閲を経た論文内容にあえて異議をさしはさむ筋はない。これが浜田少佐の返答であった。

 しかし私は、次のような私の意見をつけ加えることを忘れなかった。

「海軍の言うことは折り目正しく、実にすっきりとしている。それに浜田少佐の口ぶりからは、陸軍がまた何をやぼなことをやりだしたものかという皮肉なものがうかがわれた。しかし、だからといって、陸軍に対して、ひと押し圧力をかけてくれるよう頼れるかと思うと、そうはいかない。海軍は必ずすっと体をかわす。悧巧で冷たい。そこのところを、よくのみこんでおかねばならないと思う。」

 長野屋は、根っからの酒好きばかりが寄り合う店で、「改造」編集部では小野康人がいちばんのなじみだった。銚子もいまでは時代劇にしか見られない、真白の細長い二合徳利で、私たちはそれをめいめいに一本ずつ並べて、ちびりちびりやりながら話し合ったが、なんともはずみのつかない雰囲気であった。それでもいくらか酒がきいてくると、それぞれの性格が現われてきた。相川博は酒に弱いが、酔うと無性に勇ましくはね上がるたちである。が、今夜は眼だけ赤くして、それが癖の深い立皺を眉間に寄せて固い姿勢で言った。

 「細川先生の家には右翼のゴロツキとおぼしきものから、ひんぱんに脅しの手紙や電話がかかってくるそうだ。反軍、不忠、国賊、あらゆる罵声が飛び込んでくるのだ。しかし先生はいささかも動じない。ますます固い信念で、この日本の危機を救う真に正しい道がどこにあるか、いまにそれが支配層にも思い知らされるだろうと、やはり先生の憂国の至情はなにものよりも深いものがある。」

 何事によらず融通のきかない相川の性格は、その話しぶりにも一種の壮士ふうなところがあった。

「ゴロツキといえば、平櫛少佐が細川論文を専門家に審議させたというその専門家とは、報道部嘱託の阿部仁三のことだろう。」

 鍛代はこういう種類のニュース、それはときとしてほんのゴシップにすぎないものもあったが、その方面のすばやい聞き込みでは編集部きっての才能であった。

 事実、陸軍報道部を思想的にあやつっている黒幕は阿部仁三であり、また日本精神文化研究所の田所広泰であるとの風説も流れていた。二人とも左翼くずれのファシストであり、ことに日本精神文化研究所は蓑田胸喜という超神がかりのファシストが主宰者で、そこから細川論文に関する、いわゆる“怪文書”が流布されたことも事実であった。その怪文書は、細川論文の構成がレーニンの『帝国主義論』に立脚する唯物史観であり、平櫛少佐のいう「巧妙なる擬装共産主義」という表現を用い、「改造」や「中央公論」の編集部内には自由主義・共産主義の残党が「蠢動」しているというような下品な言葉で、軍部や民間ファシストに火をつけた。また、この機会をいいことにして、火事場泥棒よりも、もっと卑劣な、あることないことをスパイする右翼総合雑誌の編集者もいた。

「まったくまずいことになってしまったね、大森君……。」

 小野が言うと、どんなむずかしい問題も悲しいことも、おのずと一種のユーモアがただようのだが、今夜の場合はそれを包むまわりの霧があまりに濃く暗すぎた。

「谷萩談話の共産主義の宣伝うんぬんは、まさに致命的だ。この際は松村大佐を通じての緩和策も、相手が谷萩大佐では、やぶへびということになるだろうし……。」

「ぼくの見通しは悲観的すぎるかもしれないが、しかし、最悪の事態がきてもそれをどの一線でせき止めるか、その覚悟をきめておく必要があると思うが……。」

 私は、自分ながらやや切り口上なのを意識しつつ言った。

「ぼくはなんとしても『改造』の存続を守りたい。『改造』にはそれだけの文化的意義と使命があると思う。で、そのためにはぼくたちが引責辞職をすることで事態がおさまるものならば、ぼくはくやしいが、むしろそれを忍ばねばならぬと思う。」

「いや、ちがう。」

 相川がキラッと鋭い眼を向け、私を叱りつけるように言った。

「それではまるで、陸軍の不合理な弾圧を正当化して、それに無条件屈服をするようなものだ。非は陸軍にあって、わが『改造』にはないのだ、良識ある世論はきっとわれわれを支持してくるはずだ。」

 若槻繁が、低いかすれた声で、でも自信をこめて相川の説に賛同した。

「相手は、しかし狂犬も同然だよ。良識に耳をかすような理性の持ち合わせなど、微塵もないじゃないか。」

「ぼくも青山君の意見に賛成するな、残念ながら」と小野が言った。「谷萩が面会さえ拒否するような頑固な態度をとっているところからみると、すでにのっぴきならぬところまできてるような気がする。

「細川先生は、いずれは検事局へ呼び出されるのではないか。」

 鍛代が言って、私もそう思わざるをえなかった。谷萩大佐の談話の「手ぬかりですね」の言外に意味するものは、検察当局はなにをぼやぼやしているかと、司法ファッショを挑発するようにくみとれるからであった。

「それではぼくの意見を言わしてもらおう。」

 大森編集長は、黙って私たちの話をきくだけきくと、締めくくりをつけるように言った。飲むとすぐ顔に出る彼だが、むしろ青ざめてひきつった表情である。

 「問題は、思うに細川論文だけじゃないんだ。かなり前からこの危険はあった。ぼくはそれを感じてはいた。陸軍は、われわれに盲目的に軍刀の指揮に従うことを望んでいた。いや、かれらは命令したつもりでいたのだろう。しかしぼくたちは、たとえ六十度の最敬礼をしても、あとすこしばかりは自由に批判の角度をもった。あたりまえのことだ。まったく批判精神を失ったジャーナリズムなんてナンセンスだ。それが陸軍には気にくわなかったんだ。例の六日会で『改造』と『中央公論』は、いつもまるで被告席に立っているようなものだった。かれらからいえば、その鬱積した憤懣を、細川論文をいいがかりにして爆発させたのだ。なるほど理屈をいえば、われわれの筋が通っていることはわかりきっている。が、青山君が言ったように相手は狂犬だ。狂犬に素手で向かっては、みすみすわが身を傷つけるようなものだ。そこでどうだろう。この際は忍耐に忍耐をして、みんなで最後のはらを決めるだけは決めようではないか。もちろん、ぼくひとりの責任でおさまれば、いさぎよくぼくはその責任を負うし、また今後もできるかぎりぼくだけでせき止めるべく努力するが、さっきの話の最後の一線は、あくまでも『改造』をつぶさない、このとりでだけは守るという必死の覚悟だけはもってもらいたい。そうして最後の進退は、この大森にまかせてくれないか。」

 大森直道は、性格として感傷的なことは大嫌いだったが、ポツポツと語尾を切るような口調に、さすがに一抹の悲槍感があった。

 

 しかし、これで編集部の態度はきまった。相川もうなずいた。若槻も納得した。

 私は急に酔いを感じ、そして無性に酒を欲した。

 

5 破 局

 

 事態は、それから私たちの暗い予想どおりに、むしろもっと急激に破局ヘ傾いていった。

 九月十四日朝、ついに細川嘉六が検挙され、世田谷署に留置されたのである。検挙の意図は、言うまでもなく「世界史の動向と日本」の共産主義的傾向を追及するにあった。同時に「改造」の八月号・九月号が発禁処分になった。しかし、雑誌は、八月号はもちろん九月号も、とうの以前に売切れずみだった。

 実際この場合、処分の当の責任者である内務省・情報局官僚が、かれらの金科玉条とする法治主義思想の一片でも持ち合わせていたならば、かれらがすでに一、二カ月以前に自分たちの検閲を難なく通過させた雑誌を、だしぬけに横合いから弾圧しようとする陸軍の“非合法”に対して、一応の抵抗はこころみたかもしれない。が、もはや当時の官僚にそのような気概を期待することは笑止の沙汰であった。

 これに勢いを得て、反動の火の手はますます激しく燃えひろがった。「改造」編集部へは、ひっきりなしに脅しの電話がかかり、社の玄関には黒紋服、ステッキ持ちの青年が入れ替り立ち替り現われ、社長か編集長に面会を強要していつまでも居坐った。卑しい金銭目当てであるが、私たちはこういうたぐいには断固として目もくれようとしなかった。なかでも右翼ゴロツキ新聞として知られた「やまと新聞」は、九月十八日、二十日の二回にわたり「谷萩談話」について論及し、つぎのような挑発記事を掲載した。

「——細川嘉六氏の論文が図らずも問題化し、これを契機として軍官民方面から雑誌書籍出版関係者に対する思想的検討が要請されている。……殊に『改造』が細川嘉六氏の論文を二回に亙って掲載したということは、細川氏の思想はもとより、『改造』編集者の非常時認識の欠如はまさしく念の入ったものであり、……問題は単に『改造』或は細川氏または当該編載(ママ)者のみの問題ならず、よしんば当該関係者らが謹慎または辞職等の引責を講ずるともそれにて終るものではなく、……適当なる指導的検閲方針を確立すると共に雑誌書籍出版事業に携るもの全部を真の日本思想に徹せしむべき根本的なる再訓練再錬成を敢行し、彼等の思想を根本から焼き直さねばならぬ問題とされ、今後の成行に重大関心が払われている。」

 こうして最後の危機は、日に日に迫ってきた。もう、一刻の猶予も許されなかった。こんな場合に、“先手”という言葉を使うのはおかしいかもしれないが、とにかく陸軍が実力を加えようとするその具体策が固まらないさきに、こちらからすすんで「改造」の編集スタッフおよび編集方針の“刷新”告げて、それでもっていくぶんでも相手の攻撃の手をゆるめさせる。つまり卑下して言えば、“恭順”の実を示して命乞いをするというわけであった。

 九月末のある日、大森編集長は社長室で佐藤績をまじえて山本社長と長時間の協議を終えて、編集室へもどって来た。連日の心労でむくみがちの彼の顔は、蚕のような色だった。私たちは前述のごとく、最後の進退は大森編集長に一任してあった。彼は立ったまま机に両手をつき、うつむく姿勢で言った。

 「とうとう最悪の事態がきた。ぼくの努力がむなしく諸君につらい思いをさせて、すまないと思う。どうか、かんべんしてもらいたい。いま、社長と相談して、とるべき最後の手段をきめた。——ぼくと相川君は引責辞職。若槻君は社長秘書。小野君は出版部。青山、鍛代の両君は『*時局雑誌*』だ。これで編集部は総退陣、あとは佐藤績君にまた編集長になってもらい、彼の采配のもとに人的構成も考える。したがって、われわれがたずさわった十一月号の編集は全部ご破算にすることにした。この際、思いきり方向転換した編集の具体案を示し、それで陸軍報道部の了解を得、『改造』のいのちだけは救われる見通しがついた。——ところで相川君だが、君には、なんとも申し訳ない結果になった。辞職は編集長のぼくひとりでたくさんだと思ったが、細川論文の直接担当者ということで、まことに気の毒なことになった。」

 大森編集長は相川の話をするのが、いかにもつらそうだった。私は同僚として七カ年、大森直道の涙をはじめて見た。相川は明らかに不満と不安と困惑の色を現わした。しかし、私たちとしても、ほかにどう慰めようがあったろうか。

 後日、私が個人的に大森直道から聞いた話であるが、そしてそれに多少の私の想像を加えると、大森は最後の山本社長との対談で、引責辞職は編集長ひとりでよいはずだと強く主張した。同じ編集部員のなかで、細川論文の担当者という理由で相川だけに辞職の責を負わせるのは、編集長としては堪えられないことだった。また、その理由がきわめて薄弱ではないか。執筆者に対しては、編集部員のだれかがその交渉を担当せねばならない。たまたま相川は細川嘉六と住居も近く、他の部員よりも親密の関係であったが、そのことが今回の事件の原因ではない。

 しかし山本社長の考えかたは違っていた。いや、考えというよりは感情がっていた。山本社長は性格的に、肌合いのよい社員はわけもなくかわいがるが、そうでないものは仕事の腕を認めても、それ相応に評価したり報いたりはしない、気分的に割引きしてしまうような面があった。話し下手で理屈っぽく、愛想の悪い相川は、その点でとても損をしていた。それに相川は以前に「大陸**」編集長として一、二度削除処分を受けた責任者でもあった。年齢ににず血の気の多い山本社長が理性を失う瞬間には、今回の事件はまるで相川博個人の失態のように思えるのであった。これは最高責任者の社長として実に卑怯な心理である。

 大森が我慢のならなかったのは、こういう山本社長の一面であった。社長は平素あれほど陸軍にも海軍にも親友がいるような口をきいて、事実、山本社長は松村大佐や谷萩大佐はもちろん、中将・大将級の軍人でもその名を言うときは必ず「君」づけであった。が、その山本社長は細川事件以来、軍との交渉をむしろ尻ごみするありさまで、いっさいを大森編集長の責任に負っかぶせるような言動が目に見えた。

 大森編集長以下私たちは全員、最後のはらをきめていたものの、大森と相川と二人だけ辞職ということになると、いかにも詰腹を切らされた感じが強く、不愉快でならなかった。また事実、はたからはそう見る向きも多かった。

私は、「改造」編集長として最後の日の大森直道の涙が、私の想像をこえて複雑な光を帯びていたことを思い返した。

 

 * 「時局雑誌」は「改造」の姉妹誌といわれた。その出発は日華事変の勃発後、「改造」がしばしば臨時号を出し、それがやがて「改造・時局版」として月刊誌の形をとった。しかし戦争の進展とともに用紙不足に悩み、雑誌統合の気運が高まって、「改造」と「時局版」の同類二誌は発行が困難の情勢になった。そこでまるで新雑誌の様相を呈する「時局雑誌」の発刊となった。すでに太平洋戦争の二年目で、編集内容は意識的に極端な戦争協力であった。だから、出版界の一部のものからは、改造社は軍や取締当局の目をごまかすために「改造」と「時局雑誌」の二枚看板を使っているとさえいわれた。

 ** 「大陸」は一九三八年四月、改造社創立二十周年記念事業の一つとして創刊された。はじめは大衆的娯楽雑誌の性格をもったが、この種の雑誌は改造社の伝統にマッチせず、成績が悪かったので、一年ほどして大陸問題の研究雑誌として、いわば固い性格の雑誌に転向した。相川博が編集長を勤めたのは、この後期の「大陸」であった。

 

第二章 拷 問

 

1 留置場にきた召集令

 

 留置場へ放りこまれたまま幾日たっても取調べの始まるようすは見えなかった。はじめの一週間か十日は、朝、起きるたびに、きょうはきょうはと思って取調べに対する覚悟を新たにして待ったが、次第にもうなるようになれと半ばあきらめてかかった。が、またその一面ひょっとすると、検挙はしたもののやっぱり取調べに対する材料が出てこないので、このままうやむやのうちに釈放されるのではないかなどと、ばかのんきな空想を描いたりした。いずれにしても、はじめの半月ばかりは、一日一日がそとにいる何倍かの長さに感じられてやりきれなかったが、それを過ぎると、あとはもう惰性のようなもので、こんどはあべこべに一日ぐらい日付をとばしてかぞえたりした。

 それにあらそわれないもので、私は十年前の学生時代に約三カ月留置場生活の経験があったが、やはり見るものが見るとそれがわかるらしかった。同房の常習賭博の牢名主——やがて私もその座にすわったが、彼が私の入房即日、それを指摘して、「新入り、お前さん、警察さつは始めてじゃないね」と、親しそうに声をかけた。あそこは多少でも経験があるものが尊敬されるという妙な場所であった。

 それにしても、麺米めんまいの弁当には閉口した。うどんを細かくきざんだものでちょっぴり塩味がつけてある。さいはきまって、紙ひもをかむような代用ひじきだった。そとも食料事情が悪いとっても、私はまだ麺米を主食としたことは一度もなかった。さっそく差入弁当を頼んだが、取調べの目鼻が

つくまではいっさい許可にならなかった。そういう意味からでも、私は早く調べが始まるのを望んだ。

 三週間ぐらいたったところで、私はしかし、私の想像もつかないような容易ならぬ事件に巻きこまれていることを知らされた。そのころ、やはり加賀町署ですでに警察調書が仕上がって拘置所送りを待っていた益田直彦と新井義夫の両名が、交互に雑役を働き、看守の眼をぬすんで私に事件の縦横のひろがりを伝えてくれたのである。

 益田直彦は世界経済調査会の職員で、「改造」編集部では小野康人がもっとも親しく、ときどき執筆を依頼したので私もちかしいあいだであった。新井義夫とはこのときはじめて相知った。彼は中央アジア協会の会員で昭和塾の塾生でもあり、仕事を通じて細川嘉六に接していた。この二人の話からうかがわれることは、事件の振幅がまったく私の想像をこえているらしいということであった。げんに益田直彦、新井義夫、そして私と、この三人の所属をとりあげてみても世界経済調査会、中央アジア協会、昭和塾、改造社ということになる。が、いったい私たちはこの事件のなかでどう関連させられているのだろうか。私は、やっぱり見当がつかなかった。ただ益田直彦も新井義夫も口をそろえて言った。

「事件はとんでもないデッチあげて、死ぬほどひどいテロだ。警察ではまあまあにして、あとは裁判所でがんばるんだ。」

 私の楽観は、いっぺんにふきとんでしまった。

 三月にはいって、はじめて私に呼出しがあった。かれこれ四十日ぶりに陽の目を見た。私の監房は朝から晩まで全然光りが射さないので、入房以来ずっと冬に変わりがなかったが、外界は日に日に春めいているのだった。そしていかにも港の横浜で、窓から眺める外気が薄紫色にやわらかく靄って見えた。

 私は頭髪もひげも伸び放題で、窓ガラスに映して見た自分の姿は、まるで芝居の俊寛のようだった。陽なたのにおいをかぐと、それまで無感覚だった留置場の臭気が急に衣類から鼻にきた。肌着にはシラミがたかり、——といっても私はほかのものからくらべればすくなかった。生殖本能の強いシラミは、たかるにしてもやはり体力の旺盛な、熱っぽい肌を好むので、私のようなもともと胸部疾患のあるものは、血を吸うにしてもあとまわしになって、その点ですこしばかりたすかった。賭博や経済犯で、当時としては見るだけでつばきの出るような、甘味やくだものの差入れを豊富に食べている身体には、日に五、六十匹のシラミの“戦果”は普通だったが、私はせいぜいその半分ぐらいだった。

 私がつれ出された部屋は、検挙の朝、平賀警部補に勾留訊問調書をとられた、あの殺風景な部屋であった。明るい窓を背にして二人が坐り、大机の両側にそれぞれ三、四人の刑事が立った。平賀警部補の顔は見えなかった。私はあとで手記を書くとき係りの刑事からきいたが、平賀警部補は私の第一印象があたって喀血して倒れたのだった。どの顔も私の初対面の刑事だった。私は中央の二人に向かって坐らされた。その一人が口を切った。

「おれは本部の柄沢警部補だ。今後、お前の取調べはおれがする。こちらは特高係長の松下警部だ。」

 すると松下警部が言った。

「きさまか、青山という野郎は……。」

 頭を椅子の背にもたせて胸をそらせ、眼を半眼にすかし、いかにも私を小馬鹿にした憎々しい格好である。

 「どうだ、ゆっくり留置場で考えたか。きさまらのやった共産主義運動は、巧妙で複雑だからな。しかし、まあ安心しろ、『改造』も『中央公論』も一人残らずひっくくったからな。それに、きさまのことは何から何まで、ケツの穴の毛の数まで調べあげてあるからな。その覚悟でものを申せよ。」

 なんという口ぎたない言い方だろう。私はあきれて相手を見る気もしなかった。

「おい、つらを上げて、もっとよく見せてみろ。」

 松下警部はつづけて言った。

 「だいたい、きさまはずるい野郎だからな、そう思うだろう。小野や相川が検挙されて、てめえも危いとみるや海軍報道部なぞへもぐりこみやがって、……だが、どっこいそうは逃がさんぞ。おれたちは、時と場合によっては重臣だろうがひっくくらねばならぬのだ。だいたい、海軍報道部もいいかげんなもんだ。きさまのような共産主義者を嘱託にするなんて、とんでもないことだ。」

「ちがいます。」私は、はじめて顔をあげて言った。

「もぐりこむなんて、そんな、……それではあまりにも海軍に対する侮辱です。私はちゃんと海軍省人事局の……。」

 「まあいい。きょうは取調べに来たのじゃない。きさまのつらを見に来たんだ。いずれ柄沢警部補が、じっくりと調べあげてくれるわい。生意気な口をきいて、あとでほえづらかくんじゃねえぞ。」

 私は口を封じられて、興奮しかかった息がつまった。しかし、このまま狂暴な取調べが行われるのかと緊張していた体の固さが、まず肩のあたりから落ちた。

 かわって柄沢警部補が言った。「青山、お前に召集令状が来たぞ。細君が知らせに来た。七月十日入隊の令状だ。しかし心配するな。お前のような国賊を兵隊になぞやりやしない。刑務所送りだ。」

 そう言って口をゆがめた。私は、この相手がこれから自分を取調べて苦しめるのかと、そういう意識を働かせて柄沢警部補を見た。腰かけていても背の高いのがよくわかる。坊主頭で、黄色い顔。上瞼をかぶせるようにしてわざと陰険な眼つきをつくる。しかし、話しぶりからうける感じは、松下警部よりは品よく、まだましなようだ。

 彼は私を留置場へ帰しぎわに、何か家から取り寄せるものはないかと声をかけた。私はいまは何もないと答え、しかし差入弁当を許可してくれるよう頼んだ。柄沢警部補はちょっと考えてから、簡単にいいだろうとうなずいた。

 私は、やや大げさにいえば、こころのはずむ思いで留置場へもどった。ひとりでに背筋がしゃきっと伸びるような気がした。きのうまではただ漠然とした不安の雲につつまれて、何もつかみどころのないもどかしさに苦しめられた。きょうはまだ、いわば顔合わせにすぎなかったが、それでもなにか一歩前進の糸口がほぐれたように思える。もちろんこれから越えねばならぬ山も谷もあり、そこには深い霧がたちこめているだろう。が、とにかく取調主任も柄沢警部補ときまった。そして何より私のこころに具体的な目標を植えつけたのは、七月十日入隊の召集令状であった。ずいぶん間のながい召集令状だが、そのころは海軍報道班員とか嘱託には特別の配慮から、こういう種類の令状があった。まさか「竹槍事件」の二の舞いではなかった。また、私は「竹槍事件」が起きた日にはもう横浜へつれてこられていたのでそのことに思い及ぶはずもなく、事実あとから調べても、“国賊”に対する懲罰召集ではなかった。

 柄沢警部補は、兵隊になぞやらない、刑務所送りだ、とおどかしたが、私はそうではあるまい、やはり七月十日までに私の取調べをかたづけて釈放されるのではなかろうか。だから急にきょうから取調べが始まったのだ。そう思って、私はいよいよ柄沢警部補と対決する覚悟をあらためて固めた。

 

2 拷問はじまる

 

 それから一週間たって、私は二度目の呼出しをうけた。こんどは狭い部屋だった。窓ぎわだけ上げ床があり、畳が二枚敷いであった。窓にはカーテンが垂らしてあり、それをすかす光は薄暗かった。柄沢警部補と二人の刑事がいた。柄沢は一段高い畳敷きの床に腰を下し、股をひろげて、あたかも、これから血の雨の出入りにのぞむやくざの親分のような格好をしていた。

「きょうからきさまの本格的取調べを始める。覚悟はいいだろうな。」

 柄沢警部補が威厳をつくって宣言した。そして、眼鏡をはずせと言った。私は二人の刑事によって、柄沢の長い脚の間に挟みつけられる位置に土下座させられた。

「まず訊くが、きさま、共産主義を信奉しとるな。共産主義者らしい誇りをもって返答しろ。」

「私は、もう十年も昔から共産主義者ではありません。」

「なんだと……。」

 私の背後に立っていた二人の刑事が、いきなり交互に私の背中を靴でけとばした。私の上体は柄沢の股ぐらにつんのめった。柄沢は両手で私の首を押さえ、床の角に額をゴツンゴツンとつづけざまにぶっつけた。そうしながらどなった。

「きさま、神奈川県の特高をあまくみちゃいかんぞ。小林多喜二は、どうして死んだか、きさま知っとるだろう。」

 こんどは頭髪をつかみあげ、私の顔を仰向けにさせて、片手で頬に往復ビンタをくらわした。そうして「さあ言え、きさまの共産主義運動上の地位を言うんだ」とにらみつけた。

「私は共産主義運動などしていません。」

「よし、きさまが言えなきゃ、おれのほうから言ってやる。おい、青山、日本政治経済研究所の活動は、ありゃ何だ。同人雑誌『五月』の発刊意図は何だ。共産主義者でもないきさまの部屋に『プラウダ』や『イズベスチャ』が、なぜ持ちこまれるのだ。そうして『改造』だ。商業雑誌を表看板にして、巧妙に共産主義思想をもりこむ。これが、きさまたち共産主義者のやり方にちがいないのだ。どうだ、青山、返答をしろ、返答を……。」

「ちょっと待って下さい。」

 私は悲鳴をあげた。顔がのけぞって、のどの皮がちぎれそうにつっぱった。背後では両のふくらはぎにそれぞれ二人の刑事が乗っかって、肉が破裂せんばかりに踏んづけ踏んづけしている。こういう痛みは、いっそ鋭利な刃物でスカッと斬られるよりも堪えがたく苦しい。私は息苦しさに負けた。

 「日本政治経済研究所は、あれは昭和十一年です。たしかに当時の人民戦線思想に立脚して、大衆啓蒙を目的としたものでした。しかし、あくまでも合法的な線をはみ出ない活動でした。それに私は、研究所の創立が四月で、その八月には体を悪くして三浦三崎で療養生活にはいりましたから、以後の詳しいことは知らないのです。」

 私は、そこではっと思い当たることがあった。なるほど三浦三崎は神奈川県下であった。するとあの時、私を検挙にやってきた特高は、まだかけだしのこの柄沢たちだったのかもしれない。

 ——一九三六年(昭和十一年)の暮れであった。私たちの日本政治経済研究所は、当時の一連の人民戦線弾圧のとばっちりをくって、所長の小岩井浄をはじめ立花敏男、内野壮児、城戸武之、吉村亮太郎、大谷喜左治、小林英三郎等々の所員が全部検挙された。このなかで、小岩井浄はいわゆる三・一五事件の昔から知名だったが、二十数年前に急死した。立花、内野についてもその人物を知っている読者もあることと思う。立花は戦後共産党に入党し、一九四九年春の衆議院総選挙では一躍当選したことがあり、兵庫県では顔の売れた共産党の指導者である。内野は彼も戦後出獄すると間もなく入党した共産党員で、やがて中央委員候補にまでなったが、一九六一年の綱領問題(革命の展望)についての意見の不一致から、除名処分をうけ、春日圧次郎一派と同一行動をとった(一九八〇年十二月死去)。また、小林英三郎は当時文芸春秋社の社員であった。が、これが実は二度目の入獄で、やがて三八年暮れに出獄すると、こんどは私が手引きして改造社へ入社したのだった。当然に、横浜事件にひっかかったが、そのいきさつは後に述べることになろう。

 そこで私だが、私は正規の研究所員ではなかったが、改造社ヘ入社する前の、いわば無職時代に、ただそこで飯を食べさせてもらうだけの報酬で「大衆政治経済」という機関誌の執筆や編集に協力していた。しかし八月に軽い喀血をして、そのまま三浦三崎の知人の医師を頼って転地したので、わずか半年たらずのことであった。だから事実、研究所がその後どのような組織的活動をしたか関知しなかった。三浦三崎ヘ刑事が来たときは、医師のとっさの機転で私は急にベッドにもぐりこんだ。医師が微塵もためらうようすなく「絶対安静です」とはねつけたので、刑事たちはがっかりしたような、また、羽をもぎとられた鳥も同然の私など、どう逃げようもないわいといった顔つきで引きあげて行った。それで私は検挙をまぬがれた。もちろん、事件はとうの昔に落着した。

「——あのとき以来、きさまは神奈川県の特高警察にマークされておるのだ。いいか、きさまは名古屋で学生運動をやった。そして転向を誓って起訴猶予で釈放になった。しかし、きさまの転向は擬装だったのだ。その証拠に、すぐまた東京へ出てきて、日本政治経済研究所の活動をした。そういうきさまが改造社へはいって、共産主義活動をしない、というほうがおかしいじゃないか。」

 柄沢は、私に対する追及がいかにも理詰めで、その勝利を誇るような、ふてぶてしい表情で言った。

 「しかし、すでに時代環境がちがいます。私は雑誌記者という職業が好きで、自分の性格にあった仕事として選んだのです。改造社への入社に共産主義活動の目的も意志もあったわけではありません。」

 「きさま、まだそんな寝言をぬかすのか。見かけによらぬ往生ぎわのわるい野郎だ。きさま、いま時代環境がちがうと言ったな。そんなら、あの『プラウダ』や『イズベスチャ』はどうだというんだ。あの日付は一九四三年、つまり昭和十八年の五月一日だぞ。きさまがすでに海軍報道部へもぐりこんでるときだ。日本が生きるか死ぬかの大戦争をしとる最中だぞ。そういう時代環境に、ロシア共産党の機関紙が、きさまの部屋にあるとは、こりゃいったいどういうわけだ。どこから手に入れて、どうしたというのだ。時代環境がちがうから目的も意志もないなぞと、よくもぬけぬけとデタラメが言えるもんだ。さあ、白状しろ。」

「……」

 私は、つまった。これにはまったく困った。正直に答えればかえってますます曲がってとられるにきまっている。しかし正直に言うよりほかに手はなかった。私は実際、このとき柄沢から問いつめられるまで「プラウダ」も「イズベスチャ」も、すっかり忘れてしまって念頭になかった。それが、私の乱雑な書棚のどこかにはさまっていることなど、てんで気にもかけなかった。第一、私はロシア語は字母の発音ぐらいしか知らなかった。私がそれを利用しようとする、共産主義的目的や意志などがあるはずがなかった。

 しかし、まさしく私はそれを海軍報道部から借り出したのである。いや、無断で私宅へ持ち帰るのは禁じられていたから、この点はたしかに私に違法行為があった。その頃はまだ毎日、ロシア大使館から「プラウダ」も「イズベスチャ」も、そのほか幾種類もの雑誌やパンフレットを報道部ヘ送って来た。それらを整理することも、私たちの仕事の一つであった。私は、まったく正直なはなし、その五月一日号、すなわち「メーデー」号に一種の興味を抱いた。独力で読みこなせないためにかえって未知のものに吸いこまれるような、不思議な関心であった。くり返して言うが、それはけっして左翼的な意志や目的のはっきりしたものではなく、きわめて単純な、いうならば子供のような興味であった。その証拠に、私はついにそれを一行も読まなかった。ロシア語のできる友人に、訳読してもらう手間をとろうともしなかった。しょせん、子供の興味にすぎず、仕事にかまけて日に日に忘れていってしまった。

 しかし、こんなことを正直に言ったところで、柄沢を納得させうるものではなかった。私は何か言いのがれの名案はないものかと、じりじり汗をかきながら焦った。私が黙っていると、柄沢はここが攻撃のきめ手だと考えたのだろう、二人の刑事に目くばせをして、新たに猛然と暴力を振るった。私は両腕を後ろにねじあげられ、体じゅうところかまわず竹刀でぶんなぐられた。しまいには痛みというものを感じなくなった。皮膚も肉も、しびれてしまった。そしてある瞬間、目先が暗くなってすうっと深い井戸にでも吸いこまれるように気がぬけた。失神の一歩手前であった。

 私は自分では、これはなんとも言いようのないひどい拷問だと思ったが、あとで横浜事件関係者の話をきいてみると、私の場合などはまだまだ序の口だった。ひどいのは逆吊しにされ、まったく気絶するまで竹刀や木刀でぶんなぐられた。気絶して、もううめき声も出ない、ぐたっとした肉体は、あたかも肉屋の店頭にまるごとぶら下げられた牛のようなものである。しかし、あくまでも残忍な神奈川県の特高は、水をぶっかけたりして相手が気をとりもどすと、すかさずまたいわゆる胴締めとかソロバン攻めなどの新手の拷問をくり返すのだった。それは話をきくだけでも身震いするような、むごたらしい情景であった。きくところによると、そういう言語に絶する苛酷な拷問で全国の警察に名をなしているのが、神奈川県特高の伝統であった。「小林多喜二は、どうして死んだか……」というせりふは、どの刑事も口癖のようにどなったが、益田直彦を取調べた森川警部補は、拷問の最中に「きさまのような国賊は、このまま地上から完全に抹殺してもかまわないのだ」と倣然と言い放ったそうである。

「私は海軍報道部で『プラウダ』も『イズベスチャ』も、自由に見られる立場にあったのです。」

 私はたまりかねて息を切らしながら言った。

「しかし、私はロシア語はわかりません。いずれ誰かに読ませて内容を知りたいとは思っていました。」

「その誰かとは、いったいどこのどういう野郎だ。」

「そういえば、いつか桔梗五郎がアパートへ寄ったとき見せたように思います。」

 私は、その瞬間までまったく思いもよらなかった桔梗五郎の名前が、ふっと口からはき出すように飛び出たので、われながらびっくりした。桔梗五郎は改造社で「文芸」の編集部員だったが、二年あまり満州部隊へ従軍し、そこの報道班勤務でロシア語を勉強させられた。そして一度帰還したが、私が検挙される半年ぐらい前に再召集をうけ、そのころは南方戦線で苦闘しているはずだった。

 なぜ桔梗五郎の名前が飛び出たのだろう。考えても筋道が立つはずのものではなかったが、やはり、私は自分に召集令が来ていると知らされ、七月十日が頭にこびりついて以来、改造社の同僚についても北島宗人とか桔梗五郎など、出征中のものにより深い関心を寄せた。あるいはむしろ羨望と言ってもよかった。そういう私のこころの底にただようものが、この際に、反射的な言葉になって飛び出たのだろうか。「おれはまるでロシア語学校へ収容されているようなものだった。」桔梗五郎はそう言って、原語でチェーホフやゴーリキーを勉強しようとしていた。私はうらやましいと思った。

「よし、きょうは、これまで。」

柄沢が、私の額を指で突き上げるようにして言った。

「つぎの取調べまでに、もっとじっくり考えておけ。きさま、刑務所ヘ行くよりは軍隊ヘ行ったほうがいいと思わんか。いや、きさまら反戦主義者は、殺されても、戦争には行きたくないわけだな。まあ、きさまの出ようによっては、召集令のことも全然考慮にいれられないこともなかろうからな。」

 皮肉な、やわらかい言いかただった。私の胸のうちを見てとって、ずるく陥穽へ誘いこむような悪魔の微笑をうかべていた。私は相手の陥穽は警戒しなければならぬと思った。そのために私自身の良心と同僚を裏切るようなことがあってはならぬ。しかしまた私は、陥穽であろうと鉄条網であろうと、七月十日の召集令は私の取調べにとって有利な条件にちがいないと思い返した。

 私はそとにいるときは、何をかくそう、戦争に行って敵弾にたおれるのは、たまらなく悲しいことだと厭った。国の生死をかけての大戦争であることはわかるが、しかし軍が唱える「聖戦の意義」には納得のいかないものがあった。できることならば私は戦争に行かないですましたかった。内地にいても空襲がはげしくなれば戦争とかわりはなかろうと考えたが、もうその時はその時だとやけっぱちな諦めを抱いていた。そういう私だったが、なおかつ、このまま留置場にながいあいだ放っておかれ、それからまた刑務所ヘ送られるのかと想像すると、まだしも私は戦場ヘ行ったほうがましだ、と正直に思った。いずれにしても、それは「死」が向こうから襲って来て防ぎょうがないとおびえての想念にちがいなかった。

 

3 敗 北

 

 それから数日の間をおいて二回目の取調べがあった。前回の拷問ではれあがった私の顔や手足は、まだ重たくむくんでうずいた。

 私は海軍報道部に徴用されたことでこんなひどい目に会おうとは、よもや思いもしなかった。前回はまだ中途で終ったから、きょうもまた報道部内のことで締めつけられねばならないか。あの時はうまい具合に桔梗五郎の名前が飛び出たが、——しかし考えてみれば、うまい具合になどとのんきな言いかたが許されるべき事がらではなかった。まさか戦地にいる桔梗五郎にまで取調べの手は回るまいが、それでもやろうと思えば、特高から陸軍へ、そしてさらに所属部隊の転戦地へ連絡することは可能である。もしそんなことにでもなったら、さぞかし桔梗五郎は目をパチクリさせて驚くだろう。そうでなくてもとぼけて見えるところのある桔梗五郎は、まったく身におぼえのないことで、返答に窮すれば窮するだけ、よけいとぼけて見られて苦しめられるにちがいない。私はまさかと否定してみても、やっぱり良心がとがめ、罪の意識に悩まされた。どのようにさげすまれても仕方のない、精神的にくさった人間の仲間に落ちこんだような自虐に苦しめられた。

「きょうは、改造社内における共産主義活動について申し述べてみろ。」

 柄沢警部補と私は、今回は机をはさんできちんと向き合って坐った。前回と同じ二人の刑事が、私の両側に立った。私は海軍報道部のことばかりに気をとられていて、いきなり「改造社内の……」と問われ、一瞬、虚をつかれた。

 話が前後するが、柄沢は報道部内のことについては、あれきりでその後は一度も訊こうとしなかった。ふっとたち消えになったので、私はかえって無気味なものを感じていた。何か報道部内で私をとっちめる新しい材料をさがすとか、デッチあげようと工作している、その間の静寂のように思えたのである。しかし、私はもちろん留置されていてその間の事情を知るよしもないが、後日聞き知ったのは——前にも報道部による私の身柄引取りうんぬんのことはちょっとふれたが、実は報道部の戸崎徹主計中尉(のちに大尉、彼は東大出身の応召士官であった)の住居が横浜だったので、彼は報道部の意向をくむのはいうまでもなく、私との親しかった個人的好意からも、数回にわたり横浜の特高を訪ね、報道部内における私の言動態度を説明し、また海軍の面子にかけても、報道部内で共産主義活動をする余地のありえないことを力説してくれたのだった。

 柄沢が報道部に関する私の取調べを、中途で放棄した理由があったのだろう。

 ところで私は、改造社内における共産主義活動などと途方もないことを訊ねられても、そんな意識も事実もないので答えようがなかった。

 「平賀警部補による勾留訊問の際に、私たちの改造社における編集活動が、すなわち共産主義運動だと押しつけられましたが、いったいどういうところがそれに該当するのでしょうか。私にはかいもく考え及びもつかないのです。」

 私は言ってから、いけない、こういう言いかたはまずかったと、はっとした。はたせるかな、柄沢は憤然として立ち上がり、いきなり自ら私の眼鏡をもぎとるようにはずした。それとばかり二人の刑事は私を椅子から引きずり下ろして、前回のように部屋の中央に土下座させた。「この野郎……」と、どなりざま柄沢の平手打ちが頬にきた。

「どこが該当するのか、……きさま、よくもずうずうしく言いやがったな。いいか、きさまがいくらシラを切っても、改造社には相川博というりっぱなスターリンがおるじゃないかよ。そのスターリンが、すっかりドロを吐いとるんだ。いいかげんに神妙にするもんだ。きさまらの編集会議における発言内容、執筆者選択のイデオロギー、バーや喫茶店におけるフリー・ト—キング、それらがすべて共産主義意識に基づいて計画的にすすめられていることが、具体的に日時から場所まで、すっかり洗いざらい調査ずみなんだ。」

 私は益田直彦と新井義夫の言葉を思いだした。

 「事件はとんでもないデッチあげて、死ぬほどひどいテロだ。警察ではまあまあにして、あとは裁判所でがんばるんだ。」相手が相手ならば、こちらも虚々実々の出かたがあっても然るべきではないか。良心を偽るのは恥ずかしいが、それも最後の勝利をうるためには眼をつぶらねばなるまい。もうこれ以上の抵抗は無意味であり、かえって有害かもしれない。はりつめた私のこころの構えは、ゴム風船の空気がぬけるようにしぼんでしまった。悲しく口惜しかったが、降参しましたという意志表示に黙って頭を深く垂れた。不覚にも大粒な涙がこぼれた。

 時間がたつにつれて、私の敗北意識は諦観に傾き鎮まっていった。しかしその間にも、何を具体的に共産主義活動として説明すればいいのか、私の困惑はつづいた。柄沢は、ようやく勝者の悠然たる笑顔で紫色の歯ぐきを見せた。いっぷく吸えとタバコさえさし出した。私は手のふるえを覚えながらタバコをくわえた。思わず深く吸いこみ、大きく吐き出すと、わずかに目まいを感じた。目まいのせいかと、一瞬、私は自分の眼を疑った。柄沢の机上におかれた一枚の罫紙であった。見ぬふりをして、しかし注視すれば、ああ、なんということだろう。それは、まぎれもなく、つぎのような組織図であった。

 日本共産党再建準備委員会

   細川嘉六

   平館利雄

   西沢富夫

   西尾忠四郎

   木村亨

   相川博

   小野康人

   加藤政治

   益田直彦

  改造社フラク

   相川博

   小野康人

   小林英三郎

   青山鉞治

   若槻繁

   大森直道

   (水島治男)

(注 組織図は人名以外一部改変してあります) 

 まったく、あの瞬間の驚きを思い出すと、私はいまでも、あっと声をあげたくなるような転倒した気がする。私がタバコを吸いながら動悸を鎮めるには、かなりの間があった。……そうだったのか。このような遠大な事件の構想のなかに、自分たちははめこまれているのかと、いまさらのように太い吐息をついた。この一瞬で、私の七月十日の希望も何もかも消し飛んでしまった。そして、いったいこれにはどう対処すればいいのか、私の不安は限りなく深まっていった。

 だいたい、私は、「改造」編集部では、大森直道と小野康人の二人ともっともうまが合ったが、その小野康人が検挙された一九四三年五月二十六日、連行されたのが横浜の警察だと知らされて、私は冗談ともまともともつかず小野の細君に言ったものである。「小野君はあの人柄で顔がひろく、ヤミ物資などの入手にもことかかなかったでしょう。誰かそんなことで横浜方面の知人がひっかかって、その関係じゃないですか。それにしても特高が来たのはおかしいですね。」

 のんきでうかつなはなしといえばそれまでだが、当時、細川嘉六はあのまま警視庁に留置されていたし、だからその関係で調べられるにしても小野が横浜へ連れて行かれる理由が、私には納得できなかった。しかし二、三日すると、小野と同時に相川博(改造社を退社後、経国社勤務)、木村亨(中央公論社)、加藤政治(東洋経済新報社)、西尾忠四郎 (満鉄調査部)などが、やはり横浜の特高によって検挙された事実を知って、はじめて私は何か計画的な事件を横浜の特高が企みだしたことを感じた。そしてさらに調べると、その以前の五月十一日朝、益田直彦(世界経済調査会)、平館利雄(満鉄調査部)、西沢富夫(同上)の三人がすでに横浜の特高に検挙されていた。みんな細川嘉六に親しいものばかりである。

 こうして、いわゆる横浜事件の発端が明るみに出るわけであるが、私が釈放後調べた事件の梗概は、つぎのようなものであった。事件関係者の一人の私が、釈放後になって調べた梗概などと言ってはおかしくきこえるだろうが、そこがまたこの事件のデッチあげてあるゆえんであった。

 事実、私は、事件が細川論文に端を発したとすれば、なぜこれほどまでに広く深く掘り起こされねばならぬのか、取調べられていても想像がつかなかった。同業で、平素は互いに競争意識はあっても親密な改造社と中央公論社の関係さえも、この事件では何も横のつながりはなかった。まして他の個々のグループの間は、完全に孤立していた。もともと根も葉もない、そういうバラバラのものを無理にくっつけて、一つの統一ある大事件にデッチあげようとした、その頂点に立つ中核組織が「日本共産党再建準備会」であった。しかし、その中核体が実は幽霊であったとすれば、いったいこの事件は憤っていいのか、笑うべきか、始末に困るようなものである。しかし、やっぱり笑ってすますには、関係者が受けた肉体的・精神的被害があまりに悲惨であった。が、とにかく、その幽霊劇の筋書きを述べよう。

(ただし、私は泊会議には出席していないので、この項の執筆は、主として木村亨著『横浜事件の真相——つくられた「泊会議」』、美作太郎・藤田親昌・渡辺潔共著『言論の敗北』によるものである。)

 

4 幽霊劇「泊会議」

 

 日米が開戦して第一回のアメリカ交換船が帰国した頃のことであった。当局は帰国者のなかにアメリカのスパイ、あるいはアメリカ共産党を通じて国際共産党の指令をうけているものがあるのではないかという疑惑をもち、船会社の人たちに、乗船者のなかにアメリカで左翼運動をしていたものを指名させたことがあった。

 この時、世界経済調査会の川田寿、定子夫妻の名前があげられ、これがそもそも横浜事件の検挙に糸口を与えることになったのである。が、川田夫妻は実は一九四一年初め、すなわち太平洋戦争の始まる前にとうに帰国しており、それから一年九ヵ月もたってから検挙されたのである。その令状には「日本共産党再建運動を主謀したしたかどにより逮捕する」という文句があった。しかし、川田夫妻の取調べは、スパイ嫌疑と国際共産党関係に終始し、関係者として川田寿の実兄、アメリカ時代の友人たち、世界経済調査会の関口元、諸井忠一、高橋善雄など、多数の人びとが召喚されたり検挙されたりした。

 川田夫妻に対する取調べは峻烈をきわめ、拷問も私などとは比較にならぬ言語に絶するものであったが、当局が狙ったスパイ嫌疑と国際共産党関係の事実はついに出ず、川田寿が慶応大学在学中、学生運動に関係し、昭和五年アメリカ留学以来十年間、労働問題の研究に専心したその期間、「米国に於ける労働運動に参画し、亦邦人労働者の組織啓蒙に従事したる外、平和・戦争反対運動を支援し、日本の主戦政策を批判し、海軍水兵に対する反戦活動、日本勤労者に対する反戦宣伝をなした」(付録資料 川田寿「口述書」)という嫌疑で起訴され、一九四五年七月二十五日、川田寿は懲役二年・執行猶予三年、定子夫人は懲役一年・執行猶予三年の判決があった。

 川田夫妻の場合は、十年間の日本における空白がものをいって、アメリカにおける活動だけが問題になり、一応ほかの人たちとの関係は断ちきられた格好になったが、関係者として召喚された高橋善雄が、他の関口、諸井両名がすぐ釈放されたにもかかわらず、かつて一高在学中に学生運動の経験があったことから検挙され、ここからはからずも、横浜事件へと拡大してゆくのであった。

 この高橋善雄の場合もそうであるが、横浜事件で検挙されたものはすべて、過去におけるなんらかのかたちの左翼運動の前歴者ばかりであった。改造社の例をとっても、私は名古屋高商時代に共産主義青年同盟の細胞活動の前歴があり、大森、小野、相川、若槻もそれぞれ学生運動の経歴者であり、小林英三郎にいたっては前にも述べたが、文芸春秋社時代と日本政治経済研究所と、合わせてこんどが三度目の入獄であった。

 つまり、横浜の特高の手口は、まず前歴者を検挙し、拷問で攻めつけて、彼らの描く事件の構築をむりやりにデッチあげようとするものであった。だから、改造社の場合でも、佐藤績と水島治男は同期に入社し、地位からいえば、佐藤績は編集長だったから水島治男よりも責任が重いにもかかわらず、水島は早大時代の前歴があり、佐藤はなかったばかりに証人調べだけですんだというわけだった。鍛代利通がたすかった理由も同様である。こういう点からみても、横浜の特高のやり口がいかに乱暴で、無から有をたたき出すためには手段を選ばなかったかがわかるのであった。

 ところで、高橋善雄の検挙は一九四三年一月のことで、高橋は世界経済調査会においてソ連・中国関係を担当していた関係上、これと仕事の関連の深かった満鉄調査部がにらまれ、前述のごとく西沢富夫、平館利雄、そして高橋と同僚の益田直彦らが、五月十一日の朝、同時に検挙された。

 こうして、特高の捜査の手口は、調査活動という仕事の脈絡のなかにある人物を、交友関係の糸をたぐりながらつぎつぎに挙げてゆくことにあった。そして、そのようにしてふえてゆく犠牲者の網の目がひろがるうちに、もともとそこに存在していた仕事の脈絡や知友関係の地図が、思いもかけなかった別の色に染め変えられていった。

 たとえば、益田直彦は、たまたま外務省の伝書使の資格でソ連へ出張することにきまり、ビザが下りる直前に検挙されたのであるが、特高はかえってこれをソビエト共産党との秘密連絡に出かけるものとみなしたために、益田に対する追及は酷烈きわまるものであった。また、世界経済調査会と満鉄調査部の関係の事件はさらに発展して、満鉄上海支社に波及し、十カ月後の四四年三月末に、安藤次郎、手島正毅、内田丈男の三人が現地で検挙され、横浜へ連行されて来たのである。

 さて、さきに私は「日本共産党再建準備会」は幽霊だと言ったが、その正体を明かそう。それは、まさに一編のおとぎ話である。

 富山県の東北隅、北陸本線沿いの日本海に近いところに、泊という小さな町がある(いまは朝日町の一部となっている)。四二年七月五日のことであった。この町の紋左旅館で、ささやかな宴会がひらかれた。細川嘉六をはじめとし、その若い友人たちである西沢富夫、西尾忠四郎、平館利雄、木村亨、相川博、小野康人、加藤政治らの一行八名であった。泊は細川嘉六の郷里で、たまたま法要で帰省する折りがあり、ちょうど新著の『植民史』が東洋経済新報社から出版された当座でもあったので、その出版記念をかねて、日ごろ執筆や研究になにかと力になってくれた、若い人たちをねぎらいたいというのが細川嘉六の本心であった。

 かねて尊敬している先生からこの申し出をうけて、若い連中はもちろん二つ返事でこれに応じた。なにしろ太平洋戦争以来すでに半年、世間はまだ景気のいい大本営発表で多少のぼせ気味であったとはいえ、生活の実情は言論と食糧の両面からきびしい統制のタガをはめられていた。東京での息づまるような日々から解放されて一日の清遊に招かれ、そこで気ごころの合った先生や仲間との懇談にうさを晴らせるだけでなく、日本海から獲りたての珍味を盛ったご馳走にありつけるとなれば、万障を排してでも行きたくなるのは当然の人情であった。

 したがって紋左旅館奥座敷の宴会は上首尾で、和気あいあいたるものであった。議論好きの若いものが論客細川嘉六を中心にしての集まりであるからには、談論風発の方向が時たま政治にふれるのは、いっこうに不思議なことではなく、また酔余の欝憤や不満や批判に類する言葉が交わされたことも容易に想像できるところである。やがて、興到って一行中の西尾忠四郎が、このよき日の記念のために全員の並んだところをカメラにおさめ、会はとどこおりなく終った。

 私は小野康人からこの写真を見せてもらったことがあるが、みんな旅館の横縞の大柄な浴衣姿で、それに酒のはいった顔つきは、のんきにぼんやりと写っていた。それはどう見ても、日本共産党再建準備会というような、いかめしい会合の出席者にふさわしい姿ではなかった。だいたい、あのきびしい戦時下の弾圧の時期に、悠々と一堂に会し、白昼公然と記念撮影をして、そのうえごていねいにも参会者めいめいに写真を配って“証拠物件”をばらまくような、そんなだらしのない共産主義者がいるなどと、本気で考えられるものだろうか。それともあの宴会の参加者たちは、ご馳走をたべ、雑談に花を咲かせ、記念写真をとるということのなかにさえ「革命」の擬装を心得ている、それほど剛胆で狡知にたけた共産主義者であったのだろうか。考えれば考えるほどばかげている。

 ところが、この一枚の写真が一年もたたないうちに、いわば運命の導火線となったのである。前記の平館利雄の検挙による家宅捜査の際に、この写真を発見した横浜の特高は、鬼の首でも取ったように小躍りして喜んだ。かれらはこの一枚の写真をネタにして、共産党再建準備会としての「泊会議」と、この会議に参加して再建に暗躍する「細川グループ」という一連の物語の構成に自信を得た。すなわち、四三年五月二十六日、相川、小野、木村、加藤、西尾の五名がいっせいに検挙されると、その前に検挙された西沢、平館、益田(泊の会合には欠席)たちとの結びつきを、写真の示す「泊会議」という事実によって確認し、この両者を合体させて「細川グループ」という“革命の中核体”がでっちあげられたのである。

 そしてここまでくれば、当時まだ警視庁に留置されていた細川嘉六を無理にでも事件に巻きこまなければ格好がつかなくなった。細川嘉六が東京から横浜拘置所ヘ移管されたのは、翌年すなわち四四年の初夏であったが、そのさい警視庁の係官は「叩いたって何も出て来やしねえのに、つまらんことをする」とぼやいたということである。これは警察官僚の縄張り根性から神奈川県特高への冷笑ともとれるし、また取調べのさいの細川嘉六の毅然たる態度を問わず語りに語っているようにもとれるが、さらにまた筆禍事件を騒ぎたてて実際の負担は自分たちに押しつける陸軍の横暴に対する、小役人の泣き言ともとれよう。

 しかし、この捨てぜりふは、細川嘉六を横浜事件に連累させることの非合理と無謀を、——それは、また横浜事件全体に対する非合理と無謀だが、それをひそかに認めているものが、当の警察側にさえいたということを物語っているのではなかろうか。

 そして事実、後日の公判廷における起訴状のなかで、この泊会議の項は全く抹消されていた。まさに幽霊劇だったのである。