口入屋

「今井さだと云ふ女の居処ゐどころ此方こちらでは分らんかい」と、正服せいふく巡査は狭い土間に立つて、ちひさい手帖を見ながら訊いた。

 長火鉢の前に坐つてゐた色の黒い大柄な主婦かみさんは、あがり口へ出てかしこまつて、「ちつとも存じませんですよ」と、真顔で答へた。

「隠すんぢやあるまいな」と、巡査は笑ひながら云つたが、強ひて訊糺きゝたゞさうともせず、直ぐに出て行つた。

「どうしたの、姉さん」と、長火鉢に寄かゝつて肥つた手をあぶつてゐた若い女がなゝめに顔を上げて訊いた。

「今井さだつて、朝鮮へ行つた人ぢやないの」

「あゝさう!前借ぜんしやく踏倒ふみたふして逃げたらしいんだよ。屹度きつとまた男のうちに隠れてるんだらう。あのもいゝ加減で見切みきりをつけて、朝鮮へでも何処へでも行つたらいゝだらうにね。何時いつまでもあんな男に生血いきちを吸はれてちやすゑがどうなるんだらう」

「何故男なんかにだまされるんだらう。わたしなんか馬鹿々々しくて、どうしてもそんな気にやなれないよ」

「その方が無事でいゝさ。だけど、男に騙されてるうちは、苦労しながらも面白いものらしいよ」

「さう? だつて騙したり騙されたりしてるのはつまらないぢやないの」

「そりやお前さんがまだその味を知らないからだよ」と、主婦かみさんは笑ひながらそゝのかすやうに云つた。

「だつて…………………」

 若い女は取留めのない思ひにふけつてゐたが、やがて四時を指した時計を見ると立上つて、「長話をしちやつた」とつぶやいて帰仕度かへりじたくをした。

「ぢや、明日の十時頃にね。彼方あちらでは大変はずんでるんだから、お前さんの方で迷はないやうにね。きまりがつかないと、仲に立つたわたしが迷惑するから」

 主婦かみさんは門口に立つて見送つてゐたが、寒い風にくさめして、あわてうちの中へ入つて、「寒い晩だ」と独言ひとりごとを云つた。そして、立膝たてひざで吸残しの巻煙草を吸つてゐるところへ、小女ちびと番頭の松田とが前後して帰つて来た。獅子ツ鼻の小女ちびは鼻の先に提灯てうちんをぶら下げてゐる。手を袖口に引込めて寒さうに突立つた。

「何て云ふ顔をしてるんだらう。」と、主婦かみさんは大きな目に微笑ゑみを含めて、「和泉町ではどんな返事をしてたい」

「あれで結構だつて。そして主婦おかみさんによろしく云つて呉れつて」と、見掛けによらず、小女ちびの返事は大人つてゐた。

「さうかい。あの年齢としぢや二円五十銭なら沢山だよ。そしてお前手数料の事はよく云つといたかい」

「えゝ」

 主婦かみさんたすきをかけて台所へ行きながら、「松田さん、鶴ちやんは本郷へ向けたら屹度きつと気にるだらうね、一寸ちよつと意気だから」

「さうですね」とあやぶむやうな返事をしながら、松田は新聞を見てゐた。

「どうだらう」と、主婦かみさんは重ねて訊いて、「此頃不思議にいゝ口があるのに、どれもうまく収まらなくつて厭になつてしまう」

きよちやんはどうなりました。得心とくしんしたんですか」

「あゝ。あのまとまりさうだよ。今来て帰つた所だが」

「あれは掘出物ほりだしものだからな。あれ位の玉は一寸ちよつと珍しい。もう十円ぐらゐは高くつけても大丈夫だつたのに」

「だつてさう方外な事は云へないよ。龍ケりうがさきからも二三人仕入れに来てるんださうだけど、向うから乗出して来さうないゝ玉は見当らないね。明日見に来るさうだから、掃除町さうぢまちへも知らせるだけは知らせとかうと思ふけど」

「今夜でもわたしが行つて来ませう。龍ケ崎なんか年増の腕つこきでなくちや稼げやしないんだが」

「なあに、初心うぶな者だつて、一年も立つと変つてしまうんだよ。あのがこんなになつてと思ふやうに変つて来るよ」

 主婦かみさん小女ちび差図さしづして、台所稼ぎをしてゐたが、短い冬の日は早くも暮れかゝつて、かまどの火は薄暗い台所をあたたかさうに照らした。今までしんとしてゐた二階に物音がして、やがて洋服を着た男が階子段を下りて来た。

「よくそんなに眠れるこつたね。目が流れるだらうよ」

「漸く疲れが癒つた」と、その男は欠伸あくびしながら、紐釦ボタンを嵌めて、「僕はこれから二三軒廻つて来よう。行火あんくわを気をつけといてお呉れ、遅くなつても今夜は此処へ帰つて宿とまるから」

 自転車に飛乗つて出て行つた、松田も自分のうちへ帰つた、主婦かみさん小女ちびと差向ひで夕餐ゆふめしを済ましてから、「つた屋」と白く染出した紺暖簾こんのれんを片付けて表の木戸をおろした。そして、火鉢に火を盛上げ、釣ランプを明るくして、その下で今朝から読む暇もなかつた都新聞をひろひ読みし出した。外では凍つた土にカラコロ下駄の音がしてゐる。

 

 主婦かみさん上野町うへのまちの此処で口入業くちいれげふを始めてから、もう五年の月日が立つた。せん情夫ぢやうふ都築つゞき後立うしろだてで不馴れなこの商売を始めてから、厭だ厭だと思ひながら、何時いつか一人前の桂庵婆けいあんばゞあになつてしまつた。四十二と云へば、もう婆あと呼ばれても怒れもしない年齢としである。親は無し子供は無し、一人立ひとりだちの婆さんでは心細くて、やゝもすれば行末ゆくすゑが案じられてならなくなつた、呑むとつとで迷惑ばかり掛けられた都築と、去年の暮に手を切つてから、もう男には懲り懲りしたと口にも出し、腹でも思つてゐたが、心細さは一層激しくなつた。で、或日水月すゐげつえきを見て貰ふと、「とらの歳の男なら一生の頼りになる」と云ふ事だつた。主婦かみさんは急に元気づいた。寅歳の男を知人の中から捜して見た。「お前さんは何歳の生れなの」と、矢鱈やたらに尋ねなどした。寅歳と云へば今年四十五か三十三かだ。三十三の男では自分にはあまりに若過ぎる。若過ぎるのは構はないけれど、自分にはそんな若い男と浮気をするやうな運は尽きてゐる。それに歳を取つた男の方が心丈夫だ。色恋は捨てゝ手頼たよりになる人でなくちや。………

 さう極めてかゝつて、主婦かみさんは四十五の男の店先に姿を見せるのを待構へてゐた。二月三月ふたつきみつきの間幾度も頼もしい辻占つじうらあだとなつて、待人まちびとは来なかつたが、五月の末、最早もはや水月の易も忘れかけた頃、ふとその人に出くはした。めかけの世話などして懇意になつた男が、或晩沢井と云ふ保険会社の勧誘員を連れて来て、主婦かみさんを相手に戯談口じやうだんぐちを利きながら酒を飲んだが、その折話の中に、

「僕ももう四十五だが」と、歎息するやうな声が沢井の口から出た。

「では貴下は寅ですね」と、主婦かみさんは口早に云つて目を張つた。

 寅歳の沢井は都築よりも男前はよくなかつた。色はあくまで黒くて、唇がつてゐる。でも人懐ひとなつこいやうなニコニコしてゐるのを、主婦かみさんうれしく思つた。「水月の云つたのはこの人なんだ」と心にめて、親切に待遇もてなした。女房子にやうぼこのあると云ふのが頼もしくなかつたが、それも仕方がないと諦めて、折角の運を取逃がさないやうにつとめた。

 其後沢井はこの界隈かいわいへ来るたびに足休めに立寄るやうになつて、折々は酔倒れて宿込とまりこむことさへあつた。

「僕はこれで他人ひとの為にや骨身を惜まん性分だから」と屡々しばしば自分で吹聴ふいちやうして、店の事にもいろいろ口添くちぞへをしてやつた。

「私も何時までこんな商売をしてたつて浮ぶ瀬がない。小さくても待合を出したい」と、主婦かみさんが訴へると直ぐに引受けて、今年中には屹度出さしてやると誓つた。今は事業に失敗しくじつてあひのつなぎに保険の外交員なんかになつてゐれど、五百や千の金は少し奔走すれば工面出来ん事はない。これでも五六年前には何万といふ金を運転してたんだぜと、誠しやかに云つた。

「私もそのつもりで知合の旦那衆だんなしゆに頼んでるんだから、お前さんも力を添へてお呉れな」と、主婦かみさんは呉れ呉れも頼んだ。だが、その望みは何時いつになつたら達せられるのやら分らなかつた。月末の酒代だけでも満足には渡して呉れなかつた。

「今年ももう十一月だよ、待合の開業祝ひは何時のこつたらうね」、主婦かみさんは次第に沢井をひやかすやうになつた。真面目に言訳いひわけめいた口を利くのを鼻で笑つて、まぜつ返すやうになつた。そして頼んだ人のあてにならぬのに落胆がつかりもしたが、それよりも冷かしたり混つ返したりして日を暮すのが面白かつた。「沢井さんが沢井さんが」と、出入でいりの若い女達の前で惚気のろけたりして、一人でいゝ機嫌になることもあつた。

 先の情夫の都築が何処で聞きつけたのか、折々店先にうろうろしてうちの様子を窺ふこともあつて、主婦かみさんは気味悪がつて、二階に身を忍ばせたりしたが、それも初めのうちだけで、次第に顔を見られても平気になつた。何か向うから云つたら、負けてはゐない、恥をかゝせてやらうと強い決心をした。

「おれも以前もとは壮士の五人や十人は使つてたんだ。都築が愚図々々云へば、手下てしたを呼んで来て袋叩きにしてやるぞ」と、沢井は泰然と構へてゐた。

 新聞の「情婦殺し」を読終つて、主婦かみさんは長煙管を引寄せて、「沢井さんも来ないねえ」と、小女ちびに向つて云つた。寒さにぢたのか、毎晩一寸ちよつとは顔出しする車坂のお妾さんの徳ちやんも今夜は来さうでない。

「誰れか来さうなものだがねえ」と、主婦かみさんは呟いて、「徳ちやんに借りたい者があるから、一寸彼処あすこへ行つて来たいんだけど、お前が又居睡ゐねむりばかりして不用心ぶようじんだね」

「一人でお留守番してる時は、わたし居睡なんかしないよ」と、小女ちびは答へた。

うまい事を云ふね。居睡と寝小便ぢやお前も何処へ御奉公に上げるん事も出来んから、性根しやうねを入れて悪い癖をめなくちや駄目だよ。」

わたし他処よその女中さんなんかになりたくないよ、詰らないから。おかみさんもきよちやんなんかによくさう云つてるでせう」

可笑をかしな子だね、お前も、清ちやんのやうにお妾さんになるつもりなの。大望たいもうを持つてるんだね。」

 主婦かみさん小女ちび肌理きめあらい黒い顔を見詰めて、思はず吹出しさうになつた。「わたしはお前の先々の事まで心配してるんだけど、心配する程でもなかつたね。お前にはちやんとえらい量見りやうけんがあるんだから」と冷かすやうに云つた。小女ちびは冷かされてゐるとは知らず、澄した顔をしてゐたが、ふと裏口の物音に耳を留めて、「お神さん誰れか来てるやうだよ」と知らせた。

 主婦かみさんも聞耳立てた。やがて、「開けろ開けろ」と二三度高い声がした。その調子が只の人らしくはないので、主婦かみさんは不審がりながら、「何方どなた?」と戸のそばへ行くと、「おれだ」と明瞭きつぱりした声がした。

 主婦かみさんは胸を騒がせながら、やゝあつて、「誰だか知らんけれど、わたしうちに用事のある人ぢやないでせう」と落着いて云つた。

「何でもいゝ開けろ」

「……………」

「おれが入るんが悪けりや、お前一寸戸外そとへ出て呉れ。頼むことがあるんだ」その声は穏かだつた。

「私、お前さんに頼まれる理由わけはないんだからね」

「おれは言掛いひがゝりをつけに来たんぢやないぜ。表から入ればいゝのを、それぢや悪いと思つて、遠慮して裏口へ来てるんだぜ。頼むから一寸顔を貸して呉れ」

「頼む頼むつて、お前さん。わたしも不自由ばかりしてるんだから、此方こちらから頼みたいくらゐなんだよ」

「だつて、お前は商売もしてるし、世話をして呉れる男もあるんぢやないか。おれは今は宿無しだぜ。今日はお前に迷感を掛けに来たんぢやないから会つたつていゝだらう……此処でおれはふるへてるんだから、あつたかい茶の一杯ぐらゐ飲ましたつてばちは当るまいと思ふがな」

わたし、そんな事をお前さんに聞かされる理由わけはないよ。私は女一人だよ。お前さんは足腰も丈夫な男ぢやないかね」

 主婦かみさんは言葉強く云つて店へ戻つたが、打遣うつちやつて置くのも恐しくて、有合はせの銀貨を一円ばかり紙に包んで、それに沢井の持つて来た壜詰を一本小女ちびに持たせて、表から廻つて、裏口に立つてゐる男に渡させた。男は大人おとなしく帰つたらしい。

「何か云つてたかい」と、入つて来た小女ちびに訊いた。

「お神さんによろしく云つて呉れつて。それから誰れか来てるかつて訊いてたよ」

「さうかい、そしてどんなふうをしてたい」

「暗くつて分らなかつた。冷たい手をしてたよ」

 主婦かみさんその華奢きやしや力業ちからわざの出来ない手を見るやうだつた。四十近くもなつてゐながら、乞食のやうな真似をしてと卑しみながら、寒空さむぞらに震へてゐるのをあはれにも思つた。馴染なれそめの初めの若い意気な男振りがチラチラ心に浮んだ。強請ゆすり脅迫おどししに来るかと恐れてゐたのに、嘘にでも憐憫あはれを乞はれて見ると、憎い気はしなかつた。

 此頃は何処にゐて何をしてゐるのか、一度は会つて訊いて見たくてならなかつた。

 

 小女ちび寝床とこへ入つて、いびきをかき出した時分、表の潜戸くゞりを開けて沢井が首をすくめて入つて来た。

「寒いぜ戸外そとは、うちの中へ入ると、地獄から極楽へ来たやうだ」と、長火鉢の前に胡座あぐらを掻いて、微笑々々にこにこしながら、「おい何を考へてるんだい、一本つけやうぢやないか」

「どうも済みません」主婦かみさんは強ひて笑つて、銚子てうし銅壺どうこにつけて、海苔のりあぶりながら、「今夜都築つゞきが来たよ」と何気なにげなく云つた。

「で、どうしたんだい」

追払おつぱらつてやつたさ、此方こちらぢやちやんと道をつけて別れてるんだから、今更文句を云はしやしないよ」

「未練臭い男だねえ」

 沢井は立入つて訊かうとはしなかつたが、主婦かみさんはよかれあしかれ、その男の話をもつとしたかつた。困らされた昔の事でも聞いて貰ひたかつた。で、屡々しばしば話を向けたが、相手がちつとも乗つて来ないので、進んで何も云へなかつた。

「都築が愚図々々云つたつて、おれが付いてるんだから、大丈夫だよ。親船に乗つた気で安心してゐなさい」と、沢井は相手の心は解しないで、微酔ほろよひのいゝ気持になつてゐた、が、主婦かみさんは不断のやうに打解けた口を利かなかつた。厚い唇の上反うはそつた、声の濁つた沢井を物足らず思ひもした。

「この年末くれにはどうかして呉れなくちや困るよ」と、暫くして真面目で云つた。「わたしは笑つてばかりゐて日が送れるやうな結構な身分ぢやないんだからね、ちつとは力を添へてお呉れよ。今年も十日と二三日しかないだらう」と云ひながら、目顔にかどを立てた。沢井はすこしは極りが悪くなつて、

「僕も運が悪くつて、あてはづどほしだつたから、お前にも済まんことをしたよ。しかし、この年末くれには自分の身体からだを質に置いても、これまでの埋合うめあはせをするよ」と、大人しく謝まつた。それを見ると、主婦かみさん流石さすがやさしくなつて、「わたし、何もお前さんに無理を云ふのぢやないよ。だけど、此頃ちつともいゝ儲け口がないんだから」

「さうだね」沢井は杯を置いて、巻煙草をポツケツトから取出し、「清公きよこうはどうなつたんだい。うまく得心したのかい」と、声を低くして訊いた。

「あゝ、あの子はうまく行つたよ。本郷のおひげさんにも誰れかいゝのがあるといゝんだが、あの人は手取てつとり早く収まらんのでね」

「種ちやんならいゝぢやないか、向うでは気があるらしいから」

「だつて、旦那持だもの。わたしもさう思つてるけど今のうちは仕方がないさ」

其処そこはお前の腕一つだね。どうせあの旦那は永続きはしさうでないから、当分此処でゞも本郷のに会はせといて、そのうち今のと手を切らすことにするさ。口実は幾らもあらあね、種ちやんだつて、両方から絞つた方がいゝだらう。第一あれだけのいゝ女をもつと利用しないのは嘘だよ。あのならまだ生娘きむすめで誤魔化せるんだから。」

「そりや当人さへ承知すればだけどね。私はさうさうたちの悪い事は出来ないよ」

「だが、この商売をしてるうちは仕方がないさ。地道に法律通りに、雇人やとひにんの周旋だけしとつたつて、世間で桂庵けいあんを堅気な人間扱ひして呉れりやしないぜ」

「そんな事今更教はらなくつてもさ」と、主婦かみさん嘲笑あざわらつて、「勧誘員だつて、人様にたてまつられはしないよ」

「桂庵婆あと一緒にされちや溜らない」

 主婦かみさん長煙管ながぎせるつ真似をした。

 

 翌朝、八時前に沢井は出て行つた。松田は店先の火鉢に寄つて、紙切かみきれに書いた今日の雇人口やとひにんぐちを見ながら主婦かみさんと打合せをした。朝のうちに、ちひさ行李かうりを担いだ田舎出の書生と、風呂敷包を抱いた肥つた婆さんとが口を捜しに来た。心当りの所を知らせて、相手の望みをきなどしてゐるうち、襟巻であぎとまで包んだ五十格好がつかうの男がノツソリ入つて来た。主婦かみさんは目にこびを浮べながら、うやうやしく二階へ案内した。二階には火鉢やら煙草盆やら、茶道具まで用意してあつた。

「もう参りますでせうよ。こんな所へ度々たびたびお出でを願つて本当に申訳が御座いません。何しろ生れつきが内気なのに、両親ふたおやそばにばかりゐましたのですから、覚悟はしてゐても、矢張やつぱりきまりを悪がつて困るんで御座いますよ」と、主婦かみさんは側に坐つてお愛相あいそをしてゐた。

「しかし、当人も得心したんだらうね、あとで苦情を云はれては困るよ」と相手は気六ケきむつかしい顔をした。

「後で苦情なんか云はせは致しませんです。わたしが保証に立つぐらゐですから」と、主婦かみさんは力を入れて答へた。そして育ちのいゝ事や当人の気立てのいゝ事を繰返へして話した。男は耳を澄まして聞いてゐたが、それよりも、その女の無邪気うぶらしい顔付に心を動かしてゐた。

きまり次第、約束の金は今日払ふ事にするが、お神さんの手数料は幾何いくらかね」

「中々お安くないんで御座いますよ」と、主婦かみさんはわざと笑ひながら、「仲間のめが、一円について二十五銭となつてるので御座いますが」と言難いひにくさうに云つた。

 めかけの手当四十円なら手数料が十円だと、互ひに腹の中で数へた。女の方からも取れる上に、あの位のなら、特別のお礼も貰つていゝのだと、主婦かみさんひそかに胸算用むなさんようをしてゐた。このおきよとあのお鶴と、それに龍ケ崎の酌婦しやくふの口とは、年末くれ引当ひきあてにしてゐるので一つはずしてもならぬと、先日こなひだから気骨きぼねを折つてゐた。

「私共も堅い口ばかりではおまんまが頂けませんですから」と、弁護するやうに云つた。

 やがて約束の十時がくに過ぎて、十一時近くなつたが、お清は来なかつた。主婦かみさんは「お粧飾めかしをしてるんだらう」と云ひながら、次第に気が焦立いらだつた。で、急いで松田に命じてお清を迎へにやつた。昼の御馳走にと、小女ちびに言付けて、二人分の鶏肉とりを買つて、酒をも取つて来させた。だが、待つ甲斐もなく、松田はひとりで息きながら帰つて来た。そしてお清は二時間も前に此方こちらへ来た筈だと母親の言葉を伝へた。

「どうしたんだらう」と、主婦かみさんは目を丸くして、松田に様子を訊いたが、少しも要領を得なかつた。

 二階の男は不快な色を見せたが、やがて、苦笑して立上つて、「あんな顔をしてゐても、ほか情夫をとこでもあるんかも知れん、何もそんな六ケ敷女むつかしいをんな係合かゝりあひをつける必要はないよ」と云つて、主婦かみさんが手をつて申訳をするのも聞入れないで、プイと戸外そとへ出た。

「気の短かい人だよ」と、主婦かみさんは店先に立つて、その男の急いで歩くのを見送りながら眉をしかめてゐたが、やがて、満心の憎みをお清に向けた。身体中掻きむしつて、くひついてやりたい位に思つた。「こんなに骨を折らせた上に恥を掻かしやがつて」と、のゝしつて、「今度来たら、うんと油を取つてやらなくちや」と云つてゐたが、お清はついにその日一日顔を見せなかつた。いづれ二三日中にお詫にあがりますと母親が使を寄越したばかりだつた。

 主婦かみさんは怒りの鎮まると共にしをれた。あんなに口数を利かせて手足を使つて、それが無駄になつたかと思ふと情なかつた。二つ三つ当てにしてゐるいゝ口が、初端しよつぱなからかうはづれては如何いかにも縁喜えんぎが悪い。こんな様子だと年末くれをどうするだらうと案じられた。

 糞忌々くそいまいましい、何処かへ遊びに行かうかと思つてゐる所へ仲のよい車坂のお徳が遊びに来た。

「これから蒲焼かばやきでも食べに行かうぢやないか」と、いきなり元気づいて云つた。

「どうしたの、何かいゝ事があつて?」

「あゝ、あるんだよ。今夜は蒲焼でお酒でも飲んで、わたし惚気のろけを聞かせやうかい、馴染甲斐なじみがひに聞いて呉れるだらう」

「御馳走になれゝば、幾らでも聞いて上げるよ。沢井さんのこと?」

「うゝん、あんな人のこつちやないさ、わたしもうあの人は厭になつたよ」

 主婦かみさん周囲あたり憚からず、つけつけ云つた。そして小女ちび一人残して、不審がるお徳と連立つて池のはたの鰻屋へ行つた。銚子一本一人で飲干のみほしながら、都築と仲のよかつた昔を面白さうに話した。他人ひとのお世話や慾得よくとくで出来た仲ぢやないんだからねえと、浮々うきうきした調子で云つて、「思ひ出すよ思ひ出すよ」と繰返した。

「どうせ苦労するほどなら、あの人と苦労した方がどの位増しだか分りやしない」

「だけど、姉さんも随分勝手だわね、あんなに都築さんの悪口を云つてた癖に」と、お徳は相手の心根こゝろねあやしんで、「若い時、うつかりヅボラな男に掛合かゝりあふと、歳を取つて後悔するから、よく気をつけなさいつて、わたしや種ちやんに意見したことがあつたわね」

「それは今だつて、可愛いお前さんなんかには意見するよ。私のとこへ口を見付けに来る若い女には、男に騙されて来るのが多いんだもの。そんな女の弱味につけ込んで、わたし達は生活くらしを立てゝ行くんだから、厭な商売さね」

 主婦かみさんはさう云ひながら、口先のうまい都築の意気な姿が目の前にちらついてならなかつた。で、うちへ帰つてからも、お徳や松田を前に置いて、可愛い男に忍び会ふうれしさを語つた。そして松田が龍ケ崎行の酌婦の打合せをするのに、さして耳を留めもしなかつた。

「お神さんは今夜どうかしてるよ」と、皆なが呆れた。

 

 翌朝主婦かみさんは不断のやうに早くから起きて働いてゐたが、都築が再び来るだらうと気遣きづかはれもし待たれもした。そしてせめてお鶴だけは本郷の人にでもをさめたい者だがと、松田に手紙を書かせて呼寄せることゝした。次手ついでに沢井宛の手紙をも書かせて、四五日内に、たとへ五円か十円でもいから、是非工面して持つて来て呉れと頼んだ。

「いくら沢井さんだつて、それんばかり、黙つてたつて持つて来て呉れるでせう、どうせ頼むんならもつとどつさり云つてやつた方がいゝでせう」と、松田は歯掻はがゆがつて注意した。

「だけど、今の場合だからねえ」

 主婦かみさんは今の場合、僅かな金でも、確実に手に持つてゐなくては心細くてならなかつた。

  (了)