夏目漱石の文学の「開花」

一 『三四郎』の二人の女――美禰子とよし子――

                             

(一) 大作『三四郎』――三つの世界――

 東京帝国大学文科大学学生小川三四郎の「あまりに暖か過ぎる」青春の物語『三四郎』は、若さのもつ単純な美しさに充ちている。『三四郎』は多くの人の共感を呼び、漱石中期の人気作である。

 その『三四郎』で、注目されるのは、「三四郎には三つの世界が出来た」ということである。この特色ある文学空間の創造によって、三四郎の青春は花開いている。では漱石は「三つの世界」を通して、『三四郎』にどのような青春を物語っているのだろうか。「母」、「学問」、「美しい女性によしやう」の世界として、三四郎の「三つの世界」は語られている。まずは、「三つの世界」の創造主体である漱石の三つの世界が何であるかを問題にしてみよう。『三四郎』で、三四郎は「三つの世界を並べて、互に比較して見」る。「次に此三つの世界をき混ぜて、其中から一つの結果を得」る。三四郎の得た結果は、「要するに、国から母を呼び寄せて、美しい細君を迎へて、さうして身を学問にゆだねるに越した事はない」というものであったが、漱石が並べて、比較して見て、「掻き混ぜて」いるものは何だろう。

 第三の「美しい女性」の世界について、三四郎は「自分が此世界のどこかへ這入らなければ、其世界のどこかに欠陥が出来る様な気がする」と考える。三四郎のこの充足的思考について、ある種思い浮かぶ漱石の創作活動の経緯がある。『吾輩は猫である』や『坊っちやん』を書いた漱石が、その余勢をかって、ついでヒロイン那美さんの登場する『草枕』を発表したことである。「文学界に新しい境域を拓く」「俳句的小説」(談話「余が『草枕』」)『草枕』は、『坊っちやん』とともに漱石初期の文学活動の代表作となった。

『吾輩は猫である』『漾虚集やうきよしふ』『坊っちやん』『草枕』という初期の作品群を、漱石が『三四郎』で、並べて、比較して見て、「掻き混ぜて」いると考えてみる。第三の「美しい女性」の「世界のどこかの主人公であるべき資格を有してゐるらしい」三四郎にとって「三つの世界」は、第三の「美しい女性」の世界をまって始めて意味をなすものである。それは初期の作品群を書いた漱石もおなじであった。『坊っちやん』につづけて『草枕』を発表することによって、しばらく漱石初期の作家活動は転調を見せた。

『三四郎』は、東京朝日新聞社入社第一作『虞美人草』発表からほぼ一年となる、明治四十一年九月に連載が開始された。年一度、百回位の長篇小説を書くという朝日入社の主な条件からすれば、二作目の長篇を書く時期である。入社の喧騒も静まり、漱石は本腰をすえて自己の文学にとり組むことを考えただろう。『吾輩は猫である』『漾虚集』『坊っちやん』『草枕』等の初期の作品群が、作中で「掻き混ぜ」られているとするならば、『三四郎』は賛沢な作品である。〈大作〉である。東京帝国大学講師を本分とする学者作家から朝日新聞社員たる職業作家へ転身する流れの動揺の中で、漱石は『三四郎』に自らの節目を置いたのだろう。『三四郎』は学者作家漱石の魅力を余すところなく伝える記念碑的作品として考えられる。

(二) 『三四郎』の〈恋愛〉――前期三部作――

『三四郎』は、『それから』『門』とともに三部作として読むのが定説になっている。大正三年四月刊行の縮刷本「『三四郎』『それから』『門』」序には、「『三四郎』と『それから』と『門』とはもと三部小説トリロジイとして書かれたものである。(後略)」と明記されている。朝日入社後の漱石が三部作を構想したことの意味は、明治国家が近代に大きく参入する日露戦争時下にスタートを切った作家として、その後の「現代日本の開化」(講演『現代日本の開化』)に正面から対峙することにある。

 その前期三部作に、貫通するテーマとして注目されるのは、社会状況と重層した〈恋愛〉である。『三四郎』における「里見の御嬢さん」美禰子との恋愛と美禰子の結婚による二人の別れ、『それから』における「他人の細君」三千代との愛、『門』における「他人の細君」御米との結婚という〈恋愛〉の尻取り的流れは、漱石の〈恋愛〉追究によって発見された緊迫感のある様相である。

 その前期三部作の〈恋愛〉の様相は、三四郎にならって三作を掻き混ぜてみると、「美しい細君」(『三四郎』)を夢見た、漱石と見なす『それから』の代助が、「わが情調にしつくり合ふ対象として」(『それから』)、「真心ある」(『門』)「まめやかな細君」(同)を結果として得たというものになる。漱石は明治「現代日本の開化」時下の東京を舞台とする『三四郎』に「美しい女性」「美しい細君」の夢を提示した上で、『それから』『門』と死力を尽くし、それから先の「わが安住の地」(『それから』)を見出していったのであろう。

(三) 『三四郎』のトポス――東京帝国大学――

 西洋文明が圧倒的優位を誇る明治「現代日本の開化」に、学問の府・東京帝国大学もまたのみ込まれている時世にあって、『三四郎』の第二の「学問」の世界の内にいるのは、「世外せぐわいの趣」のある広田先生や先生の元の弟子の野々宮さんである。三四郎が「和気靄然あいぜんたる翻弄ほんろうを受け」、向後も「自分の運命を握られてゐさうに思ふ」選科生の与次郎もまた広田の家の「食客ゐさふらふ」である。日露戟争に勝って「一等国」を自負する明治日本だが、広田先生はすまして、「ほろびるね」と批評する。そうして、第二の「世外」の「学問」の世界の人々は、こうした近代国家を傍観して、「晏如あんじよとして」、「太平の空気を、通天つうてんに呼吸してはヾからない」。

 広田先生は、作中「偉大なる暗闇」と評される。「薄給と無名に甘んじて居る。然し真正の学者である」と作者は語る。『三四郎』ではこの広田先生の存在が、小雑誌『文芸時評』に掲載の与次郎の長論文「偉大なる暗闇」を発端とする、広田先生を大学教授にする「運動」に推移発展する。運動は与次郎が大学への同情等から歩を進めているものであるが、「反対運動」にあってやり損ない、広田先生を「大変な不徳義漢」、本科生の三四郎を「偉大なる暗闇」の作者とする「偽はりの記事」が出る。この成り行きは、『坊っちやん』の「宿直事件」や「喧嘩事件」が結果的に「虚偽の記事」の掲載となる運びと重なる。しかし『三四郎』の趣は、「赤シヤツ退治」という大団円に進む『坊っちやん』とは大きく異なる。「偽はりの記事」が出た後、広田先生はいう。「済んだ事は、もう已めやう」「それよりもつと面白い話を仕様しやう」と。

「僕がさつき昼寝をしてゐる時、面白い夢を見た。それはね、僕が生涯にたつた一遍逢つた女に、突然夢の中で再会したと云ふ小説みた御話だが、其方が、新聞の記事より聞いてゐても愉快だよ」。『三四郎』は、明治「現代日本の開化」の暗闇を「偉大なる暗闇」の「太平」を通して語り、「偉大なる暗闇」をまた女の〈夢〉として語る魅力的な作品である。そして、「学問」の世界の広田先生が、「女」、さらに「母」について語ることは、別の意味で興味深い。『三四郎』の「母」「学問」「女性」という「三つの世界」は、個々の世界でありながら、自由に三つの世界に出入し得る、重複、重層する「三つの世界」になっている。そうして、広田先生の「三つの世界」は、「大学生」の物語『三四郎』にあって、その中心に位置している。

〈夢〉で広田先生が「女に、あなたはだと云ふと」、女は広田先生に、「あなたは詩だと云つた」。この〈詩〉としての広田先生が「偉大なる暗闇」であるのなら、〈画〉としての女は『三四郎』を彩る光明である。また「偉大なる暗闇」広田先生が自ら「親とか」「国とか」「ひと本位」の「偽善家」だと語る存在であるなら、『三四郎』を彩るこの光明の女は、また「自己本位」の〈夢〉としての「露悪家」である。青年、若い男女を主人公とする『三四郎』は、「昔しの偽善家に対して、今は露悪家ばかりの状態にある」文学空間である。「偽善家」広田先生のかわりに、「露悪党の領袖りやうしう」与次郎、「露悪家の一人いちにん」三四郎、「一種の露悪家」で「優美」なる「露悪家」の美禰子、「あれはまた、あれなりに露悪家」のよし子など、日露戦勝後の「新しい空気」に「かぶれてゐる」、若い「露悪家」群像が『三四郎』では活躍する。美禰子と三四郎が「迷へる子ストレイ シープ」を口にする作品の内容からすれば、『三四郎』は「外国ぢや光つてる」野々宮さんと「東京の女学生」妹よし子、「愛すべき悪戯いたづらもの」の与次郎を「露悪家」の「変らない」〈夢〉とする物語である。

 団子坂菊人形、学生親睦会、陸上運動会、丹青会の展覧会、文芸家の会、文芸協会の演芸会と『三四郎』は行事に事欠かない。その明治今日的な「露悪家」の物語『三四郎』は、「偉大なる暗闇」の広田先生を抜きにしては成立しない。いわば「昔の偽善家」が「偽善を行ふに露悪を以てする」、「極めて神経の鋭敏になつた文明人種が、もつとも優美に露悪家にならうとする」、極めて「づかしい遣口やりくち」の「二十世紀」の小説として読まれる。なぜ『三四郎』は「森の女と云ふ題が悪い」〈画〉の完成として終わらなければならなかったのか。三四郎の第三の「美しい女性」の世界の大作であるべき〈画〉は、実は広田先生が〈夢〉見る「三つの世界」の感化を受けた「女性」の〈画〉になっているのである。だから「悪い」のである。

(四) 『三四郎』の二人の女――美禰子とよし子――

 第一の「母」の世界から第二の「学問」の世界に移った三四郎は、大学に野々宮を尋ねた後、池のはたにしゃがみ、余りの静かさに、「寂莫せきばく」、「孤独の感じ」を覚える。その時夕日の照りつける岡に団扇うちはかざして立つ女を見る。女は坂を下り三四郎のそばに歩いて来た。「三四郎はたしかに女の黒眼の動く刹那せつなを意識した」。

『草枕』の那美さんの感覚美を継承する、第三の「美しい女性」の世界のヒロイン美禰子の魅力は、その眼つきと歯並びにある。「オ゛ラプチユアス! 池の女の此時の眼付を形容するには是より外に言葉がない。何か訴へてゐる。えんなるあるものを訴へてゐる。さうしてまさしく官能に訴へてゐる。けれども官能の骨をとほして髄に徹する訴へ方である」。「美禰子の顔で尤も三四郎を驚かしたものは眼付と歯並である」。「の気味」ということだが「三四郎には決してさうは思へない」、「奇麗な歯」「真白な歯」である。この「オ゛ラプチユアス!」にして「白い歯をあらは」す美禰子は、全十三章の作品の第五章という早い段階で、「迷子の英訳を知つて入らしつて」、「迷へる子ストレイ シープ―― 解つて?」と「strayストレイ sheepシ-プ」を口にする。

〈画〉としての女が光明の彩りをそえる『三四郎』で、「何故なぜ東西で美の標準がこれ程違ふかと思ふ」という意識のもとに、西洋画の日本女性の〈高等モデル〉に、「あの女や野々宮さんはい。両方共に画になる」といわれる美禰子とよし子には、英文学者漱石の理想の日本淑女像が託されている。この理想淑女の〈画〉の焦点は、演芸会後に結婚する美禰子とその背後にいる「まだきたい所がない」よし子にある。その美禰子とよし子について、常に重複の連想があることは『三四郎』のもっとも重要な文学性であろう。「妹が此間見た女の様な気がしてまらない」、「其妹は即ち三四郎が池の端で逢つた女である」などと最初から三四郎は「二人の女」を「掻き混ぜ」る。またよし子は美禰子の家に「同居」し、美禰子の結婚も「よし子の行く所と、美禰子の行く所が、同じ人らしい」という様相である。美禰子とよし子のみならず、野々宮君と三四郎についても「兄では物足らないので、何時いつの間にか、自分が代理になつて」以下、男二人の重複の連想もある。広田先生が野々宮さんから借りたよし子のヴァイオリン代金が、「与次郎の失くした」二十円、三四郎が「与次郎に金を貸した」二十円となり、さらに三四郎が「美禰子に返しに行く」三十円になるなど、「巡り巡つて」の物語『三四郎』は、もともと「三つの世界」の重複、重層の物語である。

 よし子と「美禰子に関する不思議」は、美禰子の肖像画、「森の女」について、実はよし子の肖像画でもあるのではないかという想像をもたせる。美禰子が「池の女」であったことや「森の女」の展覧会場によし子の姿のみが確認されないこともそうした空想を助ける。漱石は『三四郎』に「三つの世界」の物語を書いた。その重複、重層化の物語の最後の目的が、『三四郎』最終楽章の「森の女」にあることは容易に想像される。この目的のために、『三四郎』ではよし子と美禰子がとくに連結されているのである。そのよし子について「遠い故郷ふるさとにある母の影がひらめいた」、「女性中の尤も女性的な顔である」と三四郎はいう。よし子は、第三の「美しい女性」の世界の女性でありながら、第一の「なつかしい母」の世界の女性でもある。「大作」「森の女」は、「意気な」、外光を取り入れた近代の新しい絵ではあっても、「安慰の念」を受ける、「何となく軽快な感じが」する、「それでも何処どこか落ち付いてゐる。剣呑けんのんでない。にがつた所、渋つた所、毒々しい所は無論ない」〈画〉である。その「森の女」に、「池の女」美禰子の「オ゛ラプチユアス!」な「骨を透して髄に徹する訴へ」、光る「白い歯」は見当たらない。美禰子は三四郎にとって「美しい享楽」のヒロインでありながら、第三の「美しい女性」の世界の〈恋愛〉の肖像としてではなく、第一、第二の世界を「掻き混ぜ」た、「三つの世界」の日本淑女として肖像に納まったのである。

『三四郎』のテーマとして名高い「無意識な偽善家アンコンシアス、ヒポクリツト」(談話「文学雑話」)について、「つまり自ららざる間に別の人、、、になつて行動するといふ意味だね」(森田草平『漱石先生と私』下巻)という漱石の言がある。「露悪家」よし子は無意識に〈別人〉美禰子になる可能性を秘め、「優美」なる「露悪家」美禰子が〈別人〉よし子に無意識になる可能性を大きく秘めているのが『三四郎』である。その団扇で光線をさえぎるポーズは、光線の圧力の試験をする野々宮の回避であろうか。理学者野々宮は妹を「研究して不可いけない」兄であり、しかし「無意識な偽善家」、「露悪家」の妹を「可愛かあいがる」「日本中で一番い人」である。

「素敵に大きな」「森の女」には理想淑女としての美禰子、よし子とともに三四郎の母も「掻き混ぜ」られているだろう。展覧会場に夫とともに来た美禰子はすでに「三つの世界」の美禰子ではない。母の肖像でもある「大作」「森の女」を観覧した三四郎は、もはや故郷に帰ることもないだろう。

「森の女」として喝采を博する、広田先生の〈画〉の女の〈夢〉は、『三四郎』の時期が、「学問」、学者の世界の「尤も美しい刹那」、そのクライマックスの時であることを示している。記念碑的肖像画はまさにこの節目、転機をとらえることで完成した。また「森の女」の完成は、『三四郎』の時期が、第二の「女」との出逢いの時となることを考えさせる。「池の女」美禰子である。美禰子は、しかし「三つの世界」の「森の女」としてその青春の肖像画となった。美禰子が口にする「我がとが」「我が罪」は、「美しい女性」の世界の、「美しい享楽」とその「苦悶」に三四郎を誘いつつ、「三つの世界」の「森の女」となる、その「愆」「罪」であろう。その「愆」「罪」は、さかのぼれば、「真正の学者」広田先生の「愆」「罪」であり、学者作家漱石の「愆」「罪」である。

(五) 『三四郎』の思想――死と万歳――

 日露戦勝後の「現代日本」に、「明治元年位の頭」の二十三歳の青年が、ワイドな「三つの世界」を花開かせ、大日本帝国憲法発布や、憲法発布にともなう森文部大臣暗殺が重要らしい話を聞く。『三四郎』の日露戦後の「現代日本」は、大日本帝国憲法発布や森有礼文部大臣暗殺後の必然的歴史としてある。その必然的歴史はまた近代国家日本の歴史である。三四郎の「三つの世界」はこの明治の相の上に開花している。

 広田先生の〈夢〉の話の背景には、憲法発布を祝す日本初の万歳三唱とそこにともなう〈死〉という歴史的事実が横たわっている。憲法発布翌年の母の死を語る広田先生は、この明治の歴史的配合における「万歳」と〈死〉を、痛切に先生個人の〈死〉、および先生個人の「万歳」と結び付けているのであろう。「西洋の歴史にあらはれた三百年の活動を四十年で繰返してゐる」明治の歴史や思想は苛烈である。『三四郎』には、「変らない所に、永い慰藉ゐしやがある」「森の女」が描かれた。広田先生の「時代錯誤アナクロニズム」の思想、人生観は、〈死〉と「万歳」による、明治「太平」への「かはらざる愛」(『それから』)として認識される。このワイドな愛を内発的に押し進めるために、「森の女」の前で三四郎は「迷羊ストレイシ-プ迷羊ストレイシ-プと繰返した」。

 しかしもともと「偉大なる暗闇」という〈夢〉のような思想、人生観の波及透徹はある意味むずかしい。それを意識する漱石は、『三四郎』に「万歳」の〈夢〉「ダーターフアブラ」と〈死〉の〈夢〉「ハイドリオタフヒア」を挿入しながら、「ダーターフアブラとは何の事だ」、「(ハイドリオタフヒアの)意味はまだ分らない」と読者に考えさせる。「迷へる子ストレイ シ-プ――解つて?」もおなじ発信であろう。こうしてこれら漱石の〈死〉と「万歳」の〈夢〉が、機を得て明治の歴史的現実とともに開花の相を見たのが『三四郎』である。

 ところで、〈死〉と「万歳」の思想、人生観は、むろん『三四郎』に突然筆を執られたものではないだろう。「ひげの下から歯を出して笑」う広田先生には漱石の存在感があり、おなじような存在感は早く『吾輩は猫である』の苦沙弥先生に認められた。日露戦争「万歳」という国民意識の高まりの中で、滑稽、知的な『吾輩は猫である』を書き作家としてスタートした学者漱石がその出立時からもつ思想、人生観であろう。

『三四郎』フィナーレの「演芸会」は、早く『草枕』の素材となっている。「二十世紀に此出世間的の詩味は大切である」、「自分にはかう云ふ感興が演芸会よりも舞踏会よりも薬になる様に思はれる」。桃源にさかのぼる『草枕』で、画工は「非人情ひにんじやう」の「拍手の興」、いうなれば「非人情」「万歳」を主張しているのだが、『三四郎』は逆の「演芸会万歳」に終わる。漱石は『三四郎』で初期の〈死〉と「万歳」のテーマを卒業し、職業作家としての新しい〈死〉と「万歳」の文学空間を創造したのである。

 さて、明治の歴史的現実と不可分の、漱石の〈死〉と「万歳」の文学の創出について、初期の作品群よりも、『三四郎』よりも、痛切な作品はないだろうか。明治天皇の崩御、乃木大将の殉死が語られている『こゝろ』である。「さむしくつて」〈自殺〉する先生の悲しい物語『こゝろ』に、しかし、〈死〉はあっても「万歳」はない。しかし、晩年の漱石は、「死んだら皆に柩の前で万歳を唱へてもらひたいと本当に思ってゐる」(大正三年十一月十四日付岡田耕三宛書簡)と、〈死〉と「万歳」を結び付けていた。日清戦争・日露戦争「万歳」の高まりをもつ『吾輩は猫である』、大日本帝国憲法発布の「万歳」を有する『三四郎』とともに、『こゝろ』は、もとより激動の大日本帝国の明治天皇「万歳」を持する。『こゝろ』は、明治の「万歳」と〈死〉の歴史と、漱石個人の〈死〉と「万歳」の歴史が、明治の終焉と先生の自殺において語られ、閉じられている、まさにその極北の作品である。

『草枕』、『三四郎』、『こゝろ』は、漱石の明治における歴史が、生成し、開花し、終焉する流れの真中にある。『草枕』は、非人情の作である。『三四郎』は、青年の物語である。『こゝろ』は、自殺の物語である。三作のうちで、『三四郎』は唯一平凡な幸福な作品である。時代と人生の永遠の開花の物語としてある。

        〈註〉

        漱石の引用は、岩波書店版(昭和四〇~四二年刊行)『漱石全集』

        による。漢字は新字体とし、振り仮名は、適宜補った。

二 漱石の文学―『坊っちやん』から『明暗』へ―

  

 漱石の作品は、ユーモラスな『吾輩は猫である』にも、「晦渋溷濁くわいじふこんだくの悲境」、「不透不明の実質」、「暗澹溟濛あんたんめいもうの極」などの難解な叙述が見られるように、複雑な深部を有している。『吾輩は猫である』上編自序(明三八・九)に「尾頭の心元なき海鼠なまこの様な文章」と語られていることにも、同様の深部が感じられる。先の第九章の三句のコンテクストにも「海鼠の事がかいてある」。

 処女作『吾輩は猫である』は明治三十八年一月、俳誌『ホトトギス』に掲載された。最初は一回だけの予定だったが、好評で十一回断続連載された。第十章と同時に発表された『坊っちやん』は大人気で、完結翌月に発表された『草枕』も評判となった。漱石は当時、東京帝国大学文科大学英文科の講師であったが、英国留学中に宿志として構想した英文学概論「文学論」の講義の不評という悲境にいた。『吾輩は猫である』は漱石に『坊っちやん』『草枕』という実質的文学をもたらしたのである。

 漱石は二作を発表した翌年の明治四十年四月、十四年余の学者生活の極、作家に転身する。『吾輩は猫である』第一回から大正五年の死により中断した絶筆『明暗』まで十二年間、作家として邁進した。

『吾輩は猫である』が『ホトトギス』に掲載されるについては、第一高等中学校 (もと大学予備門、後の旧制第一高等学校)から帝国大学文科大学へとともに「学問」の道を歩んだ親友の俳人正岡子規の存在がその本源にある。第一高等中学校時代に子規に詩文集『七艸集』(明二二・五)を見せられた夏目金之助は、はじめて漱石と号し批評を寄せた。のみならず、八月の房州旅行のおり、紀行漢詩文集『木屑録ぼくせつろく』(明二二・九)を草し、「漱石頑夫」と署名、子規に示した。文学者「漱石」の誕生である。

 この記念すべき「漱石」誕生の契機のはざまに、学校に提出した漢作文に『居移気説』(明二二・六)がある。「天地、変ずる無き能わず。変ずれば必ず動く。(略)蓋し人の性情は、境遇に従いて変ず。故に境遇一転して、性情も亦た自ら変ず」という書き出しで、幼児期に住んだ浅草、小学生の時に養家先から戻った実家のある高田(牛込馬場下)、少年金之助が通う第一高等中学校という「居」の「移」による「変」が叙されている。

 その「変」は「文学」「学問」への段階的「変」であり、子規・漱石の文学の交友による、「漱石」誕生の方向を示す「変」となっている。明治二十九年に漱石は江戸っ子にして熊本在だったが、「不測の変外界に起り、思ひがけぬ心は心の底より出で来る、容赦なく且乱暴に出で来る」という、「変」を要とするエッセイ『人生』(熊本第五高等学校校友会誌『龍南会雑誌』)を書いている。その源流は『居移気説』に認められる。

 もと帝国大学の予備機関であった第一高等中学校に関して一言しておく必要がある。子規、漱石とも、明治維新前年の生まれで、満年齢が明治の年号と重なっていた。その近代日本の出発には、西欧先進諸国入りを目指すという後進国日本の強い国家的要請があった。学制により創設された東京大学の改称である国家の最高学府・帝国大学をかねて肺病でもあった子規は中退して日本新聞社員となり、卒業した金之助も二年待たず西国松山に出奔した。出奔十二年後に朝日新聞社員夏目漱石が誕生する。子規、漱石の「文学」「学問」は、明治の国家的要請から来る「文学」「学問」とは大きな開きがあったのである。

 明治期の「文学」は、明治十年代になって「改良」の風潮が生れた。中心的存在であった坪内逍遥は、明治十八年、『小説神髄』、『当世書生気質』を発表。写実主義を提唱して、日本の近代文学の先駆者となった。子規は『当世書生気質』を発表の年に読んでいる。漱石は大学在学中の明治二十五年、東京専門学校文学科の講師となったが、その文学科を創設したのは逍遥であった。

 文学の近代化が高まる中、俳句研究を進めた子規は従来の俳諧を「月並」として批判し、俳句革新の焔を挙げた。写生提唱、短歌革新とその改革を進め、早世する晩年には写生絵画、名随筆を残した。月並批判を嚆矢とする子規の改革運動は、その改革が「文学」「学問」革新であり、明治革新となっているところにその意義がある。

 明治二十八年暮れ、病気の子規は、門下の俳人高浜虚子を道潅山に誘って、後継者になるよう依頼した。「どうかな。少し学問が出来るかな」。「何故に学問をしないのか」。問い質す子規に、虚子は断言した。「あしは学問をする気は無い」(虚子『子規居士と余』)。

 さて、落胆する子規を、おなじ「文学」「学問」の立場から見守っていた人物がいる。「文学」によって交わり、ともに最高学府・帝国大学に進んだ親友夏目漱石である。

『吾輩は猫である』で作家としてスタートした漱石は、「続篇」の第二回から「月並」に言及する。「そんな月並を食ひにわざわざここ迄来やしない」、「そんな所が苦沙弥君の苦沙弥君たる所で――兎に角月並でない」云々。中学教師珍野苦沙弥を懲らしめようとする実業家金田君の細君、鼻子は「月並の標本」で、金田の西洋館は「月並」建築である。

『坊っちやん』を発表した漱石は、『吾輩は猫である』を完結させた。月並批判の「文学」「学問」の後継者たるべき実質の文学を『坊っちやん』で確立したのである。

 その『坊っちやん』が、明治社会の強権的・国家的要請とかみ合う、「強者」の「赤シヤツ退治」にあることは多言を要しない。その「赤シヤツ退治」は、実質的に野だ退治・「赤シヤツ退治」の物語である。野だは「いかさま師」で、「赤シヤツ退治」も「虚偽の記事」から進展する。子規の月並批判と、野だ退治は同位相にある。子規、漱石とも「心」ある文学、「人間」としての学問を重んじた。

「赤シヤツ退治」とはどのような物語だろうか。「正直」な坊っちゃんは、「片破れ」の、「美しい心」をもつ婆やの清から可愛がられる。赤シャツに「へけつけお世辞を使」う野だのコンビとは正反対である。後年の『こゝろ』に語られている「世の中に美しいものがある」という世界観をもってすれば、野だ・赤シャツの「いかさま」社会とよい対照で、『坊っちやん』の世界を説明できる。

 問題はこうした世界での「赤シヤツ退治」の意味である。「正直」な坊っちゃんが「いかさま」批判、明治の「文学」「学問」批判の結果、「個人でもとどの詰りは腕力だ」と「腕力」に「変」じる。前述の『居移気説』の「変」、『人生』の「変」の極である。明治近代という「物騒」な田舎で、坊っちゃんが「本当に人間ほどあてにならないものはない」と独白する、「物騒」な「変」の世界が「赤シヤツ退治」の物語である。子規の月並批判を、「文学」「学問」的に深めた、漱石の究極の近代批判である。

 漱石は朝日入社後に『三四郎』に着手した。東京帝国大学を舞台として、子規・漱石の「文学」「学問」が「思想」を交えて創造されている。作家漱石の「思想」は、「明治の思想は西洋の歴史にあらはれた三百年の活動を四十年で繰り返してゐる」という先進国・後進国についての思想であるから「六づかしい遣口」の思想になる。漱石は「ひと本位」「自己本位」に併せて〈偽善家〉〈露悪家〉を語り、四つの思想の組み合わせとして説明している。四つの思想の基幹は、漱石が英国留学中に確立した「自己本位」とその「自己本位」に先んじてあった「他本位」にある。「他本位」の最たるものは子規・漱石の交友により俳人漱石が誕生したことで、その後漱石は「自己本位」による『文学論』大成にとり組んだ。

〈偽善家〉〈露悪家〉については、明治四十四年八月の漱石の白眉の講演、『現代日本の開化』の文明批評が参考になる。「西洋の開化(即ち一般の開化)は内発的であつて、日本の現代の開化は外発的である」「夫を恰も此開化が内発的ででもあるかの如き顔をして得意でゐる人のあるのは宜しくない、それは余程ハイカラです、宜しくない、虚偽でもある、軽薄でもある」。

 子規の月並批判と漱石の「いかさま」批判には異同があるが、明治革新である点では一致している。漱石は現代日本の開化が「皮相上滑りの開化である」位相について〈偽善家〉〈露悪家〉を提出している。

 後進国明治日本は西洋との「交際」とともにあった。「他本位」の「昔の偽善家に対して」、西洋から「自己本位」を「輸入」した「今は露悪家ばかりの状態」である。

 話は子規・漱石にもどるが、二人の「他本位」「自己本位」に、〈偽善〉〈露悪〉はあっただろうか。身近な第三者として考えると、『吾輩は猫である』誕生の、間接、直接の産婆役となっている夏目鏡子と高浜虚子の存在がある。「文学」「学問」に関して、「学問をする気は無い」と虚子は子規の後継者となることを拒絶した。しかし子規没後、『ホトトギス』を主宰し、事実上後継者となる。

 ところで『吾輩は猫である』誕生一年前の漱石の談話に『俳句と外国文学』(俳誌『紫苑』明三七・一)がある。「(略)人生其のものからして、ツマリは技巧なのであります。況んや其の人間の作物たる文学に、技巧を排する杯と云ふことは、到底謂はれの無いことになりませう」と話している。虚子の論に対する反論である。詳細は略するが、虚子が大正十年に示した俳句理念「客観写生」の是非についての論議として聴くことも可能である。

 さて、「月並」に関して、漱石と虚子の間で興味深い動きがある。漱石の「月並」使用は、前述の明治四十四年の講演『現代日本の開化』を最後に見られなくなるが、虚子が『俳句の作りよう』(大三)で「このごろ月並論があまり盛んでない」と貴重な指摘をしている。「月並」・「いかさま」批判の時代は過ぎた。「倫理的」な先生が自殺する物語、『こゝろ』の発表も大正三年である。

 大正五年五月に『明暗』の連載が開始されてまもなく、七月から虚子が『ホトトギス』に「月並研究」を掲載しはじめた。大正六年九月まで十三回の連載であるが、その第十三回で、虚子が「此月並といふ貶しめた意味を含んだ言葉を、単に陳腐とか常套とかいふ月並其物の語源に近い意味に解釈したのは漱石氏の書いた『猫』が一番初めで」、「之は従来の用語の意味を余程転化して使つてゐる」と、漱石の「月並」を批判している。

『明暗』で漱石は「笑談じやうだんとも真面目とも片の付かない」とくり返し筆を執り、虚子は『月並研究』(大六・一一)序で「多人数が集まつて雑談半分にやつた」と述べている。子規・漱石の「他本位」が「笑談」となり、「雑談半分」の「月並」は月並の〈偽善家〉〈露悪家〉で、『こゝろ』や『明暗』の「真面目」には漱石の「自己本位」があるのではないだろうか。虚子の「客観写生」論は漱石の技巧論からすれば偽善的であるし、「雑談半分」後の「花鳥諷詠」(昭三)論は露悪的である。

 しかし『明暗』の一番の思想は、中心人物津田の「肉体」「精神界」についての「何時どう変るか分らない」「恐ろし」さにある。『居移気説』、『人生』、作品では『坊っちやん』、『こゝろ』の「変」の到達である。漱石最晩年のかの「則天去私」は、外発的明治国家に「ぴたりと」合う子規・漱石の「革新」文学創造、漱石の内発的「変」を語る文学の究極の世界観・文学観として響いてくる。

 漱石の「いかさま」批判を子規の「月並」批判からさらに遡ってみると、『文学論』序の一文にたどり着く。漢文学と英文学とは、「異種類のものたらざる可からず」。