序
南米大陸の北東部、アマゾン河以北に拡がるギアナ高地の奥は「地球最後の秘境」とも言われているように、スペース・シャトルが宇宙を駆け巡る今日でもなお、文明の光が届かない隔絶された僻地である。
このギアナ高地の奥深く、赤道からわずか五度北に位置しブラジル、ガイアナ、ベネズエラ三国がまじわるところに、インディオが「悪魔の山」と畏れる伝説の山ロライマ(二八一〇メートル)が聳えている。この山は、すでに一世紀も前に英国隊によって初登頂され、その後、コナン・ドイルがロライマをモデルにした小説『失われた世界』を書いたことは知られていても、深いジャングルの中に切り立った断崖にかこまれ、絶えず厚い雲に隠されているロライマの詳細についての記録もすくなく、依然として神秘のベールに包まれたままであった。
一九八五年(二~三月)、私たち「いわひばりアルパイン・クラブ」では、この秘峰に登山遠征し、未踏の、南西壁新ルートからの登頂を果たすことができた。
ロライマの硬質砂岩からなる岩壁は、予想した通り困難極まりない登攀を我々に要求し、大岩壁基部までつづくジャングルの通過や神秘に満ちた広大な頂上台地の縦走など、他の山では決して味わえない探検的色彩の濃い遠征であった。未知の山ゆえの予想もしない障害に遭遇したりハプニングの連続であったことは言うまでもない。そのたびに私たち小さな生活共同体は、さまざまなそれらの問題と取り組み、解決していかなければならなかった。猛獣や毒蛇におびえ、摂氏五十度という猛暑と凍えるほどの山頂の夜の寒気、湿ったコケを剥がし泥水を被りながらの登攀など、ほとんど初めての体験ばかりであった。
本書は、これらの体験や出来事を赤裸々に綴った、はじめてのベネズエラ登山報告書である。単なる行動記録の列記ではなく、感情の起伏や主観もあえて加えてみた。ロライマをはじめとするギアナ高地の知られざる山々に興味をもたれる方々および、これからロライマ登山を計画される人たちが、本書を参考資料として役立てていただけるなら幸いである。
1 憧憬
英国の著名な作家アーサー・コナン・ドイルが、一九一二年に発表した名作『失われた世界』に出てくるメイプル・ホワイト・ランドが、ブラジル・ベネズエラ・ガイアナ三国の国境付近に実在する岩峰ロライマをモデルにして書かれた作品だったことを私が知ったのは、一九七四年の『岩と雪』(山と渓谷社発行の雑誌)三十八号に掲載されていたロライマ北壁を登攀した英国隊の記録「ロライマへの挑戦」(吉沢一郎・訳)を読んだときだった。そのときは、十一年後にまさか自分がロライマに遠征することになるとは夢にも思わず、ただ凄い遠征があるものだと、強い衝動を受けた。そしていつの日か、この英国隊のようなロライマ遠征をしてみたいというひそかな憧れを抱いたものだった。
その後、私は何回も遠征を重ねた。その過程でわずかではあったがロライマという山のことが解ってきた。それにしたがい、ロライマが山の標高や岩壁の大きさに関係なく、神秘に満ちた、未知の魅力をたたえた「秘峰」であることに気付き、いつしか憧れの山から徐々に遠征対象としての興味がふくらんでいった。
一九八二年のポスト・モンスーン季(秋期)、私は隊長としてフランス人の友人たちとガルワール・ヒマラヤに遠征したが登頂には失敗した。この遠征に参加したフランス人のユグ・ヴァンサン(日本滞在の二年間、いわひばりアルパイン・クラブの会員として在籍)から、来日する前に南米ベネズエラにある世界最長のアンヘルの滝(エンジェル・フォールの現地名)左壁に新ルート開拓をこころみ、岩壁の三分の二登ったところで埋め込みボルトがなくなり敗退したときの様子をくわしく聞くことができた。ユグはまた、アンヘルの滝だけでなく、ベネズエラ南部の岩に窓のような穴があることで知られるセロ・アウタナのことや、ブラジルとの国境にある怪峰ネブリーナのことなど、ギアナ高地の知られざる山々についても話してくれた。いわれてみればアンデス山脈の高峰のことはよく知られているし、日本人の登山隊も毎年たくさんでかけているものの、ギアナ高地の山々についてはほとんど紹介されたことがなかった。
そろそろ遠征の虫が疼きだしていた一九八四年夏、最近は文明国への登山遠征が多かったから、今度は誰も行かない地の果ての山に興味をそそられていた。そんなある夜、私の部屋に無断で侵入してきて勝手に血を奪う無礼な蚊に辟易しながら「この蚊め !これじゃあ東京にいるのにアマゾンに居るのと同じ…」と呟きかけてふと、ロライマとアンヘルの滝のことが頭に閃いた。
翌日、さっそく西麻布のベネズエラ共和国大使館に行き、入手した「LAGOVEN」(ベネズエラの石油会社)の百万分の一道路地図を調べてみると、ロライマとアンヘルの滝は同じカナイマ国立公園内にあることが分ったので、いっぺんに二つとも登ってしまう大胆なアイデアを思いついた。十一年前とは違い、私は遠征経験も積んだし自信もあった。そして、ギアナ高地の次の乾季にベネズエラに遠征しようという気持ちがハッキリと固まっていった。十一年間あたためてきた夢をいまこそ実現させるために全力で取り組む決心をした。
遠征のメンバーはクライマー四〜五人を予定して隊員の選定に着手する。一九七六年に私が創立し、代表をしている「いわひばりアルパイン・クラブ」では、創立以来、未知の山域へ少人数での登山遠征を標榜して実践してきた。会員十数人の小さなクラブ。(「いわひばり」とは、どこの高山にも生息しているヒバリに似た姿のスズメのこと。)
このときすでに北極圏の山への遠征の話もでていたが、ロライマ遠征のメンバーはすぐに集まると思っていた。だが、当てにしていた会員の多くは「ジャガーやアナコンダのいるジャングルはどうも…」とか「毒グモとかサソリや吸血コーモリはあんまり好きじゃないから…」と尻込みするばかり。私は「夢を食うというバクの肉やピラニアのてんぷらは美味だそうだよ。ダイヤモンドもゴロゴロあるそうだし…」と誘ってみたが、やっぱり命は惜しいからなア、と断られてしまった。なかには「そんな危険な山に君たちだけでいったら生きて帰れないよ! 」と親切に忠告してくれた山の先輩もいた。
また、他の山岳会の某女性は、ロライマ遠征参加を熱望していたが、ロライマが毒蛇、サソリ、毒グモがうじゃうじゃいる山と聞いた両親が猛反対したため、結局参加を断念した。海外遠征ともなれば家族の反対はそれほど珍しいことではない。嫁入り前の娘に、危険を承知でどうぞいってらっしゃい、という物分かりのいい親はめったにいないから仕方ない。
それでもなんとか、私のほかに、学生会員の桜井、海外登山経験(北欧・アルプス・韓国)のある小野崎、元「東京岳人倶楽部」会員で海外は初めての美馬、そして、もう一人ベース・キャンプ・マネージャーとして、美馬の友人の山口が加わり、五人のメンバーが揃った。
こうして、参加者が決定し、会遠征として正式に遠征プロジェクトが発足。隊の名称と五人の役割も次のように決まった。
名称「いわひばりアルパイン・クラブ Mt.ロライマ登山隊1985」
隊長 上村信太郎(38) 戦略・輸送
隊員 小野崎良行(26) 渉外・食料
隊員 桜井弘 (21) 装備
隊員 美馬謙二 (28) 会計・医療
隊員 山口孝次 (37) BCマネージャー
2 遠征準備
遠征の準備は情報集めから始まる。いざ本格的にアンヘルの滝とロライマの資料を探してみると予想したよりも集まらなかった。両方とも、まだ日本人が誰一人登っていないからだった。ただ、ロライマに関しては過去に一度だけ計画されたことが、『岩と雪』編集部の協力によって知ることができた。それは、アマゾン流域とオリノコ流域を一九七三年〜七六年もの長期にわたって二十六人が分割して活動した、あの「奥アマゾン探検隊」(隊長・向一陽氏)だった。この探検隊は第一次と第二次の探検を成し遂げたが、じつは幻に終わった第三次計画の中にロライマ登山が組み込まれていたのであった。
ロライマは、ちょうど百年前の一八八四年、大英帝国時代の英国人によってベネズエラ側から初登頂されていた。明治十七年といえば、日本ではまだスポーツとしての登山の概念が確立されておらず、「日本アルプスの父」と呼ばれる英国人宣教師ウォルター・ウェストンが来日する以前である。
私たちは、数少ないロライマに関する資料のなかから百年前のロライマ初登頂の記録を見つけ出すことができた。明治三十八年創立の日本で一番古い「日本山岳会」の図書室で見つけたのだった。
以下は、英国山岳会の会報 ”The Alpine Journal.(1885) “の二六四〜二六五ページに掲載されていた「ロライマ登頂」の記事を隊員の一人が翻訳したものである。
<ロライマの登頂>
英国地理学協会と英国学術協会に委託され、英領ガイアナの近寄りがたい山ロライマの登頂を行った、有名な植物学者イム・サーン氏のことは記憶されているであろう。氏の以下の成功記録は、英国地理学協会会報からの内容である。
イム・サーン氏と彼の仲間たちは、首尾よくロライマの登頂を成し遂げて、二月一日デマララに戻ってきた。十二月七日。彼らはロライマの中腹海抜五五〇〇フィートまで登り、そこに四つの仮小屋を設けた。ここまでは、茂みと石の散在する草原で、起伏の多い斜面だった。
そこから先は嶮しくなり、椰子の樹を中心とした低木が一面に密生していた。ショーンバーグや他のかつての探検家たちが到達できた地点である。この森におおわれた斜面は、岩壁の下部へと右上している。そして、英国種そっくりの大型のワラビとブラックベリーに似た木苺が帯状に横切っている。ヒース(つり鐘型の花をつける英国産の灌木)によく似た植物が一面に群生していて、まるで英国のある地方を連想させてくれる。
壁を対角線に走る岩棚の中の一ヶ所を除き、木苺の帯の上には垂直の岩壁が二〇〇〇フィートの高さで聳えている。岩棚の三分の二はおびただしい岩屑とともに、異常に密生した樹木がネットのように覆いつくしていた。
岩棚には、岩壁上部から落ちてくる小さな滝があり、その滝は深く抉られた峡谷となり、その下の斜面まで連続する滝となって落下している。
登頂の主な困難は、この滝まで近づくことである。滝を過ぎると、岩棚は再び上へ延び丈の高い草と、カイエトル・サバンナの主な植生を形成しているリュウゼツラン様の下等植物でおおわれている。そして、これらの花に混じって、綺麗な花を咲かせている背の低い植物も無数に生えていた。
滝から上の岩棚の登高は、非常にやさしかった。イム・サーン氏は山頂の風景を摩訶不思議に描写している。頂上台地には突飛な形の岩や積み重ねたような岩もある。もっとも高いものは八十フィートにおよび、それらの岩の集団によって埋め尽くされていた。積み重なった岩の隙間に、ガイアナで見られるのとは異なる性質の下等植物が群生していた。
雲はほとんど山頂にとどまって霧となり、常に地面を湿らせている。ひとたび雨が降ればいたるところから水がしたたり、ちっぽけな池から溢れた水は小川となって断崖絶壁の端へと流れ、しばしば岩壁の上部に目撃される無数の小滝となって流れ落ちていく。
頂上台地には、ごく普通の小型のチョウ以外、ほかに生き物は発見できなかったが、収集した植物の多くはこれまで知られていない種であった。
ロライマ周辺には、同じように孤立した山々があり、その中でも、円筒状の形をした山に注目させられた。登頂したのは十二月十八日、午前七時に仮小屋を出発し、十一時頂上到着。頂上には数時間を過ごし、黄昏時にキャンプに帰着した。
いかにも植物学者らしいロライマ登頂記事だが、これが一世紀も前の記録とはとても思えない新鮮さを覚えてしまう。文中のエヴァラード・イム・サーンはガイアナの行政長官でもある。彼の仲間たちとは、王室測量官補佐のハリー・パーキンズとシダールという名のランの収集家である。初登頂者たちは、ベネズエラ側からロライマに登頂しているが、ガイアナの首都ジョージタウンから、どんなコースでロライマに接近したかは不明である。
私たちの計画では、ベネズエラの首都カラカスから空路シウダ・ボリバルへ飛び、そこから陸路を進み、一部はカヌーをチャーターしてロライマに接近することになる。ロライマの岩壁登攀については、一九八四年五月に出版された、英国隊の遠征記『ロストワールドをめざして』へイミシュ・マキニス著/長野きよみ訳(山洋社)がたいへん参考になった。
英国隊の登攀記事を読んだことが、ロライマに遠征するキッカケになったことは冒頭に述べたとおりである。この登攀を最初に日本で短信として紹介したのは『山と渓谷』四二四号(一九七四年一月号)だった。つぎに、『岩と雪』(三十五号)の九十六ページで<ニュース>の欄で簡単に取り上げている。『山と渓谷』の記事は、十二月発売の号(登頂は十一月十一日)だから、異例の掲載の早さといえる。参考までに引用する。
<ロライマ北壁初登攀>
イギリスの登山家が十一月十一日、ブラジル、ベネズエラ、ガイアナ三国にまたがる鋭峰ロライマ(二八一〇メートル)北壁初登攀に成功した。
登ったのは、ドン・ウィランス、ヘイミシュ・マキニス、ジョー・ブラウン、ジュリアン・アントアンの四人。ウィランスとマキニスはエベレスト南壁に挑んだ一級のクライマー、ブラウンはカンチェンジュンガ(世界三位の高峰)初登頂などの輝かしい経歴を持つベテランだが「ロライマ北壁ほど厳しい岩壁はめったにない」と、山麓のジョージタウンに無線で伝えてきた。
一行は十一月一日、頂上まであと百メートルと迫りながら、攻撃的な毒グモと巨大なさそりの群れに撃退された。二日後、ルートを変更、再挑戦したが、これも失敗。そして三回目のアタックでやっと成功したが、それも雷雨に見舞われ、さんざんだった、という。
ロライマは一八三八年十一月三日、ドイツ人によって発見された山。意味は「諸流の父」。初登頂は一八八四年といわれている。
以上の記事に補足すると、この英国隊は十七日間の入山中、岩壁登攀に正味九日間を要した。そして登攀のモラルには清教徒的な厳しさを標榜してきた彼らがなんと八十五本もの埋め込みボルトを使用していたことだ。これは、かのマエストリも真っ青の驚異的なボルトの数字である。(マエストリはイタリアの登山家。パタゴニアの巨大な岩峰に、ボルトを電動ドリルで打ち込んで初登攀したが批判を浴びた。)
上記の『山と渓谷』記事のテキストとなったと思われる記事が英国の山岳雑誌 “MOUNTAIN“(三十号)に掲載されている。この中で、初めてロライマがコナン・ドイルの「失われた世界」のモデルの山であることに触れている。が、私が注目したのは、登攀隊長のドン・ウィランス撮影のロライマ北壁の写真が載っていて新ルートのラインも詳しく記入されていることだった。この雑誌は十一月号なのに、初登攀に成功したのは十一月十一日、いくらなんでも早すぎる。新聞記事のように、予定稿ができていたのだろうか。この雑誌が出た頃、英国隊はまだジャングルのなかを下山中か、さもなければ首都ジョージタウンで登攀成功の祝杯をあげていたはずである。(なお、隊長のドン・ウィランスは一九八五年八月三日、英国で病没している。)
遠征出発まで残すところ三ヶ月に迫った十月、連絡を取り合っていたフランス人のユグから手紙がとどいた。彼が途中まで登ったアンヘルの滝左壁ルートをぜひ「いわひばりアルパイン・クラブ隊」が完登して欲しいと書いてあり、さらに、二年ぶりに来月(十一月)来日する予定だとも記されていた。
ユグが来日すれば計画はすぐにも煮詰めることができるので、見通しは明るかった。しかしその頃、ベネズエラ大使館からショッキングなニュースがもたらされた。なんと、アンヘルの滝登攀の日本人クライマーと、その様子を撮影する北斗映画の人たちがすでに現地入りしている、というものだった。ギアナ高地の乾季は始まったばかりだし、参加したクライマーも実力には定評のある山学同志会の若手も含まれていることが分った。私は深田良一氏をはじめ、山学同志会には友人がいるが、この寝耳に水の情報はショックだった。アンヘルの滝はおそらく我々が行く前に登られてしまうだろうと思われた。もし、先に登られてしまったら、もはや未知の魅力は色あせて登攀の価値も遠征する情熱もなくなってしまうのではと危惧した。
案の定、新ルート開拓に成功したという北斗映画関係者からのニュースが届いた。アンヘルの滝は、ユグによれば一九七四年に四人の米国人が十二日間かけて右壁を登り、一九七八年にも同ルートをベネズエラ人パーティが再登しているという。今回の日本人チームは、多量の最新装備とヘリコプターまで動員して正味七日間で完登したということだった。
すでに遠征出発が二ヵ月後に迫っていた。そこで、私たちは目標をロライマ一本に絞り、急いで計画を練り直した。一本に絞ったことが結果的に正解だとわかった。じつはアンヘルの滝のあるアウヤン・テプィ山とロライマは、同じカナイマ国立公園内にありながら両者を結ぶ交通手段がまったくなく、いずれも遠く離れたシウダ・ボリバルの町が基点となる。このため、日程的にも予算的にも無理だったことが判明した。また、アンヘルの滝はベネズエラ有数の観光名所になっているのに対し、三国国境に位置するロライマ登山にはベネズエラ国防省の特別の許可が必要であることもベネズエラ大使館から示唆された。
一九八五年の新年を迎え、私たち五人は全員遠征準備に追われる多忙な毎日となった。連日のように準備に動き回り、夜はミーティングをおこない、集まれないメンバーは電話で連絡をとりあった。このため、アルバイトや勉強、勤務、求職活動、農作業などがおろそかになり、部屋のカレンダーは人気タレントの過密スケジュールなみに黒く塗りつぶされていった。
そんな忙しいさなか、遠征メンバーが私の部屋に集まって、ふたつのテレビ番組を観ることになった。一月十六日の「水曜スペシャル」と、二十二日の「火曜ゴールデン・ワイド」だった。
水曜スペシャルのこの日のタイトルは、新聞の番組欄につぎのようにでていた。
「恐怖の巨大怪鳥ギャロン! ギアナ奥地落差一〇〇〇メートルの大滝ツボ洞穴に原始怪獣を追え! 急襲!翼長二メートルの暗黒大群数万羽…」このモノ凄いタイトルにびっくり仰天してしまうが、この番組が「川口浩探検隊」だったので、ホッと安心し、風光明美なギアナ高地の映像を楽しむことが出来た。
一方の、火曜ゴールデン・ワイドのタイトルは「魔境の絶壁!」で、山岳映画の「白き氷河の果てに」や「北壁に舞う」などをてがけた北斗映画製作のアンヘルの滝登攀のドキュメンタリーだった。当初、私はこの番組が、従来のように登山隊に随行した映画会社がドキュメンタリー番組を制作したものと思っていたら違った。実はまったく逆で、テレビ番組を作るために給料を払ってクライマーを雇ったということだった。
英国の著名な登山家クリス・ボニントンは、著書『地の果ての山々』山崎安治/訳(時事通信社)のなかで、テレビ番組のための新ルート登攀に出演し、その様子が実況生中継でお茶の間に放映された、と書かれているので、英国ではそんなに珍しくないのかもしれない。今回のように、海外で新ルート開拓番組というのは、多分日本では初めてではないかと思う。ずっと以前、私はアルプスのシャモニーの山岳博物館で多くの山岳映画を観てきたが、「魔境の絶壁!」は本場の作品にも劣らない迫力あるすばらしい作品だと感じた。
出発を九日後に控えた一月二十三日、いわひばりアルパイン・クラブ主催の「ロライマ遠征隊壮行会」が国電の恵比寿駅近くの「五郎八」という居酒屋でささやかに催された。私もよく利用しているこの店には芸能関係者もよく来るそうで、美人のママさんがいて、安くて旨いモノが揃っていることから山ヤにも好評だ。外国人の会員もいるいわひばりアルパイン・クラブでは、会員は少ないのに頻繁に海外の山に出かけている。あるときなどは、全部の会員が海外登山中、という異常事態を招いたことがあったくらいだから、海外登山の壮行会といってもいちいち大げさなことはやらないで、関係者だけが集まってお酒を飲むという慣わしになっている。
南米の国々のなかでもベネズエラ共和国(一八二一年スペインから独立)は、未知の国というイメージが強い。ブラジルやペルーなどのように日本人の集団移住がなかったせいか、あまり紹介されることもなく資料文献も多くはない。最初は、私たちは誰一人ベネズエラに友人知人がいなかったので不安がいっぱいだったが、努力の甲斐あって、幸い各方面から現地の人たちを紹介してもらうことができた。
駐日ベネズエラ大使館のミレヤ参事官には、国防省のイゥデス・カステロ氏とシウダ・ボリバル警察のカルロス・モラレス氏を紹介してもらえた。同じくベネズエラ大使館の小川皓三氏からはカラカス日本人会の副会長を、ギアナ高地を訪れた経験がある日本テレビの矢追純一氏からは『RORAIMA』の著者で元大臣のチャルレス・ブルーエス・カリエス氏を、テレビ朝日の小山均氏からはロライマに行った事があるというマネエル・ランヘル・スポンガ博士に会うことを勧めてもらった。また、東大地震研究所に留学中のベネズエラ人ガルシア氏は、我々のためにカラカスの友人知人に国際電話をかけてくれた。また、美馬が神戸出身ということから、神戸新聞社の後援が決まり出発日直前に取材を受けた。
時間は容赦なく過ぎ去り、とうとう出発の日を迎えてしまった。
3 ギアナ高地へ
ここで、出発前の計画と実際とでは、調査不足などの理由からアプローチなどかなり計画の変更を余儀なくされた。参考までに出発前に関係者に配布したロライマ登山の計画書を掲載する。
<Mt.ロライマ登山計画>
南米最大の大河アマゾン流域北東部とオリノコ河流域南部にまたがる途方もなく広大なギアナ高地。そのジャングルの中に聳える赤色砂岩の巨峰がMt.ロライマである。四方を四〇〇〜五〇〇メートルの垂直の岩壁に囲まれ、頂上台地は平坦で台地状を成し、アーサー・コナン・ドイルの小説『失われた世界』のように怪奇な山容を呈している。標高二八一〇メートルはパカライマ山脈の最高峰でロライマという名はインディオの言葉で<諸流の父>の意。
一八三八年、英国のロバート・ショーンバーグ卿がロライマを最初に望見した白人といわれている。初登頂された(ベネズエラ側)のは一八八四年十二月で、英国王室測量官補佐ハリー・パーキンズとイム・サーンの探検隊であった。その後、一九六〇年代に入ってからガイアナ側(北面)からの登攀の可能性がクローズアップされ、再度にわたる偵察試登の後、一九七三年、ガイアナ政府の全面的支援のもと英国隊(隊長ドン・ウィランス)が北面からの初登頂に成功して注目された。私たちの今回の遠征目標は、初登ルートからのMt.ロライマ登頂だけでなく、過去の遠征隊がすべて頂上台地の一角に達したに留めていることから、できれば長さ十四・五、幅五キロメートルにおよぶ頂上台地の真の最高地点を極めることと、さらにはベネズエラ側に新ルートを開拓することも狙っている。
ベネズエラの首都であり、カナイマ国立公園庁のあるカラカスを発ち、シウダ・ボリバルからブラジル国境に近いサンタエレナ・デ・ワイレンまでの六七〇キロメートルをランド・クルーザー(トヨタ)で進み、そこからカロニ川の支流クケナム川をインディオのカヌーで三日間遡り、さらに人跡未踏のジャングルを越えて、ようやくベース・キャンプとなるMt.ロライマの麓に達することができる。登山の基地となるサンタエレナ・デ・ワイレンからロライマにいたる七十五キロメートルものジャングル地帯通過が、この遠征のキーポイントになると思われる。(しかし、実際には、カヌー使用なし、ジャングル地帯通過はごく僅かですんだ。)
二月二日、厳寒の日本を発つ。ロサンゼルス、マイアミを経由して、ベネズエラの首都カラカスに五人全員が到着。空港に日本大使館の高橋育雄氏が出迎えていた。カラカスには九日間滞在。その間に、日本大使館への挨拶、環境省国立公園局への登山の許可申請、などを行う。
二月十二日。ロライマ登山の許可がおりたので空路シウダ・ボリバルへ飛ぶ。カラカスの南東約四〇〇キロメートルに位置し、オリノコ河南岸に展開する地方都市だ。ここの空港でも日本人の出迎えをうける。カラカスの日本大使館を介して、シウダ・ボリバルの在留邦人に私が電話をかけておいたからだった。大手商社の駐在員二人と、沖縄出身でスーパー・マーケットを経営している石川新助氏だ。石川氏は、『オーパ!』の取材で訪れた作家開高健をオリノコ河に案内したときの写真を我々にみせてくれたり、夕食をご馳走してくれた。
この日、我々はシウダ・ボリバルで、ロライマ登山のためのすべての食料と、ハンモックなどの生活必要品を手分けして全部購入。チャーターした二台のランド・クルーザーに荷物を積み終えてサンタエレナ・デ・ワイレンへ向け出発したのは真夜中だった。この移動には、ガイアナとの国境紛争地帯を通過するため、三名の武装した護衛を雇った。(護衛は、拳銃を所持し、迷彩服を着用。到着後に約束した報酬の倍額を要求してきたが断固拒否した。)
ベネズエラとガイアナの領土紛争は一九世紀前葉から現在まで継続していて解決の見込みはまったくないといわれている。ベネズエラが領有を主張しているのはエセキーボ川以西の全部だとされるから、これを認めるとガイアナは領土の大部分を失ってしまう。だから今後も係争は続くと思われるが、そのデリケートな国境にロライマが聳えている。英国隊のロライマ北壁登攀の動機はアルピニズムの追求ではなく、独立まもないガイアナの国境問題をからめて政治的に意図されたものであった、と英国隊のヘイミシュ・マキニスは著書ではっきり述べている。
途中、ジャングルのなかの何ヶ所もの国境警備の検問所を通過し、いくつかのインディオ集落に立ち寄る。サバンナを走ってブラジルとの国境の町サンタエレナ・デ・ワイレンに到着。人口四〇〇〇ともいわれるこの町には、食料品や日用品が全部揃っていた。私たちは何も知らずに七四二キロメートルもの距離をシウダ・ボリバルから運んでしまったことになるが、こういう無駄や失敗も、未知の土地ではけっして珍しいことではない。
翌日、さっそく国境警備隊に出頭すると、国立公園庁から連絡が入っていたらしく、ロライマ登山に関するアドバイスと、有益な情報を得ることができた。それは、当初の計画では、ここサンタエレナ・デ・ワイレンからインディオの使うカヌーでクケナム川を遡行し、できるだけロライマに接近。そこから未踏のジャングル地帯を越えて岩壁に達する、というものだったが、カヌーでのクケナム川の遡行は乾季のため水量が乏しく不可能とわかった。その代わり、ここから百キロメートルほどエル・ドラド寄りのサバンナ地帯からロライマに到達できることを教えられた。ジャングルではなくサバンナ地帯なら毒蛇に咬まれることも猛獣に食べられる心配もないから嬉しい誤算だった。車が入れる「チリマタ」まで、英語が話せる警備隊の兵士が一人同行してくれ
るというから心強い。ロライマ山麓のインディオ達は荷物を担ぐポーターはやらないと教えられた。そのことが一抹の気がかりだった。
4 サバンナの第一夜
見渡す限りの褐色のサバンナと、綿のように白い雲を浮かべた澄み切った青空。いかにもギアナ高地らしい風景がはるかな地平線まで続いている。今朝はやく、昨日まで宿泊した「フロンテラ・ホテル」(国境の意)をチェックアウトして、私たち五人は大型ランド・クルーザー(チャーターしたタクシー)に乗り込み、赤色の土ぼこりを舞い上げてサバンナを疾走する。ロライマの登山口チリマタに向かっているのだ。
今日は二月二十四日。ベネズエラ入国からすでに二週間が経過していた。ギアナ高地の乾季は十一月から三月までとされているが、三ヶ月前にアンヘルの滝登攀撮影のためにギアナ高地を訪れた北斗映画の秋山隆雄氏から、「今シーズンは雨季が長引いたので悪天候に悩まされた…」という情報を得ていたので、私たちは乾季が終わる直前のもっとも天候が安定した時期に登頂できるように計画を立てていた。案の定、ギアナ高地に着いてからずっと晴天が続いていた。
ランド・クルーザーはいくつかの森や椰子の林を走りぬけ、いつしかインディオの家が点在する高原にでる。はるか前方の小高い丘のうえにもインディオの村が小さく見えてくる。まもなく小さな川の手前で車は停車。そこがチリマタで、川の名前がチリマタ川だった。
車から降りると、途端にいつもの息の詰まるムッとする熱気に包まれて赤道直下の強烈な陽射しが照りつけてくる。そして、蚊が黒いカタマリになって襲ってくる。荷物を降ろし終えてから、同行してくれた一人の国境警備兵と運転手もまじえた七人で記念写真を撮る。兵士を乗せてランド・クルーザーが走り去ると、チリマタ川のほとりに五人の日本人だけになる。これからずっと私たちだけの生活共同体がはじまる。ヒマラヤ遠征のように、政府から連絡将校が派遣されて同行すると考えていたので当てがはずれる。自由に行動できる反面、この先インディオとの交渉など全て我々だけでやらなくてはならない。そして、ここから先は文明世界と決別し、未知の世界「ロライマ」への第一歩を踏み出すことになる。
川幅数メートルのチリマタ川に入り、五人全員が並んで手渡しで約三〇〇キログラムの荷を対岸へひとまず移す。そして何回かに分けて荷上げを開始する。胸つく急坂を上りきると目の前に小ジャングルの谷があらわれる。踏み跡がその小ジャングルのなかに消えているので思い切って分け入ってみる。そこは、うっ蒼と樹林が茂り、トゲのある枝や蔓がおおい被さっているので歩きずらい。迷路のようなヤブのなかをかき分けてすすんでいると、先頭を進んでいるはずの美馬の悲鳴がきこえる。しばらく行くと美馬の悲鳴が納得できた。行く手に泥沼があらわれ、真ん中に丸木橋のように一本の腐った倒木が向こう岸へ渡してある。
一番最後を歩いていた私が木の枝につかまりながら沼を渡りだすと、ズブズフと倒木が沼の中に沈みはじめる。くるぶしまで沈みながらも、なんとかあと一歩で対岸に着くというとき、倒木がポッキリ折れて泥沼へどぼんと落ちてしまう。あわてて木の枝をつかむと、トゲの木だったので悲鳴をあげてしまう。みな、この嫌らしいジャングルから早く抜け出したい一心なので誰も心配してくれず、逃げるように先へ進んでしまい姿も見えない。私は泥だらけのまま必死に仲間を追いかけた。
やっとサバンナに抜け出したときは、全員が泥にまみれ、傷だらけになっていた。この先こんなに危険なジャングルが次々に出てくるのだとしたら、もしもインディオがポーターとして雇えず我々だけでロライマまで荷上げすることにでもなったら、それこそロライマへたどり着くことさえ難しくなるので先が思いやられ頭が痛くなる。だが、目の前には広々としたサバンナが再びあらわれたので安心する。緩やかな起伏の一段とたかいところに十軒ばかりのインディオの家がかたまっているのが見える。そこがパライテプイの村だった。
このパライテプイとジャングルの中間地点まで荷物を担ぎ上げて、そこに今日は幕営することにする。荷上げは、三回のボッカで全部を運び上げることができた。そして、今日からは自分たちで食事を作らなければならない。サバンナに水はないのでチリマタ川からポリタンクに汲んできたのを大事に使う。
サバンナの第一夜は、日没と同時に涼しくなる。カエルや虫の音がいっせいに合唱をはじめる。夜が更けると寒くなる。そして大きな空に満天の星がきらめいている。久しぶりのボッカで疲れたためか、全員早々に眠りにつく。
5 インディオ集落のハプニング
翌日、ようやく見えていたインディオの集落パライテプイにたどり着く。ロライマのインディオについて、出発前に「奥アマゾン探検隊」(一九七四年)の隊長を務めた共同通信社の向一陽氏から、ロライマ山麓のインディオは「ペモン族系のタウレパン族」と教えてもらった。ペモン族がどういう種族なのか、戦闘的な種族なのかも分らなかったがそんなに心配はしていなかった。ロライマの初期の登山隊や探検隊が無事帰還していることが、結果的に協力的だったことを示しているからだ。彼らは裸族ではなく、我々と同じ洋服をきていた。
集落に近づくと、インディオの子供たちが家の陰や茂みのなかから好奇の視線を我々に注いでいる。時折、視線が合うと、スッと隠れてしまう。ハニカミなのだ。
集落のはずれにトタン葺きの屋根だけの広い小屋がある。彼らの共同作業場のようだ。そこへ担いできた荷物をとりあえず置く。遠くから、我々の様子を珍しそうに観察していたインディオの一人が近づいてきて、ペラペラしゃべりはじめる。何語かもわからない。スペイン語もまじっているようだが我々はだれひとり話せない。しかし、言葉だけでなく文化や習慣もすべて未知の人間同士がはじめて接触するのだから、コミュニケーションの苦労は覚悟のうえだった。私がその男に、「エル・キャピタン(村長)?」と尋ねると、違う、と首を振る。どうやら通じるらしい。そこで私は、ロライマの方角を指差しながら、我々は遠方からはるばるロライマを登りにやってきた。ここに荷物を置かしてもらってもいいか?と身振り手振りで説明し、日本製のタバコを二箱その男に差し出す。男はタバコをひったくるように乱暴に受け取ると素早くズボンのポケットにしまい、急にニコニコしだす。そして、名前は「アントニオ」だと名乗り、ここにテントを張ってもよい、とジェスチャーで示した。(このアントニオおじさんとは、その後も一番接触をもち、親しくうちとけ、美馬は下山後まいにち家に招かれたりした。)
この日の午後、三回のピストンで昨夜の幕営地から全部の荷上げを終えたときは皆ヘトヘトだった。トタン屋根のしたにテントを張り、コーヒーをつくって飲む。小屋のうしろに立つと、ロライマをはじめとする周辺のテーブル・マウンテンが一望できる。テーブル・マウンテンのことをインディオたちは「テプイ」と呼ぶ。意味は「悪魔の山」だ。ここから向かっていちばん右奥にどっしりと鎮座しているのがロライマで、真正面にクケナム、ユルアニ、ワダカピアプイ、トランメン、カウレンと岩峰がジャングルの中から屹立している。テプイとサバンナと深い緑のジャングルがうまく調和している。これがギアナ高地らしい景観なのだろうか。
しばらくの間、クケナムとロライマを眺めていて、ふとこの風景をどこかで見た記憶があることに気付いた。しかし、それがどこだったか思い出すのにしばらくかかった。それは、私たちがカラカスで宿泊した日本大使館ちかくの「エル・シド」という名の自炊ができるホテルだった。フロントで日本へ出す絵ハガキをたくさん買い、そのなかの一枚の絵が、ここパライテプイから見たクケナムとロライマの風景だった。カラカスで絵ハガキをみてもロライマが写っていることに気付かなかったのは、肝心のロライマが半分しか写ってないのと、キャプションが “ La Gran Savana “ となっていたからだった。
まだ夕食には早かったので、空身でカメラをぶらさげて村のなかをブラブラ見てまわる。椰子の葉で葺いた家々の屋根の上には、彼らが常食とするユカ芋から作った「カサベ」が干してある。このユカ芋は、狩猟民族であるインディオが唯一栽培している作物で、有毒な青酸を含んでいる。すり潰して毒を抜き、残った粉をかためたのが「カサベ」だ。五十~八十センチメートル大の円盤状にのばして干してから食べるのだが、何の味もしなかった。
家々の壁は泥壁で、ところどころ剥げ落ちている。これが窓の役目を有効に果たしている。ユズに似た実をつけた樹がある。食べてみると酸っぱくておいしい。その樹の枝には、牛肉や豚肉が吊るして干してある。牛、豚、鶏、馬などが放牧されている。だが、畜舎らしいのは見当たらない。集落の中を進んでいくと、骨と皮ばかりに痩せた犬が狂ったように我々に吠えかかる。姉妹らしい少女二人が軒の下で唄を口ずさんでいたが、私たちの姿をみてあわてて家の中へ隠れる。そして壁の破れ目から覗いている。ザルに木の実が干してあったり、庭先に牛の骨が転がっていたりする。そして、女性と子供は全員はだしで、どろんこの足をしている。着ているものは洋服だが、おろしてから一度も洗濯してないらしくひどく汚れている。
また、村に幼児が多い。村長の子供は四人、アントニオは五人いる。こんなに子供が多ければインディオの人口はたちまち増加しそうだがそうはならない。幼児の病気による死亡率が高いのだ。マラリヤをはじめとする多くの風土病がはびこり、栄養のバランスがよいとはとうてい言えないからだ。
アマゾン探検のテレビ番組などで、しばしば毒グモを食べるインディオが紹介されるが、彼らがもともと毒グモがほんとうに好物かおおいに疑問である。ほかに豊富に食べ物があればあえて毒グモは食べないのが普通であろう。(毒グモの毒は蛋白毒なので、火を通すと毒が消えるから食料にはなる。)また、パライテプイのインディオたちが、太古の昔からロライマ山麓に居住していたかどうかも真相はヤブのなかである。なぜなら、よく考えてみればここでの生活は、一見平和そうで申し分ないようにも見えるが、都会の生活に較べれば不毛で不便な僻地であることも確かである。
もしかすると、パライテプイの人々の祖先は、コロンブスがスペイン人たちを引き連れてカリブ海に姿をあらわした一四九二年以降、もしくは黄金のインカ帝国がわずかなスペイン人たちによってほろぼされた頃、征服者たちによる先住民であるインディオへの殺戮から逃れてきて、ロライマ山麓に暮らすようになったとも考えられる。インディオの言葉でギアナ高地の「ギアナ」は、名前のない場所を意味するというから、遠いいにしえは、インディオですら未知の地域だったことがわかる。
ここパライテプイでは、いまでも一番高い丘の上に見張り小屋を設置してあり、外部の人間が近づくのを双眼鏡で四六時中監視している。さらにそれぞれの家に銃がある。このような警戒深さは尋常ではない。たしかにロライマは国境にあり、領土問題もいぜん解決の見通しはないが、インディオに言わせれば「領土問題ってなに?」ということになる。さらに、パライテプイは眺望の良い高台に位置している。なぜ彼らは不便で川からも離れた高台に山城のような村をつくったのだろうか…。
熱帯地域でも日没は早い。午後六時半には暗くなる。六時十五分頃、アントニオがテントにきて「エル・キャピタンが呼んでいる」と伝える。私と小野崎が、かねて用意してきた土産物をもって村長の家を訪ねていく。どうせ言葉は分らないので、「こんばんは!」と日本語で声を駆けると一人の男が入り口で待っていた。彼が、オヘーニョ・オルティス・ムレーという舌をかみそうな名前の村長で、英語の単語をいくつか話せた。家の中にはいると、真っ暗な室内にはハンモックが吊るされ、奥に囲炉裏で薪が燃やされている。炎の明かりでまずは村長と握手を交わし、うやうやしく土産物を差し出す。それから、身振り手振りをまじえてロライマまでの荷物をはこぶのに十二人雇いたいと申し出ると、土産物の効果があらわれたのか交渉は五分で妥結。全部OKということだった。あまりにもあっけない交渉結果に、小野崎と顔を見合わせる。彼らはあまり駆け引きはやらないようだった。我々ももっとできるだけ値切ろう、という欲を出さなかったからだ。テントにもどりながらも、「あの村長、ほんとに理解したのかな?」と心配になったくらい交渉はスムースに運んだ。
夕食後、美馬が「じつは、今日は俺の二十九回目の誕生日なんですよ!」と猫なで声で告白する。遠征中に誕生日を迎えられるのはラッキーである。一生忘れない思い出になる。さっそく美馬の記念すべき誕生日を祝って酒盛りをやることに衆議一決。今回の遠征仲間は、飲むことにかけては素晴らしいチームワークを発揮するようだった。酒は成田空港の免税店で買った「ダルマ」が半分残っていたのでそれを飲むことにする。肴はツナ缶を一個だけ開ける。
三年前、私がガルワール・ヒマラヤに遠征した時も、標高四三〇〇メートルのベース・キャンプで誕生日を迎えた隊員がいて、みなで祝ったのを覚えている。たまたま近くにベース・キャンプを張っていた英国隊の二人も本場のスコッチを持参して祝ってくれたのだが、私の隊も本場のコニャックをちゃんと用意してあった。しかもこのコニャックは、誕生日を迎えた当人が本場から大使館を介して取り寄せておいたものだったので、その用意周到さに脱帽した。
「ダルマ」は見る間に少なくなる。残り少ない酒を確保するためか、誰かが「桜井はもうこれ以上飲まないほうがいいな!」と決めつける。桜井は「ハイ」と素直に返事してうつむくばかりだ。これは桜井が一番若いから、先輩風を吹かせたというわけではなかった。じつは今回の遠征出発一ヶ月前、我々五人だけで遠征のためのミーティング合宿をフリー・クライミングのエリアとして最近注目されている伊豆城ケ崎の海岸で実施した。その合宿最終日の夜の打ち上げで、一人で一升近くの清酒をガブ飲みした桜井が小キジに出かけたまま一時間も戻ってこない。どうしたんだろう、と心配して、皆で捜索に出発しようとした時、桜井がニコニコしながらテントに戻ってきた。見ると足や腕が血だらけだった。「どうしたんだ?」と聞くと、「なんでもないですよ。ただちょっとだけ崖から落ちただけですから、ホントに構わないでください。」などと言いながら酒に手をのばす始末。みんなで酒をとりあげ、嫌がるのを押さえつけて傷口に薬を塗って包帯を巻き、むりやり寝かしつけた、という伝説的エピソードがあるからなのだ。
ウィスキーの酔いも手伝って熟睡中の深夜、バリバリバリ、という大きな物音に目がさめる。真っ暗なテントのすぐ近くでフウ、フウ、という大きなケモノの荒々しい息遣いがきこえる。インディオの村にも猛獣が出没するのかと一瞬血の気がひく。が、テントのベンチレーター(通気孔)から外をのぞいた山口が、「牛だ! でっかい牛がいっぱいいる。あっ、俺たちの食料を無断でうまそうに食べている!」と叫んだ。牛ならかつて某国の首相のニックネームにもなったくらいだから怖くない。全員テントの外に出て追い散らそうとするが、このインドコブ牛の群れはまったく動じる気配がなく、逆に角を突き立てて威嚇しながら向かってくる。小石をぶつけ、尻をけったりしてやっと遠ざけることができたが、インディオ達が放し飼いにしている牛に、私たちは行動食の大部分と食用油の全部を食べられてしまっていた。
食用油は、小屋の天井の梁にバケツに入れて吊るしておいたし、行動食はダンボールに入れてシートにくるんで置いたが、結果的に私たちの不注意であった。非は自分たちにあるとはいえ、以後、我々の行動食は一人一日ビスケツト三枚だけ、という厳しい配給制度が実施されることになり、油を使った料理はなんと一回もできなくなってしまった。明日からは、十二人のインディオと一緒にロライマへの第一歩となるキャラバンがはじまるというのに、前途に一抹の不安を投げかけていた。
6 キャラバン
二月十六日。七時起床。すぐに全員で手分けして荷物を一人分ずつにパッキングしなおす。朝食をたべていると、オヘーニョ・オルティス・ムレー村長が様子を見にやってきた。我々の食事に好奇の視線を注いでいる。ハポネという、明らかにインディオと同じ人種とおもえる五人が、いったいどんなものを食べているか興味津々なのだ。私たちはパライテプイにやってきた初めての東洋人だったから無理もない。
八時過ぎ、放し飼いの豚や鶏と一緒にインディオがあちこちからゾロゾロと集まりだす。アントニオもいる。華奢なつくりの背負いカゴと鉄砲を各自携えている。日本を発つまえは、鳥の羽を頭に飾り毒矢と弓を持った裸の姿を想像していたのだから、認識不足を反省しなければならない。逆に、パライテプイのインディオこそ、見方によってはギアナ高地でもっとも最先端の西洋文明と接しつづけてきたということができる。ロライマが英国隊によって登頂された一八八〇年代以降、現在にいたるまで各国(主にヨーロッパ人)の探検隊や学術調査隊がここを訪れ、荷物の運搬や案内人として協力してきたことは間違いない。とすれば、我々がチリマタに到着したときに彼らは、全てを察していたことになる。
インディオたちの服装は、みな庇のある帽子をかぶり、暑苦しい長袖の上衣を着、ゴム長靴をはいているのに較べて、私たちの方は半袖のTシャツに運動靴という軽装だった。インディオたちは、乳呑み児を抱いた妻や、洟を垂らした子供たちに見送られ、一人ずつ荷物をかついで出発していく。最後に残った一個の荷物は私たちの予想がはずれ村長みずから背負って歩き出す。
九時十三分、日本人五人、インディオ十二人、痩せ犬一匹からなる一行はロライマへの行進を開始した。ジリジリと照りつける陽射しの下、キャラバンはヒマラヤ遠征以来で、目標に近づく楽しみがあじわえる。約三十分で一本の川を横切り、森を抜けてジメジメした湿地帯にさしかかる。ここで私は泥沼に膝まで沈む。アディダスの運動靴がどろんこになった。(登山を終えての帰途、同じこの場所で小野崎は腿の付け根まで埋まってしまい、完全に身動きできなくなった。)
小高い丘の上に出たとき、いきなり眺望がひらけて褐色のサバンナの遥か遠くに、ロライマがその雄大な姿をくっきりと浮かびあがらせていた。見えるのは南西壁側だけだが、とてつもなく大きい。私たち五人は立ち停まり、しばしロライマを凝視し、それから思い出したようにいっせいにカメラを取り出すと、まるでフィルム会社に貢献するかのようにシャッターを押し続けた。私も持参したカメラで撮ったが途中で電池が切れてしまった。
サバンナのキャラバンは灼熱地獄だ。ときどき休憩するが強烈な陽射しを遮る樹木が一本もない。腰掛けて休んでいると、いつの間にかアリが這い上がってくる。不毛のサバンナだがアリだけはどこにでもたくさん見た。あちこちにアリ塚があり、大きいものは高さ一メートルにも達する。壊れたアリ塚もある。アリを常食とするアリクイの仕業なのだ。サバンナでこのアリクイの姿だけは我々が目撃できた唯一の大型の野生動物だった。
二つ目の川に出る。そのほとりで昼食。川に沿って小さいがジャングルが続いている。そのなかなので直射日光に晒されないかわり、蚊が黒いカタマリになって襲ってくる。たまらないので落ち葉を燃やし、ついでにコーヒーをつくって飲む。美馬はうっ蒼とした茂みをバックに川の前でポーズをとって桜井に写真を撮ってもらう。山口は、キャラバンに参加した一匹の痩せ犬を相手に動物愛護の精神を発揮していた。この犬は、まるでそのまま骸骨標本になるほど痩せ細っているばかりでなく、皮膚病に罹っていてかなり体毛が抜け落ちている。さらに、たえず目やにを流していて、その眼の縁に小豆大のダニがびっしり食いついている。見るからに気持ちが悪い。だが、そんなことにはお構いなく山口は「おいポチ、よしよし…」などと頭をなでたりしているのだった。
また、茂みのなかを歩き回っていた桜井が、突然「うわーッ!」とうめき声をあげ、驚いた私が「どうした?」ときくと、「いえね、蚊の野郎がぼくを刺そうとしたんですよ…。」などとほざく。あきれた小野崎が、「桜井くん、蚊に刺されたくらいで毒蛇に咬まれたような声は出さないでくれよ!」と、言いつつ蚊を三〇〇匹もたからせた自分の腕をピシャリと叩いて真っ赤な血を飛び散らせてみせた。
三つ目の割合おおきな川が行く手にあらわれる。私がいつものように、手帳をとりだしてメモを書いていると、いつの間にかアントニオがニコニコしながら近づいて「エル・キャピタン、リオ・ドック!」と、言って地図にもないその川の名前を親切に教えてくれる。私が「リ・オ・ド・ッ・ク!」と復誦しながらメモを取り終えると、彼は満足そうに頷いて「シガーロ、シガーロ!」と抜け目なくタバコをせがむ。私が意地悪く、短くなった喫いかけのタバコをさしだすと、受け取らず、別の新しいのをせしめるまで立ち去らなかった。
また、美馬が一人のインディオに自分の水筒の水を飲ませて仲良くなったところで鉄砲を撃たせてくれるように頼んだが、どうしてもダメだった。ただ、手に持つことだけは許可してくれたという。無理もない。外国人に銃の試し撃ちなどさせるハズもなかったが、美馬はかつて陸上自衛隊に所属していたので、インディオの銃に興味があったようだ。
このように、私たちは少しずつインディオとうちとけていった。
午後四時半、両岸をジャングルに挟まれた大きな川に着く。カロニ川支流のクケナム川だった。ここが今日の宿泊場所だった。この川を渡ると、いよいよロライマの山裾がはじまる。クケナム川の川幅はおよそ四十メートル。流れは透明で、あの、水中の殺し屋ピラニアはいないと教えられたので安心だ。靴を脱ぎ、ズボンをまくりあげて川を渡渉する。深さは股まであるのにインディオは長靴をはいたままジャブジャブと流れのなかに入っていく。対岸にあがると、長靴のなかに溜まっていた水が破れた穴から噴水のように流れ出る仕組みなのだ。
我々は安全を考えてクケナム川の河原の砂の上にテントを張ることにする。インディオたちは茂みの中に泊まったが離れた場所なので見にいけなかった。付近には、あちこちにキャンプした形跡があるが、最近ではなく何年も前に使ったものらしかった。
ここのクケナム川は、大雨の降り続く雨季には数メートルも水かさが高くなるという。ロライマは三月下旬には雨季に入るので、我々も油断はできない。万一、下山が大幅に遅れるようなことになったら、クケナム川が氾濫してロライマに閉じ込められて文明世界にもどれず、冒険小説のストーリーさながらにならないとも限らない。そういえば、ベネズエラを南北に二分しているオリノコ河の乾季と雨季ではシウダ・ボリバルで水位は十六メートルもの差になるというから、アマゾン流域やオリノコ流域の水量は本当に想像を絶するスケールだ。
この日の夕食は、運悪くちょうど蚊の大群が出現する時間帯だったので、テントのなかで食べる。狭いテントのなかはまるで蒸し風呂状態で、みな滝のような汗が噴出していたが、大事な血液を蚊に提供しようと申し出る者はいなかつた。
この夜、私はインディオたちがなぜ暑苦しい長袖を着ていたか深く考えなかったことを後悔した。両腕と首筋が火照って痛くてたまらない。強烈な直射日光に長時間さらしてしまったからだ。横になってからも、あまりの痛さに寝返りもうてない有様だ。明日は両腕と首にバンダナとタオルを巻きつけることにしよう。
7 ベース・キャンプ建設
翌十六日。晴れ。天気はかなり安定しているようなので見通しは明るい。起床六時半。早朝だけは涼しくて気持ちがいい。太陽が昇り始めると急速に気温があがり、やがて灼けるような暑さがはじまる。八時十五分。インディオたちが、昨日とおなじ荷物をかついで次々に出発をはじめたので我々五人もそろそろ出発しようかという時に、山口が「ここにもう一晩泊まるからみんな先に行ってくれ…」と突然いい出す。まえに痛めた右足の爪先を昨日、石にぶつけてしまったので痛くてとても歩けないというのだ。めざすロライマは目前にせまっていた。ベース・キャンプ予定地はそんなに遠くないはずだったので、もしもゆっくり歩けるのなら一緒にベース・キャンプに登り、そのあとゆっくりと治療に専念するように勧めたが、説得は徒労に終わった。
仕方なく、クケナム川に残る山口のために、ツエルト、コンロ、燃料、一日分の食料などをそこに残し、四人は先へ進むことにした。そのかわり、明日の午後三時までには必ずベース・キャンプまで登ってくるように固く念を押して別れた。ここから先はなだらかな一本道らしいから道に迷う心配はなかったが、万一、毒蛇に咬まれたりしたらそれこそ命を失いかねないからだ。
十二時半、ロライマの岩壁を取り囲んでいるジャングル脇の広々とした灌木が生えた草原に着く。辺りにキャンプした跡がいくつかある。ここをベース・キャンプ地と決める。近くに小川が流れている。眺望もよく、ロライマの巨大な岩壁を真正面に見ることができ、私が想像していたベース・キャンプにぴったりだった。多分、百年前の初登頂者もここをベース・キャンプにして活動したに違いない。ただ、赤道直下の強烈な陽射しを遮る日陰がまったくなかった。背の高い樹もなく、シウダ・ボリバルで買ったハンモックを使う機会がなかったことが誤算だった。
我々の到着から四十分後、村長が到着して十二人のインディオが揃う。さっそく荷物を運んだ報酬を支払う。ヒマラヤでのポーターへの支払いと同じように、一人ずつ順番にお金を手渡す。(このときのために、カラカスの銀行で少額のボリバル紙幣を大量に両替しておいたのでトラブルは起きなかった。)そのあと、ロライマの岩壁をバックに私たちとインディオ全員の記念写真を撮り十二人の一人ずつと握手を交わす。彼らは笑顔で「グラシアス!」とスペイン語で言いながらもと来た道を下っていった。
日本人だけとなった草原で、私たち四人でベース・キャンプ建設に取りかかる。足の踏み場もないほど散らかした荷物のなかから、まず五人用のエスパース・テントを張る。それから、ベネズエラ、日の丸、両国の国旗を掲揚する。といっても地面に銀座の「松坂屋」でみつけた国旗を結びつけた棒を打ち込むだけだからカンタンだ。
遠征隊では国旗は役にたつ。どこの国の隊か一目でわかってもらえるからだ。山頂で国旗を掲げた写真をみると分るが、決して侵略や征服のための国旗ではない。オリンピックの国旗とおなじく友好親善のための国旗だ。ちなみにベネズエラの国旗は、上から黄、青、赤の三色に等分され中央の青地には七個の星が描かれたデザインで、一八〇六年に母国スペインとの独立戦争の際フランシスコ・ミランダ将軍が使用したことに由来するといわれている。
8 ノーマル・ルートからの登頂
テントの前に日本からはるばる持ってきた工事用シートをひろげ、そのうえに全部の登攀用具を並べてみる。並べ終えたとき、いつの間に登って来たのか二人の白人男性と案内人のインディオが近づいてきていた。彼らはカラカス在住の英国人と米国人だった。一人が額の汗をふきながら、「イングリッシュ、イングリッシュ!」と英語がわかるかきいている。そして、彼らはロライマの頂上で恐竜を撮影するんだ、と言ってウインクしてから、我々の登攀用具をみて眼をまるくした。ピュー、と口笛を吹き、首にぶらさげていた日本製のカメラで並べてある装備を撮影した。
しばらくして、騒々しい白人一行はノーマル・ルートを辿ってジャングルの中に消えていった。荷物の整理が一段落したところで、テントのなかでしばし休憩。コーヒーを飲んでいると、とうとうロライマまで来てしまった、とホッとした気分に浸ることができる。日本出発以来はじめて緊張から解放されたくつろぎのひとときだ。テントの入り口はロライマを背にして設置してある。雄大なサバンナとその奥の山々をテントのなかからも眺めることができ、秘境のムードが満点だ。そういえば、英国の鳥類学者ヘンリー・ハドソンが一九〇四年に発表した小説『緑の館』は、ベネズエラのオリノコ河上流が舞台だ。一九五八年に映画化(オードリー・ヘプバーン主演)された際、もっとも秘境らしい景勝地という理由から、ロライマ地方でロケが行われたという。
ベース・キャンプが設置されたので、明日からいよいよ本格的な登山活動をはじめることができる。晴天が続いているとはいえ、安心はできない。いつ天候が崩れ始めるのか予想もつかないからだ。
ロライマにおける我々の活動目標はつぎの三項目だった。
- ノーマル・ルートからの登頂。
- 頂上台地の三国国境地点への縦走。
- 南西壁新ルートからの登頂。
さしあたり、ノーマル・ルート(一八八四年に初登頂されたルート)からの登頂を果たして、頂上台地がどのようなところかを知っておきたかった。そうすれば、国境地点への縦走のメドもつくし、新ルートから登頂した際のエスケープ・ルートに使えるかどうかも確かめておけるからだ。
明日、十八日まずノーマル・ルートからのアタックをかけることにする。メンバーは一番元気な桜井と美馬パーティと決める。そして、今クケナム川にいる山口がベース・キャンプに上ってきたら、次の日に私と小野崎が頂上台地へ登ることにする。
ベース・キャンプの第一夜は、見上げると満天の星とびっくりするくらい「天の川」が近くに見える。闇の中に大きなホタルがとんでいる。インディオが燃やしている焼畑の火がはるかにチラチラと見える。
二月十八日。晴れ。朝八時の気温、摂氏二〇度。頂上へ向かう桜井と美馬をおくりだす。それからすぐ小野崎と二人で登攀用具の整理を済ませる。それからロライマの巨大な岩壁を双眼鏡で詳しく観察する。これから私たちが新たに開拓する登攀ルートのラインを決定しておかなければならないからだ。我々の用意した装備では、岩壁の基部からまっすぐ登る直登は不可能だったから、弱点をたどって頂上をめざすオーソドックスな登りかたを採用する。
双眼鏡でのぞくと、完全に垂直の南西壁には何本もの顕著な縦の大ガリー(おおきな岩の溝)が刻まれている。この大ガリーを辿って頂上台地へ抜け出ようというわけだ。可能性のある左右二本のガリーを発見。詳しく観察してみる。左側の大ガリーは、ノーマル・ルートの右手約一キロメートルの巨大なオーバーハング帯のすぐ右隣りにほぼ真っ直ぐ頂上まで延びている。
十時半。意外にはやく山口がベース・キャンプに登ってきた。無口な山口がいつになく饒舌になっている。「ゆうべは近くのヤブの中からガサガサ音がしたんで、いやー怖かったなあ!」と恐怖の体験を語ってくれた。
三人でコーヒーを飲んでいるとき、スタンバイのスイッチを「ON」にしておいたトランシーバーから桜井の声がとびこんできた。「えーと、こちらは桜井、ベース・キャンプ感度ありましたら応答願います。どうぞ!」さっそく、「こちらベース・キャンプ、よく聞こえます、どうぞ!」と交信を開始する。「えーと、僕たちは先ほど、十時十五分に頂上台地に着きました。これからもっと先へ進んでみるつもりです。どうぞ!」「了解!」
はるばる地球の裏側からロライマめざしてやってきたのだから、ノーマル・ルートとはいえ登頂を果たせて思わず嬉しさがこみあげてくる。こちらからも、山口が無事ベース・キャンプに到着したことを伝える。
無事登頂のニュースも入ったので、昼食後、私と小野崎で新ルートとするラインをより詳しく偵察するために、双眼鏡とマチェテ(インディオが使う山刀)だけを持って出発する。サバンナの縁のシダが密生した斜面をロライマの岩壁に向かって真っ直ぐ登りつめると未踏のジャングルにぶつかる。ここまでくると、岩壁がのしかかるように迫ってくる。新ルートに予定したラインはもっと右手、ジャングルに入らなければ観察できない。仕方なく、覚悟を決めて未踏のジャングルの中におそるおそる一歩を踏み出す。
今回、我々は万一毒蛇に咬まれた場合を想定して用意した応急処置剤をベース・キャンプに置いてきてしまったので、もしも体長三メートルもの猛毒蛇「ブッシュ・マスター」にガブリとやられてしまったらそれこそイチコロなので緊張のしどおしだった。
人跡未踏のジャングルの内部は、様々な樹木が窒息するほど密生し、暗くジメジメしていて気味が悪い。頭上から漏れてくるまぶしい光が樹木の肌をまだらに染めている。トゲのある木、巨大なアナナス、サボテンなども見られ、いずれも下部はコケにおおわれている。太陽の光を求めて珍しい寄生木や着生植物も見つけることができる。なかには、コケがすだれ状に垂れ下がっているのもある。マチェテを振り回しながら前進する。たった五十メートル進むのに一時間も費してしまう。この作業は、思ったよりもはるかに重労働で、二人ともたちまち汗びっしょりだ。刃渡り五十センチのマチェテは重いので、すぐに腕が疲れる。右手、左手と持ちかえ、さらに二人で頻繁に交代をくりかえさなくてはならない。コケむした倒木がいたるところにある。ときどき不安定な地面から足を踏み抜くこともあり、足の下はポッカリ空洞になっていたりする。この空洞は凹凸の激しいジャングルのなかの窪地に、朽ちた倒木が折り重なってその上に落ち葉やコケが厚くおおったもので、実際の地面は数メートルも下にある。
ジャングルの中には所々に家のように大きな岩が点在する。(何万年も前にロライマの岩壁から剥がれ落ちたのかもしれない。)その、岩の上に登る。そして目星をつけておいた顕著な大ガリーが、やはり唯一可能な新ルートのラインだと確認してもと来た道を引き返す。
ベース・キャンプに戻ると、美馬と桜井が頂上台地から降りてきていた。この晩、私たち五人はロライマ登頂を祝ってラム酒で乾杯した。ベネズエラ名産のこのラム酒は、ロライマ登頂のときに飲むためにわざわざ運び上げておいたものだ。酒を飲みながら、明日からの行動を打ち合わせる。今日登頂した二人は明日休養し、明後日の二十日から新ルートの基部へのジャングルを開拓してもらい、私と小野崎は、ベネズエラ、ガイアナ、ブラジル三国国境点への縦走を明日から三日間の日程で行うことにする。
美馬たちの報告では、頂上台地には珍しい形をした岩がたくさんある。思っていたよりもはるかに広くて遠くは見えない。樹木は一本もなく、平らな岩盤上に小岩峰が点在している。危険な場所はないので、登攀用具やザイルは不要、ということだったので、国境地点まで片道十五キロメートルとして、三日あれば十分往復できると思えたのだが…。
9 三国の国境地点をめざす
二月十九日。快晴。小野崎と二人で必要最小限のビバーグ装備とわずかな食料だけを持ち、ゆっくりとノーマル・ルートを登りだす。途中、水晶を拾ったり、珍しい小鳥やチョウを鑑賞したりの道草をしたので、頂上台地に着いたのは午後二時十五分になっていた。
予想したとおり、頂上台地には無数の奇岩、怪石があって目を楽しませてくれる。そして、東側(ガイアナ側)から吹き付ける風が冷たい。ベース・キャンプのうだるような暑さがまるで嘘のようだ。赤道直下とはいえ海抜三〇〇〇メートル近いことを思えば当たり前かもしれない。ロライマの北に隣接して聳えるクケナム(別名マテウイ・テプイ)の空母の甲板のように平坦な頂上台地が見える。クケナムの標高は二五九七メートルとしている文献もあるが、まだ確定されていないともいわれる。ベネズエラ政府は一九七七年に、ヘリコプターを使って大掛かりな調査をクケナムも含む周辺のテプイで行っているが、まだ地図に正確な標高は記入されていないという。
ガイアナ側から勢いよく湧き上がる雲のため視界が悪いので、コンパスをたよりに国境地点をめざして北東方向へ進む。ところどころに池があり、いたるところに珍しい形をした岩がある。人間や動物によく似たのやメガネのように穴の開いた岩、仏像や猛獣に似たもの、ギリシャ神殿の円柱、パリの凱旋門、宇宙船…などを連想させてくれるので、眺めて飽きることがない。また、滑らかな岩盤上に刻まれた象形文字のような条溝や、花ビラ状に浮き出たのもある。なかには恐竜の形に近いものまで、まるで前衛彫刻の野外展示場を見てまわっているみたいだ。むろん、南米最古の堆積岩層からなるこれらの奇岩は大自然が二十億年という悠久の時間をかけて造り出されたものだが、このような不思議な場所がはたして他に、存在するだろうか。
どれくらい進んだろうか。突然、おおっていた霧がちぎれて、眼下にガイアナ側のジャングルが出現した。見渡す限りの緑のジャングルがどこまでも続いている。緑のなかに、蛇行してながれるワルマ川(ガイアナ領)がはっきりと見え、英国隊が登攀した北壁の舳先へとつらなる垂直の岩壁も垣間みえる。急いでカメラを取り出して夢中でシャッターを押したが、次の瞬間には深い霧がすべてをおし隠してしまった。(この貴重な写真は一枚だけピンボケで写っていたが、小野崎は慌てていたのでフィルム一本をダメにしてしまった。)
禁断の国ガイアナのロライマ北面方向の光景を初めて眼の当たりにして、すくなからず衝撃をうけていた。ガイアナ側は一部ではなく全部が深いジャングルになっていて、絶えず雨が降り続いている。そこでの登攀はさぞ壮絶なものに違いない。ガイアナ政府の全面的支援をうけたとしても、英国隊の労苦がしのばれる。ヘイミシュ・マキニスは著書『ロストワールドをめざして』のなかで、「ロライマ北面のジャングルは地球上で一番雨が多い…」と書いている。そして、ブラジルおよびベネズエラ側の雨季と乾季がはっきりしているのに対し、ガイアナ側は一年中が雨季で、大雨季と小雨季しかないそうだ。(「ガイアナ」とは豊かな水の土地という意味 。)
おなじギアナ高地でありながら、ロライマを境にベネズエラ側とガイアナ側では気候がまったく違っている。そしてこの気候と瓜二つの場所があったことを思い出すことができた。それは、私たちがよく知っている日本列島の冬の気候である。本州の北陸から東北地方にかけての日本海側および山岳地帯は世界有数の豪雪地帯として知られている。一方、関東から中部地方にかけての太平洋側は好天がつづき空気が乾燥している。「このため空気が乾燥しているので、火の元にはくれぐれも注意し、お風邪などひきませぬよう気をつけましょう…」というのが、冬の天気予報の決まり文句である。
北日本を深い雪のなかに閉じ込めてしまうこの降雪は、シベリアで発達した寒気団が季節風に乗って南下する際、日本海の湿気をたっぷりと吸い上げて雪雲となり、これが日本列島にぶつかって降雪をもたらすわけだが、湿って重くなった雪雲は、日本アルプスをはじめとする広大な山岳地帯を乗り越えることができず執拗に雪を降らせつづける。そして、乾燥した冷たい空気だけがカラッ風となって太平洋側へ吹き抜けていく。
これが、そっくりそのままロライマの乾季にも当てはまる。大西洋からガイアナの低地へと流れ込む北東貿易風と呼ばれる気団は、大西洋の湿気をたっぷり吸い上げて雨雲をつくり、南米大陸にぶつかって雨をもたらすが、ロライマを中心とする周辺のテーブル・マウンテンが城砦のように立ちふさがっているので乗り越えることができず、ロライマ北面におびただしい量の雨を降らせる。そして、ロライマの反対側は乾燥した灼熱の晴天がつづき、長い年月をかけてサバンナ地帯になったのではないだろうか。
10 驚異の頂上台地
霧の中をガイアナ側の断崖に沿って右手にすすむ。小さいが深い割れ目があったので難なく跳び越える。するとまた割れ目があらわれる。その後も次々に割れ目がでてくる。どれも覗くとそこが見えないくらい深そうだった。迂回したり、戻ったり、小さな岩に攀じ登ったりして進んでいるうちに、いつしか四方を割れ目に囲まれた迷路に踏み込んでしまっていた。この割れ目に小石を落としてみると、下で屈曲しているらしく百メートル以上深かった。もし足をすべらせて墜ちたら絶対に助からない。ザイルなど登攀の用具はなにひとつ用意してこなかったことを後悔したが後の祭りだった。
もはや絶対にミスはできなかった。幅一メートルほどの割れ目にひっかかったぐらぐらする岩を渡り終えた瞬間だった。乗っていた岩がいきなり外れて大音響とともに黒々と口をあけた割れ目に落ちていき肝をつぶした。私たちはいつの間にか、コナン・ドイルの小説にでてくるチャレンジャー教授一行が直面した危機にも増して窮地に陥ってしまったようだ。
この割れ目の迷路から、奇跡的に脱出できたときは黄昏がせまっていた。今日は予想外の危険な割れ目にぶつかったが、すでに国境地点にかなり近づいたはずだった。そこで、ぼちぼちビバーク地を決めなくはならない。霧でなにも見えないから、あまり離れすぎないで二人で手分けしてビバーク地を物色していて、小野崎が登山者の踏み跡を発見した。まだ真新しいその足跡を見て私は「ごく最近通ったらしいな。二人連れのようだ。」と言いながらその踏み跡の横に自分の靴型を押してから、アッ、と息をのんだ。なんと、私たち自身が二時間前に通ったときの踏み跡だと気付いたからだ。彼もあっけにとられている。ずっと先へ進んでいると思いこんでいたからショックが大きかった。このときになってはじめて頂上台地の縦走が予想していたよりも遥かに困難な課題であったことを思い知らされた。と同時に自分の計画の杜撰さに腹がたった。しかしまだ二日間あるし、霧さえ晴れれば縦走は可能だと思った。
自分たちの踏み跡を発見したことで、自分たちのいる場所がわかった。ひとまず、頂上台地に登りきったすぐ近くに適当なキャンプ地を見つけておいたのでそこへ向かう。途中、水晶の池と名付けた池を通る。ここには池の周辺におびただしい量の水晶がある。水晶を拾ってポケットに入れるものの、重く歩くのに邪魔なので結局は捨てる。(コナン・ドイルの『失われた世界』では頂上台地でダイヤモンドが発見されるが、ここの水晶をヒントにしたと思われる。)
辺りはすでに暗くなりはじめていた。キャンプ地を捜していると、遠くにかすかに人影が見える。近づいてみると、一昨日、ベース・キャンプに立ち寄った二人の白人だった。案内人のインディオも一緒だった。
彼らのビバーク・サイトは、大きな岩の庇の下にできた岩棚で快適そうだった。昨日から、ここを拠点に撮影を行ったそうで、明日は下山するそうだ。私たちもさっそく近くにゴアテックス製のツエルトを張る。私たちの夕食は、一袋のジフィーズ(レトルト食品)を二人で分けて食べるだけだからアッ、と言う間に食べ終わり、あとは眠るだけ。
翌二月二十日。昨夜は寒くてよく眠れなかったと小野崎がこぼす。私の上衣はトレーナーだけだから同じで、寒さで夜中に何度も目をさました。明け方の気温は摂氏四度だから寒いはずである。昨夜、ツエルトの外に出しておいた食料袋がかじられた形跡がある。これはハリネズミの仕業だと、早起きの白人が教えてくれた。
朝食後、寒さにふるえながら「ちゃっぷい!(寒い)」などと口走りながら、眩しい朝日が射している頂上台地の端に行く。足の下は数百メートルもスッパリきれ落ちている断崖なので見晴らし抜群。芥子粒のようなベース・キャンプをはるか眼下に見おろしながら、トランシーバーで朝の交信をはじめる。昨日は頂上台地の内側にいたので、二回とも交信できなかったのだ。交信後しばらく眺望をたのしむ。褐色のサバンナは今日も快晴で、なだらかな起伏が朝日を浴びてくっきりと浮き出ていた。
ビバーク地点に戻ってツエルトを撤収。今日こそ国境地点に到達するぞ、という意気込みで出発。昨日の失敗から、もっと右側(南側)寄りに方向を定めてコンパスを見ながら慎重に進む。が、一時間も経過しないうちに早くも大きな障害があらわれる。深さ三十メートル、幅四十~五十メートルもの峡谷だった。峡谷の両側は断崖で、谷底はジャングルになっていて小川も流れている。そこは外界から完全に隔絶された一つの完結された世界でもあった。こういう場所でなら、せめて恐竜時代の昆虫くらいは生き残っていて欲しいと思ってしまう。
私たちは、この峡谷の底に降りることにする。ザイルは持ってきてないので、岩の割れ目や灌木や草をつかんで慎重にクライムダウンする。我々には断崖を下降することよりも、ジャングルのほうが手強かった。ジャングルといっても本当は小さなヤブにすぎないが、地表を一メートルもの厚さでコケがおおい、まるで巨大なスポンジに乗ったようにバランスを崩し、一歩ごとに転んでしまう。小野崎は転ぶたびに「これはバランスを崩したんじゃない。あまりの空腹に眩暈がしただけだ!」と言い訳した。だが強がりではなく、私の胃袋も同じように燃料切れを告げる赤ランプが点滅していた。
峡谷の底は意外に暖かい。頂上台地に来てから初めて汗をかく。峡谷の崖をフリー・クライミングで攀じ登ると、今度は大きな岩柱が迷宮のように林立している。登ったり下ったりの連続でなかなか先へ進めない。いつしか平坦で広々した岩盤上にでる。霧でよく見えないのでさしあたり遠くにボンヤリ見える岩塔を目標に進む。霧に巻かれているので、どのくらい進んだのかはっきりしない。ときどき小岩塔の根元にポッカリ横穴が開いていたりする。中を覗くが奥は暗くてなにも見えない。
やがて深く切れ落ちた巨大な谷と割れ目にぶつかる。霧がますます濃くなる。巨大な谷が果たして峡谷なのか、それとも台地の縁の断崖絶壁なのか判別できない。谷底から激しく霧が吹き上がってくるのでよく見えない。しばらく霧と風がおさまるのを待つが、ますます霧が濃くなり暗くなる。激しく咆哮する風の音も弱まる気配がない。ここで、三国国境への縦走を断念して引き返すことを小野崎に相談する。彼も同じ考えだった。(登山終了後カラカスで、国際協力事業団JAICAから派遣の坂田篤稔氏から入手の衛星写真で調べた結果、私たちの到達地点は国境地点からまだ遠かった)
縦走計画を断念したとはいえ、悔しい気持ちは起こらなかった。頂上台地の縦走は、好天に恵まれ日数と食料があれば決して困難な課題はなかった。私たちにはまだ南西壁に新ルートを開拓するという大きな目標が控えていたからだ。
11 未踏のジャングル
小野崎と私が無事ベース・キャンプに帰ったのは、翌日(二十一日)の昼ちかくになっていた。この日、前日から引き続きジャングルに入ってルートを切り開いていた美馬と桜井が、ついに新ルート取り付点までの道を完成させてベース・キャンプに戻ってきた。二人はジャングルに入る際に毒蛇に咬まれたときの応急処置剤「柿タンニン」を身につけて行動していた。ジャングルのなかは我々にとってまったく未知の領域であり、どんな危険が待ち構えているか計り知れなかった。なかでも毒蛇は最大の脅威だった。万一咬まれても十分な治療を受けられる医療機関があまりにも遠かった。そこで、「柿タンニン」だが、東京の「財団法人・日本熱帯医学協会」から入手したもので、血清ではなくあくまでも応急処置剤。使用法は毒蛇に咬まれた箇所を滅菌したナイフで開き、この溶液を注入するだけ。すると瞬時に蛇毒を吸着、解毒するという便利なもの。血清の場合のように毒蛇の種類によっては効き目がないということはない。むろん、あくまでも応急用だから、処置後、すみやかに血清のある病院へ運ばなければならないのは言うまでもない。
美馬たちはジャングルに踏み込む際に、応急処置剤のおかげで不安のなかにも多少の余裕があったことを認めている。ふたりのジャングル伐採の服装は、登山靴にロング・スパッツ、首にバンダナを巻き、長袖の上衣を着用、軍手をはめてマチェテとノコギリを持参。美馬によれば、重いマチェテを振り回すと三十分後に手首が痛み出し、切れも悪くなる。マチェテよりも「土佐ガマ」がジャングル開拓に適しているのでは、と言っていた。
ジャングルのなかに岩壁までのルートが完成したことにより、いよいよ新ルート開拓の準備が万端整ったことになる。まだ誰の手も触れてないラインから登攀してロライマの頂上に立つ。それこそ我々が地球の裏側からはるばるやってきた最大の目的だ。まだ誰も登ったことがない困難極まりない山に登頂すれば「初登頂」で一番価値が高いが、そんな山は地球上に残されていない。そこで新ルート開拓や冬季登攀をめざすことになる。未知の山では最初に成果を残さないとせっかくの苦労が無駄になる。二番目に訪れる者は既に未知でない山に挑むのだから、ラッセル泥棒と同じく苦労しないで成果をあげられる。私はなんとしても新ルート登頂を成功させたかった。
12 ベース・キャンプの休日
お膳立てが整ったところで、さっそく明日から登攀にとりかかりたいところだが、昼間クケナムの上空にレンズ雲がいくつも出ていたので多分明日は雨だろう。それに我々は、カラカスを発ってからまだ満足な休養を一日もとっていなかった。あした二十二日は全員で「骨休め」と決める。
案の定、夜半から雨が降り出し、朝になっても降り続いていた。ロライマは厚い雲のなかに没し、晴天続きだったサバンナにも久々の湿り気をもたらした。昼近く、雨がやんだのでテントの外に出た美馬が、「うわーっ、凄え!滝だ、いっぱい見えるぞ!」と叫んで急いでカメラをとりにテントに戻ってきた。見ると、ところどころ雲が破れて灰色の大岩壁が現れていて、あちこちに白い滝がかかっている。いかにも幻想的な景観だ。このロライマにかかる滝の一本一本の流れが、やがてアマゾン河、オリノコ河、マズルニ河などの諸河へと注いでいる。ロライマが「諸流の父」たる所以だ。
予想したよりも雨量が少なかったせいか、ロライマにかかる滝はどれも小さかった。それよりもクケナムにかかる一本の美しい滝が目をひく。ある統計年鑑には、「世界最長の滝はエンゼルの滝で一〇〇〇メートル、二番目の瀑布がクケナムの滝で落差六一〇メートル」と出ている。もしこの滝が本当に世界第二位だとしたら、高さは約半分、雨後にだけ出現する「かりそめの滝」ということになる。これら岩壁に突如あらわれた滝は、その後晴れてくると次第におとろえやがて完全に消滅した。
ロライマでの生活は、様々なストレスやしがらみから完全に解放されて、山登りだけに純粋に没頭できる反面、山のこと以外の刺激や楽しみがないのも事実だ。山での天幕生活はどんなに仲良し同士でも親友でも長期におよぶと日増しにストレスがたまる。やがて苦痛に感じ、そこから逃げ出したくなるのが普通だ。ヒマラヤ遠征は長期にわたるのが普通だからいろいろ持っていく。私はヒマラヤのベース・キャンプで、インド人の連絡将校と毎日チェスをした記憶がある。だがロライマでは、気晴らしにハリウッド映画を観ることはできないし、駅のキオスクで週刊文春を買って「ロス疑惑」のその後の進展を知ることもできない。
来てから気付いたことだが、せめてカセットデッキでも持ってくればよかったかな、と後悔した。そうすれば銘々が好きな歌や曲をいつでも聴くことができ気分転換になるからだ。我々五人はもちろん唄や曲の好みもそれぞれ違い多彩だ。「オリビア・ニュートン・ジョン」のファンもいれば「山口百恵」や「三波春夫」、なかにはハードロックの「ディープ・パープル」の<スモーク・オン・ザ・ウォーター>に心酔している者さえいる。私は自称世界一の音痴だから唄ではなく、ドヴォルザークの交響曲第九番「新世界より」をここロストワールドでぜひ聴いてみたかった。
午後三時過ぎ、ロライマが雲のなかから全貌をあらわし陽も射しはじめる。美馬はさっそく草の上にマグロのように横になり、足の裏まで念入りに焼く。このクソ暑いのにと感心する。だが努力の成果はすでにインディオより黒かった。さらに、サンタエレナ・デ・ワイレンへ戻ってからブラジル人女性とどっちが黒いかクラベッコして美馬が勝利をおさめたくらいだ。
五時。いつものように蚊が出はじめる。桜井はあいかわらず一匹の蚊と「血を吸わせろ!」「 だめだ!」と、もめている。私は今回持ってきた二冊のロライマ本のうちのコナン・ドイルの『失われた世界』(龍口直太朗・訳/創元推理文庫)を読み返していて、小説に登場するチャレンジャー教授、サマリー教授、ロクストン卿、マローン記者のなかで、だれが自分にあてはまるか想像してみたりした。
この日の夕食のメニューは久しぶりのカレー・ライスだ。食後は、草のうえに腰をおろして遥かなる地平線に沈みゆく金黄色の夕陽を鑑賞する。なんとも贅沢なひとときである。明日はよく晴れるにちがいない。そして明日から開始する本格的な登攀活動にそなえて作戦会議を開き、細かく打ち合わせを行なう。
パーティ編成は美馬、桜井パーティと上村、小野崎パーティに分け、二日間ずつ登攀と休養を繰り返す。登攀の際は、岩壁基部に設置する予定のABC(アドバンス・ベース・キャンプの略で前進キャンプのこと)まで下降して泊まり、休養はベース・キャンプまで下がる。そして、安全のために夜間のジャングル通過は一切やらない、などの事柄を申し合わせる。日程は、私の計算では一日平均高度で四十メートルずつルートを延ばしたとして、南西壁の高度差はおよそ四〇〇メートル弱(頂上台地に登ったときに高度計で計測済み)だから、十日もあれば十分決着がつくと考えていた、のだが…。
13 最後の課題「南西壁」
二月二十三日。快晴。まだ誰も触れていない岩壁に新しいラインを印す記念すべき第一日目の登攀の権利は、体調も意欲も満々の美馬と桜井のパーティに譲る。新ルートの岩壁は完全に垂直であり相当の困難が予想された。必ず登れる自信があっても最終的に失敗してしまうことも多い。全員が登頂できる保障もなかった。私自身が頂上を踏めるかもまだ分らなかったが、この遠征の企画者として、とにかく誰かに必ず新ルートから登頂して欲しかった。このとき私の体調は最悪だった。頭の芯がズキズキ痛み、身体が鉛のように重かった。食欲もなく、下痢もまだ治っていなかった。今朝の朝食は「みそ味のおじや」だったからいつもよりマシだったがコッフェル(食器)に半杯も食べられず残した。さらに、キャラバンのときの日焼けによる両腕一面のヒブクレが、ゆうべ寝返りをうったはずみで裂け、皮膚がやぶれた雑巾のように醜くたれさがり、ヒリヒリ痛くてたまらない。といって泣き言を言っているヒマはなかった。
九時十分、美馬、桜井、そして岩壁基部にABC建設に向かう小野崎の三人を送り出す。午後、山口と二人で、二つ目のテント(私専用のゴアテックス製のツエルト)を設置する。丈夫な木の枝を支柱にし、フレームは弾力のある灌木の細い幹を利用した。入り口は、大きいエスパース・テントの方向(北側)へ向けて、テントのなかから互いに声をかけ合えるようにした。ツエルトの天井には、出発三日まえに明治神宮で買った「御守り」を吊るす。ロライマの資料コピー、書籍と身の回りの品を運び込んで引越し完了。これで今夜から五人全員が窮屈な思いをしないで寝られるだろう。
午後三時半、登攀に向かった二人と小野崎の三人がジャングルの中から戻ってくる姿がベース・キャンプからも見えてくる。さっそくコーヒーをいれる準備にとりかかる。夕食は全員がテントの前に車座になって食べる。そして、登攀第一日目の報告にみんなで耳をかたむける。桜井の報告によれば、午前十一時に、美馬にビレー(確保)されて桜井トップで登攀開始。最初の五メートルが易しい階段状で、それから上はオーバーハングしている。岩がもろく、だましだまし登るので、顔や身体が泥だらけになるし、眼に埃がはいるので眼をあけているのも辛かった。途中で、トップを美馬と代わるがすぐに行き詰る。美馬はジャングルのルート工作で腕を使いすぎ右手に力がはいらなかったらしい。
登攀第一日目は約三十メートル、ルートを延ばすことができた。初日の成果としてはまずまずの幸先のよいスタートだと思えた。夜七時半、冷え込んできたので上着を着て一人ツエルトに入る。カラカスを発ってから初めて昼寝をしたので、あまり眠くならない。ローソクの明かりでたまっていた日記をつける。そのあと赤川次郎の探偵小説をしばらく読んでから眠りにつく。
二月二十四日。初めてツエルトに一人で泊まってみたが、明け方あまり寒いので目が覚め、そのままウトウトして朝をむかえる。日中の猛暑をおもうと信じられない涼しさだ。一日の気温差が四十度近いのだからむりもない。
八時十五分に美馬と桜井が、昨日とおなじように登攀に出発する。美馬たちは、今晩ABCに泊まる。遅れて小野崎もABCまで荷上げに出発する。ベース・キャンプが静かになると、自分だけ取り残されたような惨めな気持ちになる。なぜなら私の両腕のヒブクレはすこしも快方にむかっていなかった。昨日やぶれたところに再びあたらしいヒブクレができていた。肘の部分は化膿してウミがたまっていた。(このヒブクレによるケロイドは、完全に治癒するまでに半年間を要した。)
ABCから戻ってきた小野崎を加え、ベース・キャンプで三人だけの夕食がはじまる。メニューはスパゲッティだ。食後のコーヒーを味わいながら茜色の夕陽がはるかな地平線に沈んでいくのを見ていると、やがて暗くなり闇の空に星がまたたき、そしてサバンナのあちこちで今日もインディオが燃やす焼畑の火がまるで山火事のように赤々と見える。
この日、美馬パーティは、桜井トップで登りだし、草付きにおおわれたトンネル状を泥だらけになって登り、そこから左側へトラバース(横切る)しようとして三メートル墜落。ビレーをしている美馬が「大丈夫か?」と聞くと、桜井は「僕は大丈夫た!」と答えるが、墜落して頭に血がのぼってしまい、すぐ強引に登り直したという。
次の日も桜井トップで人工登攀中に、岩の割れ目に差し込んだフレンズが外れて五メートル墜落しザイルにぶらさがったという。岩壁のほとんどが垂直かオーバーハングしているので、墜落してもザイルが切れないかぎり通常ケガはしない。
新ルート登攀三日目。小野崎と二人で明日からの登攀のためにベース・キャンプを立ってABCへ出発する。ジャングルの手前で、壁の四分の一の高さに達した登攀中の美馬パーティの姿がみえる。ジャングルの中に開拓された登路ははっきりしていて迷う心配はないが、トンネル状のところや丸木橋のように倒木を渡る箇所などの連続で、一歩ごとに樹木の枝や蔓を摑まなければならず通過するのに骨がおれる。
ABCに到着し、一服つけていると美馬と桜井が岩壁から下降してきた。ふたりとも泥だらけの顔をしているので登攀の困難さがわかる。しばらく美馬たちと会話をしてから、ふたりはジャングルを通りベース・キャンプへ下っていった。まだ、日没には時間があるのでお茶でも飲もうということになり、水汲みに行く。テントから十五メートルくらい離れたジメジメした草地に作られたこの水場は、二日前に小野崎がABC設置の際に作っておいたのだが、すでにボーフラが水泳をしていた。コーヒー・カップで水をすくってみると薄いコーヒー色をして濁っている。近くには他に水を得られる場所はないから文句はいえない。ある友人から聞いた話だが、アフリカのアルジェリアの砂漠のなかにあるホガー山群を旅行したときのこと、現地の遊牧民から牛乳を買った。飲み終えようとしたとき、容器のそこにウジがいっぱい沈んでいるのに気付くが後の祭り。その夜からひどい下痢になったという。それに較べればボーフラや泥水くらいでいちいち驚いていてはクライマーが務まらない。
夜、テントのなかでシュラフ・カバーに潜りこんだが、なかなか眠りつけない。今回の遠征が決定してからからずっと準備に追われて一度も北アルプスや谷川岳で登攀していない。果たしてトップで登攀できるだろうかと不安になる。つかんでいる岩が崩れ落ちて奈落の底に墜ちていく自分の姿を想像して悶々としているとき、突然、「バチーン!」となにかがテントにぶつかる音にわれに返る。犯人は人騒がせにも、二〇〇メートルも上部の巨大なオーバーハングの天井から落ちてきた大きい水滴であった。
翌朝。小鳥たちのさえずりで目をさます。目の前のジャングルには、カラスに似た黒色の鳥や緑色の羽をしたインコもいる。登攀には完全武装のスタイルで出発する。心地よい緊張感と興奮が全身を包む。もう、昨夜の恐怖感や一抹の不安は微塵もなくなっていた。
垂直の岩壁に、小野崎にビレーされて私がトップでいよいよ登攀開始。美馬たちが固定したザイルにユマール(吊り上げ機)をセットする。一本のザイルに命を託して自分の体重をかけると、グーンとザイルが伸びて体が横に振られる。一ピッチ目からオーバーハングしているのだ。シャクトリ虫の要領で体をずりあげていく。二ピッチ目はザイルが壁から離れているのでコマのように体がクルクルまわる。桜井たちの到達地点まで登るだけで二人とも汗びっしょり。雨がふりだすが岩壁全体がオーバーハングしているので濡れる心配はない。
登攀をはじめてみると、意外に浮石が多く、岩も柔らかくてもろい。ハーケンを叩きこんでもグズグズで、周りの岩までグラつく始末だ。ロライマ北壁を登攀した英国隊は西ドイツ製のハンド・ドリルを埋め込みボルトの穴あけに使ったが、岩があまりにも硬すぎて役に立たなかったと報告しているが、まるで逆だ。
あらたに二十メートル登ってピッチをきる。そのうえの垂直のフェースを登っているとき、いきなり頭上から五、六個の岩が猛烈な速度で唸りをあげて落下してきた、ように見えたので反射的に首をすくめて岩につがみつく。が一瞬落石と見えたのは、じつはツバメの悪戯だった。ロライマのツバメ達は、垂直の岩壁に沿って弾丸のように急降下してジャングルに激突する直前に直角に方向を変え、こんどはジャングルの上空を矢のように飛び去った。ツバメたちはこの急降下ゲームがよほどお気に入りのようで、その後も毎日おなじ芸当を披露して楽しませてくれた。
垂直のフェースを登り詰めると、そのうえの凹角の出口の岩がグラグラしている。触っているうちに、ひとかかえもあるその岩が壁から剥がれ落ちて一二〇メートル下のジャングルまでどこにも触れずに落下していった。ここで今日の登攀を終了してABCへ引き返すことにする。
翌二十七日。昨日の最終到達地点から上は、岩が硬くなる。色も黒っぽい灰色からピンクがかった白色に変わり、まるでアルプスのシャモニー針峰群の花崗岩に似ている。
握りこぶしが入る広さの、泥がつまったクラックを上り詰めて、オーバーハングした壁から、さらに三十センチも外側にせり出したピナクル(小さな岩塔)のテッペンまで登る。いまにも崩れそうなのでアングル型ハーケンを二本急いで叩き込む。そしてセルフ・ビレーをとり、ザイルを固定してから、下にいる小野崎にユマールを使って登ってくるように知らせる。
頭上にはオーバーハングした白い岩がのしかかっている。ピナクルの三メートル右上に草付きの岩溝が直情している。岩溝のなかを水が流れていることから我々は「流水溝」と名付けた。ここの水は、頂上台地の断崖を伝わって流れているのではなく、壁の途中から流れ出ている。岩壁の内部に頂上台地へ通じる秘密の水路があるのだろう。この嫌らしい「流水溝」の登攀は、明日の美馬パーティに譲ることにして、ザイルを固定して下降に移る。今日はベース・キャンプに下りる日なのだ。
二月二十八日。晴れ。小野崎とこの日は一日中ほとんど何もしないで蒸し風呂のように暑いテントのなかでゴロゴロして過ごす。久しぶりの登攀で全身の筋肉が痛み、病人のように身体が重くて何一つできなかったのだ。登攀でよごれた洗濯物もたまっているが明日にまわす。ここでの洗濯は近くの水場でおこなう。夕方干しても一時間もあれば乾くし水も冷たくないから助かる。この日やったことといえば、三時のおやつに小野崎がつくったオートミールを山口と一緒に食べたくらいだった。
夜の定時交信は、ベース・キャンプからの呼びかけにABCは応答しなかった。美馬たちは登攀で濡れてしまい、疲れていたので早く眠ってしまったのだった。このトランシーバーによる定時交信は、その日の登攀の様子や率直な意見交換ができる貴重な機会である。
三月一日。登攀第七日目。ロライマの上部は帽子のように雲におおわれていたが、陽がのぼるにつれて晴れはじめる。眼下のサバンナは一面の雲海で、南側(ブラジル側)には巨大な入道雲が湧きあがり、ときどきカミナリが轟く。昨日にくらべて大分疲労感も癒えたので、小野崎と山口と三人で、新ルートの岩壁を詳しく観察するために灌木地帯へ移動する。新ルートを真正面に見えるところで、とてつもなく巨大な岩壁の中ほどに、肉眼で美馬パーティの姿が芥子粒のようにかすかに見える。だが彼らは予定した新ルートのラインから右に大きく外れて登っている。このまま登り続けるとやがて巨大なオーバーハング帯にぶつかって行き詰るのは明らかだった。「流水溝」を登り終えてからクラックに導かれて、予定ラインと反対方向へ進んでしまったようだ。正しいラインは「流水溝」の途中からななめ左へ進み、チムニー(煙突状のクラック)を登って頂上へ続くV字型の大ガリーへ抜け出るというもの。それが唯一の論理的登攀ラインだった。
トップの桜井はすでに予定ラインよりも二十メートル右側にいた。登攀中の桜井に向かって小野崎が「ルートはもっと左だぞー!」と大声を出す。(このとき桜井は、声は聞こえたが、どこから声がするのか何と言っているのか分らなかったという。)
私たち三人は高さ数メートルの露岩のうえで、双眼鏡を使って岩壁を観察していた。どこからともなく爆音がきこえてきた。みると、サバンナの彼方から一機のヘリコプターがベース・キャンプへ向かって真っ直ぐ近づいている。ロライマは我々の他に誰もいなかった。サンタエレナ・デ・ワイレンを発ってから既に二週間余が経過していた。国境警備隊がヘリコプターで我々の様子を偵察にきたのだった。ヘリコプターはベースキャンプの上空でなんども旋廻したあと、テントの真上十メートルでホバリング(空中停止)。日本人がテントから出てくるのを待っているようだったが、生憎全員が、ベース・キャンプから一キロメートル以上離れた場所にいた。ヘリコプターは諦めたらしくベース・キャンプからはなれて上昇し、頂上台地をまわった後、こんどは南西壁に沿って左から右に飛び、そのままサバンナの彼方に消えていった。桜井たちのすぐ近くを飛んだはずだが、岩壁があまりにも大きすぎて見つけられなかったようだ。
ベース・キャンプでの我々の生活は単調そのもので変化がない。ヘリコプターの爆音を聞いただけでも少しは気分転換になる。唯一の楽しみと言えば粗末な食事とすでに読み終えた小説を読みかえすくらいだ。ロライマでは、たまには気分転換に赤ちょうちんで一杯というわけにはいかなかったから、新ルート登攀という目標に向かってひたすら「おしん」のように耐えなければならなかった。だからこそ、もしも目的が果たせずに失敗に終わったときの反動が怖かった。
この日の昼下がり、ベース・キャンプ近くの岩陰で、登攀中の桜井たちの姿を双眼鏡で追っていた。トップで登っているのは多分桜井であろう。すでに一時間も前からオーバーハングの下で悪戦苦闘していた。気温摂氏五十度(湿度五パーセント)というキチガイじみた暑さと眩しさのため、サングラスをはずして双眼鏡を覗くだけで眼が痛くなる。ふと、双眼鏡のレンズから眼をはなしかけた瞬間だった。何かがスー、と岩壁から落下したように見えた。落石か、ザックでも落としたのかな、と思いながら再びトップの位置に焦点を合わせてみる。が、トップの姿がいない。何度みても姿がみつからない。私はすぐに小野崎に「とうやら桜井が墜ちたらしい…」と言って双眼鏡をわたす。アリの生態を観察をしていた彼は「桜井君もよく墜ちる人だね…」と感心しながら岩壁に焦点を合わせている。五年前、彼は奥多摩の日和田山という高さ十メートルほどの岩場でトレーニング中に、三メートル墜落して左足を複雑骨折して病院に二ヶ月間入院した実績がある。
それにしても、欠かさず毎週岩登りに通いまだ一度も墜落したことがない桜井が、すでに三回目である。明らかに普通ではない。練習場でならまだしも岩壁登攀で墜落して助かるのはまったくの僥倖でしかない。これは、ロライマの巨大な岩壁のスケールに圧倒され翻弄されているからかもしれない。
桜井の姿はじきに見つかった。オーバーハングから十メートル下にさかさまに宙吊りになっているらしい。一瞬いやな予感がした。というのも彼が使用しているハーネスは、ロライマ北壁を初登攀した英国のドン・ウィランスが考案し、世界中で使用されているトロール社製の「ウィランス・ハーネス」だった。非常に優れていて、どんな姿勢から墜落しても決してさかさまにはならないはずだった。墜落で死亡するケースとしては、壁への激突、ザイルが絡まっての内臓破裂や窒息死などがある。もしや、と思うと不安になる。異変に気付いて山口もテントから出てきた。二分、三分と経つがまだ動かない。セカンドの美馬が何か大声で叫んでいる。我々は岩壁を凝視した。だが、まもなく桜井が動き始めたので不安は解消。やがて岩壁の二人は合流し、固定ザイルを伝わって下降をはじめた。彼らはベース・キャンプに下ってきた。登攀を交替して休養するためだ。(墜落時の様子を桜井は、振り子のように体が揺れ、さかさまになって墜ちていく瞬間、もうダメだ助からない!! という思いが頭をかすめ、あとは何もわからなくなった、と語っている。)
午後五時四十五分、五人全員が揃ったところで夕食の準備にとりかかる。夕食のメニューはいつも決まっていて玉ネギを浮かべたマカロニ・スープと、五人で一個の缶詰だけという侘しさ。おまけにコメ(スペイン米)がまずく、塩をたっぷりかけなければ食べられない。いつしか私たちは皮肉をこめて「ロライマ定食」と呼ぶようになっていた。この「ロライマ定食」をみるたびに食欲がなくなっていくので、むりやり腹に流し込む方法を発明した。それは、塩をまぶしたごはんに、スープをかけてお茶漬けのようにしたものを「野良ネコ」のように素早く食べることだった。
夕食後は、ホタルが飛び交う外で、焚き火を囲んでコーヒーや紅茶を飲む。このときが蚊もいなくて涼しく、一日のうちで一番すごしやすい。医療係の美馬が、各自テントに戻ってからマラリヤ予防薬「グラプリン」を全員に配る。この薬は、毎週一回二錠服用する。今日はちょうどこの薬の服用日にあたる。我々は日本出発前の一月二十五日から服用を始め、ロライマ登山終了後も飲みつづけなければならない。かなり面倒だが、熱帯の国を訪れるためには黄熱病やコレラの予防接種とおなじように決してマラリヤ対策もおろそかにはできない。以前、ボルネオに遠征したことがある。そのときはマラリヤ予防薬として「キニーネ」を飲んだ記憶がある。
次の日の朝、小野崎と一緒にベース・キャンプを出発し、ジャングルを越えて登攀を開始した。二日前、桜井たちが拓いた垂直の「流水溝」はいっぱい泥水がたまっていた。私は固定ザイルにぶらさがりユマールで体を引き上げながら、「ロライマの岩壁で田植えができるとは夢にも思わなかったよ!」とジョークを飛ばすと、「それじゃ、コシヒカリでも植えときますか!」と農家の長男らしい具体的な答えが返ってくる。固定ザイルは昨日桜井が墜落したときのままになっていたので、まずその回収のために改めて登りなおす。
昨日の最高到達地点まで登り、残置ザイルを回収してから、ビレーしている小野崎の頭上数メートルまで下降。そこを支点に振り子トラバースで左側へ移動する。途中、水平に一メートルもとびだした巨大なコケの塊に遭遇する。大木にしがみつく蟬のような格好でジリジリと移動する。コケはたっぷり水を吸収していておまけにブヨブヨなので濡れて冷たい。ずり落ちそうになって慌ててハンマーを振るうと濡れたコケの内部は乾燥しきっていて土煙があがる。それが上昇気流にあおられて眼に入り痛くてたまらない。オバケゴケを越えると再び濡れた草付きで足場が悪く滑り墜ちそうだ。見ると目の前に木の枝の形をした岩があったので急いでランニング・ビレーをとる。そして、そこからテンション・トラバースで人がやっと通れそうなトンネル状の岩棚に這い上がる。邪魔な枯れ草や落ち葉をどかしながら腹ばいになって匍匐前進する。
突然、目のまえから数羽のハチドリが飛立つ。よく見ると近くに小鳥の羽がいっぱい。どうやらハチドリの集合住宅を壊してしまったらしい。小鳥の巣を荒らしてしまったことに心が痛むがどうすることもできない。トンネル状の岩棚の先は、一人がやっと立てるテラス。きわどいバランスで岩の割れ目にフレンズをセットしアングル型ハーケンを二本打ち込んでザイルを固定してからセカンドに「登ってよし!」の合図をおくる。
テラスは大ガリーの下につづくチムニーの一番下にある。これでようやく、予定したルートの大ガリー下部に到達したことになる。ここは、まるで高層ビルの窓の外に立つ感覚だ。高度感満点で眼下にベース・キャンプが小さく見える。小野崎が登り着いたときは薄暗くなりはじめていた。急いで余分の登攀用具をデポし、固定したザイルを伝わって懸垂下降する。
岩壁基部に降り立ったときは完全に真っ暗だった。ヘッドランプの明かりをたよりに岩壁とジャングルの境に拓いた道を歩いてABCに戻る。二人とも、ズブ濡れなので、すぐに枯れ枝や椰子の葉を燃やして体を温める。ときおり、闇のなかから「ギャーッ!」という気味の悪い鳥の啼く声がジャングルの静寂を引き裂く。また、燃えている枯れ木の穴から不意に毒グモがバネ仕掛けのように飛び出してビックリさせてくれる。
ABCの夕食は、手間がかかるのでごはんは作らない。日本から運んできた唯一のインスタント・フーズだから簡単だ。今夜はスキヤキのジフィーズなので豪華版だったが、一袋を二人で食べるのだから量はスズメのナミダ。いつものようにアッという間に食べおえる。食後のささやかな楽しみは紅茶を飲むことくらいだ。小野崎がいつものようにボーフラが浮いた水でつくった紅茶を自分のコッフェルに注ごうとして目をまるくした。見るといつ飛び込んだのか緑色のカエルが行儀よく正座している。彼はすかさず「冗談はよしてくれ!」と、そのカエルに真顔で文句を言った。
14 苦闘のルート開拓
次の日、いよいよ大ガリーの下に延びるチムニーの登攀にとりかかる。このチムニーを突破して大ガリーに抜けることができれば、その上部は傾斜が落ちているので(双眼鏡で確認済み)完登のメドもたてられる。垂直のチムニーの高さはだいたい八十メートルで、その一番上部に巨大なオーバーハングが立ちはだかっていた。そして、この部分こそがルート全体を通しての核心部と思われた。
昨日の到達地点が今日の登攀のスタートになる。すぐ左が問題のチムニーだ。ここからは足の下が深く抉られていて下は見えない。そのまま二〇〇メートル下のジャングルまで一気に切れ落ちている。チムニーは垂直とかぶり気味の傾斜でコケがはえ、水がしたたっている。濡れながらコケをむしり取り、ハーケンを打ち込めるクラックやリスをさがすが見つからない。岩の表面は滑らかで節理がほとんどない。その両側は丸みをおびたオーバーハングなので、仕方なくチムニーを人工登攀で登りだす。水がしたたるグズグズの岩にハーケンを打ち、アブミをかけて体重を乗せる。ハーケンがいまにも抜けそうだ。次のハーケンを打つために濡れた草を引き抜くとその下は大谷石のようにやわらかい岩だ。ハーケンや埋め込みボルトを何本も打ち込むが、どれもグラグラであまり効いてない。登攀は遅遅としてはかどらず、時間だけが確実にすぎる。気がつくと下降する時間になっていた。
したたる水を浴びているとはいえ、トップは目の前の岩と必死に格闘しているから汗びっしょりだ。反対にセカンドは私の真っ直ぐ下で、狭いテラスから上を見上げてザイルを握り締めてずっと確保しつづけるので寒さにふるえている。結局、この日は丸一日がかりでたった五メートルしか高度を稼げなかった。この日こんなに悪戦苦闘したのには理由がある。グズグズで柔らかい壁に打ち込むのに有効なアングル型ハーケンが足りなかったからだ。そのハーケンは下部のピッチで固定ザイル用に使ってしまっていた。我々は全部で二十本の各種ハーケンしか持ってきてなかったのだ。
一九八〇年代の現在の登攀技術をもってすれば、十分な装備と余裕のある日数と天候に恵まれさえすれば、いまや世界のどんな僻地の大岩壁も登攀可能と言われている。事実、そうしてこれまで不可能視されていた世界各地の大岩壁が次々に征服されてきた。だから最近は物量作戦(ヒマラヤでは頂上まで数千メートルものザイルを固定してそれを伝わって登ることさえある。)は、あのラインホルト・メスナーを筆頭に世界のトップ・クライマーから敬遠され、極地法で開拓されたルートのアルパイン・スタイルでの登頂、無酸素登頂、冬期登攀、など「登山の内容」が重要視される趨勢になってきている。私たちはその点、バスに乗り遅れまいと流行にとびつく余裕もなく、最先端の装備も十分買えない名もなき貧しい遠征隊であった。必要な登攀用具が足りなければ工夫するしかなかった。
そこで、下降しながら下部岩壁の固定ザイルに使われているハーケンを間引きし、代わりにナッツや埋め込みボルトを打ち足して補強することにした。
この夜、ABCからベース・キャンプへの交信で、この日の登攀成果をつたえると彼らは明らかに失望した様子だった。すでに登攀九日目だというのに、まだ核心部を突破できず完登のメドも立っていなかった。本来なら、美馬パーティと交替するため明日ベース・キャンプに下ってもよいが、二日間の成果がたった五メートルで休養するのは気が重い。明日もう一日だけ小野崎とふたりでルートを延ばしてみるつもりだった。そのことを伝えようとしていると、先にベース・キャンプからよくないニュースが報告されてきた。
それは、美馬の右足指の裏が化膿したように腫れあがったので破いたところ、なかにコメ粒大のダニの卵が産み付けてあり、これを掘り出すと血が噴出して穴ができたので当分登攀はできない、と言ってきた。右手首の脹れもまだひかないというのに美馬にとっては踏んだり蹴ったりの災難だが、我々のチーム全体にとっても痛手だった。パートナーがいなくなった桜井が単独で登攀することは論外であり、三人パーティにすると後続の二人が上部からの落石の標的になるだけだった。結局、完登のメドがたつまでこのまま登攀を続行することにしてそのことを伝えた。
三月四日。今日もまた一本のザイルに命を託してユマーリングを開始する。一ピッチ目の固定ザイルは完全にオーバーハングしているため、連日の登降で酷使されていて痛みが激しく、伸びきって毛羽立ち半分くらいに細くなっている。いつ切れるか怖くてたまらない。二ピッチ目の上部に岩角とこすれている箇所があり、そこだけ大きく毛羽立っている。このままでは固定ザイルはいずれ切れてしまうに違いない。上部の二ピッチにはザイルの滑りが悪くなるフレークの間をとおる箇所や岩角と擦れるところがあるためにザイルをダブル(二本)にしている。全部の固定ザイルをダブルにすれば安全だが残っているのは、あと一本だった。それも、登攀中のチムニーに固定するためのものだった。唯一の解決法はとりかえしのつかない惨事が起きないうちに、一日もはやく登頂を果たして登攀を終了してしまうことだった。だが現実は完登のメドさえたっていなかった。
前日の最高到達点から、ハーケンをたくさん打ち込んで少しずつ高度を稼ぐ。濡れたコケや草を引き剥がすと、いつものように中からいろんな生き物が這い出してくる。毒グモ、トカゲ、ヤスデ、サソリ、毒カエル(黒地に白い斑点がある)など盛りだくさんだが、珍しがっている余裕はない。これらの生き物やコケや泥は、私のまっすぐ下でザイルを握って必死に確保している小野崎の頭上に雨アラレと降り注ぐ。彼はハンマーで落下してきたサソリやトカゲを容赦なく叩き潰す他なかつた。草を引き抜くと、その下にクラックがあったのでフレンズを差し込んで引っぱってみる。大丈夫そうなのでアブミをかけて徐々に体重をかけはじめた瞬間、ふいにフレンズがはずれてあやうく墜ちそうになり、心臓が止まりそうになる。墜ちそうになったからではない。フレンズが外れたときに、クラックの左側のひとかかえもあるピナクル状の岩がグラッ、と動いたからだ。この一トン以上もある岩が崩れたら十五メートル下にいる小野崎は間違いなくペシャンコで、私もおそらくゴミのように空中に弾きだされただろう。彼に注意を促すが、井戸の底のようなテラスにいるのでどうすることもできず、顔を引きつらせて見上げるほかなかった。
このグラグラする岩に刻まれたクラックをだましだまし攀じ登りきると、その上に別なピナクルが出現する。そのピナクルに跨って、左側のふやけた岩の割れ目にフレンズをセットし、アブミに乗る。ここでピッチをきる。アブミに乗ったまま、岩に埋め込みボルトを二本打つ。ここの赤みがかった岩は信じられない硬さだった。ロライマの硬質砂岩が硬いという予備知識はあったが、これまで柔らかい岩やもろい岩が大部分だったので、やっと予備知識どおりの硬い岩に対面できたと喜んではいられなかった。普通、一本の穴を穿つのに五〜八分でことたりるものだが、この赤みがかった岩では二本のボルトを埋め込むのになんと二時間半も要した。キリを四本ダメにし、両手の手のひらがマメだらけ、しまいにはマメがつぶれて血が滲んでいた。
ボルトを打ち終え、ザイルを固定するとすでに薄暗くなってしまっていた。下降の準備をしなければならない。今日はなんとか十五メートル、ルートを延ばすことができた。が、このままのペースでは核心部分を抜けるのに幾日かかるか分らない。それに、まだチムニー上部には巨大なオーバーハングが我々を嘲笑うかのように待ち構えていた。
今日もまた、暗くなった岩壁をエイトカン(下降器)にザイルを絡ませて滑り降りる。暗いのでときどきバランスを崩して岩にぶつかりながら、いつしか下降のスピードがつきすぎる。ジュラルミン製の「エイトカン」がザイルとの摩擦で火のように熱い。ときどきスピードを調整しないと熱でザイルを溶かしてしまいかねない。私のハーネスに着いている「エイトカン」はすでに連日の酷使で金属に深い溝ができていて、いつ「エイトカン」がポッキリ折れるか心配だった。懸垂下降中の事故は絶対に助からないからだ。
この夜のベース・キャンプとの交信で、二ピッチ目のザイルが毛羽立っているので、明日、岩角と擦れている部分に「当て物を」するように桜井に伝える。そして、今日の到達地点からチムニーがどのくらい続いているかを聞くが、ロライマは一日中雲の中だったことと、ベース・キャンプの食料が残り少なくなったことを知らせてきた。そういえばABCの食料もあとジフィーズが三袋残っているだけだった。状況は日増しに確実に厳しくなっていた。
次の朝、あまり元気がないので小野崎に、「一度ベース・キャンプに降りて休養するか?」といってみた。今、ベース・キャンプに降りたら二〜三日登攀できなくなる。そうなれば食料も底をつき、ベースキャンプを撤収して下山しなければならず、新ルート開拓は断念しなくてはならない。彼もそのことがよく解っているから、「今日一日だけやってみて、せめて完登のメドだけでもつけてから降りる」と言ってくれた。私も悔いを残さず納得できるまでもう少しやってみようと思っていた。
ここまできて、食料が足らなかったから、ザイルが足らないから、困難すぎるから、という理由での断念はとてもできなかった。もし中途半端な気持ちでこのまま下山すれば、一生後悔することになると思えた。
私たちは登攀用具に身をかため、いつものように固定ザイルをのぼりだす。切れそうな箇所はないかと気をつけながら体を引き上げる。二ピッチ目の、岩と擦れている箇所につく。足を踏ん張って固定ザイルを壁から浮かせてみると、大きく毛羽立った外皮が破れて芯の繊維がはみだしていたので青くなる。昨日は芯が見えなかったからだ。持っていたカラビナに巻いてあるビニールテープをはがして切れかかった箇所に巻く。
昨日の到達地点に付き、すぐに登攀を開始する。埋め込みボルトを打った場所から左側へ回り込む。きわどい姿勢で草をつかみ、ハーケンを打ってランニング・ビレーをとる。そこから今度は右へ斜上して再びオーバーハングしたチムニーに戻りはじめる。かぶり気味なので踏ん切りがつかず、テンション・トラバースでなんとか洞穴状のチムニーに這い登る。中は深いがチョック・ストーン(割れ目に挟まった石)や岩屑が詰まっている。ヘキセントリック(一番大きい六角ナット)を岩屑のなかに投げこんで引っ張るとガラガラと崩れる。その落石がどこにもぶつからずジャングルの中に吸い込まれていく。
チムニーまで登れたが、ザイルがZ型になって滑りが悪くなり、確保しているセカンドと「ザイルをもっと緩めろ!」「緩めている!」と互いに見えない相手に大声を出し合う。ここの岩は柔らかい。気休めのハーケンを三本打ってから登り出すが二メートル上で行き詰まる。ここはハーケンもボルトも効かない。フリーで突破するほかない。だが、チムニーのなかは上に登るほどせばまり、つかまる手がかりがなにもなく外側にふりだされる。もしここで墜落すると確実に二十メートル落下するので、なかなか踏ん切りがつかない。
オーバーハングしたチムニーの上端を、フリー・クライミングで突破しようと、かれこれ二十回も試みた末、ついに決死の覚悟で一気にオーバーハングを突破して外傾した岩棚に這い上がる。難所を乗り越えたものの、ヘトヘトに疲れきってしばらく何もできなかった。心臓は激しく鼓動し、咽はカラカラ、眼のなかにゴミがいっぱい、口の中は砂でジャリジャリだった。
岩棚の奥の壁が岩というより粘土のように柔らかかったので、アングル型のハーケンを根元まで打ち込む。少なくとも人間一人の体重は支えてくれると思った。セカンドにユマールで登ってくるように伝える。やがて、チムニーの出口からヘルメットが現れ、小野崎の顔も見えてきた。その時だったグリップ・ビレーしている私の腕が勝手にググッ、とうごいた。見ると根元まで打ち込んでおいたハーケンが抜けかかっている。チムニーの出口がテコの作用で強い力が加えられたのだ。ハーケンが抜けてしまったら間違いなく二人とも一巻の終わり。「ハーケンが抜けそうだっ!」と叫んだ。だが彼はそのとき回収した登攀用具をハリネズミのように身につけていた。私が空身で決死の覚悟でやっとのおもいで突破した場所で彼はただ狂ったようにもがき続ける。
ハーケンが完全に抜ける寸前、私はとっさにザイルを腰にまわして腰がらみ確保にスイッチしたが、岩棚が外傾しているので危なく前にのめりそうになる。ジリジリと外側へ引きずられていく。彼の体重に登攀用具を合わせると八十キログラム余りの重さだ。それを腰がらみで長く支え続けるのは無理だ。このままではじきに二人とも力尽きてしまう。たちまち私の腕はしびれ、ザイルが腰に食い込み骨がみしみしいっている。「腰の骨が…折れる、はやく…」と呻くのがやっと。
最後の力をふり絞ったセカンドが登りきったときは二人ともヘトヘトに疲れきり、しばらくは放心したように肩で息をし、声もでなかった。
やっとチムニーを乗り越えたと思ったら、頭上にはまだ巨大なオーバーハングがのしかかっている。いったいこんなピッチがどのくらい続くのだろう。五メートル上に小さなハングがある。
アングル型ハーケンを根元まで打ち直してビレーをとり、ひとまず数メートル上のフェースまで攀じ登る。さらにその上部を観察するため、私がリードしてトップで登り出す。
いつも私がトップなのは「ロビンス・シューズ」の靴をはいているからだ。今回のロライマ遠征の靴は、各自ベース・キャンプまでのアプローチに履く運動靴と、登攀用の重い登山靴を持ってきていた。万一、毒蛇に咬まれても平気だからだ。欠点は重いことと繊細な登攀ができないこと。小野崎は登山靴の他にフリー・クライミング用の「EBシューズ」を持ってきたがこの靴はフリクションが効く乾いた岩に向き、濡れたロライマの岩壁には使えないので登山靴を履いていた。英国製の「ロビンス・シューズ」は、ヨセミテ渓谷の大岩壁登攀用に開発された軽登山靴で、ハーフ・ドームを初登攀して神様と呼ばれた米国人ロイヤル・ロビンスの名が付けられている。この靴は六年前に、ノルウェーのトロール・リッゲン柱状岩稜(高差一六〇〇メートル)やスモール・ボッティン北壁初登攀に使ったまま埃を被っていたのを引っ張り出してきたのだった。
外傾した岩棚の上は高さ数メートルの垂直の凹角だった。凹角の幅は一メートル。両足をひろげて手と足を突っ張って体を引き上げる。登りきるとそこに太い木の根があり、その根からランニング・ビレーをとり、上を見ると洞穴がある。下の岩棚からは見えなかったがかなり大きな洞穴でなかは暗くて見えない。登ってきたチムニーは洞穴の右で終わっている。その上は滑らかなスラブが大きくオーバーハングしているので、大量の埋め込みボルトを投入しなければ突破できないが、その埋め込みボルトも、これから使う固定ザイル用の一本しか残ってなかった。
ここで完全に行き詰ってしまった。チムニーが頂上台地への大ガリーと繋がっていなかったことは予想外で、もはや万事休すだった。そして、今日中に完登のメドがつかなければ終わりだ。もうすぐ黄昏がはじまる。ロライマに来て、このときはじめて「敗退」の二文字が脳裏に浮かんだ。
ふと、目の前に黒く口をあけている洞穴に視線を投げる。もしかしたらオーバーハングの上に続いているかも知れないという考えがうかんだ。コナン・ドイルの『失われた世界』と現実は違うとわかっていても真っ暗な洞穴のなかを覗いて天井を見上げた。思ったとおり、天窓のように穴が開いていて光が漏れている。穴はせいぜい野球のボールくらいだった。「やっぱりダメか…」と自嘲気味につぶやいてタメ息をつき、引き返すまえに気持ちを整理するために洞穴のなかでタバコに火をつける。もうジタバタしても仕方なかった。はやくも敗退の言い訳を考えてみた。
タバコを喫いおえてから、何気なく天井を見上げてハッとする。暗闇に目が慣れてみると天井の穴がはるか遠くに見えたからだ。もしかすると通れるかもしれない、と思ったとき無意識のうちにゆっくりと手足を突っ張って登り出していた。洞穴内の様子は暗くてよく分らないが、何とか登れそうだった。上に行くほど狭くなり、しまいには体の向きを変えるどころか顔のむきも変えられなくなる。なんどもズリ墜ちそうになりながらも四十分を費やして天井の出口の下までたどり着く。穴から顔を出そうとするがヘルメットがつかえてでない。仕方なくヘルメットを脱いで外に出す。次に登攀用具を胸からはずして出す。つぎは頭と右腕だけを出すが、どうしても胴体がでない。そこでザイルをたぐって口にくわえ、左手だけで腰のウィランス・ハーネスを苦労してはずして左手でつかみ、腕立て伏せの要領で穴の外にころがりでる。そこは巨大なオーバーハングの真上だった。そして反対側は草付きの易しそうな浅いガリーが上に延びていた。ついに核心部を抜けたのだった。このときはじめて、新ルートは完登できると確信できた。小野崎の身体は私よりも一回り大きく洞穴の穴は通れない。一度洞穴のなかのザイルを上に引き抜き、改めてオーバーハングの外からザイルを投げ落とす。そのザイルをつかんでハーネスに結び、ユマールで登る。
二人が合流したとき、すでに暗くなりはじめていた。すぐに下降するか、それとも核心部を突破したいまこのまま登頂してしまうか、決断しなければならない。今から下降をはじめても途中で暗くなる。それとも一日もはやく登頂するかだ。私たちは登攀続行を選択した。これまでのピッチがオーバーハングの連続だった。これからはフリー・クラミングなので比べものにならないくらい早く登れる。そしてここからは先は固定ザイルが不要になる。一本のザイルを二人で結び合い、トップを交替しながら登攀できる。
草とコケにおおわれた岩溝のなかのチョック・ストーンや倒木を利用して快適にルートを延ばしていく。途中、一メートルくらいのオーバーハングしたチョック・ストーンが立ちはだかっていたが、岩の上から親切にも体重を支えてくれそうな木の枝がとびだしている。ハングの下から岩を背負う格好で、シュリンゲに二枚のカラビナを通して、木の枝めがけてなげ縄の要領で放り投げる。(十年以上前に、谷川岳の衝立岩を登攀中、残置の埋め込みボルトが折れていたので同じ方法で乗り越えたことを思い出す。)都合よく、シュリンゲが枝に絡まってくれたのでアブミを使って難なくそこを乗り越える。その上部は、岩溝に大きな岩が無造作に積み重なっていて、一番下にトンネルの穴があり、潜りぬけると倒木が折り重なった広場にでる。ここでピッチをきる。
ここからは、ベース・キャンプからよく見える頂上台地へ深く食い込んだ大ガリーがはじまっている。ガリーは幅四十メートルくらいで、両側は高さ百メートル近い垂直の一枚岩で、黒色をしている。ガリーの奥は密生したヤブではよく見えないが、頂上は近いと思われた。
15 辛いビバーク
広場に小野崎が着いたとき、急に雨がふりだす。時刻は午後六時半。登頂は予想してなかったのでふたりとも雨合羽はもとより、交信用のトランシーバーや食料も持ってきてなかった。といって真っ暗闇のなかをABCに下降するのはいまや危険すぎた。もはや適当なビバーク地をさがさなくはならない。今夜は濡れたままの辛いビバークになるぞ、と覚悟をきめて先へ進む。木の根や草をつかんでがむしゃらに進んでいると、完全に真っ暗になる。一個しかないヘッドランプの明かりをたよりに登りつづけると、高さ数メートルの垂直の凹角があらわれる。
雨の中、弱い明かりをたよりに、チタン製のハーケンを打ち、アブミを使って乗り越えてから、椰子の木でビレーをとり、セカンドをひきあげる。そこから再び真っ暗な茂みのなかを泳ぐように進んでいる時、突然、頭上で大きな鳥のはばたきと「ギャーッ!」という啼き声が聞こえた。さらに威嚇するようになにかが近づいてきた。私はとっさにコナン・ドイルの小説にでてくる翼竜を思いだして「翼竜だっ!」と口走っていた。かすかに西の空にすかしてみると、この正体不明の怪鳥はジグザグに飛翔しながら「カキン、カキン!」と金属音を発して頭上数メートルまで接近したので、思わず腰にさげていたハンマーを握り締めて襲撃に備えた。しかしその直後、雨がドシャ降りになると怪鳥はどこかへいってしまった。(帰国後しらべてみると、怪鳥の正体は大型のコノハズクらしいことが分った。)
激しい雨の中、またもや高さ十メートルもの垂直の壁が出現する。ハーケンを打ち、アブミを使っての人工登攀となる。アブミに乗って登りだすが、雨がはげしくて上を見上げることができない。指先もかじかんで力がはいらなくなる。こんな状況ではもう進めないので、仕方なくビバーク場所を物色しはじめる。頂上台地はすぐ近くに感じられるが、ロライマはテプイ(悪魔の山)の名にふさわしく最後の最後まで我々を苦しめ、容易に登頂を許可してはくれないらしい。
すでに弱々しくなりかけていたヘッドランプの明かりで足元を照らしながら、大きな岩の側へ回り込んだとき、パックリ口を開けた底なしの割れ目があった。あの、頂上台地で遭遇したのと同じだと直感し、頂上台地が近いことを悟る。古井戸のような穴のなかを照らしてみるが深すぎて光がとどかない。小石を落としてみると、いつまでも反響が消えなかった。
ヘッドランプの電池のスペアは持ってきてないので、これ以上動き回るのは危険だった。まもなく、上が庇のように迫り出した岩を見つけてビバーク地と決める。ビバークといっても食料もコンロも寝袋もなく、横にもなれず、ずぶ濡れのまま濡れた岩に腰かけ、一睡もできないで朝まで寒さに耐えて震え続けるほかなかった。水が流れているので壁に寄りかかることもできない。泥水をしぼった手袋をはめ、腋の下にはさんで寒さをこらえる。
ながい拷問のような夜がはじまる。最後の一本の「ベルモント(ベネズエラのタバコ)」を喫いおえてから、二人で足元のシダの葉とコケを燃やそうと試すが濡れているので無駄骨だった。小野崎は、十分おきに百円ライターの明かりで自分の腕時計を覗いて「あれ、この時計また狂っている。まだ十分しか経ってないはずはない。一時間以上過ぎてなきゃおかしい…」と時計にあたり散らしていた。
七年前、私はふたりの仲間とカナダ・ロッキーの大岩壁エディス・キャベル北壁を三日間を要して「いわひばりアルパイン・ルート」を開拓している。その二日目の夜のビバークは、今回のロライマのビバークよりも壮絶だった。頂上まであと三ピッチの地点でやっとビバークの体制がとれたのは猛吹雪のなか午前三時だった。横になれる場所はなく、なんとか腰かけられる岩棚は二人分だけ。しかも仲間のひとりは前日の登攀中に手首を複雑骨折していた。私はアイゼンの爪先で立ったままザイルにぶら下がっていた。足の下はスッパリ切れ落ち、頭上からはひっきりなしにチリ雪崩が落下してくるので生きた心地がまったくしなかったことを覚えている。
エディス・キャベル北壁の標高差は一二〇〇メートル。当時北壁は、イヴォン・シュイナード、フレッド・ベッキー、クリス・ジョーンズといった世界的な登山家によって開拓されたルートしかなかった。
やがて長い夜も終焉をむかえ、ボンヤリと辺りが白みはじめる。すぐ近くに仏像によく似た形の岩のシルエットが浮かびあがり、ビバークした洞穴状のチムニーの上から長く垂れ下がった草の先端から、宝石のような雫がしたたり、いかにも幻想的な景観だが、ゆっくり風景を堪能している余裕はなかった。足踏みをして痺れきった足の感覚を取り戻すためにストレッチをする。
いよいよ登攀再会。空は一面の雲だが雨が降りそうではない。昨日、取り付いてやめた垂直の泥だらけの凹角を人工登攀で難なく乗り越える。その上は、頂上台地から延びた深い割れ目がいくつもあり、変化に富んでいる。まるで迷路の中にいるようだ。かぶり気味のもろいチムニーをフリーで越えると、前方に頂上台地がみえてきた。目の前の約二十メートルの小岩峰があらわれる。台地とほぼ同じ高さだ。小岩峰を登ると幅三メートルの両側が垂直に切れ落ちた尾根になっていて頂上台地につながっていた。
16 いわひばり・ルート初登攀
すでに周辺の景観は、台地縦走のときに見たのと同じ不思議な造詣のオンパレードだった。すぐ近くにみえるのは、ピサの斜塔に似た岩だったりギリシャ神殿の未完の円柱を想像させる岩が無造作に散らばっていたりする。いまや後方眼下に見える大ガリーの垂直の壁には、それまで気付かなかったが一面に曼荼羅のような浮き彫りもみえる。また、なかには台地の端の断崖には四角い窓のような横穴があり、そのまわりには丁寧に窓枠のかたちの浮き彫りがほどこされているよう見えたりする。これらの造形の岩の写真を撮影して『フォーカス』(写真週刊誌)に高く売ろうかと思ったが、残念ながらフィルムは残り二枚だけになっていた。
風の唸り声を聞きながら、最後の易しい岩場を攀じ登りきると、途端に息苦しいほどの強い風に晒される。そこが頂上台地だった。三月六日、午前九時十二分。二度目の頂上台地を踏みしめる。そしてここに、ロライマにおけるベネズエラ側からの新ルート登頂が実に百一年ぶりに達成されたことになる。
いまや、再び訪れた台地は冷たく激しい風と千切れた雲が狂ったように暴れていた。人間が長く留まるべき場所ではなくなっていた。もし日程に余裕があったとしても、もはやこの天候では三国国境への縦走など論外だった。寒さにぶるぶる震えながら握手し、互いに一枚ずつ記念写真を撮り合う。ふやけて感覚のなくなった指でなんとかシャッターを押すことができた。
頂上台地には約十分間いただけで逃げるように下降に移る。平坦な台地から少しくだった巨大な割れ目のなかへ「ドドドッ」と大きな滝が落ちている。こんな高いところになぜ滝があり、この水がどこへ消えていくのだろうと思ったが深く考える余裕はなかった。下降はザイルを用いて懸垂下降する。ザイルは泥水をたっぷり含んで重く、ゴムのように伸びて操作し難い。また灌木の根や岩の隙間にはさまって、いくら引いても動かなくなって登り返すこともあったりした。やがて固定ザイルをセットした、巨大オーバーハングの上に着く。ここでまた決断をせまられる。下部岩壁の二ピッチはザイルがいまにも切れそうだ。ここにある固定ザイルを外して、危ないピッチをダブルのザイルで懸垂下降すれば安全に降りられる。だがそうすると、桜井と美馬は新ルートから頂上を踏むことができなくなる。なぜならルートの核心部を新たにルート開拓することになるからだ。全員登頂を優先させるか、安全を優先させるか一瞬迷うが熟慮している時間はなかった。ベース・キャンプにいる二人も、新ルートからの登頂をめざして遠征に参加したのであり、登頂する権利もあるが、もしここで事故が起こると取り返しがつかない。登山はどんな立派な成果をあげても命を亡くしたらなんにもならない。世間一般では、初登攀するようなクライマーは大胆で命知らずの人間と思われがちだが、実際は逆で臆病かつ緻密な性格が多いのではないかと私は思う。
小野崎とも相談して、安全優先を選択する。昨日、固定したザイルを一旦回収してから懸垂下降でまっすぐ降りていく。昨夜一睡もしてないうえに、昨日の午後から何も食べず何も飲んでいないからフラフラ状態で断崖にいる恐怖感も薄れていた。注意力も途切れ気味だったが、互いに「慎重に!」「落ち着け!」と声を掛け合う。
やっとの思いで岩壁基部に降り立つ。体が鉛のように重い。何度も躓き、転びながらジャングルを通過して、ベース・キャンプに病人のようにヨロヨロとたどり着く。三人の姿がない。テントのなかを覗きこむと、はじめて三人がむっくりと起き上がってきた。このだらけた雰囲気に私はムッ、としたことを告白しなければならない。
この夜、新ルートの完登を果たした時のために半分だけ残しておいたラム酒で、ささやかな祝杯をあげる。どの顔も、予想以上に長引いた登攀に疲労の色がはっきりあらわれている。冗談が飛び出るでもなく、みんな元気も活気もなかった。五日ぶりに全員が合流できたというなごやかさが感じられず、むしろチグハグなよそよそしいムードが漂っていた。しかしその時私の体はすべての思考をストップさせて早く眠ることだけを要求していた。早々にツエルトに戻り、すぐに深い眠りにおちていった。
今回のロライマ遠征に限ったことではないが、遠征に参加する誰もが成功を信じ、自分こそ登頂者になることを夢みる。だから遠征が終わったときに、自分が登頂していなかったら落胆も大きくなる。しかしこのことは、遠征に参加するすべてのメンバーが避けて通れない試練でもある。登頂できなかったときの悔しさは私自身何度も体験しているが、当事者にしか分らない。美馬と桜井も相当悔しかったことは想像に難くない。
17 撤収・下山
三月七日。夜半から降り出した雨が止まず、風も強かった。ロライマもクケナムも厚い雲のなかに隠れたままだった。朝食後、美馬と桜井が岩壁に残置したままの固定ザイルの回収に向かう。そして、ABCを撤収するために山口がはじめて岩壁基部まで登ることになった。北壁初登攀の英国隊は、登攀ルートに張りめぐらした固定ザイルのうち、最初の一ピッチ目だけを撤収したが、我々はすべての固定ザイルを回収する。これは登攀をはじめる前に決めておいたことだった。新ルートのラインは、ノーマル・ルートからも望遠鏡で見ることができるから、美観の点でもザイルは無いほうがよい。少しだけだから、今回だけだから、滅多に人がこない秘境だから、という驕りの積み重ねがやがて自然破壊へと発展していく。南米の国々ではまだ、自然保護の問題がそれほど深刻化していないのも事実だ。まだまだ未踏の地域や発見されていない資源が眠っている可能性もあるからなのだ。しかし、南米のアマゾン河流域とオリノコ河流域の緑の大自然が完全に無くなったとき、たとえ核戦争が起こらなくても人類は滅亡するとさえ言われている。
この日、小野崎と二人でほとんど一日中ベース・キャンプのテントのなかにぐったり横になったまま過ごした。昨日までの極度の緊張と激しい労働から解放され、気持ちがゆるんだせいか何もする気になれず体もうごかない。もう登攀は終わったのだ、もう登らなくていいんだ、神経をすり減らす垂直の岩壁に戻らなくていいんだ、という安堵感が全身を包み、何度目かの心地よい眠りにおちていった…。
午後二時半。我々留守番の二人はやっと目をさましてテントから這い出す。ホエーブス(オーストリア製の携帯コンロ)に火をつける。久しぶりに甘いコーヒーを飲もうとしたら、残念ながらコーヒーも砂糖も使いきっていた。紅茶のティーパックが僅かに残っていただけだった。
二日前までは、完登のメドも立たず窮地に追い詰められていたのに、今こうして登頂を果たしてベース・キャンプでのんびりお茶を飲んでいるのが信じられない不思議な気持ちだ。そして昨日までの岩壁での苦闘がまるで遠い昔の出来事のように懐かしくさえ思えてくる。それほど岩壁とベースキャンプでは別世界だった。
このままベース・キャンプで四、五日ゆっくり休養できたとしたら登攀の疲れも癒えて元気になるところだが、我々の食料不足は「アフリカ飢饉」にもおとらぬ深刻さだったので、明日八日にベース・キャンプを撤収して下山を始めなければならなかった。そしてまた、あのサバンナを今度は全装備をインディオではなく自分たちで背負い、歩かなければならない。明日撤収だから今から荷物整理をはじめなくてはならないし、登攀で汚れたどろんこの衣類も洗濯しておかなくてはならないし、日記も登攀を開始してからずっとたまっている、などと考えはじめるとひどい頭痛がしてきて金縛りのように体が動かなくなる。結局なにもできなかった。
夕方、クケナムの方角から二羽のワシが飛来してベース・キャンプ上空で旋廻をはじめる。そういえば南米では国章にもなっている「コンドル」をロライマでは一度も見ていない。サンタエレナ・デ・ワイレンでは、宿泊したホテルの屋根の上や中庭の木の枝に見ることができた。我々が獲物に見えたか不明だが二羽のワシは人間に興味があるらしい。私も草の上に横になってワシを観察しながら、なんとか捕獲できないかと思う。もしかなうなら「ワシのから揚げ」を食べたいとも思った。ロライマに来てから新鮮な肉と油料理は一度も食べてなかったことに気付いた。
のんびりとワシの生態を観察していると「ああスッキリした!」といいながら「キジ撃ち」にいった小野崎が茂みの向こうから戻ってきた。彼は五日間の連続登攀中ずっと便秘だったのだ。新ルート開拓をはじめてから、山口をのぞく全員が激しい下痢や便秘を訴えつづけた。原因は食事のせいもあるが登攀による極度の緊張のため。私もずっと下痢だった。
下部岩壁の固定ザイルの回収に行った二人とABCの撤収に行った山口が、夕方ベース・キャンプに帰ってきた。今晩はベース・キャンプ最後の夜だから、盛大にキャンプ・ファイヤーを焚こうと全員で近くの茂みから枯れ木や枯れ草を拾い集める。
粗末な最後の晩餐をアッという間にすませる。五人で焚き火を囲んで紅茶を飲み、長くも感じ短くも思ったロライマでの生活の思い出ばなしや、今後の予定に話題がはずんだ。下山したらオリノコ河でピラニアを釣りたいという者や、スペイン・バレンシア地方の料理「パエーリャ」をレストランで食べてみたいという者、メリダ山群の「ピコ・ボリバル」(ベネズエラの最高峰で標高五〇〇七メートル)に登山したい者など、はやくも下山後の楽しみに想いをはせる。
皆、蚊にくわれてゴツゴツになった腕をし、カラカスに着いた頃とは見違えるほどたくましく陽焼けし、栄養不良で削げ落ちた頬には無精ヒゲがたくわえられ、いかにも山男らしいだらしない風貌に仕上がっていた。なかにはテレビ・ドラマの山賊役にぴったりの立派なヒゲの持ち主もいた。この夜は明日のベース・キャンプ撤収に備えて全員早目に床につく。
夜中、フト目をさますと、ジェット機の爆音にも似た「ゴォー」という音がどこからともなく聞こえてくる。一瞬、「一年前にロライマの岩壁に飛行機が激突してまだ機体も遺体も回収されていない…」と教えてくれた、シウダ・ボリバル在住の石川新助氏の言葉を想い出した。音は急速に大きくなっていく。不安がふくらみ、音の正体をつかめないうちに耳をつんざく轟音とともに激しい突風がツエルトを直撃した。横になっていた半身がツエルトごと持ち上がり、重し用に入れておいた五、六個の石がゴロゴロところがり、枕元に置いたロライマの資料コピーなどの書類が散乱した。ツエルトは地面に杭を打ち込み、横棒を梁として紐で固く結んでおいたから全部を空中に持っていかれるおそれはなかった。ただ、ツエルトはテントと違って底の部分が重ねてあるだけだから、重ねたところから侵入した風がツエルトを風船のようにふくらませる。急いで風の侵入口を塞いで押さえる。風はじきにおさまるだろうと風が息をするのをまった。ようやく狂ったような風がおさまりだしたとき、再び「ゴーッ!」と次の突風が近づいてきた。このままでは風船のようにふくらんで破れてしまいそうだ。必死に押さえていると再び衝撃が襲い、さらに強い力がツエルトをむしり取ろうとする。耳をつんざく轟音は、木々のざわめきに混じって時々ポキッ、とかバキッ、という樹木の折れる音や、共同装備をくるんでおいたシートが剥ぎ取られる音、ダンボールが転がっていく音もきこえる。
エスパース・テントの四人も、勿論大騒ぎだったことは言うまでもない。フライ・シートがバリバリと引きちぎられ、残った布がバタバタとあばれて音をたてた。また、飛んできた木の枝がテントにぶつかったりもした。突風は台風のように次々にやってきておさまる気配がない。だが、外は真っ暗、様子を調べるにも歩ける状況ではなかった。ツエルトに侵入してくる強風のために息をするのさえ苦しかった。ツエルトの合わせ目を両手でおさえ、顔を風下側にむけていた。何気なく見るとツエルトの胴体部分の張り綱の縫い目がビッ、ビッ、と破れはじめている。たがどうすることもできない。なんという風の力だ。
ようやく激しい風がおさまったのは夜明けになってからだった。朝までツエルトを必死に押さえていたのでグッタリ疲れてしまった。天井に明治神宮の「御守り」を下げていたのに、とうとうツエルトが破れてしまった。ロライマに来てからいままで、こんなに強い風が吹いたことは一度もなかった。そういえば、ここ一週間、連日雨が降っている。明らかに季節の変わり目にさしかかっているようだ。風はロライマの後ろ側のガイアナ側から、ロライマとクケナムの谷を通って吹いてくる。谷が通風孔の役目をしているのだ。もしも登攀がもっと長引いていたら、まいにち昨夜のような強風に襲われるところだったが、新ルート登頂を果たした今、これ以上とどまる理由はなかった。
夜が完全に明け放たれてもまだ風はかなり強かった。外にでてみるとベース・キャンプは無残な姿を晒していた。破れてしまったツエルトの張り綱はだらしなく弛み、全部のペグが抜けていた。四人が寝ていたエスパース・テントもすべてのペグが抜け、フライ・シートはズタズタに引き裂かれていた。日の丸とベネズエラの国旗は、支柱の根元まで紐がゆるんでいて、かろうじて紛失を逃れていた。シートにくるんでダンボールに入れておいた共同装備は、じつに百メートル四方に散乱していた。シートはついに発見することができず、サバンナの彼方へ飛び去ってしまったようだ。
まだ風がつよいので、テントのなかで急いで朝食をすませ、手分けして散乱した装備とゴミを拾い集める。テントから百メートルも離れた茂みにパンツが引っかかっているのを見つけて「きたねえパンツだなあ、誰のだ…」などと文句を言いながらよくみたら自分のだった。ゴミ拾いもたいへんだ。
この日、クケナムとロライマは珍しく岩壁全体をみせていたが、頂上部は恐怖映画にでてくるような不気味な黒雲が渦巻いていた。そのロライマをバックに五人で記念写真をとり、三週間にわたる滞在ですっかり見慣れたまわりの景色に別れを告げ、追い立てられるように山を下りはじめる。下山のキャラバンは入山時とまるでちがって、荷物の重みが肩にずしりと食い込み、まさに拷問のような苦しさだった。全員が二個のザックを横に積みかさねて背負い、さらに両手にいくつも荷をぶら下げなければならなかったからだ。
この日はクケナム川を渡った先の小高い丘を越えた「リオ・ドック」の川原に幕営する。黄昏のなかにクケナムの美しい岩峰が間近にせまる。ロライマはすでに後方に遠のき、その頂上部は見たことも無い巨大な笠雲におおわれていた。
次の日、全員がクタクタに疲労困憊し、泥だらけの姿でパライテプイの村にたどりついた。我々はここに、サンタエレナ・デ・ワイレンから迎えのランド・クルーザーが来る十二日まで滞在することになる。村長はじめ、アントニオ、朴訥としたマーチン(白人二人と山頂で会った案内人)など懐かしい顔が笑顔で迎えてくれた。村長はここにいつまで滞在しても構わないよと一ヶ月前と同じ作業小屋の軒を貸してくれた。
インディオたちにしてみれば、ロライマの断崖絶壁を登攀するために我々がはるばる地球の裏側からやってきたことなど、とうてい理解できないだろうが、日本人が彼らと同じ「モンゴロイド」だということは解るから、日増しに親しみを覚えてうちとけるようになっていった。彼らの常食とするユカ芋から作った紫色の地酒「カチリ」をふるまってくれたり、バナナ、サトウキビ、などを差し入れてくれたり、ニワトリ二羽を譲ってくれた。我々も彼らの厚意に応えることにする。すでに要らなくなっていたナベ、バケツ、水筒、コッフェル、ボールペン、百円ライター、ローソク、などをプレゼントした。案内人をしているマーチンが手作りの木の実の飾りがついたロザリオを売りにきた。パライテプイにも、現金収入を求めるという時代の波が押し寄せているのだろうか。また、ここのインディオたちは皆カトリック教徒といわれる。『裸族』橋本貞夫著(大陸書房)によれば、「パライテプイはカロニ副司教区に属するフランシスコ会布教地域(カプチン派)にあたり、本部はサンタエレナ・デ・ワイレンにある」と、記されている。事実、一ヶ月に一度神父が巡回に来ているそうだ。もしかすると親切なアントニオおじさんの名前もクリスチャン・ネームだったのかもしれない。
18 「失われた世界をあとに」
三月十二日。ついに文明世界へ帰還できる日がきた。五時半起床の予定が、まだ暗い五時には全員が起き出し、黙々とテントの撤収とパッキングをはじめる。朝のはやいインディオもまだ起き出す時間ではなかったが、村長とアントニオの二人は見送りにきてくれた。村長は意外にも、我々五人の名前を書いて欲しいと紙片をさしだす。一番親しかったアントニオおじさんの顔がくしゃくしゃにゆがみ、目をうるませていた。
チリマタへ向かって五人揃って下りはじめる。そして、いまや遠くなってしまったロライマの姿が小高い丘の陰に隠れる手前で、さいごの別れを告げるべく荷物を背負ったまま立ち止まる。薄いレース状の雲が城砦の形をしたロライマをゆっくりと包みこんでゆくところだった。そして完全に雲のなかに消えるまで、しばらく無言で立ち尽くしていた。
一ヶ月前にロライマへのスタートをきったチリマタ川を眼下に見下ろす丘のうえで、すでに三時間近くも地平線の一角に視線を注いでいた。百キロメートル以上離れたサンタエナ・デ・ワイレンから迎えにくる約束をしたランド・クルーザーを待っているのだ。最後に残しておいた一本のタバコを喫い終えるともうすることがなかった。そして、不安が脳裏をよぎる。もしも今日ランド・クルーザーが来なかった場合、我々にはすでに食料は何も無かったから、食べ物を求めて再びパライテプイへ引き返さなくてはならないからだ。
誰かが、「はやく、旨いものが腹いっぱい食いてえ。」「今日は来ないかも。久しぶりにステーキが食いたかったのに…」と、出てくる言葉は食べ物のことばかり。いかにロライマでの食事がひどかったかを物語っていた。そういえば、ステーキを最後に食べたのはシウダ・ボリバル到着の夜、石川新助氏にご馳走されたことを思いだす。(下山後、我々はシウダ・ボリバルで地方新聞の”ELBOLIVARENSE”に<ロライマ初登攀の日本人>として写真入り記事が出た。)
人間はどんな環境にも適応する能力を備えている。ヒマラヤ登山における「高所順応」はその典型的な例だが、人間の胃袋も例外ではなく「ロライマ定食」に完全に順応しきっていた我々はサンタエレナ・デ・ワイレンで食べすぎて地獄の苦しみを味わうことなど、このときはだれ一人予測できなかった。
「きたぞ!」誰かが叫んだ。五人の視線がサバンナの遥かな一点に集中する。褐色のサバンナの彼方に小さな黒点がみえてくる。それが蜃気楼のように少しずつ揺れながら膨らんでいく。そして次第に土ぼこりだと分るようになり、やがて濛々と舞い上がる土煙の先に見覚えのあるランド・クルーザーがはっきりと見えてくる。チリマタに向かって真っ直ぐ近づいてくる。
もう間違いなかった。「やっぱり来た!」「今夜はご馳走が食えるぞ…」「ビールだ、まずはビールが先だ!」などと銘々が口走りながら久しぶりに笑顔がこぼれる。みな一斉に立ち上がり、荷物を担いでチリマタ川への坂道を下りはじめた。
「失われた世界」から「文明世界」へと運んでくれる文明の結晶である四輪駆動車に、あたかも強い力で引き寄せられるように私たちは歩を早めた。それはまた以前の物質文明にどっぷり漬かった怠惰な日常に近づく一歩でもあった。
どこまでも広壮なグラン・サバナ(大サバンナ)、その上空をびっしりと埋めつくした鉛色の厚い雲、こんな空は一ヶ月前に我々が希望と期待に胸を膨らませてキャラバンのスタートをきった頃には決して見ることはなかった。大自然は、地球誕生以来たゆみなく偉大な営みを続けてきた。地上最後の秘境といわれるギアナ高地はまもなく本格的な雨季に入る。「諸流の父」たる「秘峰ロライマ」が厚い雲のなかに完全に姿を隠して人間の侵入を拒絶し、垂直の岩壁に想像を絶する無数の瀑布を出現させる日もそんなに遠くないであろう………。