本誌発行の遠因
本誌が発刊満二週年を迎えたこの機会において、私は、ここに何もかもぶちまけてしまいたい。恥も外聞も忘れて、私自身も赤裸々に読者諸君の前に暴露したい。かくすれば、或は読者諸君の同情をかち得る可能性もあると同時に、私自身が、これによって、隠蔽と、それに伴う陰欝なる感情とから救われ得るからである。
事は先ず私が最近信濃毎日の主筆時代に、当時(昭和八年〈1933〉八月)東京において行われた「関東防空大演習を嗤」ったのに始まる。私は今二・二六事件以来、一般国民が的確に軍部の横暴を知り、これと同時に粛軍の必要が軍部自身によって力説されつつあるこの時において、これを回顧するほど好い機会はないと思うが、煩を厭わずに、その全文(『信濃毎日新聞』昭和八年八月一一日論説)をここに掲載する。
関東防空大演習を嗤う
防空演習は、曾て大阪においても、行なわれたことがあるけれども、一昨(昭和八年八月)九日から行われつつある関東防空大演習は、その名の如く、東京付近一帯に亘る関東の空において行なわれ、これに参加した航空機の数も非常に多く、実に大規模のものであった。そしてこの演習は、AK(=JOAK 東京放送局)を通して、全国に放送されたから、東京市民は固よりのこと、国民は挙げて、若しもこれが実戦であったならば、その損害の甚大にして、しかもその惨状の言語に絶したことを、予想し、痛感したであろう。というよりもこうした実戦が、将来決してあってはならないこと、又あらしめてはならないことを痛感したであろう。と同時に、私たちは、将来かかる実戦のあり得ないこと、従ってかかる架空的なる演習を行っても、実際には、さほど役立たないだろうことを想像するものである。
将来若し敵機を、帝都の空に迎えて、撃つようなことがあったならば、それこそ、人心阻喪の結果、我は或は、敵に対して和を求むるべく余儀なくされないだろうか。何ぜなら、是の時に当り我機の総動員によって、敵機を迎え撃っても、一切の敵機を射落すこと能わず、その中の二、三のものは、自然に、我機の攻撃を免れて、帝都の上空に来り、爆弾を投下するだろうからである。そしてこの討ち漏らされた敵機の爆弾投下こそは、木造家屋の多い東京市をして、一挙に、焼土たらしめるだろうからである。如何に冷静なれ、沈着なれと言い聞かせても、又平生如何に訓練されていても、まさかの時には、恐怖の本能は如何ともすること能わず、逃げ惑う市民の狼狽目に見るが如く、投下された爆弾が火災を起す以外に、各所に火を失し、そこに阿鼻叫喚の一大修羅場を演じ、関東地方大震災当時と同様の惨状を呈するだろうとも、想像されるからである。しかも、こうした空撃は幾たびも繰り返えされる可能性がある。
だから、敵機を関東の空に、帝都の空に、迎え撃つということは、我軍の敗北そのものである。この危険以前において、我機は、途中これを迎え撃って、これを射落すか、又はこれを撃退しなければならない。戦時通信の、そして無電の、しかく発達したる今日、敵機の襲来は、早くも我軍の探知し得るところだろう。これを探知し得れば、その機を逸せず、我機は途中に、或は日本海岸に、或は太平洋沿岸に、これを迎え撃って、断じて敵機を我領土の上空に出現せしめてはならない。与えられた敵国の機の航路は、既に定まっている。従ってこれに対する防禦も、また既に定められていなければならない。この場合たとい幾つかの航路があるにしても、その航路も略予定されているから、これに対して水をも漏らさぬ防禦方法を講じ、敵機をして、断じて我領土に入らしめてはならない。
こうした作戦計画の下に行なわれるべき防空演習でなければ、如何にそれが大規模のものであり、又如何に屡々それが行なわれても、実戦には、何等の役にも立たないだろう。帝都の上空において、敵機を迎え撃つが如き、作戦計画は、最初からこれを予定するならば滑稽であり、やむを得ずして、これを行うならば、勝敗の運命を決すべき最終の戦争を想定するものであらねばならない。壮観は壮観なりと雖も、要するにそれは一つのパペット・ショーに過ぎない。特にそれが夜襲であるならば、消燈しこれに備うるが如きは、却って、人をして狼狽せしむるのみである。科学の進歩は、これを滑稽化せねばやまないだろう。何ぜなら、今日の科学は、機の翔空速度と風向と風速とを計算し、如何なる方向に向って出発すれば、幾時間にして、如何なる緯度の上空に達し得るかを精知し得るが故に、ロボットがこれを操縦していても、予定の空点において寧ろ精確に爆弾を投下し得るだろうからである。この場合、徒らに消燈して、却って市民の狼狽を増大するが如きは滑稽でなくて何であろう。
特に、曾ても私たちが、本紙「夢の国」欄において紹介したるが如く、近代的科学の驚異は、赤外線をも戦争に利用しなければやまないだろう。この赤外線を利用すれば、如何に暗きところに、又如何なるところに隠れていようとも、明に敵軍隊の所在地を知り得るが故に、これを撃破することは容易であるだろう。こうした観点からも、市民の、市街の消燈は、完全に一の滑稽である。要するに、航空戦は、ヨーロッパ戦争において、ツェペリンのロンドン空撃が示した如く、空撃したものの勝利であり、空撃されたものの負である。だから、この空撃に先だって、これを撃退すること、これが防空戦の第一義でなくてはならない。 (『信浪毎日新聞』昭和八年八月一一日)
この論文が、新聞紙法にいうところの秩序紊乱でないのは、固より論を俟たぬところであるが、余程当時の軍部の癪に障ったものと見え、彼等は非合法的に、私自身というよりも、私の勤務している信濃毎日新聞に対して、生命的なる圧迫を加え来った。私自身は直接に耳にしなかったけれども、同社の責任あるものの言によれば、その細胞たる長野県の郷軍同志会は連隊区司令官の指導の下に、各支部を糾合して、同紙のボイコットを決議したのみならず、その他、新聞社を焼打せんなどの流言蜚語を放たしめたる上、或日、彼等の代表者七名が勢揃いして同社の小坂常務を訪問した。この小坂常務の談によれば、しばらく社長室において氏を待ち受けていた彼等は、氏が、この室に入ると同時に、一斉に起立して挙手の礼を行った。五・一五事件直後の出来事であったから、氏の驚いたのも無理はなかったであろう。そして彼等は一の決議書を氏に突きつけて、同新聞の主筆たる私に対する処分を氏に迫ったのであった。私は今この決議文は所持しないから、ここに掲ぐることはできないが、後に瞥見したところの記憶によると、右論文の趣旨は空疎なる上に、苟も陛下の令旨により「重要」と保障されたところのものを非議するは「不臣」の極であるから、信濃毎日新聞はそれを非議した私を処分すべしというのであった。そして彼等は、これに付加えて、然らざれば、貴族院議員たる同社の社長小坂順造氏にも自然累を及ぼすべしと言ったそうである。暴力団に類する非合法的の強迫であって、私は、これに対して争うべく多くの理由を持つと同時に、また決死の勇気をも持っていたがこの間の経過は、ここに細叙するの余白なきが故に略するが……一に累を恩ある新聞社に及ぼすことを虞れて、退社の辞を新聞紙上に掲載することもなく、みずから責を引いて同社を退社して、同年十二月孤影悄然として名古屋に帰臥したのであった。
この場合、彼等は何が故に、私その者を責めないで、間接に新聞社にあたったのであるか、これにも深き仔細はあるけれども、これもここには細叙する余白なきのみならず、また、これを叙述する機会でもないから略するが、当時、私がこれによって与えられた教訓は、彼等と戦うには組織ある力を以てすることが不可能であり、結局、単独の力を以てしなければならないということであった。何ぜなら、組織ある力を以て、これと戦えば彼等は必ずそのヴァイタル・シートに向って攻撃を加え来るからである。直接に私自身に害を及ぼさないで、間接に人を害する結果を見、この結果は私自身の性質上堪え能わないところだからである。この事は『他山の石』発行後、拙宅を訪問した名古屋憲兵隊の特高課の諸君にも一言したところである。私が独力を以て、本誌を発行するに至った遠因は、一にここにあるのだと、今当時を追懐して、これを想起する。
本誌発行の近因
かくして私は名古屋市に帰臥し、約一年は無為にして暮らした。否、無為にして暮らすべく余儀なくされたのであった。何ぜなら、私自身は尚当年慷慨の志を存しているけれども、世間がこれを承知しなかったからである。私は往年大阪毎日、大阪朝日両社に厄介になったことであるから、厄介序に、名古屋にいて、名古屋におけるいずれかの社の支局に編集顧問として採用され、これによって私の生活を保障する傍「当年慷慨の志」を再現せんことを両社の幹部に申込んだが、両社とも私が厄介になっていた当時の事情と、今日の両社の事情は全く異っているから、採用し難しと拒絶されたのであった。
ここに至って、私は、窮地に陥った。進むことも退くこともできなくなった。特に一大家族の累を背負いながら、進むことの全然不可能なことに想い及んだときには、実際身も世もあらぬ悲しみに泣かざるを得なかった。この時のことであった。私は今その名を逸したけれども、誰かの詩に「孤軍奮闘囲を潰えて帰る。一百里程塁壁の間。我剣は折れ我馬は倒る。秋風屍を埋むる故郷の山」というのがある。これが私自身の生活その物を詠じたものであると思った。静に過去を回想するとき私は実際如何なる場合においても、孤軍奮闘した。単独に戦って来た。そして今や我剣は折れ、我馬は倒れた。かくして秋風屍を名古屋の何処かの山に埋めねばならないのかとも思った。
だが、私の元気はなお消磨し尽してはいない。当年慷慨の志は尚存している。私は何処々々までもそして死に至るまでも、孤軍奮闘すべきである。それが私の運命であると、蹶然起って着手したのが、即ち、この『他山の石』の発行であったのである。然るに、幸にも、私の運命にふさわしからぬ、予想外なる、多数の援軍、即ち維持会員、普通会員及び読者を得て、今日まで奇蹟的に、これを維持し来った。窮すれば通ずるが世の習とはいいながら、この点に想い及ぶときは、毎に感謝の念が沸く。
と同時に、本誌は殆ど毎号行政処分に付されている。だが、これがために損害を被むるものは、私一人のみであって、他に損害を及ぼさない。そして私が軍部に圧迫されて信濃毎日を退社すべく余儀なくされた当時に与えられた教訓は、今、全くここに実現されつつある。ここに想い及ぶとき、はかないながらも、淡いながらも、私は一種愉快の念を禁じ得ないのである。と同時に、その筋が本誌を殆ど毎号差押えているけれども、その差押えは好意的であって、悪意的ではなく、そこに明なる手加減が示唆されていることに、これまた大なる感謝の意を表せずにはいられない。ここに謹んでこれを付記する。
言いたい事と言わねばならない事と
人動もすれば、私を以て、言いたいことを言うから、結局、幸福だとする。だが、私は、この場合、言いたい事と、言わねばならない事とを区別しなければならないと思う。
私は言いたいことを言っているのではない。徒に言いたいことを言って、快を貪っているのではない。言わねばならないことを、国民として、特に、この非常に際して、しかも国家の将来に対して、真正なる愛国者の一人として、同時に人類として言わねばならないことを言っているのだ。
言いたいことを、出放題に言っていれば、愉快に相違ない。だが、言わねばならないことを言うのは、愉快ではなくて、苦痛である。何ぜなら、言いたいことを言うのは、権利の行使であるに反して、言わねばならないことを言うのは、義務の履行だからである。もっとも義務を履行したという自意識は愉快であるに相違ないが、この愉快は消極的の愉快であって、普通の愉快さではない。
しかも、この義務の履行は、多くの場合、犠牲を伴う。少くとも、損害を招く。現に私は防空演習について言わねばならないことを言って、軍部のために、私の生活権を奪われた。私は又、往年新愛知新聞に拠って、いうところの檜山事件に関して、言わねばならないことを言ったために、司法当局から幾度となく起訴されて、体刑をまで論告された。これは決して愉快ではなくて、苦痛だ。少くとも不快だった。
私が防空演習について、言わねばならないことを言ったという証拠は、海軍々人がこれを裏書している。海軍々人は、その当時においてすら、地方の講演会、現に長野県の或地方の講演会において、私と同様の意見を発表している。何ぜなら、陸軍の防空演習は、海軍の飛行機を無視しているからだ。敵の飛行機をして帝都の上空に出現せしむるのは、海軍の飛行機が無力なることを示唆するものだからである。
防空演習を非議したために、私が軍部から生活権を奪われたのは、単に、この非議ばかりが原因ではなかったろう。私は信濃毎日において、度々軍人を恐れざる政治家出でよと言い、又、五・一五事件及び大阪のゴーストップ事件に関しても、立憲治下の国民として言わねばならないことを言ったために、重ね重ね彼等の怒を買ったためであろう。安全第一主義で暮らす現代人には、余計のことではあるけれども、立憲治下の国民としては、私の言ったことは、言いたいことではなくて、言わねばならないことであった。そして、これがために、私は終に、私の生活権を奪われたのであった。決して愉快なこと、幸福なことではない。
私は二・二六事件の如き不祥事件を見ざらんとするため、予め軍部に対して、また政府当局に対して国民として言わねばならないことを言って来た。私は、これがために大損害を被った。だが、結局二・二六事件を見るに至って、今や寺内陸相によって厳格なる粛軍が保障さるるに至ったのは、不幸中の幸福であった。と同時に、この私が、はかないながらも、淡いながらも、ここに消極的の愉快を感じ得るに至ったのも、私自身の一幸福である。私は決して言いたいことを言っているのではなくて、言わねばならない事を言っていたのだ。また言っているのである。
最後に、二・二六事件以来、国民の気分、少くとも議会の空気は、その反動として如何にも明朗になって来た。そして議員も今や安んじて――尚戒厳令下にありながら――その言わねばならないことを言い得るようになった。斎藤隆夫氏の質問演説はその言わねばならないことを言った好適例である。だが、貴族院における津村氏の質問(五月一四日、津村重舎は、貴族院で「将校侮辱演説」を行ない、初の懲罰委員会に付され一五日辞職)に至っては言わねばならないことの範囲を越えて、言いたい事を言ったこととなっている。相沢中佐が人を殺して任地に赴任するのを怪しからぬというまでは、言わねばならないことであるけれども、下士兵卒は忠誠だが、将校は忠誠でないというに至っては、言いたい事を言ったこととなる。
言いたい事と、言わねばならない事とは厳に区別すべきである。
(『他山の石』第三年第一一号 昭和一一年六月五日)