はじめ、なつは着物が鳴っているのかと思った。
戸障子を開けはなった庭からは気持ちのいい青東風が流れこみ、床の間の掛け軸を揺らしていた。耳元で聞こえるのは衣擦れというより風鈴の音に近かったが、綸子の つややかさに目を吸いよせられているせいか、なつはそれを意識の外で聞いていた。
「いつまで見とれているつもり? もうすぐ着られますよ」
母が笑いながら言った。それで我に返り、なつは音が存外に近いところで鳴っているのに気づいた。顔のわきに挿した簪に手をやる。さっきから聞こえているのは、びらびら簪の銀鎖の音だった。それを着物が鳴っていると勘違いしたのは、綸子の地 の上で軽やかに踊る昼下がりのまぶしい光のせいだろう。
「ほら、いけない癖が出ていますよ」
母にとがめられ、なつはあわてて手を引いた。簪の鎖をもてあそぶのは行儀が悪い と常から言われている。普段は気をつけているつもりでも、ぼんやりしていると、ついこの仕草が顔を出す。なつは膝の上に手を重ねて打掛に目をもどした。
「さすがにお父さまの見立てに狂いはありませんね。いい打掛だこと」
「ええ、本当に」
「華やかでいい照り。これだけの綸子は、今はなかなか手に入りませんよ」
この秋、なつは紙問屋〈おがわ〉の息子のもとへ嫁ぐ。日本橋本町に店をかまえる老舗で、堅い商売をしていると言われている。その総領息子の周吾と結婚するのだ。
衣桁にかかっているのは黒地に宝尽くしの吉祥紋の入った打掛だった。鶴亀あるいは橘、鳳凰も捨てがたいと父はかなり長い間迷っていたが、結局、宝尽くしを選んだ。めでたいものは数が多ければ多いほどいいだろう、というのである。いかに呉服屋の娘とはいえ、父の用意してくれた打掛は贅が過ぎるように思えた。それがなつには気がかりなのだが、その反面、丹念にあやなされた刺繍にはやはり胸がときめく。
仕立て屋の主人自ら打掛を届けてくれたのは昨日だった。
「くれぐれも慎重にお取り扱いくださいよ」
主人は幾度も念を押して帰っていった。何も主人はなつの着物の扱いが不慣れだと心配しているのではない。意趣をこらした打掛が人目に触れないよう、じゅうぶんに注意しろと言っているのだ。
信濃国の浅間山が噴火したのは昨年の秋、天明三年(一七八三)の文月である。北麓の鎌原村を人と家ごと呑んだ火砕流は、江戸川上流にあたる吾妻川まで押し寄せた。ぼたん雪と見まごうような火山灰はこの辺りにも降った。その間、なつは父や母に止められて表には出なかったが、障子の隙間から灰色の雪が落ちてくるのを見ていた。晴れているのに空が暗く、それが不吉だった。
なつは生まれてはじめての火山灰を恐ろしいものとしてとらえたが、それは正しかった。遠い浅間山で起きた噴火の影響は、やがて飢饉として江戸まで流れてきたのである。
百姓たちの比でないにしろ、商人たちも噴火の被害をこうむった。なつの家も昨年から売り上げが落ちている。しかし、米が穫れなければ家族みなの口がすぐに干上がる農家と違い、商家はいかにも楽な暮らしぶりに映るらしい。そこで商人たちは百姓の妬みを恐れ、派手なふるまいをつつしむようになった。
そうした風潮において、総刺繍の打掛はいかにも豪奢なものだった。なつのとまどいと仕立て屋の主人の憂いの種はそこにある。
それでも父はなつに質素な婚礼衣装をつくろうとはしなかった。飢饉に頭を悩ます呉服屋の主人としての表向きの顔の裏でしぶる仕立て屋に頭を下げ、娘のために華やかな婚礼衣装を用意してくれたのである。
母がなつの髪に目をそそいだ。
「これを挿せるのも、あと少しね」
びらびら簪のことを言っているとわかり、なつは唇だけで微笑んだ。
「わたしの娘時代には、こんな可愛いものはありませんでしたよ。あなたがうらやましいわ」
「少し子供っぽいかしら」
「よく似合っていますよ。でも、そういう簪は若い娘さんがつけるものでしょうね」
母は立ち上がり、衣桁から打掛をはずした。真新しい畳紙に包んで、婚礼衣装のためにあつらえた行李にしまう。その仕草の一つ一つに隠しきれない晴れやかさが見える。
母が背を向けているのをいいことに、なつはそっと簪に手を触れた。
──お嫁にいったら、これを挿せなくなる。
珊瑚の花飾りのついた簪は、なつの気にいりである。菊花菱の江戸小紋に合わせてつくってもらった注文品で、誰とも重ならないのが自慢だった。歌舞伎や人形浄瑠璃を観にいくときなど小紋と一緒につけていくと、すれ違う娘がちらと簪に目を留めるのがわかって誇らしい気持ちになる。
それを母は暗に秋になったらはずせという。どのみち珊瑚は夏の間だけのものだが、来年にはつけられない。この秋までなのだと悟ったとたん、胸にかすかな痛みが走っ た。
──まただわ。
なつは浮かしかけた腰を元にもどした。
一生のうちでもっとも満ち足りた季節にいるはずなのに、ふと寂しい気持ちにおそわれるときがある。とり返しのつかない過ちに向かって歩んでいるような思いにかられ、怖くなるのだ。こうした悩みは人に話せない。親しくしていた友人も一人、二人と嫁いでいき、いつのまにか腹を割って相談できる相手はいなくなっていた。
まさか十七歳にもなって友人の婚家までたずねていくわけにもいかず、なつはひとりでふさぎの虫に耐えるしかなかった。いったん胸に辛気がきざすと容易には消えてくれない。気持ちを入れ替えるために、なつは深呼吸をした。
打掛がしまわれた部屋はいつもの顔を見せていた。初夏の匂いのする日溜りが変わらぬあたたかさでなつの身体をつつむ。
──たかが簪ひとつで……。
大げさだと自分でも気づき、なつはおかしくなった。何のことはない。娘時代にさよならをするのが嫌で感傷的になっているだけではないか。要するに、なつは両親に甘えっぱなしだった境遇から、若女将と呼ばれる立場ヘ変わるのが怖いのだ。
「周吾さんが迎えにいらしたわよ」
この縁談に不満があるわけではない。その証拠に、母がそう言い終わる前になつはもう腰を上げていた。
今日はお玉ケ池の縁日で、町はうきうきした足どりの人々であふれていた。
梅雨に入ったという割に雨が降らず、道が埃っぽい。なつは白っぽい陽射しに目をひそめながら、周吾のあとをついていった。
周吾はこちらに合わせてゆっくり歩いている。ともに外出したのは数えるほどなのに、なつの足の速さを覚えてくれている。なつは周吾の清潔な踵を見失わないよう、 気をつけていれば良かった。
お玉ケ池へいたる通りには西瓜や風車を売る屋台がならんでいる。周吾は大きな瀬戸物の水鉢の前で立ちどまった。
「なつさんは金魚を飼ったことがありますか」
「いいえ。母が生き物は死んだときに悲しいからって、許してくれなかったんです」
「気持ちが優しいんですね、なつさんのお母さんは」
周吾は白い歯をこぼしてなつを見た。目と目がまともにぶつかり、思わず顔がほてった。二人で外歩きをする機会が増えるにつれ、周吾は少しずつ大胆になってきている。夕方にはきちんと送りとどけます、と母に言ってきた手前、おかしな場所につれ ていったりはしないだろうが、なつは周吾のまっすぐな視線に出会うたび身体が固くなる。
「そうか。それだとまずいかな」
「どうして?」
「いえね、わたしはなつさんに金魚をあげたいと思っていたのです。お母さんが許さないというのなら、かえって迷惑になりますね」
「そんな。いいんです」
なつは早口で言った。
「周吾さんがくださるものを母が嫌がるわけありませんもの」
「本当に?」
「もちろんです」
周吾はよし、と腕まくりをした。金魚売りの男に「一本ください」と人差し指を立てて、すくい網を受けとる。
「さあ、なつさん。どれがいいですか」
水鉢には金魚がたくさん泳いでいた。赤く透きとおったひれを揺らしている姿はどれも涼しげで甲乙つけがたい。なつはその中から、特に尾びれの長い一匹をえらんだ。
「わたし、この金魚が好き」
「わかりました。見ていてください」
周吾は中腰でかがむと、ためらいなく網を水にくぐらせた。水鉢の周りに子供たちが集まってきた。母親の袖を引き、自分もやりたいとねだる男の子もいる。
「すばしっこい奴だな。おい待て」
大胆に見えて、周吾の手の動きはなめらかだった。逃げまどう金魚の尾びれを追いかけ、水面に網を走らせていく。水鉢の隅にぶつかり、金魚がくるりと身をかわした。
そこへ迫り、周吾は尾びれの長い金魚をすくった。
が、次の瞬間、金魚は網の上で跳ねて水鉢に落ちた。
「ああ、やられた」
周吾はうしろ頭をかいた。見守っていた子供たちから溜息がもれる。
「惜しかったですね」
「いけると思ったんだがなあ。もうちょっとでした。おやじさん、もう一本」
次は慎重にいくつもりなのか、周吾はねらった金魚を追いかけることはしなかった。
網を水に沈めたまま、じっと金魚の行方を見澄ましている。さっき逃げたことも忘れて、尾の長い金魚が網に向かって泳いできた。身体が網のうちにおさまったところをさっと引き上げる。今度はうまくいった。
なつはすくった金魚をびいどろの容器に入れてもらった。風鈴を逆さにしたような金魚玉を陽に透かすと、小粒の虹がはじけた。
「ありがとうございます」
なつが礼を言うと、周吾は目を細めた。
「気にいったんなら、いつでもとってあげますよ」
水鉢を囲む子供たちの群れから離れ、なつは周吾と縁日をそぞろ歩いた。日が西に傾いていくにつれて縁日にくり出す人が増えてきた。浴衣に下駄を引っかけた夫婦や子供たちがにぎわしい声で笑いさざめいている。
自然とより添う形になった。ときに周吾の手が触れ、耳朶が熱くなる。こんなにくっついて歩いているところを人に見られたらと思うと、なつは照れくささに頬が燃え るようだった。
「どんな名前をつけるんです」
「え?」
「金魚ですよ。名なしのごんべえじゃ愛想がない」
なつは金魚玉を目の高さに掲げた。びいどろの鉢で泳ぐ赤い花。
──そうね。
「赤い魚、だからアサちゃん。どうでしょう、アサって名は」
「ヘえ、アサか。呼びやすくていいですね」
周吾は金魚玉をつついた。当のアサがきょとんとした目で見返す。なつと周吾は同時に笑った。
──いい人だわ。
なつは肩のこわばりが解けるのを感じた。夫婦になったら、きっとこうして笑いあっていけると思う。
この人についていけばいい。何も心配することはないのだ。金魚ではなく自分たちの子供の名を考えている姿を想像すると、胸がこそばゆくなった。
「そろそろ帰りましょうか」
だから周吾にそう言われて気が抜けた。茜色の夕日には勢いがあるが、足元にたそがれの気配が見えはじめている。家に着く頃には陽も沈んでいるだろう。
なつはうなずき、縁日をあとにした。
さっぱりした花紺の着流しに目を惹かれ、なつはすれ違った男をふり返った。いい紬だ。糸目にむらがなくハリがある。何より花紺の青がいい。あんな色を出せる染色師はめったにいない。
男は足早に通りすぎていった。なつの目に映ったのは細い鼻梁と形のいい顎だけで ある。日向の匂いをかいだ気がしたが、それに思いがいたったのは少し経ってからだった。男は古い知り合いに似ていた。
「なつさん? どうしたんです」
周吾がなつの視線を追い、怪訝そうに顔をのぞきこんだ。無意識のうちに足が止まっていたのだ。
「怖い人でもいましたか」
「何でもありません」
なつは無理に笑みをつくって、かぶりを振った。
──まさか、ね。
こんなところで偶然会えるはずがない。今見たのは別人だ。
──江戸にもどってきているなら、連絡をくださると思うもの。
ふたたび周吾とならんで歩きながら、なつはうしろをふり向きたい衝動を殺していた。幾度も顔を確かめたりしたら変に思われる。許婚と一緒にいるのに、よその男の人に色目をつかう女だと誤解されたくはない。
なつは背中に目のついていないことを恨んだ。何とはなしに男がこちらをうかがっているような気がして、四つ辻を曲がりざまに首をひねった。男は人波の間からなつを見ていた。目が合ったのがわかった。見間違いではない。男は喜三郎だった。
辻の真ん中で立ち止まるわけにもいかず、なつはそのまま通りすぎた。目の端から喜三郎が消えても、動悸はおさまらなかった。
間道に入ると人の声が遠くなった。さっきまで空を焦がしていた夕日もいつの間にやらさめてきている。なつはうつむいて歩いていたが、気はそぞろだった。周吾が何かと話しかけてくれるのだが、その声がちっとも頭に入ってこない。隣に周吾のいるのがうしろめたく思え、たった今過ぎたばかりのときを巻きもどしたい気持ちでいっぱいだった。
ふせた視線の先に神代杉の下駄がきた。顔に長い影が落ちる。あおむくと意外な近さで周吾がなつを見つめていた。
気がつくと、なつは周吾の腕の中にいた。鬢付油の匂いを鼻先に感じる。はじめは額に、次は口に周吾の唇が降ってきた。なつはこばむのも忘れ、呆然とそれを受けた。とっさに閉じたまぶたの裏に西日の茜が残っている。空でムクドリが鳴いていた。
急に風向きが変わったのか庭木の梢がさわがしかった。明日は雨になるのかもしれないと思いながら、なつは障子をしめに立った。ためらいがちに昇った月が雲に半分かくれている。浴衣の裾がはたはたとひるがえり、なつは裸足の指に生ぬるい風を感じた。
辻で振り返ったときのおののきは今も胸にあった。端然とした喜三郎の姿がちらつき、残像が頭から離れない。
──帰ってきていたのなら……。
どうして言ってくれないのだろう。なつは今も変わらずこの家に暮らしているのだし、文の一つでも寄こしてくれればいいのだ。それがないのは自分を忘れたからだろうかと、きりのない疑問があふれてくる。
なつは久しぶりに文箱の底から一通の文を取り出した。数えきれないほど読み返したせいで折り目がすりきれている。なつは色の褪せた文を指でなでた。喜三郎からもらった、生まれてはじめての恋文だった。
修行を終えたら江戸にもどってくる。五年後の夏、紫陽花の前で再会しよう。喜三郎は文でそう告げている。
子供の頃、なつは新寺町にある寺で手跡指南をうけていた。家からは少し離れているが師匠の腕がいいと評判だったので、幼馴染で小間物問屋の娘のちぐさとつれだって通った。なつたちのように日本橋から来る者もいれば、小石川から来る者もあった。寺の境内には紫陽花の咲きみだれる一角があり、本来の名とは別に〈紫陽花寺〉とも呼ばれていた。
弟子は全部で三十人ほどいただろうか、喜三郎とはその寺で知り合ったのである。
無口だが優秀な弟子だった。いつも趣味のいいものを着て、静かに書物に向かっていた。喜三郎が『大学』や『論語』を読む凛とした声を墨をすりながら聞くのが、なつは好きだった。
喜三郎は着物の染色師の息子だった。なつの家とはつき合いがなかったが、父親は腕のいい職人だという噂を耳にしたことがある。上に兄がいるが素質の面では平凡で、 いずれ喜三郎が跡をつぐという話だった。
朝、寺の前で顔を合わせれば挨拶をするものの、ほとんど会話を交わしたことはなかった。しかし一方で互いに意識しているのがわかっていた。
言葉こそ交わさないものの、なつは手習いの筆をとる横顔に喜三郎の視線を感じていたし、喜三郎のほうも彼の声になつが耳を澄ましていると知っていたのではないか。なつが自分でも気づかぬうちに喜三郎を目で追っているのは傍目にも明らかで、ちぐさによくからかわれたものだ。
呉服屋の娘と染色師の息子ならちょうどいい取り合わせだ。そんなふうに先行きのことまで思いをめぐらせ、歳もなつが十二で喜三郎が一つ上の十三だから、何の問題もないと幼心に計算していたのである。
ところが別れは突然におとずれた。染色の修行のために喜三郎が京都ヘ旅立ったのだ。しかも向こうヘ行ったきり数年はもどってこられないという。塾でその噂を聞いたなつは青ざめた。
十二の娘にとって数年は途方もない長い年月に思えた。このまま何の約束もせずに江戸と京都に分かれてしまえば、二人の仲はしまいになる。……まだ始まってもいない関係に焦れて、なつは眠れなくなった。
かといって自分の気持ちを打ち明けられるものでもない。なつにはその勇気がなく、枕を涙でぬらすばかりだった。
──それが喜三郎さんから恋文をいただいたんだもの。
なつは文をそっと胸に押し抱いた。手跡指南の最後の稽古日に、喜三郎がなつの布着に忍ばせたのだ。別れの挨拶すらできなかったなつは帰り道にさんざ泣いて、ちぐさを困らせた。家で喜三郎からの文を見つけたときには、どれほどうれしかったことか。あのときの巾着は今も大切に行李にしまってある。
京都での染色修行はひとまず五年と決まっているようだった。だから喜三郎は文で再会の期日を記したのだろう。
──今年でちょうど……。
その五年目の夏をむかえる。じきに紫陽花も咲くだろう。
喜三郎は修行を終えて江戸に帰ってきたのだ。なつと会える日を楽しみに、かつて通っていた寺へ行ったかもしれない。紫陽花の咲くときを確かめるために。
なつは文を膝の上に置き、肩で息をついた。
──そんなはずないじゃないの。
もう五年経つのだ。二人は大人になった。なつが婚礼を控えているように、喜三郎にもいい人がいたって不思議はない。
それどころか妻も子もあるかもしれないのだ。ふっと考えたとたん、強い悲しみがきた。なつは恋文に目を落とし、とうにそらんじている喜三郎の言葉を口中でころがした。
──あの人がわたしを忘れたか、どうか、まだわからない。
離れている間の一日は長くとも、通り過ぎたあとにふり返る月日は案外に短いものだ。もし喜三郎がずっと、あの約束の日を待っていたのだとしたら……、そうでないとは言いきれないではないか。
「またそんなに残して。やつれた顔でお式に出るつもり」
母は半分手をつけただけの膳を見て、さっそく小言をもらした。
「胸がいっぱいで食べられないんですもの」
「しょうがない子ね。この飢饉で困っている人が大勢いるというのに。──下げてち ょうだい」
「待って」
母に言いつけられた下女が膳を片付けようとするのを、なつは手で制した。
「ごめんなさい。食べます」
飢饉の話を持ち出されては、とても残せるものではない。少々暑さでまいっているが、なつの場合は身体の、というより気の病だった。食べ物を粗末にしたら罰が当たる。
縁日の帰りに喜三郎を見かけて以来、なつは気迷いに悩まされていた。いっときは解決したつもりでいたふさぎの虫がふたたびあらわれ、胸をむしばんでいる。周吾から誘われても二の足を踏むことが多く、ことわりを告げるのも無理に出かけるのも億劫で、それがまた気鬱の種になっていた。
原因ははっきりしている。喜三郎が姿を見せたために、婚礼をためらう気持ちが生まれているのだ。
朝餉をすませたあと、なつは散歩に出た。共をするという下女の申し出を「ひとり になりたいの」とことわり、薄曇りの道を行った。
本石町にある家から日本橋通りへ出ると、急ににぎやかになった。祖母の代から贔屓にしている紅屋や櫛屋をひやかしながら、江戸店が軒をならべる界隈をそぞろ歩いていく。季節ごとに飾りを変える店先はいくらながめても飽きることがなく、新しい紅の色を試したり、この象牙の櫛はあの着物に合うかもしれないと考えているだけで、小半刻くらいはあっという間に過ぎる。
華やかな通りを抜けて目的もなしに歩いていくうちに、なつの足は勝手に新寺町に向かっていた。
三年前に手跡指南の稽古をやめて以来、ほとんど縁のなかった町ヘ何をしにいくつもりなのか。
ゆうべ一晩考えて、やはり喜三郎はなつに会いにきたのではないかという思いになった。そうでなければ喜三郎が江戸にいる理由が見つからないのである。
──あの人の家はもうないんですもの。
喜三郎の住まいは亀井町にあった。しかし、いい腕だと評判だった父が目を傷めて引退したのを機に、一家は江戸を引き上げ上州ヘ越していった。一昨年の冬の話である。
なつの縁談がまとまったのもちょうどその頃だった。〈おがわ〉の主人となつの父は古くからの友人で、それぞれに男の子と女の子が生まれたら将来は娶わせようと決めていたのだという。
父からそう聞かされたとき、なつは諦めにも似た境地で縁談を受けた。家には兄がいたから自分がいずれ嫁に出るのは承知していたし、十三歳だった喜三郎の気持ちが今もつづいているのか、どうか、信じきれない心地になっていたのである。
父親同士はつき合いが深いとはいえ、五つ歳の離れた周吾とは一緒に遊んだ記憶もなかった。実直で商いの才もあると父に言われても、どこか他人ごとのようにとらえていたと思う。頼りない話のようだが、たいていの友人もそんなふうにして嫁いでいったし、とりたてて疑問はなかった。
だが、従順な娘の心で親の決めた縁談にしたがう一方で、喜三郎への思いは残っていた。文箱の中の恋文を捨てることはできなかった。
縁談が決まったときに封じたつもりの心は今も生きているのだろう。手跡指南ヘ通っていたときからずいぶん日が経っていたが、なつの足は紫陽花寺までの道を覚えていた。
当時から古びていた寺は過ぎたときを感じさせなかった。なつは石畳を踏んで広い境内に入った。稽古部屋の障子は開いていた。ゆるい風に乗って幼い声が流れてくる。四書五経の講義の最中らしく、塾生たちはかしこまった表情で書物に向かっている。
それを横目に、なつは境内の奥にある池に向かった。
──あとどれくらいで色づくかしら。
紫陽花は池を囲う形で植わっていた。花はまだない。葉より浅い色の萼が蕾様にかたまり、ささやかな鞠をつくっているだけだ。大輪の花をひらいて露の色に染まっていくには、まだ少し間があるだろう。
ここで待っていれば、そのうち喜三郎に会える。江戸に家のなくなった喜三郎が日本橋にあらわれたのは、再会の約束を果たすため……なつにはそう思えてならなかった。
喜三郎の一家が上州ヘ越してから、彼の噂を耳にしたことはない。
実のところ、なつは喜三郎とは二度と会えないものと思っていた。父の待つ上州の家に行くのか、あるいはそのまま京都にとどまるのか。いずれにしろ、修行を終えた喜三郎がもどる場所は江戸にないのだ。
──あの人があらわれたのは、きっと。
自分との約束を果たすため。なつはそう思った。
──けれど……。
許婚のいる身で喜三郎に会うのは裏切りではないか。せっかく五年も待っていてくれたのに、当の自分に縁談相手がいるのではつり合わない。恋文の約束を守るつもりならば、こちらもそれなりの覚悟を示さなければならないだろう。
なつは空梅雨のせいか記憶より水嵩の少ない池をひと回りして、家路についた。
それから、なつは毎日紫陽花寺ヘ通った。
お茶やお花のお稽古に行くときをのぞけば、自由になる時間はじゅうぶんにある。父は商売に、母は祝言の支度でいそがしく、なつの部屋にはめったに顔を出さない。日の高いうちに半刻か一刻、なつが家を空けてもとがめる者はなかった。
今日もひとりで紫陽花寺に来たなつは、まっすぐ池に向かった。
──そろそろね。
先週にまとまった雨が降ったので、紫陽花はひと足とびに成長したらしい。小さな粒だった萼がふくらみ、花の形になっている。よく見ると、端のほうが薄っすら青味を帯びていた。あとひと雨で花の季節がおとずれるだろう。
寺へ通うようになって十日あまり経っていたが、いつ行っても池の周りには人の気配がなく喜三郎とは会えなかった。それが少し寂しくて、けれどほっとする。会える日を心待ちにしているとはいうものの、実際にこの池の前で喜三郎と二人きりになったら、どんな話をしていいかわからない。まともに目を見つめられるかどうか、今のなつには自信がないのだ。
寺までの行き来はすっかり足になじみ、考えごとをしながらでも迷うことがなかった。なつは昨日下男を通じて螢狩りに誘ってきた周吾へどう返事をしようか、またこ とわったりしたら角が立つだろうかと、思いめぐらしながら歩いていた。
「なつさん」
ふいに背後から呼ばれて、ふり返ったなつは呆然とした。微笑を浮かべた周吾が目の前に立っている。
「ちょうど良かった。お家ヘ行ったら散歩に出かけたと言われたものですから」
「そうですか」
「お家まで送りましょう。明日か明後日にでも、螢狩りへお連れしようと思っていたのですよ」
返事につまり、なつは小首をかしげた。こんな気持ちでは、とても周吾と肩をならべて螢狩りになど出かけられそうにない。
「あまり元気がないようですが……。ここのところ暑い日がつづいていますからね、うちの母などもう夏負けしたと言ってますよ」
「子供の頃から、むし暑いのは苦手なんです」
「なつさんは華奢だからなあ。そうだ、今度は鰻を食べにいきましょう」
周吾はなつの無口を夏負けのせいと考えているようだった。明るい声にうなずきながら、なつは次第に心がかげっていくのを覚えた。自分はこの人をだましているのだ。こうしてより添って歩きながらも、胸には別の男が棲んでいる。許婚が別の男に気持ちを揺らしているとも知らずにやさしさを示してくれる男を、なつは遠い目でながめた。
梅雨の間にたまった水がしみ込んでいるのか、道はしっとりとぬくもっていた。昼前の空は入道雲がぽかりとひとつ浮いているきりで、さっぱりと晴れている。日傘を差してこなかったことを悔いながら、なつは額に掌をかざした。
小さな稲荷神社の前で、周吾が足を止めた。
「日陰で少し休みましょう」
背の高い欅を指差し、なつに同意をうながす。とっさに笑顔を返したなつは、「でも」とためらった。
「疲れた顔をしていますよ。水売りを探してまいりましょう」
周吾はなつを木陰に立たせると、通りヘ走っていった。下駄の音が去っていく。
──どうしたらいいのかしら。
やさしくされるほど疚しさがつのり、なつは息苦しかった。
──いい人だとは思うけれど。
そこに「好き」という感情はふくまれていない。喜三郎に対して抱いているような切なさがない。つまり、周吾に恋情はないということなのだろう。
このまま自分の気持ちに嘘をついて周吾と祝言を上げるのはよくない。どこかで引き返さなくては。そして引き返すとするなら今だと、なつは思った。
周吾は白玉入りの水を手にもどってきた。
「砂糖を多めに入れてもらいましたからね」
しばらく二人は黙って冷たい水を飲んだ。渇いてひりついていた喉が甘い水でうるおい、汗が引いていく。
欅に背をあずけたまま周吾が言った。
「最近、食欲がないそうですね。お母さんが心配していました」
「ごめんなさい。たいしたことはないんです」
「女子は祝言が目の前にせまってくると急に不安になるものだから、っておっしゃっていました」
「母がそんなことを……」
「はい。なつさんのお母さんもお式の直前までなぜかしら涙の止まらないときがあって、ひどく困ったと言ってましたよ」
なつの様子がおかしいのを母は気づいていたのだ。何も言わなかったのは自分にも同じ経験があったからだろうか。
「男のわたしにはわかりませんが、女の方は婚礼衣装の準備やら何やらでおいそがしいのでしょう。あまり無理しないでください。わたしはもちろん、父も母もなつさんが家に来てくださるのを楽しみにしているのですから」
周吾はうつむいたなつの頬に手を添えて、顔を上に向かせた。
「わたしは父に感謝しているのです」
「……」
「親同士が決めた縁談ですが、わたしはなつさんが好きです。あなたを女房にすることができるなんて、わたしは果報者だ」
──やめてください。
首を振って唇をよけようとしたなつを周吾が強い力で抱きすくめた。この前のときよりも深い口づけだった。
「なつさん……?」
自分でも気づかぬうちに身体がふるえていた。周吾は唇を離し、そっとなつの背をなでた。
「あなたを幸せにすると約束します」
なつはうなずけなかった。祝言前に不安になる……、縁談を控えた女子の誰もが通る道なのだろうか。
雨の音で目が覚めた。昨夜遅く降り出した雨は、朝になってもつづいている。
なつは寝巻きのまま部屋の障子を開け、白くけむった空を見上げた。雲なのか霧なのか空は透明なしずくにつつまれている。夏雨は勢いこそないものの、長く降りそうな感じがした。
なつは傘を差して家を出た。知らず知らずのうちに足が速まる。
──今日なら、おそらく。
紫陽花は色づいているだろう。喜三郎ときっと会える。なつはそう信じて泥のはねる道を急いだ。淡い色の着物にしみがつかないよう、大島の長合羽をはおっている。
水浅葱の絽をまとってきたのは花の色を意識したからだった。紫陽花と同じ色に身を染めて喜三郎を待ちたかった。
境内には人の気配がなかった。稽古部屋も閉ざされていて、中が見えない。なつはまっすぐ池に向かい、合羽を脱いで喜三郎を待った。
一晩のうちに紫陽花はすっかり雨の色に変わっていた。昨日まで若葉と見分けのつかなかった萼が、今朝は深い青色をしている。池より紫陽花のほうがより強く雨を吸うのか、花に水の色がにじみ出ていた。
昼過ぎになっても雨は止まない。空から垂れる冷たい糸が傘をたたく。なつは傘の柄を肩にかけ、さざめく池の水面をながめた。風は生温かく、立っていても寒くなかった。
紫陽花はこの雨に生気をえて、こうしている間にますます色を深めているかに思える。なつは花をながめているだけで退屈しなかった。足はくたびれていたが心は躍っていた。今日こそ喜三郎に会えるという確信で胸がふくらみ、ときが経つのを忘れてしまいそうだった。
しかし昼八つ(十四時頃〉を過ぎ、七つの鐘を聞く頃には、抱いていた期待は少しずつ萎えていった。
──もしかして来ないのかもしれない。
雨は小降りになってきたが空は雲が切れぬまま、薄っすらと暗くなりはじめている。
──雨が止むまで。
喜三郎があらわれなかったら、諦めて家に帰ろう。それまではここで待ちたい。なつは巾着に目を落とした。有栖川文様の名物裂でつくった巾着は、喜三郎が寺で恋文を忍ばせた日に持っていたものである。五年前の思いを今も忘れていない、という意味で提げてきたのだ。
紫陽花とは反対に、なつは雨に打たれるうちにしおれていった。刻々と過ぎていくときの早さに気負けしている。再会を心待ちにしていただけに消沈する気持ちも大きい。このまま身体ごと雨に流されてしまえばいい。汚れた爪先に目を落とし、なつは唇をかんだ。ずっと柄をにぎっていた腕が疲れて、なつは傘を閉じた。紫陽花に立てかけ、どんよりした空に向かって溜息をつく。雨はほとんど霧になっており、傘を差していなくても平気だった。
やがて雨が止んだ。喜三郎はとうとう姿を見せなかった。自分で決めたことにしたがい、なつは家に帰ろうと思った。
──五年は長いわよね。
恋文を忘れていないにしろ、気持ちが変わっても不思議はない。むしろそのほうが自然なのかもしれない。
花だって昔と同じではない。五年前の紫陽花と今の花は違うのだ。こんなところで毎日喜三郎を待って……、自分は浅はかだったのだろうか。
行き道とは違い、帰り道は足が重かった。朝にはもどかしく思えた距離が今はわずらわしい。
──あ、傘。
小半刻ほど歩いた頃、寺に傘を忘れたことに気づいた。なつはあわてて引き返した。
早くも暮れ色に傾きかけた空の下に、花紺の紬を着た男がいた。
「喜三郎さん」
ふり向いた顔は紫陽花と同じ色をしている。次の言葉が見つからず、なつはまばたきをした。待ちわびた人にやっと会えたうれしさで頬が上気する。
「なつさん、お久しぶりです」
喜三郎はあの頃と同じ声で言った。なつを見下ろす目にはあたたかな情がこもっているように見えた。
──待っていて良かった。
声を聞いただけで胸が熱くなり、着物にしみた雨が蒸発していく気がした。傘を取りにもどらなければ会えなかったと思うと涙が出そうになる。このときばかりは自分の粗忽がありがたかった。
「傘を忘れて」
なつは照れかくしに紫陽花に埋もれた傘を指で示した。お玉ケ池の縁日の帰りに偶然出会ったときの驚きと、これまでの日々をどうやって伝えようかと気持ちがはやる。なつの顔が自然に笑みくずれた。
「どうしてここヘ?」
しかし、喜三郎のその言葉に舌が凍った。一瞬、何を聞いたのかと頭が混乱する。手渡された傘の柄は雨にぬれてひどく冷たかった。
「なつさんのお家は本石町ではなかったですか。この寺まではかなりあるでしょう」
「紫陽花が見たくて」
かろうじて笑みを保ちながら、なつは早口に言った。「紫陽花が見たかったんです」
喜三郎は昔と同じ微笑をたたえていたが、それはどこか儀礼的な感じがした。何かおかしい。
なつは慎重に訊いた。
「喜三郎さんこそ、なぜ江戸に? お家は上州に移られたって伺ったのですけれど」
「ええ、今はわたしも上州に住んでいます。ちょっとこちらに用事があったものですから、糸の仕入れがてら来たのですよ」
「そうですか。仕入れに……」
平静な声を出すつもりが、語尾がかすれた。なつは喜三郎から目を逸らし、露玉を全身に浴びた紫陽花を見つめた。
「ところで、ちぐささんはお元気ですか」
「え?」
「ちぐささんですよ。なつさんと仲の良かった……」
「ちいちゃんなら、今はいい女将さんになっていますよ」
「そうですか」
喜三郎の表情がくもったように見えた。
ああ、そうだったのか。落胆した喜三郎の表情を見て、一切が腑に落ちた。なつは何気なく巾着をうしろ手にかくした。これは、なつが母にたのんでちぐさの分もつくってもらったものだった。
あの頃、なつはよくちぐさと揃いの巾着を提げていた。とりわけ有栖川のこれは、さりげない色使いが粋で、ちぐさも気にいってくれていた。喜三郎は勘違いしたのだ。彼が恋文を忍ばせたかったのは、なつではなくちぐさの巾着だったのだ。
──そう。そうだったの。
喜三郎も自分を好いていたと思っていたのは自分のうぬぼれだった。なつは別の女子に宛てた恋文を後生大事に五年も抱いていたのである。
なつはちぐさが婿をとって家を継いだと話し、暇を告げた。一刻も早くこの場から立ち去りたかった。
帰り道、すれ違う人がなつを見てふり返った。はっとして足を止めると頬がぬれていた。自分が泣いていることにも気づかなかった。
──でも、これで……。
ようやく、けりがついた。今日はこのまま家に帰り、顔を洗って寝てしまおう。明日になったら、母にねだって打掛をもう一度見せてもらう。店の経営が苦しいときに父が無理して用意してくれた宝尽くしの総刺繍をながめて、長い一日を過ごせばいいのだ。
紫陽花の色の着物はなつの顔には少し寂しく映るかもしれない。父にお願いして明るい色に染めなおしてもらうのもいい。
雨はとうに止んでいたが、着物に水の匂いがしみているようだった。あるいは花の香りなのかもしれない。
喜三郎は境内を出て、通りに立っていた。
──これでいい。
悄然とうなだれるなつの背中を見送りながら、自分に言い聞かせる。爪がくい込むほど拳を強くにぎり、追いかけたい気持ちをこらえた。
ちぐさに会いに江戸に来た、というのは嘘だった。なつの顔を見た瞬間に頭が白くなり、口が勝手にしゃべったのである。
京都での修行中に、喜三郎は弟子仲間に大怪我を負わせた。師匠に目をかけられていたせいか、喜三郎は仲間にあまりよく思われていなかった。
ある日、納得のできる色が出せなくて、喜三郎は遅くまで仕事場に残っていた。そこへ通いの弟子だった男が酒気を帯びてあらわれ、執拗にからんできた。普段なら黙って受け流すところだが、仕事がうまくいかない苛立ちも手伝い喧嘩になった。馬鹿だった。あとから悟っても仕方がないが、つい怒りの衝動に身を任せた自分に悔いが残る。
倒れたのは弟子仲間のほうだった。命に別状はなかったが、商売道具の右腕にしびれが残った。喜三郎は師匠と仲間の親に土下座をして、仕事場を去った。以来、京都へは足を踏み入れていない。
今は上州で塩売りをして暮らしている。両親はなげいているが、染色の仕事にもどるつもりはない。お嬢さんのなつを迎えにくる資格はとうに失っていた。
──それにしても、きれいになっていた。
なつがまだ自分の恋文を覚えていてくれるとは思っていなかった。それでも江戸ヘ来てみたのは、万一の可能性を期待していたからである。
喜三郎は手跡指南の師匠ヘ無沙汰をしていたことを詫び、しばらくの間泊めてもらった。宿泊料を支払う余裕がないので、その代わりに子供たちに『論語』を教えた。
なつが寺へ通ってくるのは稽古場から見えていた。遠くからその姿をながめているだけで満足だった。会うつもりはなかった。それが言葉を交わせたのだから、江戸に 出てきた甲斐はあった。
縁日で一緒にいたのは許婚か何かだろう。しっかりとした大人の男に見えた。あの男の女房になるのなら、なつは幸せになると思う。
ふたたび雨が降り出した。暮れ色はしだいに濃くなっている。
──雨が上がれば、忘れるだろうな。
いや、忘れてほしい。そのほうが心残りなく江戸を去っていける。
喜三郎は紫陽花寺を出て、小雨にぬれる道を歩いていった。