北国

  人 生

M博士の「地球の生成」という書物の頁を開きな

がら、私は子供に解りよく説明してやる。

――物理学者は地熱から算定して地球の歴史は二

千万年から四千万年の間だと断定した。しかるに

後年、地質学者は海水の塩分から計算して八千七

百万年、水成岩の生成の原理よりして三億三千万

年の数字を出した。ところが更に輓近ばんきんの科学は放

射能の学説から、地球上の最古の岩石の年齢を十

四億年乃至ないし十六億年であると発表している。原子

力時代の今日、地球の年齢の秘密はさらに驚異的

数字をもって暴露されるかもしれない。しかるに

人間生活の歴史は僅か五千年、日本民族の歴史は

三千年に足らず、人生は五十年という。父は生ま

れて四十年、そしておまえは十三年にみたぬと。

――私は突如語るべき言葉を喪失して口をつぐんだ。

人生への愛情がかつてない純粋無比の清冽さで襲っ

てきたからだ。

 

 

   猟 銃

 

なぜかその中年男は村人の顰蹙ひんしゅくを買い、彼に集

まる不評判は子供の私の耳にさえも入っていた。

ある冬の朝、私は、その人がかたく銃弾の腰帯バンド

しめ、コールテンの上衣うわぎの上に猟銃を重くくいこ

ませ、長靴で霜柱を踏みしだきながら、天城への

間道のくさむらをゆっくりと分け登ってゆくのを見た

ことがあった。

それから二十余年、その人はとうに故人になった

が、その時のその人の背後うしろ姿は今でも私のまぶた

ら消えない。生きものの命断つ白い鋼鉄の器具で、

あのように冷たく武装しなければならなかったも

のは何であったのか。私はいまでも都会の雑踏の

中にある時、ふと、あの猟人ひとのように歩きたいと

思うことがある。ゆっくりと、静かに、冷たく

――。そして、人生の白い河床をのぞき見た中年

の孤独なる精神と肉体の双方に、同時にしみ入る

ような重量感を捺印スタンプするものは、やはりあの磨き

光れる一個の猟銃をおいてはないかと思うのだ。

 

 

   海 辺

 

土地の中学生の一団と、これは避暑に来ているら

しい都会の学生の一団とが擦れ違った。海辺は大

方の涼み客も引揚げ、暗い海面からの波の音が急

に高く耳についてくる頃であった。擦れ違った、

とただそれだけの理由で、彼らはたちまち入り乱れて

決闘を開始した。驚くべきこの敵意の繊細さ。浜

明りの淡い照明の中でバンドが円を描き、帽子が

とび、小石が降った。三つの影が倒れたが、また

起き上がった。そして星屑ほしくずのような何かひどくぜい

たくなものを一面にきちらし、一群の狼藉者ろうぜきものども

は乱れた体型のまま、松林の方へ駈けぬけて行った。

すべては三分とはかからなかった。青春無頼の演

じた無意味にして無益なる闘争のまぶしさ。やがて

海辺はまたもとの静けさにかえった。私は次第に

深まりゆく悲哀の念に打たれながら、その夜ほど

遠い青春への嫉妬しっとを烈しく感じたことはなかった。

 

 

   北 国

 

いかにも地殻の表面といったような瓦礫がれきと雑草の

焼土一帯に、粗末なバラックの都邑とゆうが急ピッチで

造られつつあった。焼ける前は迷路ラビリンスと薬種商の

老舗しにせの多い古く静かな城下町だったが、そんな跡

形はいまは微塵みじん見出みいだせない。日々打つづく北の

暗鬱なる初冬の空の下に、いま生れようとしてい

るものは、性格などまるでない、古くも新しくも

ない不思議な町だ。それにしてもやけに酒場と喫

茶店が多い。オリオン、乙女、インデアン、孔雀、

麒麟、獅子、白鳥、カメレオン――申し合わせた

ように星座の名がつけられてある。宵の七時とも

なると、町全体が早い店じまいだ。三里ほど向う

の日本海の波の音が聞えはじめるのを合図に、街

の貧しい星座たちの灯も消える。そしてその後か

ら今度はほんものの十一月の星座が、この時刻か

ら急に澄み渡ってくる夜空一面にかかり、天体の

純粋透明な悲哀感が、次第に沈澱下降しながら、

町全体を押しつつむ。確かに夜だけ、北国のこの

バラックの町は、かつて日本のいかなる都市も持た

なかった不思議な表情を持っていた。いわば、星

の植民地とでも言ったような。

 

 

   愛 情

 

五歳の子供の片言かたことの相手をしながら、突然つき上

げてくる抵抗し難い血の愛情を感じた。自分はお

そらく、この子供への烈しい愛情を死ぬまで背負

いつづけることだろう。こう考えながら、いつか

深い寂蓼の谷の中にたたずんでいる自分を発見した。

その日一日、背はたえず白い風に洗われていた。

盛り場の人混ひとごみにもまれても、親しい友の豪華な

書庫で、ヒマラヤ学術踏査隊うつす珍奇な写真集を

めくっても、所詮しょせん、私のこころはいやすべくもな

かった。夕方、風寒い河口のきり岸にひとり立っ

て、無数の波頭が自分をめがけて押しよせるのを

見入るまで、その日一日、私は何ものかに烈しく

復讐ふくしゅうされつづけた。

 

 

  葡萄畠

 

戦闘が烈しくなると、必ずちらっと鳥影のように

脳裡をかすめる思い出があった。本州の北のはし

の小さい都会、そのまた北の郊外の葡萄畠で、友

と過した十数年前のある日ひとときの記憶である。

その時私たちは明日の試験を棒にふって、有機化

学のノートを枕にして、神と愛と中世とギリシャ

について語り合っていたのだ。蓬髪ほうはつの下の友のひとみ

はつぶらで、頬は初々しく、その周囲で空気は若

葉にそまり、時は音をたてて水のように流れてい

た。怠惰で放埒ほうらつで、純粋で高貴であった一日!

私が大陸から帰還すると、友は入れ違いに応召し

てラバウルにあった。日々の新聞がその小さい南

の島のきびしい戦況を伝え始めると、私は大きい

感動をもって思わずにはいられなかった。かつ

私がそうであった如く、友もまた、必ずや死をも

って充満された時の中で、あの北の葡萄畠の一日

の思い出をあかず見入っているであろうと。

それから一年、終戦になってラバウルから部隊は

引揚げてきたが、ついに友の姿はなかった。友が

おそらく最後の瞬間まで胸に抱きしめていたに違

いない私と彼との共同の、遠い青春の日のカンバ

スの中で、果してその日の私の小さいしぐさや言

葉は、友のただれた想念を慰するに足るもので

あったか、どうか。この思いほど、私に取り返し

のつかない青春への悔を心痛く感じさせるものは

ない。

 

 

  ひとみ

 

七歳ごろであったろうか。明るい春の、風の強い

日、私は誰かに背後から抱いて貰って、庭の隅の

古井戸を覗き込んだことがある。こけむした古い石

組と生い茂った羊歯しだ、ひやりとする冷たい空気、

地上から落ち込んだその方形の空洞の底には、動

かぬ水がびた鏡のように置かれてあった。思う

に、私の生涯に大きい関係をもつ何ものかが、初

めて私のからだの中に這はいり込んできたのはその時

であった。

若し私が幼時のその春の日の一刻ひとときを持たなかった

ら、刺客の冷たい瞳を埋めた地中の暗処くらみをのぞか

なかったら、――私は二十歳の時友の眉間を割り、

二十五歳の時思想運動にはしり、三十歳の時恋愛に

生命いのちをかけ、三十五歳の時絶望の思いをもって永

定河を渡り、四十歳にしてあるいは市井に名をな

していたかも知れない。

しかしすべては違っていた。あの北支永定河の川波

に乱れ散るこの世ならぬ白い陽の輝きに、ふと生

命惜しからぬ戦いの陶酔を味わった以外、あらゆ

ることに、私は怠惰であり、常に傍観者でしかな

かったようだ。

 

 

  生 涯

 

若いころはどうにかして黄色の菊の大輪たいりんを夜空に

打揚げんものと、寝食を忘れたものです。漆黒の

闇の中に一瞬ぱあっと明るく開いて消える黄菊の

幻影を、幾度夢に見て床の上に跳び起きたことで

しょう。併し、結局、花火で黄いろい色は出せま

せんでしたよ。

――老花火師は火薬で荒れた手をひざの上において、

あざのある顔を俯向うつむけて、こう言葉少く語った。

黄菊の大輪を夜空に咲かすことはできなかったが、

その頃、その人は「早打ち」にかけては無双の花

火師だった。一分間に六十発、白熱した鉄片を底

に横たえた筒の中に、次々に火薬の玉を投げ込む

手練の技術はまさに神業といわれていた。そして

いつも、頭上はるか高く己が打揚げる幾百の火箭ひや

の祝祭に深く背を向け、観衆のどよめきから遠く、

煙硝のけむりの中に、独身で過した六十年の痩躯そうく

執拗しつように沈めつづけていた。

 

 

  記 憶

 

そこはどこか駅の近くらしく、時折、機関車の蒸

気の音が間近に聞えていた。木柵もくさくが長く続き、電

柱には暗い電燈が灯っていた。人足は跡絶とだえてい

たが、跡絶えているというより人々はこの路地の

あることをもう長いこと忘れているのかも知れな

かった。そんな道ばたにしゃがんで、私はともす

れば睡魔にたぐりよせられそうになっては、はっ

として眼を見開いた。その度に夜空いちめんにちりば

められた星が冷たく美しかった。

坊や睡ってはだめ、大きな包を持っている母は日

頃のやさしさに似ず邪慳じゃけんにそんな言葉しか投げな

かった。やがてどこからともなく父が現れた。坊

や睡ってはだめ、母と同じことをいって私の頭を

こづき、それから思い直したように抱き上げてま

た地面へおろすと、父はさきに立って歩き出した。

――それから私たちは家に帰ったのか、汽車に乗

ったのか、何をしたのか一切は記憶にない。ただ

知っていることは、その夜が父母の生涯で、最も

深い悲しみがふたりの心を埋めていた時の一つで

あったろうということである。年々歳々、なぜか

父母のその夜の不幸を星の冷たい輝きで計量する

私の確信は動かすべからざるものになってくる。

 

 

  元 氏

 

河北省南西部の元氏という小さい部落でわれわれ

は崩れかかった城壁の上にせっせと土嚢どのうを積んだ。

やがて何時間か後には行われるであろう敵襲に備

えて、おのおの自分の前のとりでを補強するために忙

しい日没の一刻ひとときを過していたのだ。その時の不思

議に静かな薄暮の訪れを、初冬の平和な村々の茂

りを、遠く地平のあたりを南下して行った烏の大

群を、そして遥か西方の山裾にしきりに打揚げら

れる烽火のろしの煙を、あるいは又その時われわれ三人

が交したひどく屈託のない会話を、それら一切を

いま思い出すことのできるのは私ひとりである。

右の友も左の友も、その翌日からはこの世にいな

いのだ。あの夜にはいったい何が行われたと言う

のか。激戦――そんな濁った騒がしいものは微塵

も起りはしなかった。運命の序列、そうだ、われ

われが持っていてしかも知らないおのが運命の序列

を、仮借かしゃくなくつきつけて見せるひどく冷たいもの

が、あの夜の闇の中を静かに、だが縦横に走って

いたのだ。そして硫酸のような雨が音もなく、しか

しこやみなくわれわれの精神の上に降り注いでい

たのだ。

 

 

  カマイタチ

 

学校へゆく途中に犀ケ崖さいががけという小さい古戦場があ

った。昼でも樹木鬱蒼うっそうとした深い谷で、橋の上か

らのぞくと、谷底にはいつも僅かな溜り水が落葉

をひたしていた。ここは日暮時にカマイタチが出

るというのでみなからおそれられていた。カマイタ

チの姿を見たものもない。足音を聞いたものもな

い。が、そいつは風のようにやってきていきなり

鋭利な鎌で人間の頬やももを斬るという。私たちは

受験の予習でおそくなると、ここを通るのが怖か

った。かばん小腋こわきにかかえて橋の上を走った。

ある時、学校で若い先生がカマイタチの話を科学

的に説明してくれた。大気中に限局的な真空層が

生じた場合、気圧の零位への突然なる転位は鋭い

剃刀かみそりの刃となって肉体に作用すると。そして犀ケ

崖の地勢はかかる大気現象を生起しやすい特殊な

条件を持つものであろうと。

その時からカマイタチという不気味きわまる動物

への恐怖は私から消失したが、私が人生への絶望

的な思惟の最初の一歩を踏み出したのは、恐らく

この時なのであろう。私はいまでも、よく、ふと

カマイタチのことを思い出すことがある。突如、

全く突如、人間の運命の途上に偶発するカマイタ

チ的エア・ポケットの冷酷なる断裁! すでに犀

ケ崖は埋立てられ、何年か前から赤土の街道がま

っすぐに旧陸軍飛行場に走っているが――。

 

 

  不 在

 

音信不通になってから七年になるが、実はその間

に一度、私は汽車にゆられ、船にのり、その人を

訪ねて行った。が、その人は学校の父兄会に出掛

けて不在だった。私は黙って気付かれぬようにし

てまた帰ってきた。

神の打った終止符を、私はいつも、悲しみという

よりむしろ讃歎の念をもって思い出す。不在とい

うそのささやかな運命の断層に、近代的神話の香

気を放ったのは誰の仕業であろうか。実際、私の

不逞貪婪ふていどんらんな視線を受ける代りに、その人は、窓越

しに青葉の茂りの見える放課後の静かな教室で、

しつけと教育についてこの世で女の持つ最も清純な

会話を持っていたのだ。

 

 

  漆胡樽しつこそん   ――正倉院御物展を観て——

 

星と月以外、何物をも持たぬ沙漠の夜、そこを大

河のように移動してゆく民族の集団があった。若

者の求愛の姿態はいまだ舞踊の要素を失わず、血腥ちなまぐさ

い争闘の意欲はなお音楽のリズムを保ち、生活は

豪宕ごうとうなる祭儀であった。絡繹らくえきとつづく駱駝らくだたちの

背には、それぞれ水をいっぱい湛えた黒漆角型の

巨大な器物が、振り分けに架けられてあった。名

はなかった。なぜならそれは生活の器具というよ

り、まさに生活そのものてあったから。――漆胡

樽、後代の人はく名付けたが、かかる民族学的

な、いわば一個の符牒ふちょうよりほかに、いかなる命名も

あり得なかったのだ。とある日、いかなる事情と

理由によってか、一個の漆胡樽は駱駝の背をはな

れ、民族の意志のくらい流れより逸脱し、孤独流離

の道を歩みはじめた。ある時は速く、ある時はお

そく、運命の法則に支配されながら、東亜千年の

時空をひたすらまっすぐに落下しつづけた。そし

て、ふと気がついた時、彼は東方の一小島国の王

室のやわらかい掌の上に受けとめられていた。正

倉院北庫の中の冷たい静かな、しかしかすかなはな

やぎを持った静止が、そのびょうぼうたる歴程の

果てにおかれてあったのだ。

さらに二千年の長い時間が流れた。突如、扉はひ

らかれ、秋の陽ざしがさし込んできた。この国の

もった敗戦荒亡の日の白いうつろな陽ざしであっ

た。日ごと群がり集う人々の眼眸はいたずらに乾き

疲れ、悲しく何ものかに飢えていた。傲岸ごうがんな形相

の中に一まつの憂愁を沈めた漆胡樽の特異な表情は、

それと並ぶ華麗絢爛けんらんな数々の帝室の財宝のいずれ

にも増して、なぜか人々の心にしみ入って消えな

かった。巨大な夢を燃焼しつくした一個の隕石いんせき

面にただよう非情のかげりだけが、ふしぎに悲しみ

をすら喪失したこの国の人々のこころに安らぎを

与えるのであった。

 

 

  シリア沙漠の少年

 

シリア沙漠のなかで、羚羊かもしかの群れといっしょに生

活していた裸体の少年が発見されたと新聞は報じ、

その写真を掲げていた。蓬髪ほうはつの横顔はなぜか冷た

く、時速五〇マイルを走るという美しい双脚をも

つ姿態はふしぎに悲しかった。知るべきでないも

のを知り、見るべきでないものを見たような、そ

の時の私の戸惑いはいったいどこからきたもので

あろうか。

その後飢えかかった老人を見たり、あるいは心おご

れる高名な芸術家に会ったりしている時など、私

はふとどこか遠くに、その少年の眼を感じること

がある。シリア沙漠の一点を起点とし、羚羊の生

態をトレイスし、ゆるやかに泉をまわり、真直ぐ

に星にまで伸びたその少年の持つ運命の無双の美

しさは、言いかえれば、その運命の描いた純粋絵

画的曲線の清冽せいれつさは、そんな時いつも、なべて世

の人間を一様に不幸に見せるふしぎな悲しみをひ

たすら放射しているのであった。

 

 

  渦

 

静かな初冬の日、藍青一色にいだ南紀の海はそ

の一角だけが荒れ騒いでいた。波浪は鬼ケ城と呼

ばれるその岬の巨大な岩壁をみ、底根しらぬ岩

礁のはざまはざまに、幾つかの大きい渦をつくっ

ていた。むかし鬼がんでいたと伝えられる広い

岩のうてなの上に立って、私はときの過ぎるのも忘

れて、ただ刻まれては崩されている渦紋の孤独ごう

がんなマスクに心うばわれていた。

そこの旅から帰り、都会の喧噪けんそうな生活の中に立ち

戻ってからも、私はよく、夜更けの冷たいベッド

の中で、そこ遠い熊野なだの一隅のくらい潮の流動を

思いうかべることがある。そんな時きまって思う

のだ、あそこには鬼が棲んでいたのではない、棲

んでいた人間が鬼になったのだと。そしていまこ

の瞬間もまた、あの暗褐色の濡れた肌へに息づき、

くろい潮のおもてに隠見しているに違いない名知

らぬの、この世ならぬみどりの切なさを見つめて

いると、真実、いつか鬼以外の何ものでもなくな

っているおのが心に冷たく思い当るのであった。

 

 

  流 星

 

高等学校の学生のころ、日本海の砂丘の上で、ひ

とりマントに身を包み、仰向あおむけに横たわって、星

の流れるのを見たことがある。十一月の凍った星

座から、一条の青光をひらめかし忽焉こつえんとかき消え

たその星の孤独な所行ほど、強く私の青春の魂を

ゆり動かしたものはなかった。私はいつまでも砂

丘の上に横たわっていた。自分こそ、やがて落ち

てくるその星を己が額に受けとめる、地上におけ

るただ一人の人間であることを、私はいささかも

疑わなかった。

それから今日までに十数年の歳月がたった。今宵、

この国の多恨なる青春の亡骸なきがら――鉄屑てつくず瓦礫がれき

荒涼たる都会の風景の上に、長く尾をひいて疾走

する一個の星を見た。眼をとじ煉瓦を枕にしてい

る私の額には、もはや何ものも落ちてこようとは

思われなかった。その一瞬の小さい祭典の無縁さ。

戦乱荒亡の中に喪失した己が青春に似て、その星

の行方は知るべくもない。ただ、いつまでも私の

まぶたから消えないものは、ひとり恒星群から脱落

し、天体を落下する星というものの終焉のおどろ

くべき清潔さだけであった。

 

 

  半 生

 

亡き将棋の坂田八段は、どうにも出来ぬ一角につ

い打ってしまったおのが不運な”銀”を見て言った。

「ああ、銀が泣いてる!」と。

生涯をひたすら燐光りんこうのごとき戦意もてつらぬき、

不逞傲岸ふていごうがんの反逆の棋風の中に、常に孤独の灯をか

ざしつづけたこの天才棋士の小さいエピソードを、

これも今は亡き織田作之助の短い文章で読んだ時、

私は絶えて覚えたことのない烈しい不安を感じて、

つと暗い夜のひらく北の窓に立った。

今にして思えば、この瞬間、私は過去半生から復

讐の鋭いもりを身内深く打ちこまれたのであった。

びょうぼうかわらのごとき過ぎし歳月、そのおちこち

に散乱する私の愚かな所行の数々が、その時ほど

鮮やかに私の悔恨を拒否し、過失たることを否定し、

私に冷たくびらを向けて見えたことはなかった。

私は己が人生が打ち出した不幸な”銀”たちの慟哭どうこく

を、遠くに郊外電車の青いスパークを沈めた二月

の夜の底に、一種痛烈な自虐の思いの中で聞いて

いたのだ。

 

 

  比良ひらのシャクナゲ

 

むかし「写真画報」という雑誌で”比良のシャクナ

ゲ”の写真をみたことがある。そこははるか眼下に

鏡のような湖面の一部が望まれる比良山系の頂きで、

あの香り高く白い高山植物の群落が、その急峻きゅうしゅん

な斜面を美しくおおっていた。

その写真を見た時、私はいつか自分が、人の世の

生活の疲労と悲しみをリュックいっぱいに詰め、

まなかいに立つ比良の稜線りょうせんを仰ぎながら、湖畔の

小さい軽便鉄道にゆられ、この美しい山巓さんてんの一角

辿たどりつく日があるであろうことを、ひそかに心

に期して疑わなかった。絶望と孤独の日、必ずや

自分はこの山に登るであろうと――。

それからおそらく十年になるだろうが、私はいま

だに比良のシャクナゲを知らない。忘れていたわ

けではない。年々歳々、その高い峰の白い花をまぶた

に描く機会は私に多くなっている。ただあの比良

の峰の頂き、香り高い花の群落のもとで、星に顔

を向けて眠る己が睡りを想うと、その時の自分の

姿の持つ、幸とか不幸とかに無縁な、ひたすらな

る悲しみのようなものに触れると、なぜか、下界

のいかなる絶望も、いかなる孤独も、なお猥雑わいざつ

くだらぬものに思えてくるのであった。

 

 

  高 原

 

深夜二時、空襲警報下の大阪のある新聞社の地下

編輯室で、やがて五分後には正確に市の上空を覆

いつくすであろうB29の、重厚な機械音の出現を

待つ退屈極まる怠惰な時間の一刻、私はつい二、

三日前、妻と子供たちを疎開させてきたばかりの、

中国山脈の尾根にある小さい山村を思い浮かべて

いた。そこは山奥というより、天に近いといった

感じの部落で、そこでは風が常に北西から吹き、

名知らぬ青い花をつけた雑草がやたらに多かった。

いかなる時代が来ようと、その高原の一角には、

年々歳歳、静かな白い夏雲は浮かび、雪深い冬の

夜々は音もなくめくられてゆくことであろう。こ

う思って、ふと、私はむなしい淋しさに突き落さ

れた。安堵でもなかった。孤独感でもなかった。

それは、あの、雌を山の穴に匿してきた生き物の、

暗紫色の瞳の底にただよう、いのちの悲しみとで

もいったものに似ていた。

 

 

  輸送船

 

初冬の海峡におそい月が出た。刃のような三角波

がくろい海面を埋め、くらげの息をひそめた眼が、

時折、波間から月をうかがっていた。その中を燈

火管制した輸送船は動くともなく動いて行った。

満載した兵隊の一人をもこぼすまいとするかのよう

に――。

いったい、いつ、どこへ上陸するのか――誰一人

知っている者はなかった。内地の最後の灯だとい

うどこかの燈台を、右舷うげんはるかに見送ってしまう

と、兵隊たちは申し合せたように船底に降りて、

おどろくほど深い睡りに落ちた。潮流のそこここに

無数の花が開き、祝祭にも似た異様な明るさが、

この不思議な船に立てこめ始めたのは、確かにそ

の頃からだった

 

 

  野 分(一)

 

漂泊の果てについに行きついた秋の落莫たるここ

ろが、どうして冬のきびしい静けさに移りゆける

であろう。秋と冬の間の、どうにも出来ぬ谷の底

から吹き上げてくる、いわば季節の慟哭どうこくとでも名

付くべき風があった。

それは日に何回となく、ここ中国山脈の尾根一帯

の村々を二つに割り、満目まんもくのくま笹をゆるがせ、

美作みまさかより伯耆ほうきへと吹き渡って行った。風道にひそ

いのししの群れ群れが、きばをため地にひれ伏して耐

えるのは、石をもそうけ立たせるその風の非常の

すさまじさではなく、それが遠のいて行った後の、う

つろな十一月の陽の白い輝きであった。

 

 

  野 分(二)

 

丈高い草、いっせいになびき伏し、石らことごとく

そうけ、遠い山腹のあか土のがけは、昼の月をかざ

してふしぎに傾いて見えた。

ああ、いまもまた、私から遠く去り、いちじんの

疾風はやてとともに、みはるかす野面の涯に駈けぬけて

行ったものよ。私はその面影と跫音あしおとを、むなしく、

いつまでも追い求めていた。ついに、再び相会う

なき悲しみと、別離の言葉さえ交さなかった悔恨

に、冷たく、背を打たせ、おもてを打たせ。

 

 

  石 庭  ――亡き高安敬義君に――

 

むかし、白い砂の上に十四個の石を運び、きびし

い布石を考えた人間があった。老人か若い庭師か、

その人の生活も人となりも知らない。

だが、草を、樹を、こけを否定し、冷たい石のおも

てばかり見つめて立った、ああその落莫たる精神。

ここ龍安寺の庭を美しいとは、そも誰がいい始め

たのであろう。ひとはいつもここに来て、ただ自

己の苦悩の余りにも小さきを思わされ、慰められ、

暖められ、そして美しいと錯覚して帰るだけだ。

 

 

  友

 

どうしてこんな解りきったことが

いままで思いつかなかったろう。

敗戦の祖国へ

君にはほかにどんな帰り方もなかったのだ。

――海峡の底を歩いて帰る以外。

 

 

  聖降誕祭前夜

去年のように、又一昨年のように、今年もまた選ば

れたる今宵、私たち三人は街角で落ち合った。誰

もが互いに何処からやって来たか知らなかった。

そして何処へ去るかも知らなかった。只知ってい

るのは三人が曾て一つ家に起き伏した遠い過去だ

けであった。女は私から背き去った幾年か前の妻

であった。又、少年はおびえたひとみを光らせて家庭

から感化院へ、そして感化院から何処ともなく姿

を消した私と彼女との、今は只一つ残された過ぎ

去りし明暮の記念かたみであった。

星の見える空のどこからか雪がおち、その雪の一

片一片を、彼女は白い絹手袋の上に受けながら、

彼女の犯した数々の情事の登録番号とその明細書

をば、私の曾て愛した黒い瞳を伏せながら静かに

読み上げていた。そしてその合間合間に少年は私

たちの顔色をうかがいながら、脱走と窃盗への憧憬を、

夢みるようにませた口調で訴えているのであった。

街は静かな祝祭だった。私は淡く雪を敷いた舗道

の上に立ちつくしたまま、何回か腕時計に眼を当

てていた。ときは近づきつつあった。彼ら二人に背

を向けて歩き出す聖なる刻が。

 

 

  さくら散る  ――四月の夜の抒情――

 

薄暮の坂街は後から後から続く興奮した人波で埋

まっていた。私もまた、今宵、何者かに殺害された

若く美しい人妻の屍体したいを、此の町の人々に慣って、

ひしめき合う群衆の間から垣間かいま見ようとする一人であ

った。人々はその女の死によって数多き醜聞スキャンダル

後を断つ喜びを口々に語りながらも、なぜか、この

東北の小都会、只一人の乗馬服の、その女人のしかばね

を見ずには居られなかった。

小高い丘の上に夜露を浴びて、星とかい合って

いる塑像の如き白い屍体。三十分前に途中下車で

この町に降り立った旅行者の私には一切が無関係

であった。その雪白の皮膚はだへからひとみを夜空に移そう

とした時、燐光りんこうの如く私の瞳を凍らせたものがあ

った。右腕の付根に私をうかがって息づいている蝶型

刺青いれずみ、それは紛うかたなき私自身のイニシアル

であった。冷たい夜気と群衆の瞳にさらされている

血の気を失った唇を凝視しながら、私は喪われた

遠い日の記憶を立ち返らせることにいつか夢中に

なっていた。今は顔容かおかたちすら記憶にないその少女の

唇によって、私は初めて、人間の営みの味気なさ

と、情欲の退屈さを知ったのであった。

私は煙草に火をつけ、群衆に逆らって坂街を降り

て行った。近くに海があるのであろうか。潮をふ

くんだ風が私の頬を洗っては、上気した犇き合う

人波の上を吹いていた。

 

 

  夜 霧

今やこの世において、私は只一人であった。今宵

ビルディングの壁面と衝突してばらばらに解体し

たバスの中で、妹は一冊のリーダーを冷たい舗道

に投げ出したまま昇天した。侏儒しゅじゅとのみ談合し、

昼を起きて夜をほっつき歩く私の悲しい性癖、そ

れを憂えて、妹は私をいさめるべく、今宵もまた、毎

夜のならわしの如く、私を追って家を出たのであ

ろう。

私は青い信号燈の下で、彼女が残した一冊のリー

ダーの頁を不思議としらじらとした気持でめくり

ながら、不図はしなくも、そこに幾頁かの落丁を

見出みいだしたのであった。そしてそれを凝視しながら、

私はいつか私自身の過去幾年かの落丁を、藍青の

花々の如く思い浮かべていたのであった。妹の死

に私は罪を負うべきであろうか。彼女が夜毎私を

追うて、幾つもの陸橋の上をさすらった如く、私

は今や、彼女に彼女のリーダーの落丁を報せる

べく、幾つもの街角を摸索しなければならなかっ

た。夜はとこしなえに続くであろう。私が妹に追

いつくまで。

 

 

  落 魄

しっぽに旗を立てて故里ふるさとに帰った。

 

故里は白い砂塵さじんの中にれかけていた。

 

 

  二 月

 

父と私を棄てた母、その母が今宵、背戸のくぬぎ

林の中に一人俯向いて立っている。曾て犯せしあや

まちの如く、母のおもては今も尚、若く美しいに違い

ない。

 

私は時折そっと暗い窓外を見遣みやりながら、父に聞

かせるために、さむざむと書物の頁をめくるので

あった。父はもう長いこと病床に横たわって、毎

夜の如く、私の読む書物に耳を傾けながら、いつ

か眠りにおちる習慣だった。

 

深夜、私は父の寝息をうかがって、そっと窓から

忍び出た。渓合たにあいの道を降りて行くと、くぬぎ林の

あちこちに、梅の花が白々と開いていた。しかし母

の姿はどこにも見えず、只刺客の息をひそめた幾

つもの眼が、冷たい夜気の底からじっと私をうかが

ているのであった。

 

 

  破 倫

 

夜ごと熊笹の藪を踏みしだいて帰った。樹々の茂

みをいて沼はいつもそのふてぶてとしたおもてを遠

く行手にさらしていた。時折、蝙蝠こうもりが肩をかすめ足を

さらって行った。

――気が付くといつも老樹の湿った樹肌に頬を押

しあてていた。かっと眼を見開き息を凝らして、

切ない憩を憩うていた。俺の母は火焙ひあぶりになった

のだ。舌を出して再び肩をそびやかして立ち上が

ると、きまって暗い沼の面には、月が血をたぎらし

ただよっているのであった。

 

 

  梅ひらく

 

北海道で不幸な姉は凍死したと言う。その報せが

今宵私の所へやって来た。私はドスをのんで灯の

ついた坂街を降りた。街衢がいくは森閑として人影なく、

どこか遠くからかすかに饗宴きょうえんのさざめきが花の如

く匂っていた。復讐ふくしゅうすべき仇敵は誰であろうか。

私は冷たい地べたに坐って星空をうかがった。私は十

六の少年であった。

 

 

  裸梢園

 

こずえと梢とは、刃の如く噛み合って、底知れない谷

を拡げていた。そこはいつも冷たい爽昧時あけがたであっ

た。そこには、からすの骨があちこちに散らばって、

時折、その上を氷雨がぱらぱらと過ぎて行った。

耳をすますと、いつも、乱れた幾多の跫音あしおとが遠の

いて行った。破れ傷ついた二月の隊列が、あてど

なく落ちて行くのだ。

 

 

  十月の詩

 

はるか南の珊瑚礁さんごしょうの中で、今年二十何番目かの

颱風たいふうの子供たちが孵化ふかしています。

 

やがて彼等は、石灰質の砲身から北に向って発射

されるでしょう。

 

そのころ、日本列島はおおむね月明です。刻一刻

秋は深まり、どこかで、謙譲という文字を少年が

書いています。

 

 

  六 月

 

海の青が薄くなると、それだけ、空の青が濃くな

ってゆく。

 

街に青のスーツが目立ってくる。それに従って、

山野の青が消えてゆくのだ。

 

六月――、移動する青の一族。その隊列を横切る

ために、私は旅に出なければならぬ。

 

 

  夏の終り

 

颱風たいふうがどこかでつぶれたのだろう、風船のように。

とにかく、ひどく冷や冷やしたものが、半島を南

から北へと流れて来た。

 

そのためかどうか、三組の渡り鳥が山の稜線をかす

め、雲という雲がごく僅かずつ動き始めた。やがて、

あたりが暗くなると、今年始めての清澄な月が顔

を出し、何億という虫がいっせいに騒ぎ立てた。

 

その夜、天城の山中で、私のまだ会ったことのな

い年下の従弟は、神代杉じんだいすぎの穴の中におちて死んだ。

詳しくは九時四十分から十時の間。不慮の事件に

は違いなかったが、どこかに正確なものがあった。

 

 

  その日そんな時刻

 

その日の、山の湖の青さも、静けさも、今から私

には、はっきりと眼に見えるようだ。残照は、西

の空からいつまでも消えず、私が籐椅子とういすから身動

きしない限り、薄暮は、いつまでも、より濃くも、

より淡くもならぬだろう。風は吹いているだろう、

山肌から天に向う高原特有の風が。その日は、夏

の終りか、しかすると、秋のはじめかも知れない。

その日、そんな時刻、一人の男の子と一人の女の

子は、私のもとからとび去って行く。父が富豪

でなかったことにあきれ、常に不運と共にあったこ

とを蔑み、いたずらにその容貌と性格が己れたちに似

通う愚かさを審判し、美しい光の如く、遠く翔び

去って再び帰って来ない。夜が刃を研いで私に忍

び寄って来るのは、それから間もなくだ。かつて、

私が私自身の父に残したような、あの、あらゆる

ものが透明に見えて来る、夜の時間が。

 

 

  ある旅立ち

 

花束が投げこまれたように、夕闇のたてこめた車

内は急に明るくなった。紀伊の南端の小さい漁村

の駅から、三人の姉弟が乗りこんできた。姉は二

十ぐらい、妹は十五、六、末の弟は中学一年生か。

三人は七個の荷物をリレー式に手渡して、網棚に

載せ終ると、走り出した汽車の窓を開け、三つの

顔をつき出して、母ちゃん、母ちゃん、と声を上

げて手を振った。富裕そうな白壁の家を背後に抱

いた堤の上に、母であろう、夕闇の中に白い人影

が立って、手を挙げて、それに応えていた。

 

やがて三人は窓を閉め、席に坐ると、顔を見合せ

て、くっくっと笑い、さて、姉は屈託なさそうに

岩波文庫を取り出し、妹はただ憂い深い美しい面

を伏せ、弟は林檎りんごを出してズボンでこすった。

 

二十年後、この花のような姉弟たちはどんな日を

迎えているだろうか。突如、私は不吉な予感におび

えた。そして、真実、私は祈った。かつて肉親にも

捧げたことのない敬虔さで、この明るい姉弟たち

しあわせを祈った。今宵、この一束の花たちにとっ

て、もはや不幸に向う以外、いかなる旅立ちも考

えられなかったからだ。

 

 

  元旦に

 

門松をたてることも、雑煮をたべることも、賀状

を出すことも、実は、本当を言えば、なにを意味

しているかよくは判らない。しかし、これだけは

判っている、人間の一生が少々長すぎるので、神

さまが、それを、三百六十五日ずつに区切ったの

だ。そして、その区切り、区切りの階段で、人間

がひと休みするということだ。

私は神さまが作ったその階段を、ずいぶんたくさ

ん上がって来た。今年はその五十段目だ。昭和三

十二年の明るい陽の光を浴びて、私はいまひと休

みしている。はるか下の方の段で、私の四人の子

供たちも、それぞれ新しい着物を着て、いまひと

休みしている。

 

 

 『北国』あとがき

 

 私は中学時代から詩を読んだり、詩を書いたりして来ているが、自分の作った詩というものは全部で知れた数である。現在ノートに収められているものは、片々たるものを入れても五十篇程で、昭和五、六年頃から約二十年間に書いたものである。勿論それ以前に書いた作品も何篇かあった筈だが、ノートには収めてない。自分で破り棄てたくらいだから、詩として形をなしていないものだったに違いない。

 私が小説を書き出した直後昭和二十五年の夏、詩人緒方昇氏から詩誌「日本未来派」へ今まで書いた作品をかためて発表してみないかという話があったので、私は手許てもとにある五十篇程の作品の中から三十四篇を選んで緒方氏に渡した。それが「日本未来派」三十七号に「井上靖詩抄」として掲載された。三段組にして十頁程の分量があった。

 私はその時ひどくさっぱりした気持になった。これで一応過去の詩の仕事にピリオドが打てた気持だった。そして私は、中学時代に、藤井寿雄君という詩を書く友人がいたお蔭で、到頭四十過ぎまで、この十頁程の詩のために苦労したなと思った。多少の感慨があった。

 中学の二年の時だったと思う。

 

 カチリ

 石英の音

 秋

 

 私はその友達からそんな短い三行の詩を見せられ、ひどく感心した。この詩を見たことが、私の詩との結びつきであった。これを見たお蔭で、私は詩に取りかれ、小説を書き出すまで、約二十年間、五十篇の詩のために苦労する仕儀となってしまったのである。現在でも、秋になって澄み渡った青い空を見ると、石英のぶつかる音がしているという、この短い詩を思い出す。藤井寿雄君は現在沼津の紙問屋の主人であるが、この詩を覚えているかどうか。

 それから、もう一度「婦人画報」へ「井上靖詩ノート」と題して二十篇ほどの作品を掲載したことがある。その話があった時、私は自分の詩の何篇かがもう一度活字になる運命を持ったことに驚いた。そしてそれと同時に、多勢の読者を持つ雑誌に掲載されるなんらかの意味を自分の作品が持つかどうか、考えてちょっと躊躇ちゅうちょせざるを得なかった。詩人の多くがそうであるように、私もまた自分自身と、少数の自分を理解してくれるかも知れない人のためにだけ書いて来たのである。

 私は自分の作品がいいものか悪いものか知らない。自分流の書き方で書いたものである。現代詩のきびしい資格審査を受けると、何篇かは詩としてパスし、何篇かは詩としては通用しないものかも知れない。

 しかし、どの作品も、どこかに詩と関聯を持っている文章だということは言える。これらのそれぞれ独立して一つの題名を持っている短い文章は、いろいろな関係の仕方で詩と関聯を持っているものであることには間違いはない。

 私はこんど改めてノートを読み返してみて、自分の作品が詩というより、詩を逃げないように閉じ込めてある小さい箱のような気がした。これらの文章を書かなかったら、とうにこれらの詩は、私の手許から飛び去って行方も知らなくなっていたに違いない。併し、こうしたものを書いておいたお蔭で、一篇ずつ読んで行くと、かつて私を訪れた詩の一つ一つが——ふと私の心にひらめいた影のようなものや、私が自分で外界の事象の中に発見した小さな秘密の意味が、どこへも逃げ出さないで、言葉の漆喰塗しっくいぬりの箱の中の隅の方に、昔のままで閉じ込められてあるのを感じた。

 そういう意味では、私にとっては、これらの文章は、詩というより、非常に便利調法な詩の保存器であり、多少面倒臭い操作を施した詩の覚え書きである。覚え書きなら、二、三行に書きつけておいてもいいわけだが、私はその何倍かの言葉を使って、詩の覚え書きを、比較的堅固頑丈なものにしたわけであった。

 従って、私の詩のノートに収められてある短い文章は、何らかの呪術じゅじゅつをかければ、それぞれそこから一つの詩が生れるといったていのものである。

 詩とは、厳しく言えば、恐らくその呪術であろう。呪術そのものに違いない。そして私はついにその呪術を発見できなかった詩人ということになるのであろう。

 私は小説を書き出してから、自分の詩のノートに収めてある作品から、何篇かの小説を書いている。詩としての優れた生命を持ち得なかった文章の幾つかは、私の小説の発想の母体となっている。それからまた全く形を変えて、それらが小説のある部分に使われているものもある。こうなってくると、私の持っているノートは、「詩のノート」ではなくて、「ある小説家のノート」とでも言った方がいいものかも知れない。

 

    *

 

 私の詩のノートの中の短い文章から、し読者が何ものかを受け取って下さるなら、それはやはり詩であるに違いないと思う。なぜなら、そこに仕舞われてあるものは、前述したように、私が曾てとらえた詩であるからである。その意味ではこれは正しく私の詩である。

 併し、厳しく言って、現在新しい詩人たちが取りかかっている作業は、これから先の部分であるし、またそうでなければならないと思う。それは読者が私の短い文章から受け取ったもの、そのものをもう一度言葉に依って構築しようという仕事である。私は長年かかったが、その構築法が判らなかった余り腕のよくない建築師ということになりそうである。そこでは、詩語と日常語は厳しく分けられなければならないし、文章法も全く違ったものが採用されなければならない。言葉の持っている音楽性というものも重要なものになってくるが、日本語の場合はこれがまた厄介なことになって来る。

 現在、沢山の詩の同人雑誌が出版され、多勢の若い詩人たちが詩を書いている。こうした詩に対して、一般に語られるのをきくと、必ず判らないということが決まり文句のように言われる。実際に判らないだろうと思うし、判らなくて当然だと思う。私自身、長年詩を読んだり書いたりしている者にも、判らない詩が多く、判る詩の方がずっと少い。併し、みんな、それぞれの方式で、自分の詩的な想念を言葉の建築で打ち出そうとしているのである。ただ、天才の力か、あるいは偶然の力をつ以外に、それが容易にできないであろうというだけのことである。詩を書くということは天才の仕事であると言われるが、確かにこの精神の奥底に設けられる秘密工場の作業は、特殊な才能の仕事であるに違いない。

 既に何冊かの高名な詩集を持っている詩人たちの仕事にしても、いい作品というものは極めて少いのではないか。一生のうちに何篇かの立派な詩が書けたら、その人は立派な詩人であるに違いない。

 私は自分の周囲に何人かの尊敬している詩人を持っているが、尊敬しているのは、彼等が作った何篇かの、自分も理解できたすぐれた少数の作品のためである。自分に理解できない、また自分に無縁な作品というものは、そうした尊敬している詩人の詩集の中にも沢山ある。

 私も小説を書かないで、若し詩と取り組んでいたら、一生の間に何篇かの詩が書けたかも知れない。併し、書けなかったかも知れない。詩とはそうしたものであろう。

 詩の座談会に行って殆ど例外なく感ずることは、出席者の数だけの全く異った言葉が、お互いに無関係に飛び交うていることである。自分の言葉も他人に依って理解されないし、他人の言葉も自分にはそのまま理解できない。お互いの言葉はそれぞれ相手には受け留められないで、各自のところへ戻って行く。

 併し、これは語る者の罪ではなく、詩というものが各人にとってそれほど特殊なものであるからであろう。お互いに、お互いが持っている秘密工場の作業は結局はのぞくことはできないのである。若しそこから強烈な爆弾が作られた時、初めて人々は一様に、その威力に驚嘆することで一致するだけである。私は詩とはそのようなものだと考えている。

 

(昭和三十三年二月) 

* 拾遺詩篇より

 

  そんな少年よ

    ―元日に―

 

これといって遊ぶものはなかった。私たちはただ村の辻

たむろして、棒杭のように寒風に鳴っていたのだ。

それでも楽しかった。正月だから何か素晴らしいものが

やって来るに違いないと信じていた。ひたすら信じ続け

ていた。私は七歳だった。あの頃の私のように、寒さに

身を縮め、何ものかを期待する心を寒風に曝している少

年はいまもいるだろうか。いるに違いない。そんな少年

よ、おめでとう。

 

俺には正月はないのだと自分に言いきかせていた。入学

試験に合格するまでは、自分のところだけには正月はや

って来ないのだ。そして一人だけ部屋にこもって代数の

方程式を解いていた。私は十三歳だった。あの頃の私の

ように、ひとり正月に背を向けて、くろずんだ潮の中で

机に向っている少年はいまもいるだろうか。いるに違い

ない。そんな少年よ、おめでとう。

 

私は何回もポストを覗きに行った。私宛ての賀状は三枚

だけだった。三枚とは少なすぎると思った。自分のこと

を思い出してくれた人はこの世に三人しかなかったので

あろうか。正月の日の明るい陽光の中で、私は妙に怠惰

であり、空虚であった。私は十五歳だった。あの日の私

のように、人生の最初の一歩を踏み出そうとして、小さ

な不安にたじろいでいる少年はいまもいるだろうか。い

るに違いない。そんな少年よ、おめでとう。

 

私は初日の出を日本海に沿って走っている汽車の中で拝

んだ。前夜一睡もできなかった寝不足の私の目に、荒磯

が、そこに砕ける白い波が、その向うの早朝の暗い海面

が冷たくしみ入っていた。私は父や母や妹のことを考え

ていた。ひと晩中考えた。なぜあんなに考えたのだろう。

私は十九歳だった。あの朝の私のように、家へ帰る汽車

の中で、元日の日本海の海面を見入っている少年はいま

もいるだろうか。いるに違いない。そんな少年よ、おめ

でとう。

 

 

  愛する人に

 

洪水のように、

大きく、烈しく、

生きなくてもいい。

清水のように、あの岩蔭の、

人目につかぬしたたりのように、

清らかに、ひそやかに、自ら耀かがやいて、

生きて貰いたい。

 

さくらの花のように、

万朶ばんだを飾らなくてもいい。

梅のように、

あの白い五枚の花弁のように、

香ぐわしく、きびしく、

まなこ見張り、

寒夜、なおひらくがいい。

 

壮大な天の曲、神の声は、

よし聞けなくとも、

風の音に、

あの木々をゆるがせ、

野をわたり、

村を二つに割るものの音に、

耳を傾けよ。

 

愛する人よ、

夢みなくてもいい。

去年のように、

また来年そうであるように、

この新しき春の陽の中に、

めてあれ。

白き石のおもてのように醒めてあれ。

井上靖文学館(日本ペンクラブ第9代会長)