貧といふものほど二人の心を荒くするものはなかつた。
『今日はお精進かい?』とでも、箸を取りかけながら夫がいはうものなら、お里はそれが十分不足を意味してるのではないと知りながら、
『だつて今月の末が怖いぢやありませんか。』と、忽ち怖い顔になつて声を荒だてる。これだけ経済を為し得たといふ消極的な満足の傍、夫に対してすまないやうな気の毒のやうな、自分にしても張合のない食卓なので、恰も急所をつゝかれたやうにおなかの虫が首を曲げるのである。
『何もそんなに声を尖らせなくたつていゝぢやないか。』と、夫の顔も引き緊つて来る。そしてもたれ合つてゐた愛情が、てんでに自分の持場にかへつて固くなつてしまふやうなことがまゝあつた。
貧といふものほどまた二人の間を親密にするものはなかつた。恰もそれが愛情に注ぐ油ででもあるかのやうに。
『寒くなつたねえ。もう電車に乗つてもコートを着てない人は一人もゐないねえ。さつちやんもどうかして是非一つ作らなけりやあ……』と、夫は改札口を出るといきなりつめたく咽喉を刺す空気を怖れるやうに、外套の袖で鼻のあたりをおさへながら言つた。
『寒いだらう?』
『いいえ。』とお里は歯の根の震へさうなのを噛みしめて、肱を張つて両袖を胸の前にかき合せながら、『コートなんか無くたつて過せるわ。あれはそんなに暖いたしにはならないんだから。』と、自分で自分に殊勝な心がけを言ひ含めるやうに言つた。そして我ながらしほらしい気分をめでるやうに、涙ぐましくなつたのを紛すやうに言葉を重ねて、『あなたは? 寒かあない?』と、病後の夫の血の気の少い顔を下から覘き込んだ。
それはある日、十一月も僅に一二日を後に残してゐる頃であつた。どうかかうかその月費したものを償ふだけの金が手に入ると、二人は急に開放されたやうな心持になつて、薬代としたものだけを蟇口の小口に分けて、日の影のない曇つた寒い日なのにも拘らず、三時といふ半端な時間なのにも躊躇しないで、郊外の家から久しぶりで甲武線の電車に乗つたのであつた。山が欠けたまゝ四五日我慢して履いてゐた夫の駒下駄を買ふのが、楽しい第一の目的であつた。
牛込見附の桜の枯枝の隙に光るお濠の水のつめたさうなよどみに、鴨か何かゞ静にぢつとつぐまつて浮んでゐる。冬の日はもうあたりに夕暮の用意をしてゐるらしかつた。
『僕はマントも着てゐるし、ちつとも寒かないがね、さつちやんが寒いだらうと思つてさ。電車の中で向側から見てゐたら、なんだか寒さうな土気色をしてゐたよ。この頃少し痩せたやうだね。』
『さうでもないでせう。』と、お里は笑ひながら自分の頬を撫でて見たが、新しく涙が湧き出ようとしてゐるのを覚えた。
お里はいつも優しく言はれると泣きたくなるのである。そしてつくづくこの四五箇月のことが振りかへられる。いつだつて今月こそどうしようと思はない月はなかつた。都合に依つて会社の方をよしてしまつてからの病気だつたので、一日だつて心の落ちついてゐる時はなかつた。辛い思をして田舎の里へ無心をしたり、夫の義兄の世話になつたりして、やうやう難関だけは通り越して来たが、まだあゝしてぶらぶらとほんとの体になれないでゐる……と思ふと、夫がいとしいやら、自分がいぢらしいやら、寂しい思に閉ぢられて過したその頃が、新しく閃いて頭を横ぎるのであつた。かうして優しく夫に劬られると、感心な節婦の話ででもあるかのやうに自分が眺められる。心配と労力に酬いられるものゝ少い失望も忘れ、月々の薬代を見積つて、そつと着物の値段と比べて見たりしたさもしい心の跡方もなくなつて、たゞ夫の上にお里の心のすべては働き出した。
『なんだか年の暮らしくなりましたね。』
広い世界にたつた二人が頼り頼られる体であるやうな、寂しい、その癖心強い今の思を、胸の中一ぱいに溜めて、それを少しづつ味ふのを楽しむものゝやうに、お里はぽつりぽつりと口をききながら歩いた。
久しく家に近い牧場の牛の声や、豆腐屋の喇叭の音などにばかり慣れてゐた耳に、混雑してはひる町の物音が、なんとなく心をせき立たせた。歳暮に間もない神楽阪の空気は、店々の品飾の上に漂つて、新乾海苔のつやつやしい色が乾物屋の店先を新しくしてゐた。
『下駄と、足袋と、それからあなたはインキを買ふつて言つてたわね。』と、お里は爪先あがりに阪を登りながら数へたてゝゐたが、ふと髢屋の店が目につくと、『あ、さうさう、私すき毛を一つ買はう。』と、思ひ出したやうに小ばしりにその店に寄つて行つた。
髢屋の主人が背のびをして瓦斯にマツチを擦ると、急に青白い光がぱつとして薄暗い店先を照した。気がつくと、阪下阪上の全体に燈がはひつてゐた。
『下駄はどこで買ひませう。』と、そこから出て来たお里は、夫と並んで歩き出しながら言つた。
『さあ。』
阪を上りきつて広々とした往還に出ると、二人は少し足をゆるめて、右と左のさまざまな店々を見廻しながら歩いた。お里が殊に気をつけたのは、洋物店の硝子の中に飾られた刺繍入のシヨウルの中に、自分達の力に添つた価のものを見出すことであつた。呉服屋の飾窓に自分の年と恰好した品物が目につくと、なんとなく寄つて見て正札を覘き込んだ。
『まあいゝ柄!』
お里はふと立ち止つて、とある半襟店の小さなシヨウウインドウを眺めてゐたが、同じく足を止めた夫の傍を、つと離れて覘きに行つた。
『一寸、一寸。』と、やがて手持無沙汰に立つてゐる夫を呼んで、にこにこしながら、『ね、いゝ柄でせう? 四十八銭だつて……ほんとの縮緬ぢやないのよ。まがひ……でもいゝ柄でせう?』と、傍に立つてゐる人に憚るやうに、後の方は声を低めた。
『うん……それよりもあつちのがいゝよ。』
『だつて……』と、お里は夫の趣味が自分と一致しないのを発見したやうな不平を感じながら、『どれ? あれ? まあ厭あだあんなの、あんな平凡なのよりこの方がいきでいゝわ、私こんなのがすきよ。』
『ね。』と、やがていかにも心を引かれるやうにひたりと硝子に顔をつけて『買はうか知ら?』と、同意を求めるやうに夫の顔を見た。
『あるぢやないか一つ、ちようどそんなのが……』
『だつて……』
お里はちぷりと油に水をさされたやうな気がした。黒地に赤糸の麻の葉を総模様にしたその半襟をかけた自分の白い襟元と、着物の配合とが忽ちにして消えた。
『どうせ買ふならこつちの方が……』
『あゝよしませうね。』
かう言つてお里は弾かれたやうに、つとそこを離れた。その時ちらと夫がいゝと云ふ柄の正札を睨んだ。二円なにがしの値がついてゐた。
『でも入(い)るなら買つたらいゝぢやないか。』
あまりに反撥的な態度だつたので、夫は居残つて声をかけた。
『いゝのよ。』と、お里はずんずん歩き出した。
『おい!』
『……』
『おいおい!』
『いゝのよ。入らないのよ。』と、お里は夫を待ち合せて、『間に合ふの。私あんまり値が安かつたものだから一寸迷つたの。考へて見りや、あんなもの買ふどこの騒ぢやなかつたのよ。』
お里は自分の殊勝な心から考へ直したのであることを夫にも思はせようと優しく言つたが、顔を見ていふことはできなかつた。あてどもなく前の方ばかりを見つめて歩いてゐるうちに、はつきりしてゐた燈がいつか瞼にうるんでゐた。
あんなけちな安物一つ思のまゝに買ふことができないのだと思ふと、何やらうらめしいやうな気がしてならない。それに夫が、自分が安物で間に合せようとしたことを認めてくれなかつた不平もある。二円も出るものを、私はなんで今の場合買はうなんて言はう!
『あの家に入つて見ませう。』と、お里はずんずん夫の先に立つて、毘沙門前の下駄屋にはひつて行つた。
あれこれと桐の柾のよりごのみをしながら、お里はいつものやうに、あれがいゝのこれが悪いのと厳しい干渉をしなかつた。
『買ひたまへ!』と、無造作に、大様にさう言つて貰ひたかつた!そして懐に手を入れかけた時に、主婦らしい考を起して、無駄なことをと、綺麗にあそこを去つて来たかつた!……
『あなた、インキを買ふとか言つてらしたつけ、私ここで待つてますから行つてらつしやいな。』と、お里はやがて台と鼻緒を選り分けて亭主の手に渡すと、夫に向つてさう言つた。
『うん。』
外套の袖をさやさやいはせながら夫は出て行つた。お里は腰掛を低い框に引き寄せて、火の気の薄い火鉢に手を翳しながら、亭主の手許に見入つてゐると、夫は間もなく帰つて来た。そのまゝはひつて来るのかと思ふと、
『堅くないやうにたてゝ貰つてね。』と言ひ置ひて、またつかつかと阪下の方に向つて歩いて行つた。
『どこに行つたんだらう?』
お里は怪訝さうに目をその後姿にやつた。
『もしや?……』と思つた時は、何となくどきりとした。
『さうかも知れない、あの人のことだもの。』と考へた時は、嬉しさに胸が早鐘のやうに鼓動を打つてゐた。
お里は夫が黙つて、そつとあの半襟を買ひに行つたのだと思つたのである。さう信じてしまふと、嬉しいやうな、有り難いやうな、先刻の不平だの、味気なさだのは泡のやうに消えてしまつて、さうまでして自分を劬つてくれる夫の心持が気の毒にもなつて来る。
『ほんたうにいらなかつたんだのに。』と、しんから気の毒さうに、その癖嬉しさうに呟く胸を抱へて、『鼻緒をあんまりつめないで下さいな。』と、お里は亭主に言つた。
二人の間に溶けて流れるやうな薄甘い情緒が、この世のかぎりな幸福を齎して、感激の涙が走るやうに瞼をついて出ようとした。お里は慌てゝそれを鼻のあたりに抑へる辛さを覚えながら、『君の下駄も買つときたまへ。』と、今日の出がけに言つた夫の言葉を思ひ出した。そして俛いて後の減つた下駄を眺めてゐたが、これで暮まで間に合せて見ようと、何の苦痛もなく心をきめて、それがせめてもの夫の優しい仕打に対する返礼のやうな気がした。
『まだかい?』
夫は忙しく戻つて来た。お里は何となく胸をとゞろかせた。
『どこに行つてらして?』と、きかうとしてきかなかつた。
『どうもお待遠さまでございます。』と、亭主は腰を低めて、下駄の歯と歯を喰ひ合せると、小僧に包紙をとらせて、手早く紐を捻つた。
それを包むとて風呂敷を拡げた時、お里は夫が黙って外套の袖の下から半襟を投げ出しはしないか知らと思つた。
『もう買はない?』と、夫は歩き出しながら言つた。
さやさやとその袖裏が揺れた時、『そら!』と手から手へ渡されるのではないかと思つた。けれどもそれは冷い空気を避ける為に、鼻と口とを押へたのであつた。
お里は少しく失望した。それでもどうやら夫の袂の中にあの半襟が潜んでゐるやうな気がして、並んで歩くにも絶えずその辺が気になつた。
『なんだかいやに黙り込んでしまつたね。』と、かう言つて夫に顔を覘かれた時、お里はたゞ薄わらひした。
何事も知らぬやうに行き過ぎようとする夫の袖のかげから、お里は恐る恐る先刻の半襟店の飾窓に目をやつた。その時は反対の側の方に近く歩いてゐたのだけれど、視覚の記憶はあきらかにその幾筋もの模様を識別した。
その一掛のところだけ明けられてあるか、それとも別なのが飾られてあるかと、まざまざそれが見えるやうな気がしてゐたのも仇となつて、黒地の麻の葉はもとのとほりにその濃い彩で道行く人の目を引いてゐた。
『おい!』
『え?』
『どうしたの?』
『何が?』
『どうしたのかい、黙り込んでしまつたぢやないか。』
『ふゝ。』と、お里は寂しく苦笑して、『あなたねえ、さつき下駄屋からこつちへ何しにいらしたの?』
『さつき? インキの大瓶のがなかつたから別な店に行つて見たのさ。』
『さう。』
『どうして?』
『いいえ、なぜでもないの。』
かう言つてお里はまた黙り込んでしまつた。いつの間にか日はすつかり暮れきつてゐる。夜店をひろげる商人が、あちこちの場所に見えた。
『おい、何か食べて行かないかい? さつきさう言つてたぢやないか。』
『さうね。』
気のない返事をしたまゝ、お里はなほ緩く歩き続けた。少しづつ吹いて過ぎる風に、顔の脂肪気をすつかり脱き取つてしまはれるやうな感じをしながら……
初出 「婦人公論」 大正二年(1913)二月号