十月は好季節であるが、毎年雨が多い。旅行しても、家にゐても、日を暮し心地のいゝのは十一月頃からである。今年の秋、私はいかにして過さうか。昭和三十三年十一月一日。私は歌舞伎座で挙行される芸術祭に列席するつもりで家を出て、その次手に、放送局に立寄ることにした。予約してゐた簡単な放送の録音を採って、お茶を飲んでゐると、お宅から電話がかゝつたとの知らせがあつた。世間の用事の乏しい私には外出先きへ自宅から電話のかゝる事なんか滅多にないので、珍しい事と思ひながら、受話器を手にして耳を注ぐと、「郷里のAさんの病気が急に悪くなつたといふ知らせが、姫路のSさんから築土のIさんに来たさうです。それで、Iさんは今日の夜行でお郷里へ立つと、今電話で知らせて来ました。あなたもIさんと一しよにいらつしやつたらいゝでせう」と云ふのであつた。
「さうだなあ」私は、今日といふ今日、直ぐ帰郷の途に就いてもいゝが、二日の日曜、三日の祭日と二日つゞきの休日を扣へた今夜、寝台は容易に得られないだらうと思案した。そして、築土とも打合せて、どの夜行列車であれ、寝台を獲得する努力をすることにした。晩まで芸術祭を観て、それから一度自宅へ帰つて旅仕度をして、夜行車に乗ることにした。歌舞伎座の座席を先きに取つて置いて、寝台券を買ひに廻つた。かういふ忙しい思ひをしてゐる間に、私は、たびたびAの顔を眼前に思ひ浮べた。さまざまな都会の男女を前後左右に見てゐながら、それ等は雑然たる人間の影であつて、百里を隔てた郷里に病臥して、死に瀕してゐる筈のAだけが、厳然たる人間存在として鮮明に、わが眼前に現はれてゐるのである。
Aは、私の弟である。私が一家の長男で、Aは次男である。年齢に於て二歳の差があるだけである。人間として一しよに育つて来たやうなものだ。私の両親は十人もの子供を産んだので、その十人のうち八人は、今なほ生存してゐるのであるが、幼い時分に一しよに親しく成長したために、Aの肉体も精神行動をも最もよく知つてゐるやうである。私は早くから故郷を出たのだし、弟妹と往来することも、懇談することも、甚だ稀れであり、私に取つては、他人が他人である如く、兄弟も他人とさしたる相違がないやうに思はれてゐたのであるが、たゞ、Aとは、二歳だけの相違であるため一しよに育ち、小学校卒業時分まで、寝食を共にしてゐたので、おのづからAといふ人間をよく知ってゐるやうに思ふ。つまり人類のうちで、私が最もよく知つてゐる人間はAであると云つていゝやうだ。女性としては、無論、私は一人の妻だけによつて人間女性を知つてゐる筈であり、社会に伍して、いろいろな人間相を断片的に見てはゐるものの、純粋の人間をそのまゝに見たのは、Aに依つてであるやうに感ぜられた。私は自分の姿を彼に於て見ることがある。それはいやであり、好ましからざる事であるに関はらず、さうだからさうである。
老境を突破するまでに生き延びた八人の兄弟のうち、誰が最初に死ぬるかとかねて思つてゐたが、おれでなくつてAであつたか。Aは白内障に罹つて手術をしたが、その後は殆んど書物を読むに堪へないほどに視力が衰へてゐたさうである。胃腸も悪く、長い間普通食も食べられぬやうになつてゐたらしい。それでも、一時間もバスに乗つて岡山の学校へ国学を教へに行くこと数年に及んだと云はれてゐる。
年齢が年齢であるし、今度は回復の見込みはあるまいと、私は独断した。さう独断すると、生存中に会ひたいやうな気持になりだした。それで、歌舞伎座の入場券を拠棄して、人頼みしてやうやく手に入つた寝台券を持つて、急いで家へ帰つた。旅の仕度は調つてゐた。
父の葬式、母の葬式。私の妻も、この二つの葬式には立合つてゐるので、田舎の葬式振りは略々知つてゐた。
「田舎では近所の人が、今でも昔からの慣例通りに葬式の世話をして呉れるだらうからいゝ」と、私は呟いたが、それは、私達が、今にも死ぬかもしれないのに、葬式の始末をして呉れる者のないのを、気遣つてゐることに連関しての呟きであつた。
私の故郷に親しみのない妻の望みで、多磨の墓地の片隅に、自家用のさゝやかな埋葬地を買つたのであるが、この世のいのちの絶えた残骸を、そこに埋めるまでの手続きの煩はしさを、私達は不断気にしてゐたのであつた。その煩はしさの一切を引受けて呉れる者があればいゝだらうが、私達の身辺にはさういふ調法な人は一人もゐないのである。葬儀会社にすべてを任せたらどうだらうかと思つてゐるものの、今の時世にでも、葬儀会社だけでは万事解決されさうではない。殊に私自身は、死んで葬式を出される時に、遺族(さういふ者が私にもありとして)が戸まどひするやうな事がありはしないか、真剣に気遣はれてゐるのであるが、それは、私が柄になく勲章を貰ってゐる事である。手軽に、誰にも知らせずに、こつそり焼き場へ持つて行つて、骨だけ拾つたらそれでおしまひと云ふ訳には行かなくつて、お上に届けて告別式をも催して、文部省か宮内省から、お役人が来て弔辞を述べるのが規定になつてゐるらしい。それに関しての儀礼を果す人間は私の家にはゐないのである。虚礼にしても礼を守らねばならぬのだらうと、取り越し苦労の私は、をりをりそれを気にしてゐて、いつそ適当な時期に、勲章をも、或は芸術院会員をも、自分には、空恐ろしいほどの過分の待遇として辞退したらいゝのではないかと、考へたりしてゐた。人造の飾りを取つて、老い朽ちた見すぼらしい一塊の生物として死んで行くのが、自分の身にふさはしいのではないかと、よく思つてゐる。私の死後拠ん所なく私の葬式をやらされる誰かが、煩はしい思ひをさゝれないで済む訳である。
ところで、先頃芸術院の総会に出席すると、或美術家が会員たる栄位を辞退したいと申出てゐるが、それを許可すべきか否かが総会の議題の一つとなってゐた。美術家にはをりをりこんな事を云ひ出す癖があるらしい。「止めたい人は止めさせたらいゝのではないか」と、私はいつも手軽に思つてゐたが、世間の秩序を守るためには、さう簡単には取極められないものらしい。或程度の引留め策が講ぜられた揚句、それでは「甚だ残念ではあるが」と、勿体をつけて、辞任許可となるのを例とするのである。「はじめから会員にならなければいゝではないか」と云つた人もあつた。その通りである。「会員になる時に、中途で辞任しませんといふ証文を一札入れさせることにしたらいかが」と云つた人もあつた。「中途で辞退して、自分は芸術院会員以上の人間になつたつもりなんだ。いつまでもあんな会員になつてるのは馬鹿だといふやうなものだ」と、隣席の人と私語してゐた人もあつた。まさかそれ程でもあるまい。はじめはこの名誉ある肩書を有難がつて拝受しても、何か身辺の事情、心境の変化があつて、辞退したくなることもあるのではないか。辞任の自由はあつて然るべきだと、私はかねて思つてゐた。死ぬ時、葬式の時、面倒だから、この栄誉ある装飾から脱却して置かうかと、私は詰らない空想をしてゐるのである。
「Aが死んだら、故郷の家とおれとの関係もちがふことになるのだから、処分法を考へねばなるまい」などと、Aの死は極つてゐることとして、彼死後の何かの話を妻と取りかはして、私は、殆んど何も入つてゐない鞄を提げて家を出た。今夜、私と一しよに出立する筈の、弟のIは、私よりも三時間後の夜汽車の寝台を辛うじて手に入れたさうであるが、かういふ旅行は一人一人の方がいゝのではあるまいか。私の寝室は鹿児島行特急のコンパートメントで、しかも、二人部屋に誰も乗つて来ないで、私独りで一室を占領してゐたのである。このまゝ鹿児島まで行つたらいゝのにと思つたりして、眠りづらい一夜を過した。
交通機関はますます進歩発達して、昨年、郷里の一端にまで汽車が通ふことになつた。バスも縦横に走つてゐる。私の幼少時代には、汽車までの距離が三里もあり、その間をヨタヨタの人力車が動いてゐるだけであつた。そん有り振れたことを今度事々しく思出したのは、学生時代、私の暑中休暇後の上京の時に、Aが私の荷物を持つて駅まで送つて来たことである。駅に預けつ放しにして置いた私の行李などを、Aが炎天下の三里の道を往復して、持ち帰つて来たことなどであつた。その時ラムネを一本飲んで来たと云つたことを覚えてゐる。春は物資が乏しかつたので、私が重い病気に罹つて、くだものを欲しがつた時に、二里を隔てた村に梨を買ひに行かされたのはAであつた。
私は夜明け前に岡山に着いて、そこから引返して、最近開通した汽車に乗り、バスに乗り移つて、郷里の停留所で下りると、愛嬌のある若い女性が、「荷物をお持ちしませう」と云つて私の軽い鞄を持たうとした。この村の女らしくはないのに、どうしたことかと訊くと、「A先生のお見舞に来ました」といふのである。Aの教へてゐる岡山の女学校の生徒であるらしい。私は一しよに歩いて、自分の家の前で別れて、その女性は、A夫婦の住所となつてゐる山の家の方へ行つた。私の家は、上べは管理人見たいになつてAの一人息子H夫婦が住んでゐる。私は侵入者見たいに、古ぼけたその家の土間を通り抜けて畳の上に上つて、一目見渡すと、常例の如く、自分の幼少の頃の生活が、今も昔有つた如くに再現するのであつた。Hはいつものやうににこにこした屈托のなささうな顔してゐる。奥の座敷に入つて見ると、近年結婚して他郷へ行つてゐる筈の、Hの娘二人が朗らかな顔して座を構へてゐる。それぞれに赤ん坊を一人づつ連れて来てゐて、蒲団の上に寝かしてゐた。これ等の赤ん坊は、Hの孫であり、Aの曾孫であるのかと、人生推移の様が不思議のやうであつた。一人は生後四十五日、一人は生後九十五日。このくらゐの日数でこんなに大きくなるものかと、子供のない私は、珍奇な生物を見るやうなつもりで、暫く見詰めてゐた。
Aの病状について、H夫妻に訊くと、
「幽門閉塞症とかいふんですが、癌が出来とるんぢやさうです。糞便が腹一杯たまつてゐて、お医者の手で出して貰ふんです。たべ物は何もたべられないんですが、それでは生きてゐられないんで、山羊の乳かくだ物の汁を少しばかり飲んで居ります」と、云つた。十月の十五日までも、苦しいのを忍んで岡山の学校へ通つてゐて、どうにも動けなくなつてから、一週間ばかり病院に入つてゐたのだが、治療の当てがないので帰つて来たのである。当人は癌に罹つてゐることを知らないので、回復の望みをまだいくらか持つてゐるさうだ。「見舞品を持つて来た人の名はつけて置け、快気祝ひをする時にいるだらうから」と云つたさうだ。
「見舞に来る人に一々容体を話すんだから、厄介で為様がない。テープにでも取つとくといゝんだが」と、Hは笑つてゐた。
私は、いつものやうに、この家に帰ると眠くなつた。幼少の頃の私の勉強部屋であり、後には、父の常住の居間になつてゐた日当りのいゝ小ぢんまりした部屋が居心地がよくつて、私は帰郷のたびに、そこで気まゝに寝ころんで過すのを例としてゐたのだが、今度はそこでHが見舞客に応対することになつてゐるらしいので、私は自分独りの居所がなくなつた思ひをした。見舞客なんかには会ひたくないし、眠くもなつたので、二人の赤ん坊の寝てゐる座敷へ入つて、その側で毛布をかぶつて眠つた。赤ん坊の泣声が聞えても、それを、私は歌謡曲でも聞くやうな気持で耳にしながら、安らかに眠つた。
目が醒めた時分に、昨夜の遅い夜行車に乗つて来たIが到着した。赤穂留りの汽車で、乗換へまで一時間の余裕があつたから、赤穂見物をしたと云つて、名物の汐見饅頭を出して、これはうまいと、頻りに褒め立てた。私も一つ抓んで賞味した。「Aにちよつと会つて来ようか」と、私はIを促したが、生存中のAに会ふのが、咋夜来の私の唯一の願望であつたのだ。面会謝絶になつてゐようとも、一目見て一言口を利くぐらゐな事は差支へないだらうと思つてゐた。
山の家には、病室の側の部屋に、バスで私と一しよであつた女性が謹ましやかに坐つてゐた。何かの手助けをするつもりで、かういふ女性がをりをり来訪してゐるのださうだ。病室に入ると、Aの寝姿は冷静で、死の迫つてゐるらしい趣きは見えなかつた。Aの妻女は夜具の裾の方にゐて、時々足でも揉んでゐるらしかつた。Aは視力もないであらうし、私達の方を見ようともしなかつた。「誰にも知らせんつもりぢやつたのに」と、低い声で云つたのが、短い話の唯一の要点見たいであつた。私も、何を云つていゝか迷つて、つまりは何も云はないことにした。云はないための心残りはなかつた。
私とIは静かに病室を出ると、次手に墓詣りをすることにした。墓地は直ぐ近くであつた。山に沿つた墓地からの四季の眺めは美しいのであるが、この日は、ことに秋のなかばの、晴れた日である。山も海も、おのづからの絵であつて、私達も画中の人物となるのである。両親の墓、祖母の墓、先祖代々の苔蒸した墓を見廻りながら、私は、ふと、多磨の墓地の事を連想して、Iに向つて話した。「死んだあとはどうでもいゝので、骨を埋める所だけが必要だとして、多磨の隅つこの方を買つたのだが、おれも死ぬ時には、あんな淋しい所に埋められるよりも、両親や先祖の墓の側に葬られたいと云ふやうになるかも知れないね」
実は、死んだ後では埋骨地なんかどうでもいゝのだが、生きてゐる今、風趣豊かなこの墓地に永遠に眠る事を空想することだけに一種の興味が感ぜられるのである。Aもそのうち此処の墓地の空いた所に埋められるのであらうが、私の遺骸の始末はどうなるか。
さつき接触したAは、意識は鮮明であつたが、私などの訪問について何の関心も持つてゐないやうであつた。「わざわざ来てくれなくつてもよかつた」と、衰へた頭に感じてゐたらしく、私の心に印象された。一しよに育つた人間に一生の別れを告げる時には、何等かの感傷的気持に浸ることがありさうに私は想像してゐたが、それは詩人や小説家の凡庸な捏造事ではないかとさへ思はれた。病気の見舞客が病状の経過などを、真面目な顔して、慎ましやかな態度で訊いてゐるにしても、詰りは一種の興味からなのだ。自分に何の利害関係もなかつたら、人の死は話題としても、気軽に興味中心で味はれるに過ぎないのである。
しかし、自分の生みの子や、孫娘に見守られて死ぬのは、狐独の死よりいくらか安らかさを覚えるだらうと、私のやうな境遇の者には感じられるが、それとともに、死後の子孫の生活を気にして、死ぬにも死に切れないと云ふ者もあつて、「あとは野となれ、山となれ」のさばさばした気持は、子孫のない者でなければ味へまい。
「こなひだ、山羊が突然死にました。お父さんが可愛がつてよく世話をしてゐたから、殉死ぢやないかと云つて居ります」
Hの妻は云つた。
「それよりもかういふ事がありました。こなひだ、岡山のカトリックの学校から、お年寄りの方が来て下すつて、洗礼を授けて下すつて、これで天国へ行けますと仰有いました」
それを聞いて私は、童話見たいな面白さを感じた。押付け洗礼にしても、死の悩みの和らげられさうに感ぜられた。どうせ直ぐ側のお寺で、先祖代々の習慣通り、仏式で葬儀が営まれるにちがひないが、Aが臨終の際にキリストの恵みにあづかることを思ふと、A自身よりも私に取つて、死生の悲哀感がいくらか和らげられるやうな気がするのであつた。私が東京留学の途に就く前、小学校卒業後の数年間を、近所の漢学中心の校舎や、岡山の宣教師の私塾に通つたり、自宅で雑書を読み耽つたりして、飄々然として暮してゐた間に、キリスト教にかぶれて、をりをり隣村のキリスト教講義所を訪れて、そこの伝道師の教へを受けることもあつたが、Aもたまには私に随いて、二里あまり距つたその講義所へ通つてゐた。無論、針の先ほどの信仰もなかつた。Aの一生の仕事は、万葉だの源氏だのの国学書の研究であつたし、山田孝雄氏に師事してゐたらしいから、おのづから神道に心を寄せてゐた筈であつた。
「お大師様のお伴をして極楽へお出んされ」と、私の父の死体を棺桶に収める時に、近所の婆さんが云つてゐたが、Aの死が見送られる時は、何と云はれるであらうか。
私が若しも、Aの葬式の揚に立つたとしたら、送別の辞として何と云ふべきか。死んだら最後、彼と我とは無縁の人である。死者は死者、生者は生者。親にしろ、兄弟にしろ、絶対無縁であるとすると、言ふべき事はないではないか。A自身がすでに自分の危篤状態を兄弔にも知らせるなと、側の者に云つてゐたらしい。しかし、死ぬ間際の人間の気持はどうだか。私はまだ経験しないから分らない。古来の聖人賢者愚者痴人が傍観的に観察して、何とかかとか、知つたか振りに云はれて来たが、これこそ究極の真相は分つてはゐない。私は断末魔の際に、伝統的に因習的に、南無阿弥陀仏を唱へるだらうか。エス・キリストに救ひを求むるだらうか。
「輸血すれば何日か持つだらう」とか、「長くつても今月一杯は六ケ敷からう」とか、何も分らない事が分らないなりに取り沙汰された。
「明日は天気がよささうだから魚釣に行かうかな」と、Iは突然思ひついたやうに云つた。彼は会社の勤めが忙しいので、一晩泊りで帰るつもりで、今朝大阪に着いた時、翌日の夜行車の寝台券を予じめ手に入れようとしたが、どの列車にも一枚もなかつたので、止むを得ず、その次の晩のを買つて来てゐた。それでもう一日此処に留つてゐなければならなかつた。こゝの入江では、今は沙魚釣りの季節で、明日の祭日には、海は釣り舟で賑はふ事になつてゐる。Iは舟の借り入れを家の者に頼んで、私にも同行を勧めた。私は漁村に生れながら、釣魚の遊びを殆んどやつたことがなかつた。幼少の時分、私が東京を夢みながら、本ばかり読んでゐた時に、父が、「釣りにでも行つたらどうだ」と云つたことがあつたが、私は、魚を捕つて何が面白いんだと疑つてゐた。それに、私は、舟に乗ると、波が静かであつても直ぐに酔ふのであつた。
「年齢のせゐで今は酔はなくなつてゐるから、釣魚は兎に角舟に乗つて見てもいゝ」と、Iとの同行を約した。
翌日の休日はよく晴れて風もなかつた。二人の外にRといふ、兄弟中での唯一の独身で不運で、終戦後はこの郷里の家に寄寓して乏しくくらしてゐる老人を連れて海へ出た。子を見る親に如かずか。父はかつて、私がRに似てゐると云つたことがあつた。私はさうかも知れないと思つた。運次第でRは私のやうになり、私がRのやうになつたかも知れない。釣舟の船頭は、「私の女房はお宅に奉公して居りました。あなたが一番面白い方だとよく話してゐました」と、Iに向つて云つた。Iが一番面白い方で、私とRとが面白くない方になるらしい。釣りには太公望の昔から釣竿を用ひるのが絵になるのだが、今では、日本特産の手ぐすもいらないで、ナイロンの釣糸を垂れるだけである。糸を抛り出して置けばひとり手に魚は引つかかる筈なのに、これにも巧拙があるのか、私の垂れた糸には容易にかゝらないやうである。Rは案外よく釣つた。手の先か頭の中の働きがいゝのであらうが、彼はさういふ能力を活用して世に処する術を見つけなかつたために乏しい一生を過したのか。
舟に横たはつて、秋晴れの空を見てゐる方が、獲れもしないのに魚釣りの真似をしてゐるよりも、私にふさはしかつた。うつらうつら眠り心地になつた。夢かうつつか分らない気持で一ときを過して、目を醒ますと、船頭は飯仕度に取掛つてゐた。捕り立ての勢ひよくピンピン跳ねてゐるハゼやカレイ、或はタコなどを鍋の中に押込んで、砂糖などつかはずに煮るのであつたが、生物の本当の味はひが味ははれるので、都会の料理屋なんかで食べさゝれる物とは比べものにならないやうであつた。しかし、自然のまゝの味ひは、料理.の技巧で作り上げた味はひと比べものにならないと一概に断ずる訳には行かないので、すべての自然は人工によつて異彩を放つのではあるまいか。そんな理窟は兎に角、捕り立ての魚を舟で食べるうまさを、私は今度はじめて経験したやうなものである。
翌日、私は、今生の別れに、も一度Aに会はうとした。病室を覗くと、Aは前日同様の態度を採つてゐた。訪問者を努力して見ようともしなかつた。意識は明瞭であるらしかつたが、どういふ事を考へてゐるかは推察もされなかつた。
私はまだ泊つてゐてもよかつたが、Aの死期は全然不明であるし、私がゐたつて、病人の手頼りになるのではないし、家族に手数を掛けるだけなのだから、Iと一しよに帰ることにした。
「遠路の所を、またお出で下さらなくつてもよろしい」と、Hは、近いうちに行はれる父の葬式を予定して云つた。私達も無論そのつもりであつた。
私はAの葬式には列しないにしても、自分が祖先から相続してゐるこのボロ家の処分のため、今後またやつて来なければなるまい。
私は、戦争前に帰郷して、父の最後を見守り、葬式にも列した。墓地のあたり、桜花爛漫たる.頃であつた。戦争中、母の死去の知らせに帰郷を急いで、やうやく葬儀に加はつたが、その時はみづみづしい新緑に墓地が色取られてゐた。私は、父の死を見送る光景を「今年の春」と題して書いた。母の死の有様は、「今年の夏」として書いた。A若し死せば、「今年の秋」として、その光景を書くべきだが、若し私の死ぬ時が来たら、誰かが「今年の冬」としてその光景を書くだらうか、と予想しながら、故郷の家を出た。そして、数日間京阪地方で遊んだ。帰宅後、Aの死の知らせを毎日心待ちにしてゐたが、或日、或会へ行つてゐる時、岡山の新聞の東京の支局からの電話によつて、弟の死を知らされたので、人生に一段落がついた気持がした。
葬儀に列した知人からの知らせを、Iは持つて来て私に見せたが、それによると、先祖伝来の仏式でAの葬式が行はれた翌日、岡山のカトリックの女学校の講堂で、正式に追悼ミサ葬儀ミサが行はれたのださうだ。ヨゼフといふ永遠の尊い名前までつけられてゐる。その名前の上には十字架が掛けられてゐる。それよりも私が心を惹かれたのは、Aがあの病苦のうちに、洗礼の和歌をつくつてゐる事である。
洗礼の水まろらかにかほにおつ
かしらにそゝぐたふときろかも
押付け洗礼にしても、彼は何かしら有難い思ひをしたにちがひない。さうすると、私よりもAの方が仕合はせか。
(昭和三十四年一月)