――どの花がお好きですか?
――たとえば、コスモス。
1.
石川淳の小説には「気」が氾濫している。「けはひ」「けしき」「氣合」といった漠然とした情趣をあらわす言葉はもとより、「いぶき」「ふぜい」「かをり」「いきほひ」「血氣」「殺氣」「元氣」「妖氣」「陰氣」「粛殺の氣」と「気」に係る語彙は枚挙にいとまがない。しかも、ただ頻用されるだけではなく、叙述のここぞという勘所、決め所は「……けはひであつた」、「……けしきであつた」のように、「気」に係る表現で押えられている。この偏愛は、もはや趣味の問題で片づけるわけにはいかない。事は石川的叙述の本質に係る。
しばらくして、もののうごきがしづまつて、蝋燭がまたともされたとき、二箇のはだかは下半身を毛布にうづめたままあふむけにならんで寢てゐた。ヒメはたばこのけむりを吐きあげて、げんになにほどのことがおこつたとも氣にとめないけはひであつた。(『狂風記』)
そのひとの背はアディユともいはずにわたしのはうに向けられて、それはもう永劫に決してこちらへはふり返らないであらうけしきであつた。(「黄金傳説」)
キューロットに長靴をはいたその脚のかたちはきりつとして男の子のやうであつたが、まつしろなレースの襟から拔けだした顔はゆたかに花の色をたたへた。さういつても、あらあらしい氣合である。(「鷹」)
いずれの女主人公ものほほんと描写されるのを待っているような手合いではない。きつい香気を放つ花々のように、生命力の徴そのものである「けはひ」、「けしき」、「氣合」を全身から発散させ、いまにも頁の中から飛びだしてきそうな力感にあふれている。彼女たちはなによりもまず、「けはひ」、「けしき」、「氣合」といった「気」を発出する主体として書かれているのだ。そして、石川の叙述は彼女たちがどんな顔立ちをしているか、どんな服装をしているか、いや、どんな心理状態にあるかよりも、どんな「気」を発しているかの方に注目している。まるで、叙述の焦点は対象そのものにではなく、そのやや手前、彼女たちの身体から放散して漂う「けはひ」、「けしき」、「氣合」に合わされているかのように。
「気」を通して描かれるのは、個々の人物だけではない。人物と人物の関係もまた、「気」系の語彙によって書かれる。
佐太は屋根のはうに氣をとられてゐたが、ひとのけはひにふつと風見の鳥から目をうつして、そこに照子を見た。ぢつと見たまま、ものもいはない。照子はまともに見かへして、無言でせせら笑つて、このあらくれ男のつらを草履で踏んづけるといふきあいであつた。(『荒魂』)
「ぼくはあなたを愛してゐます」
息のあへぎがそつくりでて、いつそあらあらしい聲であつた。貞子は垣根のそばに押しつけられたかたちで、足をとめたまま、何とも答へようとしなかつた。徳雄は狂ほしく光つた眼のいろではあつたが、指ひとつうごかさうとはしないで、ただうごくことを知らず、そこへ突つ立つてゐて、いつまでも立ちつくすけはひが強く迫つた。(「處女懷胎」)
照子の意志、徳雄の欲望は抽象的なもの、純心理的なものとしては書かれていない。それは「けはひ」、「氣合」という現実的な威力として佐太に、貞子に襲いかかる。彼らは獲物に手をのばすように、「気」を差しのばすのである。「氣合」、「けはひ」という表現のほとんど触覚的ななまなましさは、彼らの意志、欲望に生理的な次元の存在性を獲得させているといっても過言ではない。石川の叙述には、このように心理的であると同時に生理的でもある「気」が、いたる所、瀰漫しているのだ。そして、先回りして言っておけば、そのような「気」を発する主体としての石川淳的人物は、意識の水準だけではなく、身体性の水準でも照明を受けることになる。
もちろん、「気」に係る表現は石川の専売特許ではないし、「気」の心身両面性もまた石川の叙述にだけ見られる特徴ではない。「気勢を上げる」、「気落ちがする」、「気が進む」、「気がくさる」、「気が重い」、「気がねする」等々、日常語には「気」をめぐる夥しい言い回しがあり、そのどれもが心身両面にわたる意味の広がりを有している。
日常語の「気」系の言い回しについて先駆的な解明をおこなった木村敏氏は、次のように述べている。
気はもちろん身体を離れては考えられず、精神や心のように身体と対立的に考えられたものではなくて、あくまで身体の状態と一体になって変化するものである。身体の調子のよい時には、周囲の様子とはあまり関係なく気が軽く、気が浮き浮きして、何事につけても気が進み、気乗りがするものであるのに反して、身体の不調なときは賑やかな集まりの中でも気が重く、気が沈み勝ちとなり、気が引きたたない。(中略)このような意味での気は、もちろん各人に固有な個別的現象であるけれども、こういった場合でも、気の浮き浮きしている人のそばにいると自分まで気が軽くなり、気の沈んだ人の前では自分の気までくさってくるというように、気はいつの場合にも、自分と他人とを一つの共通の場所で気持ちを通じさせる媒体としての働きをもっている。(『自覚の精神病理』)
実際、「気まずい思いをする」という時、表情にこそあらわさなくともわたしの身体は「気まずい」構えをとっているわけだし、また「気まずい」のは一人わたしだけではなく、その場のみなが「気まずい」思いを共有し、さらに言えば、その場の雰囲気自体が「気まずい」色に染められているわけであろう。「気」に係る言い回しは、心身相関的な広がりだけでなく、個人心理をこえた外部的・偏在的な広がりをもそなえているのである。
木村氏はこのような両方向への広がりの起源を、「気」が本来もっていた太古的な宇宙論的性格に求めている。知られる通り、「気」は道家学派を中心に育まれた哲学概念であり、中国の伝統的な宇宙論では森羅万象の根源と考えられていた。後に朱熹の体系に多大の影響をあたえる『淮南子』は、宇宙の生成を次のように記述している。
道の元始たるや、虚が生まれた。その虚に宇宙が生まれ、その宇宙に元気が生じ、その元気に重層のさかい目がたった。
澄みかがやけるものは、高くたなびいて天空となり、濁りしずもるものは、凝滞って大地となった。清妙たるものの集合するは、たやすく、重濁するものの凝固するは、困難。さてこそ天がまず完成し、地はおくれて成った。
天と地との精気は重合して陰陽をつくり、陰と陽との二精気は団集して四時をつくり、四時それぞれの精気が散布して万物をつくった。(『淮南子』天文訓 戸川芳郎訳)
万物には、もちろん、人間を含む。人間は天地の「気」を受けて化生し(「天の気が魂となり、地の気が魄となる」)(「精神訓」)、行住座臥、天地に瀰漫する「気」を呼吸によってとりいれながら、「気」の海である天地の間を生きる。「気」は森羅万象を形成すると同時に、賦活するような生命的実体として考えられていたのである。
論旨の関係上木村氏はそこまで言っていないが、日常語における「気」系の表現はこうした宇宙論的性格を非個人性・偏在性として受けつぐ反面、生命的実体としての性格をほとんど失ってしまったのではないだろうか。なるほど、「気が重い」、「気がとがめる」、「気がはやる」等、「気」を主格にたてた表現では、わたし自身の意識が重くなったり、疚しくなったり、はやったりするというよりも、重くなったり、疚しくなったり、はやったりする「気」の影響をこちらの意識がこうむるという意味合いが強い。その限りでは、「気」は木村氏の指摘する通り、「非人称主語」になぞらえられるべき超個人的な主体(木村氏は暗に西田哲学の用語を用いて「気の場所」といっている)であるだろう。だが、それは逆にいえば、「気」が具体的に限定しうる実体ではなくなったということを意味する。日常語における「気」は、もはや実質的な存在性をうしなって、「こと」や「もの」と同列の形式名詞になったのである。「気がめいる」時の「気」も、「気がはやる」、「気が晴れる」時の「気」も等しく「気」とだけ言われること、逆に言うなら、そのように前後の語によって限定された言い回しの中でしか内容を持たなくなったことは、その証左といえるはずだ。
石川における「気」系の表現は、こうした日常語的な「気」の言い回しの地層を突きぬけて、中国的宇宙論の「気」概念に直接汲んでいる。「明月珠」の主人公である老書生は、早朝の空き地でおこなう深呼吸の功徳を、道家の語彙をそのまま借りてこう報告する。
そのとき、明けはなれようするかなたの空から、風ともつかず光ともつかず、青、白、赤、三絛の氣がもつれながら宙を飛び走つて來て、あたかもたれかが狙ひすまして虹の絲を投げてよこしたやうに口中にすいすいと流れこみ、つめたく舌にしみ咽喉に徹るとともに、體内にはかに涼しく、そこに潛んでゐたもやもやが足の裏から洩れ散つて行く。すなはち、仙術に謂ふところの太素内景の法である。(「明月珠」)
「もやもやが足の裏から洩れ散つて行く」というくだりは、明かに『荘子』の「眞人の息は踵を以つてす}」(「大宗師篇」)を踏まえるが、もちろん、この一致だけで石川の「気」が中国的宇宙論における「気」に直結すると断定することはできない。第一、この「明月珠」という短編は仙人譚のパロディとして仕立てられており、老書生ことにわか仙人は雲ならぬ自転車をあやつることさえおぼつかず、『荘子』の引用は一種の誇張法と読んでも差し支えないからだ。
しかし、「気」を「青、白、赤、三絛の氣」と記述した箇所は、単なる誇張法として読みすごすわけにはいかない。ここには、日常語の「気」とは別 の次元の「気」が片鱗を見せている。つまり、それと特定し、名ざすことができるような内容と実質的をそなえた、実名詞としての「気」である。
そもそも、「けはひ」、「けしき」、「氣合」等々と千変万化すること自体、石川の叙述における「気」が形式名詞ではありえず、実名詞であることを示すものだ。「處女懐胎」という霊的なものと肉体的なものの対比を暗示する題名のつけられた中編小説のクライマックスでは、「気」の次のように描きわけられている。
貞子は突然いそぎ足に門の中に驅け入らうとした。もう青葉のいろから拔け出して、あからさまな日の下に、まつしろな裳をひらひらさせて、風ににほふほどに、つと驅け出して行くのが、さすがに若い娘の、いろつぽいふぜいでもあり、しかしまた永遠の旅人なんぞの、かりにくぐつた門の内、家の中にはとどまらないで、そこを突きぬ けて、もつとさきの、遠いはるかな道のはうに走りつづけてゆくといふけはひでもあつた。とたんに徳雄は猛烈ないきほひでほとど血相かへて、あとから走りかけた。(「處女懷胎」)
間近に見る地上的な貞子のうしろ姿は「いろつぽいふぜい」と言われ、彼方をさらにかなたへ駆けさろうとする天上的な彼女は「けはひ」、必死に追いすがろうとする徳雄の執念は「猛烈ないきほひ」と言われている。「いきほひ」、「ふぜい」、「けはひ」――首筋に感触がつたわってきそうに生々しいこれら三態の「気」の形姿によって、肉欲的なもの、世俗的なもの、聖霊的なものという生命の音域が明瞭に照明されている。そして、このような「気」の様態の書きわけが「處女懐胎」という主題と密接な関係にあることは見やすい。
孟軻はこういっている。
君子の性とする所は、仁義禮智にして心に根ざす。其の色に生ずるや、睟然として面に見われ、背に盎れ、四體に施れ、言はざるも喩る。(『孟子』盡心章句上)
近代的解釈をとる岩波文庫版『孟子』は、「盎於背」を「背に盎われ」と読むが、ここでは「盎、豐厚盁溢之意」と注する朱熹にしたがって、「盎{あふ}れる」と読んでおきたい。「睟然」は、やはり朱注にしたがえば、「清和潤澤之貌」、清々しく和やかでうるおいのある顔立ちの意味。君子は仁義礼智をその本分とするが、この四徳を十分涵養すれば、生命力は充実しておのずから面 ざしにあらわれ、背に汪溢し、四肢にみなぎって、何も言わずともこの人こそまことの君子と誰にでもわかる、というわけである。
ここには孟軻独特の生命論的形而上学の一端がみずみずしく語られている。四徳の涵養という倫理上の目標は、近代的な思考が考えがちのように純精神的な問題に局限されることなく、「気」という地平において身体的領域へ、さらには宇宙論的領域へ開放されているのである。いわゆる「浩然の氣」の説も、この延長線上に考えて差し支えない。
我善く吾が浩然の氣を養ふ。敢えて問ふ。何をか浩然の氣と謂ふ。曰く、言ひ難し。その氣たるや、至大至剛。直を以て養ひ害ふことなければ、則ち天地の間に塞つ。その氣たるや、義と道とに配す、是れ義に集ひて生ずる所の者にして、襲ひて取れるに非ざるなり。行ひ心に慊からざることあれば、則ち餒ふ。(『孟子』公孫丑章句上)
朱熹は「氣、即所謂體之充者」と注し、「餒ふ」についても、「餒、飢乏而氣不充體也」と、徹底徹尾身体性の次元で釈義している。しかも、浩然の気は「至大至剛」であるがゆえに、そのまま「天地の正氣」だと言われる。倫理的理想の実現に邁進することによって充実した生命力は浩然の気として全身からあふれだし、天地に充満し、宇宙に瀰漫する根源的な生命力と貫通する。だが、心に疚しいところがあれば生命力はとどこおり、気は萎縮して自分一個の肉体をさえ満たすことができない。「蓋天地之正氣而人得以生者」とするところに、人間的秩序と宇宙的秩序を統一的にに把握する朱熹の面目は躍如としている。倫理性の基礎づけを目指す点、あくまで儒家であるが、このような思弁自体はすぐれて道家的だと言わなければならない。事実、朱熹の体系は邵康節を代表とする道家の圧倒的影響下で形成されたが、近年の研究によれば、孟軻の思想自体、彼が斉で接した陰陽家に影響されるところが大であったと言われる。
石川の叙述における「気」系の表現が、このような伝統に竿さすことは明らかだろう。たとえば、「気」につらなる名詞こそ用いられていないが、以下で語られているのは、まぎれもなく主体の生命力の発露としての「気」に外ならない。
ふりあふぐと、しかし、ハンモックは半月なりに中空にかかつて、そこに宙釣になつて足をぶらぶらさせてゐる少女の、キューロットにぴつたり合つた長靴が蒼ずむまでにあやしく光つた。長靴の艶は内側からみがき拔かれたふぜいで、そこに少女の皮膚がにほひ出てゐるやうであつた。(「鷹」)
久しぶりに見る夫人の顔は見ちがへるほど黒く、田園の日ざしの烈しさが頬にほてつてゐる。その頬には肉が硬く張りきつて、畑のほこりがうすく燒きつけられてゐるが、しかし磨き拔かれた生地の肌の色艶は、うはべの日燒けを透かして一そうごまかしなく、光り出したかのやうである。(「雪のはて」)
「光る」、「磨き拔く」、「光り出す」という視覚系の動詞と、「にほふ」という嗅覚系の動詞が同格あつかいされている一事を、単なる嗅覚による視覚の隠喩法としてかたづけることはできない。隠喩表現のあやうい魅力を感取するには、これらの表現はあまりにも泰然と決まっているのである。そういえば、「春の苑紅にほふ梅の花……」という古歌があったのではないだろうか。
岩波古語辞典の「にほひ」の項は、次のような目ざましい語源説をしるしている。
にほひ《ニは丹で赤色の土、転じて、赤色。ホ(秀)はぬきんでてあらわれているところ。赤く色が浮き出るのが原義。転じて、ものの香りがほのぼのと立つ意。》
同書の四段活用動詞「にほひ」の項では、語義として六項目を立てるが、嗅覚的な「匂ふ」はようやく第五項として掲げられているにすぎない。「にほふ」の原義は視覚に係わり、嗅覚に係る用法の方が実は隠喩法だったのである。「気」の場合同様、石川の叙述における「にほふ」もまた転義の歴史を遡行するかたちで、語の歴史的な厚みをそっくりかかえこんで用いられているのである。
また、「磨き拔く」、「光り出す」が単なる「磨き抜く」でも「光る」でもなく、「磨拔く」、「光り出す」のように、持続の相、あるいは生成の相を含んだ複合動詞で用いられている点にも注目しよう。「にほふ」(「丹秀ふ」)は、「にほひ出す」とするまでもなく、語義に発出・発現する動勢をはらんでいたが、「磨く」、「光る」の場合、「拔く」、「出す」と複合することによって、生命力の不断の湧出、放散という「気」の様相を点出するにふさわしい表現にきたえあげられたのである。まことに石川淳の文章は「気」を中心軸に展開されているといわなければならない。
2.
では、実体としての「気」を叙述の中心軸とすることによって、何が可能になったのだろうか? どんな地平が開かれたのだろうか? ――この問題について、おおよそ三つの視角から見て行きたい。
第一は身体の析出という視角である。
非人称的な「気」、「気に病む」、「気がかり」、「気がせく」等と言う時の表現の焦点は意識に合わせられている。気が病んだり、気がかりだったり、気がせいたりするかたちで他者や環界、さらには自己自身の身体(!)の影響をこうむるのは、後に立ちいって見るように、わたしの意識に外ならない。わたしの意識は「気」を分有することによって、そういった諸々の力に自己を受動的一方にさらしているのである。だが、実体としての「氣」、「けはひ」、「けしき」、「氣合」等々の場合、事情は大きく異なる。具体的な力として特称できる「気」、つまり、その都度、「けしき」、「けはひ」「氣合」等のどれかであるような「気」は、発するのも感受するのも共に身体でなければならない。「けはひ」として自己を表出するのも、あるいは他者や環界の状態を「けはひ」としてみわけるのも、純粋意識ではありえず、わたしの身体なのである。表現の焦点は身体に移り、身体は受動面でも、能動面でも、「気」を仲立ちとして世界に開かれることになる。そこから、次のような魅惑的な光景が出現する。
軒にはためいて、近くに雷が落ちた。一しきり雨の音が強くなり、やがてそれが次第にゆるやかになり、立ち消えて行くと、たちまち雲からはじけ出た青空に赫と湧きひろがる日の光が硝子戸いちめんに照りつけて來て、もう廊下はまばゆい正午であつた。光は烈しく室内に突き入り、殘酷に薄墨の影を切り裂き、牡丹圖も櫻の板も彫刀も、可憐な意志も、小さい身がまへも、すべてが明るい波になぶられ、きらめく塵の中に浮きたつて、くらくらとした少年の體はつい廊下に泳ぎ出てゐた。金吾は硝子戸をあけ放つて、大きく胸を張つて呼吸し、ちょつと籘椅子に腰かけたが、すぐ立つて歩きはじめた。今は何をするよりもかうしてゐる自分がいらだたしいほど愉しかつた。(『白描』)
「明るい波」、「きらめく塵」は金吾を、そしてわれわれを酔わせる。たっぷりとした「気」の輝かしい律動は「可憐な意志」、「小さい身がまへ」と呼ばれる身体のつかえをときほぐし、とろかしていく。金吾の身体が大きくゆらぐとき、われわれの身体も素描的に大きくゆらいで、何か大きなもの、明暗の鼓動にかよう輝かしい「気」の動きを感得する。そして、「浮き立つ」、「泳ぎ出る」という諷喩的な所作は、「明るい波」という主導的な隠喩とあいまって、身体に水の量感を甦らせる。「気」の手ごたえは水の抵抗感との類比で感得されるのだ。
「身体は、心臓が生体に栄養をおくり賦活するように、世界を生気づけている」という意味のことを言った人があるが、実にこの光景の瑞々しさは金吾の身体感覚の瑞々しさに負っている。対象を実体的な「気」を仲立ちにとらえるとは、皮膚感覚、運動感覚諸感覚を全開にした身体で、つまりは全身で対象をとらえることに外ならない。そして、実体としての「気」の主題化は身体の主題化と表裏の関係にあるだろう。「気」の現存がまざまざと夢見られるとすれば、それはまた、その「気」を発し、感受する身体がまざまざと夢見られる、ということなのだ。
敬子はテラスの端に出て、背を向けて立つた。今、やうやくおとろへかけた日ざしは茂みにしづもり、雲の低い沖から吹きつける風に追はれて、鳶色の影が乾いた芝生に這ひのぼつて來た。そして、今まで吸ひこんだ晝の光線をほのかに吐き出してゐる衣裳の白さに、その短い裾のはためきに、肌とおなじ色にぴつたり貼りついた靴下のなめらかさに、もう少女ではなく、みごとな成熟にはじけ出ようとするところの、女の肉體が切實に息づいてゐた。(『白描』)
敬子は、そして敬子の衣装は、ようやくほてりのさめかけた黄昏の気を呼吸している。しだいに濃くなっていく暮色の中で彼女の身体は白くほのかに浮きたち、その律動はこの情景に不思議になまなましい肉感性をあたえている。
第二はアニミスティックな空間の創出という視角である。
先に見たように、中国的な宇宙論における「気」は森羅万象を生成するとともに、不断に万物を賦活し、生気づけるような生命的実体であった。石川における「気」系の表現は、このような反近代的・太古的な「気」の相貌を全面的に継承している。石川の叙述では「気」を呼吸することによって、あらゆる物体が生気を受け、躍動しはじめるのだ。右に引いたくだりでは、「今まで吸ひこんだ晝の光線をほのかに吐き出」すことで、敬子の白い衣装はそれ自体の生命を帯びはじめていたが、『白頭吟』冒頭にあらわれる白い障子は、やはり暮れなずむ「気」の中に呼吸することによって、今にも笑いはじけそうな生き生きとした情趣を発散させている。
あたらしい障子の、太い棧いつぱいにぴんと張つた紙が、一日ぢゆうたつぷり吸ひこんだ晩秋の日のほてりをたたへて、夕ぐれにも白く光つた。庭から見ると、縁をめぐつて締めきつた障子の内部には、ほどなく夜のあかるい燈を待つまでのあひだ、ひとが笑をこらへてかくれてゐるやうであつた。(『白頭吟』)
石川の叙述に照明されると、ただの障子さえ人肌のぬくみを帯びる。もちろん、世の中にはこうした措辞を単なる擬人法と片づける分類好きな人もいるかもしれない。しかし、そういう人は「紫苑物語」にあらわれる矢をは生物/無生物のどちらに分類するであろうか。
この日の唯一の獲物であつた小狐も、二人の雜色も、むくろは地に置き捨てさせて來たが、すべてそのけしきは目にのこらない。谷川のせせらぎもここまではきこえない。ただ館にあるかぎりの矢が突然ことごとく血を欲して、ひそかにうなりをたて、あるじの手を待ちかねてゐるやうであつた。まさに必殺の矢の氣合とききなされた。(「紫苑物語」)
すでに気合を発し、持ち主をせきたてる矢であればこそ、われわれはこの矢が獲物を追って稲妻のかたちに飛んだとしても、すこしも奇異に感じないわけだ。「気」の充溢する石川的空間では、「気」にあずかる限りのものはすべて生き物なのである。矢だけではなく弓も。そして、自らの用を知って「おのづから流れ出る」と云われる「八幡縁起」の器、『荒魂』の百発百中のガン、「片しぐれ」の持ち主の指を追いかける指輪等々。しかし、生命のある道具の活躍という点では『狂風記』にとどめをさす。ここには自動車、猟銃をはじめとして、傘、マント、ペン、シャベル、車椅子と、夥しい道具=生物が登場し、人物にまじっててんやわんやの大騒動をくりひろげる。ヒメの言うとおり、「使ひこんだ道具なら、よく主人の氣を知つて、そのくらゐのはたらきは見せもするでせうよ」というわけだ。
けれども、アニミスティックな空間の魅惑が最もよく発揮されるのは、道具のような人為物ではなく自然物、それも地形が動きだすときである。強大なシャーマン、荒玉の祭りにこたえて、大地は盛りあがり、丘となって成長をはじめる。
七日めに、丘はすでに小山と見えた。成長は日ごと夜ごとにやまない。若竹のやうにぐんぐん伸びあがつて、そのいきほひは次第に増すばかり。すさまじいまでのけしきを空に切りひらいて行つた。三七二十一日めには、それはまさに山であつた。(「八幡縁起」)
「丘」は「小山」、「山」と単純に伸びあがっていくのではない。「丘」から「小山」、「小山」から「山」と、輪郭のある名辞から輪郭のある名辞に移行するのに、「いきほひ」、「けしき」という「気」を経過することによって、山の成長は目に見えない次元にまでその奥行を拡大する。ぐんぐん伸びていくのはただの土くれではなく、根源的な生命エネルギー、「気」にほかならないという印象は決定的なものとなる。こうして、まさに意志あり生命ある神山が誕生するが、注意したいのは、この山は荒玉の強大な意志に感応して盛りあがった、ということだ。道具とその主人の「気」の結びつきは先に見たとおりである。無生物は自然発生的に生動するのではなく、意志的なものの介入によって生きはじめるのだ。
つまり、アニミスティックとは言い条、石川の叙述は決して怪力乱神を語っているわけではない。遍満する「気」に生かされて、人は物に感じ、物は人に感ずる。どのような不思議が現じられようとも、それは意志的なものの所産であって、超自然的なもの、超人間的なものの介入の結果 ではない。宗頼の弓矢、ハンタや安樹のガンが百発百中なのは、彼らの意志がタマや矢にまっすぐ伝わったからにすぎないのだ。太古的な「気」への遡行という一事を別にすれば、どこにも非合理的なもののつけいる余地はない。
この国の文学の伝統に照らす時、これは実に奇妙な話ではないだろうか。石川の小説の幻想性はしばしば『雨月物語』や泉鏡花の一連の作品を引きあいに論じられるようだが、『雨月物語』の幻想も鏡花の幻想も、ともに非合理的なものに根ざし、情や執着、執念といった人間性の暗黒面から養分を汲んでいる。いくら貞女の鑑として描かれる宮木であっても、亡霊としてあらわれるにいたったのは、意志の結果ではなく、愛執のゆえである。また、勝四郎の側にも後ろめたさの感覚があって、われわれは彼の後ろめたさに納得するからこそ、宮木の幻を受けいれることができるのだ。『雨月物語』の幻想の風土は残された者の執念と、逃げてしまった者の後ろめたさとによって、あの通りの陰鬱な色調に染めあげられているのである。また、詳しく立ちいることはできないが、鏡花の幻想譚を支えている支えているのも、情緒的なものへの陶酔、あるいは耽溺であって、「高野聖」の山中の美女を恋するあまり禽獣に変えられた男たちの姿が説得力を持つのは、そうした禁じられた衝動への訴えかけがあるからにほかならない。これは『雨月物語』や鏡花に限らないだろう。この国の文学の伝統に流れつづけてきた幻想の水脈は、『源氏物語』から『遠野物語』まで抑圧されたもの、意志の力ではどうにもならぬものに係りつづけ、禁忌侵犯のあやうさと魅惑をともなってきたのである。
石川の場合はどうだろう。邪しまな情慾をいだいたために、あさましい姿に成りはてた「高野聖」の男たちとは対蹠的に、石川淳の描く可憐な少女たちは、蝶に、鷹に、カラスに、喜々としていとも身軽に変身する。変えられてしまったのでも、変わってしまったのでもない。かくなりたいと望んだから、かく姿が変じただけの話だ。小狐が乙女に変じ、弓に変ずるのと、大地が丘となって山と伸びあがるのと、何ら変わるところはない。
われわれはここで、第三の視角――生命力の肯定――から、石川の小説を語らなければならない。
生命的実体としての「気」を叙述の中心軸にすえることは、同時に生命力を全面的に肯定することを意味する。「気」の遍満するアニミスティックな空間を、「気」を不断に呼吸する身体的存在として動きまわる石川淳的人物は、一挙手一投足に自己の、あるいは自己を超えた生命を表現しているのである。「気」を主題化するとは、生命力を主題化することにほかならない。「気」を描くとは、生きようとする意志、生きつつある意志を描くことなのである。石川の叙述にあっては、意志=生命力の強度が第一の問題であって、伝統的な小説で重視される世態人情はすべて添え物にすぎない。強大な生命力を体現しさえすれば、醜よく美に変ずることさえ稀ではないのだ。たとえば、「紫苑物語」のうつろ姫はこう描かれている。
燃えるばかりの燭の光の中に、宗頼はこの一年のあひだ見ることをおこたつた姫のはだか身を一目で隈なくそこに見た。これが姫か。たしかに姫ではあつた。みにくい顔はあくまでもみにくく、赤黒い肌はあくまでも赤黒く、みだらの性はあくまでもみだらのままに、しかしこの館にあるかぎりのほとんどすべての男の精根を三百六十五夜手あたりにむさぼり食らひ、存分に食らひふとり、増長の絶頂、みがきぬ かれ、照り出されて、みごとにうつくしい全體がそこにあつた。(「紫苑物語」)
美醜ばかりか、善悪もまたそうだ。宗頼自身、乱心悪行の限りをつくし、ゆえなく屍の山をきずいて領国中をおそれおののかせるが、「守は朝ごとに陽根をふるひおこして、さはやかに打つて出られます」と賛嘆される意志=生命力の前では、「ひとびと、これを荒ぶる神の憤怒とあふいで、ただ畏れ、をののき、この世をば死の世と觀念するばかり」なのである。
興味深いのは、藤内という人物である。藤内は目代として、宗頼の下で諸事一切をとりしきるが、ひそかに国守の地位をねらい、権門の娘であるうつろ姫の夫の座を奪おうと画策してる。ところが、この男、野心だけは一人前だが、男としての用をなさず(「このちび筆をもつて、ほかならぬ 姫のお相手に、戀の手習がかなひませうか」)、謀事を実行にうつすことができない。ここに変事がおこる。宗頼の出奔とともに、役に立つはずのないものが役に立ったのだ。姫と契をむすんだ藤内は勇躍一味の者を呼びあつめ、檄をとばす。「威令おもおもしく、貫祿おのづからあらはれて、つねの藤内とは見えなかつた。意外な閨の上首尾よりも、このはうが不思議のやうであつた」というわけだ。
見られる通り、藤内に主人としての権威を与え、威令の発現を可能にしたのは、身体的な充実である。生命力を全面的に肯定するとは、身体の存在を全面的に引き受けることを意味する。もはや身体は疎遠なものでも、否定すべきものでも、ことさら称揚するものでもない。否定されたり、称揚されたりする身体はすでに精神と対立的に考えられた身体だからである(所謂「肉体派」や川端康成、三島由紀夫における身体がそうである)。「気」の海において、身体はそのまま精神を呈し、精神は身体として現実化される。孟軻も言う通り、精神の様態は「睟然として面に見われ、背に盎れ、四體に施れ、言はざるも喩る」ということになる。『荒魂』の大立者、潮弘方は一度は無力感の淵に沈むが、クーデタ計画にかけた「おもひつめた執念」を梃子に、次のように甦る。
耳に鳴る歌聲にさからひ、鈴の音を振りはらつて、腰をのばし、胸をそらし、肩を張つて、老人……いや、老人どころか、一瞬に跳ねおきて、顔の皺はすでに消え、色艶にくいほどわかやいで、白髮きらきらと太く、つねよりも一きわ血氣に燃える潮弘方がそこに立ちはだかつた。ぶるつと一ふるひすれば、著たものはおのづから脱げ落ちて、新聞週刊誌の寫眞のごとき見てくれのポーズではなく、あからさまの筋骨は壯者をしのぎ、肉づきあくまでもたくましく、踏ん張つた兩足のあひだに、陽根は鬪志にふくらんで空ざまにうそぶいた。(『荒魂』)
まことに潮弘方は「潮」のように引いては満ちる生命力の振幅を体現する人物であった。石川はどこかで、心理描写 を「心理的大福帳の帳尻合はせ」と斥け、人物を「一箇の物體」として記述すると語っていたが、潮のみならず、石川的人物はすべて「気」の水準で生命力の進退消長を観測され、記述されているのである。
3.
おそらく、石川のこのような「気」の経験の対蹠点に、志賀直哉の「気分」の経験がある。
「気分」の経験とは、次のようなものだ。
濕氣の烈しい、うつたうしい氣候から來る不機嫌には私は中々打ち克てなかつた。そして其不機嫌は多くの場合他人に對する不快と一緒になつて私を苦しめるのが常であつた。私は其頃祖母に對して何となく不快でならなかつた。私に對して或警戒でもしてゐるやうなのも私の氣分を苛々させた。私は其時の氣分で二日も三日も此方からは一切口をきかない事などもあつた。(「大津順吉」)
順吉は漠然とした不快な「気分」にひたされている。天候にいらだっているのか、祖母にいらだっているのか、当の順吉自身釈然としていない。むしろ不快なのは天候、祖母といった特定の対象というより、そうした個々の対象すべてを含む彼の生活全体の方であり、われわれの文脈で言えば、彼の心身に浸透する「気」そのものが不快一色に染めあげられているのである。このように不明瞭でありながら、のがれようもなく人をとりこめる経験を指して、柄谷行人氏は「自我も他者も欠いた「気分」が主体の世界」と呼び、山崎正和は「公的なものを喪つて陥つた感情の自然主義」と呼んでいる。
「感情の自然主義」という言葉は説明を要するだろう。山崎氏の説くところによれば、順吉は日露戦争後の虚脱感のもたらしたアイデンティティの危機に直面した最初の世代に属し、もはや近代国家の建設という切迫した国家目標によって自己の役割を自覚する途も、かつての江戸の文明において可能だったように、重層的な封建的規範によって自己を表現する途も断たれていた。なるほど、近代国家という「公」的な理念はあったが、それはリァリティのない抽象的存在に遠のき、個人の感情生活からは切断されていた。
ところで、本来ならばここで国家の吸引力が弱まつたのであるから、知識人たちはこれを好機に、それぞれの「私」の世界に帰つて行けばよいはずであつた。だが実際には、弱まつたのは国家の煽情的な魔力だけであつて、それがすでに社会の中に敷いてしまつた軌道の方向は微動だにしたわけではなかつた。興奮は残らず醒めはてながら、現実の生活の場所としては、やはり明治国家が一元化した「公」の世界のなかに生きて行くほかはなかつた。「私」の世界へ帰らうにも、もはや彼らの身辺には「私」的であつてしかも「世界」でありうるやうな、多元的で安定した人間関係といふものは残されてゐなかつた。人間関係はすでにはつきりと二種類に分断され、抽象的に「公」的な世界か、さうでなければ、もはや「世界」とは呼べない「私」的な密着状態だけが残されてゐた。(『不機嫌の時代』)
このような「私」的密着状態、あるいは「感情の自然主義が支配するアモルフな共棲状態」に転落した彼らの眼前には、「感情」の働きの下にひろがるもう一つの「感情」の世界、もはや「感情」とは呼ぶことのできない「気分」の世界がひろがっていた。山崎氏は「感情」と「気分」の相違について、オットー・ボルノーの説を引いている。
本来の意味での感情は、つねに特定の対象に「志向的」に関連する。それらは「具体的感情」、「方向づけられた感情」である。あらゆる喜びは、なにかについての喜びであり、あらゆる希望は何かへの希望であり、また、あらゆる愛は何かに対する愛であり、あらゆる嫌悪は何かに対する嫌悪である等々。これに対して、気分は決して一定の対象を持たない。気分は人間存在全体の状態のようなものであり、また色調である。その状態や色調において、自我が一定の仕方で直接自我自身を知るのであるが、しかし、それらは決してて何かそれらの外にあるものを指示するようなことはしない。(『気分の本質』 藤縄千艸訳)
ボルノーはこのように「気分」の次元を「感情」の次元から区別した上で、「気分」を「高まった気分」と「沈んだ気分」に大別するが、山崎氏はこの分類を「感情を促進する気分」、「感情をはばむ気分」として把え直し、大津順吉の陥った心理状態を後者に含めている。
なるほど、順吉の心身を侵食する「不機嫌」は、山崎氏の指摘の通り、「感情をはばむもの」であり、このような「不機嫌」が意識の基調では、いかなる明確な感情の所有も、したがって自己把握も不可能に違いない。その限りで、志賀的な「気分」の経験は「感情そのものの無力感」、「感情と自己のあひだに一枚のヴェールがかかったやうな疎遠感」を生むものだろう。
しかし、ボルノー流のStimmungの分析を導きとした山崎氏の考察には、二つの点で大きな疑問がある。それはどちらもドイツ語の Stimmumg と日本語の「気分」の相違に係る。
第一はStimmungと「気分」の語義の色調の相違である。Stimmungは「気分」、「調子」、「印象」をあらわすが、語義自体に特定の色づけはない。それに対して、「気分」の方には暗さ、と言って悪ければ一種の屈折がつきまとっている。Er ist in guter Stimmung.(彼は快調だ)といえば、いかにも晴れやかだが、「彼は気分がいい」の方は、病みあがりの状態とは言わないにしても、今ひとつからりとしない。折れまがった感じが濃厚である。これは語の来歴に照らせば、当然のことかもしれない。Stimmungは元来は音楽用語と言われている。音楽にはモーツアルトの天上性からシューベルトの悲痛、マーラーの官能性まで、さまざまの調子があるが、その調子を指してStimmungと言われるのである。では、「気分」が意識されるのはどんな時だろうか。本当に快活な時、万事がとどこおりなく運び楽しくてならない時は、誰も「気分」など意識しはしない。「気分」がいいとか悪いとか言うこと自体、すでに体の働きがとどこおりはじめているのである。山崎氏は「気分」を「感情を促進させるもの」と「感情をはばむもの」とに大別したが、このような分類はStimmungの考察としては妥当であっても、日本語の「気分」の分析としては疑問がある。志賀直哉的「気分」がどのようなものか、どこから由来するかよりも、志賀直哉的経験がなぜ「気分」として経験されるのかが問われなければならないのではないだろうか。
第二の問題点はStimmungと「気分」の射程に係る。Stimmungは元々が音楽用語だということからもわかるように、いわば心理の通奏低音としての「気分」に照準があわせられており、その射程は個人の範囲を超えることがない。他方、「気分」の方は、「気」の分有、分け前ということであって、個人意識に焦点をあわせながらも、「気」の外部的性格、遍在的性格につらなる射程の広がりを有している。ボイテンディクは、テレンバッハの『味と雰囲気』に寄せた序文の中で、次のように述べている。
気分(Stimmung)と雰囲気(Atomosphäre)がいかに類似の意味内容をそなえているかは、私見によるとシュトラッサーのつぎの言葉から明らかになる。「夕暮時の気分(Abendestimmung)、朝方の気分(Morgen Stimmung)、情趣溢れる風景(Stimmungs volle Landschaft )、宗教的気分、革命的気分、インフレ気分、パニック気分といった言い回しがある。ここに示されているのは、ボルノーが述べるように、人間と世界との合一である。」しかし、まさにこのような例が、われわれに気分(Stimmung)と雰囲気(Atomosphare)の違いを教えてくれる。つまり、後者は一つの非人格的(非人称的)な現実であって、人間が呼吸したり食べてみたり(味わってみたり)せざるをえないゆえに、それに関与するところの古代の自然(Physis)に似ている。(「雰囲気的なものという生きられる現実について」 宮本忠雄・上田宣子訳)
まことに、木村敏氏やテレンバッハが指摘するように、「人間と世界からなる宇宙を包括する一つの実体」、「人と人との関係がそこから生じてくるような根源的な基盤」は、東洋では「気」、「アートマン」、西洋では「プネウマ」、「アニマ」、「アトモスフェール」と、いずれも「気息」、「大気」をあらわす語によって示されてきた。Stimmungの個人心理的基調に対して、「気分」にはなおこのような非個人的な意味合いがかよっているのである。志賀の「気分」をStimmungの次元で論じることは、こうした「気分」の射程を切りつづめてしまう結果に終わる危険性がないとは言えない。
山崎氏の考察は「気分」の露呈と制度的なものの関係(われわれは後にこの問題に立ち返るはずである)への注目という豊かさをもつ反面、志賀の「気分」の経験を実存主義心理学の視界に縮小してしまうという傾きが否めない。そして、実際、『暗夜行路』の結末で語られる有名な自然との合一感のくだりは、氏の考察からはずされることになる。もっとも、時代精神の病理診断という氏の批評の性向からすれば、この切り捨ては必然と言えるのだが。
『不機嫌の時代』に先立って書かれた「私小説の両義性」において、柄谷行人氏は「気分」の存在論的位相にまっすく切込んでいる。氏によれば、志賀の世界は、自我も他者も欠いた、「気分」が主体の世界である。
最初に、私は志賀は他者を欠いているだけでなく、私を欠いているのだ、と述べた。たとえば、憎悪は他者意識である。志賀の「不快」には他者がいない。「不快」がつきのぼってくるのだ。志賀の快・不快の表出は、恣意的な判断ではなく、いつもどこからかやってくるものである。彼はあとからその理由を考えるかもしれないが、それは他者(対象)にも彼自身にも転嫁しえないものなのである。「不快」と感じたとき、事実、彼は「不快」の理由をなにも書いていない。そのかわり、「不快」という一語に、彼の全存在的な判断がこめられていたのだ。彼が一見自己絶対的でありながら、その内実において「無私」であったという逆説は、まさにここにある。(「私小説の両義性」)
柄谷氏は前コギト的領域、自己や他者、客観が構成される以前の領域に働く主体として「気分」を規定している。「気分」が主体であるとは、順吉の知覚も判断も行為も、すべて「気分」に強いられて出来するということを意味する。ここには真の意味で行動も葛藤もない。あるのは「不快」から「調和的な気分」への移行という、「気分」の自己運動だけである。「気分」はそのような「絶対性」をおびたものとして現前している。
このような領域の経験を形象化しようとするならば、叙述は必然的に不透明にならざるをえない。「気分」以外のものに目を転じたり、「気分」を「気分」外のものに解消したりすること自体、「気分」の直接性から離れることであり、リァリティの喪失を意味するからだ。柄谷氏はこの自己完結的な「気分」の領域への徹底的な固執と「気分」外のものの拒絶に志賀の限界と可能性を認め、後に『日本近代文学の起源』では、近代国家の成立という認識論的布置の変動の裏面として把え直している。きわめて正確な指摘に違いない。
しかし、われわれがここで問題にしたいのは、志賀的な「気分」の心身相関論的な場面である。われわれは先に、「気分」が意識されること自体、すでに身体の働きが変調をきたしはじめている徴だと書いたが、志賀の「気分」の経験は、世界に対する身体の特有なかまえをともなうものではないだろうか。たとえば、「和解」の「自分」は銀行で番を待たされながら、あきらかに周囲に対して身がまえている。
その日自分は起きぬけに食事もせず、一番で出かけた。橋場のはうの友だちに用があttつて南千住で降りてそこに寄り、一時間ほどゐてから日本橋の三井銀行に行つた。十五分ぐらゐで済むつもりだつたが二時間たつてもらちがあかなかつた。番號を言ふのを、もうかもうかに引かされてゐる不愉快にはかなはなかつた。讀むものでも持つてゐればまだよかつた。しかしふだん呼吸してゐる空氣とはあまりに違つたさういふ空氣の中にただぢつとしてゐるうちに不安と不快で自分はいらいらして來た。どれも、これも赤の他人ばかりだ。自分だけが水に滴らされた油のやうな氣がした。(「和解」)
彼をいらだたせているのは、もちろん、いつまで待っても埒があかないという情況だが、直接的にはそうではない。彼は「ふだん呼吸してゐる空氣とはあまりに違つたさういふ空氣」の中に閉じこめられたように感じ、「空氣」に対して身がまえているのである。彼は単に「もうかもうかに引かされてゐる」だけではなく、「空氣」に対しても受け身の態度を強いられ、ただ唐突に待合室を飛び出すことによってしか、「「空氣」のもたらす「不安と不快」からのがれるすべがない。
ここには「気分」の経験の受動的な性格、あるいは受苦的な性格があらわに出ている。「各個人が宇宙的、遍在的な気を分有し、各自の分けまえとして持っている気の個別的様相は、「気分」あるいは「気持」の言葉で表される」と木村敏氏は書いているが、外部的な「気」を分有することは、その「気」を通して、外界の影響を一方的にこうむるということを意味するはずである。それは、心身相関論の場面で言うなら、「気」の滞りによって生じた身体の変調が「気分」として意識に現前するということである。「気分」を経験するとは、「気」の流動にさらされた身体、受苦的な身体を経験することにほかならないのだ。それは「不機嫌」に限らない。『暗夜行路』末尾の大山のくだりで記述される至福感においてもそうである。
彼は自分の精神も肉體も、今、此大きな自然の中に溶込んで行くのを感じた。その自然といふのは芥子粒程の小さい彼を無限の大きさで包んでゐる氣體のやうな眼に感ぜられないものであるが、その中で溶けて行く——それに還元される感じが言葉にも表現できない快さであつた。(『暗夜行路』)
この自然との融合感は何ら謙作の主体的な活動の結果もたらされたものではない。逆である。謙作は登山を断念し、明けゆく空の下でただうずくまっている。自己の「気分」と自然の「気」の合一という清洌な経験は、いかなる主体的身がまえも放下し、ひたすら受動的に自己の身体をさらすという態勢において、はじめて到来したのだ。
つまり、志賀的な「気分」とは、徹頭徹尾、身体の受動性・受苦性の経験である。「気分」としての「気」は世界から身体への一方通行路であって、身体の表現の媒体となることはない。志賀の世界の自己完結的な狭さはおそらくそのゆえだし、山崎氏の言う「公」的規範の喪失もこの観点から把え直すことができるはずである。しかし、いま、その問題に立ちいっている余裕はない。
意外なことに、あるいは当然なことに、石川の叙述はあれほど「気」系の語彙に富みながら、「気分」という語はほとんど見ることができない。ざっと調べただけなので見落としもあろうが、われわれが採取したのは次の一例のみである。
事がをはつたあとで、だらだら女とべたつくといふむだな時間は生活に無い。氣分といふものは潮の好まぬ ものである。(『荒魂』)
潮は『狂風記』の鶴巻大吉、『至福千年』の内記とならぶ権力意志の権化であって、なるほど、このような野望家には「気分」という状態は似つかわしくないだろう。いや、彼らに限らず、石川的人物たちは常に主体的に世界に係り、つねに活動のまっただなかにいる。「気分」という漫然とした仕方で時間をすごすなど、考えられないことだ。
先に、「気分」の経験とは、身体が外界の変調を一方的にこうむることだと書いたが、石川にあっては外界の影響の受容も「気分」とは異なった仕方でおこなわれる。たとえば、右の引用に続いて、潮はつかの間の停電の闇の直後に何かが侵入した「けはひ」を直覚している。
ライターの火をたよりにあるき出して行くと、ぱつとあかるくなつた。ほんのわづかの間の停電と知れた。しかし、そのわづかの間に、廊のたたずまひはがらりとスウィッチが切りかへられたやうであつた。さういつても、すでにさだまつた裝置が一瞬に變化するわけもない。見たところ元のままである。ただしづかな水面 に小石が一つ落ちこんだやうに、遠くから陰陰とひびき寄せて來るものがあつて、その波紋が潮の身にせまつたとき、息づまる壓迫感がそこにのしかかつた。何だらう。それは廊の構造の中からどれかの物質が缺けおちたといふうのではなくて、なにか異質のものがしのびこんで來たといふけはひであつた。ひびき寄せる波紋のみなもとには、そいつがゐる。そいつは壁のどこかにひそんでゐるのかも知れない。さう。そいつとは動物性のものに違ひないことを、潮は動物の感覺をもつてさとつた。(『荒魂』)
ここには潮の意識の流れにのせて、二重の運動が現前させられている。「ただしづかな水面に……」から「息づまる壓迫感がそこにのしかかつた」までは、侵入した何ものかから「けはひ」が同心円状に拡散し、潮の位 置まで達する運動、すなわち外界から身体へという求心的な運動である。だが、「何だらう」から「潮は動物の感覺をもつてさとつた」にいたるのは、潮自身の身体感覚が皮膚によって限られた身体から外界へ向かって広がり、「ひびき寄せる波紋のみなもと」へおよんでいくという遠心的な運動である。「気分」としての外界の感得が受動的一方のまさに身体の受苦性にもとづいていたのに対し、「けはひ」としての環界の統握は、多かれ少なかれこのような身体感覚の拡張をもたらす身体の能動性にもとづくのである。何かの「けはひ」を察知するということは、その何かを可能的な行動の射程に包含するということを意味する。「気分」の身がまえが防御一辺倒だったのに対し、「けはひ」のもたらす身がまえは、反撃へいつでも移行する可能性を含んでいるのである。
しかし、このように感得された「けはひ」は、常に何ものかの「けはひ」である。「気分」としてあらわれた「気」は何ものに属するとも特定されていなかったが、「けはひ」としてあらわれる「気」には、それを発出する主体(他者)が措定されるわけだ。では、このことは「けはひ」の経験が、「気分」の前コギト的領野を離脱し、三人称的領域で成立するということを意味するのだろうか。
ここで参考になるのは、「前客観的視界」というメルロ=ポンティの概念である。メルロ=ポンティは個々の刺激が感官に作用して知覚が成立し、主体の行動をうながすという機械論的な心理学・生理学を斥けて、次のように書いている。
或る動物が実存する、その動物が一つの世界をもつ、あるいは彼が一つの世界にぞくしている、と言うとき、それは何もその動物が世界についての客観的な知覚または意識をもっているなぞということを意味するものではない。(略)状況が動物に提供するところは、ただ実践的な意味だけであり、状況が促すものは、ただ動物の身体的な認知作用だけである。(略)状況の包括的な現前こそが、部分的な諸刺激に一つの意味を付与しているのであり、それらの諸刺激をわれわれにたいして何ものかであらしめ、価値あるものたらしめ、あるいは存在せしめているのである。反射は客観的な諸刺激から帰結したものではなく、逆にそれらの諸刺激の方へとふり向き、それらの諸刺激にたいして、それらが一つ一つとしては、また物的要因としてはもたなかったような意味を、それらがただ状況としてのみもつことができるような意味を付与するのである。(略)状況の意味にまで己を開いてるかぎりでの反射と、まだはじめには認識対象を措定しないでわれわれの全体的存在の指向性にとどまっているかぎりでの知覚とは、一つの前客観的視界の様相であって、この視界こそ、世界内存在と呼んでいるところのものである。(『知覚の現象学』 竹内芳郎・小木貞孝訳)
メルロ=ポンティは更に、他者や諸対象が客体化(三人称化)される以前の領域を「一種の内的隔膜」と呼び、他者や諸対象それ自体よりも、われわれの持つ知覚世界を決定していると述べている。
自己と他者、諸対象が区別された客観的世界の基底には、外界が身体の身がまえを喚びおこし、身体の身がまえが外界を一つの生きられた状況として照らしだすという、このような相互拘留の領域が広がっているのである。石川の「けはひ」、「けしき」が交響する世界は、「けはひ」、「けしき」の主体として自己や他者、諸対象の区別を含むとは言い条、受動性・能動性のたえまない相互作用という生成の相においてあらわれる限りで、メルロ=ポンティ的な「前客観的視界」を照準しているといって差し支えない。身体論の水準で言えば、「けはひ」、「けしき」として出来する石川的な「気」は、特定の感官に働きかける単なる刺激ではなく、むしろそうした部分的諸刺激を包括する全体的状況の相関者なのだ。右の引用で、潮はどこかがおかしいと異変を特定することができないにもかかわらず、全体的状況として「けはひ」を感じとっているのはそのゆえに外ならない。そして、言うまでもなく、こうした状況としての「気」は、一つの実体として出来するとは言い条、身体の能動的身がまえに反照され、意味づけられているのである。
このことが最も如実にあらわれているのは、自然との合一感を歌ったくだりである。幻の鳥、金鶏をもとめて蒋山深くわけいった呂生は、謙作がただひたすら山腹にうずくまったのとは対照的に、持てる力のすべてをふりしぼって自然にたちむかい、豁然然貫通の境地に達している。
たちまち世界が闊然とひらけた。すでにして、祕密の林のまんなかである。まづ息のとまるまでに、名状すべからざる芳香が鼻を打つた。香氣はいかなる美酒にもまさつて、骨髓にしみとほつて、うつとり醉つたやうであつた。花の香。あたりを見わたすと、花はいちめんに咲きみだれてゐる。(中略)竹の花に相違なかつた。またその竹といふのが、これはいかなる竹だらう。幹はあくまで太く、たくましく、みごとな琅の塔を成して、これを打てば内より刎ねかへす力あふれて、樂の音は泉のやうにながれ、四隣ことごとく鳴りひびいた。枝も葉も寶玉 をあざむき、莊嚴は形容を絶して竹林方十里、このところはまさに竹の宮殿であつた。このとき、竹林の靈氣はかへつて呂生の身に徹して、不思議にも神力おのづから發して、すなはち腰にさした斧をとつて立ちむかふ。自然の力かくのごとしとあれば、人間の力もまたかくのごとし。斧は竹を拔ち、拔つこと數本、花は散り、幹はたふれ、斧もまた折れた。呂生は最後の力をふりしぼつて、たふれた竹をあつめ、これを祕密の林の外にはこび出した。(「金鶏」)
呂生は危険なほど無防備に「身」を竹林にさらしている。香気は皮膚につきいり、体内深く、骨髄まで浸透する。呂生は酔う。酔うことによって我を忘れ、我を忘れることによって「靈氣」の不思議をうける。「靈氣」の不思議をうけるとは何か? 虚心な活動に「身」をゆだねることである。斧をふるっているのはすでに呂生ではなく、斧にあらがうのもすでに竹ではあるまい。それにしても、魅惑的なのは「靈氣」が「身に徹する」という体感の瑞々しさである。なぜ、こんな表現が可能なのか?
注意したいのは、呂生の実現する竹林との交感は、謙作的な主客未分の境とは似ても似つかぬ経験だということだ。志賀的な「自分」は外界の影響を受苦的に引き受ける存在であり、安定した表現の方途を知らず、発作的な行為によって発散することしかできなかった。彼らに許された外界との唯一の和解の仕方は、「自分」と他との区別が解消してしまうこと、「気分」が「気」の中に溶けこんでゆくことだけであった。志賀にあっては、「自分」があるということ自体が、世界との異和なのであって、この溝を埋めようともがけばもがくほど、自他の対立はいよいよ深まるばかりであった。不快の解決がまったく他動的に、いわば「気分」の自己運動の結果としてもたらされなければならない必然性はここにあるだろう。
ところが、石川の場合、虚心になったからといって、呂生の存在は「竹林」に呑みこまれてしまうわけでも、「靈氣」の中に溶けこんでしてしまうわけでもない。逆である。「竹林」の魅惑が切実であればあるほど、また「靈氣」が体内に浸透すればするほど、「身」の現存はいよいよ鮮かに感得されるのだ。「自然の力かくのごとしとあれば、人間の力もまたかくのごとし」、この対句くずしの弾みのある文は、活動する身体の呼吸を伝えてあやまたない。呂生の「身」は活動において自然と合一するのである。いや、呂生の「身」と言ったが、正しくは非人称的な「身」と言うべきか。「呂生の身体」として三人称化される以前の「身」、活動において宇宙に連累していきながら、あくまで活動の一方の極として保持されつづけるような「身」がそれだからである。
4.
しかし、「気」系の語彙は、石川にあって、なぜ実名詞なのだろうか?
日常の語法と経験では形式名詞の水準に埋没している「気」に照準をあわせることによって、石川が他者・諸対象・世界の身体的な認知、言わばエロス的コミュニケーションの活動を照明していることはすでに見た。「けはひ」、「けしき」等に導かれた石川の叙述は、「気分」に導かれた志賀の文体と同様、日常性の根柢に秘められた前コギト的、前客観的領域の経験を形象化しているのである。石川は志賀と正反対の方向から、沈黙のまま放置されているこの領野に光をあてたのである。
しかし、こう言っただけでは、まだ事の半面でしかない。「気」系の語彙によって何が可能になったかは明らかになっても、なぜ「気」系の語彙が叙述の表面にあらわれなければならないのかという問題にはまだ手がつけられていないからだ。石川が書き記す「けはひ」、「けしき」という語は、一定の効果を狙った使われたお見るにはあまりにも生気に富んだ、躍動する形姿を見せている。目的ではなく、必然性が問われなければならないだろう。
志賀の場合もまた、「気分」という語は必然的なものとして記されていた。志賀は人間関係に瀰漫する「気」を、「気分」、「気持」、「不快」、「不安」、「不機嫌」等々と主題化・実名詞化して、背景から浮かびあがらせるが、これは一つの必然に強いられておこなわれたことだった。
そのころの私はいつか自身の不愉快な氣分に中毒してしまつてゐた。私はソーファに腰かけたまま、不愉快な凝結體にでもなつたやうな氣持ちがしてゐた。(「大津順吉」)
自分の調和的な氣分は父との關係にも少しづづ働きかけて行つた。然し或時、例へば妻と一緒に上京して電話で祖母を見舞ふと、丁度父が留守だから直ぐ來て呉れと母が云ふ。自分達は電車で直ぐ麻布へ向ふ。そして門を入らうとすると其所に立つて待つてゐた隆子が駈けよつて來て、小聲で「お父さんがお歸りになつたのよ」と云ふ。自分達は門を入つただけで誰にも逢はず、直ぐ引つ返して來る。かう云ふ場合、流石に自分の調和的な氣持ちも一時調子が變る。然し又或る時、人の口から、父が自分の妹達などの事でジリジリと苛立つて氣六ケしい事を云ふ噂などを聽くと、父のさういふ氣分の根が猶且つ自分との不快にある事を考へずにゐられない點で、そうして今の自分が自分だけで調和的な氣分になりかけてゐるのにといふ氣のする點で、段々年寄つて行く父の不幸な其氣分に心から同情を持つこともあつた。(「和解」)
ここでは、父と息子、父と娘の間の「気」のかよいあいが停滞し、変調をきたしているからこそ、「気」は「気分」、「気持」として主題化されているのである。「気分」自体が自然状態からの乖離であってみれば、「気」が実体的な威力をおびて叙述の表面にのぼるのは当然と言えよう。逆に言えば、人物が「気」の原本的な一体性の中にくるみこまれ、エロス的なコミュニケーションがとどこおりなくおこなわれている場合は、「気」は「気分」としても「気持」としても表面化することはない。父との関係が、「調和的な気分」と書かれるのは、まだ真の和解に至らないからで、事実、志賀は父との実際の和解以後、「調和的な気分」と書くことはおろか、小説を書くことさえやめてしまった。志賀の「気分」に終始する小説は、「気」の異和の所産なのである。
石川の場合、このような議論は成立しない。石川にあっては、「気」の流通は停滞するどころか、迅速すぎるくらい迅速に流れているからだ。これでは、異和も変調も生ずる余地はない。では、なぜ、「気」は「けはひ」、「けしき」として、ことさら実名詞化されなければならないのか?
結論をいうなら、石川的人物は「気」の原本的な一体性から、そもそもの初めから切断されているのである。これまでの論旨からすれば、逆説的に聞こえるかもしれないが、石川の小説においては、人物と人物、人物と世界の間に「気」がかよいあい、エロス的コミュニケーションで結ばれているという事自体が自明ならざること、ことさらに主題化しなければならないことなのだ。
急いで補足しておこう。われわれは日本語としての「気」を問題にしているのであって、「気」の原本的一体性というのも、所謂「甘え」の関係に外ならない。日本的な文化、特に人間関係のあらゆる局面に瀰漫した「甘え」が、母子関係の延長上にあることは、すでに多くの識者の指摘するところである。右にその一端を見た『和解』のこじれた父子関係や、『大津順吉』における祖母との関係も、実は基本は母子関係であって、互いに母の役割、子の役割を演じあうところに、切っても切れない「気」のつながり、山崎氏の「アモルフな「私」的密着状態」が生ずるのだと言える。「けはい」で察しあう日常的なエロス的コミュニケーションが、母親と赤ん坊の「気」のつながりの変形であることは言うまでもあるまい。
石川は日本的対象関係を根本的に特徴づけるこの母子関係――「甘え」の関係――から切れているのである。これは単に「男性的な作風」で片づけられる問題ではない。「男性的」と言われる小説ほど、概して肉親の情愛(「甘え」の関係の最たるものだ)に肯定的なばかりか、往々濃厚にそれをたたえているからである。
石川の一種抽象的な叙述空間には、肉親の情愛のまぎれこむ隙はない。石川的人物は例外なく家族関係から切断された孤絶した生活者であり、しばしば捨て子、身無し子、貰い子であって、『荒魂』の佐太にいたっては、「佐太がうまれたときはすなはち殺されたときであつた」と語り出される。佐太は間引きされた赤ん坊なのである。
ところで、かなりな分量になる小説群の中で、ただ一ヶ所、親子の情愛が描かれている箇所がある。それを引こう。寄宿先に訪ねてきた父親に、金吾はこうあびせかける。
「何だつて、やつて來たんです。ほつておいて下さい。ぼくにかまはないで下さい。」もうその場にゐたたまれないていで、足をはやめて歩き出した息子の背中に、うろたへた父親は追ひすがつて、「おい、金坊、どうしたんだよ。え、何をおこつてるんだよ……」と七八間引きずられて來たところで、「いいよ、わかつたよ。何も仕事の邪魔をしに來たわけぢゃないんだ。おまへがちゃんとしてゐるところを見れば、それでいいんだから……いいよ、おれはもう歸るよ、歸るよ。」さういひながら、ふところを探つて取り出した小さい包みを、さげてゐた曲物といつしよに息子に手に押しつけて、「これを持つてつてくれ、これを……ぢや、いいかい。おれは歸るよ。」(『白描』)
父親が押しつけて帰った曲物は汁のしみ出した佃煮で、包みの方は五銭十銭の小銭のつまった財布である。ただ一ヶ所とはいえ、このようなくだりのあるということに、われわれはある種の感慨をもたざるをえない。だが、この情景を目撃した敬子の反応を記述したくだりは、まぎれもない石川淳の叙述である。
……ばたんとしめた硝子窓の内部で、その音があまりに高くひびいたのに、敬子は自分でびつくりした。そんなに手荒く、いつたい何を遮斷したのか。ただ窓の下に、一人の少年と、ことばの端ではその肉親と察せられる老人を見ただけではないか。だが、わが身の上にしろ、他人のことにしろ、肉親の愛情がもつれあつた風態ほど、敬子をぞつとさせるものはなかつた。(『白描』)
生まれたばかりの佐太に加えられた斧の一撃と敬子によって閉めきられた窓と――「甘え」の関係はこの二つの所作によって、石川の小説から完全にしめだされたのである。
日常性における「気」の動きは「甘え」の原理と不可分だが、「甘え」を切断した石川の小説では、「気」はまったく別の原理、血縁のような疑似普遍的な原理ではなく、言葉の真性の意味での普遍的な原理によって統轄されている。すなわち、陰陽論的な原理である。
われわれは最初に、根元一気から陰陽二気が分かれ、質を生じ、万物を化生するという『淮南子』の宇宙生成論を見たが、森羅万象を陰陽二つのカテゴリーに分ける原理は、「気」に内在する理法として、石川の叙述のすみずみに行きわたっている。たとえば、『狂風記』末尾の忍歯組と大吉一党の戦いは、この二元論によって構成されている。大吉がが陽気、陽根、太陽、熱、日光、天空であるなら、忍歯組(カーの安樹、ヒメ、二羽の蝶のさち子とマヤ)は陰気、女陰、冷、月光、地下である。
生ける銅棍の荒れくるふところ、殺氣を發してさからふものを打つ。ときに、カーはといへば、これもひるむけはひはなく、ふりしきる日光の矢のはげしさに、銀白の胴體は燒けきれるまでに映えて、驅けめぐる速さは影もとどめず、立ちはだかる銅棍にむかつて、上から攻め、下から拂ひ、雙方おとらぬ 虚實のぶちあひは一進一退、霞をさそひ、虹を散らし、螺旋きらめく龍卷を吹きあげた。そのあひだにも太陽は猛つてぐんぐん昇る。逃げまどふ二羽の蝶はきりきり舞して、今はあるかなきか、かげろふのすがたの、つひに消えようとした瀬戸ぎはに、
「よわければこそ、いのちがある。死ねばこそ、生きかへる。太陽におびえるな。もぐりこめ、闇の中に。生きのびよ、喜劇のはうに。」
聲はどこからともなくきこえた。舞臺の床を這つて、下からひえびえと白いけむりがもれて出て、水のにじむやうに湧きひろがつたと見るまに、いきほひつのつて色さらに濃く、濛濛と立ちこめれば、あたりは太陽にさからつて灰色の影につつまれた。(『狂風記』)
このような荒唐無稽の大盤振るまいだけではなく、次に引くようなさり気ない情景にも陰陽論の原理は貫かれている。
晉一は笙子を抱きあげてベッドにはこび、そのあたまを枕におちつかせたとき、いつしよに寢たかたちになつて、ついそのまま寢た。さういふ姿勢をとつたことは、はじめてであつた。やはらかい肉のふくらみの上に、透明なうすい板が張りつめたやうであつた。晉一はそれを肩から揉みほごして、手を乳房にあてた。氷がとけるやうに、笙子の目がうるんだ。(『白頭吟』)
笙子の姿態は貫之の「袖ひぢてむすびし水の……」の歌にも似た幻の水の変幻のうちに夢見られている。『白頭吟』という長編は十一月三日、二十四節季で言う「蟄虫感俯」(虫類が地下にかくれる)に始まり、三月啓蟄節に終るが、右の一節は、分量的にも、物語の時間の上でも、ちょうど中間の立冬に位置している。貫之の立春を祝う歌とは前後するが、陰陽論は太陽黄経零度、冬至点に太陽が至った時をもって、自然の気は陰から陽に転ずるとする。アナーキストの地下運動をあつかったこの小説は、虫類が地下に隠れてから再び地上にあらわれるまでの三ヶ月を描くが、小説を流れる「気」も、この一場をもって陽に転じたわけだ。かすかに春情のきざした笙子の表情は、自然の甦りの予兆でもあるのである。
吉田秀和は次のように述べている。
私は太和殿の前面に立ち、南天の太陽と直面する中国の皇帝は、自分の立っている地点こそ、正に世界の中心であり、それ以外に世界の中心はないと考えても不思議ではなかったろうと書いたが、そう考える機会を常に与えられていた人が、同時に、そこから、世界全体についてのある一つのまとまったイメージを得、世界の全体を、自分を中軸として、そのまわりに整然と配置された万象からなるものと考え、描くようになるのは、ごく自然だろう。いや、そういう具合にして、一つの「世界像」を形成していなかったら、その方がよほど不思議だろう。逆にいえば、そういう機会を持たないところでは、およそ、自他についての意識はあっても、それが自分のまわりを越えた世界の一切についての全体像にまで及んでゆくことがあったとは考えにくいといえるのではないか。(『調和の幻想』)
さりげない描写にも宇宙の秩序が透かし見られる石川の叙述は、私的なものに跼蹐する志賀の記述の対蹠点にあると言えよう。そして、それはまた「公的」なものを喪ってしまった日本近代文学の対蹠点でもある。石川の「気」の躍動する叙述空間は、しかし、日本的な血縁空間を切断することによって、はじめて成立しえたのだ。
こうして、われわれは「気」の問題を追いながら、「理」の問題に逢着した。われわれの見るところでは、石川の小説は朱熹の理気二元論を根柢とすることによって成り立っている。
と言うと、石川を知る人はいぶかしむかもしれない。エッセーの中で、作家本人が孟軻を斥け、朱熹を言葉をきわめて罵っているではないか、と。しかし、作家当人の発言は、彼が養嫡子として石川の家を継ぎ、三歳の時から祖父のもとで論語の素読をうけたという伝記的事実同様、小説を論ずる上では無視しなければならない。小説は小説自体に即して論ずるべきなのである。しかし、そのためには稿を改めなければならない。