受驗生の手記

 一

 汽笛ががらんとした構內に響き渡つた。私を乘せた列車は、まだ暗に包まれてゐる、午前三時の若松停車場を離れた。

「ぢや左様なら。おまへも今年卒業なんだから、しつかり勉强しろよ。俺も今年こそはしつかりやるから。」

 私は見送りに來てゐた窓外の弟に、感動に滿ちて云つた。襟に五年の記號のついた、中學の制服を着けて、この頃めつきり大人びた弟は、壓搾した元氣を底に湛へたやうな顏付で、むつつり默つて頭を下げた。恐らくは、弟も、この腑甲斐のない兄の再度の首途かどでに、何を云つていゝか解らなかつたのであらう。考へて見れば自分は、旣に弟に追ひつかれてゐるのだ。上京の時日は弟より三ケ月先きの今だが、弟もやがて中學の制服を脫ぎすてると、この四月には上京する身なのだ。私はもう一度妙な感慨を以て、ぢつと立つてゐる弟の姿を見やつた。

 私はもう一言何か弟に云ひたかつた。が汽車は旣に、ゆつくりと、しかも凡ての物に係りなく、動き出してゐた。そして思はず淚の浮びかゝつた私の眼から、ぼんやり明け近いかさをかぶつた燈火と、蝙蝠かうもりのやうに驛員たちの立つてゐる步廊プラツトフオームが、見る/\中に後退あとずさつて行つた。

 弟の小さくなつた姿が、もう步き出してゐた。そして此方を見てゐないらしかつた。それでも私はもう一瞥いちべつの別れを投げかけようとしたが、その時暗い物影が、恐らくは積まれた材木ででもあるらしい物影が、私と步廊との間を遮つた。而して再びその暗がひらけた時、汽車は旣に故鄕の殘影である燈火の群から遠くはしつてゐた。

 私はやうやく窓から首を引込めた。そして何となく首途かどでらしい感慨に打たれて、危ふく熱くなりかゝつた瞼を抑へながら、かうなる迄の自分の位置を默想し始めた。――

 私に取つては、今度のそれは全く決死の首途なのだ。去年の一高の受驗に於ける不面目な失敗、その後を受けた今年こそは、どうしても成功しなくてはならぬ首途なのだ。それにしても何故、去年もつとしつかりやらなかつたらう。それは第一に上京が遲れたからだ。秀才だつた義兄の言に信賴し過ぎて、卒業後の大切な數月を刺戟のない田舍で勉强しようとしたのが間違だつた。早くから上京してゐて、切迫した空氣の中にゐたら、或ひは勉强ももつと緊張し、又受驗術も巧妙になつてゐたかも知れない。從つて友人の三島のやうに、或ひは及第してゐたかも知れない。なあに三島だつて自分だつて、腦力にさう軒輊けんちが在る譯はないのだ。無いどころか、自分の方が卒業の成績さへよかつたのだ。そして受驗前の問答なぞでも、自分の方がずつと知つてゐたのだ。ところが受驗の結果は彼が見事に入つてゐながら、私はすつかり失敗してゐた。一體ほんとに彼と私とに、どこであの差が出來たのだらう。

 それは彼と私との單なる英語の單語一つ知る知らぬから生じたらしい。少くとも自分はさう考へる。あの英語の第一間にあつた、呪ふべき Promotion という單語の譯し方一つに、彼と私との運命の差が生じたのだ。私はこの字を知らなかつた。それで前後の意味から參酌して、大體當りさうな譯語をつけて來た。(今考へるのも恥しい。)それがあとから聞いてみると違つてゐた。その他の問題では、どの科目に於ても、いつも彼と歸途に話し合つて、二人が一致したのだつたが、これだけは私が明かに失敗してゐたのだつた。

 その他にも或ひは私の失敗があつたかも知れない。そして二人の間に見えない差異が生じたのかも知れない。併し際どい選拔試驗の及落では、單語一つの識不識は、直ちに運命を支配する事もあり得る。否、さうあるべきだと思ふ。聞く處によると及落を分つものは、僅かに五點の差を出でぬと云ふではないか。――兎に角、私の場合に於ては、單語一つにかゝつたと考へて差支ないやうに思ふ。しかも自分はそのために、云ひやうのない屈辱の半歲を過した。父には叱られた。母には泣かれた。義兄、姉妹たちにまで輕蔑の眼を以て見られた。たゞあの私のひそかに思つてゐる、義兄の從妹の澄子さんだけが、同情して慰藉の手紙さへ吳れたが、あの人だつて內心輕蔑したに違ひない。が、それでもあの人の慰めが私の今迄の唯一の光明だつた。

 今度の早い上京だつて、父はなか/\許しさうにもなかつた。が自分は今年入らなければすと迄誓つたため、やつと許して吳れたのだ。だからいづれにもせよ、今年入らなければ生きては歸れないのだ。それに弟だ。彼奴あいつともとう/\受驗期が同じくなつて了つた。それを考へると私は、何となく恥づかしくてたまらない。

 何しろ、上京したらしつかり勉强しなければならない。さう思ふと胸が躍るやうだ。そしてもう今日の中には上京してゐるのだ。今迄の陰慘な、屈辱な家での蟄居ちつきよから、あの光りかゞやく都會に出て、自由に勉强することが出來るのだ。それに東京には、去年の八月來半年はんとし會はない、慕はしい澄子さんが待つてゐる。私が上京したら、いつもの通り晴々しい笑顏を持つて、義兄の家へ訪ねて來るに相違ない。それがどんなに自分の勵みになるだらう、それにしても何故去年、あの人の前で自分は一高へ入らなかつたらう。入つてゐたら白線入しろすぢいりの帽子を被つて、今時分は大手を振つて會へたのだ。それを考えると私は口惜しくなる。が、何しろ今年だ。今年入つて了へば、すつかりよくなるのだ。――「何しろ今年だ」と自分はもう一度獨語した。そしてその後につれて、「今年だ、今年だ今年だ、」と呟いてゐるやうな、うす眠い車輪の音にぼんやり聞き入つた。……

 ふと氣がついて見ると、右手の車窓が急に銀いろな明るみを帶びた。汽車はもういつの間にか、幾つかの停車場を越して、今、曉の猪苗代いなはしろ湖に沿うて走つてゐるのだ。

湖面は一たいに小波さゞなみが在ると見えて、曉とは云ひながら殊に仄白かつた。そして水がずつと擴がつた向うの、布引ぬのびき あたりの山々は、明け急ぐ雲のけはひに包まれて、空との境を分明にしなかつた。ただ私の眼には全景の左手をかぎる、安積山鼻あさかやまはなが際だつてゐるばかり、それで全體の湖水の風景は、いつもより茫漠たる廣さをもつてゐるやうに感ぜられた。

 窓からは冷たい風が入つて來た。それでも私は何ものかに打たれて、ぢつとこの湖景を眺め入つた。何だか云ふことのできぬ暗示が、そこにあるやうな氣がした。ほんとに自分自身の曉が、新らしく開ける運命の曉が、そこに暗示されてゐるやうに感ぜられた。私の眼には獨りでに淚が出た。

 山潟で夜が明けた。

 上野へは薄暮はくぼにならぬ中に着く筈だ。汽車は猶も私と私の默想とを載せて、たゆたひながら、しかも只管ひたすらに焦つて、そこへ急ぎつゝあるのだ。──

 二

 再びこゝの義兄の家の人となつてから、昨日今日で、かれこれ一ト月になる、その間には別に變つたと云ふほどの事もなかつた。此方の目のせゐか、義兄も姉ももう平常の態度と變らなかつた。たゞ何かの拍子に鳥渡ちよつと私の去年の失敗へ觸れて、皮肉めいた揶揄やゆをする事はあつても、それは全く卽興的な事で、私をさう全人格的に輕蔑してゐるのではないらしい。全く一回位の受驗の失敗は、殆んど當り前の事なのだ。それをさう/\重視されたのでは、吾々受驗生は堪へられないのだ。

 へやは去年と同じく、義兄の書齋に隣つた二階の隅の六疊を貸して吳れた。私はそこに去年と同じく、靑い机掛をかけた粗末な机を見出した。壁にもまだ、去年自分が額緣に入れたミレエの繪の寫眞版が殘つてゐた。私は一度はそれらを慕はしいものに見たが、やゝもするとそれから去年の失敗を聯想し易いので、机掛も新らしい茶褐色のに改め、晩鐘圖はナポレオンの肖像と換へた。これで私の受驗生生活も改まつた譯だ。

 併し勉强の方には、上京當座一週間ほど、場所が變つた刺戟で、落着かぬながらに心持が張り切つてゐた、が、まだ試驗まで六月もあると思ふと、知らず識らず前途遼遠といふ感じと共に、まだ/\少し位は怠けてゐても大丈夫だといふ、橫着氣さへ生じて來た。この頃ではたゞ漫然と參考書などを引繰り返してゐるだけだ。たゞ少し遠大な計畫を立てて、過去十年間のあらゆる試驗問題を蒐集しうしふして見ようと思ひ立つて、散步のついでによく古本屋などをあさるのが、一番受驗生らしい心持だ。もうそれも七ケ年分は集めた。すつかり集つたら暇にまかせて、その全部に目を通すつもりだ。そしたら問題のコツが、少しは飮み込めるやうになるだらうと思ふからだ。

南日の英文解釋法は、大抵の人が少くとも五回は讀み返すと云ふから、もうそろ/\讀み始めなければなるまい。去年はあれを一回、それもやつと讀んだだけだつた。

 けれども閑暇ひまだから、豫備校へだけは行くことにした。そこでの講義は、實力をつけると云ふよりも、如何に能力を活用すべきかを敎へる、what よりも寧ろ how の方に重きを置いた。學校としては實に變則なものだと思つた。併し講義は面白かつた。漫然と聞き流してゐても面白かつた。豫備校は遊び半分に行くべき處だ。それでも十分效用はある。知らず識らず受驗生の頭腦を刺戟する、狡猾にする、そして最もよい事には、やゝもすれば不規則になり易い受驗生生活に、先づ學校らしい體裁を備へた、一つの規律を與へる機關となる。──兎に角私に取つては、豫備校は一つのいゝ暇潰し場所でなければならなかつた。

 私は又暇があるとよく受驗生仲間を訪問した。彼らも亦だら/\と怠けてゐるらしかつた。淺沼は神田錦町の下宿にゐたが、いつ行つて見ても机の上に、申し譯らしく代數の敎科書が伏せてあるだけで、本人はきつと誰かと碁を圍んでゐた。根津のある素人しろうと下宿に同鄕の先輩と一緒にゐる佐々木は、度々訪ねて行つたけれど、いつも大抵留守だつた。尤も志望が文科だから呑氣なのだらうが、宿の人の話に依ると、彼は上野の展覽會とか、芝居とか寄席よせとかへ始終行つてゐるらしかつた。それでもこの人は、怠けるのでもまだたちがよかつた。

遊ぶと云ふ方にかけては、本鄕の新花町にゐる佐藤が、そのいうなるものであつた。彼は惡い遊びをすると云ふ、評判が友逹の間に喧しかつた。仲間には彼のためにそれを心配して、忠吿をしようと試みるものさへもあつた。併しもと/\受驗を口實に、東京へ遊びに來てゐる彼は、そんな言葉に耳も傾けなかつた。去年も彼は高工に入學を出願してゐながら、試驗の日に二十分許り遲れて行つて、試驗場から入場を拒絕された時、彼は受驗料を拂つてゐるのだから、せめて試驗問題だけは吳れと請求して、それを貰つただけで歸つたといふ有名な逸話さへあつた。その時遲れた原因と云ふのは、何でも前の晩酒を呑み過ぎたとか何とかだと云ふ噂だつた。私も一度散步の序に訪ねたことがあつた。彼は長い煙管きせるですぱ/\白梅を吸つてゐた。そして少しく醉を帶びてゐるらしかつた。

「いよう、珍らしいな、よくやつて來たね。それにしても今日でよかつた。めつたに吾々の處へなんぞ來ない君が、折角來て吳れても留守にしちやあ濟まないからね。なに、今日は金が無いんでね、特別に蟄居ちつきよしてゐたのさ。東京は金がなくちや詰まらない處だよ。金さへあれあこんな良夜を、下宿の二階になんぞくすぶつちやゐないんだ。が今日は燻つてたんで、丁度よかつた。まあゆつくり話して行き給へ。たまには君らだつて一晩位遊んでもいゝんだらう。なにまだ勉强なんぞ初めないつて。そいつあ噓だらうが兎に角ゆつくりし給へよ。何かおごらうか。金が無いんで外へ連れ出す譯に行かないから、下宿で取る不味まずいんでよけれあ、何でも云つて吳れ給へ。なに、僕だつて君をダシに使つて、何か食ひたいんだから。遠慮なんぞし給ふなよ。何なら少し酒でも飮まうか。……」

 こんな事を立續けに云つて、彼は私を狼狽させた。そして私が眞顏に辭退するのをからかひ顏に、猶もこんな事を云つてゐた。

「いつもながら固過ぎて困つたものだね。一度試驗を失敗しくじれあ大抵世の中が解るんだが、君は全く特別だよ。まあ折角東京にゐる癖に、君たちはわざと面白い處を避けて通つてゐるんだ。その中に君にも是非一つ面白い處を紹介したいな。併しそれにはもう一二度試驗に失敗しくじつて、自棄やけになつてからでなくちや駄目だらう。よかつたら何時でも來給へ、さうすれば喜んで案內するよ。──なあにさう眞面目になつて憤慨し給ふな。どつち道人間一度は、きつとそんな所へ行く時が來るよ。僕は只君たちより早く足を踏み込んだだけだ。だからそつちの方面なら、いつでも案內の役をつとめるよ。」

 私は初めは幾らか好奇的に、彼の云ふ事を傾聽してゐたが、だんだん不快になつて來た。それで三十分ほど我慢をした末、とう/\いとまを吿げて立上つた。

「さうかい、もう歸るのかい。早いな。ぢや又來たまへ。何か氣に障つたら勘辨して吳れ給へ。僕もいつでもかうではないんだよ。だが、僕もほんとに駄目になつちやつたね。」

 さう云つて急に彼は、淚を溜めたりした。私はこゝにも亦受驗界の、最も恐るべき破船者の一人として最も典型的な彼を見た。私は自分の家へ歸りながら、彼のやうになつてはお終ひだと思つた。まさかに自分はあゝはなるまいとも思つた。ならぬやうに努力しなくちやならんと思つた。私は何だか恐ろしい氣がした。そして二度とその後は彼を訪れなかつた。

 松井はその反對に、仲間でも眞面目な方だつた。彼は小石川小日向こひなたのある寺に間借りをしてゐた。西向の陰氣な部屋だつたが、それだけに閑靜でよかつた。松井はいつもその薄暗い障子の下に机を寄せて、片頰にぢつと手を當てながら、本を讀むでもなく考へるでもなく、一日を坐り暮してゐるらしかつた。彼は實際は勉强家ではなかつた。頭腦もどちらかと云へば鈍い方だつた。たゞ机にかじりついて、どうにかかうにか受驗準備を整へようとしてゐるに過ぎなかつた。けれども兎に角彼が一番勤勉だつた。そして一番眞面目に、受驗の事を考へてゐた。それで私は一番よくこの松井を訪問した。二人はきつと準備の進行に就いて語り合つた。

「そろ/\眞劍にやり出してもいゝ時分だね。」

「さうだね。」彼はよく簡單な相槌を打つた。

「何か少しは片附いたかい。」

「いゝや。まだ代數に手を着けた許りだ。代數は苦手でね。僕は去年も代數で失敗しくじつたのだから。」と彼は眉根を寄せた。

「さうかい。僕の苦手は數學では三角だ。だから今からやつて置けばいゝんだが、とてもやる氣はしない。」

 二人の會話はやゝもすれば、こんな物の連續だつた。それでも受驗の事を話し合つてると、何となく活氣づき力附くやうに思はれた。別れる時にはきつとこんな事を云ひ合つた。

「ぢや愈〻明日からやらうかな。」

「うん、お互にしつかりやらう。」

 けれどもその次に二人が會つてみると、お互にさう勉强もしてゐなかつた。そしてお互に相手の不勉强を知つて、ひそかに安心したりした。

 松井は二部が志望だつた。そして今年も高等學校を受ける前に、四月には高工を受驗する筈だつた。四月と云へばもう二ヶ月ほどしかない。それだのに彼はさうきはだつて、勉强してゐる樣子もなかつた。

「君の方は早いんぢやないか。もうほんとに初めなくちやならないぜ。大丈夫かい。」私はとう/\かう無遠慮に聞いてみた。

「うん。俺もさうは思つてるんだが、どうも頭の調子が惡くて困る。この分ぢや今年も駄目かも知れない。」

「そんな事云つてないで、しつかりやるさ。」

「まあやれるだけはやる積りだがね。」

 かう云つて彼は、薄ぼんやりした眼を、先刻書いた幾何の作圖の上に落した。

 私は彼の狀態が氣の毒だつた。けれども又、他人の準備が進捗しんちよくしないのを聞くのは、心の中で何となく愉快だつた。競爭者の皆が皆、かうであつて吳れゝばいゝと思つたりした。

さればと云つて私の勉强も進まなかつた。これでは、折角早く上京した甲斐もなかつた。

 三

 澄子さんは相變らず日曜日每に、義兄の家へ遊びに來た。私はいつの間にか日曜を、心待ちに待つやうになつて了つた、そして彼女が自分の處へ遊びに來るのだと、信ずるやうにさへなつて了つた。

 彼女の家は芝の白金にあつた。それは義兄の一番上の兄の家だつた。義兄の家では一體に秀才揃ひだつた。兄弟五人ある中で、一番上と三番目と五番目とが、丁度一人置きに男だつたが、それがいづれもよく出來て、それ/゛\、社會に頭角を現はしてゐた。一番上の兄は古い工學士だつた。そして今はある織物會社の技師長を務めてゐた。澄子さんはその長女だつた。二番目の兄は農學士だつた。そして今は亞米利加アメリカへ行つてゐた。最も末の弟たる私の義兄は、一昨年出たばかりの醫學士で、今猶靑山內科の助手をしてゐる。澄子さんはこゝへ、卽ち千駄木のこの叔父の家へ、殆んど每日曜に遊びに來るのを常としてゐるのだ。そしてそこには私が寄食してゐたのだ。

 澄子さんはさう際立つて、美しいと云ふべき人ではなかつた。顏全體の印象は、整つたながらに特長といふものもないが、どことなく活々して、何かの拍子に浮べる表情が、非常に眉のあたりを美しく見せた。殊にそれは眼に於て著しかつた。ふと斜に見上げる時、笑ひながら見据ゑる時、わざとらしく見える迄開いた二重瞼の下から、黑眼勝に澄んだ雙眸そうぼうが、濡れた雨後の日光のやうな輝きをほとばしらせた。

 私は今でもまだ、彼女を初めて見た時の事を憶えてゐる。それは去年の六月、受驗のために上京して間もなくだつた。それまで姉の口から、お澄さんと云ふ姪の在ることは、いつとはなしに聞き知つてゐたが、その話の上に少女姿さへ聯想させずにゐたのだつた。私に取つては東京の女は、それも美しい都會の少女などは、迚も知己にさへなり得ないと、內心思つてゐたせゐであつたかも知れない。

 あれは確か上京して三日目位の或る日曜だつた。もう切迫して來た試驗期を前にした私は、室馴へやなれて落着く迄もなく、机に齧りついてゐねばならなかつた。私はその日も朝から不安と焦躁とに襲はれながら、まだ調べ切つてゐない物理の頁を澁々ひるがへしてゐた。諳記物はまだ殆んど一つも手を着けてゐなかつた。坐つてゐるのさへ堪らない程、暗澹たる不安に浸つて來た。けれどもどうにもしやうが無かつた。止むを得ず机に向つて、疲れ切つた眼を敎科書の上にさらしてゐたのだつた。けれどもそれもすつかり退屈して來た。私はとう/\机の前へ仰向けに身を投げて、やけ半分にぼんやりと、內外の物音に聞き入つてゐた。

 ふと玄關の戶の開く音がした。續いて甲高い女の子の叫びと混つて、美しい中高音アルトの朗かな聲が聞えた。やがてそれらの聲々は姉の落着いた挨拶で迎へられたらしい。それで階下の騒ぎは靜まつた。そしてその後は際だつて話聲が洩れて來なかつた。それなり私はいつの間にか又、放心的な休止狀態に陷つてゐた。

 暫くすると、ことん/\と間を置いて、階子段を上つて來る人の氣配けはひがした。その間遠な音から察すると、それは子供の所爲だと云ふことがすぐ解つた。私は一種の好奇心で、耳をそばだててゐた。すると突然先刻の喨然りやうぜんとした女の聲で、

「あら秋子さん、どこへいらつしやるの。お惡戲いたをなすつちやいけないことよ。」

「お二階。」大人ぶつた女の子の聲が應じた。「お二階の兄さんを見に行くのよ。」

「御勉强のお邪魔になるからいけませんよ。」

「大丈夫よ。」さう云ひながら女の子は、ことん/\と上り續けた。さうすると後から追つて來たらしくつゝましいながらに速かな足音が、階子段の邊りに起つた。

 私は緊張した興味で、どんな女の子がそこの襖の處へ現はれるかを待つてゐた。何だか胸の中がときめき立つた。私はわざと机の方を向いてゐた。

 すうと入口の襖の開く音がした。私は咄嵯に振り返つた。するとそこには五つか六つ位の、髮を切り下げた女の子が、薄暗い閾口しきゐぐちに眼をぱつちり見開いて、默つて立つてゐた。その顏には笑つていゝものなら笑ひ度いと云ふやうな表情があつた。

 私は向き直つて「こちらへいらつしやい。」と招いた。初めて他人に使つた東京語が、喉につかへながらも、とにかく滑かに出たのが嬉しかつた。

 秋子ちやんはまだもぢ/\してゐた。それは羞恥の感情からよりも、寧ろ都會の女の兒が、本能的に持つ技巧かららしかつた。

「入つていらつしやい。」私はもう一度繰り返した。そして今度は我ながらまづい云ひ方だと思つた。

 その途端に女の子の背後へ、靜かな紫の影がかすめた。そしてそこへお下げに結つた、白い十六七の女の顏が浮び出た。私は面映おもはゆく思ひながらも、その花のやうな顏を見定めた。整つた輪郭を一瞬に見て取つた時、彼女の眼はもう嫣然につこりと笑ひかけてゐた。そして淑かな會釋ゑしやくをした。私も慌てて禮を返した。

「あの、御勉强のお邪魔を致しまして。──さ、秋子ちやん、お兄さんに御挨拶をなさい。そしてもう彼方あちらへ參りませう。」彼女は鈴を鳴らすやうに滑かに云つた。

 秋子さんはもぢ/\しながら、また默つて頭を下げた。そして後向き氣味に姉の片手に縋つて、尻目に私を見返した。

「いゝえ、いゝんです。退屈して遊んでゐたんですから。」私はかう云ひながら秋子さんの方を、もう一度目招めまねぎした。「ね、いゝから入つていらつしやい。」

 秋子さんはそれには答へないで、姉さんの深紅の帶へ頰を擦りつけながら、「姉ちやん、あちらへ行きませうよ。」と云つた。私は一瞬間この子の技巧が憎らしかつた。

「えゝ行きませう。又お兄さまがお暇な時に來ませうね。──どうもお邪魔しました。」と彼女は妹の身を引寄せながら、襖を靜かに閉めた。そして二人の階子段を下りる、たど/\しい足音が遠ざかつた。ぼんやり見送つてゐた私の胸には、何だか春のやうな響が殘つた──。

 それが澄子さんと會つた初めだつた。それから彼女は殆んど日曜每に、いつもの通り遊びに來ると私の室へも訪れた。彼女は私の處に決して長くはゐなかつた。大抵は姉と二人ぎりで、女同士の低い會話をして歸つた。がその短い間でも、私には換へ難く貴い時になつた。そして偶〻たま/\何かの都合で、一と日曜彼女が來ないと、堪らなく淋しい氣がした。

 去年の受驗期は短かつた。そしてそれにすぐ不面目な失敗が結果された。あゝ、それに就ては、もう何も云ふ必要が無い。私はあの時、恥かしくて澄子さんにも會はず、急いで故鄕へ逃げ歸つたのだつた。あとから澄子さんの手紙が來た。默つて歸つた恨みや、決して一度許りの失敗に落膽するなと云ふやうな事が、妙に大人びた文章で書いてあつた。私はそれに幾度接吻したことか! どんなに感謝したことか! そして長い屈辱な家での蟄居ちつきよの間、幾度それによつて慰められたことか!

何は兎もあれこの頃は、日曜每には彼女に會へるのだ。

 四

 今日は三月一日で、一高に記念祭がある日だ。その盛況は兼々話に聞いてゐたが、もとより私は得意な彼らの、得意の絕頂にある有樣を見に行く氣などはなかつた。けれども一高出身である義兄が、どこからか入場劵を手に入れて來て、姉や澄子さんが是非行くから、是が非でも私にいて來いと云ふので、私もやむなく行つて見ることにした。

 午後になるとすぐ、白金から澄子さんがやつて來た。彼女は盛裝してゐた。いつもより顏も美しいやうな氣がした。私は嬉しいやうな悲しいやうな氣持で、このきらびやかな彼女の粉飾を見た。彼女をかくまで入念に、化粧せしむる一高と云ふものを、私は讃嘆しながら嫉妬しなければならなかつた。

 二人は姉の支度が出來るのを待ちながら、これから行く記念祭に就ての事を二三話し合つた。澄子さんはこんな事を云つた。

「來年は貴方に案內して頂けるわね。」

 私は聲を呑んだ。「さあ、どうですかねえ。あてになりませんね。」

「大丈夫よ。きつと大丈夫だわ。」

 私は答へなかつた。そして何だか胸を抑へられるやうな氣がした。つく/゛\去年入つてゐればよかつたと思つた。入つてゐれば、今日なぞは大手を振つて、かう云ふよそほひを凝らした令孃を案內してやれたのだ。さうすればどんなに、澄子さんも喜ぶだらう。そしてどんなに友人たちが、羨望の眼を以て見ただらう。……

 姉の支度が出來たので、三人は揃つて出掛ける事にした。初春の太陽は午下りながら、薄ぼけたもやをかぶつて天心に在つた。暫く戶外へ出て見ない中に、春はどこともなく地上に搖れ立つてゐた。記念祭にはおあつらへの天氣だ。これではさぞ混み合つてゐるだらうと豫測された。

 校門の前は果して人で一ぱいだつた。しかもその大半は着飾つた女だつた。併し見渡した所、澄子さんに優つてゐるものは餘り無かつた。自分は幾らか得意な氣がした。

 腕に黃色い布を捲いた委員が、「入れてやる」と云はん許りの高慢さで、吾々の入場劵を改めた。

 私は昨年の受驗以來、自分の受驗番號の出てゐない揭示を見て來て以來、初めて再びこの校門をくゞつた。

 寮までの沿道には、敎室の壁と云はず物置の上と云はず、あらゆる空所にビラが貼つてあつた。さうしてそれには色々な漫畫や、奇拔な文句で飾り物の廣吿がしてあつた。無邪氣な諧謔を弄してあるのはよかつた。が中に「秀才」とか「健兒」とか云ふ露骨な自負を見ると、私は嘲りながらも羨しかつた。澄子さんは一々「まあ」と云つて見てゐた。私はそれを促し立てて寮の方へ步いた。

 南寮の入口で私の肩を叩く者があつた。驚いて振り向いて見ると、それは同窓の田中だつた。田中はまんまと去年一部甲に無試驗で入つたのだが、メルトンの制服が羨しい程似合つてゐた。彼の顏には抑へ切れぬ得意さが動いてゐた。

「よく來たね。一人かい。」彼は訊ねた。

「いや。姉たちと一緒だ。」

「さうか。それぢや僕が案內して上げようか。何なら僕の室で休んで行かないかい。」

「有難う。まあ好い加減に一廻り廻つて見よう。」

「さうかい。ぢや失敬するよ。もう少しすると西寮の假裝行列が出る筈だから、話の種に見て置いて吳れ給へ。奇拔なのがあるぜ。」

「有難う。ぢや失敬。」

 何とはなしに私は彼を不愉快に感じた。それでかう云ふと、すぐ待ち合してゐた姉逹に追ひつくため急いで彼から立去つた。

誰方どなた」と一緒になつた時、澄子さんが訊ねた。

「なあに去年推薦で入つた友逹ですがね。あいつ自分で入つたやうに威張つてゐるんですよ。案內して吳れるつて云つたんですが、斷つてやりました。」

「あら、案內して頂いたらいゝぢやないの。」澄子さんの顏にはちらと不平が浮んだ。

「なあに大抵解りますよ。」私はかう云ひ切りながら、心では可なり不快だつた。

 三人は南寮から見初めた。見物人は丁度出盛つてゐた。藤と櫻の造花を吊つた廊下は、押されながらにやつと步く程混み合つた。その中を姉が一番前に立つた。澄子さんが續いた。私は一番後から護衞のやうに從つた。三人は隔てられたり一緒になつたりして進んだ。

 室々へや/゛\の裝飾は、豫期したやうな立派なものは少なかつた。機智で狡く手を拔いた物なぞに却て面白いのがあつた。「萬物は流る。ベルグソン哲學の原理」と云ふのに、質屋の暖簾のれんが懸けてあるのや、「夜間宙返り飛行」と云ふのに、藥罐を暗い室の中央に逆さにぶら下げて、見物が、つなを曳くとスヰッチで豆電燈がつくのなぞが、その代表的なものだつた。又寮生活の實際を幾らか誇張した飾り物として、汚らしい寢室の萬年床の枕許を、南京豆で山積させたのや、「向陵十二時」と云ふ飛んでもない繪卷を、順々に見せる趣向なぞは、屢〻澄子さんに私を顧みて「まあ」なる嘆聲を發せしめた。

 舊寮の廊下は暗くて見物人がもつと混み合つてゐた。殊にその中程の或る室の前では、その精巧なる飾物のために、人足が殊に停滯してゐた。それは工科生の考案らしく、「運轉手の夢」と題するものであつた。小さな玩具の電車が、向うの隧道トンネルの中から出て、そこの花野に敷かれた鐵軌レールを傳はつて走る中、橋のない川に來かゝる。すると水中から突如として鐵橋が都合よくせり上がる。電車はそれを疾走して渡ると、今度は急な山にさしかゝる。けれども遂にその頂上に登り切つて、それから更に其上へ出てゐる滿月の口の中へ飛び込むと云ふ仕掛だつた。これは實によく出來てゐた。そしてそれは三分每に發車するのであつた爲め、それを見るための人が、室前に押し合ひへし合つてゐた。

私たち三人も、そこで前へ進むことができなくなつて了つた。もう後へ退く譯にもゆかなかつた。それ處か却つて、背後の人にずんずん押しつけられて來た。私は澄子さんのすぐ背後にゐた。そしていつの間にか、澄子さんの首を餘りに近く見た。淡い髮の香りがそつと私の鼻を打つた。私はすぐ間近に彼女の苦しさうな呼吸を感じた。

「澄子さん、苦しくはありませんか。」

「随分混むのね。」彼女は顏だけ廻して答へた。

「はぐれないやうになさい。」

「まさか、でも離れちや厭よ。」

 私は偶然觸つたやうにして、出來るだけ無意味に彼女の手を取つた。彼女も默つて取らせてゐた。私は自分の慄へる掌の中に、しつとりと汗ばんだ、彈力のある柔かいものを感じてゐた。人混みは中中動かなかつた。彼女は何にも氣附かぬ如く、肩越しに「運轉手の夢」を覗き込んでゐた。そして身を動かす每に、氣づかぬほどかすかに手を握り返した。

 さう云ふ中にも見物は、押され/\て推移した。吾々はやつとその稠密ちうみつな處を拔け出た。私は先刻と同じく不自然でないやうに、彼女の手を放した。先きに立つた姉は、さつさと步き出した。

 一と通り寮內を見物して外へ出ると、そこの廣庭には戶山學校の音樂隊が來てゐた。丁度聞き覺えのある「ドナウの流れ」を奏してゐた。三人はその方へ近寄つて行つた。私の心はいつになく浮立つた。何だかすべて自分のために、行進曲を奏してゐるやうに思はれた。東寮の三階で叩いてゐる相撲の太鼓も、入口の屋根の上に陣取つて、傍若無人に高聲を發してゐる大學生の一群も、もう私の癪には障らなかつた。

吾々が歸途についた時には、まだ蕾の固い校庭の櫻の梢に、ぼんやり傾きかゝつた春日が漂ひ殘つてゐた。

 考へて見ると今日は、壓迫と刺戟とを交互に受けた。家へ歸つたら疲れてぼんやりした。けれどもその底にひそやかな幸福があつた。そして興奮がおりのやうに殘つてゐた。

「勉强しなければならない、今年こそはどうしても入らなければならない。」と思つた。ほんとに心からさう思つた。

 机に向つたら、いつもより頭が冴えてゐるやうだつた。私は一高の記念祭に行つた事を、改めて誰かに感謝したかつた。

 五

 弟から手紙が來た。卒業試驗はもう濟んだから、卒業式が終り次第、すぐにもう上京したいと云つて來た。私は何だか愕然とした。弟の卒業するのは知つてゐながらも、もうそんな時期に逹したのかと思つた。私はそれを若い次の時代の、吾々を壓倒して來る警吿のやうに感じた。さうだ、年少氣銳の弟たちが、この四月から吾々の恐るべき競爭者として現はれるのだ。全く愚圖々々してはゐられない。何だか弟の上京を阻止したいやうな心持が、私の心の底にあつた。けれども返事にはさうは書けなかつた。此方の用意は整へて置くから、いつでも都合のいゝ時に、上京せよと云つてやつた。

 弟はとう/\上京して來た。四月の初めで、上野は櫻にまみれてゐた。群集はぞろ/\街を通つた。停車場にはいつもより人が多かつた。中には花見手拭を首に卷いた陽氣な群も交つてゐた。世の中は今駘然たいぜんと春めき立つてゐる。──その中で私は着京した弟を迎へた。

 薄暗い改札口に近く立つて、今着いた汽車から雜然と溢れ出た乘客の流れの中に、暫らくぶりで弟の元氣な顏を見出した時、私は鳥渡ちよつとの間淚ぐましい氣になつた。私が認めると殆んど同時に、弟の方でも私を見つけた。むつつりした弟の淺黑い頰にも、さすがに慕はしさうな表情があつた。

「どうだ元氣は。家では皆んな壯健たつしやかい。」私はさう挨拶の代りに云つた。

「えゝ。」弟はかう簡單に答へながら、夕暮れかゝつた場內の雜沓を、驚いたやうに見てゐた。私はその田舍者らしい弟の樣子を、初めて兄らしい、先輩らしい感情で見た。

 二人は荷物を受取ると、くるまを雇つて千駄木の家へ向つた。俥はいけはたを通つた。花曇りの空は暮れ早く、不忍池しのばずのいけの水面には、花明りの處々した上野のもりからかけて、蒼茫たる色に蔽はれながら、博覽會の裝飾電燈を夢のやうに映してゐた。去年の自分に引比べて、俥上の弟はさぞ心をときめかせてゐるだらうと思つた。

 義兄の家では例によつて、初めての上京を祝ふ食卓が待つてゐた、去年は自分のために在つた。今年は弟のために設けられたのだ。私は妙な感慨を以て、眼に痛いほど白い卓布を、特別にかけた餉臺ちやぶだいとその中央の花瓶へ、姉が趣味ありげに挿した、緋桃の小枝をぢつと眺めた。

 義兄はいつもの通り快活だつた。姉は姉らしい溫情を、只管ひたすら弟に見せようとしてゐた。

「健次さん、おまへさんは子供の時分から、きんとんが好きだつたから、西洋料理とはつかないけれどわざ/\わたしが拵へたのよ。」姉はそんな事を云つて料理を進めた。

 兄は麥酒ビールのコップを差出しながら、こんな事を云ひ初めた。「もう中學も出たんですから、一杯やつてもいゝでせう。兄の監督附きなんだから。──ところが此兄貴至つて無精者ぶしやうものでね。監督なんぞ迚も出來やしないんですよ。僕は全く無干渉主義ですからね。その代りあなた方が落第したつて、(と云ひながら私の方をちらりと見た。)別に責任は感じません。が、まあ成るたけなら、しつかりやつて吳れるんですな。それは運不運はありますよ。けれども最善さへ盡せば、大抵うまく行くものですからね。さう云ふと少し失禮だが、まあ堪忍して貰ふとして、健吉君の去年の失敗なぞも、一つには運も惡かつたと同時に、力を出し切らなかつたせゐだと僕は解釋してゐるんです。」

私は何だか不快と恥辱から、何とか一言云ひたかつた。それで、

「いや、それに元來頭腦も惡いんですから。」と附け加へた。

「いや、決してそんな事はない。僕の見る所に依れば、君たち兄弟はどちらも頭腦がいゝですよ。──殊に健次さんは何ださうですね。數學が得意だと云ふぢやないですか。」と兄は再び弟に向つた。

「いゝえ。外のが出來ないんで、さう見えるだけです。」弟は謙遜めかして云つた。

「中學は何番で出たんですか。」

「怠けたので六番でした。」

「高等學校の志願學科はまつてるんですか。何部です。」

「それが未だどうしていゝか解らないんです。やればどつち道二部か三部なんですが、親父は家が醫師だから、何人醫者が出來てもいいから、三部をやれと云ふんです。けれども兄さんも三部なんですからさう兄弟で三部ばかりやるのも妙ですし、どうしようかと迷つてゐるんです。」

「それもさうですね。」義兄は私の方へ相談するやうな視線を向けつゝさう云つた。

 私は云つた、「それあおまへが醫者をやつてくれるのなら、そつちの方はおまへに任して、僕は文科へでも行き度いんだ。さうすれあ僕も助かるよ。一體僕は哲學でもやれあ一番いゝんだからね。」私はいくらか棄鉢の氣味と、もとから若干の趣味を持つてゐる關係上、さう云つてみた。がさうも出來ない事は解つてゐた。

「でも兄さんは是非三部をやらなくちやならないんですから、僕は別な方をやる積りです。高等學校だつて同じなのは厭でせうから、僕はどこか違ふ處を選ぶつもりでゐます。」

「それもさうだね。」義兄は當らず觸らずに相槌を打つてゐた。

「が、まあその問題はいづれ二人で相談するとして、今日はまあ十分食つて吳れ給へ。疲れて腹が減つたでせう。」

「えゝ、澤山頂きます。田舍者ですから遠慮しません。」

「その田舍者の中が花ですよ。學生も東京馴れるとお終ひです。──入學試驗を受けるのだつてさうですよ。都の風に染まぬ最初の年が一番緊張するんです。だから最初の年に入るのが肝要ですよ。でないと東京でぶら/\遊んでゐる中に、都會風に染まるまいと思つても、知らず識らず影響を受けて、心にゆるみが出來ますからね。」と私を顧みて、「健吉君なんぞはさうでもありませんがね。」とわざとらしく附け加へた。私はその取つてつけたやうな申譯に、却つて反感を覺えた。それで暫くすると默つて座を立つた。

 今宵の歡待が弟のためにのみ存在した事は、私とてもよく解つてゐた。弟を激勵する言葉が直ちに僕を叱責する言葉となる、義兄の苦しい立場も解つてゐた、決して皮肉と取る氣はなかつた。けれどもとう/\不快の念には勝てなかつた。

私は一人で二階へ上つた。そしてもうてた雨戶を一枚開けた。冷たい夜風が私の顏をそつと撫でた。空には薄ぼんやりした星が散らばつて、その下には東京の街明りが、どよめきながら映つてゐた。一二町先きの湯屋の煙突であらう、蒼い夜空にしつかり食ひ込んだ暗の直線の端から、白い煙がとぎれ/\に流れ消えた。ぢつとそれを見詰めてゐる間に私の頰には淚が流れた。……

 弟は私と一緒にこの六疊に起臥する事になつた。二人は向うの隅と此方の隅に机を成るたけ離して据ゑた。夜は電燈の關係上、眞中に机を持ち寄つた。寢床を敷く時には狹いので、室の隅に押しつけた。

 弟の机の上にある本と、私の机の上にある本とが、同じである事は淋しかつた。私はなるべく弟と違ふ學科を、調べるやうに努めた。

 二人は獨りでに競爭の形を取つた。少くとも私はさう感じた。私は自分の本を調べながら、弟の勉强がどの位進捗したかを計つてゐた。そして弟があまりはかどらぬ時は、ひそかなる安心をすら覺えた。

 併し私自身は、一向勉强が進んではゐなかつた。每日何となく頭が重くて、根氣が續かなかつた。焦れば焦るほど疲れて來て、終ひには頭腦あたまがぼんやりして了ふ日が多かつた。これではならないと自分は鞭打した。そして强ひて机に向つてゐたが、少しも成績が上つてゐる譯ではなかつた。夜はよく夢を見た。澄子さんの事を考へまいとしても、餘りに屢〻考へさせられた。

 弟はすこやかに眠り、よく勉强した。彼はもう數學を一と通り濟ました後、難問題集を何處からか見つけて來てやつてゐた。彼の片つ端からそれを征服して行く樣子は、傍から見てゐてもてきぱきしてゐた。私はそれを羨しく思つた。そして漠然たる壓迫を感じ出した。

 弟は私には平氣で自分の勉强をぐん/\續けてゐる。それを見てゐると、私は嫉妬に似た恐怖さへ感ずる。何だか弟と同じ室にゐるのが、私には厭で堪らなくなつて來た。

 ひよつとすると私は神經衰弱かも知れない。──

 六

 弟と二人でゐるには、義兄の家の六疊は狹かつた。それに益〻私には、弟と一緒にゐることが苦痛になつて來た。時には私は憎惡をすら感じた。私はとう/\何處かへ宿を換へようと決心した。宿を換へれば澄子さんと、會ふ機會が少くなると云ふ懸念が、幾らか私を躊躇させた。けれども彼女は大抵日曜日に來るのだから、その時に此方からも義兄の家へ行けば會へると思つた。それで私はいよいよ移ることに決めた。その時丁度水道端の西光寺にゐる松井が、隣室が空いたから來ないかと誘つた。私はすぐ引移ることにした。義兄は「それもよからう。」と賛成して吳れた。弟は別に何とも云はなかつた。勿論淋しがりもしなかつた。

 私は居所が變つたら、いくらか勉强が出來るかと思つてゐた。けれどもこゝへ移つても、別に心が落着きはしなかつた。併し寺は閑靜だつた。室は西に開いてゐるので、植込みのひのきだいだいの間を洩れて、夕日が障子に影をさした。緣側は廣くていつも冷々としてゐた。そこの自然石の沓脫くつぬぎから下りると、庭は水を打つたやうに濕り氣を帯びてゐた。どうかすると苔の香がした。私は疲れるとそこへ出て、冷たい空氣を吸ひ込んだ。

 朝夕に本堂から、吾々の世話をして吳れる年老いた寺僕の、看經かんきんの聲が聞えて來た。

「又ぢいやのおつとめ、、、、か。」

 さう云つて吾々は、それをいつの間にか勉强時間の區劃くぎりにした。

「おい。──」私はきる每に、よく隣室へ聲をかけた。するといつも松井の物憂げな答が應じた。「うん──」

「勉强してるのか。」私は重ねて聞くのが常であつた。

「いやぼんやりしてるんだ。」

「ぢや少し話でもしようか。」

 さう云つて私は隣室への唐紙を開けるのだつた。が話とは云つても、たゝられたやうに試驗の影がからまつてゐた、そして話した後で少しも快感が殘らなかつた。

 松井は高工を又失敗した許りの時だつた。が別に落膽してゐると云ふ樣子もなかつた。彼はもう落膽する氣力が無いのか、もしくは馴れて感じる能力が無いやうにさへ見えた。私は彼から何らの刺戟も、何らの壓迫も感じなかつた。

 時には二人で數學の難問なぞを見つけて、競爭的に解いたりする事もあつた。すると大抵私の方が早く考へついた。そんな時は何となく自信がついたやうな氣がした。併し松井を標準にしてゐる安心が甚だ危險なものである事は私も知つてゐた。知つてゐながら、知らず識らずに私はその自信にすらおごつた。

 或る時かう云ふ事があつた。松井が或る友達の處へ行つて、幾何の難問を一つ聞いて來た。それはその數學に得意な友人さへ、解き得ずに苦しんでゐたものだつた。

「どうだい。君も考へて見ないかい。是が出來れば數學の實力はもう大丈夫だぜ。」松井はかう云つて私を誘つた。彼のその顏には、私も大方出來ないだらうと云ふ、豫期があり/\現はれてゐた。

「それぢや一つやつて見ようか。」私はさう云つて問題を取り上げた。なるほどどこから手を附けていゝか解らないやうな難問だつた。私は一人で自分の室へ來て、その午後中考へぬいた。勿論頭の重いのは癒つてゐなかつたので、久しく思考を費してゐると、とうとうボンヤリして了つた。そこでぶらりと散步に出た。それでも問題は頭にこびり附いてゐた。一と通り江戶川端を步いて、水道端から小日向臺こびなただいへ上らうとした。その時寺へ歸る坂の途中で、ふとその解き方の端緒が浮んだ。自分は小躍りした。そして急いで室へ歸ると、新らしい作圖を引いてやつてみた。やうやく解けた! 私は急いで次の間にゐる松井に呼びかけた。

「おい出來たよ。やつと考へついた。」

「さうか。どうやるんだ。」松井は別に驚嘆もしないで、さう云ひながら入つて來た。

 私は得意になつて說明してやつた。松井は「うむ、うむ」と云つて聞いてゐた。そして解き終つた時、

「成程なか/\面倒だね。」と云ひながら、まだよくは飮み込めてゐないらしく、作圖をと見かう見してゐた。私の氣持はいつになく晴れやかだつた。

 その二三日後だつた。私は散步の序に義兄の家に寄つた。弟は相變らずむつつりと、机の前に坐つてゐた。

「どうだ勉强は。盛んにやつてるかい。」私は訊ねてみた。

「えゝ。何だかこの頃は少しだれ氣味で困ります。この間から一日十二時間勵行の日課を立てたんですが、なか/\時間割通りに行かないんで、姉さんに笑はれました。精々やつて十時間ですね。」

「そんなにやれるものか。」私はすくなからず驚きながら反問した。

「だつて六時に起きて夜の十一時までやつて御覽なさい。飯と散步の時間をぬいても、正味十五時間はあります。だから十二時間づつやれない譯はないんです。」

「それはさうだね。その間すつかり緊張してやれゝば大したものだ。」

「何しろもう十五時間づつやらなければ、凡ての學科を二回見るには間に合ひませんね。」

 私は又弟の無意識なる壓迫を感じた。彼の机上には英語の本があつた。

「もう數學は濟んだのかい。」

「えゝ一と通り濟みました。あとは試驗前に、アンダーラインをして置いた問題だけ、ずつとやれば大丈夫だと思つてゐるんです。」

 私は三度び驚いた。が、ほんとにそれだけの實力が弟にあるかどうかを試してみたくなつた。その時ふと二三日前の難問が頭に浮んだ。

「僕は二三日前にかう云ふ問題を聞いたがね。おまへに解るかい。」

 私はかう云つて、問題を說明した。弟は默つて聞いてゐた。そして別な紙へ自分で作圖をすると、鉛筆の端で鼻のさきを無意識に叩きながら、遠い處を見るやうな眼をして、ぢつと一二分考へ込んだ。私は彼が出來ないのを望みながら、惡意をかくした微笑で待つてゐた。

二三分經つた。私はあくまで弟が匙を投げて、「この次迄に考へて見ませう。」とか何とか云ふだらうと多寡たかくゝつて待つた。五分間ほど經つた。私はもうさりげなく、そこにあつたユニオンの四を、見るともなく飜してゐた。すると突然弟は鉛筆を忙しく動かし始めた。そして輝いた眼で靜かに私の方を振り向いた。

「やつと思ひ附きました。形が變つてるんで解りませんでしたが、これは永澤の難問集に例題がありますね。あれの逆だつたのです。かうやればいゝんぢやありませんか。」

 かう云つて彼は私に說明し出した。それは勿論私が考へたのと大差なかつた。がもつと簡明で直截だつた。私は內心尠からず驚いた。自分が三四時間考へた處を、弟は五分ばかりで成し遂げた。私はふたゝび眼前の實例に壓倒された。

 私はすつかり氣落ちがして、弟のところから歸つた。

 七

 かう云ふ間にも、澄子さんの事は忘れられなかつた。

 日曜日每には、私もきつと午前から義兄の家へ遊びに行つた。そして午後から澄子さんの來るのを待つた。併しさう繁々しげ/\、澄子さんの來る日のみ目がけて、千駄木へ行く事は氣がひけた。それで時々は他の日も訪れた。日曜日にも行き度いのを抑へて、三度に一度は我慢した。併しそんな日は家にゐても、少しも勉强が手につかなかつた。どうかするとかけ違つて、二度も續けて澄子さんに會へない事があつた。或る日は私の行き方が遲かつた。

先刻さつきまで澄子さんがゐたんだけれど、三時からお友達のお宅へ行くんだつて、一時間ばかりゐて歸つて行つたよ。」と姉は私を見て微笑ほゝえみながら低くつけ加へた。「お氣の毒さま……」

「馬鹿な。──」私は紅くなつて物が云へなかつた。

「澄子さんはこの頃健吉さんに久しくお目にかゝらないが、どうかしたかつて聞いてたよ。」

 姉は私のぽつとなるのを面白がつて追窮するらしかつた。私は內心それが嬉しかつた。

「僕だつてこの頃は勉强してゐるんですよ。」私はさう云ひながら、今迄の不勉强を自分で恥かしがつた。これからはきつと勉强しようと思つた。

姉は猶も續けて同じ話に固執した。

「だけれど健吉ちやんも氣をお附けなさい。あの子はそれあ無邪氣なんですから。誰とでもすぐお友達になるのよ。健次さんとだつて、もう兄弟のやうに仲がよくつてよ。」

 私はどきりとした。姉の警吿には私のぼんやり怖れてゐるものがあつたからだ。けれども私はさりげなく答へた。

「僕は別に何とも思つてやしないんですから、大丈夫ですよ。だから姉さんなんぞ、いくら冷かしたつて駄目です。」

 姉は眼で笑つて答へなかつた。

 實際弟と澄子さんとは、僕が寺へ移つて以來、特に親しくなつたやうに、私には感ぜられた。併しそれを私は自分のひがみだと思ひ返してゐた。弟はいつも家にゐるし、私は外にゐるので、會ふ機會が自然弟の方に多くなると云ふ、位置シチユエーシヨンの上からのみ生じた、何でもない親しさだと解釋してゐた。併し戀はさう云ふ位置からのみ生ずる、とも思つた。そして少しは不安を感じてゐた。

 二人の親しさを裏書する實例には、私も今迄一つ二つ出會つてゐた。

 或る日の事だつた。私が義兄の家へ行つた時、澄子さんはもう來てゐた。そして彼女は弟の室に居つた。私が二階へ上つた時、そこからは晴れやかな彼女の笑に混つて、弟の笑ひに流れた聲が聞えてゐた。私は一種の嫉妬を感じて、急いで襖をあけた。すると彼らは急に笑を呑んだ。そして意味ありげに顏を見交した。

「何か面白い事があるんですか。」私は二人の間に割り込んで訊ねた。彼女は弟の机の右側に坐つてゐた。

「いゝえ何でもないの。」彼女の答は素氣すげなかつた。

「だつて二人で笑つてゐたぢやありませんか。何かあつたんでせう。」私は追窮した。

「笑つてたつて何でもないのよ。ねえ健次さん。何でもないわねえ。」彼女は首をかしげて弟の顏を覗き込んだ。弟の顏には何となく滿悅の狀があつた。

「ほんとに何でもない事なんですよ。」彼は云つた。

「笑つて了つたら何だつたか、もう忘れて了つたわ。」さう云つて彼女は猶晴々と微笑んだ。

 打ち見た所二人は、確かに私の前で二人だけの祕密を樂しんでるかのやうであつた、私は嫉妬と共に、嫉妬に伴ふ自らの卑劣を意識した。それでそれ以上に追窮する勇氣が無かつた。その日彼女とは餘り多くを語り得なかつた。

 又或る時はかう云ふ事もあつた。その日私は午後になるとすぐ千駄木へ出掛けた。彼女の來るのも大抵晝過ぎだつたから、今日はゆつくり會へるに違ひないと思つて行つた。すると電車を下りてから、義兄の家の方へ曲る橫町で、私は見覺えのある綠の日傘を認めた。それは遠くから此方へ向つて步いて來た。初めは人違ひかと疑つた。が斜に傾げた日傘の下に、顏は殆んど隱れてゐるが、肩から下へかけての輪郭と、足どりには私の見逃せない彼女の特長があつた。私は遠くからそれを見つけると、動悸の高まるのを意識しながら、さりげなく步き進んだ。五六間の處で向うも自分を認めた。すると彼女はくるりと背後を振り向いた。そして背後の誰かに合圖するやうな事をした。その途端に私は彼女の後から、弟が困つたやうな顏でいて來るのを見た。私は咄嗟にはつと思つて立ちすくんだ。全身の血が一度に心臟へいて來た。がその次の瞬間には、强ひて偽つた平靜の中に步み寄つてゐた。三人は──互に向ひ合つて步きつゝ、間隔を狹めてゐる私と彼女と、一二間遲れて從いて來た弟とは、彼女を中心に道の中央でひたと顏を合せた、初夏の日はひつそりと光を降らして、土には物の影が濃かつた。

「もうお歸りですか。」私は聲を落着けて彼女に訊ねた。唇が獨りでに痙攣ひきつつた。

「えゝ、今日は朝から行つてたの。」彼女はいつものやうに平然と答へた。「それに今日は家に用があるのよ。──だから歸らうと思つてゐた處へ、健次さんが買物に出ると云ふから、そこまで送つて來て貰つたの。──だけど健次さんは妙な人よ。わざ/\私を送つて來るつて云ひながら、戶外そとへ出ると後から離れて步くんですもの。」

「一緒に步くのは厭ですよ。知つた人に會ふといけないから。」弟はもつと無邪氣に云ひ譯した。

「どこまで行くんだ。」私は弟に訊ねた。それは思はず詰問するやうな口調だつた。

「そこの通りまで。」

「さうか。ぢや行つておいで。──それぢや澄子さん、左樣なら。」私は胸でわく/\しながら、さりげなく二人に一揖いちいふした。

「左樣なら、又今度の日曜にね。」澄子さんは鳥渡ちよつと甘えるやうに傘の中の首を傾げた。

 私は二人を後に步み去つた。がその足どりは性急だつた。眞晝の人通りの多い街中で、胸の中は嫉妬に充ちてゐた。私はかつとした日の光の外、他の何物をも見なかつた。

 義兄の家に着いた時は、それでも幾らか氣が靜まつた。そして姉の話を聞くとすつかり平らかになつて了つた。姉は私の顏を見ると云つた。

「今そこで澄子さんたちに會ひやしなくつて。」

「えゝ會ひました。弟と一緒でしたよ。」

「さう? ぢやもう健吉さんに言傳ことづてをしなくてもいゝわね。澄子さんから聞いたでせう。」

「いゝえ、何も聞きませんでした。道端で會つたんですもの。──一體どんな言傳です。」

「この次の日曜にね。お暇だつたら家庭博覽會へ伴れて行つて下さいつて。──今日は會はないで歸らなくちやならないから、是非私にお願ひをして吳れつて事だつたわ。」

「僕にですか。」私は操られてるやうに感じながらも、內心の喜悅を思はず聲に出した。

「えゝ。一日位暇を作つて吳れてもいゝでせう。そんな暇は無くつて。」

「さうですねえ。そんな事をやつちやゐられない大事の場合だけれど、お伴させて貰ふとしようか。」私はもうすぐに落城して了つた。

 弟はすぐに後から戾つて來た。そしてあの後、別に彼女と意味のある時間を過ごしたらしくも見えなかつた。私は先刻の嫉妬を悔いた。しかもその嫉妬の當の相手が弟であるだけ、心中甚だ恥しいものがあつた。

 私は彼女を疑ふまいと歸途に決心した。

 八

 博覽會行きの日が來た。私は朝理髮店へ行つて髯を剃つた。そのあとは何となく爽かだつた。そして自分ながら云ふのも恥かしい程、自分の顏に信賴を感じた。晝迄の少しの間、本を取り上げてみたが手につかなかつた。

 午後になると、いつもより早目に千駄木へ向つた。格子戶をあけると、そこに見覺えのある下駄があつた。澄子さんはもう來てゐた。

「今日行つて下さるんですつてね。有難う。」

 彼女は私を見るとさう云つた。何でもない言葉だが、私にはその感謝が心から嬉しかつた。

 姉は支度の最中だつた。弟が二階から下りて來た。彼は初めから行かないと云つてゐた。

「健次さんはほんとに頑固なのよ。お姉さまと二人でいくら勸めても、どうしても行かないつて聞かないの。半日位遊んだつて、何でもないんだのに。ねえ、健吉さん。」

「さあ、──」私はわざと首を傾げた。

 弟は云ひ譯をした。「僕は時間が惜しいんで行き度くないんぢやないんです。行つたつて面白くないから行かないんです。」

「どうして面白くないの。」

「どうしてつて、面白くないから面白くないんです。家庭博なんて、女子供をだますだけぢやありませんか。」

「どうせさうよ。だけど面白くない處へだつて、行つて下すつてもいゝと思ふわ。」

「まあ御免を蒙りますね。僕は。──」

 弟の言は恰も私をあざけつてるやうにも取れた。私は烏渡急所に觸れられて、少し癪にも障つたが、それよりも大きな幸福の手前、何とも云はなかつた。今日は自分の方が勝利者だと思つてゐたからだ。

 そこへ姉は支度が出來上つて出て來た。弟を殘して三人は上野へ出かけた。天氣がうつすら晴れてゐたので向うまで步いてゆくことにした。私は遲い女の步調に合せながら、着飾つた姉たちを見て通る、行人の視線を享樂した。同伴者の幸福、私は誰か知つた人が、見て吳れゝばいゝとすら感じた。

 私と澄子さんとの間には姉が入つた。それで道々彼女とは多く話さなかつた。

 季節外れではあつたが、晴れた日曜だつたので、會場には可なりの人出があつた。私は彼女らのために、切符を買つてやつた。

 會場內はいつもの博覽會通りだつた。只化粧品小間物類の陳列棚が、殊に色彩を濃くして並んでゐた。女たちは初めから丹念に、一ママ硝子戶に觸れる許りにして覗き込んだ。私は後から促しながら批評めいた事を云つた。彼女らは人形のある棚へ來ると、「まあ」と云つて立留つた。吳服類は殊に彼女らを永く引きとゞめた。私も屢〻それらの批評を求められた。私は仕方がないから、一々の品を澄子さんに似合ふか似合はないかで評價した。

 場內を半分だけまはつたら、さすが興味を湧かした女たちも疲れて來た。そこで中庭へ出て、精養軒の出店で紅茶を飮んだ。それから今度は、澄子さんの發議で餘興館に入つた。

 餘興館には活動寫眞と、天洋一座の奇術がかゝつてゐた。吾々が入場した時は、丁度奇術がはじまつてゐた。私たちは背後の方の空席を選んで、腰を下ろした。姉が先きに立つて入つた。私は一番後だつた。それで腰をかけた時、澄子さんと私とは並んで了つた。

 舞臺には燕尾服を着た男が、退屈し切つたやうな顏に薄笑を浮べて、骨牌かるたもてあそんでゐた。それからお定まりの赤い球を指の間で隱見させた。その後には靑い繻子しゆすの服を鳥のやうに着込んだ女が、卓の上に空の鉢を載せ、その上に蔽ひをしてから、短銃をどんと放つた。鉢の中からは生きた鳩が、眼をきよとつかせながら羽搏はばたき下りた。

 澄子さんは短銃の音に大仰おほぎやうな驚きを見せた。そして私の方を振り向いて、嫣然につこりと笑つた。二度目の短銃からは耳を蔽うた。彼女はよく奇術師の片言半語に笑つた。笑ふ每に彼女の體の動搖がすぐ傍の自分にも傳るやうであつた。或る時は肩がつき當つた。鈍い彈力を以てそれを撥ね返した私の肩は、夢のやうにうずく氣がした。どうかした拍子に、彼女の顏は可なり私の眼近へ來てゐた。髮の淡いジャスミンの香がそつと私を掠めた。

 場內は電燈が光り輝いてゐると云つても、どことなく暗かつた。私はゆくりなくも、記念祭の日の出來事を思ひ出した。私は眼では見なかつたが、私の左手から三寸と離れない處に、彼女の手が置いてあるのを知つてゐた。私はそれにムズゆいやうな誘引力を感じた。「不良少年のやうな眞似をするな。」と耳許で誰れかが囁いた。が、「今だ。又とない機會だ。」と何ものかが心の底で囁くのも聞いた。私はもう舞臺を見てゐがら、奇術は見なかつた。

 とう/\「今だ。又とない機會だ。」と云ふ囁の方が勝つた。私はそつと手をやつて、一二度偶然のやうに彼女の手へ觸れた。そして三度目には思ひ切つて、明らかに彼女の甲をひしと握つた。が、彼女の柔かい割合に冷たい手が、私の掌の中に存在してゐたのは、僅か數秒を出なかつた。彼女は舞臺を見てゐた目を、急に咎めるやうに私の方へ振り向けた。私は飽く迄正面を見ながら、その動作をすつかり感じた。そしておやと思つた。彼女は一瞬間はゞかるやうに私の顏を覗いて、そしてから急に自身の手を引いた。すべては反感に滿ちてゐた。私は云ひやうのない汚辱と、苦痛とで顏がほてるのを意識した。彼女はそれつきり私の傍へ手をよこさなかつた。私はそれから一刻もゐたゝまれない心持になつた。

 暫くすると姉が出ようと云ひ出した。私は賛成した。澄子さんはもう少しゐたいらしかつたが、あらがひもせずに立上つた。三人は外へ出た。私は澄子さんを見ないやうにしてゐた。

 姉たちももう可なり草臥くたびれてゐるので、見殘した館內をざつと見て歸ることにした。私は首垂うなだれて後から從いて行つた。ざつと見ると云ひながら、彼女らの足は屢〻美しい女物の前で引き止められた。或る文房具屋の出店が在つた。彼女はそこをちらと見ただけで一旦行き過ぎたが、澄子さんは何と思つたか、「鳥渡待つて頂戴」と云つて引き歸した。

「買ひ物ですか。」私たちもせう事なしにそこの店頭へ戾つた。

「えゝ。健次さんが一人で家にゐるのが可哀さうだから、何か御土產を買つてあげるのよ。姉さん、持つて行つて上げて頂戴。」彼女はかう云つて、唐草模樣の燒繪をした、木製の筆入れをあれかこれかと選んでゐた。

 私は更に二重の苦痛を受けた。そしてこの時ばかりは心から弟の存在を呪つた。けれどもそれを押しかくして、ぢつと平氣を裝はなければならなかつた。

「これがよくはありませんか。」私は手許にあるのを取り上げて見たりした。

「こつちの方がよくつてよ。」彼女は私のすゝめるのに目も吳れず、自分で選んだのを買ひ取つた。

 三人はやうやく歸途についた。

 歸途も、私は嘲るやうな彼女の冷たい眼を感じた。私はこの上の苦痛に堪へなかつた。それで千駄木の家の前まで來ると、二人が何とか云つて止めるにも拘らず、一人別れを吿げて立ち去つた、私は泣かん許りだつた。

 今日の出來事は私に、自分の卑劣な行爲に對する慚愧ざんきと共に、云ひやうのない失望を與へた。あの記念祭の日の、樂しい記憶はことごとく拭ひ去られて了つた。彼女の私に對する好意に就ての唯一の根據は、全く根抵からくつがへされた。この深い悲しみを抱いて、一人とぼとぼ寺に歸つた時、私はつく/゛\行かなかつた弟の幸福を羨んだ。弟の前で筆入れを出しながら、快活に今日の話をしてゐる澄子さんと、うつすり微笑を湛へて、嬉しげに聞いてゐる弟の光景が目に見えるやうに心に浮んだ。私は慌ててそれを消さうと頭を振つた。

 すつかり銷沈して寺に歸つたら、松井が隣から聲をかけた。「どうだつたい、今日の首尾は。」松井は幾らか私の口から事情を知つてゐた。

「bad, worse, worst だ。」と私は嘲るやうに聲を吐き出した。「こんな事なら行くんぢやなかつた。家で英文法でも見てゐた方がよかつた。」

「兎角戀と試驗は兩立しないさ。」柄にもなくそんな事を云ふ松井も、私を嘲つてゐるとしか思へなかつた。

 私はもう云ひ返す力もなかつた。そして頭をかゝへて机に向つた。

 もうかうなつては、いよ/\勉强に沒頭するしかないと決心を固めた。とは云へこの頭の調子では、これから先きが思ひやられた。あれを思ひこれを思ふと、只暗澹たる前途があるのみだ。──

 九

 もう六月に入つた。愈〻試驗期は近づいて來た。今日は受驗の名票を出しに行く日だ。私は三部の甲を志望した。弟もとう/\一高に決めた。そして相談の結果二部を志望する事になつた。弟は實は三部を受けたいらしかつた。が、それでは私と一緒になるので、高等學校を違へるより外はなかつた。同じ一高に入るとすれば、部を變へるより外はなかつた。そこで彼は遂に、一高を選んで二部に行く事に妥協したのだ。

弟はいくらか不平らしかつた。兄に進路をふさがれたと思つてゐるらしかつた。けれども又私から云はせれば、弟に他の高等學校へ行つて貰ひ度かつた。入るにしても入らないにしても、一高に、東京に、こゝにゐて貰ひ度くなかつた。が、まさかに兄の權威を濫用して、さう迄要求する事は出來なかつた。

 弟の勉强は着々進んでゐるらしかつた。ひどく自信があるやうだつた。が顧みて自分はちつとも自信を持ち得なかつた。

 私は弟と別々に名票を出しに行つた。番號の早い方がいゝと云ふので、私の行つたのは朝早くだつた。けれども門衞の處で渡された順番札はもう二百人を越えてゐた。話によれば夜の明けぬ中から、開門を待つてゐる受驗生もあるとの事だ。私は彼らが如何に死物狂ひであるかを、再び事實に於て知つた。自分なぞはまだ、勵精が足りないとつく/゛\思つた。

 古い煉瓦作りの本館の橫に、名票の受附所はあつた。そこには事務員と小使とが、粗末な机を前に控へてゐた。吾々が一生の運命を踏み出す、第一關門の關守にしては、彼らは餘りに貧弱だつた。それにも拘はらず、彼らは怖ろしく見えた。小使は受驗用の寫眞を取ると、同型に揃へるために、遠慮なく厚い臺紙の端を裁ち落しながら、「はゝあ三部だね、しつかりしなくちや駄目だよ。今年は殊に三部志望が多いから、この分ぢや十五人に一人位の割になるかも知れない。去年は十二人位だつたが──」などと云つた。

 私はすつかりこの男におどかされて了つた。

 受驗番號は一二九番だつた。何だか幸先さいさきのいゝやうな番號のやうにも考へられた。去年は偶數の番號で失敗した。今年は奇數なのが、その反對である豫示だと思はせた。それに易の方ですべての數の根本とする、3で割り切れるのも緣起がよかつた。

 私はぼんやりそんな事を考へながら、歸りかけた。すると背後で大聲に、「おい久野君!」と呼ぶ人があつた。振り返つてみると、それは遊蕩兒の佐藤だつた。

「やあ、君もか。」私は先日彼を新花町の下宿に訪ねた時の不快なぞは忘れて云つた。こんな人でも何だか同志に會つた時の、賴みになるやうな嬉しさを感じた。

「この間は失敬した。少し出鱈目だつたのでね。が、もうこの頃はすつかり改心して、この通りさ。」

「君もこゝをやるんだね。」

「どうせ失敗しくじるんなら、一高で落ちたと云ふ方が人聞きがいゝからね。」

「それにしてもよく早く來たものだね。」

「まあ名票を出す位は、人並みな事をやつて置かなきやあ。──時に君は何部だい。」

「三部だ。今年は馬鹿に人數が多さうなので參つた。」

「さうか。まあしつかりやるさ。僕はなるべく人數の少い方と思つて、一部丁をやつたのだがね。それでももう三十八番だ。」

「僕の方は百二十九番だ。驚くね。」

「それでも君たちの方では、番が早い方だらう。──どうだい、是から行つて、湯島天神にゐる易者に番號を占つて貰はうぢやないか。よく當るつて云ふ話だぜ。」

「厭だ。もし駄目だなんて云はれて見給へ。その氣になつちまふぢやないか。」

「ぢや僕の家へでも來ないか。たまには遊んでもいゝだらう。この間は失敬したから、名譽回復の意味で欵待するよ。難句集ぢやないが、僕も hospitality itself になるよ。」

「今日はよさう。大切な日なんだから。それにこの頃は頭腦が惡るくて、少しも勉强が進まないんだ。この分ぢや七月まで徹夜したつて一と通りやれさうもないよ。」

「君のなんざ謙遜だらうが、僕は正直正札附に今日から初めるんだ。これで受ける氣になつてるから不思議だよ。」

「僕だつて全く同じさ。」

 私はかう云ひながらも、こんな人を標準にするのは馬鹿だと知りつゝ、相手が不勉强なのに安心した。そして話してゐる中にいつとなく、氣が晴れやかになつた。

 二人はこんな話をしながら、校門を出た。佐藤は遊び相手がないかして、猶も私を下宿へ誘はうとした。が、さすがに私もこの上行く氣はなかつた。

「ぢや又試驗でも濟んだら。一つゆつくりやつて來給へ。」

「約束の面白い所へ案內して貰ふかな。」私はもとより行く氣はないので、皮肉らしくこんな冗談を云つた。

「するとも、喜んで東道する。及第したら祝宴、落第しても自棄酒やけざけ。どつち道連れて行くから覺悟し給へ。」

 彼はかう云つて笑ひながら別れ去つた。

 名票を出して了つたからには、もう受驗も愈〻戦闘行爲に入つた譯だ。けれども私は相變らず、はつきりした勉强が出來なかつた。机にだけは殆んど終日坐つてゐた。が、いら/\と焦つて許りゐて、いくらか進むには進んでも、記憶する傍から忘れて行つた。それでも一と通りは調べなくちやならんので、本の上へ眼だけは走らせてゐた。

 澄子さんの事は思ひ出すまいとしても、蚊柱めいた蟲の群が、本堂の軒に立つ靜かな夕方などは、暗澹たる心の中に思ひ出された。思ひ出される每に、只管ひたすら勉强で打消さうと努めた。そしてまだ絕望はしなかつた。試驗さへ過ぎて了へば、會つてゐる中に又どうにかなると思ひ直した。そして只管勉强に沒頭した。

 さうかうしてゐる中にやつと、精神の集中が出來だしたやうに感じた。每日の勉强が蓄積されて、兎にも角にも落着いたのだ。この頃はこの調子ならと思つて氣を取り直した。

 けれども、けれども、もう六月も末に近かつた。……

 十

 豫期はしてゐても、七月の來やうが餘りに早かつた。そして今日では試驗までに、もう三日しかなくなつて了つた。もう泣いても吠えても、追ひつきやうはなかつた。私は觀念した。それでも兎に角一と通り調べ終へたのが心賴みだつた。

 隣室の松井は、二三日前に金澤へ出發した。彼は今年は四高を選んだ。彼がとう/\四高を選んだ心持は、私にも淚ぐましい程よく解つた。

「俺も今年は都にゐたゝまれないよ。」

 近所の蕎麥屋へ行つて、二人きり心ばかりの訣別をした時、彼は感慨に滿ちて云つた。「そこへ行くと君はまだ、一高を受ける勇氣があるだけでも偉い。」

「俺か。俺のはデスペレートな勇氣さ。」

 私はかう吐き出すやうに云ひながら、自分も二高へでも落延びればよかつたと思つた。自分を瞑々の間に東京へ引き留めたのは、實は全く幻影に過ぎぬかも知れない、澄子さんとの戀だと思つた。そして今更それを悔いたが、かうなつては仕方がなかつた。──かくて都を落ちてゆく松井も、都に踏み止まる私も、互に黯然として二三杯の盃を口にした。二人はちつとも醉はなかつた。

 松井が發つた後は殊に淋しかつた。梅雨の前後の穩かな日が暫らく續いて、薄黃いろい夕日が室を靜かに染めた。朝夕の寺僕の「看經おつとめ」が、壁を傳うて響いた。晝は晝で深い沈默が在つた。街の音響はそこの檜葉ひばの植込に吸はれて、此方へは入つて來ないやうに思はれた。時々雀でない小鳥が來て、そこらの枝と僅かな空氣を動かし去つた。その後にはたゞ夏の初めの白墨の粉のやうな日の光りが、ちら/\ちら/\と降るばかりだつた。

 私はその沈靜した中で、淚を流しながら、必死に勉强した。私のこの頃の努力は、恰も死を前にしてそれと抗爭してゐる人のやうだつた。

「勝利は最後の五分間にある。」私は飽く迄もそれを信じようとした。

 戰闘の日は、時々刻々、近づきつゝあつた。

 とう/\試驗の日は來た。そして瞬く間に去つた。それは長いやうで短い四日間だつた。けれども又短いやうで長い、恐らくは日常生活の半歲分位に當る、月日の精粹のやうでもあつた。四日の間、私は興奮し續けてゐた。夜も殆んど寢なかつた。試驗場から歸る每に、鏡を照らして眼を見た。眼は日每に血走つて行つた。頭腦も底からうづき出した、この儘で行つたら破裂するかと思はれた。──その極度まで逹しない中に、幸ひにも四日間は通り過ぎた。

 最初の日は數學だつた。この準備には最も力を入れてはゐたが、何と云つても私には難關だつた。殊に今になつてみると代數が心元なかつた。私はそれをひどく心配しながら、大事を取つて七時には家を出た。

 時間がまだ早いにも拘らず、校庭には多くの受驗生が集まつてゐた。時計臺を掠めてゐる朝の日は、さすがにもう暑かつた。受駿生たちは夏帽を淺くかざして、櫻の木蔭に集ひ寄つた。出身中學、出身地方を以て集まつた團體が、そここゝで氣遣はしげな私語を交してゐた。談話の題目はみんな試驗の事か、準備に關する事だつた。一人が物識り顏に去年一昨年の例などを引いて、出さうな問題などを說話すると、その周りに知らず識らず傾聽の人が集まつた。が、さうかと思ふと只一人、群を離れた芝生の隅に、まだ敎科書を見入つてゐる人もすくなくはなかつた。私も靜かな物蔭を選んで、數學の公式を一と通り見直した。大抵覺えてゐるやうだが、何だかわく/\して胸に收まらないやうでもあつた。私はそれを斷念し、誰か友人でもゐないかと思つて、廣場の方へ步いて行つた。本館の角を曲る處で、門の方から來る弟につた。彼は丁度登校した處だつた。

「どうした。」私は訊ねた。

「うん。」弟の態度は相變らずむつつりして、底に自信が潜んでゐた。そして「うん」と答へたぎりで向うへ行つて了つた。

 橫手の廣い庭の櫻の下で、私は一群の友人たちを認めた。皆同窓の人たちだつたが、年級から云へば、一二年上だつた人や、今度出たばかりの人も交つてゐた。

「いやあ!」「いやあ!」と吾々は口々に挨拶した。私は外國で自國人に會つたやうな心持を感じた。

「久野君は今年間違ひなしだね。すつかり準備が整つたらしいから。」そこにゐた一部志望の下岡と云ふ同級生が云つた。彼は生來の政治的野心家で、常に一高でなければ賴まれても入らないと云つてゐた。私は平常彼を蟲が好かなかつた。けれども今日は、

「どうして、どうして、一と通り調べもつきやしない。全く萬一の僥倖を期してゐるんだ。」

 と私は眞顏で打消した。

「いや、さうぢやないらしいぜ。着々進行してると見えて、試驗前でもビュウを伴つて散步に出かける餘裕があるんだから。──君はこの間博覽會へ行つたらう。さあ眞直ぐに白狀し給へ。そもそもあの時伴れたのは誰だ。」

「何を下らない!」私は顏の赤くなるのを感じた。

「僕は圖書館の歸りに見かけたんだ。此方が圖書館で難句集と首引きをして、氣を腐らして歸るのに、君は忙中閑日月と云ふ譯で、誰かを伴れて博覽會見物なんて、僕はつく/゛\無常を感じたよ。」

「そんな呑氣さぢやないんだよ。全く今年は投げてるんだ。」

「君の弟さんも一高だつてね。弟さんも間違なからうつて、あの同期生逹が云つてるから、兄弟揃つてパスすれあ、ほんとに一門の光榮だね。さぞあの人も喜ぶでせう。」

「馬鹿な!」私の心は暗くなつた。そして惡意とも好意ともつかぬこの男の揶揄に堪へられなかつた。

 丁度その時誰れかが背後の方で、

「あゝしまつた。又あの大事な公式を忘れて了つた。」と云つた。見ると中學時代から剽輕へうきん者で通つた文科志望の佐々木だつた。

「何だ。どの公式だい。」

「a+bの二乘の公式さ。」澄まして彼は云つた。

 皆な哄笑した。

「a²+2a b+b² これでいゝんだつたかなあ、何んだかさうぢやないやうな氣がするんだ。ほんとにそれでいゝんだつたかなあ。どうもどこか間違つてゐるやうな氣がしてならない。」佐々木は猶も眞顏で云つてゐた。

「全くそんな氣もするな。隨分しつかり覺えた積りでも、何だか覺え違ひのやうな氣がするよ。だから俺は入學試驗なんて厭だと云ふんだ。」誰かがこんな相槌を打つてゐた。

 そこで又話は試驗の事に移つて、去年やら一昨年やらの失敗談、問題の豫想などがにぎはしく談話された。私は默つて聞いてゐたが、心には先刻の傷がまだ殘つてゐた。

 その中に音頭取りの下岡が時計を見て、「おい、もうあと十五分の壽命だぜ。そろ/\敎室へ入らうか。」と云つた。

「それぢや屠所としよに曳かれて行くかな。まさに斷頭臺へ上る思ひだね。」佐々木は自棄やけの快活さで應じた。

 私も便所へ行つて、それから指定の敎室へ入つた。例によつて分館の敎室は暗く汚なかつた。去年で馴れてゐるので、出入にはさう慌てなかつた。ふと私は弟はどうしてるだらうと思つた。

 机に坐つてそは立つ心を鎭めてゐると鐘が鳴り響いた。私の心臟は再びどき/\打ち始めた。

 試驗官が入つて來た。去年も見覺えのある頭の禿げて眼の大きい、人の好ささうな老敎師だつたが、それでも何となく怖かつた。何でも體操の敎官らしく、吃驚びつくりする位の大聲を出した。去年はそれにひどく脅されたものだ。

 試驗官は例によつて、先づ受驗寫眞と實物とを見比べた。受驗生は見られる時に、誰も妙に緊張した顏を作つた。試驗官は薄笑を浮べながら、さつさとそれを見て通つた。何だか人を見るよりも、物を見ると云つた樣子が、私には可笑をかしく感ぜられた。

 それが濟むと試驗問題が配布された。私は待ち兼ねて受取ると、ずつと問題に目を通した。幾何は大抵旣知のものらしかつた。が代數は、心配してゐた代數は、危惧にをのゝきながら問題を讀むと、さあ一つも知らない物許りのやうな氣がした。私は尠からず慌てた。これではならないと氣を落着けて、もう一度讀み返したが、解りさうも無かつた。その中に時間がどん/\立つて行くやうな氣がした。それで先づ幾何の方から取りかゝつた。幾何は幾多の困難にぶつかりつゝも、三題ともやうやく出來た。ほつとして時間を見ると、それはもう半ば近くまで過ぎてゐた。

 私は再び代數の問題を取り上げた。すると今度はやうやく三番目の問題が形こそ變れ心覺えがあるのを發見した。それで先づそれから手をつけた。手をつけてみると、絲口からまりが解けるやうに、いつの間にかそれからそれへ出來て了つた。私はそれに氣を取り直した。そしてもう一度一番から熟考し始めた。すると可笑しい事には、一番もふと解法が思ひついた。そして思ひの外簡單に答が出て了つた。二番も、よくよく見ると何でもない二次方程式の應用問題だつた。いくらか計算に狼狽したが、やがてそれも出來かゝつた。私は再びほつとして時計を見た。時間はいつの間にか迫つてゐた。代數はあともう一題あつた。それも難問らしかつた。あと二十分では覺束なかつた。私は慌て切つて最後の努力をそこに集中した。今度はさう容易には行かなかつた。愚圖々々してゐる間に、五分立つた。試驗官はあと十五分と云つた。もうそろ/\立つて答案を出す人もあつた。私は何かぶつかるだらうと思つて、色々な方面から出鱈目な解き方をやつて見た。ふといつか松井が、これに似た問題を持つて來たのを思ひ出した。がその解法をいくら考へ出さうとしてもうまく浮び出さなかつた。五分は瞬く間に過ぎた。私は下腹のあたりが、わく/\して來るのを感じた。一題、たつた一題の處を白紙で出すのは殘念だ。がいくら焦慮しても、焦慮するだけ駄目だつた。五分は又經つた。試驗官は大聲で、「もう答案を出す用意をする」と注意した。私は無反應にそれを聞いた。もう絕望だ、がもう一度未練を以て見直した。その時、不幸にも餘り遲く、私はふとあれではあるまいかと云ふ解法が浮んだ。急いで式を立てた。式はうまく立つた。更に慌てた喜びの中に、私は急いで計算にかゝつた。するとその中途で鐘が鳴り渡つた。萬事は休した。私はどうしても未完成のまゝ答案を出さねばならなかつた。

 敎室を出ると、緊張のあとに來る放心狀態の眼に、外の日が餘りにぎら/\してゐた。私はすつかり首垂うなだれて步いた。心の中は殘念で滿ちてゐた。ほんとにもう五分間早ければと思ふと、その五分間が或ひは運命を支配するかも知れんと思ふと、私の遺憾は胸の中で湧き返つた、が、今となつてはもう仕方がないのだ。

 校門を出ようとして、ふと前を見ると、例の遊蕩兒の佐藤が、常の通りに平氣な顏で步いてゐた。私は誰でもいゝから人を捉へて、自分の殘念を訴へたかつた。

「おい佐藤君。」私は呼んだ。「どうだつたい今日の試驗は。今朝はみんなのゐる處へ見えなかつたぢやないか。」

 佐藤はにや/\と笑つて答へた。「相變らずさ。今朝ももう少しで遲れる處だつた。かう云ふ受驗生も困るよ。早く出たつて仕方がないから、試驗場にだけは時間のある限りゐるがね。當つてゐるゐないは別として答案もどうかかうか書くがね。僕のやうな受驗生もゐるんだからなあ。──ところで君はどうした。」

「時間がないので一題は式を書いただけだ。あとはどうかかうか行つたつもりだが。僕はもうすつかり悄氣しよげて了つたよ。」

「贅澤云つてらあ。一題位で悄氣るなんて。あとが當つてれあ大丈夫ぢやないか。これからさへうまく行けば、及第疑ひなしだ。前祝ひに僕に奢つて吳れてもいゝ位だよ。」

「馬鹿を云ひ給へ。少くとも數學が全部出來なくちやあ、僕の方は駄目らしいよ。」

「だつて去年山下は一題白紙で出したさうだが、入るには入つたぜ。尤も入つてから肋膜になつて、死にさうだと云ふんだから、羨みもしないがね。」

「さうかい。あの山下がかい。」私は病氣の方に事よせて、試驗の方もよく聞きたかつた。

「だから焦つて入るにも及ばないて。」佐藤はわざとうそぶいた。そして例の如く又私を誘つた。

「どうだい。どこかで一緒に何か食はうか。」

「さうしちや居られないよ。が、山下はほんとに一題づしても入れたかね。」

「何でもそんな話だつたよ。だから安心し給へ。君なぞは見込みがあるんだから、今日は勉强するやうに歸してやるよ。けれども試驗が終つたら、ほんとにゆつくり遊びに來給へよ。」

「なぜさう僕を勸誘するんだい。」

「君のやうな坊ちやんがどんな顏をするか見たいからさ。失敬。」

 かう云つて彼はさつさ、、、とそこの停留場の方へ步み去つた。

私は何だか彼の言に元氣づけられた。山下の實例が、佐藤の云ふ事だから眞僞は分らぬにしても、或ひはといふ一縷いちるの望を抱かせた。私は氣を取り直して家に歸つた。

 翌日は英語だつた。──

 去年は英語が失敗の主因だつたので、恟々きよう/\として試驗場へ臨んだ。例によつて試驗官の注意と共に問題が渡された。昨日は慌てて時間の運用を誤つたので、今日は一と通り卒讀すると、すぐ出來るのから下書きにかゝつた。さいはひ英文和譯には解らない單語はなかつた。中に一つ二つ曖昧あいまいなのがないではなかつたが、再度讀み下したら意味が取れた。私は幾らか落着いて答案を書く事ができた。

その中に書取の敎師が來た。豫備校で一二度馴染のある、肩のいかつい黑川敎授だつた。例によつて一度早く讀んで聞かせた。發音をさう氣取らないのが、嬉しかつた。大抵解るやうに感じた。が、二度目に愈〻書き取つて見ると、中央頃で every day と云ふのが何だか初め聞き取れなかつた。私は又わく/\した。訂正の時、やつとそれらしい見當がついた。ほつと安心した。その外には誤がないつもりだ。

 和文英譯は、解らないと云ふものではなかつた。が、何だか自分のがいゝか惡いか、自分ながら解り兼ねた。文法上の誤りはないつもりだが、決してうまい英語ではなかつた。

 英語の出來は普通だと思つた。この分なら或ひは入れるかも知れないと、思ふ氣がだん/\起きて來た。弟がどうしたか、歸りに鳥渡千駄木へ寄つて見ようと思つたが、下らないところで向うの優越を見るのが厭さに、心弱くも行くのをよした。

 次ぎの日は國漢だつた。──

 國語漢文は昔から不得手ではなかつた。殊に作文は、私の最も得意とする處だつた。問題は大抵讀んだ覺えのある物ばかりだつた。書取りにも知らぬ漢字はなかつた。今日は徹頭徹尾氣持よく答案が書けた。私は得々として試驗場を出た。今日ばかりは弟も、自分に優りはしまいと思はれた。

晴々した心持で戶外へ出ると、鳥渡千駄木へ寄らうと云ふ氣を起した。試驗にかまけて知らなかつたが、今日はうら盆の十三日だ。街には何となく賑はしい人通りがあつた。女なぞも着飾つてゐるのが見られた。私はふと澄子さんを思ひ出した。──が、明日は大切な諳記物ばかりなので、凡てを思ひ斷つてまつすぐに家へ歸つた。

 愈〻最終日が來た──。

 一番自信のない物理と歷史との日だが、よかれ惡しかれ今日が終りだと思ふと、何となく氣が浮き立つた。

 成績は全體の試驗中で、今日が一番惡かつた。初めの物理は、三題出來たからまだしもよかつた。が、次の歷史の時間になつたら、私の頭は疲憊ひはいし切つてゐた。それに一夜漬の諳記ではとても立派な答案が書ける譯はなかつた。

 賴みにしてゐた山は悉くはづれた。四題の中二題だけはどうかかうか出來た。あとの中の一題も甚だ曖昧に胡麻化したが、どうしても最終のは手の着けやうさへなかつた。

 答案は問題を所々に刷つて、餘白に書けるやうにした長い紙片だつた。そしてその紙片はやゝともすると机の上から外へ垂れ下つた。私は分らぬ問題に苦しんで、その垂れ下つた隣席の人の答案から、一字のヒントなり盜まうかと、決死的な考へすら起した。するとその決心をするかしない瞬間に、試驗官の低いが嚴しい聲が響いた。

「皆さんに鳥渡注意して置きますが、御覽の通り答案は紙が甚だ長いやうです。でそれをなるたけ外に出さないやうにして下さい。理由は云はなくても解りませう。」と試驗官はわざと丁寧に云つた。それはきりゝとした顏の、小柄な敎授だつた。

 緊張した瞬間だつたけれど、この言葉の最後の皮肉は、受驗生の心持を鳥渡くすぐつた。誰かが向うの隅で、「くすり」と笑つた。するとそれに刺唆しさされて大半の人が笑ひ出した。その中に或る一人が「ひゝゝゝ」と云ふやうな妙な笑ひ聲をあげた。

 試驗官の顏には勃然たる色が浮んだ。そして再び丁寧ながら、銳い聲がその口から出た。

「誰です。今妙な聲を出して笑つたのは。」さう云つて彼は急にしんとした敎室を見巡みめぐらすと、それと覺しい机のあたりへつか/\と進み寄つた。そこには一人の靑白い靑年が、眉を吊らせて見守つてゐた。

「君ですね。今笑つたのは。」試驗官は訊ねた。

「…………」受驗生は默つて眉のあたりを白ませた。

「君でせう。」試驗官はもう一步追窮した。

「…………さうです。」受驗生はやつと答へた。

「さうですか。ぢや答案はもういゝから、こゝを出て吳れ給へ。理由はわかつてるでせう。」

 今度は誰も笑はなかつた。却つて白け渡つた沈默が、試驗場內をしんと支配した。

「出ようと思つてゐた處でした。」受驗生はデスペレートな反抗でさう云ひながら立ち上つた。そして滿場のひつそりした視線の中で、足音高く出て行つた。

 やがて廊下のあたりでその靑年が、もう一度「ひゝゝゝ」と笑ふのが聞えた。

 試驗官は殘されてあつた答案を見ながら、「ちつとも出來てやしない。今の學生は生意氣で困る。」と獨り言を云つてゐた。

 私は自分も可なりデスペレートになつてゐたので、心からその靑年に同情した。寧ろその意氣を壯としたかつた。「ひゝゝゝ」と笑つた聲。その聲こそはこの受驗制度を、底から呪つた笑ひではなかつたか。私とても笑へるならさう笑ひたいのだ。滿天下の受驗生とても、皆聲を揃へてさう笑ひ度いに違ひないのだ。そして若し、現今社會の生んだ醜き畸形兒なる吾々受驗生が、聲を揃へてこの笑ひを笑つたなら、當局の人々は果して何と云ふであらう。「少しも出來てやしない。今の學生は生意氣で困る。」さう呟く事によつて果して事が濟まされるであらうか。──

 私はまだ一題白紙のまゝの答案を前にして、こんな事を思ひ耽つた。

 鐘は鳴つた。私の答案は、とう/\一題空白のまゝだつた。

 歸りに私は千駄木へ寄つた。弟はもう歸つて、机の前にぼんやりしてゐた。

「どうだつた、成績は。」私は訊ねた。

「うん、まあいゝ加減にやりました。」弟の答は相變らずむつつりしてゐた。

「僕は又駄目らしい。今日なぞもひどく失敗しくじつて了つた。」私はもつと詳しく自分の事を訴へ、弟の樣子も聞き知りたかつた。

「とにかく濟んぢまつたんだから、試驗の事は僕はどうでもいゝです。」

 弟は別に聞きたがりも、話したがりもしなかつた。

 私は拍子拔けの氣味で、默つて、底には自信ありげな弟の顏を、つく/゛\と眺めやつた。そしたら急に憎らしくなつた。それは自分よりより、、若きものに對する、殆んど本能的の憎惡だつた。

 十一

 吾々が試驗に忙殺されてゐる間に、世界はすつかり夏になつてゐた。街はすつかり裝ひを變へて、晝は街樹の影が濃かつた。夜は夜で涼しい灯が散つた。私は受驗の疲れを負ひながら、またその結果の危惧に追はれながらも、心は輕るく都會の夏をあさつた。

 千駄木の家へは繁々と往來した。澄子さんとも屢〻出會つた。受驗後の輕い氣持は、彼女の心にも反映した。彼女も常より晴れやかだつた。そして私に對する態度も、あの時以來さう惡くはなつてゐなかつた。何だか却つて、私の意志表示に安心して、いくらかびるやうな處さへあつた。がそれと同時に、命令的な態度にも出た。いづれにもせよ私は、それらをよろこばなくてはならぬ身だつた。

 彼女と弟との間にも、別に變つた樣子はなかつた。私が試驗で遠ざかつてゐる間に、生ずることをひそかに危惧した、そんな推移も起つてゐないらしかつた。一體に事態は試驗前よりも、私に取つては良好だつた。

 或る日はかう云ふ事があつた。弟は友人に誘はれて出たとかで、丁度家にはゐなかつた。私は姉一人を相手に、暫く色々な雜談をしてゐた。年上の女性と話をしてゐる中に、どうかすると屢〻さうなるものだが、私も知らず識らず感傷的になつた。そしてとう/\こんな事を云ひ出した。

「姉さん、僕はこの頃ほんとの神經衰弱にかゝつたやうですよ。ここにゐる中はそんなでもないんですが、宿へ歸ると陰鬱になつて堪らないんです。何だかかう世の中が、すつかり暗くなつてしまふやうな氣がするんです。一體どうしたんでせう。」

 姉はぢつと見定めるやうに私を見て、それから私の言草をかう輕く外づした。

「お寺になんぞゐるからだわ。」

「それに試驗の無理もたゝつたのでせうね。每晩眠られなくて困るんです。さうするとまつて、試驗の事を考へるんです。そして今年も駄目だと思ふと、どうしていゝか解らなくなるんです。」

「だつて未だどうだか解らないぢやないの。入つてゐるかも知れないでせう。──いえ、きつと入つてゐてよ。そんな風に考へる時は、却つて運が向くものよ。」

「どうですかねえ。さううまく行くといゝですが、世の中はさうも行きませんからねえ。それで神經衰弱になんぞなるんですよ。」

「原因は大抵そんな所だわね。」姉は微笑みながら云つた。

 私はこゝでもう一步突込みたかつた。けれどもさうするには、まだ臆病だつた。二人は暫く默つてゐた。姉は私の心持を、知つたやうな知らぬやうな態度だつた。

 その時格子戶の開く音がした。澄子さんが來たのだつた。彼女はいつもの明るさを、戶外から二人の間に持ち込んで來た。けれども一旦感傷に堕した私の心は、いつもほど彼女によつて浮立たなかつた。

 暫くしてゐる間に姉は、二人を殘して臺所の方へ立つた。私と彼女とは、改めてむかひ合はねばならなかつた。息づまるやうな切迫が私の胸を押した。私はそつと彼女を見やつた。そして彼女の視線と打突ぶつかると慌てて眼を伏せた。凝固したやうな沈默が、私にはわざとらしく感ぜられた。何か云はなくちやならないと思つたが、自然に唇がほどけなかつた。とう/\彼女が口を切つた。

「今日は大變沈んでいらつしやるのね。どうかなすつたの。」

「いゝえ、何でもないんです。」

「ほんとに何でもないの。」かう云つて彼女は、首をかしげて覗くやうにした。

 私の心の中で、又、「今だ。」と囁くものが在つた。「今こそその時だ!」私は上眼遣ひに彼女を見て急いで睫毛まつげを伏せながら、低く云ひ始めた。

「ねえ澄子さん。貴女この間の事を怒つていらつしやるんぢやありませんか。さうだつたらどうか許して下さい。僕は何も、どうする氣はなかつたんですから。」

「この間の事つてなあに?」彼女は私の急に變つた態度を驚きながら、私の調子に釣られて聲を低めた。

「博覽會の中で、あんな事をしたのは僕が惡かつたです。あんな事をして、貴女はさぞ、私を卑しい奴だと思つたらうと考へると、僕は穴にでも入りたくなるんです。どうか僕を惡く思はないで下さい。」

「あの事? あの事なら、何とも思つてやしなくつてよ。只私、吃驚びつくりしただけだつたのよ。だつて餘り突然なんですもの。ほんとにそれだけよ。」こゝで彼女は更に聲を落してつゞけた。

「私ほんとは嬉しかつたのだわ。」

「ぢや許して下さるんですね。」私の語尾は思はずふるへた。

「ほんとに何とも思つてやしませんわ。だからもう、こんな話はよしませう。私厭だわ。何もかも知つていらつしやる癖に。──」

 私は虛を衝かれた人のやうに、もう一步も踏み出せなかつた。が、たとへ少しでも自分の心持を云つて了つた後では、又たとへ操られてゐるにしても、彼女の答が好意を暗示するのを知つた後では、重荷が下りたやうな氣がした。その中に姉が來たので、二人はいつもの通りの二人になつて了つた。

 弟はなか/\歸つて來なかつた。澄子さんは弟に就いて、來た時只鳥渡聞いた計りで、後は不思議に何も云はなかつた。私はそれにすら安易を感じた。

 やがて夕暮れぬ中に、澄子さんは歸つて行つた。

 後は又姉と二人ぎりになつて了つた。

「どう? 神經衰弱は癒つて?」突然姉は笑ひながらかう聞いた。私は不意を打たれた。そして思はず、

「え?」と聞き返した。

「もう二度は云はなくつてよ。」姉は戲弄からかひ顏に云つた。

「姉さん、そんな事云ふもんぢやありません。」私は哀願するやうにかう咎めながら、先刻から引續いた感傷で淚ぐんだ。

 姉は吃驚して正面に振り向きながら、私の只ならぬ樣子を見ると、笑ひかけてゐた顏を、眞顏に直した。今度こそ姉の前で、私はどうしても一步進まざるを得なかつた。

「姉さん。」私は間を置いて續けた。「そんな事を云つて、戲弄ふのはよして下さい。僕はとうから姉さんに打ちあけて、是非お願ひしようと思つてたんです。──僕はほんとに澄子さんを思つてゐるんです。そして出來るなら、行く/\結婚したいと思つてるんです、出來るなら今からでも、許婚にして貰ひ度いんです、どうでせう姉さん。一つ貴方から澄子さんのほんとの心持を聞いて、向うへ話して下さる譯には行かないでせうか。──僕は浮氣やいたづらで、こんな事を云つてるんぢやないんです。眞面目で云つてるんです。だからどうか姉さんも、本氣になつて助けて下さい。お願ひします。ほんとにお願ひします。」私は興奮に釣られながら、淚を流して一氣に云つた。

 姉は當惑さうな色を浮べて、默つて首垂れて聞いてゐた。そして長い間考へ込んでから顏を上げた。

「その問題はね。健吉さん。」と姉の言葉はなぜか淚聲で濁つた。

「それは私も少し前から考へてゐました。決して私も惡いやうにはしない積りでしたよ。今だつて貴方の心持にはほんとに同情してゐます。けれどもねえ健吉さん、私は世間並な事を云ふやうだが、いかにもまだ貴方の身には早過ぎますよ。これが大學へ入つてからとか何とか云ふんなら、まだしも話ができますけれど、何分まだ貴方だつて入學試驗を受けてる身ぢやありませんか。でもそんなに思ひつめてゐるんなら、ようござんす。せめて入學試驗の結果が解つて、高等學校へちやんと入つてからになさい。そしたら私も話して見ませう。できるだけ盡力もしますわ。──入學試驗の結果つて云へば、もう直ぐ解るんぢやありませんか。兎に角この問題は、當分私の胸一つに收めさして下さい。それが一番いゝでせう。ね、さうして下さい。私の心がよく解つて?」姉の言葉に少しも不道理はなかつた。

 かう云はれると私は、恥かしさと嬉しさと氣遣はしさの中に、ただ點頭うなづくの外はなかつた。二人はその後永い間、凡てを云ひ盡した人のやうに、ぢつと默つて坐つてゐた。

 義兄の歸りが遲い定例の日だつた。弟も歸つて來なかつた。家の中を靜かに夕暮が滿たして來た。私も歸らうとしたが、姉は特に御馳走すると云つて私を引き止めた。とう/\夕飯を食つてから歸途についた。

 戶外へ出てみると、雨催あまもよひの空は暗かつた。私は何とも云へぬ興奮に燃え立ちながら、その暗い中をずん/\步いた。いつの間にか雨が落ち始めた。私はこの熱い頭を冷すやうな、眞夏の夜の雨に濡れそぼちつゝ、とう/\寺まで步み歸つた。

 今はもう恐縮と期待とを以て、只管ひたすら發表が待たるゝばかりだ。……

 十二

 待ちに待つたけれども、又間遠かれとも願つた發表の日は來た。朝起きるとかママら私の心は、希望と危惧とで湧き立つてゐた。動悸がたかぶつて飯も喉へ通らなかつた。

 私はわざ/\見に出掛けるのが怖かつた。が、見に行かずにも居られなかつた。

 朝一二時間、愚圖々々してゐた。愚圖々々してゐる中に、誰かが來て結果を知らして吳れさうな氣がした。が、誰も來る樣子はなかつた。とう/\その中に、かうしてどつちともつかず懊惱してゐるのにも堪へられなくなつた。それでいつそ一と思ひに、運命の決着を見て了ふ方が、感情の解放を得る唯一の道だと思ひ立つに至つた。

 十時頃、思ひ切つて學校へ出かけた。本鄕通りを上つて行くと、向うからぞろ/\受驗生の群がやつて來る。彼らの中の或る者は、抑へ切れぬ嬉しさで、眼の緣をぼつと赤らまし、聲高に話し合ひ、又は首を高くもたげて步いてゐた。そしてその他の大多數は、何かの不正事を瞥見べつけんして來た、憤つた群集のやうな澁面を作つてゐた。中にはわざとらしい快活さで、自嘲の笑ひらしいものを、出會つた友と交したりする者もあつた。

 しばらく行くと、下岡と佐々木が向うから來るのに會つた。「いやあ」と云つて帽子の鍔へ手をかけると、彼らは何よりも先に、取つてつけたやうな苦笑と共に、

「又駄目々々。」「捲土重來だ。」と口々に云つた。

「僕はどうだらう。」私は恐る/\きいた。

「君の番號を僕らは知らなかつた。だから、まあ早く行つて見給へ。君は多分間違ひなからう。僕らはもう敗軍の將だから、何も云はないんだ。」と下岡は云つた。

「敗軍の卒だよ。」佐々木は傍から自嘲した。

「兎に角、今日は失敬。」

「失敬。」私は又步き出した。受驗生はまだぞろ/\と通つた。

 校門の少し手前で、私は又佐藤と出會つた。彼は單衣ひとへの今になつても、右手を內懷に入れて、自分の雪駄せつたの音を聞き入るやうに步いてゐた。私は彼が餘りに無心なので、默つてやり過ごさうかと思つたが、どつち道相手が佐藤だと思つて、

「おい佐藤君、どうだつたい。」と呼びかけた。

 佐藤はひよいと顏を上げて私を見た。その顏にはもう悲みらしいものはなかつた。

「やあ君は今か。それぢや早く行つて見給へ。──僕も例によつて人並に見に來たんだ。これでまあ受驗生たるの義務は濟んだ譯だ。があんな揭示は勸業債劵の當り番號を見ると同じで、僕には何らの關係もないね。──ぢや失敬。よかつたら遊びに來給へ、落第はしても僕は、なか/\、故鄕へは歸らないよ。」

「ぢや又會はう。失敬。」

 私はとう/\校門に達した。黃褐色の塗りの古びた門柱も、今日は何となく怖ろしかつた。

「俺は今運命の門をくゞつてゐる」とさう思つた。

 本館の橫から、渡り廊下の方へ步むと、旣に貼り出された揭示の紙が見えた。十二三人の受驗生が、等しく夏帽子を斜めに仰向かして、その下に黑く立つてゐた。私は急に激しく動悸と戰慄に襲はれながら急いでそこへ步み寄つた。

 私は揭示を見上げた。終りの方の三部と云ふ區劃を慌てて見別けると、そこのずらりと並んだ番號に熱した眼を急速に注いだ。一二九、一二九は無かつた。私はまだ信じられなかつた。もう一度見直した。矢張り無かつた。そして尠からず慌て出した。もう一度未練に見直した。無かつた。念のため乙の方をも見た。乙の方にも一二九は無かつた。一部、二部、三部を通じて、一二九といふ番號は無かつた。かうなつて來た時、私は噓のやうに平氣だつた。何だか無いのが當然のやうにも思つた。併しそれは一瞬だつた。次に私は俄然として私の位置を自覺した。落第だ! 何もかも駄目だ。すべてが失はれた。──さう思ふと胸の中が煮え返るやうに動顚した。

 ふと弟はと思つた。二部甲の二一六! 私は急いでそこを見渡した。すると紛れもなくそこには、弟の番號が在つた。在つた、在つた! 私は自分の眼を疑ひたかつた。

 私はこゝに更に又、切ない自分の位置を知つた。悲しいと云ふよりも、苦しいと云ふよりも、私はたゞ息塞いきづまるのみだつた。

 周圍に同じく揭示を見てゐる人は、一樣に聲を呑んで仰いでゐた。たまには短い間投詞を殘して、沸然と立去る人もゐた。多くの人は蒼白い澁面を作つてゐた。が、恐らくはこゝに來た何人といへども、自分のそれよりも苦しい悲痛は感じないであらう。自分のそれより切ない失意を受けないであらう。──私はつく/゛\自分の失敗と、その後の苦しい地位を考へた。そして三度び心から弟の存在を呪つた。

 私はもう何物をも見なかつた。そして悲痛と失意とにつまづきながら、一人とぼ/\と校門を出た。

 千駄木へ行く氣なぞはもう無かつた。

 寺へ歸つて机の前へ坐ると、初めて淚がこみ上げて來た。珍らしく曇つて來た中夏の日ざしを吸うて、靜かに明らんだ障子をて切つた室の中で、私はひとり、心から、思ふさま、泣き續けた。そしてその後では身も心も呆然として了つた。

 明くる日千駄木の姉から手紙が來た。慰問の手紙だつた。餘り氣を落して、身體を惡くするなと云ふやうな月並な事が、女らしい冗漫さで書いてあつた。私は感謝した。が、こんな厭な手紙を書いた時の、姉の迷惑相な顏を想像すると、有難いよりも悲しくなつた。そして當分千駄木へは行くまいと思つた。

 その翌日は澄子さんから手紙が來た。急いで封を切ると、去年と同じく同情に滿ちた手紙だつた。只去年のよりも短かつた。そして同情以上の何物もなかつた。それも私を悲しませた。けれども又只一言、「悲觀して家に籠つたりしないで、千駄木へもお遊びにおいでなさるやう祈り上げます。」といふのに慰められた。

 十三

 二三日過ぎると私は、急に千駄木へ行かうと思ひ立つた。ひとり失意の苦惱を續くるにも堪へ兼ねて、誰かにそれを訴へたい氣もあつたし、又得意な弟の樣子を見て、苦痛をいやが上にも大きくして見たいと云ふ、デスペレートな享樂心も在つた。それともう一つ重大な事には、澄子さんの同情にも浴したかつたのだ。

 千駄木の家には姉が一人ゐた。姉は私が入つて來るのを見ると、「まあ健吉さん。」と云ひながら淚を浮べて私を迎へた。「暫く來ないんでどうしたかと思つてゐたわ。事によつたら今日あたり行つてみようかと思つてゐたのよ。でも、よく來て下すつたわね。──貴方もほんとにお氣の毒ねえ。」

 さう云ふ言葉に私は餓ゑてゐた。それで一も二もなく淚にくれて了つた。その上自分を驅りたてるべく、更に淚ぐんだ聲をさへ出した。

「自分の勉强が足りなかつたと諦めてゐますが、それよりも根本的に頭腦が惡いのですからね。僕はもう駄目です。」

「そんな事はありませんよ。運も半分なんだから。氣を落さないでしつかりなさい。貴方にそんなことはあるまいけれど、つまらない所で自棄でも起しちやあいけませんよ。──澄子さんも大變心配してゐたわ。」

「澄子さん? 今あの人の事なんぞ云はないで下さい。」私は急に羞恥を感じてかう云つた。けれども內心では彼女の事がもつと聞きたかつた。

 姉はそれなり口をつぐんだ。二人の間には同情が通つてゐても、何となくいつもよりぎごち、、、なかつた。そこで私は姉が鳥渡臺所の方へ立つたのを機にして、一人になるべく二階へ上つて行つた。

 姉の話では、弟は湯に行つてゐた。私は弟の机の前に坐つて、ぢつと物思ひに耽つた。ふと弟の顏が、元氣に滿ちて、今頃はのんびり湯壺につかつてゐる顏が目に浮んだ。そして羨望と嫉妬とがそのまはりに渦を卷いた。私は慌ててその想像を消しにかゝつた。

 ふと机の上を見ると誰かからの祝電が載つてゐた。「セイコウヲシユクス」私は無意識にその文句を口誦くちずさんだ。その時私は突然だしぬけに、澄子さんからの祝ひ手紙が來てゐるに違ひないと思ひついた。で、そこらを見巡したが、机のあたりには出てゐなかつた。私は少しく罪の意識におびやかされながら、もう、机の抽斗ひきだしを開けて見たい誘惑に勝てなかつた。

 私は階下の物音に注意しながら、小盜のやうにおづ/゛\抽斗を開けた。果して、左の抽斗に手紙はあつた。私のと同じ薄桃色の封筒で、しかも同じ日にだしたらしい手紙が在つた。私は急いで讀み下した。

「健次さま。私は何よりも嬉しくて堪りません。もう嬉しくて嬉しくて淚が出ました。お兄さまはお氣の毒ですけれど、運だから仕方がありません。でも貴方が無事に合格なすつたので、貴方に心からお祝ひしなければなりません。實は私は貴方がお入りなさるやうに、每晩お祈りをしてゐました。その甲斐があつたかと思ふと、神さまにも御禮を申さずには居られません。

 これから貴方はもう、立派な一高生ですわね。さぞお威張りになる事でせうね。けれども、いくらお威張りになつてもよう御座いますが、餘り偉くおなりになつて、私なぞを御相手になさらぬやうになつては厭よ。どうかいつ迄も、いつ迄も交際して下さいな。折角お宅へ遊びに行つても、貴方に惡い顏をされると、私何より悲しいのよ。私このごろ貴方の事ばかり考へてゐてよ。餘り無躾ぶしつけな事を云つて、お氣に障つたら御免なさい。怒つちや厭ですよ。

 御約束によつてお祝ひの印まで、別封の萬年筆さしあげます。二三度私が使ひましたけれど、まだ新しいんですから、どうぞ使つて頂戴。

                             貴方の、澄子より

  愛する健次樣御許に。」

 私は一氣に讀み終つた。顫へる手で再び丁寧に疊み直して、封筒に入れると、もと通り抽斗に藏つた。それから後は五分間ほど、何かにぎゆつと押しつけられて動けなかつた。胸の中は動亂の極、噓のやうに平靜だつた。たゞ何とも云へぬ緊張が、それも苦痛を越した沈靜で存在した。私は文字通りに息塞{いきづま}るかと思つた。がとう/\うめくやうな嘆息が出て、私は己れに歸つた。

「凡ては失はれた。」と私は思つた。「かうなつてはもう仕方がない。」

 私は先刻よりももつと沈靜な態度で、階下へ下りていつた。

 暫くすると湯から、弟が歸つて來た。彼は私を認めると、鳥渡ちよつとどうしたらいゝか解らぬと云ふやうな、輕い困惑の色を浮べたが、すぐ沈着に歸つてかう云つた。

「兄さん、ほんとに、お氣の毒です。」

 いつも寡默な弟に取つては、これだけ云ふのも精一杯らしかつた。

「いや、僕のはもう仕方がない。が、おまへはうまく及第してよかつた。お芽出度う。」

 私もかう答へるのが關の山だつた。そして、再び改めて、弟の顏を、凡ての點に於ける優越者としての弟を、ぢつとばかりに凝視みつめてやつた。どちらかと云へば淺黑い、眉のあたりに元氣を深く藏した、一二年前から見馴れた顏だけれど、今日はそこには特別に、私を嫉妬せしめ、憎惡せしめ、且つ一種の尊敬をさへ强要する、或る力の潜在を認めた。

 二人は暫く當り障りのない、いつ故鄕へ歸るとか歸らぬとか云ふ、平常の會話を取り交した。がそれでもいくらかぎごち、、、なかつた。やがて、弟はをりを見て二階へ上つて了つた。

 私は夕飯までと引きとめる姉に、强ひて別れを吿げて立ち去つた。

 戶外はそよとの風もない、ほの黃色い夕暮れだつた。街には人々が餘光と灯とを浴びて、忙しく行き交うてゐた。私はその中に立つて、行くべき目的もない身を顧みた。

その時ふと私は、そこの新花町の佐藤の宿が、最も手近にあるのを思ひ附いた。屢〻自分を誘つて吳れたのを思ひ出した。今の敗殘の自分などには、あの男位が最も適當な相手だと思つた。

 佐藤は丁度下宿にゐた。

「やあ君かい。とう/\やつて來たね。それでもよく來て吳れた。──時に君も今年駄目だつたんだつてねえ。まあ仕方がない。運と諦めるさ。諦めてゆつくり遊んで行き給へ。今日はゆつくりしてもいゝだらう。」

 かう云ひながら、彼は私の返事も待たず飮込み顏に、そこのベルを押した。

 十四

 翌朝、私は上野公園の高臺のベンチへ、ぼんやり腰を下ろしてゐる自身を見出した。

 昨夜からかうなる迄の事を考へると、私はそれが夢であればいゝと願つた。あれから佐藤の處に居据ゐすわつてゐる中に、そこへ靑木といふ佐藤の友人が尋ねて來た。そこで三人は近所の牛肉屋へ上つた。私は初めて飮めもしない日本酒を飮んだ。そしてしたゝか醉つ拂つた。彼らが私を俥に乘せた時、私は何處に行くか知らなかつた。いや、全く知らなかつた譯ではない。寧ろ卑怯な自己欺瞞で、知らぬ事に自ら思ひ定めてゐたのだ。俥は醉つて吐氣さへついた私をのせて、ひたぶるに暗を走つた。そして灯の多い、大廈たいかの立ち並んだ場所へ着いた。私はと或る家の中に有耶無耶うやむやで擔ぎ込まれた。それからなだめるやうに或る室に連れ込まれた。そして、そこで初めての、不面目な一夜を過ごした。それからこれへ思ひ出して來る事は、今さら夢のやうだつた。けれど今朝もこゝまで來たのは、今朝早く目が覺めて、その見知らぬ一郭の或る家から、逃れるやうに一人出て來たのは、白日の下の事實だつた。

「あゝ飛んでもない事をした。自分はこゝまで堕落したか。」私は朝の冷たいベンチの上で、泣きさうになりながら考へた。

 昨夜始めて知つた禁斷の木の實。その事も堪らなく厭に思ひ返された。それは全く私にとつて無味だつた。あんなものに、何の身を打込むだけの價値があるのか、と心から疑はれた。

「要するに自分には凡ゆる物が失はれたのだ。」

 私はさう心で呟いて、今、曉霧の一皮づつ剝げて行く淺草一帶の風景を眺めた。霧の晴れた跡には只、黑いごみ/\した屋根々々が、押しかたまつたり、もり上がつたり、り合つたりしてゐるのみだつた。そしてそこには、何の輝かしい朝を迎へる色もなかつた。

「さて、これから何處へ行かう。」と私は考へつゞけた。

 脚下で不意に汽笛が響いた。私は立上つて柵に倚りながら、思はず下を見渡した。灰色の停車場から、幾條もの鐵軌レールが、白くすらすらと流れ出てゐるのが眺められた。平つたい感じのする屋根の間からは、處々、白い煙があがつた。そして今、一連の列車が、颯々さつ/\と屋根の途斷とぎれ目からはしり出た。それは見る/\中に鐵軌を渡り、そこらの家屋に動搖を與へる程の迅さで、まつしぐらに眼下の風景を突破し去つた。

 それを見てゐた私の眼に淚が湧いた。そして淚の中でかう考へた。

「あの汽車に乘つて、故鄕へ歸るのが一番だ。それより外に行く處はない。故鄕へ歸つたら、又どうにかなるだらう。」

 私はそつと淚を拭いて、上野停車場の方へ向つた。

 發車までには、折惡をりあしく二時間ほど間があつた。けれどももう私は、何處へも出かける氣力はなかつた。ぢつと、待合所の一隅に腰を下ろして、首垂うなだれ切つて待つてゐた。……

 とう/\私は汽車に乘つた。八ケ月前私の希望と光明とを載せて來たその同じ汽車が、今は失意と暗黑とを載せて、北に發つた。──

 郡山を過ぎる頃から、窓外は蒼茫と暮れかゝつた。そして中山あたりの山路にさしかゝると、出たばかりの月がほの明るく車窓を染めた。山潟近くなると、四圍はすつかり夏の匂はしい月夜だつた。猪苗代の湖景がもう晝のやうに想像された。

 私はふら/\と山潟で下りた。そして暗い驛路をぬけて、湖の方へ步いて行つた。闇にかたまつた家々が途斷れて、大きな土堤どての上に出ると、そこにはもう、音もなく廣い湖水が面を延べてゐた。

 月の光りは、靜かにたゆたひ落ちて、むかうの山々のかたちを消した。水はひたすらに淼漫べうまんたゝへて、僅かに岸邊を波立たすばかり、搖れうつる灯もなく、影を曳く舟もない單調な湖面は、淚に曇つた私の眼に、悲しみに滿ちた私の心に、和らぎを與ふる夢だと思はれた。

 私は土堤に腰を下して、ぢつと水面に眺め入つた。ふと氣がついてみると、右手にはもとの船着場らしく、突堤が湖中へ長く伸び出てゐた。黑い、眞直ぐな、誘ふやうなその姿が、今度は私の眼に離れなかつた。

 私はこれから起ち上つて、その突堤を步いて行くのだ。眞直ぐに、どこまでも、どこまでも……。

(この遺書めいた手記は、突堤の端にその他の持ち物と共に殘されて在つた。彼の死體は翌朝發見された。急を聞いて馳せつけた弟の手に、やがてこの手記は渡された。弟はそれを誰にも見せず、今の今までかくしてゐた。がある偶然の話から、私にそれを打あけた。そして一つは死んだ兄の追福のために、一つはかう云ふ苦しみを兄と共にするであらう幾多受驗生の參考のために、世の中に發表する事を私へ委託した。私は原文に若干の修正を施して、兎にも角にも一篇の讀み物にした。只、ひそかに氣遣ふのは、私の加へた文章上の斧鉞ふえつが、却つて簡明素朴な調子を傷けそれがために尠からず感銘を薄くしはしまいかと云ふ事である。ちなみに弟は私の友達で、二三級下の大學生である。だからこの話は受驗制度が、今のやうに綜合的に改良されない、以前の事であると思つて貰ひ度い。それからも一つ讀者の參考までに、少しく後日譚をしようならば、澄子と弟との戀愛も、その中に破れて了つた事である。どうせ澄子のやうなコケティッシュな女だから、さうあるべきとは想像がつくだらうが、念のため附け加へて置く。──作者附記。大正七年二月。)

                       (大正七年二月)