止めのルフレヱン

 

 

 この二三年来、私は機会ある毎に、現今の文壇の中心勢力を成すが如く見える一種のリアリズム文学を攻撃して来た。私の論議は多くの反感を買つたのみならず、一時は文壇全体が反新感覚派の声で充満したかの感さへあつた。然し、時は経過した。私が絶えず攻撃した一種のリアリズム的文学は次第に凋落てうらくせんとする傾きを表はして来た。今や新しい文学として受入れられる作品は、みな何らかの程度で私の主張して来た文学的要素を含有しながら、力強く日本の文壇内に芽を伸して来たのを認める。よし私の議論其物は人々の忘却の彼方に埋没してしまつたとしても、私自身は今日力強く興りつつある新鮮なる勢力を感じて、いささかならぬ歓びを感じる次第である。

 おもふに、古き文学と新しき文学との根本的相違は次の重要なる一点に存すると云つて差支へないであらう。即ち、従来のリアリズム文学は固定した人間観の範囲で人間を描写したのに対して、新しき文学は作者の意志で人間を創造し、新しい運命を暗示した、と云ふ一点である。

 もはや幾度も詳論したことで、今更ら繰返へす興味もないが、従来のリアリズム文学を信奉する者は、作品の人間が「よく描けて居る」か否かを甚だ重要視した。そして「よく描けて居る」時、その作者は人間をよく知る者であり、「よく描けて居ない」時、その作者は人間を知らない者であるとさへされるのであつた。では、如何いかなる工合に人間が描かれた時、それは「よく描かれてある」のであるか。答へは簡単である。作中人物の存在が、実感的に浮出されて読者に迫ればすなはち宜しいのである。

 或る客観存在の再現が、実感的に浮き出るためには、その存在に就て既定の共通認識、乃至ないし一般概念が前提になければならない。その一般概念を巧みに捉へて再現する技巧は、リアリストの虎の巻に在るのである。斯くて人間は嫉妬する。人間は恋愛のために盲目となる。人間は本能の子だ。人間は人情にも涙ぐましくなる。等々の、人間公理が、永久の人間性として信奉され、それを無視した描写は人間を知らざる者の作つた人形として排斥されたのである。

 く、リアリストにとつては、人間性に就て永久普遍の公理がある故、時代と共に進化する人間性は認められないのである。そこで作者自身の自我的精進がある。斯くの如き人間の間に伍して処する態度に就ての精進である。彼らにとつて既に人間性が固定した概念である限り、人間の改造は夢想されないのであるが、唯我的修養によつて感動を制限する事は出来る。つまり人生に対する消極的な一種の傍観的態度である。諦めの心境である。人生に熱情を持たず、社会を冷眼視して素通りする事を以て大人の心境なりとした。彼らにとつて人間が、そして人生が永久不変の客観的存在である限り、ここに彼らが陥るのは当然すぎる話でなければならない。

 人生は苦悶の結晶であるとは、彼らの人生観の基調である。その苦悶に処するに諦めの心境を以て眺めたら、それで彼らは満足なのだ。然し、苦悶多き人生を受入れる心が、如何に洗練され、琢磨たくまされて居ても、客観世界は相変らず苦悶に充満してゐるのである。リアリスツは感動を制限して見おろす事は出来ても、その知性は苦悶の世界以外の何物をも認識しては居ない。人生は苦悶だらけである事を承認し、これを諦めて居るのだから、其処には唯我的なヒロイズムと甚しく相似た主観的な斬抜けの妙味はあつても、客観世界のより良き改造、新しき人生の創造に対する意慾はテンデ皆無なのである。即ち客観世界は依然として苦悶と不幸とに充満して永遠に残らねばならないのである。

 

 

 

 然し、新しい文学は上述のやうな人生観に失望した者の、新しい人生観の上に建つのである。彼らの第一の功績は、時代環境と共に変化し進化する人間性の発見にある。賢明にも、彼らは固定した人間観を超えて、時代と共に変化する人間性を、彼らの触覚によつて捉へたのである。

 ここに新しい文学の第一歩が始まつた。

 彼らにとつて、人間性の固定が否定された限り、彼らの描写する人間は、必ずしも人間性の公理に準じないのである。従来のリアリストの眼によつて、如何に彼らの描く人間が「出て居」ようが居まいが、問題ではない。彼らは勝手に人間を創る。人間性を創る。

 もし人間性が時代と共に変化するものなら、その時代に生きる人間の主観から創られるあらゆる性格は存在可能の範囲内に於ける人間である。作者が創り出した人間即ち作者の人間性の創造である。それは固定概念の打破であると同時に、新しき真実の創造である。新しき生活の創造である。新しき運命の暗示である。

 既に、このやうな新しい人生観を把握した者にとつては、その客観的世界も亦既成作家のそれとはおのづから別の認識に在るのは当然である。リアリズムにとつては、如何とも変更のしやうのない苦悶の巣窟であつた世界が、新しい文学では、作者の対象に対する積極的意慾によつて改造される世界なのである。作者は新しい人間を創る、新しい生活を創る。新しい人間の新しい生活の提示から期待されるものが、即ち新しい世界の形成でなくて何であらう。

 茲に人類の新しい運命の暗示がある。

 

 

 

 リアリズムの作家にとつては、人間性は時代を超越して固定し、新感覚派その他にとつては、人間性は時と共に進化する。これをもつと分り易く云へば、前者にあつては、人間は原始時代の意識でなくとも、すくなくともシェクスピア時代の人間の心の動き方も現代の人間の心の動き方も、同じ動機からは同じ方向を持つと云ふのであるが、後者にあつては、それが絶えず進化して居ると云ふ。だが、人間の心の動き方は果して時代と共に進化して居るか?

 それに就ては、今更ら我は論じるだけの熱情を持たない。が、兎も角、私は、時代環境のかもすセンセーション、物質的文明の効果が人間の感覚を進化せしめると同時に、新しき情知意の動きが生れると信じて疑はない。且つ資本制度が、社会の面に刻むレリイフが時代につれて尖鋭になる程度に従つて、生活関係の或る部面が特にその時代に露出を甚だしくすれば、当然道徳の一部分の是正が要求される。たとへば、女性の経済的独立の程度が高くなればなるだけ、女性の性的行為が自由となり、従つて従来の性道徳の適用が人間の不幸を増大する結果を伴ふが如きである。即ち、道徳の是正によつてかかる困難を救ふためには、先づ人間の心の動き方に就いて、人間自身意識的に進化を意慾せねばならないであらう。

 

 

 

 順序として、私は茲に私の意識する現代を説明しておく必要を認める。けれども、それに就ては、私は「文藝時代」創刊号の小感想を出発として、度々の機会に詳論したから今日それを繰り返す煩を避けたい。要約すれば、機会文明爛熟と云ふ事実から発生した時代的特色であり、センセエションであり、それらの渦中にある生活意識である。新感覚派は、その生活意識が決定する所の価値の上に建つものであることは、口の酢つぱくなるほど説明した所である。

 新感覚派に就ては、もはや分らぬ者には分らぬ、分る者には十分に分つた事が承認される。「不同調」本年三月号の月評会記事はその一例證を提供するであらう。兎も角、固定した人間観に執着して、コツコツ人生の相も変らぬ一断面や、苦悶の意義を捜して居る過去派と分立して、我々は現代に生きる者として、現代に壮麗なる新しき建築を打建てて行くのである。

 

 

 

 以上の議論は、私にとつて一連のルフレヱンである。同時に、論敵に対する止めの短刀でありたいと希望して居る。

 

(昭和二年四月「文藝時代」)