夕方、いつものように、僕の所に、学校の友人がやって来た。僕たち二人は、数ベルスタ(ロシアの里程。1ベルスタは約1067メートル)離れた同じ村に住んでいて、ほとんど毎日のように顔を合わせていた。ブロンドの好男子で、その優しいまなざしで、娘っ子たちを少なからず、うっとりと夢心地に誘うことだってできた。僕はといえば、彼の落ち着いた態度とか、その冷静な判断といったものにひきつけられていた。
その日、友人は何か心にかかることがある、というように見受けられた。地面をじっと見つめたまま、興奮した面持ちで、自分の足を鞭でびゅん、びゅん打ちつけていた。ありありと目に見える彼の苦悩の原因を尋ねたものかどうか、ためらっていると、彼は自分の方から話し始めた。
──今日──彼は言った──つまらんことをしてしまったんだ。
僕は意外に思った。「つまらないこと」をしでかすなどということは、彼のようにいつも自分を抑制している人間にはとうてい、あり得ぬことと思われたのだ。
――朝っぱらから――彼は続けた――村で火事があったんだ。農家が焼けちまったんだよ……
――それで君が火の中に飛び込んだ、とでも言うのかい?……――僕は少しちゃかすような調子で言った。
彼は肩をすくめ、少し顔を赤らめたように僕には思われた。だが、落日の閃光が顔にさしていただけなのかもしれない。
――火が燃え移ってしまったんだ――少したってから、彼はまた続けた――農家の屋根裏部屋の大麻に、そして数分後には、藁ぶき屋根に。ちょうど、その時おれは、セー(Jean Baptiste Say 1767~1832フランスの経済学者)の本に熱中していたところだったんだが、黒い煙の渦と、煙突の裂け目から出てくる炎を見ると、やじ馬根性がもたげてきて、ぶらぶらと火事場に出かけていってしまったんだ。人々は野良仕事に出ていて、わずかな人しか見かけられなかった。二人の女たちが、この不運を嘆いていた。そしてオルガン弾きのかみさんが、聖フロリーナ(火事から守る女神)の絵を魔よけにして火事を追い払おうとしていた。空のバケツを持って農夫がうろうろと動き回っていた。主人は妻と畑に出てしまっていて、家が閉まったままなのだ、ということをおれは彼から聞いた。
「これが、こういった家屋の建築様式なんだ……――おれは考えた。――家の中にまるで火薬でも詰め込んだようになって燃え落ちていく……」
実に、二、三分のうちに、屋根全体が燃え盛る炎に包まれてしまった。煙が目にしみちくちくと刺した、そしてその炎が猛烈な勢いで吹きつけてくるので、おれはジャケットを焦がすのではないか、という恐れで二、三歩、後に退かざるを得なかった。
その間に、もっと多くの人々が、鳶口(消防用具)や、斧や水を持って駆けつけてきていた。ある者は、垣根には火の燃え移るなんの危惧もないというのに、それをぶち壊し始めていた。他の者たちは、バケツで水を火にぶっかけては、消火しようとしていた。しかしその水は火に届かないうちに、群がり集まってきた人々をびしょびしょにぬらし、一人の女を地面になぎ倒してしまった。おれは、周囲の建物には、全く危険がないと思ったので、彼らには、なんの注意も与えなかった。しかし家を救出することはできなかった。
突然、だれかが叫んだ。
「あそこには、子供がいるんだぞ、赤ん坊のスタシェックだ……」「どこに?」――口々にきいている。「家の中だ、窓の下のこね鉢(うどん粉などの粉を練る深い容器)の中だろう……さあ、窓ガラスを打ち破るんだ、そうすりゃあ、まだ助け出せるだろうよ……」
だがだれも行動に移す者はいなかった。屋根の藁は、もう炎の中に燃え落ち、対束(洋風の小屋組みで、左右対称に設けられた垂直材)は灼熱した針金のようになっていた。
告白すると、このことを聞いた時、胸が異常なほどわななくのをおれはどうすることもできなかった。
「もしだれも行かないのなら――考えた――おれが行く……男の子を救うのに、三十秒あれば足りる。時間は十分にある、だが――なんというひどい熱さだ!……」
「さあ、だれか行けよ!――女たちが叫んでいる。――おー、おめえたちは、犬畜生なのか、男と名のる価値はねえぞよ!……」――「そんなに賢ぶってるんなら、てめえが火ん中さ、入っていったらどうだよ!――だれかが人だかりの中で悪態をついている。――あそこに行ったら死んじまう、子供は雛っ子みてえにか弱えもんだ、もう生きちゃおるまい……」
「えらいことだ!――おれは考えた――だれも行かない、だがまだおれはしり込みしている! しかし――おれの中の理性がささやいた――何がおれをこんな無意味な冒険へと駆り立てているのか? だが子供はどこにいるんだろう?……こね鉢から落っこちてしまっているんじゃないか?……」
梁という梁は既に、黒焦げの炭になって、鈍い音をたてながら曲がり始めていた。
「しかし、やはりあそこに突入せねば……おれは考えた――一瞬一瞬が貴重なものとなってきていた。しかし子供を虫けらのように焼いてしまってはならぬ。――だが、もう生きてはいないのではないか?……――とつおいつこう自問自答した――もしそうだったらジャケットがもったいないってもんだ……」
と、遠くの方で女の鋭い叫び声がした。
「子供を助けてけれ!……」「あの女をつかまえていろ!……――それに答えて叫んでいる。――火の中に飛び込んでしまったら、もうおしめえだぞ……」
何かつかみ合いをしている音を自分の背後に聞き、そして同じ女の叫び声を聞いた。
「行かせてけれえ!……あれはあたいの子なんだ!……」――「しっかり彼女を胴締めにしていろよ!……」それに答えている。
もう堪えきれなくなって、前へと突き進んだ。熱風と煙がおれを包み、まるで屋根を引きはがすように、ばりばりと音をたてていた、煙突からは煉瓦が降り落ちてきていた。髪の毛がちりちりと焦げるのが感じられたので、いまいましい思いで引き下がった。「なんという愚かなセンチメンタリズムか――おれはまたしても考え込んだ――一握りの灰のために己をかかしにしようというのか?……そんな安っぽいお膳立てで、英雄になりたかったのか、と人は言うに違いない!……」
その時、突然、若い娘が農家の方へ走っていきながらおれにちょっと触れた。窓ガラスの破れる音を聞いた、そして突風が煙の渦を包んだ時、おれは彼女が、泥にまみれた足が見えるほど、身を部屋の中に傾けているのを見た。
「何をしてるんだ、気でも狂ったのか?!――おれは叫んだ――あそこには死骸があるだけだ、子供はもう生きちゃおるまい……」――「ヤグナ! ここに来るんだ!」群衆の中から叫び声が聞こえてくる。
天井が抜け落ち、火の粉が天空に向かい舞い上がっていく。おれは目の前が暗くなっていくのを感じていた。
「ヤーグナ!……」悲しみにくれた声が、何度も繰り返し言っている。
「すぐ!……すぐ!……」娘は、帰りぎわにおれのわきを走り抜けていきながら答えていた。
目を覚まして大声で泣きわめく男の子を重そうに、両手で抱きかかえていた。
――それで子供はまだ生きていたのかい?――僕がきいた。
――ピンピンしていたよ。
――それで女の子は……子供の姉さんだったのかい?
――とんでもない!――彼は言った――全くの他人さ。どこかまた別の農家の手伝いをしていて、せいぜい十五歳ぐらいだよ。
――それで彼女はなんともなかったのかい?
――スカーフと髪の毛を少し焼いてしまっただけだ。ここに来る途中、おれは彼女を見かけたんだが、前庭の所で馬鈴薯の皮をむいていたよ。そして調子外れに低い声で口ずさんでいた。何か褒め言葉をかけてやりたいと思ったんだが、突如としてこう考えたんだ。他人の不幸に対する彼女の無鉄砲とも言える熱情とおれの世俗的なことなかれ主義……おれは自分が情けなくて、彼女に対して一言も言うことができなくなってしまったんだ。
おれたちってのは、どうせこんなとこだ!……――彼はそう付け加えるように言うと、鞭で道端の野草の茎を断ち切り始めた。
空には星々が瞬き始め、涼しい風が池の蛙のげろげろという鳴き声や眠りにつこうとする水鳥のちっちっという声を運んできていた。いつもこの時間には、二人とも将来の計画について話し合っているのだが、今日は、一言も口をきこうとはしなかった。僕には、辺りの藪がこうささやいているように思われてならなかった。
――お前たちってのは、どうせこんなやつらなのさ!……