An Incident

 彼はとうとう始末にこうじて、かたはらに寝てゐる妻をゆり起した。妻は夢心地に先程から子供のやんちやとそれをなだめあぐんだ良人おつとの声とを意識してゐたが、夜着に彼の手を感ずると、警鐘を聞いた消防夫の敏捷びんせふさを以て飛び起きた。然し意識がぼんやりして何をするでもなくそのまゝ暫くぢつとして坐つてゐた。

 彼のいらいらした声は然し直ぐ妻を正気に返らした。妻は急にまぶたの重味が取りけられたのを感じながら、立上つて小さな寝床の側に行つた。布団から半分身を乗り出して、子供を寝かしつけて居た彼は、妻でなければ子供が承知しないのだと云ふことを簡単に告げて、床の中にもぐり込んだ。冬の真夜中の寒さは両方の肩を氷のやうにしてゐた。

 妻がなだめたならばと云ふ期待は裏切られて、彼は失望せねばならなかつた。妻がやさしい声で、真夜中だからおとなしくして寝入るやうにと云へば云ふほど、子供は鼻にかゝつた廿つたれ声で駄々をこねだした。枕を裏返せとか、裏返した枕が冷たいとか、そでで涙をふいてはいけないとか、夜着が重いけれども、取りけてはいけないとか、妻がする事、云ふ事の一つ一つにあまのじやくを云ひつのるので、初めの間は成るべくさからはぬやうにと、色々云ひなだめてゐた妻も、我慢がし切れないと云ふ風に、寒さに身をふるはしながら、一言二言叱つて見たりした。それを聞くと子供はつけこむやうに殊更声を曇らしながら身悶えみもだえした。

 彼は鼻の処まで夜着に埋まつて、眼を大きく開いて薄ぼんやりと見える高い天井を見守つたまゝ黙つてゐた。おそくまで仕事をしてから床に這入はいつたので、重々しい、睡気ねむけが頭の奥の方へ追ひ込められて、一つのとげとげした塊的かたまりとなつて彼の気分を不愉快にした。

 彼は物を云はうと思つたが面倒なので口には出さずに黙つてゐた。

 十分。

 十五分。

 二十分。

 何んの甲斐かひもない。子供は半睡の状態からだんだんと覚めて来て、彼を不愉快にしてゐるその同じ睡気ねむけにさいなまれながら、自分を忘れたやうにかんを高めた。

 斯うしてゐては駄目だ、彼はさう思つて又むつくり起き上つて、妻の傍にひきそつて子供に近づいて見た。子供はそれを見ると、一種の嫉妬しつとでも感じたやうに気狂ひじみた暴れ方をして彼の顔を手でかきむしりながら押し退けた。数へ年の四つにしかならない子供の腕にも、こんな時には癪にさはる程意地悪い力がこもつてゐた。

「マヽちやんの傍に来ちやいけない」

 さう云つて子供は彼をにらめた。

 彼は少し厳格に早く寝つくやうに云つて見たが、駄目だと思つて又床に這入つた。妻はその間黙つたまゝで坐つて居た。して是れほど苦心して寝かしつけようとしてゐるのに、その永い間、寒さの中に自分一人だけ起して置いて、知らぬげにてゐる彼を冷やかな心になつて考へながら、子供の仕打ちを胸の奥底ではjustifyしてゐるらしく彼には考へられた。

 彼は子供の方に背を向けて、そつちには耳をさずに寝入つてしまはうと身構へた。

 子供の口小言くちこゞとは然し耳からばかりでなく、のどからも、胸からも、沁み込んで来るやうに思はれた。彼は少しづゝいらいらし出した。しまつたと思つたけれども、もう如何どうする事も出来ない。是れが彼の癖である。普段滅多に怒ることのない彼には、自分で怒りたいと思つた様々の場合を、胸の中の棚のやうな所に畳んで置いたが、どうかすると、それが下らない機会に乗じて一度に激発した。さうなると彼は、彼自身を如何どうする事も出来なかつた。はらはらして居る中に、その場合々々に応じて、一番危険な、一番破壊的な、一番馬鹿らしい仕打ちを夢中でして退けて、後になつてから本当にほぞを噛みたいやうなたまらない後悔に襲はれるのだ。

 妻は、相かはらず煮え切らない小言を、云ふでもなし云はぬでもなしと云ふ風で、その癖中々しつツこく、子供を相手してゐた。いらいらしてゐる彼には、子供がいらいらしてゐる訳が胸にこたへるやうだつた。あんなにしんねりむつつりはじめも尻尾もなく、小言を聞かされてはたまるものか、何んだつてもつとはつきりしないんだ、と思ふと彼の歯は自然に堅く噛み合つた。彼はさう堅く歯を噛み合はして、まぶたを堅く閉ぢて、もう一遍寝入らうとつとめて見た。塊的かたまりになつた睡気は然し後頭の隅に引つ込んで、眼の奥が冴えて痛むだけだつた。

「早く寝ないとマヽちやんは又あなたを穴に入れますからね」

 始めは可なり力の籠つた言葉だと思つて聞いてゐると仕舞には平凡な調子になつてしまふ。子供はそんな言葉には頓着する様子もなく、人を焦立いらだたせるやうに出来た泣き声を張り上げて、夜着を踏みにじりながら泣き続けた。彼はとうとうたまらなくなつて出来るだけ声の調子を穏当にした積りで、

「そんなに泣かせないだつて、もう少しやりやうがありさうなものだがな」

 と云つた。がそれが可なり自分の耳にもつけつけと聞こえた。妻は彼の言葉で注意されても子供を取扱ふ態度を改める様子もなく、黙つたまゝで、無益にも踏みはぐ夜着を子供に着せようとしてばかりゐた。

「おい、どうかしないか」

 彼の調子はますますとがつて来た。彼はもう驀進まつしぐらに自分の癇癪かんしやくに引き入れられて、胸の中で憤怒の情がぐんぐん生長して行くのが気持がよかつた。彼は少しふるへを帯びた声を張り上げて怒鳴り出した。

みつ!まだ泣いてゐるか――黙つて寝なさい」

 子供は気を呑まれて一寸ちよつと静かになつたが、直ぐ低いすゝり泣きから出直して、前にも増した大袈裟な泣き声になつた。

「泣くとパヽが本当に怒るよ」

 まだ泣いてゐる。

 その瞬間かつと身体中の血が頭にき上つたと思ふと、彼は前後のわきまへもなく立上つた。はつと驚く間もあらせず、妻の傍をすり抜けて、両手を子供の頭と膝との下にあてがふが早いか、小さい体を丸めるやうに抱きすくめた。不意の驚きに気息いきを引いた子供が懸命になつて火のつくやうに「マヽ……マヽ……パヽ……もうしません……もうしないよう……」と泣き出した時には、彼はもう寝室の唐戸からどを足で蹴明けて廊下に出てゐた。冷たい板敷が彼の熱し切つた足の裏にひやりと触れるのだけを彼は感じて快く思つた。その外に彼は何事をも意識してゐなかつた。張り切つた残酷な大きな力が、何等の省慮もなく、張り切つた小さな力を抱へてゐた。彼はわなゝく手をやみの中に延ばしながら、階子段はしごだんの下にある外套掛ぐわいたうかけの袋戸ふくろど把手ハンドルをさぐつた。子供は腰から下が自由になつたので、思ひきりばたばたと両脚でもがいてゐる。戸が開いた。子供はその音を聞くと狂気の如く彼のくびにすがり付いた。然し無益だ。彼はつるのやうにからみ付くその手足を没義道もぎだうにも他愛なく引き放して、いきなり外套と帽子と履物と掃除道具とでごつちやになつた真暗な中に子供を放り込んだ。その時の気組きぐみなら彼は殺人罪でも犯し得たであらう。感情の激昂げきかうから彼の胸は大波のやうに高低して、喉は笛のやうに鳴るかと思ふ程かわき果て、耳を聾返つんぼがへらすばかりな内部の噪音さうおんはゞまれて、子供の声などは一語も聞こえはしなかつた。外套のすそか、はうきの柄か、それとも子供のかよわい手か、戸をしめる時弱い抵抗をしたのを、彼は見境みさかひもなく力まかせに押しつけて、把手ハンドルを廻し切つた。

 その時彼は満足を感じた、をどり上りたい程の満足をその短い瞬間に於て思ふ存分に感じた。而して始めて外界に対して耳が開けた。

 戸を隔てて子供の泣く声は憐れにも痛ましいものであつた。彼と妻とにめるやうにいつくしまれたこの子供は今まで真夜中にかゝるには一度もつた事がなかつたのだ。

 彼は何かに酔ひしれた男のやうに、衣紋えもんもしだらなく、ひよろひよろとよろけながら寝室に帰つて、疲れ果てて自分の寝床にし倒れた。そつと頭を動かして妻を見ると、次の子供の枕許まくらもとしよんぼりとあちら向きになつて、頭の毛を乱してうつ向いたまゝ坐つてゐた。

 それを見ると彼の怒りは又乱潮のやうに寄せ返した。

「あなたは、子供の育て方を何んだと思つてるんだ」

 気息いきがはずんで二の句がつげない。彼は芝居で腹を切つた俳優が科白せりふの間にやるやうに、深い呼吸を暫くの間苦しさうについてゐた。

「あまやかしてゐればそれですむんぢやないんだ――」

 彼は又気息をついた。彼はまだ何か云ふ積りであつたがすべてが馬鹿らしいので、そのまゝ口をつぐんでしまつた。而して深い呼吸をせはしく続けてゐた。

 外套掛けからは命をしぼり出すやうな子供のびる声が聞こえてゐた。彼はもう一度妻を見て、妻がつきからその声に気を取られてゐると云ふ事に気がついた。にが敵愾心てきがいしんが又胸につきあげて来た――嫉妬と云ふ言葉ででも現はすべき敵愾心が――

「それでなくてもパヽはこはいものなんだよ、……それ……に」

 パヽだけが折檻せつかんをやつては、尚更怖がらせるばかりで、仕舞にはどう始末をしていゝか判らなくなる。男の児は七つ八つになれば、もう腕力では母から独立する。女でも手がける事の出来る間に、しつかり母の強さも感じさせて置かなければ駄目なんだ。それは前から度々云つてる事ではないか。それを一時の愛情にかされて姑息こそくにして置く法はない。是れだけの事を云ふ積りであつたのだけれども、とても云へないと気がついて黙つてしまつたのだ。妻は寒い中に端坐して身もふるはさずに子供の声に聞き入つてるらしかつた。

「もう寝ろ」

 彼は暫くたつてからこんな乱暴な云ひやうで妻を強ひた。

「出してやらなくてもよろしいでせうか」

 彼の言葉には答へもせずに、妻は平べつたい調子で後ろを向いたまゝかう云つてゐる。その落着き払つたやうな、ちつとも情味のこもらないやうな、冷静な妻の態度がかへつて怒りを募らして、彼は妻の眼の前で子供をつるし切りにして見せてやりたい程すさんだ気分になつた。憤怒の小魔が、体の内からともなく外からともなく、彼の眼をはだけ、歯を噛み合はさせ、喉をしめつけ、握つた手に油汗をにじみ出さした。彼は焔に包まれて、宙に浮いてゐるやうな、目まぐるしい、心の軽さを覚えて、総ての羈絆きはんを絶ち切つて、何処までも羽をのす事が出来るやうにも思つた。彼はその虚無的な気分に浸りたいが為めに、狂言をかいて憤怒の酒に酔ひしれようとつとめるらしくもあつた。

 兎に角彼は、心ゆくばかり激情のもてあそぶまゝに自分の心を弄ばした。生全体の細かい強い震動が、大奏楽のFinaleの楽声のやうに、雄々しく狂ほしく互に打ち合つて、もう一歩で回復の出来ない破滅を招くかとも思はれるその境を、彼の心は痛ましくも泣き笑ひをしながら小躍こをどりして駈けまはつてゐた。

 然しさうかうする中に癇癪かんしやくの潮はその頂上を通り越して、やゝ引潮になつて来た。どんな猛烈な事を頭に浮べて見ても、それには前ほどな充実した真実味が漂つてゐなくなつた。考へただけでも厭やな後悔の前兆が心の隅に頭をもたげ始めた。

「出したけりや出したら好いぢやないか」

 この言葉を聞くと妻は釣り込まれて、立上らうとした様子であつたが、思ひ返したらしく又坐り直して始めて彼の方を振りかへりながら、

「でも貴方がお入れになつて私が出してやつたのでは、私がいゝ子にばかりなる訳ですから」

 と答へた。それが彼には、彼を怖れて云つた言葉とはどうしても聞こえないで、単に復讐ふくしう的な皮肉とのみ響いた。

 何が起るか解らないやうな沈黙が暫くの間二人の間に続いた。

 その間彼は自分の呼吸が段々静まつて行くのを、何んだか心淋しいやうな気持で注意した――インスピレーションが離れ去つて行くやうな――表面的な自己にかへつて行くやうな――何物かの世界から何物でもない世界に這入つて行くやうな――

 呼吸が静まるのと正比例して、子供の泣き声はひしひしと彼の胸にこたへだした。慈愛のふところから思ひも寄らぬ孤独の境界きやうがいに投げ出された子供は、力の限り戸をたゝいて、女中の名や、家にはゐない親しい人の名までかはる交る呼び立てながら、救ひを求めてゐた。その訴への声の中には、人の子の親の胸をつんざくやうな何物かが潜んでゐた。妻は始めから今までぢつと我慢してこの声にむちうたれてゐたのかとはじめて気がついて見ると、彼には妻の仕打ちが如何いかにも正当な仕打ちに考へなされた。

 それでも彼は動かなかつた。

 火のつくやうに子供が地だんだ踏んで泣き叫ぶ間に、寝室では二人の間に又いまはしい沈黙が続いた。

 彼はぢつとこらへられるだけこらへて見た。然しかうなると彼の我慢はみじめな程弱いものであつた。一分ごとに彼の胸には重さが十倍百倍千倍と加はつて行つて、五分もたない中に彼はおめおめと立ち上つた。而して子供を連れ出して来た。

 彼は妻の前に子供をすゑて、

「さ、マヽに悪う御座いましたとあやまりなさい」

 と云ひ渡した。日頃ならばかうなると頑固ぐわんこを云ひ張るたちであるのに、この夜は余程りたと見えて、子供は泣きじやくりをしながら、なよなよと頭を下げた。それを見ると突然彼の胸はぎゆつと引きしめられるやうになつた。

 冷え切つた小さい寝床の中に子供をかして、彼は小声で半ばおどかすやうに半ば教へるやうに、是れからは決して夜中などにやんちやを云ふものでないと云ひ聞かせた。子供は今までの恐怖になほおびえてゐるやうに、彼の云ふ事などは耳にも入れないで、上の空で彼の胸にすり寄つた。

 後ろを振返つて見ると、妻は横になつて居た。人に泣き顔を見せるのを嫌ひ、又よし泣くのを見せても声などを決して立てた事のない妻が、床の中でどうしてゐるかは彼には略々ほゞ想像が出来た。子供は泣き疲れに疲れ切つて、時々夢でおびえながら程もなく眠りに落ちて了つた。

 彼は石ころのやうにこちんとした体と心とになつて自分の床に帰つた。あたりは死に絶えたやうに静まり返つてしまつた。寝がへりを打つのさへはゞかられるやうな静かさになつた。

 彼はさうしたまゝでまんじりともせずに思ひふけつた。

 ひそみ切つてはゐるが、妻が心の中で泣きながら口惜しがつてゐるのが彼にはつきりと感ぜられた。

 かうして稍々やゝ半時間も過ぎたと思ふ頃、かすかに妻の寝息が聞こえ始めた。妻の思ひとちぐはぐになつた彼の思ひはこれでとうとう全くの孤独に取り残された。

 妻と子供とを持つた彼の生活も、たゞ一つの眠りが銘々をこんなにばらばらに引き離してしまふ。彼は何処からともなく押しせまつて来る氷のやうな淋しさの為めに存分にひしがれてゐた。水色の風呂敷で包んだ電球は部屋の中を陰欝に照らしてゐた。彼は妻の寝息を聞くのがたまらないで、そつちに背を向けて、丸つこく身をかがめて耳もとまで夜着をかぶつた。憤怒のにが後味あとあぢが頭の奥でいつまでもいつまでも彼をしひたげようとした。

 後悔しない心、それが欲しいのだ。色々と思ひまはした末にこゝまで来ると、彼はそこに生き甲斐のない自分を見出だした。敗亡の苦い淋しさが、彼を石の枕でもしてゐるやうに思はせた。彼の心は本当に石ころのやうに冷たく、冷えこむ冬の夜寒の中にこちんとしてゐた。

(大正三年四月)