我は如何にして小説家となりしか

 自分が小説家であるか、無いかゞ先づ第一の問題です、世間が自分を小説家であると、めて居るならそれも致し方がありません、喧嘩にも成りません、元来自分は小説を書いて其で一身をたてやうなどとは、少年の時も青年の時代も夢にも思つた事が無いので、其で小説家とし世間がみとめて居るなら、其は自分が取るにもたらぬ、三ツ四ツの短い物語りを書いた結果でありましやう其ならば自分に対する問題の適切なる意義は、「我は如何いかにして二三の小説を書きしや」と、言ふ事に成るだろうと思ひます、そうです「」であるか、「家」で無いかは問題のほかと致しまして、兎も角も「如何にして二三の物語りを書きしか、しかして、世間から小説家であるとみとめらるゝ男と成りしか、」といふ問でこたへる事に致しましやう。

 全体自分は、功名心が猛烈な少年で在りまして、少年の時は賢相名将とも成り、名を千歳せんざいに残すといふのが一心で、ナポレオン、豊太閤ほうたいかうの如き大人物が自分より以前の世にあつて、後世を圧倒し我々を眼下に見て居るのが、残念でたまらないので半夜はんや密かに、如何にして我れは世界第一の大人たいじんと成るべきやと言ふ問題に触着ぶつかつてぼろぼろ涙をこぼした事さへ有るのです、けれども今から思ふと世間の少年は十の八九、皆かくの如き取りとめのない、馬鹿馬鹿しい、比較根性から出た妄想で、つまりは、坊の蜜柑みかんの方が小さいとか、大きいとか言つて泣いたり、わめいたりする動物ていの発作に、すぎないのでありましやうが何んでもかんでも兎も角も、其の発作で心を動かして居たのですから、物語を作つて一生を送るなど言ふ、事は夢にも思はず、思はないばかりではなくむしろ男子の恥辱と迄、思つただらうと思ひます(実際、其処まで思つたか思はないかすら、記憶にないのです)、つまり文章家、小説家など言ふものは、絶対に眼中に無かつたのです、処が、自分の精神上に一大革命が起りました、即はち、人性じんせいの問題に触着ぶつかつたので有ります、いはゆる「我は何処いづこより来りし、」「我は何処に行く」「我とは何んぞや、(What am I?)」との問題にふれたので有ります、それで如何にしてかゝる問題に触たかと言ふ事は、此処で申上る場合では有りませんから止しますが、何しろ結果は則ち精神上の大革命でありまして、今迄の大望たいまうが、がらり破れて仕舞しまつたのです、ナポレオンも、秀吉もいつかう、えらく無くなつて、了つたので有ります、もし豪いならば其豪いと言ふ意義がまるで違つて来て比較根性から出た意義、功名、利達、の意義に成つて仕舞たので有ります。

 当然自分の対手あひてが以前とまるで異つて来ました。以前は自分と世間とが常に相対して居たのが、今度は自分と此人生、自分と此自然とが相対して来て、自分の心は全たく其方に取られて了ひました。そこで読むものが以前とはちがつて来る、以前は憲法論を読み経済書を読み、グラツドストンの演説集を読み、マコーレーの英国史を読んだ自分は、知らず知らず此等を捨てゝカーライルのサルトルレザルタスを読み、ヲーズヲースの詩集にあこがれ、ゲーテをのぞき見するといふ始末に立到りました。うなると、自分は哲学と宗教との縁を離るゝ事が出来なくなり、基督教にて示されし宇宙観、人生観などが寝ても覚めても自分を或は悩まし或は慰め、それに心を奪はれて実際の事は殆ど手にもつかぬ場合もありましたし、自然、自分は宗教家にならうかと思つた事もありました。

 斯ういふ境遇に陥つた青年は当時、自分ばかりでなく、外に幾人いくらもあります自分の友達のうちにもあります、そして終極たうとうみん如何どうなつたかと申ますと、遂に宗教家になつたものもあり、語学か倫理の教師になつたものもあり、そして文章を書くのが本職になつたものもあり、先づ此の三類みとほりの一に大概は落着て了つたのです。或は未だいづれにも落着ないものもあります。そして自分は文章に縁多き方に来て了つたのです。又た教師をた事もあります。要之つまり、煩悶ばかりして居る訳に行かなくなり、パンを口に入れる道を急ぐ場合となれば、先づ其時分の自分の如き種類の青年は、教師にでもなるか、宗教家を本職とする外には使ひ道がないのでありました。

 処が哲学とか宗教とかを、ひねくつて居ると、自然文藝に縁が付いて来るもので、カーライルの如きも同じ道行みちゆきつひに文学者になつて了ひましたから、自分も我知らず何時いつの間にか、書いて見るやうになつて、従てそれが、身を助ける藝になり、パンを得る唯一の手段となつて了つたのです。

 親父おやぢの脛を噛りながら二十一、二歳まで東京で煩悶をつて居ましたが、それも出来なくなりまして遂に矢野竜渓先生の推薦で先生の郷里、豊後ぶんご佐伯さいきで英語の教師をやつて一年ばかり居ました。此静閑なる一年間に自分は全く自然の愛好者となり、崇拝者となり、ヲーズヲース信者となり、明けても暮ても渓流、山岳、村落、漁村をへめぐり歩き、たにを横ぎる雲におもひせ、森に響く小鳥の声に心を奪はれ、そして同時に、『牛肉と馬鈴薯じやがいも』(自分の書いた小説)の主人公、岡本誠夫をかもとせいふの煩悶と同じ煩悶を続けて居ましたので、其当時です、徳冨蘇峯先生に書状てがみを出して自分は最早もはや、政治には少しも趣味をたなくなつたと言ひ送くりましたら、先生から教訓の意味の返事が来た事がありました、実際、それほどまでに自分の心が現代の問題から離れて了つたのです。そこで一年ばかり教師をて居るうちに、生れついた欝勃うつぼつの念が抑へきれず、遂に又た東京に飛出て来て、入社したでもなく、只だ蘇峯先生の愛顧に附込んで民友社にもぐずり込みました、(もぐずり込むと言へば変ですが、当時の民友社の同人は大概もぐずり込んだので、今日唯今より入社、月給は幾干いくらなどいふ手続きは無いやうでした)、民友社といへば、当時文藝の本場で、『国民之友』は文壇の最高位を占めて居たといつても宜しい位、その社へ自分が入つたのがすなはち自分と文藝との縁を確実にひつけた源因です。その後の自分の経歴は随分波瀾がありましたが、つまり、『国民之友』といふ当時文壇第一の雑誌に随意に書けるといふ特別の事情で、自然筆も達者になる、則ち藝が上達する、従つて面白味も出て来る、遂には此藝のほか、何一ツ飯を喰ふ藝がなくなつて、従て喰へなくなると直ぐ此藝を出して来ました。

 誤解されては困ります。自分は今日まで衣食を得る方法として文章を書いたといふ丈けの事で、則ち自分の実際を申上げたので、『文藝は衣食を得る藝当に過ぎず』などとは夢にも思ひません。文藝それ自身の目的の高尚なる事は承知して居ます。又た自分の作物さくぶつは自分が心真こゝろまことに感得し得たるを正直に書いたもので、それが文藝の光輝を幾分か発揮し得て居るといふ自信及び満足も持て居ます。

 何卒どうか自分も今後益々奮つて我が製作を世に出さうと思つて居ます。し自分が小説家ならば、今後益々小説家の本分を尽さうと思つて居ます。

 たゞ自分は、人生問題に煩悶した当時の我から全く離れて、たゞ文藝の為めに文藝にうづもくありません『人生の研究の結果の報告』といふ覚悟は何処どこまでも持て居たいのです。

 政治ですか。そうです、今は政治も何もかも、皆な面白くなりました。何にでも多少の興味を持ち得るやうになりました。

(明治四十年一月)