それは漆黒の自動車であつた。
その自動車が軽井沢ステエションの表口まで来て停まると、中から一人のドイツ人らしい娘を降した。
彼はそれがあんまり美しい車だつたのでタクシイではあるまいと思つたが、娘がおりるとき何か運転手にちらと渡すのを見たので、彼は黄いろい帽子をかぶつた娘とすれちがひながら、自動車の方へ歩いて行つた。
「町へ行つてくれたまへ」
彼はその自動車の中へはひつた。はひつて見ると内部は真白だつた。そしてかすかだが薔薇のにほひが漂つてゐた。彼はさつき無造作にすれちがつてしまつた黄いろい帽子の娘を思ひ浮べた。自動車がぐつと曲つた。
彼はふと好奇心をもつて車内を見まはした。すると彼は軽く動揺してゐる床の上にしちらされた新鮮な唾のあとを見つけたのである。ふとしたものであるが、妙に荒あらしい快さが彼をこすつた。目をつぶつた彼には、それがむし(=手へんに、毟)りちらされた花弁のやうに見えた。
しばらくしてまた彼は目をひらいた。運転手の背なかが見えた。それから彼は透明な窓硝子に顔を持つて行つた。窓の外はもうすつかり穂を出してゐる芒原だつた。ちやうど一台の自動車がすれちがつて行つた。それはもうこの高原を立ち去つてゆく人々らしかつた。
町へはひらうとするところに、一本の大きい栗の木があつた。
彼はそこまで来ると自動車を停めさせた。
* * *
自動車は町からすこし離れたホテルの方へ彼のトランクだけを乗せて走つて行つた。それのあげた埃が少しづつ消えて行くのを見ると、彼はゆつくり歩きながら本町通りへはひつて行つた。
本町通りは彼が思つたよりもひつそりしてゐた。彼はすつかりそれを見違へてしまふくらゐだつた。彼は毎年この避暑地の盛り時にばかり来てゐたからである。
彼はしかしすぐに見おぼえのある郵便局を見つけた。
その郵便局の前には、色とりどりな服装をした西洋婦人たちがむらがつてゐた。
歩きながら遠くから見てゐる彼には、それがまるで虹のやうに見えた。
それを見ると去年のさまざまな思ひ出がやつと彼の中にも蘇つて来た。やがて彼には彼女たちのお喋舌りが手にとるやうに聞こえてきた。彼は彼女たちのそばをまるで小鳥の囀つてゐる樹の下を通るやうな感動をもつて通り過ぎた。
そのとき彼はひよいと、向うの曲り角を一人の少女が曲つて行つたのを認めたのである。
おや、彼女かしら!
さう思つて彼は一気にその曲り角まで歩いて行つた。そこには西洋人たちが「巨人の椅子」と呼んでゐる丘へ通ずる一本の小径があり、その小径をいまの少女が歩いて行きつつあつた。思つたよりも遠くへ行つてゐなかつた。
そしてまちがひなく彼女であつた。
彼もホテルとは反対の方向のその小径へ曲つた。その小径には彼女きりしか歩いてゐないのである。彼は彼女に声をかけようとして何故だか躊躇をした。すると彼は急に変な気持になりだした。彼はすべてのものを水の中でのやうに空気の中で感ずるのである。たいへん歩きにくい。おもはず魚のやうなものをふんづける。彼の貝殻の耳をかすめてゆく小さい魚もゐる。自転車のやうなものもある。また犬が吠えたり、鶏が鳴いたりするのが、はるかな水の表面からのやうに聞えてくる。そして木の葉がふれあつてゐるのか、水が舐めあつてゐるのか、さういふかすかな音がたえず頭の上でしてゐる。
彼はもう彼女に声をかけなければいけないと思ふ。が、さう思ふだけで、彼は自分の口がコルクで栓をされてゐるやうに感ずる。だんだん頭の上でざわざわいふ音が激しくなる。ふと彼はむかうに見おぼえのある紅殻色のバンガロオを見る。
そのバンガロオのまはりに緑の茂みがあり、その中へ彼女の姿が消えてゆく……
それを見ると急に彼の意識がはつきりした。彼は彼女のあとからすぐ彼女の家を訪問するのは、すこし工合が悪いと思つた。しかたなしに彼はその小径を往つたり来たりしてゐた。いいことに人はひとりも通らなかつた。さうして漸く「巨人の椅子」の麓の方から近づいてくる人の足音が聞えたとき、彼は何を思つたのか自分でも分らずに、小径のそばの草叢の中に身をかくした。彼はその隠れ場から一人の西洋人が大股にそして快活さうに歩き過ぎるのを見てゐた。
彼女はまだ庭園の中にゐた。彼女はさつき振りかへつたときに彼が自分の後から来るのを見たのである。しかし彼女は立止つて彼を待たうとはしなかつた。なぜかさうすることに羞しさを感じた。そして彼女はたえず彼の眼が遠くから自分の背中に向けられてゐるのをすこしむず痒く感じてゐた。彼女はその背中で木の葉の蔭と日向とが美しく混り合ひながら絶えず変化してゐることを想像した。
彼女は庭園の中で彼を待つてゐた。しかし彼はなかなか這入つて来なかつた。彼が何をぐづぐづしてゐるのか分るやうな気がした。数分後、彼女はやつと門を這入つて来る彼を見たのであつた。
彼はばかに元気よく帽子を取つた。それにつり込まれて彼女までが愛らしい、おどけた微笑を浮べたほどであつた。そして彼女は彼と話しはじめるが早いか、彼が肉体を恢復したすべての人のやうに、めうに新鮮な感受性を持つてゐるのを見のがさなかつた。
「お病気はもういいの?」
「ええ、すつかりいいんです」
彼はさう答へながら彼女の顔をまぶしさうに見つめた。
彼女の顔はクラシックの美しさを持つてゐた。その薔薇の皮膚はすこし重たさうであつた。さうして笑ふ時はそこにただ笑ひが漂ふやうであつた。彼はいつもこつそりと彼女を「ルウベンスの偽画」と呼んでゐた。
まぶしさうに彼女を見つめた時、彼はそれをじつに新鮮に感じた。いままでに感じたことのないものが感じられて来るやうに思つた。さうして彼は彼女の歯ばかりを見た。腰ばかりを見た。その間に、彼は病気のことは少しも話さうとはしなかつた。さういふ現実の煩さかつたことを思ひ出すことは何の価値もないやうに彼は思つてゐた。そのかはりに彼は、真白なクッションのある黒い自動車の中に黄いろい帽子をかぶつた娘の乗つてゐたのが、西洋の小説のやうに美しかつたことなどを好んで話すのだつた。そしてその娘の香ひがまだ残つてゐた美しい自動車に乗つてきたのだと愉快さうに言つた。
しかし彼はその自動車の中に残つてゐた唾のことは言はないでしまつた。さうした方がいいと思つたのだつた。が、それを言はないでゐると、その唾が花弁のやうに感じられたあの時の快感がへんに鮮かにいつまでも彼の中に残つてゐさうな気がするのだ。こいつはいけないと思つた。その時から少しづつ彼は吃るやうに見えた。そして彼はもう不器用にしか話せなかつた。一方、さういふ彼を彼女は持てあますのだつた。そこでしかたがなしに彼女は言つた。
「家へはひりません?」
「ええ」
しかし二人はもつと庭園の中にゐたかつた。けれども今の言葉がをかしなものになつてしまひさうなので、二人はやつと家の中へはひらうとしたのであつた。
そのとき二人は、露台の上からあたかも天使のやうに、彼等の方を見下ろしてゐる彼女の母に気がついた。二人は思はず顔を赧らめながら、それをまぶしさうに見上げた。
* * *
翌日、彼女たちはドライヴに彼を誘つた。
自動車は夏の末近い寂しい高原の中を快い音を立てながら走つた。
三人は自動車の中ではほとんど喋舌らないでゐた。しかし風景の変化の中に三人ともほとんど同様の快さを感じてゐたので、それは快い沈黙であつた。ときどきかすかな声がその沈黙を破つた。が、それはすぐまた元の深い沈黙の中に吸ひこまれてしまふので誰も何も言はなかつたのではないかと思はれるほどのものであつた。
「まあ、あの小さい雲……(夫人の指に沿つてずつと目を持つてゆくと、そこに、一つの赤い屋根の上に、ちやうど貝殻のやうな雲が浮んでゐた)ずゐぶん可愛らしいぢやないの」
それから後は浅間山の麓のグリイン・ホテルに着くまで、ずつと夫人の引きしまつた指と彼女のふつくらした指をかはるがはる眺めてゐた。沈黙がそれを彼に許した。
ホテルはからつぽだつた。もう客がみんな引上げてしまつたので、今日あたり閉ぢようと思つてゐたのだ、とボオイが言つてゐた。
バルコニイに出て行つた彼等は、季節の去つた跡のなんとない醜さをまのあたりの風景に感じずには居られなかつた。ただ浅間山の麓だけが光沢のよいスロオプを滑らかに描いてゐた。
バルコニイの下に平らな屋根があり、低い欄干をまたぐと、すぐその屋根の上へ出られさうであつた。そんなに屋根が平らで、そんなに欄干が低いのを見たとき、彼女が言つた。
「ちよつとあの上を歩いて見たいやうね」
夫人は、彼と一しよに下りてもらへばいいぢやないのと彼女に応へた。それを聞くと彼は無造作に屋根の上に出て行つた。彼女も笑ひながら彼について来た。そして二人が屋根の端まで歩いて行つた時、彼はすこし不安になりだした。それは屋根のわづかな傾斜から身体の不安定が微妙に感じられるせゐばかりではなかつた。
その屋根の端で彼はふと彼女の手とその指環を見たのである。そして彼女が何でもなかつたのに滑りさうな真似をして指環が彼の指を痛くするほど彼の手を強く掴むかも知れないと空想した。すると彼はへんに不安になつた。そして急に彼は屋根のわづかな傾斜を鋭く感じだした。
「もう行きませう」さう彼女が言つた時、彼は思はずほつとした。彼女は先に一人でバルコニイに上つてしまつた。彼もそのあとから上らうとして、バルコニイで夫人と彼女の話しあつてゐるのを聞いた。
「何か見えて?」
「ええ、私達の運転手が、下でブランコに乗つてるのを見ちやつたのよ」
「それだけだつたの?」
皿とスプウンの音が聞えてきた。彼はひとりで顔を赧くしながら、バルコニイヘ上つて行つた。
夫人の「それだけだつたの?」を彼はお茶をのんでゐる間や、帰途の自動車の中で、しきりに思ひ出した。その声には夫人の無邪気な笑ひがふくまれてゐるやうでもあつた。また、やさしい皮肉のやうでもあつた。それからまた、何んでも無いやうでもあつた。……
* * *
翌日、彼が彼女たちの家を訪問すると、二人とも他家へお茶に招ばれてゐて留守だつた。
彼はひとりで「巨人の椅子」に登つて見ようとした。が、すぐ、それもつまらない気がして町へ引きかへした。そして本町通りをぶらぶらしてゐた。すると彼は、彼の行手に一人の見おぼえのあるお嬢さんが歩いてゐるのに気がついた。それは毎年この避暑地に来る或る有名な男爵のお嬢さんであつた。
去年なども、彼はよく峠道や森の中でこのお嬢さんが馬に乗つてゐるのに出逢つた。さういふ時いつも彼女のまはりには五六人の混血児らしい青年たちがむらがつてゐるのであつた。一しよに馬や自転車などを走らせながら。
彼もこのお嬢さんを刺青をした蝶のやうに美しいと思つてゐた。しかし、それだけのことで、彼はむろんこのお嬢さんのことなどさう気にとめてもゐなかつた。が、ただ彼女を取りまいてゐるさういふ混血児たちは何とはなしに不愉快だつた。それは軽い嫉妬のやうなものであるかも知れないが、それくらゐの関心は彼もこのお嬢さんに持つてゐたと言つてもいいのである。
それで彼は何の気もなくそのお嬢さんのあとから歩いて行つたが、そのうち向うからちらほらとやつてくる人々の中に、ふと一人の青年を認めた。それは去年の夏、ずつと彼女のそばに附添つてテニスやダンスの相手をしてゐた混血児らしい青年であつた。彼はそれを見るとすこし顔をしかめながら出来るだけ早くこの場を離れてしまはうと思つた。その時、彼はまことに思ひがけないことを発見した。といふのは、そのお嬢さんとその青年とは互にすこしも気づかぬやうに装ひながら、そのまますれちがつてしまつたからである。唯、そのすれちがはうとした瞬間、その青年の顔は悪い硝子を透して見るやうに歪んだ。それからこつそりとお嬢さんの方をふり向いた。その顔にはいかにも苦にがしいやうな表情が浮んでゐた。
このエピソオドは彼を妙に感動させた。彼はこの意地悪さうなお嬢さんに一種の異常な魅力のやうなものさへ感じた。勿論、彼はその混血児の側にはすこしも同情する気になれなかつた。
その晩はベッドヘ横になつてからも、何度も同じところへ飛んでくる一匹の蛾のやうに、そのお嬢さんの姿がうるさいくらゐに彼のつぶつた眼の中に現れたり消えたりするのであつた。彼はそれを払ひ退けるために「ルウベンスの偽画」を思ひ浮かべようとした。が、それが前者に比べるとまるで変色してしまつた古い複製のやうにしか見えないことが、一そう彼を苦しめた。
* * *
しかし翌朝になつて見ると、そのふしぎな魅力は夜の蛾のやうにもう何処かへ姿を消してしまつてゐた。さうして彼は何となく爽やかな気がした。
午前中、彼は長いこと散歩をした。そして、とあるロッヂの中で冷たい牛乳を飲みながら、しばらく休むことにした。彼はこんなに爽やかな気分の中でなら、夫人たちに昨日からのエピソオドを打明けても少しもこだはるやうなことはないだらうと思つたほどであつた。
それは町からやや離れた小さな落葉松の林の中にあつた。
木のテエブルに頬杖をついてゐる彼の頭上では、一匹の鸚鵡が人間の声を真似してゐた。
しかし彼はその鸚鵡の言葉を聴かうとはしなかつた。彼は熱心に彼の「ルウベンスの偽画」を虚空に描いてゐた。それが何時になく生き生きした色彩を帯びてゐるのが彼には快かつた。……
その瞬間、彼は彼のところからは木の枝に遮ぎられて見えない小径の上を二台の自転車が走つて来て、そのロッヂの前に停まるのを聞いた。それからまだその姿は見えないけれど、若い娘特有の透明な声が聞えてきた。
「なんか飲んで行かない?」
その声を聞くと彼はびつくりした。
「またかい。これで三度目だぜ」さう若い男の声が応じた。
彼は何となく不安さうに、ロッヂの中にはひつてくる二人を見つめた。意外にもそれはきのふのお嬢さんだつた。それから彼のはじめて見る上品な顔つきをした青年だつた。
その青年は彼をちらりと見て、彼から一番離れたテエブルに坐らうとした。するとお嬢さんが言つた。
「鸚鵡のそばの方がいいわ」
そして二人は彼のすぐ隣りのテエブルに坐つた。
お嬢さんは彼に背なかを向けて坐つたが、彼には何だかわざとかの女がさうしたやうに思はれた。鸚鵡は一そう喧ましく人真似をしだした。かの女はときどきその鸚鵡を見るために背なかを動かした。その度毎に彼はかの女の背なかから彼の眼をそらした。
お嬢さんはその青年と鸚鵡とをかはるがはる相手にしながら絶えず喋舌つてゐた。その声はどうかすると「ルウベンスの偽画」の声にそつくりになつた。さつきこのお嬢さんの声を聞いて彼がびつくりしたのはそのせゐであつたのだ。
お嬢さんの相手の青年はその顔つきばかりではなしに、全体の上品な様子が去年の混血児たちとはすこぶる異つてゐた。すべてがいかにもおつとりとして貴族的であつた。さういふ両者の対照の中に彼は何となくツルゲエネフの小説めいたものさへ感じたほどだつた。この頃になつてこのお嬢さんはやつとかの女の境涯を自覚しだしたのかも知れない。……そんなことをいい気になつて空想してゐると、彼は彼自身までがうつかりその小説の中に引きずり込まれて行きさうで不安になつた。
彼はもつとここに居て見ようか、それとも出て行つてしまはうかと暫く躊躇してゐた。鸚鵡は相変らず人間の声を真似してゐた。それをいくら聴いてゐても、彼にはその言葉がすこしも分らなかつた。それが彼にはなんだか彼の心の中の混雑を暗示するやうに思はれた。
彼はいきなり立ちあがると不器用な歩き方でロッヂを出て行つた。
ロッヂのそとへ出ると、二台の自転車がそのハンドルとハンドルとを、腕と腕とのやうにからみあはせながら、奇妙な恰好で、そこの草の上に倒れてゐるのを彼は見た。
そのとき彼の背後からお嬢さんの高らかな笑ひ声が聞えてきた。
彼はそれを聞きながら、自分の体の中にいきなり悪い音楽のやうなものが湧き上つてくるのを感じた。
悪い音楽。たしかにさうだ。彼を受持つてゐるすこし頭の悪い天使がときどき調子はづれのギタルを弾きだすのにちがひない。
彼は自分の受持の天使の頭の悪さにはいつも閉口してゐた。彼の天使は彼に一度も正確にカルタの札を分配してくれたことがないのだ。
或る晩のことであつた。
彼は彼女の家から彼のホテルヘまつ暗な小径を、なんだか得体の知れない空虚な気持を持てあましながら帰りつつあつた。
その時前方の暗やみの中から一組の若い西洋人達が近づいてくるのを彼は認めた。
男の方は懐中電気でもつて足もとを照らしてゐた。そしてときどきその電気のひかりを女の顔の上にあてた。するとそのきらきら光る小さな円の中に若い女の顔がまぶしさうに浮び出た。
それを見るためには、その女が彼よりずつと背が高かつたので、彼はほとんど見上げるやうにしなければならなかつた。さういふ姿勢で見ると、若い女の顔はいかにも神々しく思はれた。
一瞬間の後、男は再び懐中電気をまつ暗な足もとに落した。
彼は彼等とすれちがひながら、彼等の腕と腕が頭文字のやうにからみあつてゐるのを発見した。それから彼はその暗やみの中に一人きりに取残されながら、なんだか気味のわるいくらゐに亢奮しだした。彼は死にたいやうな気にさへなつた。
さういふ気持は悪い音楽を聞いたあとの感動に非常に似てゐた。
さういふ音楽的なへんな亢奮をしきりに振り落さうとして、彼はその朝もそこら中をむちやくちやに歩き廻つた。そのうちに彼は一つの見知らない小径に出た。
そこいらは一度も来たことのないせゐか、町から非常に遠く離れてしまつたかのやうに思はれた。
そのとき彼はふと自分の名前を呼ばれたやうな気がした。あたりを見廻して見たが、それらしいものは見えなかつた。をかしいなと思つてゐると、また彼の名前を呼ぶものがあつた。今度はややはつきり聞えたのでその声のした方を振り向いてみると、そこには彼のゐる小径から三尺ばかり高まつた草叢があり、その向うに一人の男がカンバスに向つてゐるのが見えるのだ。その男の顔を見ると彼は一人の友人を思ひ出した。
彼はやつとこさその上に這ひ上つて、その友人のそばへ近よつて行つた。が、その友人は、彼にはべつに何にも話しかけようとせずに、そのまま熱心にカンバスに向つてゐた。彼も話しかけない方がいいのだらうと思つた。さうしてそこへ腰を下ろしたまま黙つてその描きかけの絵を見まもつてゐた。彼はときどきその絵のモチイフになつてゐる風景をそのあたりに捜したりした。しかしそれらしい風景はどうしても捜しあてることが出来なかつた。なにしろその画布の上には、唯、さまざまな色をした魚のやうなものや小鳥のやうなものや花のやうなものが入り混つてゐるだけだつたから。
しばらくその奇妙な絵に見入つてゐたが、やがて彼はそつと立ちあがつた。すると立ちあがりつつある彼を見上げながら、友人は言つた。
「まあ、いいぢやないか。僕は今日東京へ帰るんだよ」
「今日帰る? だつて、まだその絵、出来てないんぢやないの?」
「出来てないよ。だが僕はもう帰らなければならないんだ」
「どうしてさ」
友人はそれに答へるかはりに再び自分の絵の上に眼を落した。しばらくその一部分に、彼の眼は強く吸ひつけられてゐるかのやうであつた。
* * *
彼はひとり先きにホテルに帰つて、昼食を共にしようと約束をしたさつきの友人の来るのを客間で待つてゐた。
彼は客間の窓から顔を出して中庭に咲いてゐる向日葵の花をぼんやり眺めてゐた。それは西洋人よりも背高く伸びてゐた。
ホテルの裏のテニス・コオトからはまるで三鞭酒を抜くやうなラケットの音が愉快さうに聞えてくるのである。
彼は突然立上つた。そして窓ぎはの卓子の前に坐り直した。それから彼はペンを取りあげた。しかしその上にはあいにく一枚の紙もなかつたので、彼はそこに備へ付けの大きな吸取紙の上に不恰好な字をいくつもにじませて行つた。
ホテルは鸚鵡
鸚鵡の耳からジュリエットが顔をだす
しかしロミオは居りません
ロミオはテニスをしてゐるのでせう
鸚鵡が口をあけたら
黒ん坊がまる見えになつた
彼はもう一度それを読み返さうとしたが、すつかりインクがにじんでしまつてゐて何を書いたのか少しも分らなくなつてしまつてゐた。
それでもやはり彼は、約束の時間よりもすこし遅れてやつてきた友人がひよいとそれを覗き込んだ時には、それを裏返しにした。
「隠さなくてもいいぢやないか?」
「これは何でもないんだ」
「ちやんと知つてるよ」
「何をさ」
「一昨日、いいところを見ちやつたから」
「一咋日だつて? なんだ、あれか」
「だから今日は君が奢るんだよ」
「あれは、君、そんなもんぢやないよ」
あれはただ浅間山の麓まで彼女たちのお供をしただけだ。「たつたそれだけ」だつたのだ。――彼は再びその時の夫人の言葉を思ひ出した。そしてひとりで顔を赧くした。
それから彼等は食堂へはひつて行つた。それを機会に彼は話題を換へようとした。
「ときに君の絵はどうしたい?」
「僕の絵? あれはあのままだ」
「惜しいぢやないか?」
「どうも仕方がないんだ。ここは風景は上等だが、描きにくくて困るね。去年も僕は描きに来たんだが駄目さ。空気があんまり良すぎるんだね。どんなに遠くの木の葉でも、一枚一枚はつきり見えてしまふんだ。それでどうにもならなくなるんだよ」
「ふん、そんなものかね……」
彼はスウプを匙ですくひながら、思はずその手を休めて、自分自身のことを考へた。ことによると自分と、彼女との関係がちつとも思ふやうに進行しないのは、ひとつはここの空気があんまり良すぎて、どんなに小さな心理までも互にはつきり見えてしまふからかも知れない。彼はそれを信じようとさへした。
そして彼は考へた。描きかけの風景画をたづさへてこれから東京へ帰らうとしてゐるこの友人と同様に、自分もまた数日したら、それも恐らく描きかけのままになるであらう自分の「ルウベンスの偽画」をたづさへて再びここを立ち去るより他はないであらう?
午後になつて、その友人を町はづれまで見送つてから、彼はひとりで彼女の家を訪れた。
丁度ふたりでお茶を飲んでゐるところだつた。彼を見ると夫人は急に思ひ出したやうに彼女に言つた。
「あの乳母車にのつてゐる写真をお見せしないこと?」
彼女は笑ひながらその写真を取りに次の部屋にはひつていつた。その間彼の眼のうちらには、彼女の幼時の写真の古い茸のやうな色がひとりでに溜つてくるやうだつた。次の部屋から再び帰つてきた彼女は彼に二枚の写真を渡した。が、それは二枚とも彼の眼をまごつかせたくらゐに撮影したばかりの新鮮な写真だつた。それはこの夏この別荘の庭で、彼女が籐椅子に腰かけてゐるところを撮らせたものらしかつた。
「どつちがよく撮れて?」彼女が訊いた。
彼は少しどぎまぎしながら、近視のやうに眼を細くしてその二つの写真を見較べた。彼は何とはなしにその一つの方を指してしまつた。そのとき彼の指の先がそつとその写真の頬に触れた。彼は薔薇の花弁に触れたやうに思つた。
すると夫人はもう一つの方の写真を取りあげながら言つた。
「でも、この方がこの人には似てゐなくて?」
さう言はれて見ると、彼にもその方が現実の彼女によりよく似てゐるやうに思はれた。そしてもう一つの方は彼の空想の中の彼女に、――「ルウベンスの偽画」にそつくりなのだと思つた。
しばらくしてから、彼は実物を見ないうちに消えてしまつたさつきの古い茸のやうな色をしたヴィジョンを思ひ出した。
「乳母車といふのはどれですか?」
「乳母車?」
夫人はちよつと分らないやうな表情をした。が、すぐその表情は消えた。そしてそれはいつもの、やさしいやうな皮肉なやうな独特の微笑に変つていつた。
「その籐椅子のことなのよ」
そしてそのやうに和やかな空気が、相変らずその午後のすべての時間の上にあつた。
これがあれほど彼の待ち切れずに待つてゐたところの幸福な時間であらうか?
彼女たちから離れてゐる間中、彼は彼女たちにたまらなく会ひたがつてゐた。そのあまりに、彼は彼の「ルウベンスの偽画」を自分勝手につくり上げてしまふのだ。すると今度はその心像が本当の彼女によく似てゐるかどうかを知りたがりだす。そしてそれがますます彼を彼女たちに会ひたがらせるのであつた。
ところが現在のやうに、自分が彼女たちの前にゐる瞬間は、彼はただそのことだけですつかり満足してしまふのだ。そしてその瞬間までの、その心像が本当の彼女によく似てゐるかどうかといふ一切の気がかりは、忘れるともなく忘れてしまつてゐる。それといふのも、自分が彼女たちの前にゐるのだといふことを出来るだけ生き生きと感じてゐたいために、その間中、彼はその他のあらゆることを、――果してその心像が本当の彼女によく似てゐるかどうかといふ前日からの宿題さへも、すつかり犠牲にしてしまふからだつた。
しかし漠然ながらではあるが、自分の前にゐる少女とその心像の少女とは全く別な二個の存在であるやうな気もしないではなかつた。ひよつとしたら、彼の描きかけの「ルウベンスの偽画」の女主人公の持つてゐる薔薇の皮膚そのままのものは、いま彼の前にゐるところの少女に欠けてゐるかも知れないのだ。
二つの写真のエピソオドが彼のさういふ考へをいくらかはつきりさせた。
夕暮れになつて、彼はホテルへのうす暗い小径をひとりで帰つていつた。
そのとき彼はその小径に沿うた木立の奥の、大きい栗の木の枝に何か得体の知れないものが登つてゐて、しきりにそれを揺すぶつてゐるのを認めた。
彼が不安さうに、ふとすこし頭の悪い自分の受持の天使のことを思ひうかべながら、それを見あげてゐると、なんだか浅黒い色をした動物がその樹から、いきなり飛び下りてきた。それは一匹の栗鼠だつた。
「ばかな栗鼠だな」
そんなことを思はずつぶやきながら、彼はうす暗い木立の中をあわてて尻尾を背なかにのせて走り去つてゆく栗鼠を、それの見えなくなるまで見つめてゐた。
――昭和五年五月――