室戸灘付近

万法流転有情悉皆肢体離反の沙の時限を吼える濤――ここに埋つて裂けてしまつた漁村の数々がある。帆船がある。

(一つは崩潰した路にのつかつたまゝ行路の無宿の不思議な宿になつてゐた)

 

  天下一の荒灘――青鮫の横行闊歩する室戸灘。

 

けふは榕樹、橘の枝濃く霽れてどちら向いても蒼茫と鱶の(あぎと)のきかきか光る黒い印度藍の圧倒だ。

ここらの浪の屈折紋はとてつもなく大きくつて紫泥や金泥の竜のやうに次々に脱けあがつて凄い。

それらの巻絵がさらはれたとき真白い貝沙を一直線にかける千鳥はとても岸にゐる鳥の類でなく象徴文字の形のやうに怪しい。

ぢき轟いて奔騰する白い汐霧に揉まれてみえなくなる――あるひはそらかける美麗な縞魚の類かも知れない。

 

亡き詩客滝川の褒めちぎつてゐた竜飛万年の大きな岩の錯落、

どつと押してくる潮の白玉楼のしたであれの海の血の詩が鳴つてゐる。一奇だな。けふは地獄の釜の蓋のあく孟蘭盆(うらぼん)太陰七月十五日――倒懸の火焔苦の救はれる日だ。

  巌礁を伝へば

  岸の窪みにわづかなる水溜りあり

  いつのほどか来りしを知らず

  縞模様美しき小魚住めり

  荒海の浪の音真近にきこゆるに

  小魚ら

  嬉々としておのれの世界に生きてあり     (滝川遺稿

綺麗な縞魚になつた——水脈のあとにのこされて無上の天地を岩の隙間ではねてゐる。

会ふてゐるのか、離れてゐるのか、もう何もかも綺麗さつぱりとしたこの現世の花鳥介の(ながめ)になつて嬉々とした声が松籟にまじつてすると思つたのは、若い橘の紫のうつうつとした翳のせゐであらう。

 

とにかくおれの喉はかわいてゐる。

そこの岩壁を翔る海燕の翳のくつきりと濃い真昼を裂いておのれの乾いた喉仏からも紫の火の玉がとびでさうだ。

 

深沈と()けた岩畳には何百万年が腐蝕し

何千万年の白濤の劫が鱶の口をあけて待つてゐる。

 

この世の(あぶく)の錦絵を

彫つてあるく蟹行人——炭酸石灰の遺骸の雨の堆積物(珊瑚礁ならこの印度藍三〇浬の沖に沈下してゐる)――俺と、それから砲火好虚の裔の横つ腹を抉つて当住不断の口をあける室戸岬の風濤の葬楽、

無明の闇の鱶の鋼の鼻さきをひん曲げて夜も昼も吼えつゞけ真黒い時を呑吐する絶対自由の真白い奔騰と突進。

この蒼黒い風景の突端から直下百尺を鉛のやうに落下して青鮫に舌うちさせた青年があつたさうだ——まるで足の痺れることだ。

そんな鮫の内臓(はら)をもつた若人にちよいと惚れて俺もぐらつく石の反射に身をかゞめてぞつとした。

 

黒竜魑魅(すだま)()つところ渦まく絶体自由のあるところ、首のなくなつた青年たちは来給へよ。正に自殺も日本的だ。

青い玻璃飾のビンロー樹の疎らなところ、

さつきからぼりぼりやつてゐるのはこの(かん)天にほとけをさがす癩の夫婦だ。

怒つてゐるのか、泣いてゐるのか、この世の浮草の表情の襞はとれて黒い洞がこちら向いてゐる。臍のあたりまで犯した火雲のピラミッ(ママ)は崩れたりさかまいたり、あたまのホータイの膿水まで真珠いろに()えさかつてただ肉体のそこのおとこが女の悲鳴のやうに呼んでゐる。――傾斜の崖の噎ぶ汐霧――。

 

一文だつて

もう憐憫のない僻遠の黒い太陽光をよろけてきて女体馬首のほとけの情に生きのこる裂帛の構へは燦として目もあてられぬ。

 

白雨はもう鱶のあぎとをはなれたのだ。

沖から黒い束になつてそのむくれた夫婦の(びつこ)を犯してゐる。

黒雲礁――

こどもの髑髏のあがつたところを呑みこんだ白い竜は軈て断崖のそこから逆巻いてそこらの磯松の烏を叩きはらつて沛然と来る。

おれも首のないこどもも癩病(かつたい)も大きな天をさゝへる鈎形の岩の隙間にひそまつて真黒い幽明界の咆哮を聴いてゐる。

烈日碧く三界にあまねく

馬頭観音は石に熟眠してそここゝの美しき磯魚の遊泳に囲まれたまふ。

これも安らかにほとけの旅の眼をとぢる天刑の病の涅槃の夫婦、真上の青い巻絵のそらを程よくとゝのへて恒河(ガンガ)風に茂る夏の橘の枝、やがてそこらの同病の二三鳥も美しい濤の射光に腰からしたをきらりと時劫のなかに彫られてしまふ。