日に一度来る郵便配達が、二三の新聞と一緒に、一通の手紙を投げ入れて行つた。新聞と手紙とは、女中の手で奥の間へ運ばれた。奥の間には、老衰のおばあさんが臥てゐて、おぢいさんが看病してゐる。
新聞に交つて久振で来た手紙を、おぢいさんは不審相に眺めたが、すぐ手紙の裏を返して差出人の名を見ると、鳥渡の間躊めらつたのち、静かに手紙を座布団の脇へ差し置いて、新聞の封を切らうとした。が思ひ返したといふ風で、一旦帯封に掛けた手を離して、また手紙を取上げた。さうして二三度丹念に表裏を見直した上、急がしげに煙草盆の引出から小きな鋏を取出して、丁寧に封を剪んだ。
ぽつたりとした巻紙が出た。おぢいさんは、ゆつくり読んで行つた。巻紙の長さは優に一丈を越えてゐた。――
手紙を読むおぢいさんの膝から、殆二尺とは離れぬところに、おばあさんが寝てゐた。去年の春から、寝たり起きたりしてゐるので、絶えず寝床はとつてあつた。
おばあさんは、小柄な子供程の頭を、大きな白い枕にのせて、さつきから天井を眺めてゐた。天井は、無聊そのものゝやうに、何の変りもない眺めだつた。たゞ、ほんの今さきから、おばあさんは天井を眺めながら、おぢいさんのする事を、委しく見てゐた。おぢいさんが、手紙から眼を離す度に、何か話しかけやうと思つたが、まだ決心のしつかりつかないうちに、おぢいさんは忙しさうに再手紙へ目を落すので、何の機会も掴めなかつた。それで、話しかけることは止して、おぢいさんの手紙が済むまで天井を眺めてゐることにした。天井には、欄間から吹き込むやうな光線が、面白い縞を描いてゐた。そのうへに、縁側に置いた水仙の水盤の水が、ゆらゆらと揺れてゐるとみえ、絶えず動いてゐる妙な反映が、其縞を撫でゝゐた。
おばあさんも、おぢいさんも、七十を越して幾年かになるが、其割には、見かけも、内実も丈夫であつた。白髪なども、ほんとに数へる程しかなかつた。おばあさんは、自分のよりも余程白いおぢいさんの頭を不思議さうに見やつた。
――おぢいさんは、やうやう手紙を読み終つて、くるくると巻き納めた。老眼鏡を外して、やゝ薄汚れた手巾を取出し、思ひの外、大きな音を快く立てゝ涕をかんだ。くるりと手巾を畳返すと、その端で軽く目頭を押へ、もう一度念を押すやうに涕をかんで、手巾を袂に入れた。さうして長い髯を、両手でぎゆうと扱いた。扱き終ると、見事な髯を左右に撫でた。すぐ眼鏡を取あげて、元通りに掛けきよとんとした顔つきで、庭先へ眼をやつた。
おばあさんは、何か云ひかけやうかと又思つたが、今度も止めて、おぢいさんの視線を護るやうに同じく庭先へ眼を向けた。すると先刻から時々耳につく蝿の唸りが、一層気になり出した。
おぢいさんは、やゝあつて新聞を手にとつた。がさごそ音を立てて拡げると、一度ぽんと叩いて、続きものを読み始めた。此時、十畳の座敷には何の物音もなかつた。穏かにも静かであつた。只、おばあさんの耳にだけ、蝿の唸りが、煩かつた。
おばあさんの心は、退屈し切つてしまつた。続きものを読んでゐるおぢいさんが、少し嫉ましいほどであつた。小石を拾つて、思ひ切りよく、池の中心へ投げつける気になつた。それで訊ねた。
「な、もし。」
「うん。」おぢいさんは返事だけしたが、眼を続きものから離さなかつたので、おばあさんは返事をして貰つたやうな気がしなかつた。それで、も一度云つた。
「な、もし。」
「なんな?」おぢいさんは、ひよいと顔を挙げて、老いた病妻を眺めた。おばあさんは、少し慌て気味で云つた。
「手紙は何処からの?」
おぢいさんは、じろりと手紙を見やつて、暫く押黙つた。が、思切よく続きものを下に落して、手紙を手にとつた。
「鐐からばの。」
「鐐の。」かう声を落して、おばあさんは損をしたやうな顔をした。それを見ると、おぢいさんも厭になつて、眼を外らした。
「何と思つて手紙寄越すんかの? 我と逃げたもんの、用ばし有るごと。」
かういつて、おばあさんは、おぢいさんの様子を窺ふやうな眼付をした。おぢいさんは尚厭な顔つきをした。
「丸で我儘もんの、手紙だけは、よく書けたもんの。な、もし。ちと押しが太か。」
おぢいさんは、それでも黙つてゐた。眼を全く閉ぢて聞かぬふりをしながら、今さき読んだ手紙の文句を、あちらこちらと思ひ浮べてゐた。
おぢいさんの心は、去年彼等年寄二人を残して、思切りよく家を出た義理の子のことで一杯になつてゐた。不思議に、自分達を捨てた鐐太郎のいゝところばかりが回想されて、少しも不快な気は起つて来なかつた。それのみか、反つて自分達の方に罪があるやうな気がしてならなかつた。それで、おばあさんの言葉を聞くと妙に不快でならなかつた。何とおばあさんが云はうとも、鐐太郎は依然として、気の弱い鐐太郎としか思へなかつた。押しの太いところなど――何処を探してもなかつた。
おぢいさんは、おばあさんに答へるところを知らなかつた。返事をしないことに依つておばあさんを立腹させても――それも仕方がなかつた。今は自分の心もちを掻乱されるに忍びなかつた。おばあさんを取残して置いて、自分だけは楽しい追憶の裡で、鐐太郎と話をしてゐたかつた。いつ迄もかうしてゐたかつた。――
「けどな、もし。鐐も帰りたかも知れんての。後悔してゐるかも知れんての。」
かう、おばあさんは又話しかけた。おぢいさんは、五月蝿いと思乍らも、鐐太郎に暇を告げないわけにはゆかなかつた。追憶の裡を逃れて、出渋るやうな返事をした。
「きうぢや無かばの。」
「何がの?」
「何がて、何がの?」
おぢいさんは、おばあさんが何を云つたのか、よく聞いてゐなかつたやうな気がしたので、かう問ひ返した。おばあさんは腹を立てた。少し声を大きくした。
「鐐も押しが太か。誰が二度と家へ入れるもんの。」
「入れて呉れと云ひばしするごと。鐐はな、ちつとも帰りたがつては居らんばな。」
「ぢや何故に、手紙を寄越すの? 再三ぢやて。」
おばあさんは、少し鼻白んだやうな風で云つた。すると、おぢいさんは少し嬉しさうな顔をして云つた。
「案じてばの、あんたの病気な。それにわしも寂しからうてな。」
「そげん事みな嘘ばな。案じたなら何故に家飛出したな? 淋しかろも、なかもんな、ぢやけんに、押しが太かて――」
おぢいさんは、遮つた。
「そげん云ふものぢや無か、知りもせんで。此の手紙なと読んだら分ろて。案じもするばつてん、余儀なかつての、委しく書いてあるばの。鐐も淋しか子なもん、こつちの気も好く知つてゐるばの。よくせきで家出たんぢやで、わしらより、一層苦しんでゐるばの。」
「余計んことばかし。」おばあさんは、忌々しさうに呟いた。
「あゝした口無調法もんの、心では何も蚊もよつく分つてゐるばの。済まんとも人一倍思つてゐるばの。あの気の弱か子が出るちふな、よくせきばでの。」
そこを汲んでやらなくては、といふやうにおぢいさんは、かう弁護した。が云ひ切つてしまふと、云ひ切つたあとの淋しさが、ひしひしと、おぢいさんを取囲んだ。でおぢいさんは、今はもう何も云はうともしないおばあさんの、小きな顔を眺めると、少し心が苦しいやうな気がしたので、それなり口を噤んで眼を閉ぢた。すると義理の子が家を出る前に、亢奮して老人達を口説いた時の有様が自と、眸底に浮び上つて来た。
其時鐐太郎は、おぢいさんにも、おばあさんにも、よくは分らない事を、日頃とは丸で別人のやうな調子で力強く、諄々と説いてきかせた。おぢいさんは、向ふ見ずな若者のやうでゐながらそれでゐて、如何にも信ずるところの有り相な頼もしげな鐐太郎の姿を、ありありと思ひ浮べた。鐐太郎の眼から、尽きず流れ出る涙に誘ひ込まれて、流涕して煙管を握締めてゐた自分の姿も思ひ浮んで来た。
「好か。行け。それ程思つとるなら、間違もなかろ。わし等は年寄のけん、どうならうと先は知れたもんの。年寄のために、若い者を縛つとくて法は、如何にもお前の云ふやうに、よかなかたい。好か。後はばあさんと二人でどうかなろ。まあ折角やるがよか。」
涙は二人の眼から、更にさかんに流れた。鐐太郎が、醜い涙の痕の光る頬に、さらに涙を伝はせながら、書籍を開けてみせたり、亢奮のためやゝ慄へる声で其数ケ所を朗読してきかせたり、喩へて話したりして、どうしても説き伏せやうと説き尽した事は、良くも了解することは出来なかつたが、それにも拘らず、思切りよく賛成して、激励の言葉まで吐いたおぢいさんの其時の心持が、又新しく甦つて来た。其日、外にはちらちらと雪が降つてゐた。亢奮の去つたあとの、気抜のやうな眼を、二人共一緒に其雪の外景に向けた。雪を通して、海を隔てた向ふに小島が一つ見えた。
あくる日が来た。あくる日になると、おぢいさんは鐐太郎の居なくなつたあとの一家の有様を、はつきりと考へることが出来た。すると、俄かに昨日の亢奮が恨めしくなつた。おぢいさんには、十分未練があつた。どうかして鐐太郎を引留めておきたくなつて来た。それで仕舞には、それ程出たいのなら、一層縁を切るがどうか。さうすれば非常に自由でよからう。何年帰つて来なくても差支がないのだからと、到頭云つて終つた。鐐太郎は、それを脅しとも思つた。本当だとも解つた。おぢいさんの衷心にも其心が動かなかつたわけぢやなかつたのだなと思つた。それなら丁度自分の心にもそれに似たものが動いてゐたのだと気がついた。自分の考が、はつきりしたやうな気がした。それで鐐太郎は、きつぱりと、縁を切らなくては出られない養家なら、縁を切るだけのことだと云ひ切つた。おぢいさんは、鐐太郎の決然たる態度に聊か狼狽した。で又其あくる日から、二た月に余る月日が、根気よく「相談」に暮された。が何処かで妥協点を見出さうとした「相談」は、到底飜し難い鐐太郎の、強い意志を確めただけであつた。
――おばあさんも到頭諦めて、然も割合に機嫌よく「ぢや仕方が無か。」と承諾したことも、おぢいさんは今更のやうに思ひ浮べた。
漠然と乍らも、子供の心持が分つてゐるおぢいさんは、いづれは再手許へ戻つて来る子だと信じてゐた。が、おばあさんはよく不平と愚痴を並べた。その都度おぢいさんは「鐐太郎の本心」を説き聞せた。おばあさんは、時々不平と愚痴を並べて、おぢいさんから宥めてもらつた。時々思ひ出したやうに子供を罵つておぢいさんの厄介になることが、おばあさんの意識せぬインテレストに何時かなつてゐた。だから二た言三言おぢいさんが宥めると、何時も口を噤んだ。
けふもおばあさんは可なり満足して、鐐太郎とおぢいさんに愛を感じてゐた。その気持は、おぢいさんも薄々知つてゐた。表面ではお互に諍つても、本当はどちらが余計に鐐太郎を愛してゐるだらうかと、相互に相手の衷心を探り合つてゐた。
――おぢいさんは静かに眼を開いておばあさんを見下した。さうして、かうした場合の何時ものやうに、つと立つと縁側へ出て、盆栽の世話を始めた。
おばあきんは、おぢいさんの後姿を注視してゐたが、暫くすると細い手を延して、手紙を掴んだ。裏表をすばやく幾度も返し乍ら絶えずおぢいさんの後姿を注視してゐた。盆栽の手入れに余念ないと見定めると、急いで、手紙を抽出して、鳥渡中身を一瞥して直ぐ封筒に戻し、また飽かずに裏表を眺めてゐた。
春は穏かに一室を抱いて、おばあさんをおばあさんにして、慈悲深く押包んだ。おばあさんもおばあさんになつて、静な座敷に、尚も静かな身を横へてゐた。凡てが満足して良かつた。おぢいさんはいゝ人だしと考へてゐた。もう怒つてゐやしまい。仲直りをしやうと考へてゐた。蝿がまた唸り出した。天井に反映する水影がゆらゆらと揺れた。と、おぢいさんが不意に、こちらを向いた。おばあさんは狼狽して手紙を投出した。
「鐐も字がうまくなつたのし。」
おばあさんは、かう云つておぢいさんの顔を見た。おぢいさんは、何をと云つた顔つきで、座に着いた。おばあさんは又云つた。
「鐐も手は良か。何て云つて越したのし?」
おぢいさんは、おばあさんの、媚びるやうな調子に反感を持つて、故と、澄した顔をした。
「先刻云つたぢやなかの?」
「良う聞かんでの」おばあさんは、申訳するやうに云つた。
「ぢや読みなんせ。委しく書いてあるに。」
「読んで仰せつけまつせ。頼むばつて。」
おぢいさんは、じろりとおばあさんの寝顔を一瞥して、にやりと笑つた。
おばあさんは、むづかしい顔をした。それを見て、おぢいさんは哈々と笑つた。さうして、からかふやうな調子で、
「読もかの?」と云つた。
今度はおばあさんが黙つて、おぢいさんの顔を見返した。おぢいさんは愉快な顔つきをしてゐた。
「読もかの?」
「読んで仰せつけまつせて、云つとるぢやなかの?」と、おばあさんは、心外だといふやうな顔をした。
(大正八年十一月「新小説」)