冬の海
現代風な建物が続く街に
古くて黒いどっしりとした家がある
いつも通い続けた道なのに
何年か過ぎたある日 ふと見つけた
いつからか
私のなかに落ち込んでしまった家
家のとなりに
タバコ屋があって
飲みものの自動販売機が
家の前まで何台も置かれている
昔式の格子戸の玄関が
いつも閉まっている家に
誰が住んでいるのか知りはしない
ある時 私は思った
――あの家の裏には
大きな青い海が波寄せている
と
雨の降る日も
疲れきって酒を飲んだ日も
きまって家の前に立ち止まって
きらめく海を見た
いつでも波の音が聞こえて
海が輝いている
現代風な建物の続く街
だが黒い家のある風景には
どこにも人影がない
般若の声
藁葺屋根から
夏草が大きくのびている
炎天下に
農家はいつも小さく
沈んでひっそりとしていた
農家の座敷は
薪の煤で薄汚れているだろうか
もう忘れてしまった火の記憶が
けむっているだろうか
暗くけむった座敷には
般若の面がよく映る
いつもじめじめとして
長く虐げられた人々の歴史が
そうさせたのだろう
だが私は確かにそこで
とある声を聞いた記憶がある
素朴でよく働き続けた女の顔が
いつの日か般若になったという
始めて仮面を刻んだ人の心は
夏の真昼の農家の空のように
静かに澄んでいただろうか
それとも
人間の苦しみが般若の仮面を刻んだのだろうか
すべての魔除けとして
柱にかけられている
生家を離れて遠く
今でも私の心のなかに
般若の声が聞こえ続けている
島根県石見地方の神楽面より
土星の環
太陽が今日も美しい真昼 大銀河の谷底深く 青空に星
が輝いていることを誰も知りはしないだろう 地球のは
るか遠く十二億七千八百四十万キロメートル 土星は輝
いている 土星の環が金色に見える時 私は思う もし
かすると それは何者かが存在した証しなのかも知れな
いと だがだれに語ろう この太陽系の歴史を 二十世
紀の始め土星には悲しい季節があった まったく自然に
宇宙的な自然のもとで そして新しい季節がやって来た
私が生まれた時と同じように 私も歴史をくり返す季節
になった 今年も山桃が実る季節だ 遠くたわわに実を
つけているだろうか 山陰の小さな細谷村に山桃の木と
紫陽花に囲まれて私の家の墓地がある 子供の頃 よく
父と山桃を取りに行ったものだ 紫陽花はいつも空の青
い色に咲いていた 私はいつも大きな山桃の木の下で父
が落とす山桃を待っていた 私はいつまでも待ち続けて
いた 紅く黒く紫色の実の養分は何なのだろう 父の父
も父の母もここで死んでいる 父も父の父もあの少しだ
けすっぱい実を食べながら育ったのだろう 紫陽花の花
のむこう 山桃の大木が私の家の家系をのみこんだまま
大地を握りしめて立っている 新しくくり返す私の歴史
の中で 山桃の季節について再び語ることができるだろ
うか いつしか私の体内で輝くものがある 朱いものが
脈打ちながら流れ 土星の金環を私のとある意識が飲み
こんだ時 私は遠く澄みきった太陽を見た 輝いている
そのむこう青空の中でもけっして消えはしない星が輝い
ている 自分の美しさを土星は知らないだろう 私は思
う あの美しさは何者かが存在した証なのだと だが土
星は二十世紀のはじめ十番目の衛星であったデミスを行
方不明にしてしまった 明確な存在の記憶を残したまま
水の硬度(1)
朝顔の花がはじめて咲いた次の日
少女は約束をしていた朝顔をひとつ摘んだ
――五つ咲いたらひとつあげよう
朝顔を手のひらにふくらませて
ラッパを吹くという
その中から美しい鯉の生まれるはなしを
思いついたのは私
買いものに行って
小さな緋鯉を買ってきた
「まとめていくら」の可哀想な生き物だが
やがて大きくなるかもしれない
少女に数えきれないほど咲いた朝顔が
そのまましぼんでしまった頃
一匹一匹鯉も弱っていた
翌朝咲くであろう朝顔が
しだいに大きくふくらんでいる
まだ咲いていない朝顔をひとつ摘んでみる
一匹そして一匹
鯉が死んだ
一瞬 花が金属の色をはなつ
ふとそのむこう
花をしぼませる空気の硬さを想う
水の硬度(2)
ゆらゆらと美しいかたちを
ひきずりながら生きている金魚がいる
美しいかたちを
いかにも重そうにゆらしながら
そこに小さな流れをつくる
重さをどこかに忘れてしまいたいような
そんな悲しい記憶はないか
小さな流れの底のあたり
もっともっと小さな沈殿物が
夏の夜の花火のように浮きあがる
ふと気付くと
美しいかたちを喪失していることがある
どこかの少しだけ休んだ木陰のあたりに
美しさを落としたのだろうか
オグサレ病というおそろしい病がある
突然 美しさがすっかり溶けてしまうのだ
かつて尾ではない美しいかたちが
ゆらゆらと人間のまわりで揺れていたのに
オグサレ病にかかったように
人間から尾がなくなって
美しいかたちまでもなくなってしまった
私の目の前で
金魚の美しいかたちが
ひとつのみにくいトルソーになって
まだ生がくっついている
遠い音楽
旅の途上
私の近くで電話のベルが鳴ることはない
ただ私が遠く電話を鳴らすだけだ
わずかなやさしさが奏でる音楽のように
あるいはまた
単なるひとつの電気信号として
旅先の南国から私の家の電話を鳴らす
聞き覚えのある音がする
妻がいる子供がいる
私は台風の過ぎ去ったあとのように爽やかになる
古里にひとり住んでいる老母のもと
電話を鳴らす
時差を気にしながら
やっとのことで日本時間に合わせたのに
人のいないところで
電話は音楽のように鳴る
すこし時間をあけて再度鳴らす
記憶の中にはっきりとある家の中の空間が
しだいに電話の音でいっぱいになる
私は荒れ狂う台風のように不安になる
何日かして
電話を鳴らす
音楽は鳴らない
母がいる
――蒸し暑いという
――ものすごく暑いと答える
数日前私の上を通った台風が
今 日本に接近している
爽やかな青空が見える
すこしくらいおくれても
時計を買いすぎてしまって
小さな部屋のなかまでも
せわしなく秒針が動く
時間を買いすぎてしまった
現代の人々が背負い込んでしまった
早い時の流れが
余裕をなくし
貧しさを太らせている
あなたの足が不自由なぶんだけ
ゆっくりと歩けばいい
おくれることが落後者のような
誤った教育と社会のなかで
あなたはゆっくりと歩けばいい
ゆっくりと生きればいい
あなたにはあなたの特性があるように
あなたの身体のなかにある時間で
ゆっくりと頑張ればいい
木々の花だって
季節をまちがえる時代に
少しくらいおくれた花が咲いても
かえってそれは
美しいかもしれない
人生の途上にて(5)
ゆりのき
若葉のあいだにチューリップのような花を幻想的に開花
する 花をつけていることにほとんど気付かないくらい
色合いがひっそりとしている この花の下を通りすぎる
と 異世界に出る 陽光のまばゆい 風景の輝く世界だ
全てのものが輝いている 様々な生物達が言葉を交わし
ているかのように見えて風景は落ち着いている 存在の
重みが着実なものになっている うすいみどりいろにき
いろが混ざった花が咲いている たぶん何十年も何百年
も生きられる木なのだろう どこかの大地では高さ五十
メートル六十メートルもの大きな仲間がいるらしい 異
世界をその向うにかくしたままで私は吸い込まれて行く
「詩絵・花」
金木犀
秋まつりの太鼓の音が響きはじめると その音を吸収し
て少しずつつぼみをふくらませる 花が咲いて豊かな香
りを放つと祭りが終わる 黄色い花弁がかたまりとなっ
て積もる 私が右肺上葉を切除して目覚めた翌朝 病室
で香っていた美しい記憶だ 時間の流れ続けるなかで幾
度となく花が咲いた 豊かに香った 花弁は散り落ちて
積もって消えた 祭りの余韻が風景を黄色に染める中秋
「詩絵・花」
春
風が
逃げる
ふりむいて
逃げる
走っておっかけると
子供のように
季節が笑う
ふりむいて
風が逃げる
時代の書物
あさがおのつるが伸びる
短い棒では少し不足しているように思えて
さらに棒を添えてみる
おどろくほど伸びて
棒にまとわりつく
頼れるものを
やさしく差し出すのは
年長者や
理性的な生物の
常識に思えるが
そのようにはなっていない
やさしく
私のもとへ
暖かい手を差し伸べて戴いても
率直に受け取れない
そんな悲しさを教わっていると
もう暖かい手を差し出してくれる人も
すっかりいなくなったのだと
現代人の悲哀が
時代の書物に記されている