米搗くがあまりのろしと吾が父は俵編みゐて怒るなりけり (山麓)
ひた赤し落ちて行く日はひた赤し代掻馬は首ふりすすむ
ぐんぐんと田打をしたれこめかみは非常に早く動きけるかも
入りつ日に尻をならべて百姓ら田なかの土を掘りやまずけり
梅雨病の頭に灸を据ゑなむと桑の香のする村行きにけり
今夜こそ夜のありたけを眠らめとねむりこがるる蚕飼づかれに
田草とる田面に無量の白玉跳ねて真夏の雨にわが蓑ぬれぬ
金色の粉飛ぶごとき夕暮をわが魂は好めるらしも
今日もまたひどき吹雪となりにけり米搗場の穴に眼あてて見れば
今夜こそ水盗まむと忍び来しはるけきかもよ山焼くる火は
百姓のわれにしあれば吾よりも働く妻をわれはもちたり
蔵王は朝吐きたる白雲に己かくれていまは見えずも
ひむがしの蔵王山にかたまれる夕焼雲は動かざりけり
あかがりに露霜しみて痛めども妻と稲刈れば心たのしも
この雨に病みつつも思ふ父母の刈る田の稲は伏しみだるらむ
先生に会ひに行くなれば足乳根は絹の着物を着せにけるかも
あかときと夜鴉啼けど吾妹子は吾が腕をまきて眠りたるかも
龕灯を水口ちかくひき寄せて田に入る水をうれしみにけり
畑なか妻がくれたる青胡瓜肥料くさき手に持ちて食ふかも
繭売りて得たる金かも身につけて寝たる心なににたとへむ
山腹に凝りて動かぬ白雲を足蹴に蹴りて登りゆくかも
家並べて蛹乾したる山村に夕さり来りひぐらし鳴けり
工女にゆきし娘かへりて隣家の屋根は新たに葺かれけるかも
遠空に雷とどろけり玉蜀黍の垂葉動かず蝿つるみをり
笹原に時雨のあめの音さびし山深く来て飯を食し居り
旅行くと振り返りみれば吾が家の垂氷の下に妻立ちて居り
病む父の足を揉みつつ己が身の生く先おもへばひたに寂しも
蚕を上簇て酒を飲みたり久々に安き眠を今夜吾がする
五月雨の日に日に降りて田草除る着替も今日はなくなりにけり
この夕べ心いらだたしふり向きてほほづき鳴らす妻を叱れり
唐臼の腕木の上に燭立てて書物読みつつ米搗く吾は
尊さよ稲の葉先におのづから水玉のぼり日は暮れにけり
雨乞のはててしづまる夜の森に天の河ひくくかたむきにけり
稲を植ゑをる吾を目がけてひらひらと蛭泳ぎ来も田の面の光
蓑の上の書物盗まれてくやしもよ往来の人を思ひゐるしばし
雨はれてあかるくゆるる柿若葉この街道の塵しづまれり
まづしさをよしと思ひて生きなむか今日も田に出でて落穂を拾ふ
吾家の米を運びに来る馬の鈴の音なりて黄昏にけり
蚕を上簇ていとまもあらず稲刈りぬ一日一日と秋の忙しさ
稲の葉のひとつ蛍よ田のみづに影うつりつつ一夜ひかれり
磐城のやまに朝夕たつけむり炭焼く秋となりにけるかも
繭ぐるま妻とし挽けばおのづから睦むこころのわきにけるかな
氷はる冬田の隅に息たちて泉わくべの芹の青さよ
雲に触れしとどに濡れてゐたりけりこの暁の杉の群立
繭を売り米をつくれど生業をたつるすべさへなかりけるかも
箸を持つ手もかじかみて飯台に漬菜のなかの氷噛みたり (すだま)
米磨水を鍋にぬくめて囲炉裏べにあかがり洗ふうからかなしも
おのおのは歯茎ならしてもの言へり朝餉をなして山の寒さに
奥山に暁の光はさしそめてつゆじもふりし苔を踏むなり
高原にわが手折り持つ竜胆の露けき花に蜂こもりをり
岩鼻の椿危く折りたるを実朝の墓に手向け来にけり
あかつきの暗き御堂に咳いりて講義したまふ聖のごとく
栗の毬の青きが落ちし裏庭をいがをぬらして雨はふりをり
荒れたりし今日の山とも思ほえず谷間にしづむあかき夕雲
険しき山を炭負ひくだるをみならが幼児つれてゐたるあはれさ
風なぎしゆふべの山に這松は霧のしづくをおとしやまざり
まなかひに霧はれゆけば現はれし名号峯を鷹は飛びゆく
軒につきて雪のつもれる高窓に橇を曳きゆく人の足みゆ
雪のうへに顔おしつけし童らの面型ならぶ山峡のみち
窓あけてあかき月かげさす夜半に蚊屋にすがりて馬追鳴けり
病み臥るわが枕べをとびめぐりやんまは雨降る庭にそれたり
わが病の薬に友らがたびしもの岩ふき糸瓜西瓜向日葵のたね
犬飼君の棺とともに焼かれたる歌集赤光山麓あはれ
谷あひをラッセルしつつゆくわれのスキーの先を兎走れり
電灯のひかりふけたる夜の窓に蝶を銜へし守宮這ひをり
山風がはげしく入り来る奥院に老僧をりて仏具を磨く
薇はわたを被りて萌えにけりぜんまいをみればこころうれしも
風邪癒えて働くときに右の手が痺れて今日も薬湯を浴ぶ
覇気なくなりし己おもへばかりそめの病のゆゑとばかり言はれず
雑木の葉硬くなりたる山のうへを軽々と飛ぶ雲はかがやく
荷を負ひて雨ふる山を下りゆく馬の尻より気しろくたつ
現身の茂吉先生を山のみねに残し来しごと歌碑はかなしも
稲刈りてひろき田の面に日曜は子ら集りてネッキ打ちあそぶ
鞆の浦の明るき海に船を漕ぎともにゑらぎしは昨日のごとし
貧しさはきはまりつひに歳ごろの娘ことごとく売られし村あり
南瓜ばかり食ふ村人の面わみれば黄疸のごとく黄色になりぬ
若者ら糧なき村を出でゆきて消防組が解散をしぬ
冬枯れし山の低きを黒き牛しづかにゆくはさびしかりけり
心臓のおもぐるしくてめざめたるあしたの床に命いとほし
ひむがしに海ひらけたる国ゆきて青山にたつ虹あはれなり
海のなか小さき島の岩窪にたまれる水に生れし孑孑 (群峰)
わが村ゆ売られ売られて能登海の宇出津港に酌する娘はも
湖を音たててゆく雨あしに白鷹山はすでにかくろふ
渚べにわける清水にうかしたるトマトが冷えて底にしづみぬ
血圧のことを書きたる書買ひて夜ごとに読みぬさびしみにつつ
炭背負ひハモニカを吹く少年が草もみぢせる峠越えゆく
橅の木に生ふる菌を照らしたる月甲子山におちゆかむとす
峠ちかき棚田の稲は青だちて刈る人なしに雪かむりけり
雪ふかき産屋ひそけく昼ねむる面輪まどかにおもほゆるかも
腎病みて酒をのまねばあはあはとここ一年はすぎしごとしも
谷風が山の雑木の葉をかへしひかりかなしといはざらめやも
湯気こもる手術室にあはれにも片足になりて吾子生きてをり
次男勝也が足切断りてより吾も妻も夢におびえて夜ごとくるしむ
少年のわれ筵を織りて購ひし樗牛全集読むこともなし
山寺駅の構内に積みし鉄材に薬草あまたならべ干したり
雨降りて小田を休める囲炉裏べに梁の煤おちてくづれず
雲海を目下にしつつあそびをり花のあひだの高原の水
ひと伸しに出羽の国原おほひたる雲海に照りて月かたぶきぬ
わが妻が厨の水に浸したる切花に青き麦の穂もあり
寒き夜の明ちかきまでアララギの選歌つづくる鼻血たりつつ (まほら)
徹夜する寒さしのぐと蜂蜜をあたためのみぬ茨がにほふ
稲杙の並ぶ野を越え水上の三沢山すでに紅葉せるみゆ
書聖梧竹の写真を壁にあふぎつつわが懈怠を戒めをれり
製本をくりかへしつつ手放さぬ辞典ちぎれて使へずなりぬ
中空を雪音たてて吹きすさぶ片照る空にあこがるるかも
夕空は黄に冴えかへり流れ来る須川の瀬々に霧たちわたる
はしき嬬とたのしく生くる人をみて羨しむときにわれ老いむとす
つきつめて生きたかりけむうら若き汝が魂はいづちゆくらむ
憤りよろこびもちて帰へれども仰臥し迎ふ汝のあらなく
悲しみに吾拉がれてをる時し大き喜に会ひたまひける
北国の五月あかるく少年の日の戻るごとき山梨のはな
鳥海山は海のなかまで裾をひきさはるものなくそびえたまへる
北の空秋田あがたに鳴る雷が鳥海の峯にひびきくるかも
鳥海山のお花畠をたもとほりもしか亡き子に会ふかと思ふ
雪渓をみなもとにしてくる川が高原のうへを平にゆくも
雪渓に湧きたつ雲にかくれつつ先行く友が歌声きこゆ
ただならぬ国のあゆみをおもふとき夜更くるへやに眼うごかず
わが妻を愛しみにくみかくしつつしづかなる老に入り難きかも
雲に雲がかげをおとしてうごきゆくつらなる山のさかんなる青
このあしたいただく飯に涙おつ父の額の汗こりし米
わが風邪の熱おとろへてやすき夜を若葉にそそぐ春の逝く雨
夢なかに老いたる妻を窘めし今朝の目ざめのわびしかりけり
西瓜きりて掛けたるごとき赤き月が旱つづきの西空におつ
東は銅いろに朝焼けて嵐のあとの稲木をおこす
黒百合は頂ちかく咲きむれて天つひかりに雲雀あがれり
三千年かつてなかりし苦しさをたへゆく強き民となりたり
置賜は国のまほろば菜種咲き若葉茂りて雪山もみゆ
愛情のことなど語りいましがたをりける吾等月の下ゆく
熔岩のけはしき山に汗はおち息づくときを雲走る音
雪におされし木々跳ねかへる音ひびく大峡小峡なべて春立つ
雪の夜はけおさるるごとくしづかなりいでいるわれの息のみきこゆ
山村はおもはぬところに家ありて青葉のなかに嬰児泣くこゑ (おきなぐさ)
水晶を立てしに似たる雁戸山の高嶺の雪がゆふぐれむとす
雨ふりて埃やうやくしづまりし月夜の森に青葉木菟啼く
白木綿をちぎりしごとき浪花が時化空をとびて磯山を越ゆ
愛情はいよいよふかく狭くなり妻の外出を拒まばいかに
かがまりて橅林の尾根のぼるとき鋭くみじかし赤啄木鳥のこゑ
以東嶽のけはしき崖を水は落つ出谷川となる源ならむ
出づる日やはるか奥羽山脈にすれずれに太平洋にひかりひろがる
太平洋に日は昇りつつ朝日嶽の大き影日本海のうへにさだまる
以東岳の雪渓の水あつまりて滝は孤独のひびきあげをり
わが死なば骨を粉にして以東嶽お花畑の風にし飛ばせ
以東嶽たたまる尾根の昏れしのちも天のあかりに雪渓がみゆ
湖のあらぶる波につなぎたる舟の舳に蛍火ひとつ
尾根越ゆる濃霧に立てば太陽が東より照り白虹立てり
朝の日は大日嶽牛首峰に直射して暗き実沢に鳥が音おこる
雪渓が三段に断れて脱落し空洞のなかを気体走れり
人間を拒みちかづけぬ牛首山ぎりぎりのときにわれはゆくべし
八月十四日の太陽越後にかたむきてチングルマの花みな西を向く
茫々と風吹く月の照る峰に一人息づくわがいのちなり
谷の上の尾根を幾時わたりゐていくらもうごかぬ烏帽子嶽の位置
雷の谷に落ちたる響して雪渓陥没にわれの気圧さる
雲うごき弁天沼の藍暗くなり木原暗くなり吾妻山暗し
二十二歳の田舎青年われ入門し五十九歳にて歩行さだまる
「貴方の顔はもつと黒かつた」二十年前をいふ君の顔は柔和に黒い
幸福は瞬間でよし蒲公英の冠毛が五月の庭を飛びゆく
山行くは楽しからずや高山の青雲恋ひて今日も山ゆく
皿伏山に湧ける夏雲一押しに尾瀬沼うづめ燧嶽を蔽ふ
ワタスゲの冠毛が飛び来て水に浮き湿原に梅雨ばれの光あまねし
日本は東海に張られし一本の弦平和の楽を高く奏でよ
太陽が地平のはてに沈むごとく茂吉先生逝きたまひける
温き両手ねんごろに摩りあげむと急ぎ来にしにみまかりたまふ
鼻口出血が断続しつつ二週間目に全く止りてわれは生きたり
先生のあとにつづかば火も水もくぐらむものと覚悟し生き来
峡ふかきかたむく棚田に田下駄穿き頬冠る農婦のろく稲刈る
わが恋ふる人住む峡の夕茜せつなくなりて丘下りたり
西南の師走夕空黄に焼けてとりとめなけれひとと別れ来
水上の橋に屈みて面映せその水汲まむわれ川下に
谷川に山かげおちて夕づけば突きし鰍さげて子はかへり来る
清遊が遊興になる過程をばまざまざと見て座を立ちてきぬ
国原はここに展けておほらけく天の八隅に高山がみゆ
花ならば萎まぬままに散りたしとわが生臭き念願ひとつ (樹蔭山房)
きみの背の黒子は愛しき星なれば夜ふけ近寄るせつなきまでに
大寒は我が体の異変期にて今年は眼に充血し歯を二本抜きぬ
二つ海龍飛崎の沖に交れど溶け合はずけりその潮色も (津軽行)
残雪が白く斑にひかる橅林に午前五時ごろ啄木鳥が飛ぶ
海と川活動し合ひて成りし砂嘴湛ふる十三湖に蜆多く棲む
吾妻山の残雪にあかき夕映が藍色に暈けて暮れしづみたり (樹蔭山房)
高田君はみまかりしかと独り言ち昨日も今日も涙ぐみをり
蔵王山まともに仰ぐ家に住み七十年を気強く生きつ
生きるよろこびしみじみおもふ冬空が黄に夕焼けてうつくしければ
少年の日がそこにここに在るおもひ雪消えし田圃に春雨が降る
いましがた熟柿がおちて潰れたる木の下の雪ふりかへりゆく
正しき事には捨身に当ると覚悟決め力ありたけ生きなむ吾は
天が最も公平に分配する時間を貴重に生きむわれと決めたり
瞑想のまとまらぬまま床なかに眼つむりて咳ひとつせず
黙し立つ茂吉先生におづおづとわれの近寄る明方の夢
透明度きはまりのなき支笏湖にわが七十余年の精神を洗ふ (道東紀行)
波さわぐ朝の湖が雲海の起伏するさまにこもる大きさ
深谷の河床に並ぶ石々にふりたる雪が幾日消えざり (樹蔭山房)
左手がにはかに痔れ目がくらみ生命束の間の七月三十一日
朝夕の脱糞放尿と食事するこの大儀さや生きるは苦し
全身の毛が総立ちてそよぐごとき痛き注射をわれ日毎打つ
九死に一生を得て生きる日々雲の去来も他人ごとならず
ひどく苦しきときは神に低頭し助け乞ふ己が老境さげすまなくに
冬時雨たちまち晴れて西日照る机の前にしばしまどろむ (樹蔭山房以後)
わが孤独救ふはいつも山のみか神室の峰に今朝もかたれり
山々は皆常若く聳ゆれど落つる夕日のわが孤独感
善麿の生活基盤に立脚し茂吉の実相観入実行したる作歌まさに六十年
人間は無より生れて無に還る平安無限無限平安