坑夫

   一

 

 涯しない蒼空から流れてくる春の日は、常陸ひたちの奥に連る山々をも、同じやうに温め照らしてゐた。物憂く長い冬の眠りから覚めた木々の葉は、赤子の手のやうなふくよかな身体を、空に向けて勢よく伸してゐた。いたづらな春風が時折そつとその柔い肌をこそぐつて通ると、若葉はキラキラと音もたてずに笑つた。谷間には鶯や時鳥ほととぎすの狂はしく鳴き渡る声が充ちてゐた。

 池井鉱山二号飯場はんばづきの坑夫石井金次は、その日いつものやうに闇黒な坑内で働いてゐた。皮がむけて、あざれた骨のやうになつた松の木で囲つた坑口が、すべての熱も光も吸ひ取つて了つてゐるので、山の肉を割き骨をえぐつて切り込んだ洞の奥には、永久に動かない黒い冷たい闇が一杯にこもつてゐた。岩の裂目にかけたカンテラの赤ずんだ弱い光が、生々しく破られた岩肌や、汚れた仕事衣しごとぎを着て立つてゐる石井の姿を僅かに照らし出してゐるばかりであつた。

 カンテラは絶え間なく石油臭い油煙ゆえんをたてゝゐた。行き詰つた、風通しの悪い洞窟の奥には、むせるやうなダイナマイトの煙が、黒い油煙に交つて、人の血を乱す荒々しい匂が濛々とこもつてゐる。

 日の輝く世界と全くかけ離れたそこには、外界で起る如何いかなる物音も更に伝はらなかつた。死のやうな闇黒と静寂の境で、石井が振ふはがねつちの冴えた響が岩壁を唸つて行く絶え間には、山肌からしたたる水の啜り泣くやうな音も聞えてゐた。

 彼は泥水で地肌もわからない程汚れた仕事衣を身にまとつて、腰にはむしろで造つた四角な尻当あてしこをぶら下げてゐた。長く伸びた髪の毛を鉢巻で額に止めてゐたが、蒼白い顔のせまつた眉の下で蛇のやうに光る目と、少し曲げて結んだ口が、彼の性格の何物かを語つてゐるやうであつた。

 彼の前には刳られた山の肉の断面が立つてゐる。赤黒い母岩を貫いて走つてゐる真白い筋のやうな、稍傾斜した硅石の脈の中には、オルフラマイトが石炭のやうに光つてゐた。真鍮色の硫化鉄や金色の銅、緑の鮮やかな孔雀石もちりばんでゐる。小さな剣を植ゑたやうな透明六方石のスカリは、所々に氷のやうな光を放つてゐた。カンテラの焔がゆらめくと樋の内は仏壇のやうに美しく輝いた。

 山はダイナマイトをかけられる毎に、大きな身体をもだえて苦しげに呻いた。が、石井にはその轟然とした凄まじい音響と共に、鉄のやうな堅岩も微塵に粉砕されるのが、日毎に味はふ限りない快感であつた。彼は又何万年とも知れぬ昔から、何物にも触れたことのない山の肉を、自分の持つたがねの刃先で一鎚毎につんざいて行く快さをも貪り味つてゐた。鑿を持つた左の腕を真直ぐに伸して、反身そりみにした身体を半ば開いて、右に持つた鉄鎚てつついを遠くから勢こめて打ち下すと鑿の頭からは火花が散つて、岩に切り込む刃先からは目に見えぬ何物かゞ、手から腕へやがて全身に伝はるやうに覚えるのであつて、びちよびちよと血のやうに赤い冷たい水の滴る坑内でも、彼は汗をかいてゐた。

 彼はその時朝から三度目の爆発穴はつぱあなを刳つてゐた。三尺近い鉄のたがねはもう五六寸しか岩の外に現はれてゐなかつた。気の乗つた彼の目には、盃のやうにひしやげた鑿の頭より外は、何物も映らなかつた。尻当あてしこは腰の辺りで、妙な調子を取つてゆれてゐた。

 石井の切り出した岩片ずりを一輪車に積んで、坑外に運んでゐた掘子の三吉は、岩片を出し終つてから、少し離れた彼の後に一輪車に腰をかけて、呑気らしく鉱山歌を唄つた。単調な歌の音は激しく打ち合ふ鉄の響に和して、トンネルの闇の中を異様な声で唸つて行つた。

 穴を刳り終つてから石井は、細長い爆発薬ダイナマイトに雷管と導火線を装置して押し込んで、息の洩れないやうに丹念にこまかい岩片を詰めて、やつと額の手拭をといて汗をふいた。襟のあたりから微かに立つ湯気が、カンテラの焔に白く映つた。彼は振り返つて三吉に、

「もう午かな」と聞いた。

「まだ鈴は鳴らねえけど、もう午でやすべえ」と三吉は待ち設けたやうに答へた。三吉は早く此の暗い冷たいしきから出たいと思つてゐた。温かな日を浴びながら乾いた砂の上に転がつて、午休みの選鉱女にからかふ楽しさを思ひ詰めてゐたのであつた。

 石井は黙つてカンテラの焔をかざして、導火線に火を点けた。白い縄はシュッシュッと音をたてて、闇の中に赤い火花を散らして燃え込んでいつた。新らしい煙硝の臭が二人の鼻をついた。

「三吉出よう」と云つて石井は先きに立つた。暗いトンネルを二人はかがむやうにして、冷たい水を踏んで歩いた。黒い尾を曳いたカンテラの光が、濡れた岩や水に映つた。

 二人が坑口を出てからダイナマイトは凄まじい音を立てて爆発した。肉を破られた山は苦しさうに大きな身体を震はせて、長く呻いた、前にそびえてゐる山も悲しげに反響した。悲鳴は谷を伝ひ森の木の葉を慄はせて遠く響いて行つた。

 石井は坑口の傍の若草の上に転がつて、じつと響の行方を追つてゐたが、響がすつかり消えると彼の蒼白い頬に微かな笑が浮んだ。側に立つてゐる三吉に、

「今の爆発薬はつぱく利いたなあ」と云つた。

「又岩片ずりがうんと出たでやすべえ、石井さんについていると、はあ、全く楽が出来ねえだ」と道化顔した三吉は、ジョリンで足下の土をか掻きながら云つた。

「おれにつくのがいやなら止せ」と石井はすぐ険しい眉をびりつかせた。

「そうら何か云ふとぢき怒るだから、石井さんにつくのはみんないやがるだよ、俺あ見張で憎まれてるもんで、毎日石井さんの仕事場きりばにばかりつけられてはあ、やんなるだよ」

「野郎ツまだ」と石井が半ば身を起した時、三吉は身をひるがへして逃げ出した。彼は追ひかけるのも何だかものういので、其のまゝ再び若草の中に身を横たへた。若葉をすかした春の陽が彼の冷えた身体を温め、優しい春風が疲れをいたはるやうに撫でゝ通つた。

 下の方の坑内からも、午の揚り爆発薬をかけた響がいくつも続いて起つた。が、響はやがて一つになつて、穏かな春の大気を震はせて蒼空の中に拡がり消えた。遠くの選鉱場で女達が唄ふ、かすかな選鉱節の絶え間に、石を砕く響がどすつどすつと断え断えに聞えて来る。水のやうに蒼く澄んだ空を、銀色の雲が静かに流れてゐた。彼は何となく薄ら眠くなつた。何時いつも彼の心を責めてゐる苛立しい気も消えて、懐かしい夢の世界のやうな中に、ぢつと長く浸つてゐた。

 

 麓の方で午を知らせる鈴がけたゝましく鳴つた。彼は眠りから覚めたやうに、やつと身を起して、丸太で足留をした山道を下つて行つた。

 下の広場に、見張所と鉱量小舎が向き合つて立つてゐる傍の、みすぼらしい大工小舎が、坑夫の休み場とも大工の仕事場ともなつてゐた。彼が下つて行つた時、鉱量小舎の周りに坑夫等が多勢集まつてゐた。低い杉皮で蔽はれた屋根の下は人垣の影で薄暗くなつて、中はよく見えなかつた。同じやうに土で赤く汚れた着物を着て、尻当をぶら下げて、油煙で目鼻の黒くなつた坑夫等は、

小幡をばたの野郎が悪いんだ」「やつつけちまへ」と殺気の立つたことを、口々に怒号してゐた。

 石井は穏かに静まつた気を掻き乱されることをいとはしくも思つた。けれども其の騒ぎを冷やかに無関心で看過みすごすには、彼の血は余りに煮え易いものであつた。彼は思ひ切つたやうに歩み寄つて、仲間の後ろから中を覗いてみた。鉱石をうづたかく積んだ傍に係員の小幡が顔の半面を泥と血に滲ませて、真蒼になつて立つてゐた。ひさしを洩れた陽が切りつけたやうに傷の上に射してゐる。洋服を着た事務員が三人、眼を光らして附き添ふやうに傍に立つてゐた。四辺には、バケツや箱箕はこみのがだらしなく散らばつてゐた。

 一同の視線は鉱量台の前に集中してゐた。其処では飯場頭の萩田が、佐藤といふ若い坑夫の胸倉を捉へて、片手で続けさまに彼の横面よこづらを張り飛ばしながら、噛みつくやうに怒鳴つてゐた。

「やい手前は何だつてこんな生意気な真似をしたんだ、不足があるなら何故俺ん所へ云つて来ねえ、俺の面を踏み潰しやがつたな」

 佐藤はまだやつと二十歳になつた位の、薄い眉の下に太い刺青いれずみをした、生意気らしい顔をした男であつた。萩田に打たれる度にびりびりと身体を震はせるばかりで黙つて立つてゐた。

 石井は原因を知りたいと思つた。彼が腕を組んだまゝ仲間を押し分けて一番前に進み出ると、其処に立つてゐた野田といふ坑夫が、

「兄弟いいとこへ来た、小幡の野郎が余り判らねえ事をいふもんだから佐藤が怒つて横面を蹴飛したんだ、ところが今度はかしらが怒つちやつて皆な手がつけられねえで困つてるんだ、何とか止めてやつて呉れよ」と佐藤のために懇願するやうな顔をして言つた。

 野田の言ひ草を聞くと、石井は無暗むやみに腹が立つた。此の間から仲間の間に、鉱量係の鉱石の買方が無理だといふ苦情の起つてゐた事も知つてゐた。年の若い佐藤が皆におだてられて間違を起したのではないかと思つた。利口顔して能く喋舌しやべるこの野田なんか、先に立つて煽てたのだらうと思ふと、反感が胸を衝いた。

「お前こそ止めてやんねえな、平常から小幡なんか遣つつけちまはなきや駄目だつて言つてたぢやねえか」と言つて冷笑した。野田は間の悪さうな顔して黙つて了つた。けれども萩田がまだ怒鳴り続けてゐるのをみると、何となく佐藤が気の毒になつた。腕を組んだまゝ仲間の群から離れた石井は二人の側に歩み寄つた。

「何だか知らねえけど兄貴、もういゝ加減にしてやれよ」と言つて、固く捉へてゐる萩田の腕に手をかけた。萩田は逆ひもせず素直に手を離して、

「兄弟、兎に角此奴を飯場に引張つて行つて呉れ、俺は見張へ行つて話をつけてすぐ行くから」と佐藤を石井に渡した。

「さあ俺と一緒に来ねえ」と言つて石井は佐藤を引いた。佐藤は黙つて小幡の顔を睨みつけてから石井の後に従つた。

 事務員等は黙つて見てゐた。坑夫達は列を割つて通したが、二人が休み場の方へ道具を取りに行く後から、またぞろぞろ随いて来た。

「小幡の野郎が余り因業いんごふだから悪いんだ」

「これで下山おろされちや佐藤の兄弟が可哀相だ」とわやわや喋舌しやべつた。それを聞くと石井は又むかむかした。彼は振り返つて、

「何だ、お前達そんなに佐藤が気の毒なら佐藤が怒つて小幡を蹴飛ばした時、何故皆して鉱量小舎でも踏み潰しちまはねえんだ」

 鋭く光る眼を据ゑて言ひ放つた。坑夫達は黙つて二人から離れて行つた。

「お前誰かにおだてられたんぢやねえか」と今度は佐藤に訊いた。

「うゝん、俺あ誰にも煽てられやしねえけれど、此の間から小幡の野郎が癪に触つて堪らなかつたんだ。今日だつて俺が五分あるつて鉱石を、野郎二分だつてかしやがるから、それなら試験してみろつて言や、俺の見た目に違ひはないつて威張るんだ、俺あもうかつとしたから台の上へ飛び上つて、奴の横面を蹴飛ばした丈けよ。もうこれで気が済んだから下山でも何でも勝手にしろだ。丁度春先きだ。浪人して歩く方が呑気でいゝや。なあ伯父御」

「さうか、そんならいゝけど、人をおだてゝ手前が楽をしようつてけちな奴が多いからな」

「さ、道具を纏めたら飯場はんばへ行つて縁起直しに一杯やらう」

 休み場の広い土間に、幾組かたがねつちが投げ出してある中から、佐藤は自分の道具を取つて縄でゆはへて肩にかついだ。

「忘れ物あねえか」と石井がいた。

「大丈夫だ」

 二人は黙つて歩き出した。鉱量小舎の側を通る時「小幡の間抜ツ、つらあ見ろ」と佐藤が怒鳴つたが、中はしんとしてゐた。山道の片側に長く続いた選鉱小舎の前を通ると、女工達は恐相こはさうな顔をして窓から二人を覗いてゐた。

 山裾を一つ廻つた沢の底に、坑夫長屋が立ち並んでゐた。樹脂まつやにのふいた松の細い柱と、薄板を打ちつけて、杉皮でいた屋根が、褐色の太い長い線を引いてゐる下の方に、なら山毛﨔ぶなの丸木を柱にして、かやで囲つた小舎の中に、渡り者の人足達が、土の上に板とむしろを敷いて住んでゐた。高い山が前後からかぶさるやうにそびえてゐるので、これ等の家の中には、何時もどんよりとした薄暗が漂つてゐた。

 僅かに切り拓いた往還の向ふ側には、切り残されたひよろ長い杉の木がまばらな並木を作つてゐた。方々の坑内から出て一つになつた、赤ちやけた小川がその根方に流れて、所々に野菜の切り屑や瀬戸物の破片などが、汚ない塵塚を作つてゐた。

 長屋の前には軒並に大きな鳥籠が伏せてあつて、赤肌に毛の脱けた鋭い眼の軍鶏しやもが太い声でときをつくつてゐた。彼等は坑夫達の荒い血をたのしませるために飼はれてゐるのであつた。退屈になると坑夫等は筵で囲んだ土俵の中に、軍鶏を入れては蹴合はせるのであつた。同類と闘ふためばかりに生れて来たやうな鳥は、狂気のやうに争つた。鶏冠とさかがちぎれて頚も羽根も血だらけになつて目を白黒させて倒れると、坑夫等は声を揚げて喜ぶのであつた。

 午後や夜中に入坑する、昼は用のない坑夫等が、褞袍どてらを着て長屋の前をぶらついてゐた。二人が下つて行つた時、行き会つた一人が

「今時分どうかしたのか」と訊ねた。

「俺あ下山だ」と言つた切り、佐藤はきつと口を結んでさつさと行き過ぎた。その様子が余り激しかつたので、誰も続いて訊く者は、なかつた。

 煤け切つた薄暗い飯場にも一人者の坑夫や掘子が七八人、退屈相にごろごろしてゐた。誰も満足な着物なんか着てゐる者は一人もなく、中には素肌の上に垢光りのする四布蒲団よのぶとんを帯で巻きつけてゐる者もあつた。蒼白い顔と、蓬々ぼうぼう伸びた髪の毛ばかりが薄暗い中に目立つて、汗臭い匂が部屋一杯にみなぎつてゐた。

 佐藤は飯場に入ると「えゝ畜生ツ」とかついでゐた道具を土間に投げつけた。鋼鉄はガチャガチャンと凄まじい音を立てゝ散らばつたので、寝てゐた者は驚いて起き上つた。

うしたんだ兄弟」

 上り口近くにゐた山田といふ坑夫が、突つ立つてゐる佐藤の顔を見て尋ねた。それは蒼白く痩せた顔に、目ばかり大きい男だつた。

「小幡を蹴飛ばしたんで下山よ」と捨てるやうに言つた佐藤は、腰を下して草鞋わらじの紐を解きはじめた。

「石井の兄貴もか」

「俺は佐藤を引つ張つて来た丈けよ」と言つて石井は直ぐ下駄と手拭を持つて、前のかけひへ顔を洗ひに行つた。長い竹樋に導かれて一旦桶に溜つた水は、またぼしやぼしやと音を立てゝ流れ落ちてゐた。

 彼はバケツに水が溜るのを待つてざぶざぶ顔を洗つた。

 佐藤が続いて来た時、彼は、

「飯場で飲むと五月蝿うるさいから山へ行かうぢやねえか」

 と小声で言つた。

「うん」とうなづいて佐藤は、先刻打たれたところを水で冷してゐた。

 石井が着物を着換へてゐる中に佐藤は通ひを持つて用度係りへ行つた。其処には田舎の荒物屋のやうに雑然といろいろな品物が並べてある中に、太田といふ係員の爺さんが眼鏡越しに帳面を調べてゐた。佐藤は、

「おい、太田さん酒を一升」と通ひを前にはふり出した。

「昼間つから山遊びか」と爺さんはビールの壜に分けて酒をつぎながら言つた。

「俺あ今日で下山だ。酒も石井の名にしといてお呉れ、もう少しこの山にゐりやあ用度へも爆発薬ダイを叩き込んでやらうと思つてたんだ」

「馬鹿、用度が何を知つてるい」太田は恐ろしさうにむきになつて言つた。

「酒が高えからよ、アハ丶丶」と佐藤は笑つて壜を持つて出た。

 二人が各自に罎と缶詰を持つて飯場を出ると、上の方から帰つて来た萩田に出会つた。

かしら、先刻はどうも済まなかつた」佐藤は間の悪さうに頭を下げた。

「なあに、俺あ丁度見張りにゐたものだから、黙つてる訳にも行かねえで飛び出したのよ、お前にや気の毒だつたがまあ我慢しといてくれ」と優しく笑つた。

「兄貴、俺あ今日はこれで休むから届けを甘く頼むぜ。これから山へ行つて飲まうつてんだ。兄貴も行かねえか」と石井が言つた。

「表向きがあるからさうも行かねえや、見張りの山口が馬鹿に怒つて即刻下山させろなんて言つてやがるのを、吉田に頼んで一寸納めてもらつて、どんな様子だかと思つて見に来たんだ。晩にでもゆつくり別れをやるから、まあ、二人でやつてゝ呉れ」と言つて、萩田は又見張りの方へ上つて行つた。

 飯場と長屋の間を抜けると、裏山へ登る道が若草の中に黒くついてゐる。右へ峠を登つて隣りの沢へ通ふ道は、若葉の中に消えてゐた。両側から迫つた山の中腹に咲いた山桜が、わけて目立つて真白く見えた。二人は黙つて険しい山道を登つて行つた。何処かにかくれて咲いてゐる草花の強い香が、時折二人の鼻を打つた。小鳥が頭の上をかすめて通つた。

 頂上へ登つた時は二人とも汗ばんでゐた。赤味がかつた芽のえた躑躅つつじや、小松の生ひ茂つた中に一本高い松の根方を切り拓いた平地が、この山の坑夫等の遊び場所になつてゐた。二人は持つて来た酒や缶詰を其処に置いた。佐藤は落胆がつかりしたやうに草の中に仰向けに転がつて、真蒼な空を眺めた。

「あゝあ、此処ここへ来るとほんとにいゝ心持になる、五月蝿うるせえ奴がゐないからな」と言つて石井は立つたまゝ両腕を幾度も振り廻した。

「俺あ何だか清々したやうな、落胆がつかりしたやうな、変な気になつちやつた」

 引つくら返つたまゝ佐藤が言つた。

「けちな事を言はねえで起きて飲めよ。お前は明日あしたつから浪人して歩くんだ、呑気でいゝな、起きてみろよいゝ景色だ。お前はあの山ん中を歩いて行くんだ」

 石井は腰を下ろして懐ろから茶碗を出した。

 西に廻つた春の陽は、西北に連る青葉に包まれた峰々を柔らかに照らしてゐた。遠い北国の高い山の頂きには、厚く残つた雪が金色に光つてゐた。所々低い山の間から紫色の煙りが立ち上るのは、其処にも人の住む村のあることを思はせた。

 東の方はずつと展けて、麓の村や、石塚大山などいふ、酒と女のある小駅が霞んだ大気の底に沈んでゐる。遠く水戸の町らしく見える先きには、海が微かに光つてゐた。

 佐藤もやつと起きた。二人はやはらかな春の気に包まれて、楽し気に酒を酌み交した。何時もひそめた石井の眉もやゝ開けて、険しい眼もうつとりと細くなつてゐた。彼は麗らかな陽を浴びて長閑のどかな村を歩きながら若い娘にからかつたり、夕暮になると宿賃のいらない飯場に泊つて、方々の国々の様子など話しては、心ゆくまで放浪した時のことなどを想つてゐた。そして何処の山へ行つても、誰も恐ろしがつて相手にする者のない今の身を思つては、自由な旅に出られる佐藤に比べて、寂しく悲しいやうな気にもなつた。

「さ、一つ飲めよ」と茶碗を佐藤に渡してから、

「かうして山へ来て酒を飲んでると、不思議にいゝ心持になつて来るなあ。俺あ平素ふだんはもう何時でも、頭ん中がむしやくしやして、何でも癪に触つて堪らねえんだ、片つ端から爆発薬はつぱで吹き飛ばしてやりたいやうな気になるんだけど、そんな時にや仕方がねえから一人で此処に来て酒を飲むんだ。怒りてえやうな相手もゐねえし、いゝ心持になつて何だか自分の家へでも帰つて来たやうな気がするんだ。俺達みたいな風来坊は自分の家つてものあねえんだし、山で生れて山を歩いて、死んでも山に埋められるんだから、山が家みたいな気がするのも無理やねえかも知れねえやな」と言つて「あゝあ」と身体を後ろに反らした。

 佐藤はこんな優しい石井を見たのは初めてゞあつた。何処の山へ行つても喧嘩ばかりして直きに人を傷つける――此処にゐても、平素飯場にゐる時は、無暗に人を怒鳴りつけてゐても誰も恐ろしがつて逆らはないその人と、同じ人間とは思へなかつた。

「伯父御、今日は馬鹿に気の弱えことを言ふな、お前だつてまだ三十前の身体して、どうしたつて言ふんだ」

「さうぢやねえ、俺なんか何処へ行つたつて働く山なんかありやしねえ、皆けちな了見の奴ばかりだからな、もう駄目よ、だけど俺もお前位の時分にや随分よく浪人して歩いたもんだ、石州せきしゆうの笹ケ谷を脱走した時なんざ、幾日歩いても飯場あなし、兄弟分と二人してまるで乞食みてえになつちやつて、何でも丹波辺りの川の辺ですつぽんをうんと取つて、全焼まるやきにして食つたこともあつたつけ。それでも浪人して歩いてる方が呑気でよかつた、おまけに此の頃のやうな春先きのぽかぽかする日に歩くなあ、何とも言へねえ気持だからなあ」

「全くよ、俺ももう春先きになると、とてもじつとしてゐられなくなつてくるんだ。村の娘手合にでもからかひながら歩いてると、本当にいゝ気持だから―― 」

「もうそろそろ野州花も咲き出すから、足尾坑夫も巣立ちをする時分だなあ、初めのうち彼方あつちの山がいゝか、此方こつちへ行きやあうまいことがあるかと思つて、みんなあてなしに歩くんだけど、段々歩きたくつて歩くやうになつちまわ、暗い坑内へ這入つて仕事してるより、銭なしでも呑気に清々と歩いてゐる方がよくなるからな、俺なんか何処へ行つても険呑けんのんがつて使つてくれねえから、手前で危くつて浪人することも出来なくなつた。お前歩いてる中にうまいことがあつたら呼んでくれ、え佐藤」と言つて佐藤の手を取つた。誰でも狼のやうに思つてる気の荒い石井が馬鹿気て萎れた姿を見ると、佐藤は変な気になつた。

「伯父御は女癖が悪いからなあ」と言つて強ひて笑つた。

「まあ、そんな事あどうでもいゝや、一つ唄でも唄つて山の神様でも驚かしてやらうぢやねえか」

 石井は手を拍つて唄ひはじめた。

「俺あ一つ盆踊りをやる、伯父御、音頭取つてくれ」

 佐藤はふらふらする足を踏みしめて立つた。

「よしつ、さあ唄ふぞ」と石井は、

「あゝ―― え――盆が来たかよ、こらしよツ」と大きな口を開いて目を細くして唄ひ出した。佐藤は両手を拍つたり振つたりして、若草に輪を描いて踊り廻つた。

 春風は笑つて通つた。

 騒ぎ疲れると二人は、草の中に子供のやうに転がつた。そして又冷たい酒を酌みかはした。酒に酔つて我れを忘れ、邪気のない戯れに胸の開いた二人はもう全く、優しい春の大気の中に溶け込んで了つてゐた。

 

 夕暮になつた。陽は遠い西の山の影に落ちて、麓の村も野も森も深いもやの底に沈んで了つた。薄緑の空には夕の星が輝き初めた。快く酔つた二人はひよろつく足を踏みしめて山を下つた。途中まで来た時、石井は手にしてゐた空瓶を谷にのぞんで突き出てゐる岩をめがけて叩きつけた。硝子は小気味よく砕けて破片は光つて飛んだ。二人は手を拍つて面白さうに笑つた。

 長屋の前にはよもぎのやうな頭をした女房達が、夕餐ゆふげ支度したくに忙がしくざるやバケツを持つて往来してゐた。かけひまはりを取り巻いた女はよくべちやべちや喋舌つてゐた。二人はよろけながらわざと大手を振つて歩いた。女達に行き会ふと手を拡げて抱きつかうとしては、その慌てゝ逃げるのを見て喜んで笑つた。

 飯場はんばにはいつ磨いたとも知れない煤けた洋燈ランプが、鈍い光を放つてゐた。妙な姿をした坑夫が十人ばか囲炉裡いろりをかこんでゐたが、それは薄黒い大きな物の塊りのやうにも見えた。暗い片隅で蒲団を被つて寝てゐるものもあつた。そこからは変な唸り声が時々聞えて来た。坑夫等は今日の佐藤の事について話してゐた。長屋から来た野田は俺一人と云つた風な顔をして、

「全く此の頃のやうに鉱石の買ひ方が矢釜やかましくつちやこちとらはとてもやり切れねえ。岩片ずりがちよいと這入つたつちや、二分引く三分引くつて云はれたんぢや全く働くせいがありやしねえ、第一飯の喰ひ上げだ。一体此の山の現場員なんか労働者を馬鹿にしてるからいけねえんだ、佐藤が怒つたなあ当り前だ、なあ兄弟達」と喋舌り立ててゐるところに、二人はぬつと這入つて来た。佐藤の顔を見ると一同は「何処へ行つてたんだ兄弟、皆して酒を買つて待つてたのに」と云つた。

「あゝ、そんな心配かけちや済まねえ、俺あ山へ行つて石井の伯父御と飲んでたもんだから」と両手をつくと、ぐたりと坐つた。石井もそこに坐ると眼を据ゑて野田の顔を睨みつけた。酒に血走つたその眼には何か物狂はしいものが燃えてゐた。重く鋭いその光に出会ふと、野田は、はつといやな顔をした。

「おい野田の兄弟」と石井はおさへるやうな声で呼んだ。

「なに、何だ石井の兄弟」と言つたが、野田の陰険な顔にはもう狼狽うろたへた色が浮んだ。彼は飢ゑた獣の前に据ゑられたやうにおどおどしてゐた。

「お前は随分よく喋舌つて人をおだてるけど、てめへぢやまだ何にもした事がねえな」とこんどは攻めるやうに言つた。

「だつて兄弟、話をしなけりや判らねえぢやねえか、此の頃の鉱量係が余りひど過ぎるからよ」

「ぢやお前はこゝで何か愚痴をこぼしや、うにかなる気でゐるのか、下らねえ野郎だな、お前達が泣き言をいやあ言ふ程見張の奴等あまだいぢめても大丈夫だと思つて高をくゝつてら、彼奴らあ何でも癪にさはつたら黙つて睨みつけて、ダイの一本も叩き込んでみろ、慄へ上つて言ふ事を聞かあ、お前みたいに人計り煽てたり、見得みえで理屈を言つたつて何になるもんか、つまらねえ事あよせつてんだ」

「何も俺あ煽てたり見得で理屈なんか云やしねえ、只当り前の事を云つた丈けだ。兄弟も可笑しな事を云ふなあ」

「手前俺が知らねえと思つてそんな事を云ふんだろ、見張へ行つたつて飯場へ来たつて仲間の前だと労働者だの危険だのつて妙な漢語を使つて理屈を云やがつて、かげへ廻ると役人にペコペコお辞儀してゐるんぢやねえか、手前てめへ見たいな了見の腐つた二た股野郎は俺大嫌ひだ」

「おい兄貴、二た股なんて余り馬鹿な事を云つてくれんな、いつ俺がそんな事をしたつて云ふんだ。お前は少し自分の癪にさはると云ひてえやうな事計り云つてるけれど、ダイを投げたり暴れたりしたんぢや何もかもお終ひぢやねえか、お前はぢきそんな無茶計り云ふからいけねえつて云ふんだ」

「なにが無茶だ、手前がお喋舌しやべりの卑怯野郎だ、何だつて終ひまでやらなくつて事が出来るかい、野州の騒ぎの時だつて始まらねえ中はそこいら中無暗に喋舌つて歩きやがつて、いよいよ爆発薬はつぱが飛んだり家が燃え出したら通洞つうどん中へ隠れてゐやがつたんぢやねえか、それで騒ぎのお情を一番先きに蒙りやがつた事まで俺あちやんと知つてるんだ、手前見たいな二た股の意気地無し野郎が多いから、俺達がいくら何をしたつて、世間から馬鹿にされて山ん中でくすぶつて、危え仕事をして坑夫よろけになつて若死するのを何うする事も出来ねえんだ。俺あ手前のつらあ見ても癪にさはつて堪らねえんだ。二股の畜生野郎ツ」罵るうちにも石井は激情に堪へない顔をした。びりびりふるへる濃い眉の下で憎悪にみちた目は火のやうに燃えてゐた。爆発薬のやうな男に逆ふ危険を知つてる野田は黙つて下を向いてた。傍にゐる坑夫等も、止み難い沈黙に息をつまらせてゐた。

「此んなに云はれたつて何うする事も出来ねえんだろ、口惜しくねえのか意気地なしツ」と石井は続けて罵つた。

「そんな、気狂の相手は俺あ御免だ」

「なにツ、気狂だ」と石井が飛びかゝらうとした時、佐藤が、

「伯父御よして呉れ、こゝで喧嘩されちや俺が皆に申訳がねえから止めてくれよ」と抱きついて止めた。

「此んな野郎がゐるから手前が小幡をなぐつたつて何にもならねえんぢやねえか、離せツ」鎖につながれた獣のやうに石井はもがいた。

「今夜だけよしてくれ、え伯父御頼むからよ」

「兄貴、まあ佐藤が可哀想だから今夜はまあ我慢しろよ」と一同もやつと止めたので、

「畜生ツ覚えてやがれ」と野田を睨みつけて石井も坐つた。

「さ、おそくなるから早くり始めよう」と徳利や茶碗を出しかける者もあつた。

「俺はもう飲みたくねえから先に寝ら、佐藤、お前明日の朝早くつんなら俺を起こして呉れ」と云つて石井は暗い隅の方へ行つて蒲団を被つて了つた。

 一同は急に陽気になつた。

 少時しばらくしてから萩田も帰つて来た。賑やかな笑ひ声や、不器用な歌の声が夜更けまで飯場の中から起つてゐた。

 

   

 

 翌朝、佐藤は空も未だ薄暗い中から起き出して旅支度を始めた。前の晩、酒が済んでから別れの礼を云つた時一同は、

「下山になつたつて構ふものか、二三日ゆつくり遊んでから発つたらいゝぢやないか」と言つたが、佐藤は、

「又小幡をばたつらでも見て擲りたくなるといけねえから」と断つて発つ事にした。―― 晴れやかな日に輝き息づく若葉に充ちた野や森を渡つてくる、かうばしい柔らかな風に吹かれて歩く、真青な麦の穂や菜種の花の咲いた畑道、或は又思ひがけない街に出て珍らしい物に気をそゝられて、当てもなく逍遥さまよふ楽しさが、彼の若い心を全く奪つて了つてゐたのであつた。

 石井も早くから起きてゐた。佐藤の支度が終ると二人は、火の気のない炉のそばで冷たい朝飯を喰つた。

「別に餞別もやれねえから塩子まで送つて行かう。」と石井が云つた。

「いろんな心配をかけた上そんな事をして貰つちやすまねえから」佐藤は幾度も辞退した。

「もう起きちやつたものを、今から寝るわけにも行かねえだろ」と石井は仕事衣を着て草鞋わらじを履いた。

「ぢや伯父御、かしらもまだねてるやうだし皆にも宜敷頼むぜ」

「あゝいゝとも、あとでよく云つといてやる、さ行かう」と二人は飯場を出た。佐藤は着物や道具を入れた小さな行李を横に背負つて、片手に洋傘を持つてゐた。

 未だ明け切らない暁の空には、夢のやうな薄月が残つてゐた。前の山も肌は真白な靄に包まれて梢の若葉だけ青く現はれてゐた。草鞋を履いた二人は足音も立てずに、黙つて見張所の方へ登つて行つた。なだらかな山腹に立ち並んだ、がらんとした選鉱小舎の中にも、朝靄はゆるく流れてゐた。上の方の平地に建てた見張所の杉皮で葺いた褐色の屋根の上には、隣村へ越える山のくぼみから薄蒼い空が覗いてゐた。佐藤は誰もゐない鉱量小舎に這入つて、昨日の事を新しく描くやうに見廻した。

「野郎口惜しかつたらうな」と云つてこゝろよささうに笑つた。

「さうよ、あんな奴はうんと泣くやうな目に会はしてやる方がいゝんだ。だけどお前も何処へ行つたつて余り暴れるとしめへにや俺みたいに歩けなくなつちまふぞ」と石井はしみじみとをしへるやうに云つた。

「歩けなきや無理に押し歩く丈けよなあ伯父御、癪にさはる事を我慢して生きたつて仕様がねえや」

「まつたくだ、俺も自分よか若え者を見ると、俺見たいな不自由な目にあふといけねえと思つてつい意見じみた事は云ふけど、自分ぢやとても我慢が出来ねえんだ、どうせ仕合せだの楽な暮しだのつてもなあ俺たちと一緒に生れ合せてゐねえんだから、云ひてえ事でも云つて暴れてえだけ暴れてゞも暮さなきやあ埋め合せがつかねえのよ」

「さうだ、俺もうんと暴れて歩かれるだけ歩き廻つてやらうと思つてるんだ、伯父御もくすぶつてゐねえで歩き出せよ」

「何うせ歩き出さなきやならねえやうになるとは思つてるんだ。お前何処かへ落ちついたら手紙を寄越してくれ」

「あゝ落ちつきや直ぐ寄越すけどいつ落ちつくんだか判らねえや」

 向き合つて並んだ真暗な坑口の前を抜けると、道は険しい山路になつた。じめじめ湿つた木立の下を佐藤は傘を力杖にしてかゞんで登つて行つた。まだ眠りからさめ切らない葉末からは、靄の凝つた雫がしたゝつて、精気に充ちた若葉のいきが一杯に漂つてゐた。

 嶺に登り切つた時、二人は胸を張つて二三度大きくいきを吸つた。麓の村の黒ずんだ茅屋根も黄ばんだ竹藪、青い麦畑が薄れ行く朝靄を透して足下に展けてゐた。村端れを流れる広い川の面には、煙のやうな濃い靄が立ち籠めてゐた。左の方に突き出てゐる高い峰の彼方に、大きな朝日が上り初めたのであらう。その山の裏側だけを黒く残して、空は俄に赤く輝き初めた。佐藤は二人が登つて来た麓の方を振り返つた。見張所や選鉱小舎の杉皮の屋根だけ見える傍に、硅石を敷きつめた黄色い道が長く続いて、坑内から出る水は細く光つて流れてゐた。佐藤は、

「もう此んな山あ用なしだ」と云つて身体を伸して背負つてた行李をとゆりゆすつた。

「さうよ帰つてくるやうな山ぢやねえや」と石井は吐きだすやうに言つた。

「こんだあ面白え山に出会でくはすまで歩くかな」

「面白え山なんてあるもんか、みんなそんな気で一生歩くんだけど、面白かつたなんて聞いた事がねえや、みんなつられたやうな夢を見て歩いてるんだ」

「さうとも限らねえぞ伯父御、大きな脈でも発見して見ねえ、一ぺんに旦那様だあはゝゝ」

「そんな気んなつて歩いてろよ、うふゝゝん」と二人とも笑つて了つた。

「ぢや俺あその気で行くとしよう、伯父御も大事に暮してくれ」佐藤は改まつて丁寧に頭を下げた。

「お前も大事に行きな」

「済まねえけど皆によろしく」と云ひ残して佐藤は朝露のひらめいた山道を下つて行つた。―― 岩蔭に行李ばかり動くのが見えるやうになつてから、石井はもと来た方ヘ振り向いて腕を組んで、沈んだ眼つきをして下つて行つた。――彼は歩きさへすれば楽しい事に出会ふやうな心で出て行つた佐藤を思ふと羨ましくなつた。そして何処の山へ行つても悪魔のやうにけ物にされる自分を思つては、遺る瀬ない激情と孤独の寂しさが胸の中に湧き上つた。命を懸けても構はない、何んな無理でも押し通して行きたいやうな焦燥が、空しく心をじりつかせた。

 

 その日仕事場きりばについてからも彼は、口を結んで目を光らせて、力任せにたがねの頭を叩きつけてゐた。煙の抜ける間もない程断えず爆発薬はつぱをかけた。山は苦しさうに唸りつゞけてゐた。その度毎に岩片ずりおびただしく出るので三吉は、呑気な歌を唄ふ隙もなく汗をしたゝらして一輪車を押してゐた。暗黒な洞窟の奥で気に喰はない人の顔を見る事もなく、有る限りの力をふるつて岩を砕いて、山の肉に突き入つて行く間だけ、彼は凡てのいまはしさをも忘れてゐた。交代時の鈴が鳴つて他の仕事場の坑夫はとつくに出てしまつてからも、彼は仕事を続けてゐた。三吉はおづおづしながら、

「石井さんもう鈴が鳴りやんした」と云つた。

矢釜やかましい、手前が上りたきや先に上れ」と怒鳴られたので又一輪車を押し始めた。二の番の坑夫が交代に這入つて来て、

「兄弟、馬鹿に稼ぐなあ、俺あとても追附けねえぜ」と声をかけたので、石井はやつと仕事の手を止めた。仕事衣は汗に濡れてせまつた濃い眉根にも、蒼白い頬にも精一杯働き切つた疲れが現はれてゐた。

「飯場へ帰つたつてつまらねえもんだから、――あゝ、疲れちやつた」と言つて彼は道具を纏め始めた。

 見張所の前には交代時にごたつく坑夫の列もゐなくなつてゐた。石井が判座帳をとりに行つた時、窓から顔を出した事務員が、

「おい馬鹿に稼ぐぢやないか」と笑ひながら判を押した紙を渡した。石井は、

「今日は少し忙がしかつたから、三吉にも分を付けてやつておくんなさい」と云つた。

「よし、後でつけといてやるから判座帳は置いて行け」と出しかけた紙を引き込ました。

「さうけえ」と三吉は莞爾々々にこにこしながら、先きに立つて坂路を馳け出して行つた。

 石井は、毎日同じやうに愚痴や泣言ばかり繰り返してる仲間達が、ごちやごちや集まつてゐる、埃つぽい騒々しい飯場へ帰るのが何よりもいやだつた。けれども、飯場より他に帰るべき家のない彼は、物憂げな顔をしてぐづぐづ歩き出した。彼は選鉱場を覗いて、女達にからかつて見た。選鉱機ジッカーの前に立つては、ガタガタゆする音につれて、選りかすになつた岩が水に流し出されて落ちるのを眺めたりして、ゆつくりと帰つて行つた。

 飯場の前の野天に建てた風呂場では先きに上つた坑夫等が、もう筋張つた身体を押し合つて、わいわい騒いでゐた。薄暗い部屋の中にも五六人して何か無駄話をしてゐたが、今朝発つた佐藤の事などは忘れたやうに、誰も口にする者はなかつた。石井は別れて行つた人の事を思つてゐるのは自分一人でゞもあるかと思ふと佗しくなつた。酒でも飲み合ふ時ばかり、親しく友達らしい事を云ふ、卑しい心の仲間が憎らしくなつた。彼は並んで喋舌つてゐる人達の顔をじろつと見廻した。その氷のやうな目に出会ふと誰も顔をしかめて黙つて了つた。彼は仕事衣を脱ぐと風呂場ヘ行つた。彼の顔が見えると、そこにも冷たい沈黙が流れた。

 湯槽ゆぶねに浸つて彼は冷え疲れた四肢五体ふしぶしを温め伸ばした。湯から出た時は、血が快く流れて気持もやゝゆつたりした。けれども彼はひたすらに退屈だつた。彼の顔を見ると誰もが警戒する。そのおびえたやうな眼を見ると苛々いらいらした。そして自分の身の廻りには、鉛のやうな重い気が漂つてゐるやうに思ふのであつた。

 彼は遂に此の気色の悪い人々の間にゐる不快に堪へなくなつて飯場を出た。裏へ廻つて隣の沢へ通ふ道を登つて行つた。左に茂つてゐる深い木立を抜けると、そこには谷に臨んだ旧坑がある。それは佐竹時代とも烈公当時に掘つたとも云はれてゐるすゞの廃坑であつた。年経た洞窟の中には一面に苔がむして、闇を好む蝙蝠かうもりが夥しく巣くつてゐた。夕暮になると洞の中から此の小さな動物の羽音が凄まじく聞えて来るのであつた。それは丁度烈しい風の吹くやうな響であつた。水が入口から一杯に溜つてゐた。ぴちやんぴちやんと岩から滴る、かすかな水の音が岩壁に響いて、静かな洞の中にはいつでも優しい諧調を奏でゝゐた。

 彼は薄暗い木立を抜けてその旧坑の前まで来ると、ふと中を覗いて見た。けれどもそこには黒い冷たい闇より外には何もなかつた。洞の前は昔し切り出した岩片で平らにならされて、谷も半ば埋められてゐた。その石塊の積つた懸崖にも古びた灌木が生ひ茂つて、深い谷底を隠してゐた。四辺はたゞ静かであつた。名も知れない小鳥が思ひ出したやうにけたゝましく飛んだあとは、直ぐに圧しつけるやうな寂寥にかへつた。

 西をむいた、なだらかな山腹を午後の日が照らしてゐた。彼はその柔らかなくさむらの中に腰を下した。腕に抱へた両膝の間に顔を埋めて、恰度ちやうどその静かな自然の中に置かれた岩のやうに固まつてゐた。彼の心にはその仲間に対する反感が火のやうに燃えてゐた。彼がそれを強ひて圧へようとすれば、遣る瀬ない激情になつて、骨を削り血を吸ふやうに彼を苦しめた。時としては鬱積した瓦斯ガスのやうに爆発する事もあつた。彼は争つて仲間を傷つけた。なまぐさい血の香を嗅いで喜ぶ程残忍にもなつてゐた。争の後の寂しさに苦しむ事も多かつた。彼は、仲間の顔を見ないやうに声を聞かないやうに努めるやうになつた。深い木立の奥にも、谷間にも、高い山の嶺にも、沈黙に耽る場所を彼は見出した。その気味の悪い沈黙と、危険な争闘から、仲間は段々離れて行つた。孤独になり行く寂しさも彼はく知つてゐた。けれども彼は、それ以外に出ることが出来ないのであつた。――

 彼の親も坑夫であつた。彼が何処かの山で生み落されてからも、生活に追はれて安住の地を得られない両親が、山から山へ果敢はかない流浪の日を送る中に、彼は育てられた。物心のつくまで彼は山より外にんな人が生活をしてゐるかさへ知らなかつた。彼が小さな身体に鉱石箱を背負つて、親父の後について暗い坑内に、掘子稼ぎに行くやうになつてからであつた。或夜、見張に宿直してゐる事務員が、寂しい夜の退屈まぎれに都の話をして聞かせた事があつた。事務員は彼に、都には三層五層といふ立派な家が立ち並んでゐる。広いたひらな街の両側の物売る店は、赤や黄や紫の華やかな色彩で飾られてゐる。夜もまばゆ瓦斯ガスや電燈の光が昼よりも明るく輝いて、美しく装ひ凝らした人々が歩いてゐる。美妙な音楽はそここゝから起つて、いつも春のやうな楽しさがあると云つた。そして絵葉書や雑誌の口絵を出して見せた。

 そのとき彼は初めて、自分が今まで見て来た寂しく荒れた山や村の生活の外に、そんな美しい華やかな世界のある事を知つたのであつた。彼の幼い心にも、底も見えない程暗く深い井戸のやうな坑内から、朽ちかゝつた梯子はしごを慄へる手に握りしめて登つたり、崩れ落ちる大きな岩に圧されて死ぬ事のないやうな、美しい都に安楽に生活する人々を幸福だと思ふ念が湧いた。――驚異と羨望に充ちた目をもつて、彼はいつまでもその絵葉書に見入つてゐたのであつた。

 彼が十五の年であつた。彼の親は長い間吸ひ込んだ鉱毒や煙毒の為に坑夫よろけになつた。執念深い病は、その身体から精気と力を奪つて了つた。稼ぐ事の出来なくなつた父親は土気色に瘠せ細つた顔をして、毎日力のないせきをしては黒い痰を吐いてゐたが、遂に思ひ切つて金次を兄弟分の家に預けて、仲間が作つてくれた奉願帳を胸にぶら下げて、妻を連れて、金次には、

「坑夫なんかしてゐると長生が出来ねえから、手前は早く足を洗へよ」と云ひ残して、果てしない旅に出たが、半年程してから北国の山で死んだと云ふ知らせが来た。母親は新らしい亭主を持つて何処へ行つたかわからなくなつて了つた。

 負け嫌ひだつた彼は、此の悲しい運命の訪づれにもめげる事なく、伸々と育つて行つた。細い少年の腕一つに己が身を支へて、山から山へ流浪もした。幼い時からその道に仕込まれた彼は、十七八の頃には、もう人に勝れた腕前の坑夫になつて、何処の山でも威張つて通れるやうになつた。若い血のそゝるがまゝに放浪もした。夢のやうな望を胸に描いて、何のこだはりもなく山を歩いて、気に向けば止まつて働き、飽けば又当てもない旅に出る。身軽な自由の生活は若い彼には楽しかつた。けれども時として何か物思ひに耽つた時などに、枯木の様に色も香もなく朽ち果てゝ行つた、父親のみじめな最期が胸に浮ぶと、自分の手で自分の命を削る様な職に従ふ果敢なさをつくづくと思ふのであつた。――そんな時に彼は、美しい都に生活する人々の幸福を思つた。――

 秋から冬へかけて、冷酷な自然の力に放浪の自由を奪はれる労働者は、眠に入る蛇のやうに物憂い退屈な時を過さなければならなかつた。野山の木の葉が色づき初めて、山路においた霜柱が、やがて来る冬の烈しい寒さを思はせるやうな時であつた。彼は思ひ切つて、都へ生活を求めに出た。

 都の街は彼が長い間、夢に描いてゐた程美しいものではなかつたが、初めて見る彼の目を驚かすには十分の力をもつてゐた。車馬の入り乱れるちまたにも、華やかな絃歌やさゞめきの湧く色街にも、彼の心は巧みな手品師の前に立つた人のやうに、他愛なく引きつけられて了つてゐた。整つた家や飾りたてた店の中に住む人を見ては、彼はひたすらに羨ましく思つた。寂しい単調な山奥で、獣の住むやうな茅小舎かやごやや汚れくさつた長屋に、侘しい日を送る自分達の果敢はかなかつた暮しに比べて、都に住む人ばかり生甲斐のある日を送つてゐるやうにも思つた。彼は大きな店にはひり込んで、自分を使つてくれと頼んでみた。しかし銅山筒袖に胸合せの腹掛けをかけた彼の坑夫姿と、まだ見も知らぬ人の口から出る突然の懇願は聞く人々に怪しい警戒を与へたばかりであつた。彼は口入屋くちいれやにも行つてみたが、そこでは工夫こうふ土方どかたになれと云つた。がそれは坑夫に等しい職業である事を彼はよく知つてゐた。僅かな金は直ぐに失つて了つた。飢ゑ疲れて都の町をさまよつて、嘲笑と侮辱と失望の外には、遂に何物も得られなかつた。

 弱々しい冬の日が、停車場の色のあせたペンキ塗りの上にしみつくやうに慄へてゐる、氷のやうな風の吹く朝、汽車賃のなくなつた彼は、煙を吐いて行く汽車を空しく眺めて、霜柱のたつた田舎道を力なく歩いて、いやな山へ帰つて行つた。

 彼は著しく沈鬱に怒りつぽい人間になつて行つた。些細の賃金のいきさつにもよく事務員と争ふやうになつた。時には仲間の事まで買つて出た。そんな時の彼は自分の主張のとほるまで頑固に云ひ張るやうになつた。

「坑夫だつて人間だ、石蓋をかぶつて働いて馬鹿にされてたまるかい」と云ふのが彼の口癖だつた。事務員と争つては、絶えず浪人をするやうにもなつた。

 

 或る年の事だつた。雪の深い北国の山に、見込みのある金の旧坑が発見された。山が売れるか成り立つかすれば、思ひ切つて礼をするからと云つた鉱主の言葉をに受けて、彼は雪に囲まれた山奥に一人して、餓と寒さと戦つて苦しい一と冬を過した事があつた。往古の土蜘蛛みたいに山腹へ掘り込んだ土小舎の中に送る、沈黙の幾日かを寂しさに堪へないで、気も狂はしくなる事もあつた。幾日目かに町から定まつて来る仕送りが、激しい吹雪に二三日遅れると心細さに堪へなかつた。

 何百年か昔に掘つた人の精の残つてゐるやうな陰惨な旧坑を見廻るのが山番の彼の役だつた。深い旧坑の奥の斜卸シヤフトにはいつの世からとも知れない古い水が溜つてゐた。そこに行くとカンテラの火が黒い水のおもに映つて、気味の悪い淋しさがひしひしと襲つて来た。何百畳敷きとも云ひさうな、横ひ(金扁に通)を追つてだゝ広く掘つた跡には、カンテラの弱い火は隅々までわたらなかつた。

 坑道の中に岩の落ちさうな場所があると、留木を当てゝ繕つた。寂しく冷たい仕事に手間取つて小舎に帰ると、囲炉裡いろりの火はいつも絶えてゐた。湿つたほたには容易に火がつかなかつた。濃い煙ばかりぶすぶすたつて狭い小舎の中はすぐに息苦しくなつた。差しかけた茅屋根に積つた雪は、煙の温みで溶けて目の前に落ちた。煙にむせて外に出ると灰色の空からは、粉のやうな雪が風に捲かれて濃く薄く流れるやうに降つてゐた。そんな時に一面に真白な向ふの山の峠に、仕送りの荷を積んだ馬の影がぽつんと黒く見えると、彼は跳り上つて喜んだ。小舎に来た馬方を少しでも長く止めて置きたいと思つて、彼はよく喋舌つたが、馬方は雪の山路の暮れるのを恐れて急いで帰つた。前にも増した孤独の寂しさが彼を苦しめた。がまた、当分食物にも不自由しないと思ふと心強くもなつた。夜になると風が闇の中を吹き荒れた。雪に蔽はれた山や谷は、悪魔のやうに唸つてゐた。風の絶え間には、渦を巻いて落ちて来る軽い雪片のふれるかすかな音が、死の訪れのやうに、淋しく聞えた。彼は氷のやうに冷たい蒲団にくるまつて、春になつて山が売れて沢山金を貰つたらと楽しい空想に耽つてゐた。――薄暗いトンネルを歩くやうな、単調な日は長かつた。―― 春近くなつて長い間閉ぢてゐた厚ぼつたい雲が切れて、久し振りに青空を眺めた時、彼の心は喜びに充ちてゐた。

 雪解の水に谷川の流れが増して、枯草の下に萌え出てる若芽の見られるやうになつた頃には、髯の生えた洋服姿の男や商人風の人達が、立ち替り鉱主と一緒に山を見に来た。彼は物慣れた様子でカンテラをさげて坑内を案内した。鉱量の豊富なあたりは殊に注意して説明した。間もなく山は売れて鉱主は巨万の金を獲たが、石井に与へた恭しい紙包の中には、十円紙幣が十枚あつたばかりであつた。

 凄まじい冬の自然の圧迫に堪へ、昔の流人るにんにも勝る孤独の寂しさを忍んで来た、命がけの労苦に対する報酬として、又鉱主の得た金に比べて、彼はその分け前の余りに少ないのに驚いた。初め鉱主の誓つた言葉を思ふと憤怒の情に堪へなかつた。

 その夜彼は匕首あひくちを懐ろにして鉱主の宿を訪ねた。一時に巨万の富を得て気のおごつた鉱主の周囲には美しい女がゐた。前には酒が並んでゐた。それを見ると抑へてゐた怒りは彼の胸を衝き上げた。蒼くなつてわなわな慄へながら坐つた彼の物凄い形相を見た時、鉱主は危険が迫つたのを感じた。便所に行くふりをして座敷を出た切り鉱主の姿は再び見る事が出来なかつた。

 巧みにかはされた口惜さに彼は、

「やい狸野郎を出さねえか」と宿屋の中を暴れ廻つたが、その時既に来てゐた警官に押へられて了つた。彼が留置場から放免された頃には、鉱主はもうその町にはゐなかつた。彼の得た餓と寒さの報酬は直ぐに達磨茶屋の酒と女に消えて了つた。彼の胸に燃え初めてゐた反抗の火は、漸く強い焔になつた。

 野州の山に大暴動の起つた時も、生れつきしなしなと機敏な身体を持つた彼は、暴動の主唱者よりも勇敢に闘つた。手から離れると直ぐ爆発する導火線の短いダイナマイトを投げつけ、家を焼き人を傷つけて、血と火のみなぎる叫喚のうちに、全身に充ち渡つた反抗の念を熔け込ましたが、怖ろしい軍隊の力に圧迫されて重だつた者の多くが捉へられた時も、素敏すばやい彼は、山伝ひに巧みに逃げおほせた。

 けれ共彼が日蔭者の浪人になつて、山から山へこつそり隠れて使役を求めて渡り歩くやうになつた時、所々の山に散在してる彼の兄弟分や仲間達は彼を隠匿いんとくする事を恐れた。何処へ行つても彼はていのいゝ口実で追つ払はれた。突き刺すやうな冷たい山風の吹く冬になつても彼は、薄い着物に慄へながら苦しい旅を続けなければならなかつた。

 彼は、自分が暴動の時に身を挺して働いたのは、その遣る瀬ない反抗心を満足させる為であつた事は能く知つてゐた。然し又それによつて仲間に多くの利益を与へられたとも信じてゐた。現に野州鉱の暴動が導火になつて、二三の山に同じ事が起つて以来何処の鉱山も暴動を恐れて、坑夫に対する態度の著しく変つたのは明らかな事実であるのに、今自分を恐れうとんずる仲間のけちな態度に出会つては、事ない時ばかり友人だの兄弟分だのと、義理堅く、死生も共にするやうな顔をしてゐて、一旦事が起ると巧みに他人の勇気を利用してひたすらに己れ等の利益と安逸とを計る、彼等の卑劣な貪慾な心を憎しみ卑しまずにはゐられなかつた。

 味方と思つてゐた人々に裏切られた孤独の寂しさは、彼の心をき乱した。そしてその仲間に対して抱くやうになつた 新しい反感は、つて社会や資本家に対して、おぼろげに抱いてゐたそれよりも更に激しく強かつた。

 警戒の手がゆるんで、彼も漸く職にありつけるやうになつてから、彼は住み込んだ山では必ず仲間の妻を犯した。その優しい顔と兇猛な性格と敏捷な身体はいつも巧みに利用された。僅かな事にも争へば直ぐに刃物で人を傷つけた。一二年のうちに彼の名は、何処の山でも悪魔のやうに呪はれた。彼は又使役の口が得難くなつた。――苦しい放浪の日は再び続いた。

 常陸ひたちの奥の池井鉱山が開かれて、萩田が飯場頭はんばがしらになつたと聞き伝へると、彼は直ぐに尋ねて来た。萩田は彼が愛想をつかした仲間の中で、まだ親しい情をつないでる唯一人の兄弟分だつた。鬼と云ふ綽名あだなを取つたその半生の歴史を語る、腕にも足にもある刀傷や弾痕だけでも、気の荒い坑夫共を征服する力があつた。石井が此の山に来た時、見張所へ使役願を出すについても、仲間中から苦情が起つたが、萩田は石井の身に就て起つた事は、凡て自分が引き受けると云つたので、誰も遂に黙つて了つた。然し石井の素行そかうは決して穏かにはならなかつた。彼は三の番に入坑した仲間の留守へも這ひ込んだ。彼が此の山へ来てからさうして犯した女の数はすくなくなかつた。怒れば直ぐに人を切る彼の荒い気は、誰も能く知つてゐた。彼のする事には何の故障も起らなかつた。その意に従つた女達は余儀ない堅い沈黙を守つてゐた。けれども或時は夜中に不意に女の亭主に帰つて来られて、息を殺して低い床下を這つて逃げた事もあつた。さうした危い事に出会ふのは彼の淫蕩を制するより、危険を好む血を湧き立たせる力があつた。然し此の放縦はうしような思ふがまゝの生活も、彼の心に燃えてゐる激情を消す事は出来なかつた。

 重苦しい雲のやうな沈鬱の気が、時々彼をくるしめた。そんな時にはあらゆる物を粉砕して了ひたくなつた。見る物は凡て憎悪の種だつた。自分の身体さへ、大きな岩に圧され薄紙のやうにへし潰れたら快からうと思ふ事さへあつた。然し繰返された苦しい経験は彼を怪しい沈黙に導びいた。そして彼は今日のやうに、谷間や嶺の人気ひとけのない自然の中に来て、沈思の幾時かを過すのであつた。

 そこには憎らしい人の姿も声音もなく、温かい日の光が無言の歌をうたひながら、凡ての物を同じやうに育てゝゐる。空も地も草も木もその大きな調べの中にかすかな吐息をついてゐる。彼の心も優しい母に抱かれたやうに、静まり落ちついて行くのであつた。懐かしみや憐れみの優しい姿さへ、ふとその心に現はれたが、燃えたぎつてる激情に追ひ払はれて、すぐに影を消して了つた。

 山蔭に日が沈んで、あたりが紫色に暮れかゝると急に肌寒くなつたので、彼は静に起き上つた。旧坑はもう入口から真暗になつて、闇の好きな蝙蝠かうもりの羽音が、洞の中で烈しい唸りを立てゝゐた。深い木立の中にも、薄暗い夕闇が漂つて、木の葉は静に首垂うなだれてゐた。

 落ちついて歩んで行く彼の姿には、いつもの苛々しさも見えなかつた。

 その夜であつた。彼は早くから隅の方で蒲団を被つてゐたが、中々眠りつけないので一人でじりじりいらついてゐた。十時過ぎると二の番に出た坑夫や掘子が帰つて来て、飯を喰つたり湯に入つたりするので、飯場の中は一としきり騒がしくなつた。が、やがてそれ等の人達も寝て了つて寂寥は再び帰つて来た。しばらくすると下の茅小舎や村から通ふ居残りをした掘子達が、各自にカンテラの油煙をあとに長く曳いて闇の山路を帰つて行つた。飯場の前を通る時、皆なが「お休みなんしよ」と声を揃へて云つた。が赤ずんだ焔にうつる真黒な塊は、すぐに飯場の前から消えて了つた。その群が茅小舎の前へ行つた頃、誰か大きな声で選鉱歌をうたつた。「いやと思へばよ――」と高く張り揚げて長く曳いた声が、闇を美しく彩つたが、「照る日も曇るよ――」と落した時には向ふの山の峠の方に薄れて了つた。

 垢光りのした蒲団に柏餅にくるまつて寝てゐた彼の頭には、云ひ知れぬ寂しさがむくむくと拡がつた。いつもの様な苛ら立たしさが彼の心を襲つてきて、じつと寝てゐる事が出来なくなつた。彼は蒲団をはねて起きて見た。暗いはりから吊した洋燈ランプの鈍い光が粗雑な建物の羽目にぶら下げた汚れた仕事衣や、両側に並んで寝てゐる一人者の蒼ぶくれた顔をだるく照してゐた。いぎたなく大きな口を開けてゐる者もあつた。によきつと両腕を出してる者は土左衛門のやうに見えた。誰かぎりぎりつと歯切しりをすると又誰かだらけた声で歌のやうな寝言を云つた。それ等の顔は生きてる者のやうには見えなかつた。

 火の気の絶えた囲炉裡は大きな口をだらしなくぽかんと開けてゐた。

 彼は此んな寂しい山奥で、甘い酒や美しい女に親しむ事もなく、危険の多い仕事に佗しい月日を送つて、中年になれば坑夫病にかゝつて、枯れ木のやうに朽ちて行く人達が、果敢ない身を不思議に思ひ思ふ事もなく、安閑と寝入つてる姿を見ると、片つ端から叩き起してやりたくなつた。然しそれは結局何にもならない事と思ふと、彼は又寂しさに堪へなくなつた。

 じりじりと寄せてくる焦燥の念に彼はぢつとしてゐる事が出来なくなつた。立ち上つて寝衣の裾をまくつて、静に皆の枕元を通つた。疲れに深く寝入てる人々はそれに気のつくものもなかつた。外に出ると高山の春の夜は死のやうに暗く冷たく静まり返つてゐた。暗碧の空におびたゞしい星の光つてゐる中でも村境の峰に輝いてる星は、殊に鋭い光を放つてゐた。前のかけひから流れ落ちる水は夜も単調な音を繰りかへしてゐた。

 彼は誰か女のところへ行きたいと思つた。三の番に入つてる坑夫の名を思ひ浮べて見た時、その中に前高のゐる事を考へた。前高の妻のお芳は美しい女だつた。彼の身体には冒険者のやうな勇ましい血潮が湧き上つた。石ころの多い道を、静に音の立たないやうに探りながら歩いて前高の家の戸の隙から中を覗いた時、お芳は亭主が仕事に出たあとをまだごとごと片づけてゐた。彼は何となく這入りにくいので少時しばらく木立の蔭に身をひそめて、次に覗いた時、お芳は蒲団の上に坐つて何か思ひに耽つてゐるやうであつた。

 彼は建附けの悪い戸をそつと開けて中に這入った。不意に目前に現はれた人影に驚いたお芳は慌てゝ声を揚げようとしたが、彼はすぐに匕首あひくちを抜いて見せた。そして手を振つた。お芳はそれが石井である事が判ると痙攣ひきつつたやうに声が出なくなつた。恐怖と絶望におびえた優しい目は、ぢつとくうを見詰めてゐたが、間もなく諦めたやうにがつくり首垂うなだれて了つた。鈍い洋燈の光が蒼くなつた横顔を照らして、身体のふるへが着物のはずれで波打つてゐた。石井は匕首をしまふと静かに戸を閉めて、何事もないやうな顔をしてお芳の側に坐つた。

「今晩は」、と低い沈んだ声で言つてから、

「おつかねえかいお芳さん」と言ひながら突然その腕を女の首に捲いた。身をすくめた女の、柔かい慄へが彼の身体に伝はつた。彼の目は蛇のやうに光つて蒼白い頬には血の色が浮んだ。

「もう仕方がねえさ、なあ」と女の顔を覗き込んだ時、蒼白くなつた女の頬には冷たい涙が流れてゐた。そのしほれた姿を見ると彼の血は犠牲にへを得た野獣のやうに荒れ狂つた。彼は頸を伸して洋燈の火を吹き消した。押し倒された女は逆らひもしなかつた。

 

   

 

 夜中に帰る時彼は、

「さよなら、又来るよ」女の耳に囁いて接吻をした。飯場へ帰つて再びそつと冷たい蒲団に入つてからも彼はつひに眠れなかつた。薄白い眠に悩む中に夜が明けると、彼はすぐに仕事衣を着て飯場を出た。朝靄は村へ通ふ道の上を、山裾をめぐつて静かに流れて、軍鶏しやもは太い声でときをつくつてゐた。

 お芳ももう起きて家の前に出した石油缶で作つたかまどの下を焚きつけてゐた。真白なむくむくした濃い煙は、湿つた地面を這つて靄の中へ熔け込んでゐた。

 石井は側に寄つて、

「お早う」

 とわざと大きな声で言つた。びつくりして顔をあげたお芳の眼には、煙に痛んだ涙が一杯溜つてゐたが、彼の顔を見るとニコツと笑つて下を向いて了つた。彼は何となく満足を感じた。その心は喜びにをどつた。首を振つて鼻歌をうたひながら見張の方へ登つて行つた。咋日佐藤が越えて行つた山の凹みからは、今朝も晴れた空が覗いてゐた。高く抜き出て聳えた山の頂きは朝陽に赤く輝いてゐた。

 見張所の土間の大きな囲炉裡には、積み上げた炭が赤くおこつて焔を立てゝるまはりを、三の番の坑夫が五六人して取り囲んで、濡れた仕事衣を乾かしてゐた。熱にふれた所だけ腹掛や股引から白い湯気が立つてゐる。空も地も闇の真夜中に、何百尺と深く掘り下げた坑底で、岩の目から雨のやうにしたゝる水を浴びて仕事して身体のしんまで冷え疲れた坑夫等は土気色の顔をしてぶるぶる震へてゐた。前高もその中にゐた。石井の顔を見ると、

「兄弟、馬鹿に早いなあ」と云つた。

「一人者は早起きよ」石井はいつものやうに眉をひそめながら言つた。疲れ切つた人達は代る代る身体の向きをかへては温めてゐた。誰ももう口をきくのもものういやうに黙つてゐた。奥の物置のような宿直部屋でごとごと音がして、吉田と云ふ若い事務員が、眠たげに目をこすりながら出て来て、

「石井は塩子から来る女でも張る気で早く来たんだらう」と笑ひながら言つた。

「お前さんこそ昨夜帰らねえから村で多勢待つてますぜ」と石井はなかなか負けてゐなかつた。三の番の者達は吉田の顔を見ると

「旦那上りにやすこし早いけど、濡れて寒くつて仕方がないから帰しておくんなさい」とせがむやうに言つた。

「毎日早く上つちや駄目だぞ」と言ひながら、吉田が判座帳かよひを渡すと、坑夫等はペコペコお辞儀してたがねつちかついで、赤い朝陽を浴びながら麓の方へ帰つて行つた。

 石井は前高の人の好い顔を見た時は、気の毒の思ひにも打たれた。がまた、んな奴に限つて友達がいくら難儀してゐても知らん顔をして、事務員の機嫌ばかり大事に取る奴だと思ふと、却つて小気味のいゝ気になつて後姿を見送つた。その目には勝ち誇つた色が浮んでゐた。

 仕事場について鏨を持つて岩にむかふと、彼は熱心に働いた。堅い岩を破る快さが、凡てのおもひを奪つてゐたが、ダイナマイトをかけて気滞の抜ける合間を坑外に出て晴れ渡つた空からたぎり落ちる春の陽を浴びて休んでゐると、お芳の事ばかりが心に浮んだ――白い柔かい肌、赤い唇、うるんだ優しい目、そしておどおど慄へてゐた可憐らしい姿――それを思ふと彼は今でも抱きしめたくなつた。

 争闘や反抗の荒々しい日を送つて来た、彼の過去に恋はなかつた。彼の目に映る凡ての女は、折々身を焼くやうに起つてくる本能を満足させる道具であつた。只そのるめくやうな瞬間には、んな暴力をも辞さない代りに、執着も未練もなかつた。それが今優しい恋が初めて彼の心に訪れた。彼はかつて知らなかつた楽しい甘い空想に耽る事を覚えたのであつた。

 仕事から帰りしなにも彼は砕鉱場の入口に立つて中を覗いた。広い小舎の羽目に添つた四周には、土間にむしろを敷いて、大きな角石を前にした女達が列んで坐つてゐた。女達が角石の上に鉱石をのせては鉄鎚でどしつどしつと砕く音や、音頭おんどに合せて歌ふ選鉱歌の声が小舎の中に溢れてゐた。頭の上に張つたマンゴク網の上から、選鉱夫が一輪車で運んで来た鉱石を明けると、長い網をころがる石の音は雷のやうに響いて来た。ひさしから射し込む板のやうな日の光に、茶褐色の細粉がぎらぎらしてゐた。石井は白い手拭を冠つたお芳を隅の方に見出すと、ぢつと見詰めてゐたが、お芳が顔をあげた時二人とも微かに笑つた。

「石井さあ、また見込みをつけに来たゞかね」鉱石を箱箕はこみに入れて配つてゐた世話役のお兼といふ婆さんが、しやがれた声で突然怒鳴つた。

「お前達がなまけるから、俺が監督に来てやつたのよ」と石井は背中の道具をゆすりながら云つた。

「石井さあに見込まれると、はあ助からねえぞ、若え者は皆な顔隠してろよ」と婆さんが云つたので、お芳は自分の事でも云はれたやうに身をすくめた。

「くそ婆あ、余計な事をいふな」石井は真顔になつて怒鳴つたが、そのとき鳥打帽子を頭の後に冠つて見廻りに来た事務員の安藤が、彼の後にそつと立つと肩を叩きながら、

「おい石井、こゝで女にからかつてちやいけないから、早く帰つて村へでも遊びに行けよ」と云つた。

 石井は振返ると一寸間の悪さうな顔をしたが、

「だつてお前さん。遊びに行ける程稼がせねえんぢやありませんか」と云ひながらまたお芳の方を見た。監督の姿が見えると女達は又熱心に石を砕き始めたので、どしつどしつといふ響が強くなつて、お芳も下を向いて了つてゐた。

 彼は心に微かな喜びを感じて飯場ヘ帰つて行つた。

 山蔭に日がかくれると家の中は早くから薄暗くなるので坑夫等は往還に出て子供のやうな戯れに耽つてゐた。陽はまだ沈み切らないので空は明るく大気は暖かだつた。石井も長屋の前をぶらぶら往来してゐたが、ふと前高の家の前に立ち止まつて中を覗いてみた。夜を日にかへたねむりから覚めた前高は、薄ぼんやりした顔をして火鉢の側に坐つてゐた。お芳はまだ仕事衣のまゝで夕餐の支度をしてゐた。

「これから晩飯か」と云ひながら石井は中へ這入つた。

「晩飯だか、朝飯だかよ」と前高はがつかりした声で言つた。向ふをむいて野菜を切つてゐたお芳は振りむきもしなかつた。石井が上り口に突つ立つてゐるので前高は、

「さあ上つて茶でも飲んでけよ」と火鉢の側ヘ薄い座蒲団を押しやつた。

 家の中はもう暗くなつてゐた。石井は昨夜の事を思うてふと見やつたが、何にも知らない前高は下を向いて、鉄瓶の湯を急須に注いでゐたので、気軽くなつた彼は、

「どうだいこんだの仕事あ随分したゝるだらう」と訊いてみた。

「滴るつて兄弟、まるで滝のやうだ。三の番ぢや外へ出たつて太陽おてんとさまあなしよ。焚火をすりや危ねえつて叱られるし、帰つてくると身体中氷みてえだ。昼間あ寝られねえもんだから稼ぎもみんな水よ――あゝ全くやり切れねえ」と泣くやうな顔をした。石井は別に可哀想とも思はなかつた。それよりも彼は働いてゐるお芳の手元に気をとられてゐた。

「三の番は全くやだなあ」と思ひ出したやうに云つた。支度が出来るとお芳も上つて来て、

「石井さんは一の番でいゝねえ」と云ひながら膳ごしらへをしてゐた。

「おれたちや昼間だつて夜だつて同じ事よなあ兄弟」と石井は薄笑ひをして前高の顔を見た。

「人なんか何うだか知らねえけど、俺あ死ぬ程いやだ」と云つた勢のない声は、薄暗い部屋の中に消えて了ひさうだつた。お芳はつて洋燈に火をつけた。狭い部屋は急に明るくなつた。前高の後から女は「早く帰つて」と言ふやうな目配ばせをしたので、

「さ俺もいつて飯を喰はう」と云つて石井は立ち上つた。

「一杯つきあつて行かねえか」と前高が止めたが、

「俺は飯場でつ切りをやつた方がいゝや」と言つて石井は外に出た。四辺は柔かな薄闇がとぢてゐた。彼は幸福を感じて歩いた。

 その夜も更けてから、彼は又お芳のところへ行つた。お芳はもう昨夜のやうに泣きもしなかつた。両隣の家とは羽目一重でくぎられて、鴨居は行き抜けてゐる部屋の中では、大きな声で語り合ふ事も出来なかつた。蒲団を被つてお芳の耳に口を寄せて、

「俺あ真剣にお前が可愛いんだ。此んな事をしたつて怒つてくれんな」と云つた。お芳は黙つて石井の為すがまゝになつてゐた。

 

 石井はお芳の事計り思ひ続けるやうになつた。初めて知つた恋は彼には苦しいものだつた。眠る間さへない隠れた歓楽に耽る夜が続いて、彼の顔には激しい疲れと衰への色が現はれた。然しその目や眉に踊つてゐたとげとげしい影は消えて何処かに優しさが浮んでゐた。――目付めつかつたところで暴れてやる丈けだ――と思つてゐたやうな、猛々たけだけしい気は失せて、お芳の為に息をひそめて猫のやうに用心深く歩くやうになつた。

 坑夫の仕事時間が交替になる日の前夜だつた。いつものやうにおそくなつてから、彼はお芳のとこへ行つた。お芳はもう蒲団を被つてゐた。彼はその枕元へ坐るとほつと息をついた。むくむくと夜着を動かして女は目から上だけ出して彼の顔を見た。彼は思ひ切つたやうに沈んだ声で言つた。

「なあお芳さん、明日あしたつから前高が二の番になりや当分かうやつて会へねえんだけど、俺あ考へると寂しくつて――つまらなくつて――なあおい俺と一緒に逃げて呉れねえか」

 それは女には思ひがけない事だつた。お芳は聞いてるうちに身体をぶるぶるふるはせた。

「まあ――そんな怖い事が」とひつつるやうな声でやつと言つた。

「なあに、何にもおつかねえ事あありやしないよ、近所の山にゐて工合が悪けりや北海道だつて台湾だつて俺達の働く山あ沢山あら、前高ぐれえ追つかけて来たつて、俺あんな奴に指でもさゝせやしねえ。安心して一緒に行けよ」彼は唯お芳一人が欲しかつた。それが為なら何んな手段も苦痛もいとひはしなかつた。一日でも二日でも――それから後はどうならうと――事情も結果も思ふ暇さへないのであつた。

 その時お芳は嵐のやうな恐怖に襲はれてゐた。寝てゐる事も出来なくなつたのでそつと起きて坐ると、蒲団の中に突伏しておろおろ泣いた。お芳の為に石井は懐かしい恋人ではないのであつた。物凄い力にひた圧しに圧しつけられて胸苦しい幾夜さかを過しはしたものゝ、憎くゝもない前高を捨てゝ逃げるやうな気にはなれなかつた。けれども、いやと云つたら一とくじきに殺しかねもしない、獣のやうに荒い男の力がひしひしと身に伝はつてくるやうに感じるので、頭の中は恐れと嘆きに石のやうに固まつてしまつて、身体ばかり震はせて声さへろくに出せないでゐた。

「なんとか云はねえか。えゝ黙つてなーいやだからか」と石井は又低い沈んだ声でさゝやいた。

「え、おい」と肩口を突かれたのでお芳は涙に濡れた、おどおどした目をあげたが、火のやうに燃えてゐる石井の目に出会ふと、直ぐに顔を伏せて了つた。

「かうしてゐたつて又会へるぢやないの、私にやそんな恐い事は出来ないもの」しばらくたつてから、震へ声でお芳はやつと言つた。女の卑怯たらしい言葉を聞くと、石井の怒は破裂しさうになつた。手足はびりびり慄へて、眉毛もこめかみも烈しい痙攣にびくびく動いてゐた。お芳はできる丈け身体を固く縮めて微かな苦しい息をついてゐた。――

「お前も随分不貞ふて腐れあまだなあ、前高一人を大事にもしなけりや、俺と逃げる事も出来ねえなんて、かまはねえから俺大声で怒鳴り出すぞ」と怒りに慄へる声で石井の云つたのが、お芳の耳にはもう大声で怒鳴られたやうに響いて氷のやうな恐怖がその背筋から全身に流れた。――羽目一重の上は鴨居が行き抜けてゐる此の部屋で、少し大きな声でも出されて近所隣りにそれが聞えたら、二人とも簀巻すのこまきにされるか打殺されるか――いづれ無事では済まないと思ふと、お芳はどうしていゝか判らなかつた。蒲団に顔を当てたまゝ、声を呑んで身もだえして泣いてゐた。石井はそのぶるぶる震へてゐる後髪のあたりを射すやうな鋭い眼で睨んでゐた。

「あゝあ、手前みたいな根性骨の腐つた女と心中したつて初まらねえや、かうやつてやらあ畜生ツ」起ち上りながらお芳の背中を力任せに蹴飛した。鞠のやうに転つたお芳はそのまゝ苦しさうに泣き続けてゐた。

「畜生ツ――此の位のこつちや――む――」突立つて唸りながら睨んでゐたが「覚えてろ」と云ひ捨てると土間に降りて外に出た。彼の頭の中は旋風の吹き廻るやうに掻き乱れてゐた。闇の中を吊り上つた眼を据ゑて睨みながら我むしやらに歩いて行つた。

 真暗な足下あしもともろくに見えないやうな凸凹な山道を彼は無茶苦茶に歩き廻った。――暗碧の空には無数の星が冷たく光つて真黒な高い山は、黙々として脅すやうに闇の中に聳えてゐた。更けた夜の冷たい大気が絶えず彼の熱した頬を冷やしてゐた。

 怒りの頂点に達した瞬間には、塵一つ惜しい物もないと思つた彼の心にも、やがて燃えさかる焔を消す水のやうに、云ひ知れぬ寂しさがさ惨んで行つた――彼は今日の夕方までもお芳が一緒に逃げると云つて呉れたなら、今夜の中にも支度して此の山を脱走しようと思つてゐた。お芳を伴れて歩く放浪の楽しさを胸に描いた丈けでも、その心は喜びに跳つてゐたのに ――美しい幻も残ることなく消えて了つた今は、たゞ遣る瀬ない寂寥と悲哀ばかりがその心を痛ました。出来る丈け多勢の人と争つて、身体がなますになるまでも闘つてみたいやうな気も起つた。また自分の口に爆発薬をくはへて火をつけて、むずつく身体を粉々に吹き飛ばして了ひたくも思つてゐた。

 夜明け近くまで狂人のやうになつてうろつき廻ってから、彼はやつと飯場に帰つたが、遂に一睡もしなかつた。朝起きた時彼の顔は凄い程青くなつてゐた。凹んだ眼は真赤に充血して、眉の上には抉つたやうに深い皺がよつてゐた。彼はその日からお芳に出会ふと、憎悪に充ちた目で射抜かうとするやうに烈しく睨みつけた。お芳は彼の鋭い眼を恐れた。遠くからでも彼の姿が見えると物影に身をかくすやうになつた。

 

   

 

 みすぼらしい山桜の花が散つて、山の春はあわたゞしく過ぎて行つた。その晩春の名残を彩る山躑躅やまつつじは夕陽のやうに赤く青葉の中に燃えてゐた。若葉が放つ精気の強い香は木立の中に充ち渡つて、若い坑夫等はてんでにこだはりのない放浪を夢みるやうになつてゐた。夕暮になると村境の峰には此処の飯場へ一宿を乞ひに来る、浪人の姿がきつと見えた。それは一人者が多かつたが、中には若い女房を連れた者もあつた。

 飯場にゐる若い者たちも、春の誘惑にたへないやうに暇を取つては当てもない旅に出て行つた。借金の多くある為に暇を取る事の出来ない者は、夜更けてから他人の着物を盗んで着て、そつと脱走する者もあつた。飯場にゐる者の頭数は殖えていつたが、その顔ぶれは余程変つた。夜になると彼等は暗い洋燈ランプの下に集まつて、雪の解けた北国の山や、空の碧い南国の新しい山の噂をして、旅好きの血をそゝらせてゐた。けれども石井の顔はいつもそれ等の人々の群の中には見えなかつた。

 お芳を失つてから彼の心のすさみかたは、だんだん烈しくなつていつた。暖かい日の照る間は裏山に登つたり、旧坑の前の谷の上に寝転んで、孤独の時を過してゐたが、飯場にゐると、いつもぶりぶり怒つてゐた。少しでも気に触れば火のやうになつて怒るばかりか、どんな危険な事をも仕出かしかねないので、誰も彼には近づかなかつた。彼は多勢の人の中にゐながら、彼の周囲はいつも冷たい孤独と沈黙が取りまいてゐた。

 日を浴びた大地が温みをもつて暖かい吐息をつくやうになると、森蔭や谷間にひそんでゐた、大きな青大将や精悍なまむしの気味の悪い姿が、よく人の目につくやうになつた。石井は人の嫌ひな蝮を平気で捕へては好んで喰つた。彼の目に触れるのはどんな敏捷すばやい毒蟲にも悲しい最後の運命だつた。午休みの合間にも仕事から上りしなにも彼はこんよく叢を探しまはつた。鋭い眼をした銭形のある蟲の姿を見出すと、何の恐れ気もなく彼は素早く圧へつけて、小さな焔のやうな舌を吐く口元から、直ぐに二つに割いてしまつて、執念深い蟲が赤身にむかれた身体をいつまでもびくびく動かせてゐるのを、彼は平気でぶら下げて見張の前に湧いてゐる清水まで持つて来ては洗つてゐた。日の光に透して見ると皮のない蟲の身体が瑪瑙めのうのやうに美しく光るのを、彼は楽しさうに眺めてゐた。目の悪い坑夫や、脾弱ひよわい掘子が寄つて来て、

「兄弟俺に目を呉れよ」

「すまねえけどきもをおくんなんしよ」

 などゝ云つては、まだ動いてる膽や、くり抜かれた可笑しく二つ並んで光つてる眼を呑んでゐた。皮は傷薬になると云つて誰かゞ大切に拾つていつた。彼は傍の岩に腰を下すと、まだ動いてゐるやうな肉を生のまゝむしやむしや噛り出した。或時東京から来た事務員が驚いて、

「石井、そんなものがうまいのか」と訊いた。

「こりやお前さんまぐろ刺身さしみよか甘いんだよ、だけど此奴で酒を飲むと、あたるつてえからいけねえけど――少しやつて見ますかね」と千切つて出した。

「石井の兄弟は余り蝮ばかり喰ふもんだから、気が立つていけねえんだ」と坑夫等は噂してゐた。

 晩春の沈鬱な日が続いた。空には鼠色の厚い雲が重くかぶさるやうに浮んでゐた。単純な労働者等もわけの判らない物思ひに耽つてゐたが、石井の顔には取り分け云ひ難い苦悶の色が浮んでゐた。彼は裏山に登つて見ても鈍色の雲がすぐ頭の上から果てしなく続いてゐて、野も山も只けだるく息苦しいやうに見えるので、頭の中までその重い雲が拡がつたやうに、どんよりとした物憂さを感ずるばかりであつた。自分の身体一つを持て余した彼は、病人のやうな顔をして、薄暗い飯場の汚れ畳の上に転がつて、長く伸びた髪をつかんでヂジと目をつぶつてゐた。

 彼の周囲にも屈託顔をした坑夫が七八人、ごろごろ寝てゐた。

「あゝあ、稼がにやならねえし、借金にやなるし全くいやになつちまふな、 ――脱走でもしなきややり切れねえや」を誰か生ぬるい声でつぶやくやうに言つた。

「まつたくよ、此の頃の銭にならねえつたらほんとにひどいな、そのくせ鉱石は随分出るんだけど」向き合つて寝てゐた男が、勢のない声で合槌を打つた。

「なあに、鉱主一人でうまくやつてるのよ、手前が儲けせえすりやいゝもんだから、岩が堅くなるのに間代を下げやがるし、鉱石は矢釜しい事ばかり云やがるしよ、癪にさはる事ばかりだ」

「ストライキでもやらねえかなあ」と誰か云つたので、皆が笑つた。石井はその時まで黙つてゐたが、

「おい皆なもう下らねえ愚痴は止せよ、俺あ聞いてる丈けでも頭が痛くなら、お前達や意気地なし野郎ばかりだから、ストライキでもやらねえかなあ、なんて人ばかり当てにしてやがら、――株つたかりがよく揃つてら」と大きな声で我鳴つた。

「だつて兄弟、お前にやつてくれつて頼みやしねえよ」と沈んだ声の男が言つた。

「俺に言はなくたつてよ、そんな事を言つてるまに三番のみでも担いで見張へ行つて掛け合つて来い、それが出来なきや黙つてろつてんだ――下らねえ」

「何もお前、愚痴を云つたつて俺達の勝手ぢやねえか」

「いけねえツ、俺あ愚痴を聞くなあ大嫌ひだから止せつてんだ、それでも言ひたきや俺と喧嘩しろツ」と彼は突然起き上つた。しかし誰も相手になる者はなかつた。いやな顔をして苦笑しながら、

「まあいゝや、お前一人で威張つてろよ」と誰か云つたがそれきり皆黙つて了つた。やがて一人減り二人減りして皆何処へか出て行つて了つた。石井は、

「畜生ッ、面あみろ」と怒鳴つて又仰向けに転がつた。泣き出しさうな空が暮れて、灯の点く頃までも彼は身動きもせずに寝転んでゐた。出て行つた人達が帰つて来てからも、誰もいやな顔をして黙つてゐるので、そこにも重苦しい沈黙が漂つてゐた。

 

 快く晴れた日であつた。仕事から上ると彼は直ぐ湯に這入つた。温い液体が毛孔にしみ込んで行くと、疲れた凝つた筋は伸びて、冷えて鬱結した血はゆるやかにめぐり始めた。湯から出ると彼は衣服を片手に下げて裸のまゝ、晩春の午後の陽を浴びて澄みちぎつた空を見上げた時、その心に微かな喜びが湧いて来た。――珍らしくも人懐かしい思ひ――彼は、誰かと笑ひ興じて話をしたくなつたが、萩田のゐない間は飯場にも長屋にも誰一人話相手はゐなかつた。

 飯場に這入ると彼は棚の上から行李を下して、新しい銅山筒袖や腹掛や半袴衣を出して身に着けた。乾いた跣足足袋をはいて外に出ると彼は身も心も軽々と浮くやうに思つた。――下の村には甘い酒も白粉をつけた女もある――彼はそこに行かうと思つてゐた。

 しばらくしてから彼は青葉に囲まれた山道を快さゝうに歩いてゐた。茅小舎から二三町下の岩の間から、此の山の銀明水と呼んでゐる綺麗な水が湧き出てゐる。潔癖な坑夫の女房達は四五町の道を通つてそこまで水を汲みに来るので、彼は道々、手桶に湛へた水の面に大きな草の葉を浮かばせて、重さうに提げて行く女に出会つた。

「重さうだな、さげてやらうか」と笑ひかけた。

「石井さんに頼むと後がおつかねえからね」と女達は笑つて行き過ぎた。

「ばかあ言ふねえ――あはゝゝ」と面白さうに彼も笑つてゐた。

 凸凹した岩の間に灌木の生ひ茂つた崖道を過ぎると、そこには広々と続いた雑木林があつた。そのあたりは、両側に連る山も低くなつて遥かに隔たつてゐる為に、青葉の深い林の中にも明るい光が漲つてゐた。林のずつと奥からは山から来る小川のせゝらぐ音も聞えたが、年毎の洪水に拡げられた河原には若草が一杯に勢よく茂つてゐた。

 彼は道端の細い竹を折つて無暗に振り廻して歩いた。蔓草の大きな葉が目につくと、力をこめて打つて見た。竹がひゆ—ツと鳴ると、葉は鋭い刃物で切られたやうにひらひらと落ちた。彼は又大きな声で唄ひ初めた。――林の奥に響く反響は彼と歩調を共にしてゐた――林の端れまでくると、蒼空の下に村へ越える峠の道が、青草の中に黒い線を引いてゐた。

 その峠の頂きに登ると下の村はもう手に取るやうに見えた。左に小高い丘の上に建てられた事務所の白壁が、夕近い陽を浴びて光つてゐる。働きに来てゐる女達の冠つた白手拭もちらちら見えた。遠く福島境の連山も霞んだ大気の中に長く続いて、いぶしをかけた銀のやうに光る那珂川の流れは、遠くの森や野の間にそのゆるい姿を隠見させてゐた。

 峠の下には此の界隈でたつた一軒の茶屋があつた。足袋はだしの彼はわざと入口から這入らずにそのわきの崖を下りて川に臨んだ座敷の方へ廻つて行つた。火鉢のはたにひまらしい顔をして座つてゐた女達は彼の姿を見ると、

「おやいらつしやい」と笑つて愛想よく迎へた。

 石井が座敷に上ると遊んでゐた女達は三人とも出て来て彼の相手をした。肥つた丸顔の団子鼻の女の名はお金であつた。痩せた二人はお千代にお花と名前丈けは美しかつたが、どれも青ざれた生気のない顔をしてゐた。石井は平素とまるで別の人のように、面白さうに、話して笑つてゐた。川向ふの山の新緑の梢を渡つた風がそよそよと部屋の中まで訪れた。女達も酔つてくると声を揃へて歌つた。お花は立つて踊り出した。唄ひ疲れると運んで来た肴をむしやむしや貪り喰つてゐたが、何も彼も楽しさうに彼は眺めてゐた。

「山から随分遊びに来るかい」と石井がきくと、

「えゝ毎晩大てい二三人――ね」とお金を見ながら云つた。

「ぢや随分兄弟分が多いわけだな」

「ふゝん」と笑つてからお千代が「だけどあなたはちつとも来ないわね、あの取立てのときちよいと来たんでしよ――あなた何んて云ふの――お名前は」と甘えるやうに云つた。

「来たくつたつて肝腎なものがなくちや来られねえぢやないか、俺あ石井つてのよ」

「あら、あなたが石井さん!」とお花が頓狂な声を出したので、皆な顔を見合せて笑つた。

「何が可笑しいんだ」と石井は妙な顔をした。

「だつて山から来る人だつて村の人だつてみんな石井さんて人は恐い人だつて云つてるわ」とお千代が云つた。

「なにおつかねえ人なもんか、こんな優しいぢやねえか」と石井はくすくす笑つた。

「ほんとねえ見たとこだけは」とお金は云ひかけてから「これからちよいちよい来て頂戴」と妙な目つきをした。

「それやお前可愛がつて呉れさへすりや」

「えゝえ、皆して命の続かない程可愛がつて上げてよ」とお花がまた大きな声で云つたので、みんなが笑つた。

 日は静かに音もなく暮れていつた。山間やまあひや木立の蔭から湧く夕闇は、川面かはもをこめてやがて座敷の中にまでそろそろよせて来た。前の山の頂きに登つた月は柔かな靄にうるんだ。――一座はふとしめやかになつた――が年かさのお金が起つて料理場の方から、明るく磨いた洋燈ランプをさげて来たので、一同は元の陽気に帰つて騒ぎ出した。

 表の入口から客らしい声が聞えて、二階へ上る足音がしたので、目元の赤くなつたお千代とお花が起つて行つた。

「どら、邪魔になるといけねえから、俺けえるとしよう」と石井は支度を始めた。

「今夜泊つてつたつていゝんでしよ、ね」とお金は馴れ馴れしく止めた。が酔つた女のしどけない姿を見ると彼は何だかいやになつた。

「初めつから余り可愛がられると病みついていけねえから、まあ、勘定書を頼ま」

「うそ、お前さんきつとお千代さんがよかつたんだろ」と云ひながらお金は立つて行つた。書き付けを持つて来た時は石井はもう足袋を穿いて外に立つてゐた。

「ほんとにまた近いうちに来て頂戴。お千代さんを取り持つてあげるから」と金を受取りながらもお金は喋舌つてゐた。

「お前が一番可愛いんだよ」

「ほんとにうまい事を云ふよ此の人は」と背中を叩いて「ほんとにね、さよなら」

「あはゝゝ」と笑ひながら石井は崖を登つて往還に出た。

 

 夏近い夜の大気はしんめりと暖かだつた。彼は、直ぐ山に帰るのも惜しいやうな気がしたので、村道をぶらぶら歩き初めた。少し行くと右側の崖は急に深くなつた。闇の漂ふ底の方には水の面に月の光が砕けてゐた。左は一段小高い畑が目路めじの限り遠く拡がつて、その真黒な土に植ゑられた野菜や煙草の青い葉も、遠くにぼやけた暗い森も、たゞしめやかに息づいてゐた。飛び飛びに立つてゐる百姓家も、その白壁に月を宿して、薄黒い茅屋根はぼんやりと霞んでゐた。

 村道の片側には駄菓子や酒を売る店もあつた。障子に明るく火影の射した店は次郎と云ふ百姓が、野良仕事の片手間に床屋を営む店であつた。次郎はまだその外におすがと云ふ六十近い婆さんの男妾までしてゐたが、四十近い頓間な顔に狐のやうな狡猾さを持つてる男であつた。

 石井は平素から次郎を憎しみ卑しんでゐた。彼は男妾と云へば、強盗より醜いものと思つてゐた。いまその家の前まで来た時、彼はふと、障子にはめた硝子をすかして中を覗いて見た。広い土間には大きな明るい洋燈が吊してあつて、椅子は隅の藁束を積み上げた側に寄せであつた。婆さんが留守と見えて次郎は一人して膳に向つて、大きな茶碗を持つて晩飯を喰つてゐた。石井は、澁紙色をした間抜な顔で、締りのない口がばくばく動いてゐるのを、腰を屈めて何かを狙ふやうな形をしてヂジと眺めてゐたが、酒にそゝられた荒い血が激しく彼を衝き動かした。妙な意地悪い笑ひをその顔に浮べると、突然手を障子にかけて力一杯引き明けた。戸は凄まじい音を立てゝ走つた。明りは暗い道にさつと流れ出た。彼は土間に這入ると同時に、

「やい、次郎ツ」と鋭い声で怒鳴つた。熱心に飯を掻き込んでゐた次郎は身体をびくつとさせると、茶碗と箸を持つたまゝ機械のやうに突つ立つたが、入口の方をすかして見てから、やつと、

「なんだな、次郎に何か用ですけえ」と言つた。

「用だから呼んだんだ、俺の頭を刈れ」と石井は土間の中程へ進みながら、命令するやうに云つた。次郎の眼に石井の姿が明瞭はつきりわかると、

つのつた此の金掘りが、われ酔つてるだな」茶碗と箸を持つた手をぶるぶるつと慄はせながら叫んだ。石井はその乾からびた皮の下に汚れ腐つた血をつつんでゐるやうな顔を見ると、頭の中が焼きがねのやうに熱して了つた。血に餓ゑた彼の目はぎらぎらと凄く光つた。

「生意気云ふな此の芋掘りの男妾め」と飛び付きさうな風を見せた。

「何いふだ此の命知らずが、俺の棒で片輪にでもされてえか」と茶碗と箸を叩きつけた。土間に当つた瀬戸物は滅茶滅茶に砕けて飛んだ。――寝呆けたやうな次郎の顔は蒼くなつて、額には蚯蚓みみずのやうな太い筋が現はれた。――変に武張つて湿ひのない気風の此の辺の村人は、誰も棒の一手位は知つてゐた。分けて次郎は平素から自分を棒の名人と思ひ込んでゐるのであつた。――

 長押なげしにかけた六尺棒を取ると次郎は土間に飛び降りて振冠ふりかぶつたが、石井はその時既に逆手さかてに握つた匕首あひくちを後に隠して身構へてゐた。次郎は呼吸をはかるやうに可笑しな身振りをしてゐたが、石井は猟犬のやうに素早くその手元に飛び込むと、弱腰に抱きついて仰向けにうむと倒れた。それは次郎には全く思ひ掛けない事だつた、―― 棒を持つた両手を広く拡げたまゝ、丸太のやうに折り重つて倒れた。石井は匕首をそのしりに力任せに突きたてたので噴き出す血汐は見る間に田舎縞の汚れた着物に赤く滲んだ。

「人殺しだ――助けてくれよ――」と起きも得ないで次郎は太い悲鳴を揚げた。

 石井は素早くはね起きて、ひきがえるのやうにへたばつてゐる次郎の顔を、土足に力を込めて踏みつけた。蒼くなつた頬にぶざまな黒い泥形がついた。が、また大きな口を開けて、

「人殺しだよ――」と怒鳴つて手足ばかりばたばたさせた。

「矢釜しい。此の男妾の畜生野郎、口惜しかつたら魂でも入れかへて仕返しに来い」と云つて、丁度子供が虫でも殺したやうに、唾をぱつと吐きかけてそのまゝ戸外に飛び出した。彼は山の方へ一散に走つた。月を浴びた影は地上に黒くをどつて行つた。

 村と山の中頃まで来た時には、身の軽い彼もやゝ息の切れるのを感じた。なだらに開いた山裾の木立の影に腰を下して、ほつと息をついた。月を仰いで蒼くなつた彼の顔には、凄惨の気が漲つてゐた。彼はせはしい呼吸を押しつけて二三度大きく大気を吸ふと漸く気が落ちついてきたが、身体一杯にかいた汗の為に着物のベとつくのが心地悪くなつた。腹掛の胸のあたりが殊に濡れてゐるので、こすつて見るとぬるつと冷たい手触りがして、固まりかけた黒い血がべつとりついてきた。蒼くなつて倒れた次郎の顔が、ふと彼の目に浮んだ。そしてあの傷の為に今頃は死んでゐはしないかと思つた。今頃あの家に百姓が大勢集まつてゐるだらう――後から自分を迫ひ馳け来る者もあるだらう――と思ふと彼は急に立ち上つて見た。が、見ゆる限りの山路には、木も草も岩も海のやうな青白い月の光の底に、静かに横たはつてゐるばかりで、人らしい影は見えなかつた。彼はまたふと腹掛の丼に手を入れて見た。今日山から出る時に、気が向いたら魚でも取つて見ようと思つて持つて来た爆発薬はつぱが、雷管も導火線もつけたまゝ二本あつた。

「追つかけて来やがつたら、こいつに火をつけて投げりや百姓達は驚いて逃げ出すだらう」と思ふと安心してまた腰をおろした。

 月は、果てしない空を静かに歩んでゐた。夜露にぬれた草の葉はしつとりと輝いてゐた。薄緑の明るい空に透して見える――峰一つ向ふには飯場のある――山の頂の毎日見つけた一本松は、くつきりと際立つて黒く見えた。大浪のやうに揺れてゐた心が静まつて行くと共に、彼は淡い寂しさと悲しみの中に沈んで行つた。

 彼は日頃から嫌ひな次郎を切つた事を思ふと、胸にわだかまつてゐたもやもやした想ひが、溜つた膿でも押出して了つたやうに、溢れ出た後の清々しい快さを感ずるのであつた。けれどもし次郎があのまゝ死んだなら幾ら逃げてもきつと捉まるだらうと思ふと、また暗い不安に襲はれた。彼はまた今日の夕方人懐かしい想ひを抱いて山を出た事を思ふと、僅かな時のへだゝりの間に此んな事を惹き起して、何処へ行つても結局は血を見るやうな事に終らなければ止まない、荒々しい自分の性質を悲しむやうな気にもなつた。――激しい怒の後に襲つてくる寂しさが彼の心を暗く冷くしていつて、その頭の中は妙な物悲しさで一杯になつて了つた。――

「どうせ打突ぶつかるとこまで打突からなきや納まりがつかねえんだ」と彼は強ひて圧へつけるやうに諦めて見た。そしてこんな不自由な山奥でつまらない日を送るのも、暗い牢屋で暮すのも大した変りはあるまいと思ふと、何うでもなるやうになれと云ふやうな捨鉢の気も起つて来た。

 胸の動悸が納まつて汗が冷えると、肌寒くなつたので、彼は起き上ると今度はゆつくり歩み出した。道端に生えた草も、薄明るい夜の空も、峰の松も、――今夜はけて懐かしかつた。茅小舎から洩れてくる弱々しい火影も、優しい光のふるへるやうに彼の目に映つてゐた。

 

 山に帰つて彼は真暗な納屋にそつと這入つた。そこには薪や漬物が乱雑に押込んであつた。血だらけの腹掛を脱ぐと、手さぐりで漬物樽の後にかくしてから、素裸になつて風呂場に行つた。幸に誰もゐなかつたが湯は垢と油汗でどろどろに臭くなつてゐた、彼が手足を洗つてゐる時下の方から人の来る気勢が段々近づいて来た。彼はきつと誰か村からあの騒ぎを知らせに来たのだと思つた。それは果して村にゐる掘子が二人、萩田のとこへ来たのであつた。掘子等は萩田を呼び出すと何かこそこそ立ち話をしてゐたが、直ぐにまた村の方へ駈けて帰つた。石井が湯から出ると萩田は、

「おい兄弟、ちよいと来てくれ」と自分の居間に呼び込んで膝近く坐らせて、

「お前また村で何かやつて来たな」と低い声で云つた。

「うん、俺あ次郎といざこざやつてつ切つて来たけど、もうちやんと覚悟しちやつてるから、兄貴余り心配しねえでくれ」と石井は平気な顔で言つた。

「何にもそんなに早く覚悟する事あねえさ、今掘子の話ぢや、何でも次郎の傷も深かなし、警察へも未だ届けてねえつて言ふから、俺これから行つて話をつけてくるけど―― 本当に兄弟、ちつと気をつけてくれよ――お前の事ぢや始終俺んところへ色んな事を云つてくる奴があるんだけど、お前の気は判つてゐるから鼻であしらつて追つ帰して、お前にや聞かせずにゐるんだからな」

「兄貴にや全く済まねえけど、こりやもう俺の病だな――まあ勘弁しといて呉れ、俺あ自分でも時々―― 苦しくつてやり切れなくなるんだ」

「まあ後でゆつくり話をするとしよう、兎に角俺が行つてくるまで、お前がこゝにゐて外の奴に聞えるとうるせえから、工藤の兄弟の家へ行つてゝくれ」と言つて、萩田は支度をして出て行つた。

 しつかりした足取を運びながら萩田は石井の事を考へてゐた。その悶えてゐる心持を能く知つてゐる彼は、石井が能く争ふのも決して無理ではないと思つた。が、明日になつて此の事が知れ渡れば、今度は仲間の者より見張の役員等が騒ぐだらうと思つた。勝れた腕を持つてる石井の事だから、此の山を解雇されてどこに行つても威張つて通れる身ではあるけれど、その放縦と残忍に近い粗暴の性質が余りに能く知れ渡つてゐるのを気遣つた。坑夫に優しい吉田に頼んだら何うにか執成とりなして呉れるかと思ふと ――明日は早く起きて朝のうちにそつと話して見ようとも考へた。――

 雑木林の中には新緑の梢を洩れた月の光が、地上に淡くゆらいでゐた。細い立木の間には夜の靄がうつすらとめぐつてゐた。

「あゝあ、俺でさへ時々はいやになるんだからな」と彼はふと口走つた。実際彼も窮屈な飯場頭はんばがしらなんか止めて、思ひ切り喧嘩でもぶちまくつてやらう、かと思ふ事は度々あつた。

「下らない屁みたいな奴が百人ゐたつて何にもならないんだ、石井一人を助けておく方が余程いい」と思ふと、彼はまた足を早めて歩いた。

 次郎の家の広い土間には、村の若い衆が多勢集まつて、寝てゐる怪我人とは別の事のやうに酒を飲んで、無暗に興奮した事をがやがや喋舌り合つてゐた。萩田のはひつて来た姿を見ると、皆ぴたつと黙つて目ばかり光らせた。枕元に坐つてゐたおすが婆さんは、萩田の顔を仇のやうにめた。

「石井が暴れて飛んだ気の毒な目に遭はせたつてな、工合はどうだね」と萩田は上り口に股をかけながら底力のある声で言つた。

かしらまあ」と婆さんは一寸会釈してから「石井つて人は、はあ、なつたひでえ人でやんすべえ、俺が家の次郎は今迄村の衆とだつてはあ、一度だつて喧嘩なんかした事はねえでやんすよ、――誰にでも聞いて見なんしよ」と立て続けに喋舌り始めた。気の短い萩田も仕方なしに「ふむふむ」と云つて聞いてゐた。けれ共その口から――次郎の傷のたいして深いものでない事も、村から二里もある駐在所には未だ知らしてない事も――直ぐに知れた。喋舌りたいだけ喋舌つたので婆さんの気色がやゝ和らいだころ、萩田は懐中から十円紙幣を一枚出して、

「どうも全く気の毒だつたよ、俺あ別に石井が可愛かわいゝつてわけぢやないけど、俺の飯場から不始末な人を出しちや事務所に俺の顔が立たなくなる訳だ、それに村の人にもこんなに集まつて貰つたんぢやさぞ物入りだろ、僅かで済まないけどまあこれを薬代に取つて内済にして貰はうぢやないか」と押しやつた。婆さんは、

「俺とこぢやはあ、別に薬代をとらうたあ思はねえんだけど、それぢや折角でやんすから頂戴しときやす、こりやかへつてはあ」と押し戴く真似をした。萩田は土間の方へ向いて、

「村の衆にもとんだ騒ぎをさせて済みませんでした」と丁寧に挨拶をした。

「なあにかしらこそ夜になつてはあ、大変でやんしたろ」と口々に云つた。

「さあ頭、なんにもねえけど一と口飲んでつておくんなんしよ」と婆さんは剥げかゝつた膳の上に徳利と肴をのせて出した。が、萩田は、

「おら、遅くなるといけねえから、又御馳走になりにくる」と辞退してから、

「ぢや折角大事に頼むよ」と云つて帰りかけた。婆さんや村人等は、

「どうもほんとに御苦労さまでやんした」と幾度も繰り返して言つた。

 萩田が帰ると若い衆達は又酒を飲み初めて、怪我人の事などはまるで忘れたやうに夜更けまで騒いでゐた。

 ほつと安心した萩田は、更けた夜の月を浴びながら気持よく山路を歩いて帰つた。

 工藤の家にゐた石井をまた自分の居間に呼んで来て、村での事を話すと、彼は、

「兄貴にや心配ばかりかけてほんとに済まねえ、けど、金なんかやると奴等癖になら」とまだぶりぶり怒つてゐた。

「そんな事あどうでもいゝぢやねえか、それよかお前は自分の病に気をつけろよ、此の頃のお前は全くたゞぢやねえぜ」

「俺だつて兄貴、ちつとも怒りてえ事あないんだけど、ほんとに苦しくつて堪らなくなるんだ。誰の面を見ても癪にさはつてやり切れなくなるんだ、全く病気だなあ」と云つて石井は長く伸びた髪の毛をむしやむしや掴んだ。

「だから自分でなほすやうにしろよ、また面白い芽の吹くことだつであるぢやねえか」

「芽が吹いたつてどうするもんか、俺にやちつとも面白かねえや、俺あ退屈でやり切れねえんだ――一体どうすりやいゝんだ――なあ兄貴――俺つまらなくつて手がつけられねえ」石井はその濃い眉を暗くさせた。

「何うせ人間は皆くたばつちまふんだから、大して面白い世の中ぢやないに違ひないけどよ――お前みたいに怒つて計りゐたつて仕方がねえぢやないか、それよか酒でも飲んだら面白く騒いで暮らせよ、え兄弟――」と同じやうな思ひに苦しんでゐる萩田はさうでも云ふより仕方がなかたつた。

「俺だつて今日は初めは気持がいゝもんだから村に行つて面白く遊んだのだけど、帰りに次郎の家の前まで行つたら――かう血が煮えくりかへるやうな気がしてよ――さうなると喧嘩でもしなきや、納まりがつかなくなるんだ、矢張り病気かなあ――あゝあゝ」と頭の後に両手を組んで嘆息した。

かゝあでも持つて見ろよ、ちつたあ心持が違ふかも知れねえぞ」

「俺が嬶あを持つたら、兄貴、なぐり殺しちまわ」

「それぢや世話も出来ねえなあ、はゝゝ」と萩田が笑ふと、

「嬶あでも貰つた夢でも見て寝てる方が安心だろ」と云つて石井も淋しく笑つたが、

「ぢや御免」と暗い部屋へ帰つて行つた。

 翌朝、萩田は早くから起きて自分の居間の上り口に腰をかけて、表を見張つてゐた。前の塵だらけの道もうらゝかな朝陽を受けて、美しく輝やき初めた頃から、村から来る掘子や選鉱女の汚い群がぞろぞろ通つた。それが途切れてしばらくしてから、いつも外の役員とは一人切り別になつてる吉田が、鳥打帽子を冠つて、脚絆きやはん草鞋わらじをつけた洋服の肩をそびやかして登つて来た。萩田はいきなり飛び出して、「吉田さん吉田さん」と呼び留めたが、後から来る人に見られると都合が悪いので、

「一寸」と手まねきして飯場の後へ連れていつた。

「何だい、昨夜ゆふべのこつたろ」と吉田は笑ひながらそこに立つた。

「えゝ、石井の野郎がつまらない間違ひをやりやがつたもんで――」と萩田は頭を掻きながら云つた。

「僕も今朝聞いたんだよ、また山口がぐづぐづ云ふだらうと思つて道々考へながら来たんだけど――彼奴あいつは村の娘を女房にしてるもんだから、ぢきに村の方を同情するからね」

「それに石井は平素から乱暴なので、見張で睨まれてゐるんですから、いゝ幸ひにやられやしないかと思つて心配してるんです。彼奴あ何しろ何処へ行つても嫌はれもんですから――あなたに頼んで何とか執成して貰ひたいと思つて実あ――」

「あゝいゝとも僕が出来る丈けの事はするよ、薬代をやつたつて、君が立て替へたのか」

「あんなもなあ、災難にあつたと思やいゝんですけど、何にしろ石井は私を頼つて来たんですし、知つての通りの男ですから、何卒一つ」と萩田はまた頭を下げた。

「やるだけやつて見るさ」と言つて吉田は萩田と別れて見張の方へ登つて行つた。

 午頃になつて見張では、松板を打ちつけた卓子テーブルを囲んで事務員が六七人、石井の事で議論を初めた。一時は随分激しく言ひ合つたが、吉田の剣幕が余り鋭いので、有耶無耶の中に済んで了つた。

 その夜、石井は萩田の居間へそつとはひつて、

「兄貴、ほんとに気を揉ませてすまなかつた」と手をついて礼を言つた。萩田は、

「俺よか吉田さんが馬鹿に心配してくれたんだ、序でがあつたら礼を云つといてくれ」と言つた。

「さうか、俺やまあこれからうんと稼いで早く借金を返さなきや」と独言のやうに云つた。

「けちな事を言ふな、それよかなるたけ下らねえ喧嘩なんかしないやうにしてくれよ」

「ふゝん」と頚をちゞめて「でも気がすまねえもんだから」と、どつちつかずの事を言つてゐた。

 二三日過ぎて吉田が見張で宿直した晩であつた。晩くなつてから石井はそつと出て行つた。見張所の硝子は夜気にうるんで洋燈の火影ほかげが柔かに映つてゐた。中には吉田がぽつんと一人で何か本を読んでゐたが、這入つて来た石井の姿を見ると、

「どうしたんだ今頃」とけゞんな顔をして尋ねた。

「今晩は」と石井は改めて礼をしてから「こなひだは大変心配して貰つて済みませんでした」子供のやうにつかへ勝ちに云つた。

「なんだわざわざ礼に来たのか、僕あふだんから奴等があまり鉱主におべつかしたり、村の奴ばかり気にしてるのが癪にさはるから云つただけさ、――わざわざ来ることなんかありやしないのに」と云つてから「だけど石井、もうつまらない喧嘩なんか止せよ。立派なストライキでもやつた方がいゝぢやないか」とぢつと石井の顔を見つめた。

「吉田さんおらストライキぢやもうこりごりしたんですよ、今だつて何も命が惜しくていやなわけぢやないんだけど、あれをやる前だの最中にやさんざ人をおだてやがつて、お蔭でちつたあ楽になつた奴まで後になると、人をまるで仇みたいな目に会はせやがる――間尺にあはねえより癪にさはつて堪つたもんぢやありませんや――何にしろ仲間が意気地なしの狡猾野郎計りだから何をしたつてとても駄目でさ、奴等がもつとしつかりしてりや坑夫だつて威張つて世の中が渡れるんだけど、しみつたれた了見の奴が多いから――一生働いて馬鹿にされて、若死しちまふ――いゝ気なもんでさ」と云つて淋しく笑つた。

「ぢや当分、酒と喧嘩と嬶盗人かゝあぬすつとか」

「そのうちにやどうにかなるでせうよ」

「全くな、嬶でも取られるか、痛い目にでも会はされなきやはつきりしないやうな――僕が見てさへ歯がゆい奴が多いから、じれるのも無理はないけど―― 萩田は随分お前の事を思つてるから、余り心配させるな」と吉田はしみじみと云つた。

「俺もさうは思つてゐるんだけど、時々調子が狂ふんですね」と仕方なしに笑つてから「何うもお邪魔しました」と云つて静かに帰つて行つた。

「あゝあ」と吉田は両腕をぬつとあげて、大きな溜息をしてから外に出た。山の中腹に稲妻形につけた道を、鉱石箱を背負つて登り降りする掘子の持つたカンテラが、闇の中に狐火のやうにちらついてゐた。真黒な山に周囲をかこまれた空を仰ぐと、星ばかりいかめしく光つて――静まりかへつた夜の沈黙を、どこかの坑内でかけた爆発薬はつぱの響が、一時に凄まじく破つたが、響が消えると同時に死のやうな静寂に返つて来た。

「まつたく癪にさはるな」と吉田はつぶやいたが見張の中へはひつてまた本を読んでゐた。

 

   

 

 梅雨になつて、鼠色の空から雨は毎日根気よくじけじけ降つた。山のしんまで滲み透つた水は真黒な坑内の岩の隙間から、滝のやうな音をたてゝ流れ落ちた。水にゆるんだ岩が音も立てずにすとすとと不意に落ちるので、それに打たれて負傷する坑夫が多くなつた。飯場にも長屋にも頭や足に繃帯を巻いて蒼い顔をして遊んでゐる者が沢山出来た。

 暗い坑道から更に又井戸のやうに掘下げた竪坑シヤフトの底から、上下に別れて掘進した洞敷の中などは、森に夕立の注いだやうに凄まじく水が滴つてゐた。

 仕事場きりば交代の日であつた。その日は雨に洗はれて艶々と光る木の葉も、寒さうに萎れて見える程冷々とした気が全山を閉ぢ籠めてゐた。見張所前の大工小舎や鍛冶場の中にも、五六十人の坑夫がぎしぎしと身動きも出来ないほど詰め込んで仕事場を定める籤の出来るのを待つてゐた。石井は一人それ等の群から離れて、佗しい雨の落ちてくる灰色の空を見上げてゐた。

 見張所の硝子戸がガタッと開いた音がした。待ちあぐんでゐた籤が出来たのかと、彼等の視線が、そこへ集まつたとこへ、吉田が首を出して、

「おい、みんなあ、洞敷は滴りがひどいから一円の本番で鉱石を買つてやるけど誰かはひらないかあ」と大きな声で怒鳴つた。坑夫等はがやがや云ひ始めた。

「之れから先き長く使ふ身体だ。をやしちまつちやつまらねえ」

「金より身体が大切よ」とぶつぶつ言ふばかりで誰も進んで出るものはなかつた。

「俺が這入りませう」石井は雨をよけるやうに首を伸して下を向いて、大股に窓の下まで飛ぶやうに走つた。

「たいそう慾張り始めたな」と吉田が笑ふと、

「薬代を返さなくちやならねえからね」と小声で言つてから「引立ては川上を押すかね、下ですかね」

「鉱石が多いから下の方を押してくれ」

「さうきまりや俺あ仕事場へ行つて見て来て置かう」と石井はカンテラを提げて坑口の方へ歩んで行つた。

「命知らずにや丁度よかんべえ」と小舎の中で誰かつぶやいた。みんな嘲笑ふやうな顔をして彼の後姿を見送つた。

 坑内にはひつて二三間行くともう水はびちよびちよ滴つてゐた。進むにつれてそれは漸々だんだん激しくなつた。岩の裂目から闇の中へ噴水のやうにほとばしつてゐる所などは、不意に顔を水で打たれる事もあつた。下水から溢れた水は小河のやうに坑道の岩を洗つて流れてゐるので、草鞋は重くなつて歩く度にじよぼりじよぼりと冷たい響をたてた。――襟元に水が垂れると背中に流れ込むのが心地悪いので彼は首をすくめて歩いた。

 坑口から半町程進むと、片側の岩壁へ桝のやうに大きく四角に切り込んだ所があつた。太い松丸太の柱が四本立つた中程から、冷たい光を放つ、鉄の捲き揚げハンドルが突き出てゐる――その下に、深い竪坑が真黒な大きな口を開けてゐた。――石井はカンテラをかざしてふと中を覗いて見てから、身を屈めて梯子につかまると、するすると降り初めた。

 闇は一層濃くなつた。手に持つたカンテラの光が、濡れた梯子のこまを照らしてゐるばかりで、上も下もたゞ限りなく闇が続いてゐるやうだつた。途中で梯子の向きの変る所は、厚い松板が渡してあつた。彼はそこに立つてホッと息をつくと又下つて行つた。竪坑の底には岩を深く掘つた大きな水溜みづためが作つてあつた。三四時間も汲み上げずにある水は溜の周囲に、膝につく程溢れて、空桶が大きな口を明けてぽかんと浮いてゐる――そこから、上下に別れて掘り進んだ洞の中からは、ぢやぢや――と凄まじく落ちる水の音が聞えて来た。彼は梯子を降り切らない中にカンテラを振り廻して見て、余り水の溜つてゐるので当惑した顔をしたが、思ひ切つて降りるとじやぶじやぶ音をさせて歩き出した。俄に騒ぎ出した水の面にカンテラがぎらぎら映つて岩の目から落ちる水は、無数の銀の棒を立てたやうに光つてゐた。

 十歩と進まない中にづくづくに濡れて了つた腹掛や襯衣シヤツが、身を引き締めるやうに纏ひついた。彼はカンテラの火を消さないやうに、半纒はんてんの裾をひろげて蔽ひながら歩いたが、岩につまづいた拍子に身体がゆれると、焔に水が当つたのでじゝつと大きな音がして、闇は僅かな光の領分をも奪つて了つた。俄に物を見る事の出来なくなつた彼は、自分の身体の中心まで奪はれたやうな気がして、しばらくヂジと立ちすくんだ。水音ばかり急に烈しく聞えて来て、彼の上にも容赦なく滅茶々々に降りそゝいだ。

 彼は腹掛に手を入れて燐寸マツチを出して見たが、紙はべとべとになつて箱は彼の手の中で、ぐしやつとくづれて了つたのでチヨツと舌打をして闇の中へ叩きつけて了つた。――その時彼の頭に妙な悲しい影が射した。――彼は、かうして此所に此のまゝ二三時間も立つてゐれば、滴る水に身体は冷えて了ふだらうと思つた。さうして一分毎にも増して行く水はやがて自分の身体を溺らして了ふだらう――真暗な洞窟の底で人知れず死んで了へば、癪にさはる事も悲しい事もなくなつて、凡ての苦しさやいまはしさから離れて、全く楽になれるやうな気がした。仲間が笑はうと人が嘲けらうとそんな事はどうでもいゝと思つた――その瞬間死は彼には最も美しく楽しいものに思はれて、ヂツと立ちすくんでゐたのであつた。流るゝ水が彼の身体から熱を奪つて行くので、冷たさが漸々だんだんにしみ渡つて行つた。初めは胸が悪くなつた。次には気持の悪い寒さが全身を襲つた。頭ばかり熱くなつてふらふらし始めた――死の手がもう眼の前に突き出された――と思ふと彼は自分のしてゐる事が馬鹿らしくなつて来た。かうしてゐれば直ぐに死ぬかも知れないと思ふと、急いで岩壁に手を触れて、それに伝はつて探り乍ら水を蹴つて歩き出した。闇に慣れた坑夫には、それは困難な事ではなかつた。梯子に手が触れると彼は素早く登り初めた。本坑道に出て外界から流れ込んで来る光線をかすかに認めると、身をかゞめて馳け出した。鈍色の空と雨に濡れた青い山を仰いだ時、彼は矢張り生の悦びを感じた。ほーつと大きな溜息をした彼の顔は真蒼になつてゐた。飯場に帰つてから彼は一人して命拾ひをした祝酒を飲んでゐた。

 その翌日から彼は、蔽ひをつけたカンテラをぶら下げて、素肌に腹掛け一つかけたゞけで、坑内にはひつて働いた。濡れ仏のやうに水に打たれても仕事に夢中になつてる間は、大した寒さを感じなかつたが一寸でも手を休めれば一時に冷えが身体に廻つて唇は紫色になつてがたがた慄へ出した。八時間の規定時間も午前中丈け働くのがやつとであつた。午後になると鍛冶屋場のふいごの前に来ては火にあたつてゐたが、坑内監督も別に苦情を云はなかつた。

 

 雨は毎日根気よく降り続いた。それはけて空の暗い日であつた。宮沢と云ふ坑夫は、本坑道レベルの上磐から四角な煙突のやうに高く掘り上げた打上げの仕事場で仕事をしてゐた。岩の崩れを防ぐ為に松丸太でやぐらのやうに内部を囲つてあつたが、その上の行き止りには、いつもモヤモヤした煙が滞つてゐる為にカンテラの光も薄ぼんやりとしてゐた。宮沢は丸太を十本ほど渡した足場に立つて長いたがねを垂直に天井に当てゝ、鎚をぶらぶら振るやうにしてかぶり穴をえぐつてゐた。彼の腕は余り達者ではなかつたが若い割に熱心に能く働いた。村のお波と云ふ娘を女房にして長屋に新しい家庭を持つた許りであつた。彼が冠り穴を刳つてゐる時、上磐のゆるんだ大きな岩が突然頭の上に落ちて、激しい打撃に身体の中心を失つた彼は、ふらふらとすると足場を踏み外して暗い穴を真逆様まつさかさまに落ちて了つた。途中で縦横に渡してある留木に幾度も突つかゝつて歯をかいたり鼻を挫いたりして、本坑道レベルへ溶ちる迄にはもう死んでゐた。

 丁度その時一輪車を押してゐた掘子が、打上げの下まで来ると変な音がして岩片が落ちて来るので、手前で止つて身をよけてゐる目の前の岩の上へ、ばしやつと大きな音をさせて宮沢の身体が落ちた。掘子は一輪車を握つてゐた両手をあげて

「大変だ――打上げから誰か落ちた――」と怒鳴りながら夢中で坑道を馳けて出た。その声を聞き付けた事務員や坑夫は慌てゝそこに集まつた。

 宮沢の身体はもう滅茶々々に打ち壊れてゐた。坑道に落ちた時、身体の重み一杯叩きつけた為だらう、頭はぐしやぐしやに砕けて半分飛び出した眼は怨めしげに何か睨みつけてゐるやうだつた。柘榴ざくろのやうに裂けた唇はうぢやぢやけて、折れた首骨は無態にへし曲がつてゐた。死骸を洗つて流れる水には、赤い血汐が交つてゐた。――人間の身体をできるだけ無茶苦茶にむごたらしく破壊したやうな悲惨な姿を見た坑夫等の顔には、同じ運命に対する危惧と恐怖の色が浮んでゐた。

 選鉱場で仕事をしてゐたお波は、悲しい報らせを聞くと夢中になつて駆けて来た。真暗な坑内でカンテラの裸火に照らされた、宮沢の怖ろしい死顔を見ると、水の流れてゐる坑道に泣き崩れて了つた。取り巻いてゐた人達もなだめる勇気もなくなつて、深い沈黙に耽つてゐた。その時後の方で、

「みんなこんな目に会つてくたばるのか、よろけになつて厄介者にされるんだ。手前ばかり長生が出来るやうな気でゐやがるから物が間違ふんだ。此奴を見ちや考へるだろ」と沈んだ声で言つた者があつた。振り返つて見ると裸に腹掛をかけた石井が冷え切つた蒼い顔に凄い目を光らせて腕を組んで立つてゐた。誰も「また気狂か」と云つた風な顔をして黙つてゐた。

「お波さん、どうせ坑夫のかゝあになりや皆なこんな目に会ふんだ、死んでから泣いたつて追つ附きやしねえ、一人になつて寂しけりや俺が代つて可愛がつてやるからよ、泣きなさんな下らねえ」と突つ伏してゐるお波の肩に手をかけてゆすつた。女は肩をふるはせて、一層大きな声を揚げて泣いた。しかし誰も彼の乱暴な言ひ草をとがめる者はなかつた。黙つて睨みつけるばかりであつた。

「あゝつまらねえこつた。――寒くつて堪らねえや、どら行つて温まらう」と言つて彼は一人でさつさと出て行つた。

「彼奴は全く狂人だな」と見送つてゐた山口が云つた。

「たゞぢやありませんとも」と後の方にゐた野田が出てきて、「さ、お波さん、泣いてたつてしやうがねえ、今俺達が担いでつてやるから、先へ行つて家でも片附けてゐな」と云つたので、お波はやつと起きて両手で顔を抑へて、暗い坑道をしよぼしよぼ出て行つた。

「さ、皆して担いで行かうや」と野田が言つた。皆気味悪さうに死骸に手をかけて、やつと持ち上げると唇の裂けてあごの外れた口が、だらりと大きく開いて、歩く度にがくがくゆれた。頭からはまだ血がぼたぼた滴つてゐた。

「おい此の顔をどうかしろや、此奴を見てちや遣り切れねえや」と誰かゞ云つたので、野田が腰にはさんでゐた手拭を取つて顔にかけた。選鉱場の女達は泣きながら見送つてゐた。その日は終日山中が静かにしめり返つてゐた。

 夕方になつてまたしよぼしよぼ降つてゐた。空は厚い雲に閉ぢられて、周囲を高い山でかこまれた長屋の中には、早くから夕暗が訪れた。平素は音もなく流れてゐた小河も、水量が増したので矢のやうに早く走る凄まじい音ばかり響いてゐた。

 宮沢の死骸を横たへた狭い家の中には一杯人が集まつてゐた。喪心したお波は枕元へたゞぽかんと坐つてゐるばかりなので、飯場頭や、山中大当番だの長屋世話役が代つて世話をやいてゐた。遠い村の役場や駐在所に届けたり、医者を迎へる為に行く若い者は「どうせ今夜は泊りがけだ」と空を仰いでつぶやいた。

 村の事務所からも髯の生えた所長が来てくやみを述べてから、

「とりあへず香典と見舞金を」と包み金を出して帰ると間もなく、裏山の観音堂から、頭の禿げた坊主が来て経をみ始めた。人いきれのした部屋に線香の煙が漂つて、鐘の音や読経どきやうの声が起ると、並んでゐた坑夫等も俄に無常を感じたやうな顔をした。経が終つてからも一としきりシンとしてゐたが、誰かゞ、

「あゝあ、くたばつちまつちやつまらねえな」と泣くやうな声で云つた。

「だけど皆一度は死ぬのさ」と年老つた坑夫が云つた。諦めたやうなその声が皆に、寂しい物悲しい思ひを与へた。

 けれども通夜つやの酒が始まると――怖ろしい死――の事なぞ誰も云はなくなつて了つて、死人の側にゐる事を忘れたやうに、陽気な話を始めた。殊勝らしい顔をしてゐた坊主まで酔が廻ると若い時の惚気のろけを語り始めた。狭い部屋の中からは時々破れるやうな笑声が起つて、陰気らしい気はなくなつてゐた。

 飯場にゐる一人者の連中などは、自分の仲間が悲惨な死を遂げた事などは、てんで知らないやうな顔をしてゐた。夕方みんなが集まつて飯を食ふ時に誰かゞ、

「宮沢の兄弟も可哀さうになあ」と云つたら、

「死ぬ者貧乏よ、ものが一人出来たんで誰か助から」と外の者が云つたので一どに笑ひ出した。隅の方に一人離れて暗い顔をして膝を組んでゐた石井は「誰も自分だけ死なねえやうな面をしてやがら、今に番が廻つてくるぜ」と無気味な声を出した。

「その時やそん時よ、そんな事を考へてた日にや、坑夫なんかできやしねえ」と太い声の男が云つた。

「生意気云つてやがら、意気地なしのくせに」石井は冷笑した。

「死人の事なんかいくら話したつてつまらねえや、さ、カブでもやらうや」と云ひ出した者があつたので、みんな洋燈の下に集まつて、夢中になつて花札をいぢり始めた。

 翌日、午頃になつてやつと医者が来た。三里も離れた元木の町へ棺桶を買ひに出た若い者が二人して新しい桶を担いで帰つて来たのはひる過ぎてからであつた。死骸を棺桶に納める時も、ねぢれた首はなほらなかつた。顔を仰向けにすると外れた下顋あごがだらりと垂れて、唇の裂けた肉がいやに無気味に白ちやけてゐた。飛出した目や腫れた鼻にも人間らしい影は見えないので、すぐに棺の蓋に釘を打つて了つた。

 夜になつてから寂しい葬ひが宮沢の家を出た。真黒な闇の中に霧のやうな小雨が降つて、秋のやうな冷たい風が吹いてゐた。池井鉱山飯場だの山中大当番と書いた提灯を持つた者が、五六人先きに立つた後に、若い者に担がれた棺桶や見送の人が続いた。雨はそれらの人達のさした傘にも棺桶にも音もなく降りそゝいで、ひやりとする風が闇の中から吹いて来ては、附添ふ人々のかほを撫でゝ過ぎて行つた。お波は門口に立つて提灯の火影に白々と映る棺桶をぢつと見送つてゐたが、折曲つた沢合さわあひについと消えると家へはひつて畳の上に突つ伏して、おいおい声を揚げて泣き出した。手伝ひに来てゐたガサツな女房達も黙つてうつ向いて了つた。――鈍いランプの火が憂ひに沈んだ人々の姿を悲しげに照らしてゐた。

 昼間から飯場で酒を飲んでゐた石井も、とむらひの出る時わざわざ外に出て雨の中に突立つて、いつまでも見送つてゐた、闇にゆらぐ提灯や、黙つて歩いてゆく人々を、ヂジと見つめてゐる彼の頭には、限りない憂愁と寂寥の念が渦巻のやうに湧き上つた。その苦しい思ひを語るべき人すらないと思ふと彼は一層寂しくなつた。葬の列は過ぎて了つた。飯場に入つて彼は一人して考へた。――宮沢はまだ若かつた。丹念に熱心に働いた。見張でも仲間中でも評判のいゝ男だつた。けれども公平で無心な岩の塊は平気でその善良な男の頭を叩きつぶして了つた。一目見てもぞつとする程醜く変わりはてた姿は誰からも厭はれた。棺桶に押し込まれて暗い道を担いで行かれて、土の中に埋められて了へば、冷たい雨が降りそゝぐ。その身体が腐り始める頃には誰も再び彼の事を思ひ出す者はなくなるだらう。死んで了へばどうする事も出来ないのだ。生きてる中が価値の世の中を、慎ましく不自由に暮した宮沢は気の毒だと思つた。又、馬鹿だつたとも思つた。さう思ふ自分も又面白くない日を送りつゝ何うする事も出来ずに死んで行くのが情なくも口惜しくもなつた。哀愁や憤恨が彼の頭をめちやめちやに引つ掻き廻した。

「あゝあ、つまらねえな」と思はず大きな声で怒鳴つた。

「何がよ、兄弟」と側にゐた太つた男がきいた。

「だつてよ、考へて見ねえ、俺たちや何だつて此んな馬鹿げた苦しい目にばかり会はなきやならねえんだ、蒼くなつて働いてよ、間誤つきや岩に打つつぶされて、雨の降る晩に冷てえ土ん中に埋められちまふなんて……それが当りめえの事なのか、鉱主は毎日甘い酒を飲んでい女を抱いてやがる……下らねえ端た銭の愚痴なんかこぼす時ぢやねえや。手前達やみんな寝呆けてやがら」とむかむかする思ひを一ぺんに吐き出すやうに云つた。

「石井の兄貴なんか、そんな事を考へねえたつて、お波つ子んとこへでも行きやいゝぢやねえか」と若い坑夫がまぜつかへした。

「手前みたいな豚あ黙つて引込んでろツ」と突然傍によつて横面を力一杯擲りつけた。

「あツ」と顔を抑へたが「だつて兄貴が余り情ねえ事を云ふからよ」

「まだいやがんな、叩つ切るぞ」と眼を光らしたのでその男も黙つて了つた。石井の苛立たしさは容易に納まらなかつた。四辺に敷きちらけた汚れた蒲団や油染みた枕からたつ湿つぽいくさい匂まで厭はしくなつて来た。

「考へてたつて始まらねえや、村へでも遊びに行つてくべえ」と独言を言つて起き上ると手早く支度して外に出た。雨はまだ降つてゐた。ぬかつて滑り易い山道を探るやうにして彼は村の方へ下つて行つた。闇の中を歩きながら、彼は宮沢の棺も同じ此の道を通つた事を思つた。死んで担がれて行つた宮沢より、かうして女のもとに遊びに行ける自分の方がまだ仕合せだとも考へた。然しいづれ同じやうな危険な運命がつき纏つてゐる事を思ふと、堪らなくいやな気がした。

「どうだつて仕方がねえや、生れたが不仕合せなんだ」とつぶやいた。

 茶屋にいつてからも彼は浮かない顔をして、無暗に酒をあふつてゐた。女達が、いくらはしやいでも蒼い顔をして物思ひに耽つてゐた。

「石井さん今夜はどうかしてるのね、心配事でもあるの」とお千代が訊ねた。

「みんなつまらねえんだ ――うんと酒を持つて来てくれ」と云つて、死人のやうに蒼くなつて倒れるまで飲み続けてゐた。

 

 石井の村通ひはそれからしばらくつゞいた。人のいやがる水仕事場みずきりばで働く彼は、稼ぎ高も多いのでその当座遊ぶ金にも不自由しなかつた。けれども宮沢のむごたらしい死態しにざまを見てからの彼の心は、ともすれば暗い重苦しい思ひに襲はれがちになつてゐた。茶屋の女にからかつたり不覚になる程酒に浸つてゐる間ばかり、僅かにその息苦しさから免れてゐても、仕事の合間にも飯場に帰つて来てからでも、まぎれるもののない時にはいつも彼の頭に暗い影が漂つてゐた。それは真黒な冷めたい大きな、得体の判らない死の顔が彼の思ひに意地悪くつき纏つてゐるのであつた。

 彼は、そのいまはしい脱れる事の出来ない死の手に抱かれる為に、身を苦しめて働いて疲れたり、怒つたり憎んだり慄へたりして、貧しく果敢はかない寂しい日を送らなければならないかと思ふと、檻に入れられた獣のやうな窮屈と疲労を感じた。――世の中にはもつと自由に楽しく生きてゐる人もある――坑夫だつて立派な生産を営んでゐる以上、それ等の人と同じ生活を為し得る権利のある事を彼はおぼろげながらも知つてゐた。たゞ自分達の仲間が怠惰で卑怯である為に世の中からまるで金掘りに生れて来た道具のやうに扱かはれて、凡ての力を奪はれ虐げられて、愚かな獣のやうにこき使はれて、僅かに餓ゑ死なない丈けの命をつないで、心から楽しい一日を送る事もなく空しく死んで行くのを何うする事も出来ないと思ふと、自分の孤独と無力が口惜しくなつた。愚かな仲間が憎くもなつた。不安や焦燥や憤怒の情が入り乱れて、身に食ひ入るやうに彼を苦しめた。

 

 梅雨明けに近くなつて蒸し暑い日が地を訪れた。空を厚く閉ぢこめた灰色の雲が裂けると、カツとした日の光が洩れて雲の切れ目が銀色に眩しく光つた。濡れた大地や山の青葉もきらきら輝いた。雲が閉ぢると四辺は急に暗くいきれるやうに暑くなつた。石井の頭は破れさうに痛み悩んだ。仕事が済むと直ぐに彼は村の茶屋に出掛けたが、酒はたゞ苦い水だつた。いくら飲んでも冷汗ばかり出て彼は少しも酔はなかつた。お世辞を云ふ女の声も耳元にガアガア空しく響くやうな気がして、彼はもう世界中に息吐いきつき安らふ僅かな場所も失つてゐた。

 梅雨がれると暑さは急に激しくなつた。坑道から流れ出る煙や白く凝つたいきも、地面を這ふやうになつて坑内は水の滴りも少くなつた。月初めの仕事場がへの時には特別仕事場もなくなつたので、石井はもう前のやうに村へ遊びに行く事も出来なくなつた。

 その頃から山の鉱況は漸々だんだん盛んになつて来た。事務所では掘進を急ぐ為に、どしどし人を増すので、飯場にも長屋にも坑夫は一杯になつた。風通しの悪い沢合に建てられたそれらの家の上を、日中は暑い日が容赦なくかつかと照りつけるので、夜になつても家の中はむんむんしてゐた。そればかりでなく裸のまゝで寝る人達の汗や脂肪あぶらを思ひ切り吸ひ込んだ夜具や、周囲の羽目にぶら下げた汚れくさつた仕事衣からは、たえず臭い匂を放つてゐるので、室の中にはむかつくやうないきれが一杯にたゞよつてゐた。生温くほてつた真黒な畳の上に、坑夫等がべとべとに汗をかいたまゝごろごろ寝転んでゐる有様は、人間の家と云ふより全く豚小舎に近いものだつた。

 石井は村へ遊びに行かなくなつてからも、飯場にゐる事は稀だつた。涼しい木蔭や風通しのいゝ岩蔭をあさつて、寂しい時を過してゐた。

 二日目置きに一人位づゝ増していつた坑夫は遂に飯場から溢れさうになつた。夜になると柏餅になつて寝る者が、重なり合はない丈けに押しつまるので、温気うんきと臭気はいやが上に烈しくなつた。蒸し暑い晩などは、

「あ! 畜生ツ苦しくつて寝られやしねえツ」とみんなして怒鳴り出した。

 事務所では慌てゝ飯場の増設に取りかゝつた。職違ひの土方の群が来て、燃ゆるやうな日の光に鶴嘴つるはしやショベルをひらめかして、一段上の山裾を切り開いて地ならしを始めると、新飯場のかしらには誰がなるかが坑夫仲間の問題になつた。野田が事務所や山口の家へお百度を踏んで、頭になる運動をしてゐると云ふ噂も起つた。実際その頃から野田は見張ヘ行つても、妙な理窟を云はないやうになつた。そして坑夫長屋を歩いて愛嬌を振りまいたり、夜更けてからそつと村へ下つて行つたりしてゐた。

 月末には地ならしの出来た端の方から、ガサツな家が建て始められた。大きな飯場を第一にして狭い長屋の骨組ばかり並んだのは、丁度玩弄物おもちやの汽車のやうな形をしてゐた。夕方大工が帰る時分になると長屋から女房達が、ざるだの炭俵をさげて来て木片や鉋屑かんなくづを争つて拾つてゐた。

 その時分から野田の家には彼の伯父分になる大沢と云ふ坑夫が来て泊り込んでゐた。大沢はすぐに使役願を出すでもなく、毎日酒を飲んではぶらぶら長屋中を遊び廻つてゐた。岩のやうに頑丈な体躯と、ぐりぐり光る目やいかつた鼻が、頓馬な猛獣を思はせるやうな男だつた。彼はいゝ機嫌に酔ふと長屋に出かけて誰をでも相手にして、

「俺あ今まで随分山あ歩いたけど、何処へ行つたつて喧嘩に負けた事あねえよ」と長々と腕自慢を述べ立てた。坑夫等は力の弱い野田が、飯場を持つたら心張棒にする気で呼んだのだらうと云つてゐた。そして誰が新飯場に廻されるかと、そんな事ばかり気を揉んで寄り合つては話してゐた。

 石井は、野田が飯場頭にならうと大沢がどうならうとそんな事は何うでもいゝと思つてゐた。何うせ飯場に置かれた人間は、不味まづい茶を高く売られて汚い蒲団の損料を取られて、蒸し殺されるやうな所に寝かされて、苦しんで、甘い汁はみんなかしらに吸はれるに定まつてる事だと思つた。自分達がもつと奮発しなけりやならない事は忘れて、けちな些細な事計りに心配するやうな意気地なしは、目の覚める程苦しんだ方がいゝと思つた。

 暑い日は毎日続いた。晴れ渡つた真昼の空にはちかちかした光が漲つてゐた。焼けつくやうな日に照りつけられた草木の葉は、ぐんなりと白い葉裏を見せて萎れてゐた。くさむらからはむつとしたいきれがたつばかり、そよりとした風もなく、山路に敷いた硅石の破片は熱し切つて焔のやうな吐息をついてゐた。坑夫も掘子も事務員も休み時間には、薄暗い坑口に吸ひ付けられたやうに集まつて、坑道から吹いてくる冷たい風に蘇つてゐた。

 八月になつて山には一月遅れの盆が来た。若い坑夫や掘子達は三日間続く休みを早くから楽しんで云ひ暮してゐた。事務所では休みのうちに坑夫等が余り酒に溺れて、間違ひを起されては困るので、盆の書き入れ時に鉱山を目当てに来た旅役者に、芝居をやらせる事にした。建てかけの長屋は都合よく小屋になつた。敷居にくぎられた床の土間、戸棚になるべき桟敷も、旅廻りの土臭い新派劇にはふさはしいものだつた。

 足尾にゐる頃山祭りのある毎に素人芝居の俳優になつた事のある野田は、昼間から多勢の若い坑夫を指図して舞台や観客席を作つてゐた。隣り合つた長屋の戸棚の段の間には厚板を渡して、縄で結へた丸太の欄も出来た。床板をはがして根太に渡した板は腰掛になつてゐた。 ――金弐拾円也、事務所より――を筆頭に鴨居に張り並べたびらが夕風に勢よく飜へる頃になつて、近くの村の百姓や娘達が見物に押し寄せて来て、長屋七八軒打ち抜いた小屋の中も直ぐ一杯になつて了つた。派手な浴衣や田舎縞の着物が揉み合つて、安白粉や油の香が漂ふ中に若い坑夫等が酒の廻つた顔を輝かして、娘達にからかつてゐた。他愛ない笑ひ声はそここゝから起つてゐた。村の事務所に帰る事の嫌ひな吉田の姿も桟敷の上に飯場頭や山中大当番と交つて見えた。

 飯場や長屋から集めてきた洋燈が小屋の中に輝き初めると、巴三寅さんえと書いた古ぼけた幕の前に野田の姿が現はれた。黒絽の紋附の羽織を着て髪の毛を分けた彼は、坑夫のやうには見えなかつた。

「えゝ御見物の方様へ、愈々いよいよ狂言が始まります、一番目が御家騒動、恋の暗路が三幕、中幕が喜劇、御化屋敷、二番目が孝女の一心二幕に御座います。お静かに御ゆつくり御見物の程願ひ上げます」と鮮かに口上を述べ終つて幕中に引つ込んだ。

 衣裳を持たない旅役者の女形は、坑夫の女房かみさんの着物を借りて舞台に出た。労働者に扮した者は坑夫が水仕事場に這入る時の帽子を冠つてゐた。それは誰の目にも余り知れてる物なので、笑ひ声はどつと起つた。二幕目に舞台の羽目に――先祖代々之墓――と書いた字は、後から座敷の場になつても、監獄署の幕になつても消えずにちやんと残つてゐた。

 二た幕目頃になつて、白い浴衣の上に紋附の薄羽織を着て、田舎医者の代診のやうななりをした石井が、ぐでぐでに酔つて小屋に来た。酒臭い息を吐きながら酔つた目を据ゑて何物かをあさるやうに見物の間をうろついてゐた。娘等は彼に見られるのを恐れるやうに身をひそめた。彼は隣村から選鉱に通つて来る色白で小肥りに太つたお新が、若い坑夫に囲まれてゐるのを見出すと、四辺の人を押し分けてその側に歩み寄つた。お新の隣に腰をかけてゐた男は怨めしげに彼の顔を見たが、その鋭い眼に出会ふとひよいと立つて振り向き勝ちに歩み去つた。彼はその空席に腰を下した。薄い浴衣を通して女の体温が伝はると汗はじとじと湧いても、彼は平気で快さを貪つてゐた。周りにゐた若い坑夫等も気むづかしい石井が来ては面白くないので漸々だんだんに遠のいて、あとは村の人や女達が入れ替つて来た。

 舞台では悪人の罠に陥入つた善良な若者が、死刑執行になる瞬間を演じてゐた。若者に扮した俳優は、横に長く引張つた二本の細引の間に首をはさんで立つたまゝ、身体を前後に揺すつてゐた。典獄が「ひとーつ」「ふたーつ」と数を読み上げて、それが百に達した時命は絶たれるのだと宣告した。――無智な観客の気分は可成り緊張して、心はまるで舞台に吸ひつけられてゐた。その時石井はお新に、

「暑いだらう」とさゝやいた。

 お新はふだんから石井は山で一番恐ろしい人だといふ事を聞いてゐた。自分の隣に来られた時は、身内がすくむやうな気がして、胸はわくわく踊つてゐた。舞台よりも隣りにゐる石井にまるで心をとられて了つてゐた。初めは直ぐに外へ逃げようかとも思つたが、執念深い男に見込まれてはそれも叶はない事と思ふと、その心も挫けて了つた。諦めたやうに屈従してしまへば、恐怖に伴ふ快さも湧いてゐた。

「暑かないか」二度目にいつた声が耳に這入つた時は、男の腕がお新の背中を捲いてゐた。

「わしいもう暑くつて逆のぼせやんした」とお新は両手で赤くなつた頬を抑へた。強い男の腕から伝はつて来る、何とも知れない力が、女の血潮を掻き乱して了つてゐた。

「あれが済んだら外へ出よう、山は涼しいぜ」と石井が云つた。女は黙つて點首うなづいて男の腕に身を任せてゐた。

 舞台では典獄の読み上げる数が、九十九から百に移る刹那に、楽屋から死刑執行猶豫、死刑執行猶豫と叫びながら劇中の名探偵が司法大臣命令書の折紙を捧げるやうに突きつけて出て来た。若者は身体を揺する事を止めた。

 見物はほつと息をついた。間もなく悪人は短銃で自殺して幕は引かれた。我れに返つた人達は急に暑さを感じた。扇子や団扇うちはのばたばた云ふ音がにはかに起つた。小屋の空気は濁つてむしむししてゐた。肌と肌とすれ合ふ程圧し詰つた若い男女の血汐は、止め度なく狂つてゐた。ぞろぞろ外に溢れ出た若い之れ等の幾組かは、真暗な木立の奥や谷間に姿を消して、いつまで経つても帰つて来なかつた。

 石井は、

「さ出よう」と促した。女は黙つて立つと彼の後に従つた。息詰るやうに熱い人いきれから免れて二人は小屋の外に出た。涼しい夜風が汗ばんだ肌へを快く吹いて通つた。石井は両手で胸をくつろげて、空を仰いでほーつと息をした。秋近くなつて深く海のやうに透き徹つた夜の空には、銀河が白く縦に流れてゐた。小屋から流れ出る光は外の闇をくつきりとかぎつてゐた。暗いところへ来た時石井はお新の手をとつた。日毎の働きにこはばつた掌も熱い血汐にほてつてゐた。二人は黙つて選鉱小舎の方へ登つて行つた。真暗な小舎の中には坑内から来る水が、ひそやかな音を立てゝ流れてゐた。――

 

 翌朝になつて書き入れ時を忙がしく廻る旅役者の群は、錻力ブリキのサーベルを手にした座頭ざがしらを先に立てゝ、僅かな衣裳をつめた鞄を代り合つてかつぎながら村境の峰を越えて発つて行つた。山路の草はまだ露に濡れて、朝陽にきらきら輝いてゐた。

 その夜は諸国から寄り集つた坑夫等が、各自に生れ故郷の盆踊りをやると云つてゐたが、朝の間は皆な酒に浸つてゐた。音頭取が叩く為に用度から持つて来た醤油の空樽も飯場の前に放り出してあつた。午近くなると酒精の気は飯場にも長屋にも万遍なくしみ渡つて、はしやいだ人達の無揃な唄声や手拍子の響きが、門並に起つてゐた。飯場では若い坑夫等が盆踊りの予習をやり始めた。荒くれた大男が揃つて、太い毛脛を踏みしめて踊り廻る度に、黒く汚れた畳からむせつぽい煙のやうな埃が舞ひ上つた。

 石井は前の晩酒を飲みすぎて感覚がただれたやうになつてから、うはづゝた歓楽に耽つた揚句夜更けまで、露の深い山道を歩き廻つたので、今朝起きた時は、関節は破れさうにだるくなつて、冷汗ばかりぞくぞく出て頭は破れさうに痛んでゐた。苦しいのを我慢して迎へ酒を飲んでから彼は隅の方で、汗をかいてぐたぐたに寝入つてゐたが、俄かに床を轟かす騒がしい物音に驚いて醒めた。まだ意識の判然としない目の前を、太い毛脛や細い足が飛び廻つてゐた。彼は何事かと思つてむくつと起き上つて瞳を定め見ると、向ふの隅の方で一人が羽目を叩きながら音頭をとつてゐる。酔ひどれた男達が七八人しどろの足を踏みしめては、「こらしよい」と声を合せて踊り狂つてゐるのだ。目の前を過ぎる足を片端から払つてやりたい程にも苛々したが、年に一度の盆休みの事と思ふと流石さすがに彼も怒る気にもなれないので、重い瞼をこすりながら、外のかけひに顔を洗ひに出た。

 その日は別けて暑かつた。午近い残暑の空からたぎり落る、焔のやうな光が四辺をかつと照りつけてゐるので、木も石も水の面も燃ゆるやうな光りをちかちか放つてゐた。その光に打たれると、どろんとした彼の目はづきづき痛んで重い頭はぐらぐらと倒れさうになつた。彼は急いで飯場に這入ると入り口に腰を下して静かに休んでゐた。踊つてゐた人々も疲れたと見えて、ぐつたり坐つてだらだら流れる汗を拭きながら苦しさうにはつはつと息をついてゐた。日が頭の真上に来たので室の中は温室のやうに暑くなつた。みんなは裸になつて獣のやうにごろごろ寝ころんだ。長屋の人達も暑さにめげたと見えて歌の声も聞えなくなつた。

 外には溶ろかすやうな熱い日が、杉皮の屋根や、硅石を敷いた往還の上に燃えてゐる。四方を高い山に遮ぎられた摺鉢の底のやうな此の沢合には、そよりとした風も来ないので、一としきり湯釜のやうな熱さになつた。草木の葉も息を止めたやうにぐんなりと萎れ返つて、不精な女達の捨てた塵埃が煮えてすえるやうな匂ひを絶えずたてゝゐた。――此の暑さを冒して家の外に出る人もないので、あたりは森閑しんかんとした真昼の静寂に沈んでゐた。

 石井は再び眠る気もないので、手拭を肩にして上り口に腰をかけたまゝ、ヂジと暑さと戦ひ堪へるやうに空しく表を見つめてゐた。浴衣を帯なしでばつとあふつた大沢が、酒臭い息をしながら這入つて来た。

「どうだ此の暑いのに、どこでもみんなよくねてるなあ、目玉も身体も溶けちまふだに」と怒鳴り散らしてから「石井の兄弟も退屈さうだな、一杯やらねえか」と云つた。

「暑くつてしやうがねえんだけど、少しならつてもいゝな」大沢を好かない石井も退屈なまゝに言つた。

「俺あ行つて酒を持つて来るで」と大沢は足を返して外に出たが、やがて徳利をさげて来た。石井もその間に自分の箱膳を出して、帳場からさかなになりさうな品を取つて来て湯呑も二つ並べて待つてゐた。

「さ、やるべえ」と二人はなるたけ風通しのよささうな所に向き合つて、飲み初めた。石井は初め二三杯飲む間は、爛れた内臓に悪くしみるやうにも思つたが、少し廻るとひそんでゐた酔も出て元気のいゝ顔になつた。

 大沢は初めから酔つてゐた。それでも最初の中は二人とも、方々の山の噂などをして他愛なく笑つてゐたが、漸々だんだん酔が烈しくなると大沢はまた得意の喧嘩自慢を喋舌り出した。石井が黙つていやな顔をしてゐても、興に乗つた彼は夢中になつて、

「俺赤沢に居た時だつけよ、まかなひ部屋の後ろでみんなして丁半をやつてる所へお前、請願の野郎が来やがつてよ」と膝を乗り出した。

「おい、もうよしてくれ、俺あ自分の喧嘩であきあきしてるんだから」と石井は堪らなくなつたので顔をしかめて手を振つた。折角話しかけた腰を折られて、大沢はむつとした顔をしたが、相手も普通外なみはづれて気の荒いのを知つてゐるので、仕方なしに黙つて了つた。二人はいやな沈黙に耽つた。酒に興奮してとがつた気と、ふだんから抱いてゐた反感がそこで音もなく争つてゐた。

 石井は胡坐あぐらの膝に頬杖をついて、首をかしげて湯呑の酒を乾してゐた。彼はもう此んな大沢を相手に酒を飲んでる事はいやになつた。――昨夜お新と別れるとき、今夜は塩子の弁天堂で逢ふ約束をした事を思つてゐた。そして早くこの熱い日が暮れて涼しく楽しい夜の来るのを待つてゐた。――大沢は石井の顔をヂジと見入つてゐたが、濃い眉をびくびくと動かすと、

「おい石井の兄弟」と強く呼んだ。

「なんだ」と石井は顔をあげたが、二人の目は険しく光つてゐた。

「俺が甥つ子の野田もよ、近えうちに三号のかしらになるかも知れねえけど、お前とも折角かうして飲み合つたゞ、兄弟の盃しようでねえか」と湯呑を突きつけた。石井の顔には激しい侮蔑と嫌悪の情が表はれた。

「俺いやだ」ときつぱり言つたので、大沢はぶるぶるつと身体を慄はせた。

「なにが ――なにがいやだ」とつめよせた。

「いやだから、いやだつてんだ――第一手前の云ひぐさが、一々癪にさはら、野田が頭になつたつて手前と俺と盃をするのに何になるんだ、下らねえ事を云ふな法螺吹ほらふき――俺あ野田みてえなおべつか野郎は大きれえだ、手前もきれえだ」

「な、生意気云ふな二歳つ子のくせに、俺あ今まで盃しようつて弾かれた事なんかねえだ、――うぬ此の山で幅を利かしたつて、俺が来てからさうはさせねえだ」と腕をまくつて突張つて見せた。

「馬鹿つ」鋭い声と共に石井は立ち上りながら、右足を飛ばして大沢の胸を蹴つた。はずみを喰つた膳や徳利は、ガラガラ土間に転げ落ちた。倒れかゝつた身体をやつとさゝへて大沢は、

「やつたな野郎ツ」と叫びながら立つた。その時彼の眼に、横の羽目に立てかけてあつた支柱斧が映つた。半月形の刃先きは研ぎ上げたばかりのやうに、薄暗い中に蒼く光つてゐた。大沢は身をひるがへすと斧をとつて振り上げた。

「しやれた真似を」と云つた石井の手にも匕首が閃いてゐた。二人とも烈しく酔つてゐるので、自分ばかり確かり闘つてゐるやうに思つても、可笑しい程ふらついてゐた。二人はめちやめちやに獲物を振り廻した。石井がひよろけるやうに手元にくゞらうとした時、肩先をどしつと切られたが、それと同時に大沢の脇腹に匕首を突き通した。妙な痙攣ひきつるやうな唸り声が二人の口から洩れて、夢中になつてしがみついた二つの顔は見る間に蒼ざめて行つた。どくどく噴き出す血汐は浴衣に滲んで赤く拡がつた。血に狂つた二人の眼には何物も映らなかつた。――小犬のやうにもつれて、熱い大地に転がり出した。

 惨劇は咄嗟の間に行はれた。――その物音に最初に昼寝の夢を破られた男は、真赤な血の塊りの転がるのを見た――慌てゝ外に出ると両手をあげて、

「喧嘩だ――皆出ろよ――」と身をかがめて怒鳴つた――静寂は破られた――飯場や長屋から軒並に素裸の男が飛んで出て、筧のそばで血みどろになつて、かじりついてゐるのを引離したが、眼の昏んだ二人は誰にでも狂犬のやうに飛びかゝつた。野田が大沢を後から抱き止めようとしたが、大きな身体で暴れるので倒れさうになつた。

「誰か手を貸してくれよ」と切なげに言つたので四五人してばたばたする手足を持つて、野田の家へ担ぎ込んだ。血はまだ糸をひくやうに滴つて行つた。石井はもう相手の見境がなくなつてゐた。誰かにしがみ附かうとしたのを邪慳じやけんに突き離されると、どたんと大地に倒れた。

「うーむ」と苦しさうに呻いて手足をもがいた。

 取巻いてゐた坑夫等の眼には惨忍な笑が浮んだ。――その中には女房を弄ばれた者もあつた。彼に怒罵されたり擲られて恨を忍んでゐた者もあつた。けれ共彼の心を知つてる者は一人もなかつた――誰か最初に、

「つらあ見ろ畜生ツ、余り威張りやがつたもんだからいゝざまだツ」と力任せに蹴飛した。せかれてゐた水口を切られたやうに、卑怯な下駄履きの足は怪我人の上に注がれた。反抗の力を失つた者にする復仇は容易たやすかつた。妙な唸り声は直ぐに消えて、手足のもがきも止んで了つた。

 吉田はその日も朝から長屋の下の用度係で、萩田や用度の書記を相手に酒を飲んでゐたが、その時飯場の掘子が慌たゞしく駈けて来た。

「かしら――石井さんが喧嘩して斬られたゞ――」と怒鳴つた。萩田は顔色をかへて盃をはふり出して跣足はだしで飛び出した。吉田も少し遅れてつゞいた。

 二人の姿が遠くに見えると誰かゞ、

「かしらが来た。よせよせ」と云つたのでしやがんで介抱するやうな風をする者もあつた。

 併し石井の死顔は、卑怯な人々の残忍な行為を明らかに物語つてゐた。ずたずたに裂けた浴衣は、血と泥に滲んで赤黒くなつてゐた。肩口のあたりには殊に濃い血が固まつてゐた。顔は目鼻の見分もつかない程でこぼこに紫色に腫れ上つて、ぶつ切れた所に滲んだ血がいやな色どりを見せてゐた。口惜しさうに固く結んだ口の端には汚い血汐がこびりついてゐた。

 萩田はやつと馳けつけて、その恐ろしく浅ましい死態しにざまを見ると鋭い目を光らして、取り巻いてる人々の顔と死骸を見比べた。が誰も知らん顔をしてゐた。吉田は身体をぶるぶる慄はせて、

「誰がこんな真似をしたんだ」と口惜しさうに怒鳴つたが、それに答へる者はなかつた。四辺に滴つた血汐は、焦げつくやうな日の力に乾きかけて薄黒くなつてゐた。

(大正五年一月)