ムシの方舟

ムシの方舟

 わたしが、ムシという老人に会ったのは、春の真っ盛りの午後のことでした。

 その日、憂鬱な気分がどうしても晴れなくて、そういう時にはいつもそうしている、町のはずれにある大きな森に行きました。

 森は小高い丘の上にあって、くぬぎの大木が群れているのですが、手入れがされていず、潅木が茂り、おまけに麓の部分は藪竹が密生していますから、森というよりは山といった方がいいような森でした。

 人が森の奥に入ることもないらしく、道らしいものもありません。

 ですからわたしは、よく森には行くけど、少し離れたところから、藪と藪よりなお高く空に聳えているくぬぎの木々を、ただ見上げているだけでした。

 いつでも藪は、光を帯びた若草色をして、ザザザァと海の波が打ち寄せるように騒いでいました。風がない時でもそうでした。

 くぬぎは、一年のうちたいていは、濃い緑色の葉で覆われていますが、秋が深まるにつれて全体に黄色く透き通り、冬の風が到来したかどうかというある日、突然に一斉にその葉を落としてしまいます。

 そうした時期のある雨と風の日に、わたしは、傘をさして森を見上げていたことがありました。すると、どんぐりが、藪を飛び越してわたしの傘の上にボスボスと音を立てて降ってきて、ツツッとすべってはコトと地面に落ちました。わたしはそのどんぐりたちが、とても愛しく思えて、拾ってポケットに入れたりしたのでした。

 今日は春のさなかですから、森は緑の炎を吹き上げています。

 緑の炎は甘いような匂いをあたりに漂わせながら、のたりのたりと騒いでいます。

 突然わたしは、「ワァッーッ」と喚きたい衝動にかられました。

 わたしは、自分の気持ちが、憂鬱なんていうよりもっと激しい鬱屈した苦しみにあがいて、ここに来たことを知りました。

 わたしは、森に向かってうめくように言いました。

「藪がぽっかりと開けばいいのに。そうしたら、わたしたちは藪の奥深くに入ってしまう。わたしたちが入ると、藪は閉じるの。わたしたち以外の誰も入れない。・・・・・藪の中は、さんさんと太陽の光が満ちて暖かくて明るくて、わたしたちだけになれる・・・・・」

 わたしは、森の前に立つたびに、森が開いてわたしたちを招き入れてくれる幻想に落ちていたのです。いいえ、幻想というより祈りといったほうがいいかも知れません。

 わたしたちというのは、わたしと鳥たちです。たくさんの鳥たちが、いつもわたしの身体に張り付くようにして止まっているのです。

 わたしは、その鳥たちとともに、森の中に閉ざされたいと祈りつづけているのです。

 今日の祈りは強烈でした。

「ひらけー森っ、ひらけー森っ!」

 わたしはついに、声の限りに叫びました。

「・・・・・・・・・!」

 わたしは、息をのみました。

 藪がぽっかり開いたのです。

 わたしは、吸い込まれるように中に飛び込みました。もちろん鳥たちも一緒です。

 藪も潅木も、わたしが進む方に道を開けてくれて、わたしは、小枝にひっかかることも、木の幹に足を引っかけることもなく、どんどん森の奥に進んで行けるのです。

 森の中は、わたしが祈った通りです。太陽があたって暖かくて明るいのです。

 うしろを振り返って見ると、やはりわたしの祈りのままに、藪も潅木も閉じています。これなら、わたしたちのあとから誰かがついてくるということはありません。

 だいぶ歩いて、ふいに暗いところに入り込みました。暗いといっても真っ暗じゃありませんから、目が慣れてくると、あたりがぼんやりと見えてきました。

「・・・・・・・!?」

 わたしは、ゾクリとして目をこらしました。人の影が見えたような気がしたのです。

 やっぱり人です。白っぽい衣服の人が、ぼつぼつとわたしの方に近づいてきます。

「ごめんください・・・・・」

 何か言わなきゃと焦ったわたしは、そう言いました。

「はい、いらっしゃい」

 真っ白い長い髪の毛と、やはり真っ白い長い髭の人が、わたしのそばにきて、のんびりした声でそう答えました。

 その人が、ムシなのでした。

 

 ムシは片手を振って明かりを灯すと、次には片手を振って緑茶を出してくれました。

 わたしは、ムシは腕のいいマジシャンなのだとすぐに思って、片手を振るだけであたりが明るくなったり、お茶が出ることを不思議に思わなかったのですが、出た飲み物が、コーヒーでも紅茶でもコーラでもウーロン茶でも麦茶でもなく、緑茶だったことには感動してしまいました。

「おいしい。わたし、緑茶が一番好きなの」

 私がそう言うと、ムシは相好をくずして笑いました。・・・・・・とは言うもののムシの顔は、長い白髪と顎鬚に覆われていますから、そうはっきりとはわかりませんでした。

 でも切れ長の目の目尻とすっと高い鼻筋に、しわがモショとよりましたから、相好がくずれたとわかったのでした。

 そしてムシは、鳥たちに水と菜っ葉と穀物を出してくれました。

 わたしは身構えました。

 次にムシが、「鳥を身体に止まらせて飼うなんて、物好きだね」と言うんじゃないかと思ったからです。わたしはいやというほどそう言われてきて、そのたびに腹を立ててきたのです。

 でも、ムシは何も言いませんでした。ただ私の身体から離れて、コツコツと穀物をついばむ鳥たちを、じっと見ているだけです。

 わたしは、ムシが、「なぜここに来たんだ?」と訊くと思ったのですが、それも訊きませんでした。それなのにわたしは、いきなり鳥のこととここに来たわけを話し出しました。

「わたし、鳥人間なの」

 わたしはそう切り出しました。

 ムシは、「なんだ? こいつは?」というように、目玉をまんまるくしました。わたしはそれにかまわず話しました。

 

「この鳥たちは、みんなどこかしら傷を負って、飛べない鳥なの。たいてい人間のワナにかかったか、空気銃で撃たれたかしたのよ。はじめて翼を折られて道端に転がっていた鳥に出会った時、すごいショックだった。わたしが、その鳥をそおっと両方の掌でくるむと、トトトトトトと心臓が激しく震えていた。わたしはパニックに落ちそうなほど怖かった。助けてやらなきゃとわたしは衣服にくるんで家につれて帰ったの。・・・・・それからそういう鳥に出会うようになったの。鳥たちは怖がりで、わたしの身体のどこかに止まっていると安心するの。だからみんなを身体に止まらせておくほかなかったの。それだけなの。わたしはそれで何も変わったわけじゃなかったの。なのに、回りの人たちが変わったの。わたしの身体に止まっている鳥たちの数が多くなるにつれて、わたしを見る人の目玉の色が、茶色からちょっと金色に変わりだしたの。その人たちが変わったのは、目玉が金色になっただけじゃない。わたしの言うことやすることを、自分たちの気分や都合で理解するようになったの。

 わたしは、金色の目玉を見ると、胸がギュッとして怖くなった。金色の目玉に怯えはじめた頃から、わたしも変わりだしたんだと思う。わたしはちょっといやなことがあると、この森に来て、中に逃げ込みたいって、そんなことばかり思うようになったの。鳥をくっつけているからってわたしに金色の目玉を向ける人たちが大っ嫌いになってしまったの。わたしもその人たちを、自分の怒りのままにしか見なくなってしまったの。わたしの目玉も違う色になってきたんだと思うわ」

 わたしは、ここまで一息に話しました。ものすごい恐ろしい秘密を話してしまったような気がして、胸がしめつけられるようでした。

「ほう、そうかね」

 ムシは、それがどうした? って顔でそう言いました。

「こういっちゃなんだが、そんなにたくさんの鳥をくっつけて歩く人間に会えば、たいていは目が点になるか、目玉がひっくり返るかするわさ」

 ムシはあっさりそう言ってのけました。

 わたしは、一瞬、「あっ」と思いました。

 わたしはこれまでも、今、ムシが言った言葉と同じに言う人に会いました。その人は金色の目玉になっていて、わたしはとても怖くて、怖さを押しのけるために怒りました。

 でも、ムシには怖さを覚えませんでした。反対に、ムシがこの世のことをなんでも受け入れる人のように感じました。

 そう感じた時、わたしは、毛糸で編んだものが、一本のほつれを引くとツルツルスルスル解けていくように、身体じゅうの力が、ツルツルスルスルほどけていく感興を覚えました。にかわで固められているように緊張しきっていた心も、トロトロ溶けていくような感興でした。

 わたしは眠りたいと思いました。眠りたいと思うなんてしばらくぶりでした。わたしはここのところ、神経が高ぶって疲れているのに眠れない日がつづいていたのでした。

「ここで一休みしてから帰るといい」

 ムシは片手を振って、ふっくらと乾いた木の葉を集めてくれました。

 わたしは木の葉に埋まるように横たわりました。長い間、自分だけで眠ることのなかった鳥たちが、それぞれの木の葉に埋まって丸くなりました。

 わたしは、のびのびと身体を伸ばして眠りに入りました。

 

 目が覚めると、鳥たちが、ムシが出してくれたのでしょう、部屋の中の緑の木々に止まりピピピピチチチチさえずっていました。

 鳥たちは、いつもの怯えた風もなくのうのうとしています。

 鳥たちは、ちょっと見るとみんな同じ茶色に見えますが、おのおのなかなかおしゃれで、茶色の中にも青っぽさがあったり、黄色がかっていたり、くすんだ緑色が混じっていたりするのですが、今日はその羽がやたら美しく鮮やかに見えました。

 鳥たちはやがて部屋中をツンツン歩き回りだしました。わたしは、木の葉のふとんにうずもれたまま鳥たちを目で追っていました。来た時は気がつかなかったのですが、部屋はとても広く、まっ四角の箱のような形をしていました。壁は丸い木材が積み重なってできていて、四方にひとつずつ窓があり、細いつるを組んでできたブラインドが下がっています。

 ムシは白い衣のような衣服を床に流して、何をするでもなく無造作に座っています。ムシの視線は、鳥たちに注がれているようでした。白髪と髭に覆われた横顔は端整で静かで、鳥の動作に微笑を浮かべたりしています。

 ムシはわたしが眠っているので、起こすまいとして、こうして静かに時間を費やしているのでしょう。

 わたしは、あわてて起きました。

「かっこいいログハウスですね」

 わたしは起き抜けの挨拶にしては、間が抜けたことを言いました。

「木の根っこでできた方舟じゃ。森の地下がそっくり方舟になっておる。四方の窓を開けると藪ごしに四方の町が見える。見るか?」

 ムシは別に驚きもせず答えました。

「はこぶね? 有名なノアの方舟の方舟と同じ意味の方舟?」

 わたしは町を見たい気がしないので、はぐらかしてそう聞きました。

「いやぁ、ノアさんの方舟は、神様の告示を受けて、この世の生物の全種類のつがいを一組ずつ載せて大洪水から逃れ、新しく命をこの世に満たしたんじゃろう。この舟は、そんなたいそうなもんじゃない」

 ムシは照れたように言いました。そのあとわたしにまたマジシャンみたいな手さばきで、パンと熱い緑茶を出してくれました。

「パンの時は、上等の紅茶がいいかな」

 わたしがそうつぶやくと、ただちに香りのいい紅茶を出してくれました。

 わたしはもう、卒倒しそうなほど心が浮き立ちました。

 わたしは食事をしている間も、話のつづきを聞きたくてたまりませんでした。

 わたしは、ムシがここで何をしているのか、何でこんなところにひとりで住んでいるのか知りたくてたまらなくなったのです。これまでないことでした。人のプライバシーに関心を持つなんていやしい品性だと信じているわたしは、いつも自分のそうした好奇心を節していたのです。

「この方舟は、なぜ作ったんですか?」

「聞きたいのかね。たいそうなわけはないのに・・・・・」

 ムシは苦笑いをして、こっくりと頷きました。まるで幼児が無心に頷いた感じでした。それからはにかんだ表情で話しはじめました。

 

「昔、わしは、神に仕える牧師をしておってな、人間の心を救うと信じて、毎日毎日愛を説いとった。・・・・・わしの信者にある男がおった。男は、しょっちゅうほかの信者と諍いを起こす奴でな、信者たちの間で、『あいつは愛を知らないだめな奴だ』と言われておった。わしはその男を救ってやりたくてな、愛を持てと言いつづけた。

 そうしたある日じゃった。わしは聴衆を前に、『助けを求める人があったら助けてあげなさい。それが愛です』と、愛について話しておった。

 そこに男がやってきた。男は、バケツを持っておった。男は、『あんたの言う愛ってやつはこういうことだよ』と言って、わしの口にバケツの中のものを押し込んだ」

 ムシは言葉を切りました。ムシの顔からはにかんだ表情は消えて、目に強い光がこもっていました。

「何を押し込まれたんですか?」

「クソじゃ」

「えー! ウンチ!? うそでしょう!」

「いや、ほんとだ。みんなは恐ろしい悲鳴をあげ、なかには気絶した者もいた。わしは激昂した。『なんて奴だ、わしの愛がわからないか! 可哀想な奴め!』と罵った。

 男はわしの罵りを、薄ら笑いを浮かべて聞き、わしにつばを吐いて出て行った。そのあと、男は行方をくらました。

 男が消えた後、わしは男の家に行った。男の家は凄惨そのものだった。ふすまも壁も障子も原形を留めないほど壊れ、悪臭がたちこめていた。

 わしは顔をゆがめた。この家の凄惨さが、男が悪の存在だったことを証してると思ったからだ。

『愛のない奴はどうしようもない』

 わしは吐き捨てるように言った。

 日がたっていった。なぜだかわしは、日に日にいら立ちがつのっていた。何にいらいらするのかわからないが、とにかくいらついて仕方がなかった。

 自分の心を静めようと、わしは川のほとりに座り流れを見ておった。すると小さな虫が流されているのが見えた。虫は必死にもがき岸に寄ろうとしているようだったが、どんどん流されていった。その時、一枚の木の葉が風に飛んできて虫のそばに落ちた。虫は懸命に木の葉に這い上がった。わしは、(虫でも、助かりたいと力を尽くすんだなぁ)と思った。そう思ったあと、わしは呆然とした」

「・・・・・・・・・・・・・・?」

 わたしは、ムシが何に呆然としたのか見当がつきませんから、黙ってムシの顔を見つめていました。

「わしは、SOS、SOSと鳴り響く信号の音を聞くこともできんくせに、『助けを求める人を助けなさい。それが愛というものです』と言っていたんだ、ということがわかったからじゃ。と同時に、わしにクソを喰わせた男は、何らかの深い苦悩を持って、わしに助けを求めていたのだということもわかった。あいつの家のあの凄惨なありさまは、あいつの苦しみの深さの証しだったんだ。あいつは、いまや流れに沈みそうになりながらもがいていた。わしは一枚の木の葉を投げてやればよかったんだ。大急ぎで何も言わず、ただただ木の葉をあいつに投げることに力を尽くせばよかったのだ。何の木の葉がいいかなぞ、そんなことはどうでもいいのだ。とにかく、つかまれ、つかまれ、これにつかまれっと、木の葉を・・・・・」

 ムシはそこで言葉を切って黙り込み、下を向き、胸をさすりました。

 わたしは、ムシが痛みを耐えているのだとわかりました。

「わかった! この方舟は、木の葉なのね。その男の人のための」

 わたしは、明るい声で言いました。

 するとムシは、頭を横に振って、「もうずいぶん昔のことだから、あいつのためといっても、あいつが乗ることはあるまいよ」とまたはにかんだような顔で言いました。

「昔っていつ頃のことですか?」

「さぁ、百年にはなるかな」

「え! 百年?」

 わたしはびっくりして、「あなたはいったいいくつなんですか?」と聞きそうになりました。聞くのをやめたのは、わたしも、鳥と暮らしはじめて百年ぐらいになることを思い出したからでした。

「わたしたちって、信じられないくらい年をとっているんですね」

 わたしはクゥクゥ笑いながら言いました。

 それからわたしと鳥たちは、ムシの方舟で何年も何年も時を過ごしました。

 わたしは、ずうっと幸せでした。ここには疑いも妬みも誹りもはかりごとも流言も中傷もウソもありませんでした。

「わたしは何もいらない。バッハの音楽さえ聴ければ」と言えば、ムシがかなえてくれました。

「美しい絵さえあれば、ほかの何もいらない」と思えば、ムシが出してくれました。

 たまにムシは、わたしに、「ここを去って町に戻った方がいい。町で自分のすることをして生きるのだ。ここにいて生きてるといえるかね?」と言うことがありましたが、わたしはわたしを心配してくれるムシの思いやりを感謝して言うのでした。

「何もいらない。美しい気持ちに満ちたここにいることさえできれば」

 鳥たちも、ムシの方舟の中でゆったりと生きていました。

 本当に、ここにあるのは、美しいものばかりでした。

 

 ある日のことでした。

 ムシの胸のあたりに、赤いものが白衣をつきぬけて出ているのに気がつきました。

「なんですか? その赤いものは」

 わたしはそう言って、それにさわろうと手を伸ばしました。

「さわるなっ」

 ムシが短く叫びました。

 ムシは叫んだあと、はっとしたように、「い、いや、これはなんでもないんじゃよ」といつもののんびりした言い方で言いました。

 わたしは、すでにムシの叫びの中に、わたしを拒絶するものを感じ取っていました。

 わたしは驚きのあまり目を見開いて立ちすくんでいました。

 ムシの赤いものは、わたしの見開いた目を射らんばかりに、みるみる伸びてきました。

 ムシは苦悶の表情を露にしてきました。

 やがて赤いものはムシの胸を引き裂いて、姿をあらわしました。

それは鳥のくちばしのようでした。

ムシは喘ぎの中で何かを叫びました。

「・・・・・・・・・・・去れ!」わたしは、凍りつきました。

ムシは、「アクマよ、去れ!」と叫んだのです。

「アクマ? 悪魔か?」

 わたしは、イエスが自分を堕落させようとさまざまな形で近寄ってくる悪魔をことごとく見破り、「悪魔よ、去れっ!」と叫んだということを思い出しました。

「何がなにもいらないだっ、バッハが聴きたい、絵が見たいと、欲しいものだらけじゃないかっ。この強欲者めっ。町に戻って、己の手で欲しいものを得よ。恥辱にまみれることを恐れて、どうして美しいものを手に入れられるかっ」

 ムシはそう言った直後、「ああああーぁ」という絶叫を残して砕け散りました。

 ムシが砕けて消える瞬間、わたしははじめて知ったのです。

 ムシは見る影もなく痩せ衰えていたのです。ムシのマジックは、ムシの命と引き替えになされたものだったのです。 

 わたしは、気も狂わんばかりの錯綜の中にひとり取り残されていました。 

 その時、鳥たちが、ピリピリリリリリと騒ぎました。

 方舟の天井に、真っ赤な鳥が止まっているのです。

 大きさはカラスぐらいで、頭に冠のような羽をいただいて、尾っぽがしゅっと長い鳥でした。

 全身鮮やかな赤い色で、まるで天井に紅蓮の雲が巻いているような、あるいは、そこだけボウボウと燃えているように見えました。

 目玉をキョトリと動かすと、黒く光って見えましたから、目玉だけは黒いようでした。

 赤い鳥は、わたしが昔住んでいた町の方角の窓わくに飛び移りました。ムシが砕けた時にそうなったのでしょう、窓は壊れて、外が見通せました。

 外は今や朝を迎えようとしている時のようでした。東の空の果てに、ひとすじのオレンジ色の光が立ちのぼろうとしています。

 赤い鳥は、その空に向かって飛ぶようでした。

「待って」

 わたしは、赤い鳥に言いました。

 わたしは、ポケットからどんぐりを取り出しました。ずうっと昔、この方舟を覆ったくぬぎから飛んできたどんぐりです。赤い鳥は、わたしの手からどんぐりをひとつくわえて飛び立ちました。

 かってわたしの身体に止まっていた鳥たちも、わたしのてからどんぐりをひとつずつくわえて飛び立ちました。

 鳥たちは、翼が折れているのに飛び立ちました。

 わたしは、最後の鳥が飛び立っていった時、はじめて涙を流しました。

 そして、わたしは町に戻ろうと、ムシの方舟を出ました。

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つばさ

 秋の入り陽が、空をレモン色に染め上げている時です。

 丸い青い胴体をした小型のプロペラ機が、ブルルルと音を立てて、南の方から北に向かって飛んでいました。

 その丸い青い胴体から、楕円形の銀色のつばさが出ていました。

 富士号です。

 富士号は、銀色のつばさをキラキラさせて、水平飛行のカモメのように、ゆるやかに風を切っています。

 そろそろ町が見えてくるころでした。

 パイロットの藤山さんは、いずまいをただしました。

「離陸と着陸の時は、何十年やっても緊張するもんだ」

 藤山さんは、となりにいるパイロット見習いの坂入さんに言いました。

「そうですか」

 坂入さんは、めんどうくさそうに答えました。藤山さんの飛行機に乗るたびに同じことを聞かされて、耳にたこができてしまっていたのです。

「なにせ飛行機の事故は、離陸と着陸の時が多いんだ。そんなことにでもなったら、南の島に薬や食料を運べなくなる」

「・・・・・・・・・・・・・・・・」

「いいか坂入。パイロットになったら、これだけは忘れるな。操縦は心だぞ。心ひとつで、飛行機は静かにも荒々しくもなる。技術も大事だが、何よりも大事なのは心だ」

「・・・・・はい」

 坂入さんは、ぶすっと答えました。

 町が見えてきました。

 その時です。

 藤山さんは、右のつばさに何かを感じました。

「?」

「またですか」

「うん、まただ」

「へんですよ。つばさに何かがさわったり乗ったりすることはありませんよ。もしあったとしても、それがわかるなんて・・・」

「いや本当なんだ。ほれ、肩に小さな木の葉が、はらっと落ちてもわかることあるだろ。あの感じなんだ」

「フーン」

 坂入さんは、奥二重の目を細めて、藤山さんの薄い髪の毛や、しわの深い横顔や、制服がはみ出そうにでぶっとなった腹を、そうっと盗み見しました。

「最初に感じたのは、七年前だったかな」

「えー! 七年も前から?」

 坂入さんは、思わず大声を出して、無遠慮に藤山さんを見つめました。

 藤山さんは後悔しました。馬鹿にされたような気がしたのです。

 自分が馬鹿にされるのはどうでもよかったのですが、つばさに何かがさわる感じを馬鹿にされるのは、いやな気がしたのです。

 藤山さんは、昔、戦争に行ったことがありました。

 ビルマという国に行き、ある村を占領していた時のことです。

 その日、藤山さんは水汲み当番で、村のはずれにある井戸に水を汲みに行きました。

 足を怪我していて、ゆっくりゆっくり歩いていましたから、足音が立ちませんでした。

 井戸に行きますと、髪のばさばさ伸びたビルマの子供が、汲み桶の中に顔を突っ込むようにして、水を飲んでいました。

 藤山さんは、離れたところで、その子が水を飲み終わるのを待っていました。

 子供が気配を感じたのか、さっと振り向きました。

『女の子だ。十歳ぐらいかな』と、藤山さんは笑いかけました。

 女の子は棒立ちになって、睫の長い黒々とした瞳を見開いたまま、藤山さんを見つめました。

 水桶が、女の子の足下にころがりました。

 女の子の骨ばった裸足の小さな指が、ぬかるみになった地面にくいこむのを、藤山さんは見ました。

「怖いんだね、ぼくが。・・・・・ぼくたちの隊が村の人にひどいことをするから・・・・・いいんだよ、いいんだよ。ぼくは何もしないよ。どうか、怖がらないでおくれよ」

 藤山さんは、日本語でそんなことを言いながら、女の子に近づきました。女の子は、顔をわあっと歪めて逃げて行きました。

 藤山さんは、つばさに何かがさわる感じをおぼえるたびに、なぜか、あの時の女の子のことを思い出してならないのです。そして、気持ちが寂しいような不安なような思いでいっぱいになるのです。

「で、つばさにさわるやつは、ほかのところでも出るんですか」

「いや、帰りのコースの、町が見えはじめたところだけなんだ」

「で、そいつ、さわるだけですか」

「ああ、さわるだけなんだ。そっとな」

「へー、へっへ」

「・・・・・・・・・・・・・・・・」

藤山さんは、あとは黙って、操縦かんを握っていました。

 

 それから、何日かたちました。

 藤山さんは、朝、会社に出ました。今日は、南の島に薬や食料を運ぶ日でした。

 藤山さんは、月に何回か、南の島に行くのが仕事でした。

「藤山さん、社長がお呼びです」

 社長の秘書が呼びに来ました。

「お、そうか。若社長にはこの頃会ってないが、元気にしているか」

「お会いになればわかります」

「うん、そりゃそうだ」

 藤山さんは、苦笑いしながら、社長室に向かいました。

『ヤレヤレそっけない。・・・前の社長が生きていた頃は、こんなじゃなかったが・・・・・』

 前の社長と藤山さんは戦争中に知り合って、ずうっと兄弟のように仲良くしていました。二人とも海軍で、輸送機のパイロットをしていたのです。

 戦争が終わって日本に帰ってから、前の社長は航空会社をつくりました。

「みんな、物がなくて困っている。飢えている。日本中に薬や食料を届けたい。できるだけ早く安く」と言って。

 藤山さんはその考えに賛成して、協力してきたのでした。

 でも、前の社長は、数年前に病気で亡くなり、息子さんが社長になったのでした。

「よお、元気でやっとるか」

 社長室に着くと、藤山さんはノックもしないで中に入り、太い声で言いました。

 広い明るい窓を背に、立派な椅子に座って電話中だった若社長は、あわてて電話を切りました。

「藤山さん、部屋に入る時は、ノックぐらいして下さいよ」

「いやぁ、わるいわるい。つい前からの癖でね」

「もうおやじの代とは違いますよ。会社も近代的になったんです」

「や、そうだな。気をつけるよ。ところで、用事は何だい?」

 若社長は、部屋の隅の応接コーナーに藤山さんを案内しました。

 ソファに座ると若社長は、テーブルの葉巻を口にはさみ火をつけました。葉巻の煙りを、天井にぷあぁと吐くと、ゆっくりと顔を藤山さんに向けました。

「藤山さん、言いにくいんですがはっきり言います。今月いっぱいでパイロットをやめてもらいたいのです」

 藤山さんは、一瞬ポカンとして、それから膝を打って笑いました。

「ウワッハッハッハ、人が悪いなぁ。そんな冗談を言って」

「冗談じゃありません。藤山さん、あなたはもう六十半ばだ。パイロットは無理です。降りて下さい。もしものことがあったら大変・・・・・・」

「もしものことなどありはしない。自分のことは自分が一番よく分かる。時がきたら潔く降りるよ」

「いいえ、そうはいきません。心配です」

「わしのことは心配してくれなくていい。大丈夫だ」

「・・・・・会社が心配なのです。事故でも起こしたら大損害ですからね」

「わしが、事故を起こすというのかね」

「藤山さんが腕のいいパイロットだということは、みんな知っています。ですが・・・年には勝てない。・・・そのう・・・惚けたりもするでしょう」

 藤山さんの顔が青ざめました。社長や会社の人が、自分をどんな風に見ているのかやっと分かったのです。

「南の島には誰が飛ぶ? 富士号には誰が乗る?」

「南方面には、坂入を飛ばします。富士号は引退です」

「引退?」

「おしゃかです。潰すのです」

「なんだと! おしゃかだと! 潰すだと! とんでもない。あいつはまだ飛べる。あいつは、お前さんのおやじさんの願いのこもった一号機だ。わしは、大事に手入れをしてきた。あいつは、どれだけ人々の暮らしに役立ってくれたか。今でこそ南の方にしか行ってないが、戦後は、日本中のあちこちに行ったんだ。みんながあいつを待っていたよ。今だってそうだ」

 藤山さんは窓際に立って、滑走路で自分が来るのを待機している富士号を見つめながら言いました。

「それは違いますよ」

若社長が、藤山さんの隣りにきて言いました。

「みんなが待っていたのは、富士号でも藤山さんでもありませんよ」

「・・・・・・・・・・・・・・・・」

「品物ですよ。薬や食料・・・・・衣服、靴、身を飾る物。何よりも金、金になるもの」

「・・・・・・・・・・・・・・・・」

「ですから、今度、新しい飛行機を入れるのです。品物がもっと積めるやつ。金になるやつをね」

「金のために、富士号を潰すのか・・・」

「きれいごと言ったって、おやじがこの会社をつくったのは金儲けのためでしょう。けっこう儲けていたんでしょう。おかげでぼくは、ひもじい思いをしなかった。藤山さんだって・・・・・」

「もういい! 何も聞きたくない。何も言わん。言っても今のお前さんには通じないだろう」

「そんなにがっかりしないで下さいよ。藤山さんには、パイロットはやめてもらいますが、重役として会社に残って・・・」

「いや、いい。・・・・・じゃ、今日の飛行に行くよ」

 

 その日の帰りの飛行中のことです。

 空は、やはり、レモン色に染まっていました。

 今日は、坂入さんが乗っていませんから、藤山さんはひとりで操縦席にいました。 

 町が見えてきました。

 すると右のつばさに何かがさわりました。

「あっ」

 藤山さんは、目を見張りました。

 空中に、ぽつんと何かが浮いているのが見えたのです。

 藤山さんは、飛行機をUターンさせて、スピードをぎりぎりに落とし、さっきのところに戻りました。

 小鳥でした。

 茶色の小さな鳥でした。

 小鳥は、飛行機が近づいても避けようともせず、同じところに浮かんでいるのでした。

 藤山さんは、何度もUターンをしてそれが分かったのです。

「小鳥さん、飛行機のつばさに乗ってごらんよ。乗ってごらん」

 藤山さんは、窓を開けて大きな声で言いました。通じるなんて思いませんでしたが、何か声をかけずにはいられない気持ちになったのです。すると、小鳥は小首をコクンとかしげて、つばさの上にピョンと飛び乗ったのです。

 そして小さな茶色の瞳を、藤山さんのほうに向けました。

 まるで、藤山さんの言葉が通じたようにです。

 藤山さんはびっくりして、呆然としました。

『ま、まさか』

「コンニチハ」

 なんと、小鳥は、そう言ったのです。

『ワ・ワ・ワ・・・・・』

 藤山さんは、口から泡を吹きそうになりました。

「コンニチハッテイッテルンダ、ボク」

 小鳥が少し怒ったように言いました。

「や、や、こ、こ、こんにちは」

 藤山さんは、あわててあいさつを返しました。

「ボク、ウレシイ。フジヤマサンガ、ボクヲミテクレテ」

「あ、あれ、わ、わしの名前を知っているのかい?」

「ウン。ダッテボク、ズートサッキノトコロニイタカラ、フジヤマサントサカイリサンノハナシ、イツモキコエテタヨ」

「いつも、あそこにいるのかい?」

「ウン、シチネンマエカラネ」

「七年前から・・・ひとりでかい?」

「ウン、マッテタンダ、ダレカガボクヲミテクレルノヲ」

「君は鳥なんだから、自分で飛んでいけばいいじゃないかね! 自分で誰かに会うんだ。つばさがあるだろう。なぜ、自分のつばさで飛ぼうとしないんだね? わしにはわからんね!」

 藤山さんは、だいぶ腹を立てて言いました。ついさっきまで、小鳥が話をするのに呆然となったことなど忘れて、むきになっていました。

「ダッテ、ボク、トベナインダ。ツバサガナインダ」

 小鳥が言いました。

 藤山さんは、はっとしました。小鳥はつばさをもっていなかったのです。

「ボク、ハジメテソラヲトンダヒ、ヒコウキニ、ツバサヲトラレテシマッタンダ」

「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」

「グングンボクハ、ソラニアガッタ。ビュンビュンカゼガナッタ。マルデ、ボクノタメニ、マーチヲエンソウシテイルヨウダッタヨ。カゼッテネ、ヤマヤ、モリヤ、ウミヤ、カワノイロニナルンダヨ。タクサンノトモダチトモアッタ。ケンカシタリ、ナカナオリシタリ、オオゴエヲダシアッタリシテ・・・ボクハ、モットモットソラタカクアガッタ・・・」

「そして、飛行機がきたのかい・・・」

「ウン。・・・ボク、トビタイ! ジブンノツバサデ! ボク、キットトベルヨネ。ダッテ、フジヤマサンガ、ボクヲミテクレタンダモノ。キットトベル・・・」

「・・・そうとも。きっと飛べるよ。わしが、わしが翼を作ってあげよう」

「ワ、ホントウ?」

「今夜中に作ろう!」

「キットダヨ! ボク、ギンノツバサ。フジゴウミタイナギンノツバサ!」

「いいとも。銀のつばさ」

 藤山さんが、飛行機を小鳥のいたところに戻すと、小鳥は、すっとつばさから降りて、宙に浮かびました。

 藤山さんが、一緒に家に行こうと言ったのですが、小鳥は、ぼくのいるところはここだと言ったのです。

 藤山さんは、富士号を町に進めながら、何度も小鳥の方を振り返りました。

 レモン色の秋空の中で、小鳥はだんだん小さくなり、やがて茶色のポツンとした点のようになり、塵のようになり、すぐに見えなくなりました。

『ああしていたんだな。ずーっと。嵐の日も雪の日も、夜の真っ暗な闇の間も・・・』

 

 藤山さんは、庭の竹を切って、細い糸よりももっと細いひごを作りました。炭火を熾してひごをあぶりながら、つばさの形に組みました。それから、何年か前に亡くなった奥さんが元気だった頃、人形を作る時に使っていた和紙と銀粉を出しました。

 その和紙をひごに張りました。

 藤山さんは、こうしている間、何度も小鳥の姿を思い浮かべました。大空にひとりぽつんと浮かんで、誰かに見てもらえるのを、じーっと待ちつづけている姿です。

『もしかしたら、永遠に誰にも見てもらえなかったかもしれない。・・・それでもあの小鳥は、待ちつづけたに違いない。誰かに見てもらうことだけのために、だまって、いつまでもいつまでも・・・』

 藤山さんは、そう思ったとたん、わぁっと叫びたいような、息が止まりそうな痛みを胸に感じました。

 藤山さんはこれまで、人間は思いやりが大事だ、心が大事だと信じてきました。まわりの人にもいつもそう言ってきました。

「そうとも、わしは、どんな時でも人に穏やかにしてきた。言葉を荒立てたり怒ったりしたことなんかなかった・・・戦争中だってそうひどいことをしなかった・・・わしの飛行機が、小鳥の翼をもぎ取ったのだとしても、わざとじゃないんだ。どうしようもない不幸な偶然だったんだ。仕方なかった」

 藤山さんは、自分にそう言い聞かせましたが、そう思えば思うほど、胸の痛みは激しくなるのでした。

『何だこの痛みは! わしが何をしたっていうのだ!』

 藤山さんの脳裏に、ビルマの井戸のそばで会った女の子のことが浮かんできました。

 恐怖で大きく見開いた目や、ぬかるみにくいこんだ痩せた足の指などが、今見えてるように蘇ってきたのです。それと同時に、あの時、自分が言った言葉が、がんがんと頭のなかに響いてきました。

「怖いんだね、ぼくが。ぼくたちの隊が、村の人にひどいことをするから。・・・・・ぼくはなにもしないよ。怖がらないでおくれよ」

 藤山さんは、その言葉を反芻しながら、身体を震わせました。

『ぼくたちの隊がひどいことをするからだって? ぼくはなにもしないよだって?・・・・・わしは、なんて恥知らずだ。今だってそうだ。わしは言葉を荒立てたり、怒ったりしなかった。だから人間を傷つけない、思いやりのある人間だって思っていたんだ。わしは自分がそういう人間だと思うことが大事で、実際は、思い上がって傲慢ないんちき野郎だ・・・・・』

 藤山さんは、床に頭をがんがんぶつけました。

 

 藤山さんは、和紙を張ったつばさの形を整えると、銀粉を丁寧に塗りました。

「できた!・・・・・いや、だめだ! こんなんじゃだめだ。大き過ぎる」

 藤山さんは、またひごを削るところからやり直しました。

 藤山さんの、はっはっ、はっはっ、しぇっしぇっ、しぇっしぇっという息づかいが、真夜中の空気を激しく震わせていきます。

 藤山さんの額やこめかみに、汗がじっとりとにじんで、やがてしたたりはじめました。

「いいつばさをつくるぞっ。小鳥さんのやつがびっくりするような、かっこいいよく飛ぶやつをな。・・・・・わしだって負けんぞっ。飛ぶことにかけちゃあ誰にも負けん。待ってろよっ、小鳥さんっ」

 藤山さんの胸は、わくわくと高鳴ってきて、そう言わないではならなくなったほどでした。この時、藤山さんの心から、小鳥を可哀想に思う気持ちも、自分を責める気持ちも消えていました。ただただ、いいつばさを作りたい、という気持ちだけでした。

 空がうっすらと白くなってきました。

「できたぞっ! 銀のつばさあっ!」

 藤山さんは、少年のような歓声をあげて、銀のつばさを高々と頭上にあげました。

 

「ボク、ユメヲミテイルヨウダヨ」

 小鳥は、藤山さんの膝の上で言いました。

「ニアウカナァ」

 小鳥は、新しいつばさを広げました。

「似合うさ、かっこいいぞ」

「ヘヘヘ」

 小鳥は、嬉しそうに恥ずかしそうに笑いました。

 藤山さんは、小鳥に、つばさをもぎとったことを詫びたいと思いました。つばさをもぎとられたことを、恨んでいるか聞きたいと思いました。

「ボクトベル! ジブンデトベル! トブヨトブヨ。カゼノマーチニノッテ! ヤォー!」

 小鳥は、思いっきりはしゃぎました。

 小鳥は、本当に幸せそうでした。

 藤山さんは、開きかけていた口をつぐみました。

 小鳥に詫びたり、恨んでいないかを聞くのは、自分の気持ちを楽にするだけだとわかったのです。

『結局わしは、自分が一番かわいいに過ぎないんだ。でも、もう、そんなことでくよくよするのはやめよう。わしは、飛ぶんだ。小鳥さんと一緒に飛びたいんだ。力いっぱい飛びたいんだ。飛ぶぞっ!』

 藤山さんは、小鳥に言いました。

「小鳥さん! 飛ぶかね!」

「トブヨ、トブヨ!」

「よおし、負けんぞおっ!」

「ヨオシ、マケンゾォッ!」

「行くぞおっ!」

「イクゾオッ!」

「そおれっ!」

「ソオレッ!」

 ブルブルブルルルルルルルルルルルルルるるるるるるるるるるるるるるる

 バタバタバタタタタタタタタタタタタタタタタタタタタタタタタタタタタ

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

バタタタタタタタタタタタタタタタタタンンンンンンンンンンンンンンンン

ブルルルルルルルルルルルルルルルルルンンンンンンンンンンンンンンンン

夜明けを告げる光の中を、大きなつばさと、小さなつばさが、銀色にきらきら光って飛んでいきました。

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モクジ

 モクジの村は、今年も不作でした。

 大雨と日照りがちぐはぐに襲い、黄金色に実った米を刈り入れる時期に、稲は、薄茶色に枯れて、田んぼに重なり合っているだけになったのです。

「どうすりゃいいんだ」

 モクジはうめきました。

 米はとれないのに、代官様から、年貢米はいつもの年通りに出すように、というお達しがあったのです。

「田んぼが死んでしまったのです。どおか、年貢米を少なくして下さい」

 この前、名主さんを先頭に、村の人々が代官様にお願いに行きました。

「年貢米を取るのはわしではない。領主様だぞ。わしは、取り立て役なだけだ。もし、領主様に直接お願いしたって無駄だ。領主様が、お前ら百姓風情に、情けをかけるものか。偉い領主様から見たら、百姓なんぞゴミみたいなもんだ。ウワッハッハッハッハ」

 代官様は取り付く島がありませんでした。

 

 モクジの家から、遠くに代官様の家が見えました。といっても、家は少ししか見えません。高い石塀に囲まれていますから、その石塀の上に出る屋根だけが見えるのです。

 それから、高い石塀をはるかに突き出てそびえる、銀杏の樹が見えました。

 代官様の銀杏の樹は、金色の葉をうっそうとつけて、秋の終わりの陽ざしを絢爛と受けていました。

「代官様の銀杏の樹は、きらきら光って、まるで小判を着飾っているようだ。おれの田んぼの実りをみーんな持っていっちまったんだ」

 モクジは、朽ち果てた田んぼに仰向けに寝っころがって、そうつぶやきました。

 モクジは、やりきれない気持ちでいっぱいでした。代官様の言った言葉を思い出すたびに、怒りとも悲しみとも言えない、複雑な気持ちに胸が塞がってくるのです。

「偉い領主様から見れば・・・ゴミ・・・」

 モクジは唇をかみました。

「おれは、ゴミじゃないぞ。食べたり飲んだりしなきゃ生きていけないんだ。・・・・・考えたり、思ったり、感じたりすることだってするんだ。領主や代官とどこが違う! チクショウ!」

 その時、雀が、目の上を飛んできました。

 モクジは、小石をひとつ雀に放りました。

 コツン

 小石は、雀にあたらず、モクジの額に落ちてきました。

「いてっ」

 モクジは、額を押さえて飛び起きました。

「くそ、雀までおれを馬鹿にしやがって」

 モクジは、もうどこかに飛んでいった雀に向かって罵りました。

「何をひとりでわめいているんだね」

 近くで声がしました。

 隣りの田に、サザン爺さんという知り合いのお百姓さんが、鎌を持って立っています。

「鎌なんか持って何してるんだ?」

「稲刈りだ」

「稲刈りだって! あきれた爺さんだな。米のついた稲はないぞ」

「ああ、だけど、枯れた稲を刈って田んぼを耕すんだ。そして麦の種を蒔くんだよ」

「フン。そしてまた、嵐と日照りと代官にみーんな持っていかれる。無駄な努力だよ」

「そうかもしれない。この三年間そうだったもんな。それでもわしゃ麦を植える。田んぼを生き返らせてやりたいんだ」

 サザン爺さんは、腐った稲に、ザクッと鎌を入れました。ザクッザクッと稲は刈り取られ、サザン爺さんの顔には、みるみる汗が浮いてきました。

 モクジは突っ立て見ていました。

 突然、モクジは、顔を歪めて胸を押さえました。何かが胸の中に、ころんところげこんだ気がしたのです。

「うおおっ」

 ころんところがりこんだものが、モクジをせっついて吠えさせました。

「なんだなんだ。代官を許しちまうのか。領主を許しちまうのか。おれはいやだ。おれは悪くないんだからな。悪いのは、嵐だ。日照りだ。代官だ。領主だ。銀杏だ。雀だ。それから、お前だあっ」

 モクジは、もくもくと鎌を振るっているサザン爺さんに、腐った稲を投げ付けると、一目散に家に駆け込みました。

 家に入ると、流しの出刃包丁を手に持ちました。

 刃が鈍く光って、青ざめたモクジの顔を映しました。

 頬がこけて、目がくぼんで、暗い顔です。

 悲しそうですらありました。

 胸のころんが、ごそごそと動きました。

「腹がへったあっ。何もないぞおっ。おれは押し込みをやるぞおっ。押し込みモクジだあっ」

 

 モクジは、包丁を薄汚れた手拭で巻き、懐に入れて外に出ました。

 この日はとても上天気で、おてんとう様がせいいっぱい照っていました。

 おてんとう様は、ほんのりみかん色の穏やかな陽ざしを、山にも田にも、代官様の銀杏にも、それから、前屈みになったモクジの背中にもそぞいでいました。

 モクジは、山を越えて、西の村に入りました。

 おてんとう様が大分沈んできました。

 冷えかかった陽ざしに、秋の終わりの風が混じって、モクジは、「さぶっ」とつぎはぎの着物の襟をかきあわせました。

 西の村の田んぼも、モクジの村の田んぼと同じように荒れていました。そろそろ夕餉の時刻というのに、白い煙ひとつ立ち上っていません。

 遠くの家から、かんだかい怒鳴り声と、赤ん坊の弱々しい泣き声が聞こえてきました。

 赤ん坊は腹がすいて、大声で泣く元気もないのだとわかりました。

 モクジは耳を塞いで小道にうずくまりました。

「ああ、いやだ、いやだ」

 モクジはうなだれて、いま来た道を歩きはじめました。

「おれはもう、何もする気がなくなった」

 そうつぶやいた時です。

 モクジの前に、カサカサと枯れ草を踏み散らして、一匹の黒猫があらわれました。

 黒猫は、モクジの足元を擦り抜け、西の村の家々の方に駆けて行きます。

 と今度は、真っ赤な隆々として鶏冠をつけた雄鶏があらわれました。そして黒猫の後を追って、コオッコオッと羽を広げて駆けていったのです。

 黒猫と雄鶏は、先になり後になりして行きます。

 時々、黒猫が雄鶏の背中に飛び乗ったり、雄鶏が黒猫の長いしなやかな尾をつっついたりします。

 そのたびに、ニャアゴウニャアゴ、コォココココと声をあげます。二匹は、とても楽しそうにじゃれあっているのです。

 モクジは、「フフフ」とほくそ笑みました。

 胸のころんがもぞりと動きました。

「なんとまあ、つやつやと油を塗ったように毛並みのいい黒猫よのお。あの雄鶏の見事なこと。どっしりと重そうで、羽の白さは雪のよう。鶏冠ときたら、赤い花が咲き誇っているようだ。こりゃあきっと、お金持ちのお大尽の家で飼われているに違いない。・・・・・よしっ。あの二匹の後をつけて行って、押し込み強盗に入ってやろう。おれが腹をすかせているというのに、猫や鶏をのうのうと飼っている奴が悪いんだ」

 

 黒猫と雄鶏は、ある一軒の家の庭先に飛び込んで、ニャアゴウ、コオコオコココと言いながら、家の中に入って行きました。

 モクジは拍子抜けして首を捻りました。

「なんだ、この家は。ぼろぼろの小さい家じゃないか。おれの家より貧乏たらしい」

 モクジは帰りかけました。貧乏な家に押し込みに入ったってしかたありません。

「あ」

 モクジは帰りかけていた足を止めました。

 草のペンペンはえた藁葺きの屋根の向こう側に、金色に輝くものがちらと見えたのです。

 銀杏です。

 屋根よりも低い小さな銀杏でしたが、葉が夕陽に染まって、金の炎のようでした。

『代官ちの銀杏と同じに、小判色に輝いている』

 モクジの胸がぐぐっと熱くなりました。

 モクジは、懐から出刃包丁を出しました。

 柄に手拭を巻き付け、切っ先を前にして構えました。

 そして、家の戸口に向かって突進しました。

「や、やいっ」

 土間に飛び込んで、一声怒鳴りました。

 し~ん

 中からは、誰も出てきません。

 それはそのはずです。モクジは怒鳴ったつもりでしたが、声がかすれて出ていなかったのです。

「やいっ」

 もう一度怒鳴りました。

「おや、誰かおいでですか」

 家の中から出てきたのは、腰の少し曲がったおばあさんです。

 後ろから、さっきの黒猫と雄鶏がついて来ました。

 おばあさんは、モクジの着物に負けないくらいのつぎはぎの着物を着て、冬が間近いというのに、半てんも着ていません。

 でも、おばあさんは、寒そうな様子もなく、にこにこと明るい顔をモクジに向けていました。

「おや、見かけないお人ですね」

「お、おれは、押し込みだあっ」

 モクジがそう脅しかけますと、黒猫が、ニャアと足に頭を摺り寄せました。

「か、金か米を出せっ」

 とまた脅しかけますと、今度は、雄鶏が、おばあさんの肩に飛び乗り、コココと白髪を引っ張りました。

「うるせえっ。おれの用事が言えないじゃないかっ」

 モクジは、かあっとなってわめきました。

「ああ、ごめん、ごめんなさいよ。お客様、いらっしゃいませ」

 おばあさんは、あらためて、モクジに挨拶しました。

「きゃ、客じゃねぇ。これが目に入らねぇかっ」

 モクジは、包丁を突き出して、刃を上下にゆすりました。

「おや、砥ぎやさんで」

「ううむっ、とぼけるなっ」

「とぼけちゃいませんが、年のせいで少し惚けましたかね」

「ば、ばかにしやがって。おれは・・・・・いいか、驚くな。おれはぁっ、おれだっ。い、いや違った。お、おれはぁ、モクジだっ。い、いや、また違った。おれはぁっ、押し込みだぁぁっ。どうだっ、驚いたかっ」

「こりゃ、驚いた」

「フン、ざまあみろ、恐れ入ったか」

「そりゃあ驚きますよ。うちに押し込みさんが見えるなんて。なあんにもないのに」

「嘘をつけ。お前の家には、小判色の銀杏がある。丸々と太った猫と鶏がいる。なあんにもないわけがない」

「はい、あの銀杏は、勝手にはえてきただけで。きっと、誰かが種をとばしたのでしょうよ。黒猫さんと雄鶏さんは、いつでしたか、やせこけて迷いこんできましてね。それから、一緒に暮らすようになっただけですよ。みんなで何でも分けあって仲良く暮らしているうちに、あんなに丈夫そうにきれいになったのですよ。ホッホッホッホ」

 おばあさんは、嬉しそうに笑いました。

「てめぇ、アホか」

 モクジは、包丁を、グサリと上がりがまちに突き立てました。

 おばあさんの笑い顔を見ていると、ばかにされたような、歯がゆいような苛立ちが突きあげてくるのです。

 モクジは、家の中に土足で踏み込み、家中を荒らしました。

 押入れの中、戸棚の中、天井裏、床下など、めちゃめちゃに掻き回しましたが、ほんの一握りの干し芋が出てきただけでした。

「ほんとにねえのか。金か米っ」

 モクジは、汗をびっしょりかいて、目を引きつり上げて言いました。

「あればとっくに出しておりますよ。お前さまがそんなに欲しがっていなさるのだもの。さあ、これをお持ちなさい。少しは、おなかのたしになりましょうよ」

 おばあさんは、モクジの手の中に干し芋を入れました。

「おれは押し込みだあっ。押し込みがこんなもの貰ってほいほいと帰れるかあっ。おれは押し込みらしく、お前ん家で一番大事な物をかっぱらっていくんだあっ」

 モクジは、干し芋を床に叩きつけました。

 モクジの目は、ぎらぎらと血走って、家の奥をのぞきこみました。

 

 暮れかかった山道を、モクジは、麻袋を肩に担いで走っていました。

 モクジの髪はざんばらにほどけ、落ち窪んだ目玉はぎらぎら光り、さながら、鬼が山道を飛ぶように、どんどこどんどこ走っていきました。

 

 家にたどりついたモクジは、麻袋を土間の隅に放り出して、上がりがまちに崩れるように倒れたまま眠りこみました。

 目が覚めた時、朝日が、開け放した戸口からさしていました。

 モクジは、ぼんやりと起き上がりました。

 土間の隅にころがっている麻袋を目にして、昨日のことを思い出しました。

 モクジは、麻袋を開けました。

 黒猫と雄鶏が、うずくまっていました。

 

 黒猫と雄鶏をひっつかまえて袋に入れようとした時、おばあさんが、必死で手にしがみついてきました。

「この子らがお前さまに何をしました。どうかこの子らに非道はせんでくだされ」

 そう叫んだおばあさんを、足蹴にして逃げてきたのです。

 黒猫が、大きな目をきりりと見開いて、モクジを真っ直ぐに見上げました。

 雄鶏が目の縁を薄紅に染めて、小首をかしげながらも、モクジをじっと見つめました。

 モクジはびくっとしました。

「なんだこいつら。おれを責めてやがる。猫や鶏のくせに! あのばばぁは、この子らに非道はせんでくれと言った。フン、何を言いやがる。猫や鶏に非道もないもんだ。おれが何をしたって言うんだ。おれが非道をしてるか? ばかな。非道はおれじゃない!」

 モクジは、荒々しく二匹を引っ張り出すと、首根っこを押さえつけて、恐ろしい声で言いました。

「おれを非道と責めるなら、おれに命乞いをしろっ。おれに、へいこらしろっ」

 でも、黒猫と雄鶏は、ひるむことなく静かにモクジを見つめています。

 モクジは、目が眩みそうなほど腹が立ちました。

「いいかっ、黒猫、お前はコタツになれっ。ならないと、雄鶏をぶっつぶして喰っちまうぞっ。それから、雄鶏、お前は一日一個卵を産めっ。そうしないと、黒猫を川に叩き込むぞっ」

 黒猫は、黙ってコタツになりました。

 昼も夜も、モクジの敷きっぱなしのせんべい布団の中で、じっと丸くなっていました。

 少しでももそりと動くと、モクジが怒り狂うのです。

「やいっ、コタツが動くかっ。いいか、ちょっとでも動くと雄鶏は八つ裂きだっ」

 だから黒猫は、毎日毎日、ずっとコタツになりつづけました。

 雄鶏は、卵を産めと言われて、ほとほと困りました。雄鶏に、卵が産めるわけはないのです。

 困っている雄鶏に、モクジは舌打ちして怒鳴りました。

「やいっ、卵を産めと言ったら産めっ。おれは、卵が喰いたいんだ。産まなきゃ黒猫を川に沈めるぞっ」

 雄鶏は、知恵をしぼって、近くにいる雌鶏のところに行きました。

「コウコ ココココ コココッ コクウコッコ」

「毎日ごはんを運んでくるから、卵を一個下さいな」と言ったのです。

「ククク クック クークククックック コウクン コッコ コーコココッコッココ クククックククック クコッコ クコッコ」

「あら困ったわ。そうしてあげたいけど、あたし、ろくにごはんを食べてないから、卵が産めないの。人間に、卵を産まない鶏は潰して喰っちまうと言われて、逃げてここにいるんだけど」

「コケケケ コッコ コ ケケケッケ」

「大丈夫だよ、うんとごはんを食べれば」

「クククウ クックックックケ クック」

「そうね。じゃあ、産んだらあげるわ」

 雄鶏は、毎日毎日、穀物や青草を集めて、雌鳥のところに運びました。

 おなかいっぱい食べた雌鳥は、卵を産むようになりました。

 何年も不作がつづいているのですから、そうそう穀物や青草があるわけはありません。

 雄鶏は、自分の分まではとても集めることができません。だから、雄鶏は、籾殻ひとつ自分で食べることはできませんでした。

 そして、ある朝のことです。

 もうすっかり冬に入った寒い日でした。

 モクジは、足元のコタツが冷たいのに気がつきました。

 黒猫は、コタツの形のまま、動かなくなっていました。

 かって、つやつやと油を塗ったようにきれいだった黒い背中は、すっかり色褪せて痩せ衰えていました。

 モクジは台所に行きました。

 いつものように、イロリの傍に、卵が一個ころがっていました。

 その傍に、やはり痩せこけて、雪のように白かった羽根が抜け落ちた雄鶏が、冷たくなって横たわっていました。

 モクジは、がくりと膝をつきました。

 ガタガタと身体が震えてきました。

「ううっ、寒っ」

 モクジは、震えを止めようと、両腕で自分の身体を押さえました。

 どんなに力を入れて身体を押さえても、震えは、どんどん強くなりました。

 胸の奥の方から、だだだだだ、だだだだだと激しい震えが突き上げてくるのでした。

 モクジは震えつづけました。

 どのくらいたったでしょう。

 夜の影があたりを覆っても、なお、震えていました。

 誰かが、モクジの肩を叩きました。

 西の村のおばあさんです。

 おばあさんは、胸に、黒猫と雄鶏を抱いていました。

「やっと、お前さまの家が見つかりましてな・・・・・・この子たちは、つれて帰りますよ」

 おばあさんは、二匹をしっかりと抱きしめて帰りかけました。

「おおお、なぜ黙って帰る。なぜ何も言わないっ!」

 モクジは叫びました。

 胸のころりが、胸の壁をひきむしり、いいようのない、もやもやした焦りと、不安に苛むのでした。

 おばあさんが、モクジを振り向きました。

 おばあさんの顔が歪みました。

 醜いほど顔を歪めたおばあさんは、激しくかぶりをふると、何も言わずに逃げるようにして、月の昇った青い冬空の下に消えていきました。

「うわわわわわわぁ」

 モクジは、身をよじりました。

「あああああああぁ」

 モクジは、泣き叫びました。

「なんだ! 猫や鶏が死んだくらいで! たかが、猫に鶏じゃないか! 人間からみたら、あいつらなんかゴミじゃないか!」

 モクジは、いいようのない焦りと不安を打ち負かそうとするように、そうわめきちらしました。

「あいつらなんかゴミ・・・・・・・」とわめいた時、はっと息が止まりそうになりました。

「違う・・・ゴミじゃない。あいつらは、自分をゴミにしていなかった。・・・・・おれこそ、自分をゴミにしていた。おれをゴミだといった代官と同じになっていた」

 モクジは、泣きつづけました。

 ですが、さっきまでモクジを苛みつづけていた、もやもやとした焦りや不安の思いは消えていました。

 自分が許せなくて泣くのでした。

 悲しくて悲しくて泣くのでした。

 全てが悲しいのでした。

「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」

 泣き疲れて倒れ伏したモクジの上に、夜明けの光がさしこみました。

 モクジは、目を上げました。

 おばあさんが出て行ったままの戸口の向こうに、田んぼが見えました。

 モクジの田んぼは荒れたままでしたが、となりのサザン爺さんの田んぼに、小さな麦の芽が、青々と吹き出ているのが見えました。

「わかったよ。何をしなきゃいけないか」

 モクジは、立ち上がりました。

 そして、鍬をがっしりと握りました。

 

「でも、おれは、怒りは忘れない。怒りは捨てない。・・・・・おれは、怒りつづける」

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シュワッチマセ!

 犬がいました。

 犬は、ながたさんという人の家にいて、ポチという名前です。ながたさんちのポストには、ながたはやお・みなこ・けんすけという人間の名前につづいて、ながたポチと、ポチの名前もちゃんと書いてあります。

 ポチは、もうすぐ一歳になるころで、毛あしの長い黒っぽい毛で覆われて、身体がどっしりと大きく、尾っぽはたっぷりして、顔はしゅんっととんがっていて、両の目はきりりとあがり、なかなか堂々とした犬でした。でもポチはとても甘えん坊で、ながたさんちの一人息子の小学校一年生のけんすけくんに、いつも甘えていました。

 けんすけくんが学校に行ってる間だけは、玄関の横のガレージに一匹でいますが、けんすけくんが帰ってくると、かたときもそばを離れません。けんすけくんが友達と遊ぶ時も勉強する時もいつもそばにいます。

 ポチは、けんすけくんとテレビを観ることも好きです。特に『ウルトラマン』という番組が大好きです。人間の男の人が、ウルトラマンになる時、『シュワッチ!』という声が入るのですが、その時、けんすけくんも大きな声で真似をします。

「シュワッチマセ!」とけんすけくんは言います。けんすけくんのママが、よその家に行った時、「ごめんくださいマセ」、誰かが家に来た時は、「おあがりくださいマセ」と言います。けんすけくんは、そんなママの言葉遣いを真似して、『シュワッチマセ!』と言うのです。

 ポチは、けんすけくんがそう言うと、心がワイとわきたってきます。

 ポチは、けんすけくんもママの大好きなので、けんすけくんがママの真似をすると、大好き気持ちが倍になって嬉しいのです。

「ワンワッチマセ!」とポチもけんすけくんと一緒に、ウルトラマンになります。

 ポチは、毎日毎日、いつもいつも楽しくてみんなが大好きでたまりませんでした。

 

 ある日のことです。ながたさんちの庭いっぱいに、チューリップの花が咲いた日のことです。

 ポチは、ママから「さぁ、ポチ、今日はあなたの誕生日よ」と、大好きなケーキをたっぷりもらいました。

 実はポチは、去年の今日、町の郊外を流れている川を棒切れにつかまって流されていたのです。たまたま、ながたさん一家が川原に遊びに行っていて、ポチを助けたのでした。それでこの日を、ポチの誕生日としたのです。

 ポチは大喜びで、「ンガフ、ンガフ」とケーキを食べました。

「それにしてもポチは、どこから流れてきたのかしら」

 ママが誰に言うともなく言いました。

「町に近い川でよかったよ。もし、山の奥の方の川を流れていたら、たちまち恐ろしい狼の餌食になっただろうからね。山の奥の方には、今も狼がいるそうだ。狼たちはとても凶暴で、心なんてない存在だからな。いいか、けんすけもポチも、山の奥に行ってはいけないぞ」

 パパが真剣な顔でそう言いました。

 ポチはブルッとしました。(怖いなぁ)と思ったのです。

「大丈夫だよっ。狼が来たら、ぼくがウルトラマンになってやっつけてやる。シュワッチマセ!」

 けんすけくんが、片手をあげて勇ましく言いました。

「ハハハハ、それは頼もしいなぁ。安心だ」

 パパとママは面白そうに笑いました。

 ポチも、「ハフハフ」と笑いながら、「ワンワッチマセ!」と言いました。

 その夜のことです。ポチは、いつものように、けんすけくんのベッドの下で眠っていました。

 ポチは夢を見ていました。

 けんすけくんとウルトラマンになってケーキを食べてる夢です。

「ワンワッチマセ!」

 その時のことです。

「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ンンンンンン」

 かすかな声が聞こえました。遠い声です。

「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・オオオオオオオオンンンン」

 たしかに聞こえます。

 ポチは、目を覚ましました。

「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・オオオオオオオオンンンン」 

 ポチは窓に寄ってカーテンをめくり、ガラスごしに外を見ました。月が青々と冴えて、庭のチューリップを照らしています。声は、青い月のずうっと向こうから聞こえたように思いました。

「ウウウウウウウウウオオオオオオオオオオオオンンンンンン」

 間違いありません。やっぱり聞こえます。

 ポチはなんだかその声が、自分を呼んでるように感じてしかたがありませんでした。その声が、胸や腹にぐいぃいんと響いて感じるのです。

 ポチは、窓を開けました。

 けんすけくんを振り返ってみると、けんすけくんは、とけそうに眠りこんでいます。

 ポチは、月の光の中に躍り出ました。

 そして、遠い声に引き寄せられるように、疾走していきました。

 

 ポチがたどり着いたのは、山の奥を流れている川のそばの岩山でした。

 そこに灰色の大きな狼が待っていました。

「やっと戻ってきたな。おれは毎夜毎夜、お前を呼んでいた。やっと、今夜、お前におれの声が届いたのだ」

 灰色の狼は、月明かりを映した目でポチをぐいっと見ながら、ずっしりとした声で言いました。

「も、も、戻ってきたって? ぼ、ぼくが戻るのはながたさんちだけだ・・・・・」

 ポチは怖くてたまりませんでした。灰色狼の目は、月が映っているのに、底なし沼みたいに暗くて、ポチをひとのみにしてしまいたがっているように見えました。

(パパから、山の奥は怖い狼がいるから行っちゃだめって言われていたのに、なんでぼくは来ちゃったんだよぅ、怖いよー)

「お前は狼なのだ。おれの弟なのだ。今夜おれの声を聞いてここに戻ってきたのは、お前の狼としての血が引き寄せたのだ。お前は、人間に飼われて犬にされていたが、やっと狼として目覚めたのだ」

(ぼくが狼だって?)

 ポチは呆然としました。

 灰色の狼は、なおも恐ろしいことを告げました。

 ポチが生まれた日、父さん狼も母さん狼も兄弟たちも人間に殺されたというのです。ポチと灰色狼の父さんは、狼の長をしていましたから、人間にずうっと狙われていたのです。

「その日、おれだけが、たまたま川の向こうの森に行っていた。鉄砲の音が何度もして、おれは急いで岩山に戻ろうとした。だが森から出た時見たのは、すでに父さんや兄弟、お前と一緒に生まれたばかりの子たちまで血にまみれて倒れていて、母さんが、川岸に追い詰められているところだった。『やめろーっ』とおれは絶叫したが、奴らは引き金をひいた。母さんはお前を口にくわえていて、打たれる直前、流れてきた棒切れにお前を乗せ流れに押した。奴らはお前も撃とうとしたが、おれが川に飛び込んだのを見て、おれの方に銃口を向けた。見ろっ、その時の傷だ」

 灰色の狼は、頭のてっぺんをポチに見せました。ごつごつと肉が盛り上がっています。

「ほんとだ! はげてる!」

「うるさい。そういうことはいい。とにかくおれは、父さんの跡を継いで狼一族の長となり、いつかお前を呼び戻して、一緒に力を合わせて人間に復讐しようと心に誓っていたんだ。いいか、お前はこれからは狼として生きて、おれとともに親兄弟を殺された復讐をするんだ。さ、狼の仲間のところに行こう」

(人間が狼を殺したってそんなのウソだっ、凶暴な殺し屋は狼の方だろう?)

 ポチは、動いている洗濯機に放り込まれたようになりました。いつだったか、洗濯機の脇にあった椅子によじ登って、けんすけくんのシャツやパンツがくるくるまわっているのを見ていたら、中におっこちてしまったことがあるのです。目がめちゃくちゃに回って、息ができなくなって、死にそうになったのですが、その時みたいに、何が何だかわからなくなりました。

 ポチは何も考えられなくなって、灰色の禿げ狼に引っ張られるままついていきました。

 ポチは禿げ兄さん狼に連れられて、岩山の奥に行き、そこで暮らすことになりました。そこには狼がたくさんいました。

 ポチは『ウル101号』という名前になりました。『ウル』というのは、狼の位の高いものにだけつけられる名前なのです。禿げ兄さん狼は、『ウル89号』です。

 ウル101号は、ウル89号から戦いの特訓を受けました。

 人間に見立てた枯れ木を相手に、攻撃の練習をするのです。

「そこだっ、噛み付けーっ!」

「いまだーっ、ひっかけーっ!」

「それーっ、蹴っ飛ばせーっ!」

 ウル101号は疲れて動けなくなるまで、枯れ木に噛み付いたり、ひっかいたり、蹴飛ばしたりするのです。

 そしてウル89号はことあるごとに、ウル101号に言うのです。

「人間は敵だ・・・・・」

「人間は悪い存在だ・・・・・」

「人間は親や兄弟を殺した・・・・・」

「人間は倒さなければならない・・・・・」

 ウル101号は、ウル89号が、狼のメンツのためと、自分を戦力として利用しようとしているのだと思えて、心に抵抗を感じてなりませんでした。でも、逃げることはできませんでした。もし逃げて捕まったら、殺されてしまいそうな気がして怖いのです。

 ある日、ウル101号が仲間のこども狼と岩から岩を飛び越えていた時です。突然、轟音がして大岩がころがってきました。

「ワーッ、ウル101号、助けて!」

 こども狼は悲鳴をあげています。

 ウル101号は、(助けなきゃっ)と思うのですが、足がすくんで動けないのです。その時、ウル89号が弾丸のように飛んできて、大岩に身体をかすめられ傷を受けながらも、子ども狼をくわえて横っ跳びにとびました。

「仲間の子すら助けられないとは、なんたる軟弱ものっ、しっかりしろっ」

 ウル101号はそう叱咤され、耳を引きちぎられる仕置きを受けました。

 また別の日、ウル101号は、川で急に深みに落ち溺れそうになりました。その時、ウル89号が引き上げてくれました。そして身体が冷えて震えているウル101号を、ずうっとだきしめて暖めてくれました。ウル89号の心臓は、「ガンバレ、シヌナ、ガンバレ、シヌナ」と鳴りつづけていたのです。

 いつしかウル101号は、(おれもウル89号兄さんみたいに、勇敢で強くなるぞ)と思うようになりました。

 そしてウル101号の心から、自分が人間の町にいた犬だったという記憶が消え、けんすけくんのことも消えていきました。

 ウル101号は痩せて筋肉がしまってきて、毛も固くなり、顔も肉がそげて、眼がギラと光り、行動も敏捷になり、岩から岩に飛び移る様は、まるで刃物を思わせるような鋭さです。

 何年かたちました。

 ウル89号がウル101号に言いました。

「時が来た」

「時とは?」

「復讐の時だ。これから町を襲う。町じゅうの人間を追っ払って、町を襲うのだ。今まで黙っていたが、下の町は昔は山でおれたち先祖のものだったのだ。これまで人間に仲間が殺されつづけて、狼の数が減り、戦おうにも力がなかったが、近年狼一族の数が増えてきて、やっと奪い返す力を持つことができた。いいか、立派な働きをしろよ。決行は次の満月の夜だ」

 ウル101号は黙ってうなずきました。

 

 襲撃の夜、月が煌々と照っていました。

 山も岩も川も青く澄みきった光に照らされていました。岩山の頂上に立ったウル101号は、ふとこの月の風景を見たことがあるような気がしましたが、いつ見たのか思い出せません。

「ウウウオオオ~ン・・・・・!」

 合図の遠吠えが聞こえました。沢山の狼が、怒涛の如くに町に押し寄せました。ウル101号も負けじとつづきました。

 たちまち町は、阿鼻叫喚の声と家々が破壊され崩れる音と、人々の助けを求める祈りの声に満ちました。

「ポチ!」

 逃げ惑う町の人々を次々と襲い、今やひとりの少年に爪を立てようとした時です。その少年が、悲鳴のような声をあげたのです。

 ウル101号は、ビクリとして振り上げた手を宙に止めました。

「ポチ! ポチ! ポチ!」

 その子はそう叫びつづけました。

 ウル101号は、時間が止まったように動けなくなりました。あぶり絵の絵が炎にあてられて浮かび上がるように、ウル101号の胸に、何かが浮かび上がろうとしてきたのです。

 ウル101号は、少年の顔をくいいるように見つめました。

 少年の目は、恐怖で見開いていましたが、「ポチ!」と叫ぶその声に、恐怖だけではない何かがあるのを、ウル101号は感じてなりませんでした。

「ポチってなんだ、それにこいつはおれに何を言おうとしているんだ。おれは何でこいつに爪を立てられないんだ。噛み付けないんだ。人間は敵のはずではないか!」

 ウル101号は、少年の前に、金縛りにあったようになっていました。

 それを見たウル89号は、襲撃を中止する命令を出し、狼一族は岩山に帰りました。

 

「ああ、弟よ。犬になどされていたから、狼の誇りが持てなくなっている。敵の前でひるむのは裏切りだ。狼の掟は厳しい。お前を裏切り者として裁かなくてはならない」

 ウル89号は、灰色の瞳を伏せて言いました。

「犬にされていた? おれは犬だったのか?」

 ウル101号は息が止まるほど驚きました。

「人間の子に爪をたてられなかったことが、兄さんたちへの裏切りというのか? それを裁かれるというのか?」

 ウル101号は、つづけて聞きました。

 言いようのない悲しみが込み上げてきました。でも、怒りや絶望はありませんでした。ただ悲しみがつき上げてきました。

「そうだ。お前の軟弱は、犬として育てられたという運命のせいでお前の罪ではないが、お前を裁かなければならない。それが狼一族の正義と真実と誇りだ」

 ウル89号は、伏せていた目をきっと上げて言い切りました。

「いやだ。・・・・・兄さん、おれは兄さんたち狼は正しいと思う。狼の誇りと真実は何者も侵すことはできないよ。・・・・・だけど、兄さん、今のおれは、あの人間の子に爪をたてようとした時感じた何かを知ることが、一番大事なことのように思えてならないんだ。おれは知りたい。胸に浮かび上がってきそうでこないものと、あの人間の子の叫びの中にあったものを。おれは行くよ。おれが行くことが、狼の正義と真実と誇りを侵すことになると思ったら、兄さん、おれを殺してくれ」

 ウル101号はそう言って、狼の山を静かに出ました。誰も殺しに追ってきませんでした。

 

 狼として生きるのをやめたウル101号は、もうウル101号という名前ではありません。ポチでもありません。誰からともなく、『ノラ』と呼ばれるようになっていました。

(ぼくはどうやって生きたらいいんだろう。どこに行ったらいいんだろう・・・・・)

 ノラは、あてどもなく歩きつづけていました。食べるものもなく、口にするのは水だけでした。

(ああ、疲れたぁ)

 ノラは辿り着いた原っぱに、ぐったりと座り込みました。

 その時、季節は春先で、小さなイヌフグリの水色の花が一面咲き染めていました。

 まるで湖がひろがっているような透き通った風景でした。

「ああ、きれいだなぁ・・・・・」

 ノラは、湖水に浮かぶように、全身の力を抜いてそこに横たわりました。身体が限りなく軽くなって、ユラユラ揺れていきます。

 やがてノラは、湖水の底に沈んでいくような感覚を覚えました。

「ああ、いい気持ちだ。身体も心もラクになっていく・・・・・」

 ノラはそうつぶやきました。

 その時です。

「もしもし、ね、もしもしよ」

 そんな声が聞こえました。

 ノラは目を開けてみました。

 目の前に、きちんとした背広を着たメガネをかけた人間の男の人が立っています。

「誰ですか? あなたは?」

 ノラは身体を起こしながら聞きました。

「わっしは、見た通りの面接官ですじゃ」

 メガネは妙な言葉遣いで答えました。

「見た通りがどういうもんかわかんないけど、で、ぼくになんかようですか?」

「はいっ、ね、あなた、ウルトラマンって知ってます?」

「えっ、ウルトラマン?・・・・・なんか、知ってるような気がするけどなぁ・・・・・どうも思い出せない」

「あー、そうですか。えーとね、普段は普通の人間で、怪獣とかが襲ってきた時、シュワッチ! と言って変身するんです。変身した時、ウルトラマンというすごい強いものになるんです。地球を守る正義のヒーローですんじゃ。怪獣と戦うだけじゃなくて、事故や事件が起こった時は、重いものを持ち上げたり、飛行機より早く飛んでいったり、いろいろ活躍するんですじゃ、はい」

「へー、でもぼく、人間じゃないよ」

「いいんです。人間の何人かと面接したんですけどね、みんな、怪獣と戦ったり、事故や事件の度に働くなんて、疲れて大変だからいやだって、こうですじゃ」

「ぼく、人間でもない、狼でもない、犬でもない、正義のヒーローなんて似合わないよ。耳だってかたっぽちぎれてないし」

「いいんです。そういうあなたのような方は、理屈抜きに、地球のみーんなを守って下さるに違いありませんじゃ、はい」

 メガネは、メガネの奥の目玉を片方ぱちっとつむりました。

「フーン、でもぼくになれるかなぁ。それになりたいっても思わないしなぁ」

「なれますともですじゃ。なりたいと思わなくてもなればいいのですじゃ。は、なってくれますね。ああ、よかった、やれやれ、これでわっしの星に帰れる。どうも人間の強い者中心で成り立ってるこの星は、わっしにはあわんで疲れること疲れること。でもわっしは、宇宙の星の中の地球を守る役目を宇宙主から仰せつかっているし、だからウルトラマンを・・・・・だいたい、自分の星くらい自分で守ればいいのに、汚し放題、壊し放題、中傷流言流し放題、ああムナクソ悪い」

 メガネの面接官は、あとの方はブツブツひとりごとみたいに言ったあと、「じゃ、ちょっと練習してみましょう。変身の時の呪文を言ってみましょう。やってみてください。シュワッチ! というのですじゃよ」

「ウン、わかった! いくよ!」

 ノラは叫びました。

「ワンワッチマセ!」

「ワンワッチマセじゃないですじゃよ。さぁ、もう一回!」

「ウン、いいかい、ワンワッチマセ!」

「ちがうって! ワンワッチマセなんてトンマでマヌケーですじゃ」

 メガネの面接官はがっかりしたように言いました。

「なんだか知らないけど、シュワッチって言おうと思うのに、大声だとワンワッチマセになっちゃうんだよ。へんだな!」

 それから何度も何度も練習しました。それでやっと、「シュワッチ」ということはできるようになったのですが、どうしても、「シュワッチマセ」となってしまうのです。

「シュワッチマセ!」

「シュワッチマセ!」

「シュワッチマセ!」

 ノラは何度もそう言ってるうちに、胸の底の底の方から、いつか浮かび上がってきそうでとうとう出てこなかったあぶり絵の絵が、じょじょに浮かび上がってくるのを感じていました。

「けんすけくーん!」

 ノラはついに思い出したのです。大好きだったけんすけくん。自分がポチと呼ばれていたこと。

「けんすけくーん!」

 ノラは叫びました。ノラの目から涙があふれました。

 町を襲った時、ノラの振り上げた爪の下で、恐怖におののきながら、「ポチ!」と叫んだ少年。

「あれは、大きくなったけんすけくんだったんだね」

 そして、あの叫びの中には、ポチがいなくなって心配していたことや、ポチが無事に生きていたことの喜びがあったのです。やっと今、それがわかったのです。

 ノラは、こみあげてくるものを抑え切れず、「けんすけくん、ありがとう、ウォーン、ウォーン」と泣きました。

 メガネの面接官は、びっくりしてわけを聞きました。そして聞いてもっとびっくりしました。

「え、そんなことを知るために、何もかも捨てなすったのですかぁ?!」

「そうだよ、ぼくは嬉しい。ぼくはけんすけくんにこたえたい。やっと、こたえられる。ぼくはそれだけのために生きたいんだってやっとわかったんだ」

「じゃ、ポチに戻りなさるのか?」

「いいや、違う。けんすけくんにこたえるのはそういうことじゃないような気がする・・・・・とにかくぼくは、行くよ。ぼく、一匹で生きていく。世の中のために働く。犬と狼の両方の力と心を持ってね。それがけんすけくんにこたえるって気がするんだ」

 ノラはせいせいと言いました。

「あの、ウルトラマンになるのは?」

 メガネの面接官が、おずおずと聞きました。メガネの奥で、目玉が困ったなぁというような、でもしょうがないかと言っています。

「ごめんなさい。さっきまでぼくいろいろ迷っていたから、はんぱな返事しちゃったけど、やっぱやめるよ。面接官さんもさっき言ったろう。自分の星ぐらい自分たちで守れって。だからぼく、自分の生ぐらい自分で生きるよ。面接官さん、ありがとう。さよなら」

 ノラは立ち上がりました。面接官と話している間に、一夜が過ぎたようでした。いつの間にか空が朝焼けの光に染まっています。

「シュワッチマセ!」

 ノラは、小さく空にそう叫び、歩き出しました。

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チョッキンチョッキン

 ずうっと昔、すべての生物は翼を持っていました。だから、羊も人間も魚さえも、空を飛んでいたのです。

 この物語は、その頃のある羊の村でのできごとです。

 

 晴れた初夏の午後のことでした。

 ぼくは草原で草を食べ、そのあと、気持ちよくねっころがっていました。

 ぼくはクリームがかった巻き毛に覆われていて、背中の真ん中から白い翼が出ていましたから、その翼がつぶれないように行儀よくあおむけになっていたのでした。

 ぼくたち羊は、たいていこんな風に、毎日をのんびり過ごすのです。

 今日はことのほか、空は青く、風はサラサラと花吹雪が流れるような音を奏で、ステキな午後でしたから、ぼくはいつもよりもっと、のんびりのんびりのんびりしていました。

 ところがそこに、けたたましい叫び声をたてながら這うようにして近づいてきたものがありました。

「助けて、チョッキンが、チョッキンが、チョッキンが来る・・・・・」

 それはベージュ色の巻き毛の羊でした。

 ベージュ羊は、ぼくのわきに来ると、「こんなところでのんびりしてって大丈夫かい、チョッキン、チョッキン、チョッキンが来るよ・・・・・」とワナワナ震えて言うのです。

 ぼくはほんとにびっくりしてしまいました。ぼくは生まれて大分になりますが、このかた、こんなにあわてた羊も、怖そうに震える羊も見たことがありません。第一、空を飛ばないで、地を這ってくるというのは変わった羊です。

 それに、チョッキンって何だろうと思いました。

「どうしたのぉ? チョッキンってぇ?」

「ああっ、イライラするなっ、もっと危機感を持って聞いてよっ。大変なんだっ」

 ベージュ羊は、怒ったようにそう言うのでした。

「大変て、どんな風にぃ?」

「いいかいよく聞いてよ。おいらさ、ここからずうっと遠くの村に住んでる羊なんだけど、恐ろしいことがあったんだ」

 ベージュ羊は、話しはじめました。

 

「おいらはもともとは今の君のように、いつものどかにして楽しかった。おいらは疑いを持つことがなかったから、心が鬱ぐことはなかったし、誰と会っても心が通じた。

 それがある日のことだ。

 一匹の羊がおいらの前にあらわれた。その羊は黒いマントで全身を覆っていた。

 おいらがニコニコして黒マントの羊を見ていたら、黒マントは黒マントの中から銀色に光る、二本の尖ったひらべったい棒を交叉させてつないだものを取り出した。そして、二本足で立って片方の前足で、その光るものを持ち、頭上で動かした。

 チョッキン、チョッキンとそいつは音を立てた。

『チョッキンかい? それ』

 おいらが聞くと、黒マントは笑って頷いて、チョッキンでそばの草を挟んだ。すると、チョッキンという音とともに、草は先の方がハラリと落ちた。

 おいらが目を丸くしていると、今度は、木の枝をチョッキンで挟んだ。するとそれも落ちた。チョッキンは、なんでも素早く切るのだった。

『かっこいい! こんなのはじめて見た!』

 おいらは、チョッキンの銀色に光る美しさと切れ味の鋭さに、すっかりしびれてしまった。

『そうかい。じゃ、ちょっと、君のそれ切ってみようか。きれいにそろえるんだ』

 黒マントがおいらの後ろにまわってきた。

『おいらのなにを切るって?』

 おいらは後ろを振り向きながら訊いた。

 チョッキン!

 黒マントは、返事より先にチョッキンを動かした。

『ヒェー!』

 おいらはあまりのことにびっくりして悲鳴をあげた。

 おいらの翼の先っぽが切れちゃったのだ!

『なんだよ、そんな大げさな声出して・・・・・大丈夫、君の翼の先ふぞろいだったから、きれいにそろえたんだってば』

 黒マントは平気な顔で言った。

『なんだ、そっか』

 おいらは、背中の翼をパラリと広げてみた。片はね五十センチ、両はね一メーターの翼が開いた。

 真っ白に輝く翼は、おいらの自慢だ。その翼が、短くなったみたいだけど、たしかにギザギザしていた先っちょがまっすぐになっていて、見かけがよくなった気がした。

 おいらは、『おいらの翼きれいだろう?』と言って黒マントの顔を見た。

 黒マントは、無表情な『フン』って感じの顔をして黙っていた。

 おいらは、すごくいやな気がした。

 (おいらの翼が好きだから、きれいに切りそろえてくれたんじゃないのか。だったらなんで切ったんだろう?)と疑いの気持ちがわいたのだ。こんなことは、はじめてだった」

 

 ベージュ羊はここで、「メエエエェ~ン」と泣いて身体を揺すりました。

 ぼくは、のんびり前足を出して聞いていたのですが、ベージュ羊の話は重大な気がしてきて、真剣に聞いてあげなきゃいけないと座りなおしました。

 

「その頃なんだ。おいら、村の誰ともうまくいかなくなってきたんだ。おいらのんびりしてニコニコニコニコしているみんなが退屈で物足りなくなった。黒マントと一緒にいる方が面白いんだ。

 黒マントは時々、意地悪をした。おいらが黒マントのために、一生懸命草を集めると、『いやぁ、これはこれはありがとう』なんて喜ぶふりしてウンチかけたり、別の日には、『こんなに草をくれて何が狙いだね?』とじとっと言ったり、おいらが村の羊においしい草をもらうと、『うまいことしたねぇ』とにやっとして言ったりした。

 そんな時は、心がザラザラしていやな気がしてストレスがいっぱいたまった。だけど、すぐにそんなのどうでもよくなるんだ。だって、黒マントはチョッキンでいろいろなことをする。木の葉を鳥や虫の形に切ってくれたり、ぼくの汚れた巻き毛を切って、洗ったよりもきれいにしてくれる。

 口うるさい年寄り羊の尾っぽの先をちょん切って、そいつをボールみたいに投げっこしたり、すましやの羊のお尻の巻き毛をトラ刈りにしたりもする。そういうのも最初は、おいらいやな気がした。だって、年寄り羊もすましや羊もオロオロしたりガックリきたりするから、気の毒でたまらなかった。

 だけどそれが、だんだんと愉快に感じるようになってきたんだ。もっとやれ、もっとやれってね。

 そうしたら黒マントが、おいらのことを気にいってくれるしね。

 おいら、黒マントのあとばかりついて歩くようになった。

 そんなある日、恐ろしいことがおこった。黒マントが、チョッキンをチョッキンチョッキンチョッキンチョッキンと音をさせながら、おいらの翼をわしづかみにしたのだ。

『ギョエーッ!』

 おいらはびっくりして空に逃げようと羽ばたきかけた。すると、おいらが飛ぶより早く、黒マントがおいらを力まかせにねじ伏せた。

 おいらは怖くて痛くて暴れた。

 身体中がガタガタ震えた。

『こんなものーっ!』

 黒マントのギラギラした声とともに、チョッキンがチョッキンとおいらの背中ではじけた。

 激しい痛みがはしった。

 おいらの翼がつけね近くから切られた。

『ちっきしょうっ!』

 おいらは恐ろしい声で絶叫した。

 おいらは『わああっ』『わあああっ』と叫びつづけた。

 胸の奥にトンカチがいくつもいちどきに投げ込まれて、それらがぶつかりあっているようだった。

 黒マントは、おいらをひっかつごうとした。おいらはそうされまいと、無我夢中で黒マントの黒マントをつかんでひっぱった。

 黒マントの黒マントが破けた。

 おいらは息をのんだ。

 黒マントの背中には翼がなかったのだ。翼を持たない羊なんて羊じゃない。こんなことってあるわけない。だけどそういえば、黒マントは飛んだことがなかった。おいら気にしてなかったけど。

『翼のない羊っ。なんでおいらの翼を切っちまった・・・・・』

『フン、だからどうした』

 黒マントは白目を血ばしらせて言った。ゾーっとするほど冷酷で嫌らしい視線だった。それなのに、黒マントの顔は物凄く悲しい苦しそうな顔に見えた。その顔にびっくりして、おいらは急に虚脱状態になってしまった。

『フン、翼なんか・・・・・。チョッキンをどうやって手に入れたか教えてやろうか。天だよ、天、天がチョッキンをくれたのさ。見ろ、チョッキンの二枚の刃、どうだ、翼に似てるだろう。お前たちの翼よりずうっと強い翼だ。アーハハハハハ・・・・・』

 黒マントは、チョッキンの刃をチョキキチョキチョキチョキ動かしながら哄笑した。

 黒マントはしばらく笑いつづけたけど、おいらは、黒マントが泣き叫んでいるように感じてならなかった。

 おいらは力が抜けたまま、やすやすと黒マントにかつがれ、山奥の洞窟に運ばれた。

 その途中、おいらは半分気を失っていたけれど、いくつものマントを着た羊を見た。おいらは黒マントとしか会ってなかったけど、マント羊はあちこちにいっぱいいたんだってはじめてわかった。奴らはどこからきたんだろう。

 洞窟には、おいらのように翼を切られた羊たちがいっぱいころがっていた。すでに死んでいるものもたくさんいた。とっくに死んで、角と骨だけになってるものもいた。

 おいらが放り出されたわきに、今や息を引き取ろうとしている羊がいた。その羊が『マントをきた羊は、何匹くらいになったかね?』と苦しい息の下からおいらに聞いた。『わかんない。おいら、ここにつれてこられる時、マントがいくつも見えたような気がする。だからきっと、沢山だよ』

『そうかね、やっぱり、ああ』

 その羊は、絶望したようなため息をひとつついて息絶えた。

 おいらはその時、その羊がなぜそんなことを訊いたかわからなかった。でもやがてわかった。何日もたって、おいらの横に新しく放り出された羊がいて、その羊がこう言ったのだ。

『村はマントだらけだ。もうすぐ、羊の村は、翼のない羊でいっぱいになる。羊は翼のない羊が当たり前になる・・・・・』

『信じられないよ、そんな。ああ、どうしよう。これが現実なんて、なんて現実だ』

 おいらはそう言った。

 黒マントの羊は、次々に翼を切った羊を運んできた。いろんな村から羊を運んでくるようだった。一匹運んでは、出て行った。出て行く時、洞窟を塞いでいくから、おいらたちが脱出するのは無理だった。黒マントが来るたびに、チョッキン、チョッキンとチョッキンの音が、洞窟に響いた。

 おいらは死んでなるものかと思った。そして、チョッキンが来て奥の方に行ったすきに洞窟を這って抜け出したんだ」

 

 ベージュ羊の長い話が終わりました。

 聞き終わって、ぼくは、ただただ呆然愕然としていました。

「ほんとに恐ろしいね!」

 ぼくは叫ぶように言いました。

「そうだろっ。メエエエエエ~ン」

 ベージュ羊はオイオイオイと泣きました。

 ぼくは、地面に顔をうずめるようにして泣くベージュ羊の背中に翼がないのを見て、胸がキリキリと痛みました。

 血の滲んだ、翼を切り落とされた痕跡を見てとった時には、見たことのない黒マントが目の前にいるかのように、激しい怒りの思いがわいてきました。

「翼のない羊なんか! チョッキンなんか!」

 ぼくは、ドロッと叫びました。

「洞窟はね、月明かりも届かないのに、ぼおっと明るいんだよ。洞窟いっぱいに、死んだ羊の角と骨がびっしりところがって、あちこちに青白いかすかな炎が上がってるんだ。よく見ると、炎と見えた青白いものは炎ではないんだ。網目の膜のようなものが角や骨をくるんでいて、それが青白い光を発してるんだ。さわってみると熱くなかった。

 おいら、あれは翼の残骸だったんじゃないかと思う。マント羊は、切り取った翼を洞窟に放り出していたのに違いない。その翼が角や骨をくるんで、青く光っていたんだよ。

 角や骨には、誰かが書いた字が残っているものもあった。最初は、角や骨がひび割れててそのひび割れが字に見えるのかもしれないと思ったけど、絶対字だよ。『翼よ』とはっきり読めるものもあった・・・・・」

 ベージュ羊は、そう言ってまた激しく泣き出しました。

「メエエエエエエ~ン、オイオイオイ・・・・・メエエエエエエ~ンンンン、オオオオオオオ」

「しっ、黙って・・・・・」

 ぼくは、ベージュ羊に言いました。

 何かが聞こえてきた気がしたのです。

 チョッキン、チョッキン、チョッキン、チョッキン、チョッキン・・・・・・・・・・・・・・・・・・。

「聞こえる、チョッキンだ」

 ぼくが言うと、ベージュ羊は顔をガッと下に向け角を突き出して、グワァグワァグワァと鼻息を荒げ、後ろ足でカケケケカカカカと地を何度も蹴りました。

「羊はみんな翼を切られる。羊の翼はチョッキンにみんな刈られるっ。メエエエェーッ!」

 ベージュ羊は、吠えるように言うのでした。そのくせ虚勢を張ってるような、倦怠的な弱々しい感じがするのでした。

「諦めちゃだめだ! やけっぱちになっちゃだめだ!」

 ぼくは、せいいっぱい力強く言いました。

 ベージュ羊がかわいそうでありませんでした。黒マントとチョッキンが憎くて怖くてなりませんでした。

「自分をしっかり持っていなくっちゃあ」

 ぼくはまた力強く言いました。なにしろこれまで、いつものんびりしてて、こんな事態なんて考えたこともありませんから、何をどう言っていいかわかりません。ただぼくも怖くて仕方ありませんから、自分に言い聞かせるようにそう言いました。

「黒マントとチョッキンを見たことないから、そんなかっこつけたこと言えるんだ」

 ベージュ羊がプイと言いました。ベージュ羊は、ほんとに黒マントとチョッキンに蝕まれているようでした。

 チョッキンチョッキン・・・・・また音がしたような気がしました。

「ほんとに来たみたいだよ。逃げよう」

 ぼくは、焦って言いました。だんだん怖さが増してパニックになりそうでした。

「さっき言ったろう、黒マントが、チョッキンは天からもらったって言ったって。天からもらったチョッキンを持ってるんだ。どこに逃げてもだめさ。おいら、ここに来るまでがせいいっぱいさ。もう力が残ってない・・・・・」

 ベージュ羊は、本当に疲れきっているらしく、起き上がろうともしません。

 ぼくは、はっとしました。ひらめいたのです。ぼくは手を打って言いました。

「ね、天に行こう! ぼくたちも天からチョッキンをもらうんだ! 黒マントのよりももっといいやつを! そしてぼくたちのチョッキンで、黒マントのチョッキンをチョッキンしてしまうんだ!」

「でもおいらにはもう、翼がない。天まで飛べない。メエエェ」

 ベージュ羊は、首を横に振りました。

「ぼくが飛ぶ! ぼくにつかまってるといい。さ、いくぞ」

 ぼくは、ベージュ羊をぼくの後ろ足につかまらせて飛び立ちました。

 バッサバッサバッサバッサ・・・・・・・・・・・・・。

 バッサバッサバッサバッサ・・・・・・・・・・・・・。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。

羊を一匹ぶらさげて飛ぶのはなかなか大変です。すぐに疲れて落ちそうになりました。

ぼくは後悔しました。

「天まで飛ぶなんて大変だなぁ」

 ぼくは、「行くのを止めようよ」と言おうと思って何度も何度も、足下のベージュ羊を見下ろしました。v そのたびに、歯をくいしばってぼくの足をつかんでいるベージュ羊の、必死な姿が見えて、(ぼくに命を預けている方も大変なんだなぁ)と思って仕方なく飛びつづけるのでした。

 雲を突き破って、なおもずんずん天に向かっていった時です。

 ぼくは、ベージュ羊に握り締められている足首が痛くなって、ちょっと足を揺すりました。

 そのとたんです。

「あーぁぁぁぁぁああああああ~」

 ベージュ羊は、哀しげな悲鳴を残して落ちていきました。

(なんてことだぁー)

 ぼくは、絶望のあまり頭の巻き毛をめちゃくちゃにかき回しました。

 ところが、ベージュ羊が、雲の端にしがみついたのです。

 前足でしっかりつかんでいるのです。

 ぼくは急いで下降し、ベージュ羊のそばまで行きました。

 ベージュ羊のくるくる巻き毛が、針ネズミの毛のようにおっ立って、まるでお化け羊みたいになっています。

「やめるかい? もう草原に戻るかい?」

 ぼくが聞くと、ベージュ羊は、身体をブルルルと振りました。おっ立った毛が「シャカシャカ」と鳴り、「いやだいやだ」と言いました。

 ぼくは、(ベージュ羊は何が何でもチョッキンが欲しいんだ)と覚悟を決め、またベージュ羊をぶら下げて飛びました。

 だいぶ飛んで天に近くなった頃です。

 ぼくは眩しくてならないので飛ぶのをやめ、空に浮かんで天上を見上げました。

 太陽の光の角度と違いますから、太陽の眩しさではないと思ったのです。

「どうしたんだい?」

 ベージュ羊が聞きました。

「何か眩しいものがあるみたいなんだ」

 ぼくは、そう言いながら、ベージュ羊をぼくの肩につかまらせました。

 ぼくとベージュ羊は、二匹で並んで天を仰ぎました。

「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」

「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」

 二本の尖った棒が交差した形のものが、天を覆ってピカピカ光っているのです。

「あれがチョッキンなんだね」

 ぼくが言いました。

「そう、あれがチョッキンなんだ」

 ベージュ羊が答えました。

 チョッキン、チョッキン、チョッキン

 チョッキン、チョッキン、チョッキン

・・・・・・・・・・・・・・・・・

 天のチョッキンが鳴り響きました。

 まるでぼくとベージュ羊が来るのを待ってたように、巨大な姿を悠々とあらわしているのです。

「チョッキン。ぼくたち、あれが欲しくて来たんだ」

「黒マントなんか怖くない」

「そうさ、あんなに大きくて鋭いんだもの」

「黒マントなんか返り討ちさ」

「やったねっ」

「うん、やったね」

 ぼくたちは、天のチョッキンを見つめながら、そんなことを言い合いました。とめどなくそう言いつづけました。

 夜が来てもチョッキンは、ぼくたちの見上げるすぐ上にありました。満天の星の中で、星よりもなおきらめいているのでした。

 チョッキンはぼくたちが呼んだら、流星のように飛んできて、ぼくたちの前足に止まってくれるでしょう。

 ほんとにそれを待ってるかのように、ずうっとそこにあるのでした。

「いつまでもこうしていられないよ。チョッキンを呼ぼう・・・・・か?」

 ぼくは思い切って言いました。

「おいら、チョッキン、いらないよ。ごめんな。ここまで来てくれたのに。でも、おいら・・・・・いらない・・・・・」

 ベージュ羊が、ぼくの顔をきっと見つめて答えました。

「・・・・・・・・!」

 ぼくは、ちょっと驚きました。

「目には目を!

 チョッキンにはチョッキンだろ」

 ぼくは、言いました。

「それでも・・・・・いらない」

 ベージュ羊はきっぱりと言いました。

「おいら、君がおいらをぶらさげて一生延命飛んでくれてた時、最初は、黒マントに勝てるチョッキンが欲しいと思ってた。・・・・・でもおいら、しだいに気持ちが変わってきた。おいらの翼を切った時の黒マントのことを思いだして、(なんであの時、あいつはあんなに悲しそうな苦しそうな顔だったんだ?

 天に行ったら、その謎がわかるかもしれない。とにかく行こう)って思うだけになった。・・・・・なぜだかわからない。おいら、気持ちがすごく落ち着いた」

「えー、危なっかしかったろう。ぼく、君が重くて大変だったんだよー」

「ごめんよ、クスクス・・・・・」とベージュ羊は笑って、

「だけど、おいら、気持がすごく安らいでいた。そして、チョッキンなんかいらない。翼がなくてもおいら、平気だ。黒マントが来ても、平気だって思うようになっていた。ごめんよ、君は大変だったのに」

「それはいいさ。ぼくなんか、君がチョッキンが欲しいんだとばかり思って飛んでいた。ごめんよ。・・・・・それで、黒マントが悲しそうだったわけ、ここに来てわかったかい?」

 ぼくがそう聞くと、ベージュ羊は黙ってうなだれました。

 ベージュ羊の巻き毛はもとのようにくるくるに戻っていました。そのくるくるの胸の巻き毛に、ベージュ羊は涙をポトポト落としました。

 ポトポトポトポトポトポトポトポト・・・・・・・・・・・・・・。

 ベージュ羊の涙は、胸の巻き毛から腹に足に尾っぽにやがて全身の巻き毛につたっていきました。

 ぼくは、ベージュ羊が何で泣いているのかよくわかりませんでした。

 でも、なんとなく少しわかりました。

 ベージュ羊は黒マントが好きだったんだって。黒マントのために泣いているんだって。

 ぼくはそのままベージュ羊が泣いているのを、そっと見ていました。

 しばらくしてぼくは、

「あー!」と声をあげました。

 ベージュ羊の背中から、真っ白な翼が出ているのを見たからです。

 まるでそれは春先に出る草の新芽のように、見るからに柔らかそうで小さな翼でした。

「君っ、翼だっ、翼がはえてるっ」

 ぼくは、叫びました。

「えーっ、翼っ?」

 ベージュ羊はびっくりして、首をまわして自分の背中を見ました。

 ぼくは胸がいっぱいになって、どうしていいかわからない気持ちになりました。

 ぼくはただ黙って、ベージュ羊に前足を差し出しました。

 ベージュ羊も黙ったまま、ぼくの前足をぐいっと握りました。

 朝になって、天が明ける頃、やっとぼくたちは、草原に戻ることにしました。

 ベージュ羊は、小さな翼で自分で飛びました。

 ぼくたちは、もう何も怖くないのでした。

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森の町

あるところに、新しい町ができました。

 その町は、真ん中に公園があり、その公園を囲むようにして、白やベージュやモスグリーンの洒落た家々が並んでいました。

 公園は、緑の木々がいっぱい立ち並んで、まるで小さな森のようでした。

『森の町』

 新しい町は、そう名前がつきました。

 森の町の住民になった人たちは、住みはじめてすぐに、ここの暮らしが、とても心地よいものであることを知りました。

 駅まで徒歩で三十分くらいかかりますが、前方をさえぎるビルや、何かの看板が建っているわけではなく、空の青さを間近に感じながら、陽ざしをいっぱいに受けるのです。

 また公園の森が、南側の家だと裏の方に、北側の家だと表に、東側の家からだと西の方に、西側の家は東の方に見渡せて、爽やかな緑を楽しませてくれます。

 公園の木々は、丈があまり高くならない木たちばかりですから、公園の家の近くの家の日当たりを奪うこともなく、そしてどの家にも、さやさやさやさやと鳴る葉ずれを運んでくれるのです。森の町の人々は、どんなに仕事で疲れても、家に帰るとくつろいでゆったりとした気持を取り戻せるのでした。

 人々は、自然がどんなに自分たちにとって大切なものかを、つくづく思い、今の暮らしができることを誇りにすら感じるのでした。

 

 何年かたちました。

 森の町は、こどもの声があふれ、家々のベランダには洗濯物がひるがえり、時々犬や猫の声が響き、たまには人と人の諍いの声も聞こえたりして、人々の生活の匂いが、家々にも道路にもちょっとした空間にもしみて、とても暖かい色合いと活気に満ちていました。

 公園の木々も、季節季節にその木ごとに花が咲いたり、新芽が吹き出たり、葉が落ちたり、葉を紅く染めたり、そして刈られ、たまには折られ、人々にとってますますほどよい森となっていました。

 

 また何年かたちました。

 ある日のことです。

 公園の森の真ん中に、一本の杉の木が出ているのを、ひとりの人が見つけました。丈は赤ちゃんの背丈ぐらいです。その人は、近所の人たちを呼んできました。

「誰か、杉の苗木を植えたのかな?」

「今まで気がつかなかったね」

「どこからか種が飛んできて芽が出たんだよ、きっと。放っていこうよ」

「それにしても何杉かな? 吉野杉? 秋田杉かな? それともヒマラヤ杉か? レバノン杉かな?」

 森の町の人たちは、おもしろそうにそんなことを言いました。

 杉の木はずんずんずんずん大きくなりました。

 日毎に、ぐんぐんぐんぐん伸びました。

 人々は驚きました。杉の木があまりに早く伸びていくからです。

 人々のあれよあれよという驚きを尻目に、どんどんどんどんばりばりばりばりと、杉は空に向かっていきました。

 杉の木の伸び方は、まるで空気を切り裂いて飛ぶかみそりのような鋭さを持って、空に突き抜けていきました。

 人々は、公園を遠く取り巻いて見ているだけでした。

 そして、人々をもっと驚かせたのは、回りの木々たちでした。

 これまで丈を伸ばしていなかった木々たちが杉を追いかけるように、じりじりじりじりと丈を伸ばしはじめたのです。母親を追う赤ん坊のように、天に伸びる杉を目指してひたむきに伸びるのです。

 ずんずんずんずん・・・・・・・・・・・

 ぐんぐんぐんぐん・・・・・・・・・・・

 どんどんどんどん・・・・・・・・・・・

 ばりばりばりばり・・・・・・・・・・・

 じりじりじりじり・・・・・・・・・・・

 やがて、公園の小さな森は、大きな大きな山のような森になりました。

 

 大きな森は、森の西側と北側の地域を影で覆うようになりました。

 そして、日がな日がなざわざわざわざわと騒ぎました。風の勢いのある日は、ごうごうごうごうと、飛行機の爆音のように鳴り響きました。

 大きな森は、いかにも満ち足りたふうに、自分をそよがせ響かせました。

 人々は、はじめて知ったのです。

 ここは、もともとこうした森だったということを。そして森が、自分のために甦ったのだということを。森が生きるということは、こういうことだと。

「でも・・・・だからといって、このままでいいわけがない。私たちは全部のお金をこの家につぎ込んでいるんだ。ローンだって二十年かかっても払えないほど借りているんだ。・・・・・森の騒ぐ音はまだいい。風のない日は静かにしてくれるからな。だけど、太陽がほとんどささなくなったことは耐えられない」

 森の西側と北側の人たちが言いました。

「そうだな。そうだ、そうだ」

 森の町の人たちは、長い話し合いの末、山のようになった森の木を切ることに決めました。

 森の町の人々は、森と闘い森を倒すことに決めたのです。

 早速、木こりたちが雇われました。

 春のことです。

 森は、やわらかな若みどりや、深海に染まったような青い色や、透き通った草色や、黄色がかった緑色の新芽をいっせいに吹き上げていて、空いっぱいまで春の色に萌えていました。

 木こりたちは、別の町から朝未きに森の町に向かいました。

「おい、見ろっ」

 先頭を行っていた木こりが、指をさしました。その木こりの指は、森の町の森をさしていました。

「おおぅ」

 木こりたちは、森を見てうなりました。

 森の真ん中のあたりが、真っ赤な炎につつまれていたのです。

 木こりたちは、大急ぎで森に分け入り、炎の上がっているところまで行ってみました。

 炎につつまれていたのは、空にそびえ立つ杉の木でした。

 深紅の火炎が、杉の木を覆いつくして、時折、炎の先が暗い天まで駆けのぼり空じゅうを燃やすのでした。

 

 森の町は大騒ぎになりました。

 公園の森の杉の木が火事なのです。すぐに森全部に火がまわり、家々にも飛び火して、町中が焼きつくされてしまうにちがいありません。

「なんだぁ、あれ、火事じゃないよ。鳥だよぉ。へんだと思ったぁ、火事だったら熱いのに、ひとつも熱くないもん」

 最初に、炎と見えたものが、鳥だと気がついたのはこどものひとりでした。

 そうだったのです。 

 数えきれないほどの数の真っ赤な鳥が、杉の木にびっしりと止まっていたのです。

 鳥たちは、枝から枝に移ったり、小枝にとまって羽ばたいたり、羽毛をふるわせたり、くちばしで羽をととのえたり、時々いちどに空に飛び立ったりしていました。それが、炎が上がる様子に見えたりするのでした。

 一羽一羽の鳥の姿をよく見ますと、頭から尾っぽの先までの長さは、つばめぐらいですが、翼をとじてじっとしていると、とてもほっそりとして、まるで赤い紙で切った鳥のようでした。

 頭には、赤く光る冠のような羽が乗って、小さな顔のものすごく小さな双つの目玉は、石炭のような輝きをたたえています。

 くちばしはさほど尖ってなくて、南天の実のようにつやつやとしています。

 人々は、火事と思ったものが鳥とわかっても、あまりほっとした気持にはなれませんでした。

 鳥の数が多過ぎることや、見たこともない鳥なので、なんだか不気味な気持がするのでした。

 誰も、真っ赤な鳥たちを、「きれい」とも「かわいい」とも「おもしろい」とも言いません。怒ったような顔をして森を見上げ、立ちつくしているだけでした。なかには、口をあんぐりと開けて、いかにもボッケェとしている人もいました。

 こどもたちは、「怪獣の鳥だ」とか「妖怪の鳥」とかワイワイ騒いでいましたが、誰からともなく、「ボウボウ燃えてるみたいに見えるから、あの鳥はボウボウ鳥だ」と言い出して、みんなで、「そうだ、ボウボウ鳥だ。ボウボウ鳥、ボウボウ鳥」と言いました。

「さて、ボウボウ鳥をどうしよう。森の木をどうしよう」

 町の人々は、みんなで思案しました。

 ボウボウ鳥が、どこから来て、どういう鳥かわかりませんから、どうしたものやら皆目見当がつかないのでしす。

 

 その頃、森の町の小学校の先生が、学校の物置で探し物をしていたら、なにやら古びて赤茶けた紙の束が、奥の方にあるのを見つけました。

 引っ張り出して見てみると、どうやらむかぁしむかぁしの生徒の作文集のようです。

 読んでいくと、朝顔が一本のつるに百個も花をつけたとか、かぶとむしが降るように飛んできたとか、トマトを盗んでじいちゃんに死にそうなほどひっぱたかれたということなどが、飾らない文章でとっととっとと書いてあって、なかなかおもしろいのでした。ついつい夢中になって、ページをめくっていました。

 だいぶページをめくって最後の方になった時です。先生の目玉が光りました。大きな字で一字一字しっかり書かれた文章のなかに、『ボウボウ鳥』という文字を見つけたからです。それは、『ばあちゃん』という題の作文でした。

 

    『ばあちゃん』

わたしは、ボウボウ鳥と会いました。山のずうっと奥の方で会ったのです。ばあちゃんが死んだ次の日の朝です。

 

わたしは、ばあちゃんとふたりきりで暮らしていました。父ちゃんは、戦争にいって死んで、母ちゃんは病気で死にましたから、ばあちゃんとふたりきりだったのです。よその人が、わたしに、父ちゃんも母ちゃんもいなくてさびしいだろ? といいましたが、わたしはひとつもさびしくありませんでした。だって、ばあちゃんはやさしくて、わたしの考えや思うことをよく聞いてわかってくれました。わたしは、ばあちゃんがだいすきだったのです。

そのばあちゃんが、死んでしまいました。おなかが痛い痛いといって、となり町のおばさんが来て、病院につれていってくれたけど死んでしまいました。

死ぬまえに、ばあちゃんは、わたしの手をぎいっとひっかくようににぎっていいました。

    「ばあちゃんが死んでも、悲しいことはないぞ。ばあちゃんは、山の奥のボウボウ鳥になって、いつもボウボウボウボウ燃えているからな。さびしがらずにしっかりと生きろや。ばあちゃんもさびしゅうないぞ。ボウボウ鳥は、人もけものも虫も、みんないっしょくたで燃えている。賑やかなもんよ。だから悲しむことはないぞ」

     わたしは、ばあちゃんが死んだ次の朝、山に行きました。ばあちゃんは、さびしがるなといったけど、わたしは、さびしくてたまりませんでした。だから行ったのです。そしたら、何時間も歩いて疲れて休んだ時、真っ赤な鳥が、大きな木の枝に止まっているのが見えました。枝の先に、ローソクの火が灯っているようでした。

    「ばあちゃんだっ!」

     わたしは、ばあちゃんのボウボウ鳥をみつめながら、わぁわぁわぁわぁ泣きました。ばあちゃんは、さびしくないといったけど、そのボウボウ鳥は、ひとつぽっちで燃えていて、わたしよりさびしそうにみえました。わたしは、「ばあちゃん、ばあちゃん、ばあちゃん・・・・・・」と百ぺんぐらいいいました。

     ばあちゃんは、何も答えないで、しずかにボウボウボウボウと燃えていました。

     わたしは悲しかったけど、泣くのをやめて森をでました。

 

 先生は、すぐにこの作文集を持って、町の人々に見せました。

「ほう、すると、あのへんな鳥は、昔からいる鳥で、もともとボウボウ鳥とい

うんだね」

「この作文の子は、いつ頃の子だろう。戦争で死んだお父さんを亡くしたよう

だが、いつの戦争かな。太平洋戦争かな、もっと前の戦争かなぁ」

「森の町の小学校は新しいのに、なんでこんな昔のものがあったんだろう」

「先生か誰かがよそから持ってきて、しまっていたのかもしれないね」

「ともかく鳥のことを、地元の人に聞いてみよう」

 森の町の人々は、森の町の近くの地域のお年寄りをさがして、真っ赤な鳥のことを聞いてみました。

 そしたらこのあたりは、森の町ができる前、杉を中心にたくさんの大きな木々の茂った山で、真っ赤な鳥たちが山を染める言い伝えが、昔からあったことがわかりました。言い伝えでは、死んだものの霊魂が、赤い鳥になるということでした。

「作文のこどもが見たボウボウ鳥は、一羽だけのようだが、なぜ今、あんなにたくさん出たんだろう? 最近、この町で人が死んだわけじゃないのに」

 森の町のひとりが、そう聞きますと、お年寄りはこう言いました。

「新しい町をつくるため、ぜーんぶ木を切ってしまったからね。そのために死んだに違いないものたちが、今ボウボウ鳥になったんでないか? わしの聞いたところでは、ボウボウ鳥は、あちこちの山や森に出ることがあるってよ。あっちの森にボウボウ、こっちの森にボウボウだよ」

 それを聞いた木こりたちが言いました。

「おれたち木を切るのは、断るよ。霊魂がボウボウ燃えているんじゃ哀れで切れないよ」

 そしてさっさと、自分たちの町に帰ってしまいました。

 森の町の人たちは、またまた頭をかかえました。

 死んだものたちが、赤い鳥になったとしたら、木こりの人が言ったように、たしかに哀れでかわいそうに思えます。気持が悪いと思う人もいました。

「だけど、やっぱ、いま生きてる我々だってこのままじゃかわいそうだ」

「そうとも! 死んだものより、今生きてる自分たちのことの方が大事だよ」

「そうだ! 森は切ってしまおう」

 結局、森はボウボウ鳥もろとも切ってしまうことになりました。

 でも、木こりたちは、頑として「いやじゃ」と言います。

 遠くの町の木こりも、ボウボウ鳥のうわさを聞いていて、「切るのはいやじゃ」と言います。

 それで森の町の人たちは、木を切る機械を借りて、自分たちで切ることに決めました。切る時は、大人もこどもも、町じゅうの人間が、一緒に力を合わせて切ることになりました。

 

 その日、季節は雨期になっていました。

 雨が何日も何日も降りつづいています。

 町の人々は、雨のなか森の前に集まりました。

 森の木々は、鮮やかな緑を深くして、せいせいとした様子で雨に濡れています。

「さあ行くぞ。まずボウボウ鳥のいる杉の木を切って、その後、森全部切ってしまおう」

 人々は、森に押し入り杉の木のところまで行きました。

 ボウボウ鳥たちも、雨に濡れながら雨を嫌がるふうもなく、ボウボウボウボウ赤い火を燃やしています。

 人々が、木を切る機械を頭上にかかげました。ここまできたら、もうひるんでも仕方ありません。

「やるしかない」

 ひとりの人が、うめくように言いました。

 その時です。

 バババババババババババババババババーッ

 突然。雷が鳴り雷光が走りました。

 あたりが、照明をあてたように明るくなりました。

「あっ」

 人々の口から叫び声がもれました。

 雷の光のなかに、杉の木やまわりの木に抱かれるようにして、眠っている生き物たちが浮かび上がったからです。杉の木は、生き物たちを懐に抱くようにして、葉を広げ枝を伸ばしているのでした。

「ボウボウ鳥は、死んだものの霊魂じゃなくて、いま生きているものの魂なんじゃないか? 生きたい、生きたいってね」

 誰かがつぶやきました。

「・・・・・じゃ、作文の子が見たのはばあちゃんじゃないのか?」

「・・・・・あの子自身だったのかもしれない」

「・・・・・そうかもしれない。あっちの森、こっちの森に出るって鳥も、あっちこっちで生きている何かが燃えているのかもしれない。生きたい生きたいって」

 人々はすっかり、戦意をなくしてしまいました。

「どうしよう・・・・・。私たちも生きたい。この生き物たちも生きたい。生きたい生きたい」

 みんな機械を下に置いて考え込みました。

「わかった、こうしよう!」

 別の人が、指をならしました。

「どうするんだね?」

「森は切らないんだ」

「じゃ、西側と北側の人たちの日当たりはどうするんだね?」

「簡単さ、わたしたちが、一年ごとに家をかわるんだ。南側の人は西側に移り、西側の人は北側に移り、北側の人は東側に、東側の人は南側に移るのさ」

「そうか。そうすると、一年ごとに日当たりの良い年や悪い年が回ってくるんだ」

「なんだか、太陽を求めて旅するみたいでいいなぁ」

「一年ごとに、荷物を持って引越しは大変だなぁ。でも、ま、いいかぁ」

 森の町の人々は、口々にそう言いました。

 

 でも、森の町の人々は、荷物を持って一年ごとに引越しをしなくてもよくなりました。

 梅雨が明けて、からりとした夏が到来してきた日の朝のことです。

 町じゅうがつややかな光に染まりはじめた時、森の町が町ごと、町の真ん中の山のような公園を軸に、時計のように回りはじめたのです。

 それから町は、ずうっと回りつづけているのです。

 町の人々が目をまわしたり、気持ちが悪くならない速度に、静かに静かに回るのです。だからどの家も、陽があたったり影がさしたり、また陽があたったり影がさしたりするのでした。

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