緒 言
雑誌の寿命は短いものである。人間の働き盛りを十年か十五年と観て、その十年か十五年が雑誌の生命である。人間の活動力が衰うれば雑誌も衰える。だから、『中央公論』が五十年も続いたということは実に珍らしいことである。また、五十年という歳月は天地の悠久に比して必ずしも永しとはしない。けれどもまさに半世紀である。半世紀の間には、歴史上重大な事件の二つや三つない時代はない。世界歴史中どの世紀を取って見てもそうだが、殊に近代は事件が重畳している。わけても日本の文物はこの四、五十年の間に発達したようなもので、近代の一年は前代の十年百年にさえ相当すると思う。この最も複雑な、この最も意義ある時代明治・大正・昭和の三代を通じて、『中央公論』は成長したのである。
憲法発布、国会開設、日清戦争、日露戦争、そしてまた世界大戦、満州事変と、指を屈するだに血の湧くような大事件が、この五十年の間に次ぎから次ぎへと相踵いで起こっている。思想の推移、発達、変遷またこれに伴わないはずはないのである。時代の神経だといわれる敏感なジャーナリズムが、その動向を反映しないはずはないのである。一波の起こるところ、また万波の及ぶところ、そこに時代の起伏があり、呼吸がある。仔細に点検すれば、ジャーナリズムの歴史の中にこそ、その時代の鼓動と脈拍を感ずることが出来るのである。この意味において、『中央公論』五十年の歴史は実にわが近世発達史の重要な部分を担うものといってよい。
私は、今、筆を執って、わが『中央公論』を通して観たる五十年の文化発達史を綴ろうとして、忽忙の余りにその余暇の無いのに苦しんでいる。五十年記念の祝典を前にして、これを完成しようとして心は喘いでいるが、恐らく完全を望むことは出来まいと思う。だが、将来、この光栄ある近世日本発達史を編む人のために、少なくとも一個の重要な参考資料たることを信じ、かつそれを望むこと切である。
(一)『中央公論』前期
(イ)反省会の誕生
歴史は繰り返す。数年前のわが国の思想的傾向が余りに左翼的に奔り過ぎたことは誰しも認めるところであるが、その結果は、一の満州事変を契機として、今日見るような反動的な時代が招来された。これと同じようなことは、ギリシヤ・ローマの昔より、時計のべンジュラムが右から左ヘ、左から右へと動いて止まないように常に繰り返されている。本誌創刊当時がちょうどそれである。当時はいわゆる旧幕の塹壕を離れてまさに国会開設の機運に狂奔する一方、文物制度、学術、宗教等みな欧米に心酔して、日本固有の精神と開国以来の純真をようやく忘れんとする時であった。ここにその軽佻浮薄な模倣的欧化の風を排斥して、質実剛健なる日本精神を鼓吹せんとする運動が起こった。中央公論社の前身、反省会の誕生もその由来をここに発する。今少しく立ち入ってその当時を振り返って見よう。
当時、京都に私学の二大勢力があった。一はいうまでもなくキリスト教を奉じた新島襄氏の率ゆる同志社であり、他は西本願寺立の里見了念氏を主盟とした普通教校である。いずれも地方学究青年の憧れの的となって幾百の若き学徒を擁していた。この普通教校は、時の法主大谷光尊師がつとに僧侶に普通教育の必要を痛感せられて創設されたものであって、普通教育を兼ねた仏教学校はこの普通教校あるのみであったから、従って西本願寺立とはいいながら、各宗の有為な緇素は争ってその傘下に集まったものである。この進歩的な空気の中に醞醸せられたのが、すなわち本誌の濫觴たる反省会である。すなわち普通教校の学生有志を中心として、「禁酒進徳」を標語に結成された一種の仏教リバイバルである。時あたかも明治十九年(1886)四月六日であった。越えて二十年八月、その機関誌として『反省会雑誌』の第一号が発刊された。これがいわゆる『中央公論』の前身であり、創刊第一号であったのである。
由来、仏教は明治維新の廃仏毀釈運動によって徹底的に打ちのめされていたのであったが、この前後から教界内に反省自覚の風ようやく起こり、更生復活の曙光が現われはじめたのであった。これは単に仏教に限られたことではない。維新後の極端な西洋偏重の夢からようやく醒めて、わが邦在来のものの再検討、再評価、見直しが要求されたのであって、この傾向は美術において最も早く現われ、宗教、文藝、これに次ぎ、かの鹿鳴館騒ぎにまで延焼して、遂に政治問題とまでなったのであった。
かくして「反省」とは、実に当時日本の社会的全面に向かって加えられた要求であった。たまたま普通教校の反省会のごときは、その遍照の月光を宿した清純な露の一滴にほかならなかったのである。
この反省会で牛耳を執っていた学生の一人、古河勇 ( 老川と号す ) 氏は、当時を回顧して語っている。
「普通教校の価値は慶応義塾の価値なり、同志社の価値なり、……其真面目は ……仏教革新の元気を養成せしにあり」と。
とはいうものの、直接の刺激は慶応義塾よりも、より多く同志社から受けたことは疑うの余地がない。当時の同志社はいわゆるリバイバルの前後で、信仰大いに奮い、狂信的な信者の続出した時であった。心ある仏教徒がこれを目前にして冷然視することの出来なかったのは当然であって、かくして平安の故都 ! そこには新来のキリスト教が新宗法の鐘を響かすと共に、また伝統の古い仏教が鮮やかな法燈を掲げて、新旧二様の生命がめざましく織り成されたのであった。
『反省会雑誌』第一号の発刊趣旨をひもといて見よう。
「嗚呼久旱雨ナク万川水涸レ法田将ニ蕪セントス農手多忙ノ時至レリ法運絶滅ノ期迫レリ何ノ遑アツテカ酒杯興ヲ尽スヲ得ン自ラ有為ノ気象ヲ抱キ将来多事ノ世界ニ立チ旱後ノ法田ヲ耕サントスルモノ瑣々タル肉体ノ小欲ヲ制スル能ハズ禁酒進徳ノ実ヲ表スル能ハズンバ前途又思フベキ而己今ヤ我宗命令ノ信仰去ツテ自発ノ信仰起リ尊大ノ主義自ラ倒レテ社会主義勢ヲ得ルノ時ナリ世人我ニ嘱スルニ智識ノ均配ヲ以テシ我ニ托スルニ信仰ノ開発ヲ以テス実ニ我々ハ法輪運転ノ中心ニ位シ世間眼光ノ注射点タリ大任殆ド負荷ニ耐へザルヲ恐ル幸ニシテ仏祖ノ冥助ニヨリ容易ニ酒杯ヲ絶チ進徳ノ門戸ヲ開クヲ得タリ感謝何ゾ堪へン抑我々ハ古人ノ飲酒不至乱ト云フ如キ曖昧手段ヲ取ルモノニ非ラズ又ジョンソンノ所謂能ク酒ヲ禁ズルモ飲ヲ禁ズル能ハザルガ如ク卑怯ノ言ヲナスモノニ非ラズ去リトテ又政府ニ請願シ禁酒ヲ実行セシメントスルモノニモ非ラズ唯我々ハ身ヲ生死ノ間ニ処キ心ヲ迷悟ノ衢ニ馳セ仰ヒデ社会ノ現象ヲ察シ俯シテ身辺ノ行事ヲ省ミ過チヲ改メテ憚ラズ正ヲ履ンデ懼レズ苟モ智恩報徳ノ一事タラバ勇進独歩為スベキ事ヲ為シ肯テ退カザルモノナリ今茲ニ一小雑誌ヲ刊行シ会員座右ノ友ニ代へ一心固定ノ方針トナサントス其論ズル所ハ会員執ル所ノ主義ニシテ其報ズル所ハ会員運動ノ写影タリ之ニ費ヤス時間ト資財トハ一モ禁酒ヨリ生出シ来リタル余裕ニ非ルハナシ然ラバ則之ヲ称シテ禁酒進徳ノ花ナリト云フモ肯テ不可ナキニ似タリ亦是報恩ノ一助タルニ庶幾カラン歟」
なお表紙に“The Temperance”と大きく英語で書いてあるのも、この雑誌の傾向を語るものである。この雑誌は明治二十年(1889)八月第一号を出したが、三ヵ月休刊してその十二月に再び第一号を刊行している。
わが『中央公論』は以上のごとき時代の、以上のごとき環境のもとに、以上のごとき内容外形をもって創刊されたのである。そしてこれが編集の先頭に立った者は、さきに名を挙げた老川古河勇氏であった。
かれは実に反省会運動の中心に坐する有力な一人であり、雑誌が生まれると菅実丸、小原松千代と共に編集係に選ばれ、第一号の巻頭論文「朝鮮の文明を誘導するは日本仏教者の責任なり」はかれの筆に成ったものである。時に年少十七歳。
尓来、明治三十二年(1899)十一月、二十九歳をもって他界するまで、かれの生涯は実に本誌の消長と相終始したといってよい。
反省会の成るや「老川、率先之に加わり、力を創立に尽ししこと少なからず、後、反省雑誌の出づるに当り、彼れ主として其任に当れり。反省雑誌の一時大に盛なるを致ししもの、彼の力与つて大なるものあり」 (『古河老川略伝』による ) とある。
( ロ )東 転
かくて明治二十五年五月、『反省会雑誌』は、誌名からその「会」の一字を削って『反省雑誌』とし、発行所も「反省会」でなくて「反省雑誌社」と更まった。
「反省雑誌は旧反省会雑誌を改題し、本年四月より実施せられたる逓信省令に拠り、新たに反省雑誌社より発刊したるものに有之候へば左様御諒承被下度候也」と、社告に出ている。
それ以外、京都にある間は、反省会員の数が二万に上る盛況を示した( 明治二十九年の文献による ) という以外、雑誌として特別に記することはない。
ここに本社を京都から東京に移すべき時が来た。このいわゆる東転についは、公私二様の理由がうかがわれる。
まず公的な理由から語れば、日清戦争を契機とする異常な国家的飛躍が、この雑誌にも京都を活動舞台としたのでは不便だと痛感させはじめたことである。古河老川の「東京仏教の将来」なる論文に、
「……東京は帝国の中心である。皇城が茲にあつて万般の政治が此れより出で、教育も実業も東京を中心としてゐる。東京の運命は日本の運命である。だから仏教も、帝都東遷と共にその実務所を東転せしめて、時代の要求に応ずべきであつたのに、その機を失うた。併し既往は語つても仕方がないので、現在、宗務所の所在地は兎も角もとして、仏教の、東京に於ける活動を機敏、壮快、勇猛、嶄新にしなければならぬ。……」
「……東京の仏教活動が遅緩なのは、人物と金が乏しいからで、学校はあつてもその整備が遥かに京都に及ばず、仏教雑誌は十一もあるが、その議論の主旨、編集の体裁、共に京都に於ける一反省会雑誌に及ぶもの甚だ稀なりしに非ずや」と論じ、さらに続けて「今や青年団隊として大いに観るべきもの二あり、一は京都の反省会、一は東京の日本仏教青年会」といっている。
すなわち反省会及び『反省雑誌』を自ら重んずることかくのごとく切に、より以上の発展を期して東京を望むことまたかくのごとくであったのである。
次ぎに私的な理由を語るためには、この間に是非とも大谷光瑞師を入れて考えなければならぬ。
光瑞師がつとに法門の常鱗凡介でなかったことは、言うもさらである。あの豪宕闊達な性格は、鬱勃たる経綸に燃えて、一刻も静止しなかった。暮夜ひそかに裏門から反省会同志を招き入れて膝を交えて談論した。やがては台坐に直って法燈を継承すべき尊貴の師が「青書生」と同坐して憚らぬごときは、法燈影暗き本願寺の大奥にとって由々しき大事でなければならなかった。重役連は狼狽した。干渉と制肘が加えられた。京都は師の抱負を容るるに余りに小さかった。東転の気が萌えた。やがてそれが実現さるることとなったのである。
師はまた、日清戦後海外に鵬翼を伸べ、教線を拡張せんことを企図した。ウラジオに太田覚眠氏を、シンガポールに佐々木千重氏を、木曜島に龍江義信、阿部一毛氏を、露都に足利瑞義、渡辺哲信氏を派し、あるいは布教に、あるいは文化の研究に、あるいは産業の調査にその大経綸、大抱負を実現せんとした。師の志は常に世界にあった。蝸牛角上の京都をや。雑誌社を東京に移したのもそのためであった。いわば青年蟠居の梁山泊であった。したがって『反省雑誌』のためには、海外の権威ある雑誌や新聞を取り寄せ、その当時、海外知識に乏しきわが国読書界のために翻訳掲載せしめ、「海外新潮」と名付け、当時の雑誌界にあっては断然たる異彩を放ったものである。
東転当時の本社の組織は、編集主任桜井義肇、編集麻田駒之助、庶務主任麻田駒之助、庶務桜井義肇となっていた。といえば、非常に整備しているように見えるが、実は桜井、麻田の両氏が、兼用の書記篠原温亭を使用して上下三名、編集でもあり、会計でもあり、事務員でもあり、小使でもあったわけである。
その頃、桜井氏は文学寮 (さきの普通教校の後身) の教授兼舎監として令名高く、儕輩の推服するところとなっていた。明治二十五年『反省雑誌』と改題していくばくもなく、初めて印刷人として名をつらねているのも同氏で、雑誌との関係も古い。老川氏病んで任に就かずとすれば、この地位を占める最適任者はむろん桜井氏であった。
さて当時の状況を聞くに、民友社の『国民の友』、博文館の『太陽』、政教社の『日本人』、内村鑑三氏の『聖書の研究』、竹越三叉氏の『世界之日本』等が『反省雑誌』と同一傾向のものとして数えられた。『反省雑誌』に最も近い部数を印刷したのが『聖書の研究』であって、三千五百部を上下したといわれている。『反省雑誌』それにつぎ、『聖書の研究』の強敵とされていたが、部数はようやくその半であったろうか。仏教雑誌がキリスト教雑誌に負けてなるものかという競争意識もあったようである。
東転後、いちじるしく目立って来たことは、何といってもそれまでの『反省雑誌』は仏教雑誌の範疇を出ることが出来なかったが、東転後とみに抱擁の範囲を拡げ、社会雑誌に転移する傾向を示して来たことである。殊に従来閑却されていた文藝の領野に眼を注いで来たのもその頃からであった。
幸田露伴氏の「雲のいろいろ」、広津柳浪氏の「青大将」、大町桂月氏の「かた袖」、高山樗牛氏の「わが袖の記」が載ったのもその頃で、独歩、鉄幹、子規、虚子の顔がボツボツ雑誌に現われるようになったのである。
なお、東転後の歴史に最も特筆大書すべきことは、『英文反省雑誌』約十号を発刊したことである。
日清戦争で、新興日本の印象を世界に鮮かなものにしてからのわがジャーナリズムの衝動の一つは、確かに、世界に向かって日本を認識させるということにあった。だから当時の多くの雑誌が競って英文欄を、また中には独仏文欄を設けたものもある。
「そのくらいなら独立した雑誌として刊行しよう」との案が、これもやはり大谷光瑞師から出た。そこで四六倍判の、表紙は唐草模様、藤紫の絹糸綴の上品な装幀であった。口絵には日本の風俗を主とした木版刷の錦絵や鳥子紙のコロタイプ刷、カットには国宝級の建築物や美術品の幾十個を組み込んだ、すこぶる贅沢なものであった。編集主任は島文治郎氏で、露文は高須治輔氏の担任であった。ところが費用お構いなしというやり方であったから、続かない。十号で菊判形の雑誌にあらため、『オリエント』と改題して後二年ばかりで廃刊したようである。
が、その当時東京の何所にも露文活字がなかったのを、この雑誌の発行によって初めて秀英舎にこれが揃えられたという話もある。以て光瑞師の眼界の広闊さが尋常でなかった一証とすることが出来よう。
(二)『中央公論』時代
(イ)麻田氏の独裁経営
東転後の本誌が、次第に仏教的薫染を脱して、社会的綜合雑誌の相貌を帯びて来たことは、前に一言したが、こうなると問題は『反省雑誌』なる称号である。
これはいかにも堅苦しくて、気がきかぬとの意見が、社の内外から起こり、ここに再度の改題が行なわれて、明治三十二年(1899)一月『中央公論』となったのである。
さて、『中央公論』となってからも、最初の主幹は引きつづき桜井義肇氏であったが、当時編集技倆の水際立って鮮かだったことは、それを知るほどの人の衆評一致するところである。が、惜しいことには、桜井氏は就任間もなく外遊し、帰朝するとほどなく、本願寺の教営問題で時すでに法主となっておられた大谷光瑞師の内局の方針と意見の合わぬものあり、遂に分離して新たに『新公論』を起こした。実に明治三十七年(1904)一月である。
そこで『中央公論』は一切が麻田(駒之助)氏の手に帰し、その一月は休刊して、二月から再出発することになった。
当時の事情を知悉する高嶋米峰氏は、歯に衣せずして、率直にこう語っている。
いよいよ『中央公論』が、麻田君の手に帰するようになった時、桜井君は別に『新公論』と題する月刊雑誌を発行して、大いに『中央公論』と競争することになり、僕は同志とともに新仏教運動を起こして『新仏教』の編集を引き受けていたのではあったが、しかも『新公論』の評論を担当して、桜井君を助けることとなったのである。正直に白状するが、その時の僕らの鼻息の荒かったことというものは大したもので、「麻田君は、雑誌の編集には経験が無いのだから、どうせ誰かにやらせるのだろうが、およそ雑誌の編集に巧なことと言っては桜井君の右に出るものはないのだから、半歳経つか経たないうちに、確かに『中央公論』を征服して見せる」と言ったような工合であった。
然るに中央公論は、麻田氏の手に移るや、容易ならざる苦楚を嘗めたが、氏の堅忍自重はやがて新たなる芽を吹き出し、予想を裏切って、急速の飛躍を成した。初めは校友会雑誌に毛の生えたにも当らない微々たるものであり、せいぜい発展しても第二流誌以上には評価されていなかったものが、わずか一年にしてその面目を改め、未だ三、五年ならずして、その頃東洋雑誌界の覇王と自他ともに許していた『太陽』と併立するに到ったのである。
麻田氏の独裁経営に移って、『中央公論』の正史はここに始まる。
麻田氏の長所は、万人の認むる如く、自ら編集の第一線に立つことなくして、帷幕に画策をめぐらすことにあった。雑誌は公器であるという信念のもとに、あくまでその公器の本領を発揮せしめたにある。編集の実務は当局者に万幅の信頼を傾けて自由にその才腕を揮わしめ、大綱の規道を脱せぬ限り、濫りに制肘干渉しなかった。そしてこの麻田氏の信頼に値し、『中央公論』今日の基礎を築いた功績者ともいうべき名編集者が二人ある。一は血来(雲峰)高山(のち大山) 覚威氏で、二は樗陰滝田哲太郎氏である。高山氏は今日の大『中央公論』のために大なる設計図を引き、滝田氏が実際にこれを建築落成せしめたといってよいと思うのである。
しばらく麻田氏の口吻のままを取次ごう。
「明治三十一年(1898)、『反省雑誌』が初めて文藝夏期附録号を刊行した時は、普通号千五百部に対し、二千部を刷った。しかもそれが直ぐ品切れになってさらに三百部を再版した。五割余の大増刷だが、この経験をもちながら、しかもなほこれがために文藝を尊重して雑誌を拡張しようとの考えの起こらなかったことは、その当時の文藝が夏季附録当時とは大いに趣を異にして来たことに躊躇したのだが、雑誌を発展させるには文藝欄を拡張しなければならぬと痛感して、大いに慫慂したのは高山覚威君である」と。
高山氏は、日露戦争と共に雑誌が異常な伸長をする勢いに乗って、大刷新を加えようと決意した。明治三十七年(1904)十一月の本誌に、左のような社告を載せている。
編 輯 録
軽佻浅薄、只管奇を衒うて読者を引かんとするは現代雑誌界の趨勢である。然れども世は漸く覚醒して来た。日露開戦の結果、世界と直接交渉を生じたため、国民が真摯になったのか、或は漸く真文明に赴くべき機会が来たのか、兎に角真面目なるものを要求するの傾向あるは事実である。本誌発行部数の遽かに増加したのは、恐らくこれが為めであらう。
十九年来健全なる思想を供給して来た中央公論は、於是益々精力を注がざるを得ない。問題の選択、評論の公平、奇抜嶄新、真摯等、編輯上に費すところの苦心なるもの一通りでない。只 裃を着けるばかりでない、溢るる如き趣味を加へねばならぬ。紙面の体裁にも骨を折らねばならぬ。紙面の体裁とは一の美術であつて人に譬ふれば容貌、風采、衣裳である。即ち其内容と外観とが一致しなくてはならぬ。本誌は今日まで之を行ってゐた。併し今後はこれ以上を為さねばならぬ。
取立てゝいふ程でもないが、先づ記者を増聘した。以前よりは一層多く名家の所説を掲載することにした。新たに文藝評論を加へた。戦時彙報の如き、徒らに労して多く効なきものは除いて、其労力と費用と紙数とを他に加ヘ、其他有形無形に改善したところ尠少でない。少くとも号を逐うて完全なるものになると高言するに躊躇しない。
如上の言は空想でない。読者は宜しく之を今後に徴し、編輯者の苦心のあるところを看取されたいのである。
右は高山覚威の編集抱負を語るものであって、普通、滝田樗陰氏の提案と考えられている文藝欄設置のごとき実は氏の発案であったのである。しかしながら惜しいかな、氏は在社一年余にして去り、国民、東京朝日、中外商業等の諸新聞を経て、最後は大阪時事の編集長として、昭和九年二月、胃潰瘍のために長逝した。
氏は美作の人。『雲峰遺文』一巻が令兄大山斐瑳麿氏に依って編まれ、この才人の面影の片鱗を留めているが、それに序した徳富蘇峰氏の文にいう。
「君ハ新聞記者トシテ非凡ノ才能ヲ有シテ居タ。自ラ筆ヲ執ルコトハ勿論、編輯者トシテ、他ノ原稿ヲ整理スルノ手際ハ、更ニ一段卓越シテ居タ。資性硬直、苟モ令色ヲ欲セズ、是ヲ以テ永ク一社ニ蟠拠シテ、其ノ大ナル業績ヲ留ムルコトノ出来ナカツタノハ、遺憾ト云ヘバ遺憾デアルガ、寧ロ君ノ品性ノ潔白ナルヲ証スル所以デアラウ」
と。
高山氏はかくのごとくにして去ったが、『中央公論』発展のために氏が画策した所は、充分に、否その数倍に、後継者樗陰によって継承実現せられたのである。実に不思議な因縁といわねばならぬ。
( ロ )滝田樗陰の登場
樗陰滝田哲太郎氏は秋田の人。まだ帝国大学の一法科学生であった時、海外新潮欄の翻訳をもって、社とのつながりを生じた。
この海外新潮欄は、外国の諸雑誌から目新しい記事を拾って紹介したもので、上田敏、畔柳芥舟、久保天髄の諸氏が担当していたが、最初滝田氏を抜いてこの任に加えたのは上田敏博士であった。
これよりさき、『中央公論』が麻田氏の単独経営に移ると共に、最初に入社して来た記者は近松 (当時徳田) 秋江氏であったが、氏はその性癖が社務に合わないと謙遜してわずか数ヵ月にして自ら退社し、高山雲峰氏これに代わったのであるが、樗陰氏は学業のかたわら雲峰氏を扶けて編集に従事していたのであった。ところが雲峰氏去ってここに樗陰氏の独り舞台が出現し、縦横無尽にその手腕を揮うて、『中央公論』則樗陰の黄金時代を築き上げたのである。
樗陰氏の志は、初めは文筆にあった。ひとり翻訳ばかりでなく、氏は評論随筆の筆をも執った。本社入社後も誘われて某新聞社その他ヘ転じたこと再度に及んだ。だが、所詮は、『中央公論』に運命づけられている樗陰氏であった。どこに転じて行くも旬日ならずして帰り来たり、麻田氏もまたその度にこれを容れて自由に働かせたのであった。
滝田氏によって俄然面目を改めたのは、本誌の文藝欄であった。二百号記念 (三十八年〈1905〉十一月)に露伴、鏡花、春雨、漱石と並べた創作欄は忽ち新進漱石の「薤露行」が評壇の視聴を集めて、わが誌の権威をとみに重からしめると共に、よく日露戦争戦勝の勢に乗って、雑誌は実に順風満帆の概を呈したのであった。
翌三十九年(1906)十月、漱石、藤村、独歩、梁川、愛山、筑水諸家を並べて附録号とし、尓後、年に数回発行するこの特別号が本誌の呼物となるに到った。なお、序ながら、黒短冊形に『中央公論』と白ぬきにした現行の表紙意匠はこの号にはじまるのであって、右は美術学校出の庄野宗之助氏の案である。
樗陰氏の編集者としての卓抜な才能を数うれば、一にして足らないが、まず氏は、公平にして鋭敏なる「時の人」に対する選択眼を具していた。学閥の弊なお盛んなる時、その本城赤門に学びながらも、氏には少しもその臭味がなかった。
ただ学閥のみでなく、文壇の諸流派に対してもかれは絶対に公平であった。むしろ氏は文壇的諸流派に超然としていた。最も勢力あるグループに阿附して、全誌をその機関誌化するがごとき陋態は、断じてかれの採らざるところであった。
かれは天性の素質と燃ゆるがごとき熱とでもって、当る者を焼き尽さずんば止まなかった。かれはまた、熱とともに愛すべき稚気をも併せもっていた。蘇峰、三叉、漱石、臨川に愛せられたのもそのためである。
かれはまた異常なる精力家、非凡なる活動家であった。したがって欲望は無限であった。かれのジャーナリスチック・アペタイトを満足せしむために、実にかれは千里の途をも遠しとしなかった。その心魂を傾けつくした熱情に対して感激せざる者はなかった。
そこに多くの文人を輩出せしめ、傑作を産出せしめたのであった。『中央公論』が文壇の登龍門と呼ばれ、檜舞台となったのはこのためであった。誌運は隆々として日増しにその勢力を加えて来た。私の入社したのは実にこの時であったが、それを助成せしめた人に相馬由也氏のあるを忘れてはならない。
(ハ)デモクラシーの勃興
私の入社したのは明治四十五年(1912)の十月である。すなわちその年代は大正と変わった。
私は入社以来三年間、この名編集者滝田樗陰氏のもとに『中央公論』の仕事を手伝い、その走り使いをしていた。
この前後、本誌の駸々と増大しつつある社会的勢力に着目して、誘惑買収の魔手の伸びたこと一再でなかった。本誌五十年の歴史のうち、この時こそ、まさに最大の危機であった。しかも「この膝王侯にも屈すべからず」の気節を持して、あくまでも言論の自由と神聖を護り通したのは、一に麻田社長の見識に因るものである。
その談にいわく
「…… この五十年間において、幾多の変遷隆替があったにもかかわらず、最も誇るべきは、社の歴史が操觚界にありがちな汚辱の一ページをももたぬことである。将来もかくありたいものと希うている」と。まことに同慶に堪えない次第である。
私はこうした好運の中に生い立って、名誉ある『中央公論』を偉大ならしめる手伝いをしていたが、その頃澎湃として、劇に評論に一世を風靡したのは個人主義的思想に伴う婦人の自覚と解放であった。私は滝田氏に献言して、『中央公論』夏季臨時増刊を発行せしめ、これを「婦人問題号」と名付けたこともあった。
その臨時号が比較的に評判が好かったからというのでもないが、時代の動きや青鞜社の運動などに刺激されて、私は新しい婦人雑誌の創刊を麻田社長に進言し、その容れらるるところとなって、ここに『婦人公論』が生まれた。大正五年(1916)の一月、思えばこの間のようであるが、今はすでに四半世紀の昔となったのである。
これより先き大正三年(1914)八月、世界大戦が勃発し、同十月わが国もまた参戦することになった。これがため貿易は杜絶し、一般事業は不振に陥り、政変またこれに伴い、極端に憂鬱な一年であったが、それが過ぎると、今度はその反動で大正五年(1916)半ばから、諸工業は急激に勃興し、わが史上空前絶後の気狂い景気の時代が到来し、それと共にようやく世界を風靡した民主思想の襲来は、わが思想界をも旋風の混乱裡に叩きこんだのであった。
この時、デモクラシーの思想をもって一世を率い、固陋に失せず、矯激に流れず、適正に進歩的に社会思想を誘導して謬らなかったものは本誌であったと信ずる。実に大正中期の数年間、一世を率いた者は政府でもない、大学でもない、智者、学者でもなく雑誌であった。否、実にそれは本誌であったということが出来ると思う。
およそ雑誌にしてかくのごとき輝かしき指導的役割を務めたもの、明治の初期に開化鼓吹の『明六雑誌』あり、中期に平民主義唱道の『国民之友』あり、それに本誌を加えて、三大事例となすことが出来ようと思う。
これは一に時勢の然らしめたところであるのはいうまでもないが、時代は最も賢明にその代弁者を選ぶ。その人はまさに吉野作造博士であった。博士はこの時代の中心であり、焦点であり、権化であった。史家はこの時の博士の業績をもって、日本の全歴史を二分し、それ以前とそれを分かつ国境山脈だとさえいっているくらいである。この吉野博士を大学の講堂からジャーナリズムの街頭へ引っぱり出したのは、もちろん、樗陰その人であった。
私は左に、博士の樗陰氏に対する追憶を援引するであろう。これ両者の交渉の正確なる記録たるのみでなく、いわゆる「デモクラシイ・吉野博士・中央公論」の、三位一体の本誌黄金時代を記念する最好の文献であると思うからである。
滝田君と始めて相識ったのは大正二年の晩秋であった。此夏私は欧洲の留学から帰って大学の教壇に立ったのであるが、新しい帰朝者の誰しも経験するやうに、直に雑誌経営者諸君の襲ふ所となった。その中で滝田君は一番遅くやって来た方で、初めて訪問を受けたのは十一月の初め頃であったと記憶する。
初対面の挨拶が終って滝田君は、自分も私と同じ東北の出身で且仙台二高を出たといふこと、私の親しい誰彼とは高等学校以来同窓の誼があり之等を通じて私の噂も聞いて居たといふことなどを述ベ、続いて中央公論との関係やら又雑誌経営上の抱負などを吹聴されたがそれから先の言分が振って居る。今でも鮮かに記憶して居るが斯うだ。自分が貴君を訪ねたのを多くの雑誌経営者が新帰朝者といふと直ぐかけつけるという様な月並の来訪と思はれては困る。さう思はれたくないから夏以来わざと今まで差控ヘ、さうして其間ひそかに貴君を研究して居たのです。貴君には寄稿家としては固よりだが、其上種々の点に於て先輩としての格別な御交際が願ひたくて上りましたといふのである。人を煽てるやうな所もあり又人を馬鹿にしたやうな気味もあり、初対面の際だけに一寸失敬な奴だと腹では思ったが、まァまァと此点はいゝ加減にあしらって、寄稿だけを引き受けた。そして日米問題に関する考察を寄せて其年の十二月号に載せたのが中央公論に於ける私の初陣である。
それから後は滝田君は随分まめにやって来た。私は一つには教師としての最初の年なのと又一つにはさう手慣れても居なかったので、一々其要求には応じ得なかった。それ程暇がないなら私が筆記しませうといふので、迂っかり乗って書いたのが大正三年(1914)四月号の民衆運動論である。此頃まで実はあまり雑誌に書くことに興味を有たなかった。口授を筆記して呉れるといふ彼の熱心にほだされてちょいちょいやって居る中に、段々本当の興味は湧いて来る。やがて欧洲大戦が始った。近く欧洲の形勢を見て来た私として自ら心の躍るを覚えざるを得ない。加之戦争発展と共にデモクラシイの思潮が油然として勃興する。そこへ滝田君は再々やって来ては私をそゝのかす。到頭私は滝田君の誘導に応じて我から進んで半分雑誌記者見た様な人間になって仕舞ったわけだ。之を徳としていゝのか悪いのか、兎に角滝田君は無理に私を論壇に引っ張り出した伯楽である。
欧洲戦争勃発後私は殆んど毎号中央公論に筆を執るやうになった。去年大学をやめて朝日新聞社に入るまで、一二度病気か何かで休んだ外は、我ながら能くも毎月まめに書いたと思ふ。併し之には滝田君の力が大に加って居ることを隠すことは出来ぬ。第一には滝田君が自ら筆写の労を取て呉れたことである。一両年前から私は思ふ仔細ありて一切口授をやめ、最近は自分で筆を取て居るが、大正三年以後約八九年間の論文は、僅々数篇を除くの外は、概して滝田君の筆記に成たものである。而して滝田君は元来頭が出来て居るので筆記中私の議論に不満があると無遠慮に之を指摘する。之に依て言ひ足らぬのが補はれ、不注意の欠陥がどれ丈け訂正されたか分らない。一寸思ひ出せぬ字句が君に依て巧にうづめられたことなどに至ては数限りもない。第二には滝田君がよく問題を持て来られたことである。外の用事に忙殺されて今月は何も書くことはないなどとぼんやりして居ると、同君がやって来て斯う云ふ問題はどうの、此の点は斯う考ヘられぬかのと、何や彼や言ひ合って居る中に、私の頭には何時の間にか一つの意見が纏まって居る。それを書いて見ようといふ気になり、乃ち改めてまた同君の筆写を、煩すことになる。滝田君は十分書ける頭をもって居りながら出来る丈け自分は書かず何とかして人に書かせるといふ方針を執て居たらしく見える。此方針を彼は容易に破らなかった様だ。是れが雑誌経営に於て彼の大に成功した所以であると思ふ。第三には永くやって居るうちに滝田君は私の気持や言ひ表し方を十分に呑み込み、筆記したものを自分で仕上げ大に私の労を省いて呉れた。初めは清書したものを私は丁寧に訂正したものであったが、最後の二年ばかりは、口授し放しで後の仕上げは万事同君にまかしたのであった。為に時に飛んでもない間違が印刷されたこともないではないが、大体に於ては能く私の言はんと欲する所を現して呉れた。之等の点に於て私は大に滝田君に感謝すべき理由を有って居る。
思うに読者は、この引用の長きに過ぐるを咎めないであろう。樗陰氏は実にわが『中央公論』にとっての最大恩人であった。しかも大正十四年(1925)、不世出の大編集者樗陰氏はわずかに四十四にして逝き、墓木ようやく拱せんとして、昭和八年(1933)情熱の学者吉野博士またその後を追うて空し。嗚呼。
(三)麻田氏引退後
(イ)沈衰から更迭へ
何事にも一張一弛一喜一憂あるは免がれ難い。黄金時代の後の沈滞期がやって来た。滝田樗陰氏が病んでふるわなくなったためである。病んだためばかりではなかったかも知れない。余りに活動的であった氏は、ようやく全盛期を過ぎて幾分熱褪せたがためではなかったろうか。かれのような不世出の天才も時代の前には勝てなかった。否、かれが天才であり、したがって自己の能力を信じ、自己の能力にのみ頼り過ぎた独裁者であったがために、この独裁組織はかれの病むに至って、またいかんともせんすべなかったのであった。
加うるに財界の不況があった。円本の流行があった。思想の飛躍があった。デモクラシーは社会主義ヘ、社会主義は共産主義へまで進展せんとする傾向があった。滝田氏は精神的にも肉体的にもここに止まった。
樗陰氏の逝くや、何よりも大きな打撃をこうむったのはもとより麻田氏であった。まさに車の一輪を欠いた形で、樗陰氏の部下高野敬録君を起こして編集長に、木佐木勝、伊藤茂雄の両君と共に編集部員を督励して見たが芳ばしくなかった。 赤字から赤字ヘ、昔に比して意気はなはだ挙がらざる一両年が続いた。私が『中央公論』、『婦人公論』両誌の主幹を兼ねたが思わしくなかった。その間に麻田氏は以前から雑誌は天下の公器であり、子孫に踏襲すべきものではないとの意見をもち、継承の意あらば私に譲渡するとの意を洩らされるようになったのである。
私はもとより赤手空拳の一書生で、社会的勢力も財的背景も共にもたない。それで果たしてこの栄誉ある歴史を汚さず、謬たず、継続しうるかどうかははなだしく疑問であった。が、退いて考うれば、これほど幸運なことはない。麻田社長からこの信任をうけたことこそもっけの幸である。はたしてこの大任を全うしうるか否かは別として、この千載一遇の好機を逸してはならない。成敗は天にあり、誠実もって事に当れば、事成らずとも思い残す所はないはずだと、遂に決心したのであった。これ昭和三年(1928)七月のことであった。
昭和三年八月号の誌上に左のごとく発表されている。
○
麻田駒之助
溽暑の候に候処弥々御多祥奉賀候 小生斯業に従事いたしてより茲に卅三年其間深甚なる御眷顧を辱ういたし来り候処御承知の通り最早老齢にも及び旁何事にも兎角遅れ勝気味と相成何時迄も新時代に適処し得ベき後進の途を杜塞いたし居り候事斯業発展の上にも少からぬ支障を来すことと被存候に付今回社長の職を隠退いたすことに決定し後事一切を従来業を共にいたし居りたる嶋中雄作君に相譲ることに取定め候に付茲に御吹聴申上候
尚社業に対しては今後一層の御同情及御指導を賜らんことを千祈万祷仕候不取敢御挨拶迄如此御座候
○
嶋中雄作
私儀此度麻田前社長の後を承けて中央公論社長に就任いたしましたについては、菲才微力ながら奮励斯業の発展を期したいと存じます。私が今日あるを得ましたのは一に麻田前社長の恩顧に因るところ深きは申すまでもないことでありますが、又一方公私ともに皆様の御同情御後援に因るところ多いのであります。茲に深甚の感謝を表して今後一層の御援助を希望いたします。
惟ふに雑誌界の近況漸く多事を加へてゐます。打続く財界の不況と円本流行の余波を受けて、われも人も、通関の難所に立ってゐるのは事実であります。然しながら、それらの原因以外に、なほ今日の雑誌をこの悲境に導いた原因が、その経営者編輯者の側に全然無かったとは云へないと思ふのであります。一般人の生活から没交渉になった雑誌の存在といふものは一部特殊な性質のものとその読者以外、その必要を認められないのは当然であります。或者は徒らに新興運動の手先きになって一般社会人の生活から離れ、或者は寧ろ余りに卑俗旧套に阿附して識者の侮辱と顰蹙とを買ひ、また或者は徒らに文壇偏重の余弊にかぶれて片々たる文壇余録の蒐集に身魂を疲らし、自ら相率ゐて窮地に溺没した観がないでもないのであります。然しながら、読者階級の普遍化は、一般社会的生活に即した雑誌の需要を今後無限に広汎ならしめるでありませう。吾々は及ばずながらその覚醒的新時代に適所するの覚悟と準備と努力とを忘れないことを期してゐます。
幸に皆様の御同情によって私どもの事業を大成せしむるを得ばいかばかりか欣幸に存じます。
昭和三年八月一日
(ロ)出版部その他の増設
私は、これから先きのことを書くのはなお十年二十年の後に譲りたいと思う。なぜなれば、私に与えられた使命はなお今後に繋けられていると思うからである。私は無我夢中でこの七年間を歩んで来たまでである。幸いに大して先人の遺徳を辱しめるようなこともなく、今日あるを得たことを感謝せずにいられないのである。
ただ特に一言附け加えなければならぬことは、昭和四年(1929)十月、『中央公論』、『婦人公論』の発行以外、新たに出版部を増設したことである。麻田氏は氏の「雑誌単業主義」をあくまで操持して絶対に手を出さなかった。これもとより賢明なる経営法である。しかしながら漸次に発達して来た出版資本主義の波浪は必ずしもそれを許さなくなった。雑誌編集法とても、滝田樗陰時代のような独裁主義、英雄主義では行けなくなった。すなわちスターシステムから総合編集への時代的転換が、その間に行なわれて来たのである。したがって多数の編集者を必要とした。この編集的革命は当然雑誌以外の単行本の出版兼業を便宜とする。組織の中にあっては、両者は一にして二ではないからである。殊に中央公論社のごとき信用と背景と支持者とを有する雑誌社においては、出版は決して庶子であってはならないのである。幸いに、その処女出版『西部戦線異状なし』以来相当の成績を挙げることを得て、私はその信念をますます固めた次第である。
次ぎに昭和五年(1930)『婦人公論』の大衆化を実行した。値下げを断行して日本全国に遊説これ努めたのも今では思い出の一つである。幸いにこれも相当の成績を収めることが出来て、ひそかに感謝している。代理部、写真部、レントゲン科、花の店等の副事業に進出したのも私の経営に移ってからである。これらの副事業についても、私一個の期すべき意見をもっていないではないが、今は言わない。私の希望は全的に今後に繋っている。副事業においてもなお今後とも進出の余地があり、開拓すべき分野が広く残されていると思うのであるが、それはあくまでも副事業である。本格的な、第一義的事業としての文化出版、出版報国の領域においてなお大いに鋤を入れるべきものがある。大衆的分野もその一であるが、まだまだ専門的領域においても残されていると思う。教育において殊にそうである。学校教育、家庭教育、わけても子供の世界においてはなはだ遺憾な点がある。真摯にして誠実なる文化的開墾地がわれらの前に茫漠として横たわっているように思えるのである。そうして、それがわれらの手をこそ待っているもののように信ぜらるるは、果たしてわれらのうぬぼれであり、邪見であるであろうか、否か。
(昭和十年九月)