奥州は津軽の城下に、名高い七夕の侫武多祭が済んで門に火を焚く盆の頃になると、林檎がそれぞれに美しい色を染め出す。地福村といふのは弘前の町から半町となき西南の小さな村で、遠く館野の方から見ると只だ一帯の林檎畠。特に朝の静かな眺めは格別なもので、薄く白い霧の中に包まれた一廓は滑かな葉を瀰紅、黄、紫などの林檎の色に、恰ら朧の中の五色の絵を見るやうな気がする。その朧の片端れから更に色濃き朧の煙が、もやもやと心ありげに立騰る、其の地福村三十戸の竈から吐き出す朝の息である。と軈て竹螺の声が西の丘から聞ゆる。
竹螺を吹くのは此の畠主の佐吾十爺で、彼が此村を起してから二十年余、朝と正午と夕方と一日も休んだ事がない。此音が聞えると畠の中は荷車の音、牛の吼える声、梯子の上で林檎を捫ぐ鼻唄、草抜の女共が和解なしに笑ふ声など、急に賑かになつて、朝日の活々とした力が木となく葉となく、土となく流れ渡る。
いつも佐吾十は其岩畳な銅色の大きな左の拳を少し曲がつた腰の後ろに当てがひ、左手に竹螺を持て家を出ると、両側の疏水の溝が掘てある適宜に広い畠中の路の真中に、大きな林檎の古木が、此畠の王様ともいふ様に枝を張て居る。古木の太さが一抱許りで、六尺程上から二股に裂けて棚の上に枝を匍はし、幹の肌は二十年間風雨と戦つた衰へを示して一体に蝕んだやうになつて居るが、四方三間余りに拡がつた梢は未だ生々として「なに小僧共に負けるものか」と言つたやうに青い葉の間から美人の頬のやうな若い色の実を勢よく列ねて居る。佐吾十の往復ともに此の古木の下で一休憩をするのが例になつてるので、石油箱二つに板を渡した腰掛に花茣蓙が敷かれてある。
機嫌の好い時には、此処に若い者を集めて爺さんは余り上手もない声で「骨が粉になりや粉が骨になる汗は重たい金になる」と唄ふのであるが、迂闊油断をすると、其れから直ぐに身の上話を始められるので、慣れたものは唄が済むと、
「あんと巧えもんでごすな」と賞め捨てゝ颯々と逃げて了ふのだが、気の利かないものは大抵爺さんに白羽の矢を立てられる。
「汝等あはあ、此唄の訳は知んめえが、あんでもはあ働かんにや娑婆の飯あ食えねえだ。俺あ見ろよ、此年ではあ四十二の厄年から」と丁寧に指を折て、
「今年で六十五だもんで、二十三年の間でこれ丈の仕上を為るにや骨よ粉にしたゞ、其粉がはあ骨になつたゞ」
といふを冒頭に長々しい自慢話に取掛るので、若者の中には爺さんの話の前提から大尾まで一句も漏らさず暗記して居るものもあるので、
「其りやもう此間も聞いて知つてるだよ」
と言ふものがあると、爺さん急に不興顔になつて、
「其んねえに知つて居だあら、あんで怠けくさるだ、はあ今の若え者あ年寄べいだ思つてどん底に聞かねえだから竈の殖えべい理窟あ無えだ」と再び本題に綯を戻すので、近頃は相成るべくは此の大林檎の下を避ける様にして居る。
此の大林檎といふのは爺さん半生の記念樹で、爺が人の馬を曳いて歩いて居た時、弘前の町で西洋人が食ひ捨てゝ行た林檎を拾つて其種子を植ゑて見たのが抑々の濫觴、其時は西洋林檎といふものが殆んど絶無であつたので、実植ゑから接木、其から其れと瞬く間に殖えて、今では津軽の名産になつた、其名産の母とも言ふべき木は此れなので、彼は此木に自分の姓の地福といふ名を付けた。
実際佐吾十が地福の下に腰を下し時は、老勇士が其の瘡痕を撫つて昔の戦を偲ぶ其れと同じ様な気持で、当時の苦しかつた事、悲しかつた事を想ひ出す度に、今の自分がいつの間にか昔の自分となり、其の昔の自分が最後に今の自分に復る一瞬間の覚醒際に得も言はれぬ快味を感ずる、其れがまた誰れかゞ相手となつて回顧談の矢面に立て呉れた時には爺は独りでは想出し得ぬ微細い事まで自づと口から迸り出るのだが、今日は一人も相手がないので霎時此処に休んで、其れから西の丘に登ると、夕日は松原の上を一尺許り離れて、一日の労働から安息に帰る静かな光を眼に眩ゆくない程に畠の上に抛げて居る、此れが佐吾十の最も得意な時で、其の懐襟に拡がる一望の畠を緩くりと見渡し、扨て腰から煙草入を取出して、掌に灰殻をはたきはたき四五服喫み続けると澄み切た青空を背後に真直に立つて例の竹螺を吹出した。と畠の隅々、木々の蔭から三々五々、人影が現はれて鍬を肩にするもの、車を推すもの、梯子を担ぐもの、籠、笊、叺などを運ぶもの、其等が一同に牛小屋に近い井戸の辺りに集つて、手ん手に足を洗ひ、農具を片付けなどするので、鶏や犬までが賑かさに引かされて嬉しさうに雑沓の中を跳廻る。此等の有様を忸と見下して佐吾十は丁度一国の帝王にでもなつた様な気持に、其の深く刻んだ額の皺から洩れる明壮とした眼を優しい光に潤まして軈て丘を下りた。
「おう黒牛よ、あんではあ吼えるだよ」
と佐吾十が声をかけると、牛小屋の前で秣を切て居た与茂作爺が手を休めて、
「あんだか知んねえだが、がら吼えけづかつて物う食はねえでがすよ、あのう眼う見て呉れつへいや」
「陽気の中症ぢやあんめえかなあ、こらあ黒よ、主あ切ぬえかよ」
「切なかんべいや、頤たあ泥に浸けてるだあもの」
「おいよ、切なかんべいなあ黒」
と佐吾十は奥の方を向いて、
「おうい、鶴公は居ねえかな、おうい鶴公やあい」と叫ぶ、遥かの木の茂みから、
「おうい」と応へる。軈て出て来たのは年頃二十前後の色の白い、額丈け薄く日に焦けた、何処かに気の利いた処のある若者で、洗濯下しの白い襯衣に萌黄めりんすの兵子帯を後に結んで、半股引の下からくつきりとした脛が気持よく締つて見える。五分刈の頭に阿弥陀に被つた麦藁帽を取つて一寸会釈すると爺は、
「主あ草臥れたべいがな、黒牛があんだか塩梅が悪いでの、一辺床あ洗つてやつて見て呉れろよ」と言ひ捨てゝ此処を出ると、今しも稼ぎから帰つた許りの馬の一群が繋いである、佐吾十は又た是に声をかける。
「おう蘆よ、大義だつたべえや、おう青よ、赤よ、耳長よ、瘤よ、皆んな御苦労だのう」
といふて畠の中に入ると、其処に秋桃や梨や、榲_{まろめろ}が、静かに風の末葉を戦がして居るので、爺は是にも声をかける。
「皆な早く大きくなれやのう、実い生るやうになつたら好い肥料をやるべいよ」
と一々に言ふのが此爺の癖なので。
今までの騒々しさが、ひたと止んで、四辺が急に静かになると、畠中の林檎の香が夕暮の乾いた空気を揺かして、ほつと暖かいやうな気持に流れ渡る。此間を佐吾十は横顔の皺々を夕日に照らされて、後ろ手を組みながらのこりのこりと歩いて来たが、呼止めるものがあるので、振返て見ると其れは牛番の与茂爺であつた。与茂爺は佐吾十と同じ年配であるが、佐吾十に比べると五つ六つ程多い様に見える。
「床あ洗つただかな」と佐吾十の方から声をかけると、一寸腰を屈めて、
「洗つたゞ、洗つたゞがな、黒の野郎あんともはあ、癒らねえだ」
「其んねえに早癒るもんでねえだよ」
「其うだんべいかな」と横の方を向いて、
「其んで旦那、ちよつこら相談のうあるだで」
と佐吾十の歩き出す背後に従いて行く。
「はあ何{あ}んだ」
「他事でも無えだが、又た一軒殖やさんにやならねえだ」と黒い顔から白い歯を露出して笑つた。
「はあ誰だ」と佐吾十も笑ふ。
「新太の奴だがの、何でも今の若い者あ敏捷えもんだ、かよ子と何時ん間に出来たかな、もう五月だあによ、俺あ打魂消だよ」
「彼奴あ仕事う働くでの、兎だら様に跳廻るだから、俺あ愛がつてやつたゞが、もう女娘の尻窺つたゞかね、其んだら早く家拵へさつせい」といふ中に、例の地福の下に来たので、花茣蓙に腰を下した。一体佐吾十は気が短い代りに又よく人に情けを懸けるので、自分の姓を名づけた地福村といふのは、佐吾十の畠に働く若い男と若い女と好いた同志には直ぐに世帯を持たす、家を建てゝやる、長年の中には馬の一匹や田の一枚も与れてやる、其れが今では二十組余りも出来て、新らしい組が見付かり次第に与茂作が一切の世話係り、佐吾十に申込むといふ事になつて居るので、佐吾十は其の戸数の殖えるのを喜んで居る。
「俺あ死んだら出雲の神様に褒められるだんべい」と何かにつけて言ふたもので、
与茂作が去て了ふと爺は続けざまに煙草を吹いて居たが、急に思ひ出した様に、
「お福よ、お福やあい」と呼んだ。
爺は朝から晩まで寸時も落着いて居ない、眼の覚めて居る間は用事の有る無しに拘はらず、人を呼んで居るので、其れが十五六年前に、女房に死なれてから一層烈しくなつて、其中に最も多く呼ばれるのはお福である。
お福の素性は誰も知つているものがない。死んだ女房が何処からか貰つて来たといふが、拾つたのだらうと言ふものもある。丁度お福が二歳の時で、其れから間もなく婆さんが死んだので、子もなく孫もない佐吾十は男手一つに育て上げた、這へば立て立てば歩めと段々生長なればなる程爺さんの可愛がり様は一通りでなく、明けても暮れてもお福をば自分の側から離した事がない、彼は甚麼に腹を立てゝ居る時でも、お福の顔を見ると直ぐ顔の皺が弛んで了ふので。
加之佐吾十はお福の乳呑の時から十七歳になる今まで、今だにお福を抱て寝てるので、村の者が、
「旦那、お福さあも既う女娘盛りになつたゞに」といふものがあると、彼はいつも機嫌よく笑つて、
「こりや俺がの行火だでのう、えらあ足が暖まるだ」といふ、是れが原因になつて村中ではお福に「あんくわ」と綽名を付けた。
「お福やのう」
と爺は林檎の木の間から此方へ来る姿を見付けて呼んだ。
桃色の襟を取つた白い袖無しから、肉付の宜いむづむづとした白い腕を出して、脇口からふつくりと膨らんだ乳が仄かに見える、腰から下は赤い腰巻一つで紙緒の草履を埃の中に曳きながら出て来たのはお福である。
「何んだし」と爺の前に立つ、同時に口の酸漿がぶうと鳴る。
「何んで草履穿いてるだよ、下駄あるだに」
と爺は笑ひたさうに目と口元の皺を寄せて、
「若え女娘だらいふもの、其んだ埃だらけになるで無えよ」
と顔を見詰める。
「其んでも、下駄穿いたら悪くなりしによ」
と夕焼けの雲に其の美味さうな頬を薄紅く照らされて、再びぶうと酸漿を吹く。
「悪くなつたら買つてやるべいに、足よ怪我したら奈何しる積だ」
「下駄あたら欲しく無えによ」
「何が欲しいだ」
「何んでも」
「何だよ」
「笑ふだもの」
「笑はねえによ」
「そんだら」
「そんだら何だ」
「あのう何に」
「あのう何に」
「はゝゝゝ」とお福は大きく口を開いて転げる様に笑ひ出した。
「同じ事言ふだによ爺さん」
爺も同じく笑ひ出して、
「はあれ、汝から笑つたで無えかの、そんでは家さ這入つてから聞くべいやのう」
と爺が先になつて家近く来たが、又考へ出して、
「福よう」
「あんだし」
「あのう、黒が塩梅悪いでの、忘れた事したゞ、塩う食はせりや癒るだあに、汝ちよつくら行つて塩やつて来いよ」
「牛小屋しけえ」とお福は言捨てゝ其方へ足を向けた。
「お福よう」
と何か又思ひ出して言た時、お福の影が、向ふの百合畠の中に隠れて了つた。
「早え足だのう」
と爺はにやにや笑て家の方を向いた。
日は全く沈んだけれども、西の空の夕焼けは凡ての林檎の上を彩つて、御光の様に薄雲を抹すと、柿の木梢高く突出た風見鴉か、恰も画の中に浮き出た様で、渾然とした奥州の眠れる如き天は底の方から静かに薄紫、赭、水色に変り行く中に、軈て末広がりに綿を千截つたやうな小さな白い雲が、龍の鱗の如く青地の上に撒かれた。
「鰯が取れるだんべいよ」
と言つて見たが、家の中は何の音もなく、椽側の鶏が二三羽、遠慮会釈もなく上り込んで居る、灯ともすに早い奥の間を淋しさうに覗いて、爺は、相手が欲しいといつた風に、四辺を見廻した、遥かに黒牛の吼える声がする。
で、爺は椽側から腰を放すと、手籠を持て木の間を歩きがてら、薄明りに見える目の力を便りに、落ちた林檎を拾ひ溜めた。
籠が張りきれる程に積込んだ頃、爺は何時の間にか畠の南端、雑木林近い秣小屋に近く来た事に気が付いた。其処には溝を引いた水門があつて、其れが垣根の外に音をたてゝ落る。伐り倒した許りの材木や冬構に使ふ杉皮の束や、跛になつた唐箕や、古ぼけた水車や挽臼など、秩序もなく置いてある其奥から、昼の日光に蒸された秣が乾いた明るい香を送り出すと、未だ暮残る蜩が一つかなかなと鳴いて居る。
不図、小屋の中で人声がするので爺ははつと足を停めた、別に足音を忍ばすといふではないが、斯る時は偶然の物音を聞く時には誰れしも自分を隠して見たいやうな気がするもので。爺は窃と小屋の雨除に囲んだ黍殻の間から中を覗いて見た、途端に其の両肩を窄めて棒の如く立竦んだ。
行火のお福と乳搾リの鶴公が、秣の中に半分づゝ身体を埋めて互に抱合つて小声に話して居たので。
一旦足を戻して、再び覗いた時には佐吾十は猟犬が手強き獲物を嗅ぎ当てた様に、総身の慄ひを強て抑えて立て居たが軈て急ぎ足ですたすたと引返した。
佐吾十は茫然として家に入つた。
いつもならば、黒光りの広い板椽に、舶来の灯籠と名を付けた岐阜提灯を吊して、行火の御酌で五勺ばかりの酒に胸まで赤くし、骨が粉になるを二三度唄ふと、直ぐ横になる、同時に鼾が聞える、と其れをお福が俵を扱ふやうに転がして寝床の上に乗せると決まつて居るのだが。此夜はざつと飯を済ました限り、何思つたか毎もの寝間の次の納戸へ、別に寝具を敷かした。
早過る程早く寝たので、佐吾十は中々眠られない、台所の炉辺ではお福始め奴共年期抱の奉公人五六人が、笑ひまじりに話してる其声が耳を唆かす様に聞えるので、聞くまいとすればする程、自分を嘲るかの如く耳に従く。爺は一寸舌打をして、
「お福よう」と呼掛けた、此れが聞えたかして話声が急にひたと止むと、奥歯で殺してる様な笑声が、いかにも堪えきれぬといつた様に目配してる光景が眼に浮ぶ。
「お福よう」と再び呼んでみた。
「あい」と言て次の間に来た足音の方を向て、
「あんではあ騒がしいだ、皆なに寝てしまへと言へよ、汝もはあ寝て了へよ、ぐちやぐちや面白くもねえ事饒舌くるで、其んで朝寝しるだあに」
「そんでも爺さん未だ八時だあよ」と襖越に言ふ。
「何? 八時だあ? 八時が七時でも用も無えだに油あ点してること無えだよ」
「そんだら寝りいすよ」
と何かぶつぶつ言て行た様子、爺も同じく何やら呟いて、枕を引返して又頭を着けた。台所では、
「あゝ寝べいかよ」
「二日分寝て置くだ」
「殿様御機嫌が悪いでの」
「寝る程の程が無えだ」
などゝ手ん手に当付けがましく言つて、気の抜けた欠伸が交る交るに聞えると、寝具を取り出す音がこそこそと、軈て昼の疲れの眠るに早く、急に静になつて了つた、其静かさに引込まれて爺も何時の間にかうとうとゝなつた。
不図眼が覚めて四辺を見廻した。いつもならば自分の左にお福がぐつたりと柔かい胸を出して真白い腕を自分の胸の辺りにかけて生体なく眠つて居るので、爺は其手を握つて見たり口に当てたりしてゐる中にゆつくりとした楽しい思に再び眠りに入るのだが、今急にお福を隣室に追ひやつた事に気が付くと其れが俄かに擽つたいやうな淋しさを覚ゆる。月は恰も窓の方へ廻つて居る、格子の影ながら鮮やかに抛げ込む光りは、其処に積んである絲枠や、繭外しの器械などの影をも冷たく枕元の畳に落す。と、暗い壁の方から蚊の声が一つぷうんと聞える。
「うるせえ奴だ」と呟いて忸と考へて居ると、蚊の声が次第に耳元に近くなる、ぴしやりと掌で打つと手応がない、黙つて居ると又来る、又打つ、又反れる、忌々しいといつたやうに爺は起上つて、枕元の手燭に灯を点ける、で、其れを如何しようといふでもなく其まゝ其処に置て扨て再び横になつたが、既う眠らうといつても中々眠られない、只顔がかつかつと逆上て来る。
何を考へるともなく爺は半時余り、天井に瞳を据ゑて居たが、隣の室に枕を更ゆる様な音がしたので、暗がりで何かに逢つたやうにはつと驚いて其方を見向いた。
「お福よう」と声掛けると、
「あいよ」と直ぐに返事をする、
「汝あ未だ眠ねいで居るだか、早く眠つて了はつしやい」と腹立たしく言ふ。
「眠よう思つても眠れねいだもの」
「眠よう思つたら眠れない事あねいだ、何にをうぢやうぢやと身体べい悶えてるだ」
「爺さんもあんで眠ねえだし」
「何んでつて其んだら阿呆こくもので無え、眠て了つしやい」と訳なしに怒つて、ジリジリと燃え尽きた蝋燭をぶつと吐き出すやうに消して了つた、何処かで盆踊の音が遠く聞ゆる、はアほいといふ声、手を拍つ足踏みをする、其れ等が自分を嘲るやうに枕に響くので、
「腹あ減らしめが」と独りで言つて眠らう眠らうと努めて見たが、たゞ不思議に胸が焦けつく自分が眠られずに居ると同じお福も目が覚めて居た、それれが恰かも自分の意気地なく悶えて居る始終の様子を悉皆知られた様な気がするので益々劫が煮えて来る。
すると、先刻の一つの蚊が又たぷうんとやつて来る、目をぱつちりと開いて見ると、蚊帳を釣つてない事に今更ら気が付く、窓の月明りにがらりと広々とした室の真中に自分が一人丈け寝て居る其の姿が自分ながら何となく淋しく眺められた。
「お福よう」と再び声を懸けたが返事がない。
「お福よ、汝あ淋しく無えかよ」といつても答がない。
「此処さ来ねえかの、爺さんとこさ寝ねえかの」
仍且黙つて居る。
「眠つたゞかな」と手燭を点けて立つて障子を明けた、と、お福は小つくりと二重にくびれた頤を仰向けて枕からせり出した顔は一体に円みを帯びて、小さな鼻、濃い眉毛、ふさふさと柔かい産毛のやうな毛の生際に残つて居る額、其れが何となくあどけない趣を持て小*を乳の上まで掛け、其上に両手を載せて居る。すると其の枕元に坐つて佐吾十は瞬きもせずに寝顔を見詰めて居たが、堪へきれぬといつたやうに、ぐつたりとしたお福の手を取つて自分の顔につけて見て、ほろほろと涙をこぼした。
霎時其侭に身動もせずにあつたが、急に起上つて椽側の雨戸を繰りあけた。ほのぼのと明けにかゝつた林檎畠は、木並の奥から白い薄明りを送つて、細雨まじりの霧が一面に深く立ち籠る、中に草に落る林檎の音がほたりほたりと重さうに聞える。爺は草履を引掛けて外へ出た、じみじみと肌に染み込むやうな霧が眉に雫と落ちて顔に流れるのも拭はうとも思はず、一夜眠らずに労れた老の身は、底に耳鳴りがする程逆上せて居るので、恰ら虚空を迷ふ抜殻らのやうに、畠中の路小路を当て度もなく廻つた。
牛小屋の前に来ると黒牛が苦しさうに泡を吹いて居たが、主人を見て、もうもうと二声ばかり鳴いた、いつもならば何とか声をかける処だが爺は黙つて此処を過ぎ、西の丘へ登ると、暮るゝにも急な此の土地は明くるにも急で早や全く夜が明け放たれたが、薄気味の悪い霧は雨になりさうな空色を濁して木といふ木は全て死んだやうにそよと動く葉もない。此処に暫らくの間物思ひに沈んだ爺は、例の竹螺を吹いて地福の下に来た頃は自分ながら疲れ切つて居るのに気付いたので力なく花茣蓙の上に腰を下したが直ぐごろりと横になつた。
眼の覚めたのは彼是十一時近くであつた、日がぢりぢりと顔を照らし頭の上では蝉が油を煮る様に啼き出して居る。
「ほろほろ」と気短に二三度続けて怒鳴つても逃げない、起き上つて石を拾ふと蝉は賢くも飛んで行つたので其の寝覚めの不機嫌な顔を一層六つかしくして後を見ると与茂爺が何か言ひたさうに腰を屈め佐吾十の顔色を伺ふ様に立つて居る。
「旦那眼え覚ましたけえの、あの黒牛が大変でごすよ」
「如何したゞ」
「眼う閉めて舌出しますだ」
「牛が舌出す? 其れが不思議けえ」
「はあ平常と違ひますだて」
「汝あ牛の係りだんべいに、舌出すも尻尾だすも俺が知つた事けえ」と遠くの蝉に、
「何んて八釜しいだ」と苦りきつて居る。いかさまにも只だならぬ機嫌と与茂爺は幾度も頭を下げて黙つて立去つたが、霎時すると又た戻つて首を縮めながら、
「旦那さあ」
「何んだよ、汝も何年ちうもの牛飼つてるだよ」
「いんにや其話ぢやごつせんて、あの……」
「何んだか知んねえが、今時分其んだ話し面倒臭えだよ」
「ちよつくらで宜いだが」
「早く言へよ」
「新太とおかよの事だあに、家建てべいに木柄見て呉れせいよ」
「新太とおかよ?」と佐吾十は何か考へて、
「其んだ事聞きたく無えだ」とぶつと唾吐いて、鶏の羽を繋いだ烏除けの縄をぐつと引張ると、鳴板ががらがらと奥の方で響く。傍を見ると与茂作がもう居なくなつて居るので、何だか張合が無くなり向ふを見ると、与茂作が大きな土瓶を提げてほくほく行く姿が見える。霎時其の後影を見詰めて居たが、突然に大きな声で、
「与茂作やあい」と呼んだ、呼ばれた与茂作は土瓶を木の根に置いて、神妙に再び其の頭と腰と足との調子を取つて前屈みにやつて来る。
「旦那呼ばれだけえの」と頭を突出して主人の顔色を窺ふと、佐吾十は俄かに慌てゝ、
「うむ、呼んだがな、用いつても別に用でも無えだが、爾だ、あのう鶴公何してるだ」と横を向く。
「今の先刻まで秣あ切つて居たが、何処さ行たか今見えねいだ」と与茂作が答へると、しばらく黙つて、
「汝あお福知んねえかな」
「いんにや、今朝つから、から見ねえやうだ尋ねて来べいか」と与茂作が言つても答がない、どんよりとした眼で地面の或一点を見詰めて居る其の顔色を、ちらりと見て与茂作は足音のせぬやうに此処を立去つた。
日が眩い程に照つて来る、蜩が次第に喧しくなる、与茂作は倉皇と逃げて行つて了う、滅多に昼寝をした事のない自分が、午前丈けを眠てつ了つたので、其間何だか恁う馬鹿にされて居るやうな気持がして、見るもの聞くもの悉くに当り散らしたいといつた風に膓の底から小焦燥たくなつて、煙管を吸うが火が消えて居る、が、直ぐに燧石を打たうともせず、其侭に煙管を咥え直した。奥の方では元気のいゝ女の声で、
「姐子居たかと窓から見れば」と一人が唄ふと、
「親父あ横座で縄綯てるよう」
と一人が和する。白い手拭で頬冠りした後姿が、ぱくりぱくりと林檎を捫ぐ毎に揺れる木葉の隙から見ゆる。
「没意らねえ」
と舌打して爺は、其方を尻目に懸けて、反対の方を向くと、追駈ける様に続いて唄ひ始める。
「色の黒い奴情夫に持てばあ」といふと、
「鴉見るたび思ひ出すよう」といふ、彼是三十分許も此那唄を聞くともなしに爺は何か沈思へて居ると突然横合の木間から、
「お福様居ねえだよ」
と与茂作が顔を出した。
「あんだ?」と向直ると
「お福様目つからねえだ、不乱に尋ねだが」
と与茂作は小さくなつて居る。
「誰れが尋ねろと言つたゞ」といふ声が稜張て居る。
「お福様知んねえがつて聞かしやつたけえに」
「聞いだは聞いだ、尋ねろと言つたで無えだ」
「はあれ、わりい事したゞかな」と与茂作は謝罪る、佐吾十は益々渋い顔して、
「用の無えもの何んで尋ねるだ」
「はあ、思え違えしたゞ、はあ善く無え事したゞ」と頻りに繰返してる中に佐吾十は何時の間にか黙つて別な思に走つたので、双方顔ばかり見合つて居たが、
「与茂作よ」といつた佐吾十の声は画然と優しくなつた。
「汝許に女娘あるだあな」
「あるだ」と与茂は急激の変化に驚きながらも直ぐ答へた。
「ありや何処かさ嫁にやつたかのう」といふ調子は平素と違はぬ。
「いんにや、やらねえ、が、其事だてのう旦那、あの通りのお多福だで、若え男あ構つて呉れせんし、本当によ旦那、嫁の口一つ懸つた事無えだ、あゝいふ面に生れたのあ、わが身も没意らねしな、親の身から見ても無情くてなんねえだ」と佐吾十の顔の雲行を見い見い、吻と息をついて、
「何処だ処でも若え中に結縁べえ思てるだに、好きだ男引張て来る手腕も無えだし」と霎時言ひ淀む。
「好きだ男つて、汝あ其んだに男持たせ度えか」といふ佐吾十の声は余程穏やかである。
「考えて見さつせい、若い時にや、男の欲しいものたあ女娘で、女娘の欲しがるものあ若え衆だによ、男はそんでも辛抱するだがの、女子はそうは行かねえだ、婿う欲しい欲しい思つてゞも、そら、口にや言へ無えだし、嫁盛りが過ぎると気が重くなつて身体が大儀になるだ。女子に男持たせるのは車の心棒に油あ塗ると同一事たて、誰だか知んねえが能く言ふたもんでな」
「其れも其んだが、汝あ只一人の女娘を外さ与れてやつたら、汝あ淋しかんべいよ」
「どうで淋しいだ、年老れば段々淋しくなるだ、揚句にや墓さ入るだからの、墓は一番淋しい処で無えかの、其んで物あ諦め様だで、淋しいものだと決めて了つて、其代りにや子供に寸時も早く面白え思させりや、死んでも後生が善いだ」
「其うだのう」と佐吾十は何か考へて居る。
「其れをお前様、自分あ淋しいからつて色気付いた女娘を無理に引張つて置いた日にや、女娘の方でも男作えて親置いてとつ走るだ、其れよか早く男当てがつてやりや、こら程大丈夫なことあ無えだてのう、汝にした処が、汝の御蔭で、此村にや親不幸が一人も出た例が無えだ、あんではあ繭の蝶だ様に、くつ着いたら夫婦にして了ふと、そらいゝ子が出来て種が取れるだよ」
「発明な事云ふだなあ」と佐吾十は初めて笑つた、与茂は猶ほ饒舌り続ける。
「汝あもう忘れたんべいよ、が、俺あがでは女房があるでの、こんでも二人で昔の話などする時あるで、若え時の事忘れねえだ、あんでもはあ其時のこと考えると、今女娘の事を何んだ彼んだと叱言でも言はれねえ様だ気がするではゝゝゝ」と笑つたが、相手が再び曇つた顔になつたのを見て、
「どうら、黒牛もう一返見て来るべい」と逃げる様に小足に急いで去つた。残された佐吾十は再び口を尖らして伏目になつたが、不図眼を挙げると、丁度一間許前の木の下にお福が黙つて立つて居たのを見て、自分に薄暗い事でもあるかの如く非常な驚き様で、つと立上り、
「汝あ何んで人の話を立聞きしてるだ」と腹立たしく言つた。
四五日の間、佐吾十は此那風に日を暮らした。近頃は滅多に彼の傍に近寄るものもない、畠の者は皆黒牛が死んだから機嫌が悪いのだといふて居る。で、其の弔詞を言ふものがあると、爺は苦りきつた顔で、
「生物だあにや死ぬ時もあるべいや」と素気なく言ふ。
或日爺は気分が悪いといふて一日朝から室に引籠つて居た、此んな時には、いつもお福を呼び通しに呼ぶのだが、此日はお福をも室の中へ入れぬ事にして、食事の時だけ、茫然と出ては飯を白湯で掻き込み、其れが済むと直ぐに引込んで物思ひに沈んで居た。
夕飯になると、爺は何となく気持よさゝうに庭を逍遥して居たが軈て与茂爺を居間に呼んで長い間しんみりと話をした。
其翌日此村中で肝を潰す様な話が与茂爺の口から他の口々へと伝へられた、其れは行火のお福と鶴吉の祝言の事で、与茂爺は飛んで廻つて村中の人を集め、早朝から家普請に取掛つた、一軒は新太とおかよの家で、一軒は鶴吉夫婦の家。
地均しをする、石を据ゑる、材木を組む、壁を塗る、百姓は大工の業にも慣れたもので二三日の間に家が出来上つた、壁が未だ乾かないといふに性急の佐吾十は、其れまで待つて居られぬといふので、急に建具、畳やら大騒ぎをやつて漸やくの事に此処に引移るまでになつた。
庭の柿の木の下に荷車が二輌、轅に酒樽の台をした一輌は、戸棚、手桶、大盥小盥、台所道具を積んで、今出る許りにして居る、一輌は丁度四五人でがやがや言ひながら椽側から持ち出す黒塗の箪笥、同じ色の長持、其れを積うと罵り噪いで居る背後から、指図がましく声掛けて居るのもある。
「ほらほらで出たぞ出たぞ」
「あんてい重ていだ、どつさり這入つてるべい」
「どつさり這入つてるべい、そらどつこい、こゝらだ」
「うんにや、もう寸尺左さ推せやい」
「右さ引けやい」
「上が明いてるだ」
「行灯を乗つけるべいよ」と一人がいへば、
「針箱がある筈だ」と一人がうろうろして居る。
「もう些と乗つけでもいゝによ」と梶へ廻つた男が一寸上げて見て言ふ。
「もう何にも無えだ」
「行火あ乗つけるべいかよ」と誰やらがいふと、
「はゝゝゝ違ひねえだ」と一同が笑ひ出して柿の木の方を見ると、佐吾十が其処に莞爾ともせずに立て居たので申合はした様に顔を見合せて口を噤んで了つた。
「旦那お目出度うごす」と大勢の中から与茂爺が鉢巻を脱て前へ出ると、
「皆なが御苦労だの」と佐吾十は人に顔を見られたのが蒼蝿いといつたやうに顔を反向ける。
「あんでもはあ、急なこんだで、旦那、村の者もはあ吃驚しましたゞ、旦那淋しかんべいに、よくはあ大事の行火手放したつての、皆なで言つてますではあ」と佐吾十の傍に進み寄る。
「村の者あ爾う言つてだかな」
「へえ、皆んな喜んでな、恁那目出度え事あ無えだに」
「鶴公何んと言つてだよ」と佐吾十は妙に言葉尻を力なく言ふと、与茂は足の先で石を掻き寄せながら、
「何んて言ふてるつてお前様、神様だあ様に有難えて言つてるだあよ」
「さうか」と、ふいと畠の方へ行つて了ふ。
途端に鶴吉とお福の二人が高笑しながら来るのに*と出逢つたので、爺は一方ならず慌てゝ立止まつた。
二人とも引越しの埃によごれて、鶴吉は襯衣一枚に半股引、お福はかちんの上つ張りを着て真白な手拭で髪を包んで居るが、色の白い丈けに耳際から襟元まで今更らのやうに美くしくみえる。
「汝あはあ行くだあかな」と自分の前にお辞儀をする二人を、熟々と見下して爺は言つた。
「はあいろいろお世話様になりましたで、あんともはあ」と鶴吉は眼をうるませながら畏こまると、
「爺さん、そんではお暇するだあ」とお福は未だ狎へる様な調子で、一寸会釈した。爺は態とらしく快活に笑つて、
「そんだら仲よく暮らせよう鶴公、お福可愛がつてやつてくれろよ」と霎時黙つて、
「お福、汝あ嬉しかんべいのう」と言つて、俯向きながら互に顔を見合はせては恥かしさうに笑つて居る二人の上から直ぐ眼を反らし、
「うむ嬉しかんべい」と再び繰り返して、
「そんだらあ行けよ」と瞳も動かさず何かに見惚れてるやうな目をしながら漠然といふ。
「そんだら旦那」
「爺さん……」と二人は辞儀をして庭の方へ廻つた、返事もせず爺は其の後影を忸と見送つて居たが急に、
「お福よう」と呼び止めた。
「あいよ」と気軽に答へて振向くと、何やら口を動かし度さうにして、俄かに思ひ返したといふ風に、
「いゝよ、もう行けよう」と手で推しやる様にして直ぐと後ろ向いて了つた。
が、直ぐと又、足を返して二人の出た方へ来て見ると、既に影もない、無格好にによきによきと立て居る柿の大木二三本、其下の土は日当りが悪いので薄い苔を見るやうにじみじみと湿つて居る、其上に酒樽やら、石臼やら木屑藁きれ、菰きれ、其那ものが他隈なく散らかつて、今までの賑やかさに引かへて大風の後の様にがらりと淋しく、夕暮近い何処かの隅で、思ひ出したやうに鳴き合はす虫の声々が際立つて聞ゆる。
と爺は茫然と薄闇の空を見詰めながら、がつかりと椽に腰を落し、今までお福の箪笥や小道具を置いてあつた畳の隅を見廻して又茫然と、
「嬉しかんべいの」といつて独り淋しさうに唇を結んだ。
其翌日から佐吾十の姿が畠に見えない、朝夕の竹螺も聞えない。牛や馬や、梨や葡萄や林檎にものいふ人もなく、地福の下でのべつに人を呼んでる其声もなくなつた。其代りに畠の隅々では無遠慮に唄つたり笑つたりする声が陽気に起つた、が、其れが底に力のないといつた様な賑やかさで、畠の中は丁度秋の空の晴れ晴れとした中に心細い気の冷えが含である様に、一体に張合の抜けたやうな淋しさが籠つて来た。
一日二日三日、四五日といふもの、佐吾十は寸時も居間の外へ出た事がない。すると七日目の夜の事である。
牛番の与茂作が一廻り畠を見廻つて家に入つたのは彼れ是れ十二時頃、空は一点の雲もなく胸の底に冷たく浸入るやうな星月夜で、其れがそよと木の葉を動かす風もなき恐ろしい沈黙の此の林檎園を謎のやうに湿つぽく照らしている。
「あんと云ふ静かな晩だべいよ」と与茂作は独りで言つて戸を閉めた。
不意の物音に眼をさました与茂作は、寝床を跳ね起ると、外は何時の間にか洪水の様な風の音、
「やあ大風が来たな」と窓から空を窺いて見ると只一面の灰色、朧の中に万樹の推し合ひ揉み合ふ影が、丁度七月の真昼に動く夕立の雲の如く真黒に上下に猛り狂ふ。
物に慣れた爺は直ぐと腰に鉈、六尺棒を取つて外に出た。
「火の用心火の用心、大風が出るだに用心さつしやい」と皺嗄れた声で村中を呼ばゝつて、真直に畠の方へ駈け出した。
山が少なく高い処といつては遠くに起伏する一帯の丘陵ばかりで、西は日本海、東は八甲田の麓まで十何里といふ間は、見る限りなき平原を、死の色といつた様な灰色の雲が瞬く間に一切れの隙もなく頭を圧へ付ける様に空を塞いで了ふと、ぶうと底に力のない様に生暖かい風が吹き出す。
「やあ風が変つたぞ、そうら変つたぞ」与茂作は狂気の如く叫んで、倒れまいと腰を屈めた。
「誰だあよ、与茂作爺けえ」と息を窘ませながら薄暗から声をかけるものがある。
「おう鶴公けえ、酷あ事になつたぞ」と立止る。鶴公は漸と追着いたが二人は何も言はすに向方を見た。
夜明けには間がない。風は今出盛りである。ごうつといふ声と共に何処やらで木の裂ける音、柵の落ちる音がすると、ひた推しに一方に推し伏せられた見る限りの林檎樹が黄色い斑を帯びた百千の猛獣の如く其枝葉の鬣を捩ぢ上げられて、反対の方に逆さに捩ぢ戻さるゝ、塗端に村の方で、竹螺の音、男女の叫びが起つた。
「爺さんは如何したゞかな」と鶴吉が思ひ出した様にいふと、
「今に来るべいか、はあ、あんて遅え事た」と与茂作は刻一刻に揉まれ行く畠物の光景を手の付けやうもないといつた様に眺めたが、物に刺された様に飛び上つた。今迄向ふの野中の大沼がどぶりどぶりと波打つて居たが、其れがどしんといふ堤の切れ出した様な音がすると、奥の地福林檎の辺で何かばりばりと壊れたので。二人は一生懸命に駆け出した。
夜が明けた、天地は只明るい、物凄く明るい、絶望の色の下に戦つている、生物の奮闘の光景が眼前に見られる。其れは此土地で悪魔よりも恐ろしいといつて居る南の生暖かい風で、之に吹かれると口も喉も埃に乾くやう、顔が燃えるやうに逆上せる、畠物は堪つたものでない、其れが又、枝摺れ葉摺れの為めに熱気を起して葉と云ふ葉は焼かれた様に爛れて赤黒く錆びて了ふ。恁ういふ日に限つて一滴の雨も持たないので。
二人が家の裏口まで来た時に、お福も駈けつけた、家の奴共は無論起きて居た、村の者は手ん手に、棒、熊手、梯子、などを持て走せ集つた。
風は益々吹きつのる。木葉、木屑、板片、屋根の柾がばらばらと勢よく飛び散る。
「家根さ上れやい、家根さ」と与茂が叫ぶと、気の利いた若者四五人はたはたと家根に上つて吹き落されまいと匍匐ひながら何かへ犇と攫つた。
「梯子を立てろ」と再び与茂が叫んだ。
庭の大きな柿の木二本其れに二本の梯子を立てゝ、風の向きに枝を支へて犇々と縄で縛つた、其れが吹き寄する度毎に梯子の足がぢりつぢりつと土を噛んで竹の如く撓へられる、一同は只ならぬ顔色に其れを見て居る。
と、中から、
「爺さま居ねえだ、爺さま」とお福が叫ぶ声がする。何といふ事なしに与茂作と鶴吉は納戸から駈け上つた。佐吾十の居間へ入つて見ると椽側の雨戸が一枚明けてあるので、其処から吹き入る風は蚊帳の裾を天井まで高く吹き上げて、主人のなき蒲団と枕とを冷やかに見せる。
「旦那やあい」
「爺さまやあい」と叫んだが其声が直ぐと風のために室の中へ吹き返へされて、其れが三人の胸に只事でないといつた様な或る恐怖を与へた。
思ひついた事があるので、三人は地福林檎の下へ駈け付けた。二十余年の風雨と戦つて今にも其の若々しい色を誇つて居た大林檎は無残にも其の真中の幹の岐れ目から真直に根元まで裂けて、美くしい木肌を露はし、巨浪の如く畳まつた枝葉を両方に抛げ出したまゝ、例令ば獅子の屍の大寂莫を以て猛り吼ゆる嵐の吹き弄るまゝに任せて居る、其の一方の枝に腰掛けて、佐吾十は殆んど魅入られたかの如く、裂目の木地を見詰めて居た。
「旦那様よ」と与茂作が言つても答がない。
「爺さま」とお福と鶴吉が代り代りに呼んでも身動きもせぬ。
二十日許前の佐吾十とは打て変つて、頬が瘠けて口元淋しく、がつかりと肉の落ちた横顔の額際の一段と稜立て見える処に鬢からかけて疎らに搦んだ白髪は、又となき衰弱を現はして居る。
「爺さま」と再びお福は呼びかけて、其の膝の上に手を置き、覗くやうにして下から顔を見上げた、と、佐吾十は突然其手を確乎と握つて瞬きもせずお福の顔を見下し、
「お福か」と夢の様に小さな声で言つたが、はつと気が付いた様に、
「お福か」と再び大きな声に呼び直し、ずつとお福の身体を膝の上に抱き寄せて、
「お福よう、汝あもう帰る事なら無えぞ、爺さまはな、爺さまはな」と言つて再び石の如く黙つて了つた。