特攻基地、知覧ふたたび――序にかえて
薩摩半島の最南端に、開聞岳という山がある。標高九百二十二メートル。薩摩富士とよばれるこの美しい円錐形の山は、裾野を太平洋に洗われ、ふかい緑におおわれた山頂から麓まで一直線の傾斜をみせた端正な山である。開聞岳の名は、鹿児島湾の入り口にあるところから”海門“となり、それが転じたのだという。
四十年まえ、本土最南端、陸軍最後の特攻基地知覧を出撃した特攻機の編隊は、この開聞岳上空を西南にむかって飛び去っていった。本土ともこれでお別れになる。隊員たちは、日本最後の陸地である開聞岳の姿を心の底に灼きつけるように、何度も振り返り振り返り凝視めていた。なかには、万感の念いで祖国への訣別 の挙手の礼をこの山にむかって捧げている少年兵もいたという。
開聞岳上空から沖縄まで六百五十キロ。海上二時間余の飛行。この山に別れを告げ、還らざる壮途についた特攻隊員四百六十二人。出撃機数四百三十一機。開聞岳は、美しくもかなしい山である。
――昭和五十七年の夏、その開聞岳をふたたび眺め、知覧を訪ねた。三十七年ぶりの知覧への旅であった。戦後、いままでも幾度か訪ねたいと、渇くような思いをもっていた。その思いをもちながら、なぜか心の裡{うち}に躊躇うものがあった。戦争で死ななかった者の、後ろめたさ、悔恨の念なのであろうか。
知覧……。薩南の涯の山のなかの静かな町。と号(特攻)要員とよばれた若者や少年たちが、青春の最後の幾日かを過した町。祖国の難に一命を捧げた隊員たちの特攻機が、二百五十キロの爆弾を抱えてよろけるように飛び立っていった町。そんな隊員や、それを取りまいた人びとの、さまざまな昏い思いが罩められている町、知覧。
鹿児島市内で一泊して、翌朝はやくホテルまで迎えにきてくれた建設業の福元勇蔵氏の車で、知覧にむかった。飛行学校で同期だった福元は、薩摩人らしい朴質な人柄で、突然やってきたわたしのために多忙な一日をさいてくれたのだ。
鹿児島市内から涙橋……紫原、谷山と旧谷山街道に車を走らせながら福元は、訥々とした話ぶりで彼自身の終戦を語る。
「……あれァ敗戦のときの九月ンじゃった。これでもう日本軍の飛行は終りという日、済南(=中国)の飛行場の上空で、先輩の少飛(少年飛行兵)四期の飯田中隊長が九九双軽{九九式双発軽爆撃機}で、宙返りから何からみんなやってみせた。それァ見事なもンじゃった。私ゃそれを、いまでもようく覚えちょる」
福元の耳の底には、その”最後の飛行”の爆音がいまも轟々と響きつづけているのであろう。
福元はその感動を抑えきれぬように、
「済南の空を見あげながら、飛行場の誰も彼もが”これで日本陸軍の飛行機の見納めか”と、みんなぼろぼろと涙をこぼしておった」
それが福元の青春でもあったのだろう。わたしたちの年代では、戦争をぬきにして青春は語れないのだ。
鹿児島から一時間、手蓑峠を登りつめると、いちめんの茶畑のひろがりが目のなかに躍りこんできた。
(ああ、知覧だ)
左手に知覧茶発祥の地の碑もみえる。ここから道を南下すると、知覧町役場……麓川、永久橋にかかる。
町の表情は明るくなっていた。往還は舗装され、左右に建ち並ぶ家々も新しく装いを変えていた。橋の袂にあった軍用旅館の永久旅館はコンクリート造りのモダンな、自動ドアのついた食堂「味処えいきゅう」になり、内村旅館は木造モルタル造りになり、当時の女主人たちの姿はすでになかった。所有者も変っていた。飛行兵たちが外出のたびに通った軍用食堂の「富屋」も、大きな富屋旅館も新築されていた。飛行兵たちがよく利用した私鉄、南薩鉄道は廃線になり、知覧駅の古ぼけた駅舎だけがぽつねんと立ちつくしていた。その駅舎の正面 に打ちつけられた板片れにCHIRANSTATIONと墨で書かれているのが、歳月の流れを感じさせた。
知覧の町で、当時の面影をのこしているのは、旧鹿児島街道に建ち並ぶ、玉石や切石垣の上に犬槙の大刈込みをみせた麓の武家屋敷群と、それを縦横に結んだ小路……次の小路や、紺屋小路、城馬場通のたたずまいと、軍用旅館を発って出撃する隊員たちのために、知覧高女の少女たちが、おりから満開の八重桜の枝を折りとり、折りとりして駈けつけたという永久橋畔の桜の古木。そして飛行兵たちから慈母のように慕われた特攻おばさん、鳥浜とめさんだけであった。
とめさんは健在であった。八十一歳。でっぷりと肥って、そのためか足の痛みがひどく歩行も不自由らしかった。 それでもとめさんは、訪ねて行ったわたしたちのために、杖をついて奥座敷まできてくれた。
「ゆう、おさいじゃしたなぁ」
とめさんは、不作法を詫びながら畳の上に痛む足を投げだし、あのころの隊員たちの表情を、一つひとつなぞるように話してくれた。
「僕が死んだら、 きっと蛍になって帰ってくるよ」
そう言って出撃した宮川軍曹が、翌晩、一匹の”蛍”に化って飛んできたというのは、この左手の庭の泉水のほとりであった。第七次総攻撃に進発した朝鮮出身の光山少尉{しょうい}が、出発の前夜、とめさんにねだられて低い声でアリランの歌を唄ったのは、次の間の柱のところであった。光山少尉はその柱にもたれ、軍帽をずりさげて顔をかくすようにして唄っていたという。
「僕の生命の残りをあげるから、おばさんはその分、長生きしてくセさい」
そう言って、うまそうに親子丼を食べて出撃していった一人の少年飛行兵のことを語ると、とめさんは、あの子のおかげで私ゃこんなにも長生きしてしもうた、と涙をにじませた。
この知覧にわたしがいたのは、きわめて短い日数であった。と号要員でもなかったわたしは、やがて名古屋郊外、小牧第二十三飛行団司令部の通信飛行班に移っていく。わたしの知覧とのかかわりは、ただそれだけであった。が、なぜかわたしの知覧への思いはふかい。それを言うと、とめさんは、
「生き残りの特攻隊員さんがおじゃるようになったのも、戦後十年目ぐらいからのこつでごあんぞ」
元隊員たちが、ながらく知覧に姿を見せなかったのは、いちどそこで死を覚悟したものにとって、多くの先輩や同志を失った痛恨きわまりないこの地には、訪れがたいなにかがあったのであろう。
富屋旅館で昼食をすませて発つとき、杖をついて玄関まで見送ってくれたとめさんは、飛び立っていく特攻機を描いた富屋旅館の日本手拭に署名して、一首の和歌を書き添えてくれた。
散るために咲いてくれたか桜花散るこそものの見事なりけり
知覧の飛行場跡は、木佐貫原の台地にある。
昭和十六年、ここに太刀洗陸軍飛行学校知覧分教所が設けられ、多くの少年飛行兵たちが巣立っていった。——が、やがて大戦末期、ここは第六航軍の特攻基地となり、そして戦い敗れたいま、台地はふたたびもとの静寂さをとりもどし、薩南の真盛りの夏の陽ざしをあびてひっそりと声もなくしずまりかえっている。
戦後、開墾された台地は見渡すかぎりの茶畑、唐薯畑、里芋畑になり、かつての特攻基地をしのばせるのは、ピサの斜塔のように傾いた給水塔と弾痕をのこして転がっているコンクリートの衛兵所だけであった。ほかには、なにも残っていなかった。すべてが、もとの畑地と雑木林の原に還っていた。その野の涯のはるか彼方に、開聞岳だけが遠く、当時もいまも変らぬ 端正な姿をみせていた。
特攻平和観音は、兵舎跡にちかい知覧運動公園の傍に建てられていた。運動公園で車を降りて、福元とわたしは観音堂にむかった。観音堂の境内は掃き清められ、参道の左右には遺族や鳥浜とめさんや、鹿児島少飛会はじめ由縁の人びとが寄進した石燈籠が立ち並んでいた。そのむこうの、元隊員や関係者たちの浄財で建てられたコンクリート造りの観音堂には、大和、法隆寺の夢違観音を模した金銅仏が納められている。
特攻観音に参詣をすませて、横手にある特攻遺品館に行った。
遺品館には、出撃散華した特別攻撃隊員たちの飛行帽や寄せ書、遺書や写真などが展示されている。遺品は、先輩たちのものばかりではなかった。昭和十八年四月、東京陸軍航空学校(甲種)に入校した福元やわたしなどより六ヵ月のちに学徒出陣した特別操縦見習士官や最後の少飛特攻隊員や、そして一年後に戦列に加わった特別幹部候補生の隊員たちの遺影も飾られていた。
そのなかでつよく目をひいたのは、出撃前のひととき、仔犬を抱いて戯れているまだあどけなさを残した少飛隊員たちの群像であった。第七十二振武隊・高橋伍長……荒木伍長……千田伍長……。それにしても、二時間余に迫っている確実な”死”を前にした少年たちのこの明るい表情はなんということであろう。
当時の、陸軍の少年飛行兵や海軍の予科練習生の出身者は、愛国の情熱に駆られて、ひたすら体当り攻撃を志し、みずからすすんで血書し特別攻撃隊員になった。
〈……いま茲に殉国の翼あればたちまちにして敵の輪形陣を消滅し皇国の危急を救ひ得べきこと明らかなるを思へば、湧き上る若き血潮おさへ難く誰か生命など惜しまんや。
茲においてか簡節にして的確なる神技の訓練を重ね、一発必中を期し以て爆弾を抱いて爆弾と共に祖国の急を救はなん、いざ。この翼いま飛ばざれば何時の日国に報ゆる時あるらん〉(陸軍特別 攻撃隊、檄文)
航空機搭乗員として、空中勤務者として若さと純真さだけが耐えることのできる猛訓練を超えてきた少年たちには、独自の死生観があった。飛行学校いらい結ばれてきた先輩と後輩の勁い絆があった。少年たちの目標はその先輩の、陸軍の撃墜王の穴吹智曹長(少飛六期、三十九機撃墜)であり、世界最高の超重爆撃機撃墜王の樫出大尉{少飛一期、B29二十六機撃墜}であり、そしてまた後輩の若鷲たち八機をひきいて出撃散華した特攻、第六十四振武隊長の渋谷大尉(少飛三期、同日任陸軍中佐)であった。
少年たちにとって、先輩が飛んだ道、同志がっ征った道は、誰が何と言おうとも、それが死につながる道であろうとも問題ではなかった。生死を迷うにしては、かれらはあまりにも無垢であり、至純でありすぎた。
酔生百年 夢死千年
修業二十年 散華一瞬(田中伍長遺書)
少飛は飛行弾なり(金沢伍長遣書)
ひたぶるに御盾と生きん国護るますらたけをとなりて嬉しき
(小高伍長遺書)
当時、報道班員として数多くの特攻隊員を見送った作家の戸川幸夫氏は、
〈彼らは神々しいまでに純粋だった。あんな美しい若者の姿を私はみたことはない〉と述べ、フランスのジャーナリスト、ベルナール・ミローはその著『神風』のなかで、
〈この行為(特攻)に散華した若者たちの採った手段は、あまりにも恐ろしいものだった。それにしても、これら日本の英雄たちは、この世界に純粋性の偉大さというものについて教訓を与えてくれた。彼らは一〇〇〇年の遠い過去から今日に、人間の偉大さというすでに忘れられてしまったこの使命を、とり出してみせてくれたのである〉(内藤一郎訳)
と詠嘆する。
仔犬とたわむれていた第七十二振武隊の高橋伍長らが沖縄西海域に突入散華したのは、昭和二十年五月二十七日のことである。同日(四階級特進)陸軍少尉。いずれも、享年十七余。
この高橋伍長らが出撃したのは、ながいあいだ〈知覧基地〉だと思われていた。防衛庁関係文書でも同期生会資料でも、そう記している。が、じつは高橋伍長らが飛び立ったのは、終戦の数ヵ前にできた”まぼろしの特攻基地”万世{加世田市)からであった。そのころ万世基地の飛行第六十六戦隊の苗村少尉は、
「航空隊の特色として、どこからか飛来してきては敵地に突入するということの繰り返しであったから、数日間も会った人もいれば、ただすれ違っただけという人も多く、また、特に特攻隊はいろいろの小さなグループに分れていて、母隊(原隊)がないため、突入のあとは確認の方法もない……出撃名簿に記載されていても、機関故障で不時着、生還したり、それが訂正されずにそのまま残っていたり……」
であったと、大戦終焉期の混乱を語っている。
館内に展示された隊員たちの遺品や、出撃直前の別れの水盃をかわしている写真、モンペに下駄{ゲタ}ばきの知覧高女の少女たちが、八重桜の枝をふりながら特攻機を見送っている写真、そんなパネルを見あげているうちに、いきなり胸をつきあげてくる熱いものをおぼえ、とめどもなく涙があふれてきた。ここには、三十七年前のあの時間が、まだ生きていたのだ。
福元をうながして館を出たわたしは、特攻観音境内に建っている特攻英霊芳名碑のほうに歩いていった。碑は、台石の上に大きな衝立状の御影石を建て、その石の肌に、知覧を出撃したおびただしい数の隊員たちの名を刻んでいる。その碑の名簿を目で追っていた福元が、だしぬけに、
「ここに、お前ンさの名が・・・・・・」
昂奮した福元の指先の、そこに刻みこまれていた文字をみて、わたしは声をのんだ。それは、まぎれもないわたしの本名であった。
(なぜ、おれの名がここに……)
夕がた、鹿児島のホテルに帰ったわたしは、持ってきていた特攻資料を繰って、あの特攻英霊芳名碑のなかの”わたし”の名をさがした。そして、ようやく『特攻作戦の全貌KAMIKAZE』デニス・ウォーナー著と、『六航軍関係特攻出撃隊の階級別氏名一覧』のなかに記録されているその名を発見した。それによると”わたし”のその名の若者は陸軍特別攻撃隊第百五振武隊員で飛行学校も階級も同じで、昭和二十年五月二十五日、第八次総攻撃に出撃散華。 この日、九州は曇り空で、沖縄海域は雨天。知覧、万世、都城東から出撃した特攻七十機。そのうち敵艦船に突入するもの二十四機……であったという。
午後七時、福元がまた迎えにきてくれた。鹿児島少飛会の事務局になっている先輩の料亭で、同期生たちが集って歓迎の席を設けてくれたのである。次つぎに運ばれてくる焼酎と薩摩料理のなかで、敗戦と共に消滅してしまった母校や戦場談に話がはずんだ。ながく離れていた故郷にでも帰ったような、そんなあたたかさが感じられる集まりであった。戦友会にありがちな、軍歌を 高唱しようというものもなく爽やかな酒席であった。
その、歓談のなかでわたしは、あの碑のなかの”わたし”に心当りがないか訊いてみた。先輩や同期のものにも、わたしと同名異人(?)のその若者には覚えがないらしかった。お前の名を刻んでいるのなら、それはお前にちがいないじゃろ。それよりも、ま、
「ダレヤメにもう一杯」
同期の誰彼は、そう言いながらかわるがわるわたしの酒盃に焼酎を満してくれた。
宴がおわったあと、福元をさそって天文館通りにでた。このまま宿に帰って寝るには惜しい夜であった。酒亭の隅の座敷に坐りこんで飲みながら、福元はわたしのために、唄をうたってくれた。
大隣岳から 下ん原ゆ見れば
からす大根葉が 今おだつ
ホッソイホーッソイ
どこじゃだがよか かがよかばってん
瀬世じゃ門園の 権右衛門チョゲザ
ホッソイホーッソイ
低い、心に沁みるような知覧節であった。福元の唄をききながら、わたしは来年も、そして再来年もまた知覧へ来ようと思った。五月二十五日、沖縄天号作戦で特攻散華したわたしと同じ名の、あの若者の鎮魂のために。
第二話 取違にて
取違由来記(碑文) ――
神代の昔、海津見神に二女あり。姉の豊玉姫を川辺に妹の玉依姫を知覧に封じ給ふ。姫神、衣の郡{いまの頴娃・開聞のあたり}を出発し鬢水峠を経て飯野で昼食をとり、白水を経てこの地{取違}に宿り給ふ。玉依姫、性質怜悧、川辺の水田寛しと聞し召され予て至らんの意あり、翌朝早く出立し川辺に至る。豊玉姫やむなく知覧を領し給ひぬ。依てこの里を”取違”と言ひ伝ふ。
大正六年四月建之 知覧村
知覧基地の特攻隊員たちの宿舎は、飛行場周辺の松林のなかに散在していた。それは半地下式、木造バラック建ての風通しのわるい粗末なつくりで、三角形に組んだ板屋根を、じかに地べたに置いたようにみえるところから三角兵舎とよばれていた。
兵舎の内部は、中央に通路の土間があり、両側は一段高い畳敷きの床で、藁布団に毛布をかけて寝袋状にしたものが四十ほど敷き並べられている。隊員たちは、このじめじめした三角兵舎で死の出撃を待ち、うす暗い裸電球の下で遺書を書き、だまって出撃して行った。
戦況が悪化し特攻出撃が激しくなると、出撃してがらんとした兵舎は、すぐにあたらしい隊員でうずめられた。
川野軍曹が、名古屋の小牧飛行場からここにきて、もう一週間たっていた。川野の出撃が遅れたのは、雨期のためであった。
薩南の梅雨は雨量が多く、川野たちのいる三角兵舎のなかも水びたしになり、脱いでおいた航空長靴がぷかぷか浮いてただようという始末であった。
そんな三角兵舎のなかで、雨の音を聴きながら最後の刻を待って、じっとしているのはたまらないことであった。だから川野たちは、いつも取違部落の入り口にある青年小屋{集会所}に出かけていた。
集会所は、滑走路から二、三百メートルほど離れた、竹やぶを背にして建てられた木造十坪ほどの、普段は小、中学生が夜の自習に集まってくる場であり、先輩たちから勉強を学ぶ場所であった。そしていま、やがて死地へ発っていく特攻隊員たちの、人生最期の憩いの場でもあった。
隊員たちは飛行訓練のない雨の日などは、午後からこの集会所にあつまってくる。ここには土地の人びとや婦人会や女子青年団がきていて、隊員たちのために湯茶を接待したり、時には歌や踊りをみせてねぎらっていた。しかし、その歓待をうける隊員たちの顔ぶれは、めまぐるしく移り変っていった。村の人たちは、あと数日この世に生きていることをゆるされた若い隊員たちのために、胸元にこみあげてくる悲痛な思いを抑えて、つとめて明るい表情で振舞い、隊員たちのもてなしに心をくだいていた。隊員たちにも、その好意は痛いくらいにわかった。村びとたちに感謝をしめすには、その慰めを躰いっぱいにうけることしかなかった。隊員たちのなかにも、元気のいい三十振武隊の池田強伍長のように、
「よしきた、こんどはオイラの番だ!」
と、唄っている娘たちの仲問入りして、
昔々その昔 爺さんと婆さんがあったとさ
ヨイヤサ キタサ
爺さんは山へ柴刈りに 婆さんは川へ洗濯に
ヨイヤサ キタサ
ドンブリゴッコ ドンブリゴッコ流れくる 婆さんはそれを拾いあげ
ヨイヤサ キタサ……
などと道化た身ぶりで踊りだし、彼女たちを笑いころげさせる者もいた。
川野軍曹が秋本カヨを知ったのも、そのころのことであった。
川野がみたカヨは、列をつくって歩いてくる女子青年団の最後尾で、いつも一人だけ自転車にのっていた。カヨは、さびしい顔だちの娘であったという。集会所に奉仕にきても、他の娘たちのように、隊員たちと親しげに喋りあうわけでもなく、隅の囲炉裏の傍にひっそりと坐りこんでいた。カヨの役目は、湯を沸すことだけであった。
川野はそんなカヨが、集会所のざわめきのなかで自分にそそいでいる、目にみえぬ視線を、どこかに感じていた。そんなことが、何度かあった。
その日も雨であった。
他の隊員より一足先に帰ろうとした川野は、土間におりて飛行靴をはいていた。その背に川野はまた、ひとすじのカヨの視線を感じた。川野は振返ってカヨを見た。川野の、とがめるような鋭い眼差にカヨは狼狽した。顔をこわばらせて眼を伏せてしまった。
川野は外にでた。雨が止んで、集会所と向いあっている取違神社の鳥居の上に淡い月がでていた。川野は雨あがりの道を歩きだした。と、その背後からひとりの娘が駈けてきた。
「川野軍曹どの・・・・・・あの子、秋本カヨさんのこと気をわるくしやらんでください。カヨさんは内気なのです。だから、川野さんと話したいと思っていても、自分から話しかけられんとです・・・・・・でも、川野さんに貰っていただくために、これをこしらえていたんです」
そういうと岩間チエ子は、怒ったように手荒く川野の手に小さなマスコット人形をおしつけ、駈けもどっていった。
人形は、特攻人形とよばれる裁ち残りの美しい端切れでつくった女の人形で、これをもっていると身替りになって、隊員たちのかわりに人形が死んでくれるのだと女学生たちは信じていた。だから飛行機乗りたちも、この人形を腰に吊し、縛帯にむすびつけ、操縦席のなかにぶらさげたりしていた。けれど、人形が彼らの身がわりになってくれたことなど滅多になかった。
川野が出撃したのは、その翌日の午後三時であった。
知覧基地は、民間人が飛行場に近づくのを厳しく禁じていた。が、特攻機の出撃はいつのまにか、誰からともなく洩れて、かならず家族や村びとたちが見送りにきていた。肉親や親しい人びとは隊員の姿をもとめて狂ったように走りまわっていた。
出発線で待機している川野の目のなかに、岩間チエ子と自転車に乗ったカヨの姿がみえた。そのカヨの自転車が途中で横転し、コンクリートの上に投げだされるのが見えた。チエ子はカヨを抱き起して、カヨに肩をかして走りつづけた。が、その走りかたは、ひどく不均衡であった。
「カヨさんは足が不自由なんです……だから、川野さんにも自分の気持ちを……云えなかったとごわんそ」
チエ子は喘ぎながら、泣くような声をゆすりあげた。
(そうだったのか)
川野はカヨをみた。カヨは小さな肩をふるわせ、懸命に川野を見あげて涙をこぼしつづけていた。
そんなカヨに川野は、みどり色の縛帯に結びつけたカヨの特攻人形を軽く叩いてみせた。
「知覧に来て、よかった。この人形と二人で突っ込めるからな」
そう言いながら川野は、首に巻いた純白のマフラーをとり、カヨの手に握らせてやった。そして川野は急にきびしい顔つきになり、踵を鳴らして二人に挙手の礼をした。
(ありがとう……ありがとう)
そうでもしないと、いまにも涙があふれてきそうであった。川野は、その思いを断ち切るように背を返して、搭乗機のほうへ走りだした。
川野らの六機の九七戦は、やがて黒く光る二百五十キロ爆弾を抱いてよろめきながら飛びたち、飛行場の上空を旋回しながら隊別に三機編隊を組み、組みおえると機首を戦闘指揮所に向けて急降下し、そして全機、三度、翼を左右にふりながら最期の別れを告げ、蒼天に翔けのぼり、開聞岳の彼方に消えていった。
――が川野は死ねなかった。油圧調整弁の故障で、黒煙をあげて絶海の孤島、小宝島に不時着している。
豊増幸子(特攻機整備班、女子挺身隊員)の語る――
「私たちの整備した特攻機は旧式のおんぼろの九七戦で、それはひどいものでした。機体の鋲はネジを締めてもとまらないし、燃料タンクは穴があいて・・・・・・油が洩れてくるその小さな穴に、私たちは泣きながらボロ布を詰めるしかなかったのです」
川野は、ひと月あまりこの島ですごした。民家が一、二軒しかないこの小島に、救援のくる見込みはなかった。そんな川野の頭上を、毎日のようにアメリカ空軍の戦闘機やB29の編隊が轟々と爆音をあげて飛んでいった。
孤島での川野は、そのころの、B29爆撃機三十機による知覧大空襲の惨害を知る筈もなかった。
すさまじい爆撃であった。三角兵舎のあった取違地区は焼夷弾が投下され、民家全焼四十戸、集会所三棟炎上、地区の家の大半は機関砲で撃ち抜かれ、死傷者が続出した。その死者の、女子青年団の死者三人のなかに、取違神社の護符を縫いこんだ特攻人形を川野におくった秋本カヨの名もあった。
第三話 海の自鳴琴
小松原洋子おねえ様
お元気ですか。はじめてお手がみを書きます。私は×××町の国民学校三年(鹿児島県川辺<かわなべ>郡加世田<かせだ>町、加世田国民学校初等科、九歳)の地頭所洋子です。私はあなたのなつかしいお兄様、小松原ぐんさう(軍曹)としりあひです。
先月の二十二日の夕方、私の家の前の大きなりよかん(旅館)ひりゆうさう(飛龍荘)に××(特攻)隊の兵隊さんが来ました。××隊といつたら、はつと思ひあたることでせう。
さうです。小松原ぐんさうも居ました。あくる日に出げき(撃)といふことでしたが、それからは雨、雨、雨と雨ばかり降りましたので、出げきは一しうかんのび、十日のびました。
私は友だちの川畑ノブちやんと益山君子ちやんと陣上さとちやんとで兵隊さんのゐもん(慰問)に行きました。そして「きさまとおれとは同期のさくら」や「空からがうちん(轟沈)」を大きなこゑで歌つてあげました。××(特攻)人ぎやうをつくつてあげました。二かいのへやでチクオンキをかけたり、トランプあそびをしました。雨がやむと、みんなで外に出て「かりオニごつこ」をしてあそびました。私のあひては、いつも小松原ぐんさうでした。
なぜつて言ふと、私の名前が洋子おねえ様とおなじだつたからです。私はぐんさうに背おはれて大坊が丘の下をどんどんかけまはりました。
××隊は、勇かんで、やさしい兵隊さんばかりでした。
若いのに口ヒゲをはやした毛利隊長さん。手品のすきな古山ぐんさう。いうれい(幽霊)のまねばかりしていた有馬五ちやう(伍長)。いつも大きなこゑで「洋子ちやん」とよぶので、耳がいたくなつた吉本五ちやう。おしやれでクリームのにほひをぷんぷんさせてゐた東野五ちやう。みんなたのしい飛行兵でした。いつも私たちきんじよ(近所)の子どもをあつめて歌をおしへてくれたり、かんパンをわけてくれたりしました。
小松原ぐんさうはハモニカで、みんながちゆうもん(注文)する歌をじやうずに吹いてやりました。聞いてゐて私はうれしくなりました。
ぐんさうは、ばん(晩)おふろから上ると、私の家によくあそびに来ました。ぐんさうが来ると、お母さんは大いそぎでからいもの油あげ(唐芋、さつま芋のてんぷら)をつくります。ぐんさうは、からいもの油あげが大すきです。お皿にもりあげたからいもを、水をのみながらうまいうまいと食べてゐました。私は、ぐんさうが大すきです。
ぐんさうからハモニカをおしへてもらひました。私は唱歌がすきです。ぐんさうみたいに早く、なんでも吹けるやうになりたいのですが、へたくそで、いつまでたつても「白地に赤く日の丸そめて あゝうつくしや日本のはたは」だけで、がつかりします。
五月二日のばん、十時ごろ、ぐんさうは家に来ました。そして、私にやつてほしいと言つて航空りやうしよく(糧食)のドロップやチョコレートなどマクラもとにたくさんおいてゆきました。そのとき私はもうねむつてゐたのです。私が眼をさましたのは、うんめいの五月三日の朝、七時ごろでした。そのころ××隊はもう飛行場から飛び立つて、出げきしてゐたのです。
私たち、ノブちやん、さとちやん、君子ちやん、みんな校てい(庭)のすみでわんわんなきました。「勝利の日まで」を歌つて、また、なきました。
その日のゆふがた、とつぜん、ぐんさうがやつて来たので、私はびつくりしました。お父さんもお母さんもおどろきました。お父さんは、
「小松原さん小松原さん」
と言つて、手をにぎつたり、かた(肩)をたゝいたりしてゐました。お母さんはぼろぼろなみだをこぼしてゐました。
とちゆうで飛行機がこしやうして引き返して来たのです。こしやうは吉本五ちやう(伍長)と二機で、隊長さんたちとわかれて××き地(万世基地)へ引き返すとちゆう、吉本五ちやうは海に落ちて死にました。
いつしよにばんごはんを食べることになりました。お父さんはせうちう(焼酎)の用い(意)、お母さんはからいもの油あげをつくることになりましたが、どうしたことでせう、みんなあわてゝ、お父さんは足もとにあるせうちうのつぼが見えずうろうろして、お母さんはおなべに油を入れるのをまちがへてすを入れたり、みんなしつぱいをして大わらひしました。
「夕ごはんまでのあひだ、ちよつと洋子ちやんをかります」
ぐんさうは、さう言ふと自転車のうしろに私をつんで、加世田の駅前の坂下写真くわん(館)に行きました。
二人ならんで写真をとることになりました。飛行ふくを着てイスにすわつて軍刀をもつてゐるぐんさうのそばに立つてゐると、うれしくてかなしくて、へんな顔になつてしまひました。写真をとる人が、
「おぢやうちやん、につこりしやンせ、はい」
と言ひました。けれど、さう言はれるとよけいにな(泣)きさうな顔になつてきます。見てゐて、ぐんさうは笑ひながら、
「さあ、ハモニカをあげるから、につこり笑つて」
と飛行ふく(服)の物入れからハモニカを出して、私にくれました。私はうれしくてうれしくてたまりません。りやう(両)手でハモニカをもちました。そのとき、ぼおんと音がしてマグネシウムが光りました。写真がうつりました。
かへり道、私は家につくのがまちきれないで、自転車のうしろでハモニカを吹きました。ハモニカは、ぐんさうのにほひがしました。たばこのにほひでした。私は、むちゆうで「白地に赤く」を吹きました。それが終ると、こんどはぐんさうが、片手で自転車をうんてんしながら「野ばら」を吹きました。そして、雨にびしよびしよぬれた道を走りました。
そのばん食事のあと、私はまたハモニカをおしへてもらひました。
八時ごろ、ぐんさうはむかへに来た自動車で飛行場へ行きました。あした朝はやく出げきするから、ひりゆうさう(飛龍荘)にはとまれないのです。お父さん、お母さんと私、それに、ひりゆうさうの山下のをぢさん、をばさん、おねえさんたちもみんな出て見おくりました。にだい(荷台)の上からぐんさうは男らしく、りつぱなけいれい(敬礼)をしました。
そして私をみて、飛行ふくの物入れをおさへてわら(微笑)ひました。これは、ひみつですが、物入れの中にはオルゴールが入つてゐるのです。ハモニカのお礼に私があげたのです。それは、私が国民学校(小学校)に入つた入学きねんに、しやんはい(上海)にゐるお父さんのお兄さんからいたゞいた小つちやなオルゴールです。××(万世)から沖なは(縄)まで三時間もかかるさうです。そのあひだ(間)さうじゆうせき(操縦席)の中で聞いてゐてほしかったのです。オルゴールなら、さうじゆうしながらでも聞けます。ネジもいつぱいまいておきました。曲は、をとめのいのりです。
出げきは午前六時でした。
私はお母さんにおこされ、眼をこすりながら、ひりゆうさうのうしろの大坊が丘にのぼりました。
まつてゐると、やがて、空いつぱいのばく(爆)音がひびいてきます。××(特攻)隊の出げきです。一機、二機、三機、黒いばくだん(爆弾)をかゝへた××機が上空で大きくせん(旋)廻します。そしてもう一回。
お父さんは、日の丸のはたをぐるぐるふりまはしました。すると、大きくつばさをふつた三番機から、すうつと白いものが落ちてきました。
ぐんさうと約束してゐた通信とう(筒)がマフラーをくゝりつけて落ちて来たのです。そしてそのまゝ××機はがうがうと飛んで行きました。
ぐんさうからの通信とうは、
〈地頭所のお父さん、お母さん、洋子ちやん、色々と有難う御座いました。僅かの日数でしたが、小生には、終生忘れ得ぬ楽しい想ひ出でした。では、元気で征きます。必ずや皆様の御期待に添ふべく、潔よく散ります。御厚情を感謝します。いつまでも御元気で、さやうなら。
洋子ちやんのオルゴール愛機に乗せて我は体当り 〉
と書かれてゐました。
昭和二十年五月四日、ぐんさうどのはみごと敵空母に体あたりしました。
この日こそ、私が一生忘れないかんげき(感激)の日です。小松原ぐんさうは、勇かんな飛行兵でした。日本人の中の日本人でした。
出げきの前のばん、うち(家)のおふろに入つて、そのあと、ゐま(居間)のたゝみの上でかみ(紙)のはしにえんぴつで住所を書いて「洋子ちやんとおなじ名前の国民学校五年生のいもうとがここにゐる。洋子ちやんからお手がみを出して、友だちになつておくれ」と言はれました。
やさしい私の大すきなぐんさうは、もうゐません。けれど、私も小さくても日本女子です。どんなかなしいことや、くるしい時があつても、ぐんさうどのや××隊の英れい(霊)のことを思ひ、しんばうしようと思ひます。その決心で、私も洋子おねえ様といつしよに、日本の小国民としてはぢない女の子になり、じゆうご(銃後)を守りたいと思つてゐます。ともに、勝利の日までやりませう。
きのふ(昨日)学校から金子先生(補助訓導)のいんそつで吹上浜へ行きました。海さう(藻)とりです。それをほして代用食にまぜるのです。
吹上浜の海の向ふは東支那海です。私たちはわあわあさわぎながら浜べに吹き寄せられてゐる海さうをひろひました。ひろってゐると川畑ノブ゛ちやんがそばに来て、「とつこーの兵隊さんたちや、この海の上を飛んで行きなさつたのぢやなあ」と言ひました。「さうぢやなあ」と私もさう言ひました。二人でながいあひだ海をみてゐました。海をみてゐると、なみだが出てきました。そして金子先生から「ぼんやりしとらんで、早くひろはんか」としかられました。私とノブちやんは、顔を見あはせ、先生に見えないやうにした(舌)を出してやりました。そして海の水をすくつて、じやぶじやぶと顔を洗ひました。そしてまた海さうをひろひました。
顔を洗つたとき、私はふつと、遠い遠い向ふの青い海の底にしづんでゐる小松原ぐんさうの、飛行ふくの中で鳴つてゐるオルゴールの音を聞いたやうな気がしました。けど、それはノブ゛ちやんにも言ひませんでした。
吹上浜からかへつてくると、写真くわん(館)でうつした写真が出来てきてゐました。一枚おくります。
洋子おねえ様もますます一生けんめい勉強して、お兄様にまけぬやうがんばつて下さい。私も勉強してゐます。勉強のあとハモニカで「野ばら」のれんしふしてゐます。
ではお体を大切に さやうなら かしこ
地頭所洋子より
第八話 海紅豆咲くころ
ジョン・F・リットマンの手紙 (神坂訳)――
〈一九七七年二月十一日
日本国和歌山市
江波たつゑ様
親愛なる江波夫人へ
わたしは私のためではなく、わたしの善良なる友人たち、すなわちジョイス・クーパー夫人、レオナルド・レインチェス氏ならびにアメリカ合衆国海外戦役退役軍人会(VFW “VETERANS OF FOREIGN WARS OF THE UNITED STATES”)の全会員にかわって筆をとっております。
わたしは、レインチェス大尉が沖縄本島、残波岬の沖BOLO地点で海面に漂うカミカゼ(特攻機)の破片の中から発見し、最近、クーパー夫人が日本へ旅行されたとき貴女にお渡しした一冊の小さな”赤い手帖“を見る光栄を与えられました。
レインチェス氏は沖縄戦で名誉戦傷章をうけた退役将校で、心の温かい善意にあふれだひとです。レインチェス氏は私に、日本の江波夫人の所に立ち寄ってこの赤い手帖をお返しすることができるかどうか、クーパー夫人にたずねてほしいと言ってまいりました。
わたしどもは、この手帖をお返しすることによって、これにまつわる悲しみがよみがえるかも知れませんが、しかし、この手帖をあなたがお持ちになることによって、わずかながらもあなたと御家族の方が幸せを感じることができることを皆よろこんでおります。
先日、日本への旅から帰ったクーパー夫人が、あなたが手帖のお礼と感謝の心を罩めて贈られた美しい目本の人形をレインチェス氏に手渡した時、わたしはその場に居合せる特権にめぐまれました。
レインチェス氏は、この手帖は当然持つべきひと、すなわちあなた自身とあなたの御家族に、亡き御主人の想い出としてお返しすべきだと願っておりました。クーパー夫人が持ち帰ってきた日本の新聞の切り抜き記事は、たいへん興味ぶかく拝見しました。その記事は、温かい人間愛に満ちたお話を物語っておりました。私たちアメリカ合衆国海外戦役退役軍人会第7175分会の会員は皆、心あたたまる想い出をあなたおよび御家族にもたらすことができたことについて感慨ひとしおで、この幸せを分かち合いました。そして、あらためて美しい目本の人びとと私たちアメリカとの友好関係をたしかめました。
わたし自身は今までにアメリカ海軍の兵役にある間、たびたびあなたの美しいお国を訪問する光栄に浴しました。もう一度訪問できるかどうかはわかりませんが、すくなくとももう一度日本を訪ねてみたいと切望しております。
レインチェス氏からもよろしくお伝え下さいとの事です。そして御親切な贈り物に厚く感謝を申しのべております。私ならびにレインチェス氏、クーパー夫人にかわりまして厚く御礼申し述べます。
あなたと御家族御一同様の末永い幸福をお祈り申しあげます。 敬具〉
「――あなた。
いま、あなたの手帳を届けてくださったクーパー夫人を和歌山駅までお送りしてきたところです。
外から帰ったまま居間に坐りこんで、また、一頁ずつ手帳をめくっています。戦いの日の血と油と海水が染みて、三十二年の歳月に黄ばんだ紙のなかの文字はところどころ読めなくなっていますが、なつかしいあなたのペンの跡です。それにしてもあなた、ずいぶんながい、遠い旅でしたね。指宿から知覧の特攻基地へ、そして沖縄……アメリカのテネシー。その異境から、レインチェス元大尉や退役軍人会のリットマンさん、クーパー夫人と、多くの人たちの愛につつまれて奇蹟のように還っていらっしやったあなた、ごくろうさまでした。
おぼえていますか、あなた。この手帳を買った雨あがりのあの朝のこと。昭和二十年五月二十四日。日記など見なくても、ちゃんと覚えています。
知覧に向う途中のあなたと、指宿で落ち合って一泊。翌朝はやく起きて、散歩に出かけました。あの散歩が、あなたとのお別れでした。
町角の古ぼけた雑貨屋さんの、硝子ケースの隅で薄く埃りをかぶっていたこの手帳を見つけたのは、あなたでした。物資の欠乏した当時からみると、ぜいたくな赤い革の(といっても豚皮を赤く染めただけのものでしたが)手帳。持っているだけでも心が豊かになるような、そんな思いがしてわたしはその手帳を買いました。買ってから二人で摺ヶ浜のほうへ歩いてゆきました。
歩きながらあなたは、突然、わたしの手をぎゅっとつかみました。いいえ、あれは握るというより、思わず顔をしかめたほど強い、あなたらしい不器用な摑みかたでしたわ。
わたしの手をつかんだままあなたは、怒ったような顔つきで、大股に、どんどん歩いてゆきました。あのとき、あなたは慥かに腹をたてていました。稚ない頃から愛しあってきたわたしたち、結婚してまだ半年目の若い夫婦を引き裂こうとする、あと三、四時間に迫った理不尽な”永遠の別離“に対してです。にぎりあわせた汗ばんだ掌から、そんなあなたの血のひびきが痛いくらいわたしの胸にゆれあがってきます。手をにぎられたまま、わたしもあなたと同じように腹をたてたような顔をして指宿街道を歩いてゆきました。
飛行服の腕に、特攻隊のしるしの日の丸をつけ軍刀を吊った背の高い曹長殿が、もんぺ姿の国民学校の女先生と手をつなぎあって往還を歩いてゆくのです。振り返る人もありましたが、わたしは平気でした。
歩いて行く街道の、雨に濡れた道端の木の緑があざやかで、目にしみるような真っ赤な花が咲き乱れていました。海紅豆の花でした。あなたは足をとめて、その蝶のような形をした小さな真紅の花を摘んで、わたしの髪に差してくれました。おぼえてますか、あの花を。
昼食のおにぎりは、浜の小高い松林のなかで食べました。
食事のあと、ふたりだけでしみじみ語りたいと思っていたわたしの気もしらずに、あなたは松の木に背を凭たせて軽い寝息をたてはじめました。なんというひとでしよう。
手もちぶさたなわたしは、あなたの寝顔を見ながら、さっき買った手帳をひろげてシャープペンシルで名前を書きました。
<陸軍航空兵曹長 江波正人 二十六歳>
妻たつゑ 二十三歳
住所 和歌山県和歌山市……
書きおわるとわたしは、手帳に口づけをしました。そしてそれをあなたの図嚢(軍用の革かばん)の中にそつと入れました。百死零生の特攻行にむかうあなたへの、たった一つの新妻からの贈り物でした。
十五分ほどしてあなたは目をさましました。爆音を耳にしたのです。見ると、弓なりに湾曲している指宿の浜の北、田良岬の上空からこちらにむかって、二機の下駄ばきの水上飛行機が飛んできます。田良浜の海軍航空隊の特攻です。うめくような爆音をあげて飛んでくる水上機を見あげているわたしに、あなたはあわてたような声のいろで、「ああ、また海軍さんの練習飛行がはじまったな」と言いましたが、ごま化したつもりでもわたしにはよく判っていました。あんな大きな黒い爆弾をお腹に抱いて飛ぶ練習機など、どこにありますか。
それから、あなたとふたり松林のなかの径を引き返しました。松林のなかであなたは、わたしの肩を抱いて接吻をしてくださいました。それがわたしたちの、新婚生活のおわりでした。結婚して半年、あなたと一緒にすごしたのは、そのうちの九日間……」
江波正人の手帖より――
蟬の鳴く杉林の中に腰をおろして、また、書きはじめる。
何も書くことはないのだが、生きてゐるといふ思ひを反芻してみたい。具体的に自分を確められるのは、いまの生活のなかではこの手帖に書きこんでゐる時ぐらゐなものか〉
〈家へは何も書かない。不必要な心配をさせるだけだ。心配しても、どうなるものでもない〉
〈このごろ、時間の歩みの速くなつたことを感じる。無常迅速。人生馳け足〉
〈町に出て写真を撮る。追ひすがってくる”死”の時間を、ここで一時停めてやる。
父母に一枚、たつゑに一枚送る。
左様奈良〉
<昭和二十年六月三日 薄曇
第十次航空総攻撃。第四十八振武隊(九七戦)第百十二振武隊(九七戦)第二百十四振武隊(九七戦)第四十四振武隊(一式戦)第四百三十一振武隊(二式高練)知覧出撃〉
〈昭和二十年六月五日 曇
朝、空母を含む機動部隊現はるの報。時期至る焉。十時、搭乗員{たうじよういん}整列。全機出動の予定なりしも誤報〉
〈昭和二十年六月六日 曇時々雨 沖縄晴
第百十三振武隊(九七戦)第百五十九振武隊(三式戦)第百六十振武隊(三式戦)第百六十五振武隊(三式戦)第五十四振武隊(三式戦)第百四振武隊(九九爆撃機)知覧出撃。
本日 われ まだ生きてあるなり〉
〈昭和二十年六月七日 終日小雨
静かな一日 雨の中町へ出る。小ぬか雨に濡れた青葉の道をひとり歩く。古い国民学校の教室からオルガンの音が聞えて来る〉
〈たつゑ たつゑ たつゑ たつゑ〉
〈昭和二十年六月八日 曇のち晴 沖縄薄曇のち晴
第四十八振武隊(一式戦)第五十三振武隊(一式戦)知覧出撃>
〈昭和二十年六月十日午前六時
搭乗員戦闘指揮所前に整列。
出発まで半時間あり。翼の下に寝転つて書く。草のにほひ、土のにほひ。
出撃前の気持、静かにして鏡の如し、思ひ残すことなし。
一つの人生の結論 必死の生涯の結実
江波正人 二十六歳 本日すこぶる健康 〉
「……あなたの戦死の公報が届けられたのは、敗戦の年の十二月でした。
『陸軍少尉江波正人殿は昭和二十年六月十日、沖縄海域に於て戦死認定されましたので御通知します』
白いお骨箱と、白木に俗名を書いた位牌が一つ。これが半年ぶりにわたしの手で抱いたあなたでした。かるい箱でした。お骨箱をうけとるとき、
『遺骨箱は開けないで下さい。なかは空です』
と係の人から告げられて、怺えきれずに涙がこぼれました。
お骨箱は実家に持って帰りました。市内のあなたのお家は二十年夏の大空襲で焼かれ、お父様お母様はわたしの実家に身を寄せておられたのです。
仏間にお父様お母様そして実家の父母もみんな集って、開けないでと云われたお骨箱をあけました。白木の箱の中に”霊”とゴム印を捺した一枚の小さな紙片れが入っていました。お父様はそれを凝視めて『こんなものか、こんなものか』と唇をふるわせておいででした。日本という国の正体がこんなものだったのか、祖国に殉じた大事な正人の死がこんなものだったのかと、お忿かりだったのでしょう。
そのお父様も、翌二十一年の三月に生まれてきたわたしたちの子、孫の顔をみて安心なさったのでしょうか、四月に亡くなられました。
生まれてきた子の名を、わたしはあなたと同じ名の”正人”とつけました。どう考えてもわたしには、その名のほかは思い泛ばなかったのです。ごめんなさい。
半紙に”正人”と書いてお父様にお見せすると、お父様は目をかがやかせて『おう……おう』と大きくなずいていられました。でも、そっくりそのままではと仰言られて、正人と呼ぶことにしました。あなたは正人{まさと}、あなたの子は正人です。
——戦争がおわって三十二年。おさない子を抱えての苦しい日々のことはお話しません。誰もが精一杯に生き、必死に生きてきた戦後でした。あり余るお乳がありながら、いつもお腹を空かして実家の母のもとに預けられていた正人。といっても教職にあったわたしなどは恵まれたほうでした。そんな永い教員ぐらしもやっと終りました。いま、あなたのお家のあった土地に家を建て、S金属に勤める正人夫婦とかわいい二人の孫にかこまれて、あなたの夢であった油絵を描いています。
正人は、あなたより六つ年上の三十二です。昨年、課長さんになりました。晩酌のときなど『いちど、おやじと飲みたかったなぁ』などと言っています。
わたしもすっかりお婆ちゃんになりました。もう五十五歳です。くやしいけど、あなただけはいつまでも若いのです。行年二十六。
あなたの手帳をひろげて、また、先刻からおなじところを瞶めています。
断
一頁に一字だけ大きく勁く書かれた、かなしい文字です。
断とは、敵を撃滅するということですか。それとも、自分の生命を断つということですか。愛しいものへの一切の思いを断つということですか。
切なかったでしょうね、あなた。わたしはいま、灼けるような念いで指宿への旅を思っています。ふたりで歩いた雨あがりのあの指宿街道。湯権現、村之湯、摺ヶ浜、田良岬、町かどの雑貨屋さん。海紅豆の花の季節にはまだ早いですが、わたしの目の裡には、あの可憐な真っ赤な花が見えるはずです。行きましよう、あなた」
第十九話 魂火飛ぶ夜に
知覧高女三年の前田笙子や森要子たち十八名が、戦隊や特攻兵舎の担当を命じられ、松林のなかの三角兵舎にむかったのは昭和二十年三月二十七日のことであった。町役場の山口学務課長や担任教師に引率された笙子たちは、そこではじめて特攻基地を見る。
「吹流しがあって、戦闘指揮所がありましてね、ほんとに戦場だなという、胸がどきどきするほどの怖さで……子供でしたから、ほんとに怖くて……怯えというのでしょうか」
その三角兵舎に向う途中、空襲があって竹薮の中に退避した笙子たちは、丘の上の軍用道路をトラックに乗って通りすぎていく特攻隊員の、白い鉢巻に日の丸の腕章を巻いた飛行兵たちの姿に声をのむ。新聞で、比島戦線に出撃した特攻の記事は読んでいたが、まさか自分たちの町の知覧から、その特攻隊が出撃するなどというのが信じられなかった。
が、その日から笙子たちは、隊員の靴下の破れをかがり、軍衣袴のつくろい、洗濯、掃除、高台にあるこの宿舎までの急な坂道をみそ汁や食缶を運びあげて食事の用意をととのえ、忙がしく立ち働いた。初老の当番兵が教えてくれた寝台づくりも、すぐに覚えた。藁布団のしわをのばして敷布と数枚の毛布をかけ、その毛布の両端と裾を藁布団の下に包みこんで寝袋をつくる。それが、あとわずかしかない隊員たちが、人生最後の夢をむすぶベッドであった。
「三角兵舎の内部は、棟木と平行して真ん中に通路があり、通路の両側に一段高い床があって、そこは畳敷になっていました。その狭いところが隊員の方々の休まれる場所でした。棚一つあるわけでなく、一夜の雨露さえしのげればいいような粗末な造りで、風通しも悪く、中はいつもじめじめとしていました」
基地から基地へと、あわただしく転々してきた隊員たちの着衣は、汚れはてていた。洗濯の時間もなかったのであろう。なかにはシラミをわかせている隊もあった。肌着の縫い目にうごめいているシラミをみると背筋が寒くなった。が、そんな気味悪さよりも笙子たちには、こんな肌着を着て百死零生の特攻行に赴かねばならない隊員たちが憐れであった。
「せめて出撃には、きれいな肌着で……」
笙子たちは、立ちのぼる煙りを気にしながら、空襲の間隙をぬって隊員たちの衣服を煮沸し、目をつぶる思いで指先でシラミを揉みだし、兵舎の下の小川ですすぎ、洗濯した。
特攻の隊長は、毎朝、三角兵舎から十五分の道を歩いて戦闘指揮所に出頭する。出撃の命令受領のためである。
隊長が帰ってきたとき、笙子たちはその顔いろで出撃の有無を察することができた。
「明朝、出撃……」
そんなとき笙子たちは、言うべき言葉を知らなかった。むりもなかった。わずか十四、五歳の女生徒である。ただ黙って、頭を下げるしかなかった。
夕食まえの一とき、隊員たちは薄暗い兵舎の其処ここで、親しい人への手紙や遣書を書く。午後五時、勤務をおえて町に帰っていく笙子たちに、それをことづけるためである。
当時、特攻兵の書簡は軍のきびしい検閲のもとにあった。だから笙子たちは、その私信や小包みを、ひそかに持ち帰って発送してやるため、夕ぐれの兵舎の隅に坐ってじっと待ちつづけた。
「ながくて、つらい時問でした」
笙子たちが帰っていったあと、三角兵舎で出撃の壮行会がひらかれる。隊長を囲んで隊員たちは、当番兵が運んできた酒を酌みかわし、軍歌や隊歌をうたって最後の夜をすごした。なかには愛唱する歌だけ唄って出撃していく隊もあった。
あの花この花 咲いては散りゆく
泣いても止めても 悲しく散りゆく
散らずにおくれよ 可愛い小花よ
翌、早朝。笙子たちは出撃する特攻機に二個のおにぎりを積みこむ。これが隊員たちに与えられたこの世での、
「最後の食事だったのです」
その時がいちばん切なかった、と四十年後のいまも笙子は呟く。切なさのあまり笙子たちは、蓮華の花を摘んで首飾りをつくり、特攻機の座席を桜の花でうずめた。
「ありがとう、ありがとう」
特攻の若者や少年たちは、花につつまれて機上から訣別の挙手の礼をした。
特攻出撃が激化するにつれて、三角兵舎の隊員たちも次々にかわっていく。出撃のあとがらんとした兵舎も、二、三日後にはまた新しい隊員でいっぱいになった。笙子がハセベリ伍長を知ったのも、そのころである。
「その日も敵の艦載機やB29が飛来し、朝から連日のように空襲警報が発令されていました。奉仕隊として基地にいた私たちは、兵舎に備えつけられた手動式のサイレンを力いっぱいまわし『退避、退避』と叫ぶ当番兵の横をかけぬけて、近くの地下壕にとびこみました。壕の中は特攻隊や奉仕隊の女学生、そして引率の先生でほぼ満員でした。
爆音が頭上にせまった頃、一人の特攻隊員が慌ててはいってこられました。いっせいに集まった多くのまなざしに一瞬とまどい、赤くなってうつむいた顔にはまだ少年の面影が残っていました。
やがて敵機の爆音も去り、静けさがもどると彼は急いで飛びだしていきました。しかし間もなく、二度目の爆音が近づき『退避』の声に、口をもぐもぐさせながら再びとびこんできました。
『坊や、またきたのかい。ご飯だけはゆっくり食べろよ』
渡井少尉にそう言われて、プイと壕をとびだして近くの食堂に向かったのだが、敵機の爆音にまた飛びこんできて、出たり入ったりしながら、やっと食事を終えたときは警報も解除になっていました。(昭和二十年)四月十七日のことでした。
翌日、その隊員は松林の中の切株に一人腰をおろし、なにか夢中に作業をしていました。それは、金や銀、色糸などで絽の布地を埋めていく日本刺繍の一種の絽刺しでした。木枠にしっかり布をはめこみ、絽織りの透き目へ一針ずつ刺していく手つきは優雅で、ちょっと女性らしくさえ見えました。
物資不足で色彩にも飢えていて、また女らしいしぐさからも遠ざかりつつあった私どもに、{それは}一瞬、何かをよみがえらせてくれました。学校での楽しい手芸の時間だったのかもしれません。いろいろな色どりのなかに、白い糸で刺された文字は、
ブヨウタイ ハセベリ
と読めました」
切り株に腰をおろして、ハンカチぐらいの大きさの絽刺しをしている伍長のまわりを笙子たちが囲むと、顔を赤くした伍長は、目を伏せてしまった。誰かが、
「ハセベリ伍長さんは何隊ですか」
「ブヨータイ」
「ええっ、舞いのあの舞踊ですか」
みんな目を丸くすると、伍長は怒ったような声で、
「ちがう、武を揚げる隊です」
そう言ってまた、俯いてしまった。
ハセベリ伍長は、三角兵舎のなかでも孤独であった。誠第三十一飛行隊として台湾に配属されるが、隊長以下他の隊員はハセベリ伍長を残して特攻出撃。のちにハセベリ伍長は、第六航空軍に転属し第三十一振武隊(武揚隊)になる。ただ一人の隊である。同室の第六十九振武隊の渡井少尉、渡辺少尉らはそんなハセベリを「坊や」とよんで弟のように愛していた。が、それも束の間であった。やがてその渡井少尉らも、四月十八日、飛行機受領のため福岡へ発っていく。ハセベリ伍長はまた独りになってしまった。
笙子たちがハセベリ伍長を見たのも、この四月十八日が最後であった。がらんとした三角兵舎にハセベリ伍長ひとりを残したまま、笙子たち知覧高女の特攻兵舎奉仕隊は解散する。解散の理由は、特攻隊員が居なくなったことと、飛行場への空襲が激しくてこれ以上危険な場所に女学生を置くことはできない、ということであった。
三角兵舎の前に立っているハセベリ伍長を振り返り振り返り、笙子たちは松林の丘をおりていった。
「ハセベリさん寂しそう」
ハセベリ伍長の死は、この日から四日後の四月二十二日である。第三十一振武隊、一機、一四四〇知覧出撃。ハセベリ伍長が搭乗した九九襲撃機は、第四航空総攻撃の特攻三十機と共に名護湾方面の敵艦船に突入。
〈特攻機種、機数の低下はおおうべからざるものがあったが、攻撃隊員は練達者が多く、戦場付近には煙霧があり、わが攻撃を利した。特攻隊はいずれも低空から接敵し、敵有力艦船の急襲攻撃に成功したものと判明(誘導機の報告および知覧における無線傍受)
一七三〇 アランガー(空母の算大)日本軍の突入を報じたのち発信なし
一七四〇 スパルタン(艦種不詳)発信消滅
一八三〇 ディジスペル(艦種不詳)航行不能を報ず
一八五七 ウブリッツ(空母の算大)日本軍機一機命中を報ず
一九二八 グイシベル(艦種不詳)日本軍機一機体当りを報ず
一九三八 タンタルス(B又はCの算大)日本軍機の体当り攻撃を受くを報ず〉
(『陸軍 航空作戦』防衛庁防衛研修所戦史室)
八月になると、戦況の悪化は笙子たちにもわかった。知覧の上空を連日のようにアメリカ軍のグラマンF6FやノースアメリカンP51が乱舞し、逃げまどう人びとに機関砲弾を叩きつけた。そして十二日の昼まえ、超重爆撃機B29の編隊三十機が来襲し、飛行場周辺に猛爆をくわえた。
笙子が日本の降伏を知ったのは、そんな激しい空襲を避けるため、祖父の勇四郎が持ち山に掘らせた隧道のように長大な防空壕のなかであった。
「戦争に負けた」
「いまにアメリカがきて皆殺さるっど」
八月十七日、笙子や友人の森要子、寺師さと、松田フヂヱ、楢原ツヤ、塗木チノ、枦川ムツ子、塗木トシ子、清藤良子たちは町の人たちに混って後岳の村落へ逃げた。
その混乱のなかで、特攻隊員たちは真っ先に解散を命じられている。福岡の第六航空軍司令部に、天皇陛下の名代として竹田宮恒德王(陸軍中佐)が駆けつけ、
「特攻隊を解散せよ」
と、伝えたからである。
無条件降伏を宣言したいま、特攻隊は大日本帝国にとって荷厄介な、有害無益な存在でしかなかった。政府にしても軍部にしても、おのれたちが生きのびるためには、寸秒も早く”特攻”の存在を抹殺し、口を拭っていなければならなかったのであろう。
特攻の隊員たちが去った後、滑走路の西端の、かつて特攻機が次々に離陸していったあたりに四十機あまりの飛行機が並べられ、飛行場のあちこちから軍用書類や飛行服、落下傘などを焼く黒い煙がたちのぼっていた。まだ残っている隊員がいるのか、ときおり、激しい機銃掃射や爆発音がひびいてきた。
通信兵の霜出茂は、その音を、特攻の若者や少年たちが”誰かに””何かを”訴えている叫びごえのようだと思った。
(おンなじ敗くるのなら、なぜ半年まえに……)
そうすれば誰も死なずにすんだのだ。そう思うと茂は、躰の深みからねじりあげてくるような口惜しさをおぼえた。乙無線通信兵の茂の軍務は、出撃する特攻の誘導であった。無電機を胸に抱き特攻機の出発点に立った茂は、戦闘指揮所と連絡をとり、翼の右下に補助タンク、左下に二百五十キロの爆弾をかかえ、よろよろと滑走してくる特攻機に、
「機首、右に振りすぎております」
などと指示を与えてきた。知覧出撃の最初の特攻機以来、茂はおびただしい数の隊員たちの”死”の誘導を勤めてきた。
(おンなじ敗くるのなら……)
風に乗つて、銃声がまた聞えてくる。茂は、ふかい息をすると円匙をとり、足もとの土を掘り、深く掘り、その無電機を埋めた。
「さよなら」
そして足ばやに飛行場を離れ、復員兵の一人になった。
飛行場を接収するためにやってきたアメリカ海兵隊の、ブランテークス少尉の率いる二十人の兵士たちは、基地の施設を破壊し、残存していた四十二機の特攻機を爆破すると、風のように引きあげていった。
こうして敗戦の年がすぎた。
そしてやがて、丘の上の知覧高女の校庭にふたたび桜が咲き、女学校に帰った笙子たちは四年生になった。
放課後、笙子は校庭の高処にあるコンクリート造りの朝礼台に腰をおろして、傍に建っている里程標の文字をぼんやりと目で追っていた。ここから、
(東京まで一五三一、横浜一五O二、名古屋一一六五、京都一〇一七、大阪九七四、神戸九四一キロメートル……)
あのころ、外出して町にでた特攻の若者たちは、この校庭から故郷の方をよく眺めていた。
(西之表まで一五五、名瀬四一二、那覇七九〇キロメートル)
そのとき笙子は、ふいに、あの日に逢いたいと思った。三角兵舎に行こう。笙子はそれを鳥浜礼子に、森要子に話した。
「行きましょう、みんな」
安楽栞も寺師さとも、馬場文子、平田祥子もうなずいた。丘を降りた笙子たちは、あの日と同じように永久橋のたもとで花を咲かせている桜の老樹の枝を折りとり、橋を渡って飛行場への街道を歩いていった。歩きながら笙子は、永久橋とは、隊員たちがこの世と永久に別 離するための橋であったのかと思った。
汗ばむような春の陽ざしを浴びながら、なだらかな坂の道をのぼりつめると、いちめんの菜の花の黄が、笙子たちの瞳孔に飛び込んできた。菜の花の畑道のその彼方に、松の林の丘がみえた。笙子たちは声をあげ、走った。
だが、松林の中にはもう三角兵舎はなかった。解体され撤去された兵舎の跡に、半地下壕状に掘られていた三段の土の段だけが残っていた。
「その三角兵舎の形のままに、どこから種子が飛んできたのでしょう、小さな白や紫の花がびっしりと咲いていたのです」
その花は、知覧の方言でいうペンペン草、庭石菖の小さな可憐な花だったと、笙子はいう。
「一日しか咲かない花なんです」
ひっそりと静まった松林のなかを、生子たちは、ここが、洗濯場ここが風呂場の跡と歩きまわった。その松林のむこうから、鳥浜礼子たちが涙をこぼしながら戻ってきた。出撃まえ、隊員のひとりが杉の木に刻みつけていった永別のことばや、たわむれて軍刀で斬った痕がまだ残っていたのだという。
「ハセベリさんも、そこに……」
森要子は、松林の中の切り株に腰をおろして無心に絽刺しをしていたハセベリ伍長を思って、声をつまらせた。機関の故障で、ひとり残った岩井伍長が、毛布をかぶって泣いていたのは、このあたりだった。二十振武の穴沢少尉が靴下のつくろいを頼んだのは、その土の段の右手のあたり……。
みんな、隊員たちへのそれぞれの思いがあった。が、かれらが生命をかけて救おうとした祖国はもうない。笙子たちは涙をためて、松林の道を引き返した。
(ああ)
右手の、その菜の花畑の辺りは、出撃まえ、隊員のひとりが花のなかに坐りこんで指を切り、その血で遣書をしたためていた場所であった。歩きながら、鳥浜礼子が唄いだした。
一ノ谷のいくさ敗れ 討たれし平家の公達あわれ……
みんな、唄いだした。が、それは唄ではなく、う、う、と嗚咽を噛み殺した呻きごえのようであった。笙子は呻きを怺えようとして、唇を噛んだ。その歯の隙間から、鳴咽がふきあげてきた。
「わたしが町の図書館に勤めたころ、あれは昭和二十六年ごろでしたか…… そのころ町で”夜になると飛行場跡で、火玉{人魂}が群れをなして飛んでいる”という噂が流れていました」
それは、理不尽な死をとげた特攻隊員の魂が、夜ごと迷いあるいているのだ、と町の人びとはささやきあった。笙子は、その噂がほんとうなら、隊員たちのその人魂に、
「逢いたい」
と思った。逢って一緒に語り、泣きたいと思った。夜になるのを待って笙子は、自転車を引きだし、飛行場跡へ行った。火玉のうわさにおびえて、誰も通る人のない暗い、草ふかい軍用道路に自転車を走らせた。
飛行場跡の雑草のなかで、笙子は一時間ほどうずくまっていた。が、いちめんの闇ばかりで、火玉は現われなかった。
(よかった)
これでよかった。祖国に裏切られ、見捨てられた特攻隊員の霊魂が火玉の群れになって、闇のなかをさまよっているとすれば、あまりにも憫れであつた。
(おやすみなさい……池田さん……穴沢さん……本島さん……岡安さん……ハセベリさん……)
笙子は暗みの彼方に呼びかけ、自転車に乗つた。
永崎(前田)笙子の手記――
〈……それから四年ほど後、私の所へTさんという方から電話がかかってきました。それであの時の少年飛行兵のことがわかりました。ハヘセベリさんは長谷部良平伍長であって、知覧基地より出撃戦死されたということでした。
十年前のあの童顔が私の脳裡をかすめ、刺繍の色どりの中の「ハセベリ」の文字を思いだしました。残されたわずか四日間で「ヨウヘイ」の文字を刺繍して征かれたのでしょうかと。(中略)限られた人生の最後のひとときまで、懸命に刺繍をされていた姿が今も私の脳裡に焼きついています。あの絽刺しは形見の品となってお母さまのお手もとに届いたのでしょうか〉
(新潮文庫 新潮社 1993年)