渦巻ける烏の群

   

 

「アナタア、ザンパン、ちょうだい。」子供達は青い眼を持っていた。そして、毛のすり切れてしまった破れ外套がいとうにくるまって、頭をえりの中にうずめるようにすくんでいた。娘もいた。少年もいた。靴が破れていた。そこへ、針のような雪がはみこんでいる。

 松木は、防寒靴をはき、ズボンのポケットに両手を突きこんで、炊事場の入口に立っていた。

 風に吹きつけられた雪が、窓硝子まどガラスを押し破りそうに積りかかっていた。谷間の泉からき出る水は、その周囲にてついて、氷の岩が出来ていた。それが、丁度、地下から突き出て来るように、一昨日よりは咋日、昨日よりは今日の方がより高くもれ上って来た。彼は、やはり西伯利亜シベリアだと思った。氷が次第に地上にもれ上って来ることなどは、内地では見られない現象だ。

 子供達は、言葉がうまく通じないなりに、松木に憐れみを求め、こびるような顔つきと態度とを五人が五人までしてみせた。

 彼等が口にする「アナタア」には、露骨にこびたアクセントがあった。

「ザンパンない?」子供達は繰かえした。「……アナタア! 頂だい、頂だい!」

「あるよ。持って行け。」

 松木は、残飯桶のふちをって、それを入口の方へころばし出した。そこには、中隊で食い残した麦飯が入っていた。パンの切れが放りこまれてあった。その上から、味噌汁の残りがぶちかけてあった。

 子供達は、喜び、うめき声を出したりしながら、お互いに手をかきむしり合って、携えて来た琺瑯引ほうろうびきの洗面器へ残飯をかきこんだ。

 炊事場は、古い腐った漬物のにおいがした。それにバターと、南京袋なんきんぶくろの臭いがまざった。

 調理台で、牛蒡ごぼうを切っていた吉永が、南京袋の前掛けをかけたまま入口へやって来た。

 武石は、ペーチカに白樺のまきを放りこんでいた。ぺーチカの中で、白樺の皮が、火にパチパチはぜった。彼も入口へやって来た。

「コーリャ。」

 松木が云った。

「何?」

 コーリャは眼が鈴のように丸くって大きく、常にくるくる動めいている、そして顔にどっかとがったところがある少年だった。

「ガーリャはいるかね?」

「いるよ。」

「どうしているんだ。」

「用をしている。」

 コーリャは、その場で、汁につかったパン切れをむしゃむしゃ頬張っていた。

 ほかの子供達も、或はパンを、或は汁づけの飯を手につかんでむしゃむしゃ食っていた。

「うまいかい?」

「うむ。」

「つめたいだろう。」

 彼等は、残飯桶の最後の一粒まで洗面器に拾いこむと、それを脇にかかえて、家の方へ雪の丘をせ登った。

「有がとう。」

「有がとう。」

「有がとう。」

 子供達の外套や、袴のすそが風にひらひらひるがえった。

 三人は、炊事場の入口からそれを見送っていた。

 彼等の細くって長い脚は、強いバネのように、勢いよくぴんぴん雪を蹴って、丘を登っていた。

「ナーシャ!」

「リーザ!」

 武石と吉永とが呼んだ。

「なアに?」

 丘の上から答えた。

 子供達は、皆な、一時に立止まって、谷間の炊事揚を見下した。

「飯をこぼすぞ。」

 吉永が日本語で云った。

「なアに?」

 吉永は、少女にこちらへ来るように手まねきをした。

 丘の上では、彼等が、きゃあきゃあ笑ったり叫んだりした。

 そして、少し行くと、それから自分の家へ分れ分れに散らばってしまった。

 

   

 

 山が、低くなだらかに傾斜して、二つの丘に分れ、やがて、草原に連って、広く、遠くへ展開している。

 兵営は、その二つの丘の峡間はざまにあった。

 丘のそこかしこ、それから、丘のふもとの草原が延びて行こうとしているあたり、そこらへんに、露西亜ロシア人の家が点々として散在していた。革命を恐れて、本国から逃げて来た者もあった。前々から、西伯利亜シベリヤに土着している者もあった。

 彼等はいずれも食うに困っていた。彼等の畑は荒され、家畜は掠奪りゃくだつされた。彼等は安心して仕事をすることが出来なかった。彼等は生活に窮するより外、道がなかった。

 板壁の釘が腐って落ちかけた木造の家に彼等は住んでいた。屋根は低かった。家の周囲には、わらやごみを散らかしてあった。

 処々に、うず高く積上げられた乾草ほしくさがあった。

 荷車は、軒場に乗りつけたまま放ってあった。

 室内には、古いテーブルや、サモワールがあった。刺繍ししゅうを施したカーテンがつるしてあった。でも、そこからは、動物の棲家すみかのように、異様な毛皮と、獣油の臭いが発散して来た。

 それが、日本の兵卒達に、如何いかにも、毛唐の臭いだと思わせた。

 子供達は、そこから、琺瑯引きの洗面器を抱えて毎日やって来た。ある時は、老人や婆さんがやって来た。ある時は娘がやって来た。

 吉永は、一中隊から来ていた。松木と武石とは二中隊の兵卒だった。

 三人は、パン屑のまじった白砂糖を捨てずに皿に取っておくようになった。食い残したパンに味噌汁をかけないようにした。そして、露西亜人が来ると、それを皆に分けてやった。

「お前ンとこへ遊びに行ってもいいかい?」

「どうぞ。」

「何か、いいことでもあるかい?」

「何ンにもない。…… でもいらっしゃい、どうぞ。」

 その言葉が、朗らかに、快活に、心から、歓迎しているように、兵卒達には感じられた。

 兵卒は、ほとんど露西亜語が分らなかった。けれども、そのひびきで、自分達を歓迎していることを、すばやく見てとった。

 晩に、炊事揚の仕事がすむと、上官に気づかれないように、一人ずつ、別々に、息を切らしながら、雪の丘をじ登った。吐き出す呼気がこゞって、防寒帽の房々した毛に、それが霜のようにかたまりついた。

 彼等は、家庭の温かさと、情味とに飢えかっしていた。西伯利亜へ来てから何年になるだろう。まだ二年ばかりだ。しかし、もう十年も家を離れ、内地を離れているような気がした。海上生活者が港にあこがれ、陸を恋しがるように、彼等は、内地にあこがれ、家庭を恋しがった。

 彼等の周囲にあるものは、はてしない雪の曠野と、四角ばった煉瓦の兵営と、撃ち合いばかりだ。

 誰のために彼等はこういうところで雪に埋れていなければならないだろう。それは自分のためでもなければ親のためでもないのだ。懐手ふところでをして、彼等を酷使していた者どものためだ。それは、××××なのだ。

 敵のために、彼等は、只働ただばたらきをしてやっているばかりだ。

 吉永は、胸が腐りそうな気がした。息づまりそうだった。極刑に処せられることなしに兵営から逃出し得るならば、彼は、一分間といえども我慢していたくはなかった。——わずかの間でもいい、兵営の外に出たい、情味のある家庭をのぞきたい。そういう欲求を持って、彼は、雪の坂道を攀じ登った。

 丘の上には、リーザの家があった。彼はそこの玄関に立った。

 扉には、隙間風すきまかぜが吹きこまないように、目貼めばりがしてあった。彼は、ポケットから手を出して、その扉をコツコツ叩いた。

今晩はズラシテ。」

 屋内ではペーチカをき、暖気が充ちている。その気はいが、扉の外から既に感じられた。

「今晩は。」

「どうぞ、いらっしゃい。」

 朗らかで張りのある女の声が扉を通してひびいて来た。

「まあ、ヨシナガサン! いらっしゃい。」

 娘は嬉しそうに、にこにこしながら、手を出した。

 彼は、始め、握手することを知らなかった。それまで、握手をしたことがなかったのだ。何か悪いことをするように、胸がおどおどした。

 が、まもなく、平気になってしまった。

 のみならず、相手がこちらの手を強く握りかえした時には、それは、何を意味しているか、握手と同時に、眼をどう使うと、それはこう云っているのだ。気がすすまぬように、だらりと手を出せば、それを見込がない。等々……。握手と同時に現れる、相手の心を読むことを、彼は心得てしまった。

 吉永がテーブルと椅子と、サモワールとがある部屋に通されている時、武石は、鼻から蒸気を吐きながら、他の扉を叩いていた。それから、稲垣、大野、川本、坂田、みなそれぞれ二三分間おくれて、別の扉を叩くのであった。

今晩はズラシテ。」

 そして、相手がこちらの手を握りかえす、そのかえしようと、眼に注意を集中しているのであった。

 彼等のうちのある者は、相手が自分の要求するあるものを与えてくれる、とその眼つきから読んだ。そして胸を湧き立たせた。

「よし、今日は、ひとつ手にキスしてやろう。」

 一人の女に、二人がぶつかることがあった。三人がぶつかることもあった。そんな時は、彼等は、帰りに、丘を下りながら、ひょいと立止まって、顔を見合わせ、からから笑った。

「ソペールニクかな。」

「ソペールニクって何だい?」

「ソペールニク……競争者だよ。つまり、恋を争う者なんだ。ははは。」

 

   

 

 松木も丘をよじ登って行く一人だった。

 彼は笑ってすませるような競争者がなかった。

 彼は、朗らかな、張りのある声で、「いらっしゃい、どうぞ!」と女から呼びかけられたこともなかった。

 しそれが恋とよばれるならば、彼の恋は不如意な恋だった。彼は、丘を登りしなに、必ず、パンか、乾麺麭かんめんぼうか、砂糖かを新聞紙に包んで持っていた。それは兵卒に配給すべきものの一部をこっそり取っておいたものだった。彼は、それを持って丘を登り、そして丘を向うへ下った。

 三十分ほどたつと、彼は手ぶらで、悄然しょうぜんと反対の方から丘を登り、それから、兵営へ丘を下って帰って来た。ほかの者たちは、まだ、ぺーチカを焚いている暖かい部屋で、胸をときめかしている時分だった。

「ああ、もうこれでやめよう!」彼は、ぐったり雪の上にへたばりそうだった。「あほらしい。」

 丘のふもとに、雪に埋もれた広い街道がある。雪はそりや靴に踏みつけられて、固く凍っている。そこへ行くまでに、聯隊の鉄条網が張りめぐらされてあった。彼は、毎晩、その下をくぐりぬけ、氷ですべりそうな道を横切って、ある窓の下に立ったのであった。

「ガーリヤ!」

 彼は、指先で、窓硝子をコツコツ叩いた。肺臓まで凍りつきそうな寒い風が吹きぬけて行った。彼は、その軒の下でしばらくたたずんでいた。

「ガーリヤ!」

 そして、また、硝子を叩いた。

「何?」

 女が硝子窓の向うから顔を見せた。唇の間に白い歯がのぞいている。それがひどく愛嬌を持っている。

這入はいってもいい?」

「それ何?」

「パンだ。あげるよ。」

 女は、新聞紙に包んだものを窓から受取ると、すぐ硝子戸を閉めた。

「おい、もっと開けといてくれんか。」

「 …… 室が冷えるからだめ。――一度開けると薪三本分損するの。」

 彼女は、桜色の皮膚を持っていた。笑いかけると、左右の頬に、子供のような笑窪えくぼが出来た。彼女は悪い女ではなかった。だが、自分に出来ることをして金を取らねばならなかった。親も、弟も食うことに困っているのだ。子供を持っている姉は、夫に吸わせる煙草をもらいに来た。

 松木は、パンを持って来た。砂糖を持って来た。それから、五円六十銭の俸給で何かを買って持って来た。

 でも、彼女の一家の生活をささえるには、あまりに金を持っていなすぎる。もっとよけいに俸給を取っている者が望ましい。

 肉にえているのは兵卒ばかりではなかった。

 松木の八十五倍以上の俸給を取っているえらい人もやはり貪欲どんよくに肉を求めているのであった。

「私、用があるの。すみません、明日来てくださらない。」

 ガーリヤは云った。

「いつでも明日来いだ。で、明日来りゃ、明後日だ。」

「いえ、ほんとに明日、——明日待ってます。」

 

   四

 

 雪は深くなって来た。

 炊事場へザンパンを貰いに来る者たちが踏み固めた道は、新しい雪におおわれて、あとかたも分らなくなった。すると、子供達は、それを踏みつけ、もとの通りの道をこしらえた。

 雪は、その上へまた降り積った。

 丘の家々は、石のように雪の下に埋れていた。

 彼方かなたの山からは、始終、パルチザンがこちらの村をうかがっていた。のみならず、夜になると、歩哨が、たびたび狼に襲われた。四肢が没してもまだ足りない程、深い雪の中を、狼は素早く馳せて来た。

 狼は山で食うべきものが得られなかった。そこで、すきに乗じて、村落を襲い、鶏や仔犬や、豚をさらって行くのであった。彼等は群をなして、わめきながら、行くさきにあるものは何でも喰い殺さずにはおかないような勢いでやって来た。歩哨は、それに会うと、ふるえ上らずにはいられなかった。こちらは銃を持っているとは云え、二人だけしかいないのだ。剽悍ひょうかんな動物は、弾丸をくぐって直ちに、人に迫って来る。それは全くすごいものだった。衛兵は総がかりで狼と戦わねばならなかった。悪くすると、わきの下や、のどに喰いつかれるのだ。

 薄ら曇りの日がつづいた。昼は短く、夜は長かった。太陽は、一度もにこにこした顔を見せなかった。松木は、これで二度目の冬を西伯利亜で過しているのであった。彼は疲れて憂欝になっていた。太陽が、地球を見棄ててどっかへとんで行っているような気がした。こんな状態がいつまでもつづけばきっと病気にかかるだろう。——それは、松木ばかりではなかった。同年兵がことごとく、ふさぎこみ、疲憊ひはいしていた。そして、女のところへ行く。そのことだけにしか興味を持っていなかった。

 ガーリヤは、人眼をしのぶようにして炊事場へやって来た。古いが、もとは相当にものが良かったらしい外套の下から、白く洗いさらされた彼女のスカートがちらちら見えていた。

「お前は、人をよせつけないから、ザンパンが有ってもやらないよ。」

「あら、そう。」

彼女は響きのいい、すき通るような声を出した。

「そうだとも、あたりまえだ。」

「じゃいい。」

黒く磨かれた、踵の高い靴で、彼女はきりっと、ブン廻しのように一とまわりして、丘の方へ行きかけた。

「いや、うそだうそだ。今さっきほかの者が来てすっかり持って行っちゃったんだ。」

 松木はうしろから叫んだ。

「いいえ、いらないわ。」

 彼女の細長い二本の脚は、強いばねのように勢いよくはねながら、丘を登った。

「ガーリヤ! 待て! 待て!」

 彼は乾麺麭を一袋握って、あとから追っかけた。

 炊事場の入口へ同年兵が出てきて、それを見て笑っていた。

 松木は息を切らし切らし女に追いつくと、空の洗面器の中へ乾麺麭の袋を放り込んだ。

「さあ、これをやるよ。」

 ガーリヤは立止まって彼を見た。そして真白い歯を露わして、何か云った。彼は、何ということか意味が汲みとれなかった。しかし女が、自分に好感をよせていることだけは、まるみのあるおだやかな調子ですぐ分った。彼は追っかけて来ていいことをしたと思った。

 帰りかけて、うしろへ振り向くと、ガーリヤは、雪の道を、辷りながら、丘を登っていた。

「おい、いいかげんにしろ。」炊事場の入口から、武石が叫んだ。「あんまりじゃれつきよると競争に行くぞ!」

 

   

 

 吉永の中隊は、大隊から分れて、イイシへ守備に行くことになった。

 HとSとの間に、かなり広汎こうはんな区域にわたって、森林地帯があった。そこには山があり、大きな谷があった。森林の中を貫いて、河がながれていた。そのあたりの地理は詳細には分らなかった。

 だが、そこの鉄橋は始終破壊された。枕木はいつの間にか引きぬかれていた。不意に軍用列車が襲撃された。

 電線は切断されづめだった。

 HとSとの連絡は始終断たれていた。

 そこにパルチザンの巣窟があることは、それで、ほぼ想像がついた。

 イイシへ守備中隊を出すのは、そこの連絡を十分にするがためであった。

 吉永は、松木の寝台の上で私物をまとめていた。炊事場を引き上げて、中隊へ帰るのだ。

 彼は、これまでに、しばしば危険に身をさらしたことを思った。

 弾丸に倒れ、眼を失い、腕を落とした者が、三人や四人ではなかった。

 彼と、一緒に歩哨に立っていて、夕方、不意に、胸から血潮をほとばしらして、倒れた男もあった。坂本という姓だった。

 彼は、その時の情景をいつまでもまざまざと覚えていた。

 どこからともなく、誰かに射撃されたのだ。

 二人が立っていたのは山際やまぎわだった。

 交替の歩哨が衛兵所から列を組んで出ているところだった。もう十五分すれば、二人は衛兵所へ帰って休めるのだった。

 夕日が、あかあかと彼方の地平線に落ちようとしていた。牛や馬の群が、背に夕日をあびて、草原をのろのろ歩いていた。十月半ばのことだ。

 坂本は、

「腹がへったなあ。」と云ってあくびをした。

「内地に居りゃ、今頃、野良からくわをかついで帰りよる時分だぜ。」

「あ、そうだ。もう芋を掘る時分かな。」

「うむ。」

「ああ、芋がくいたいなあ!」

 そして坂本はまたあくびをした。そのあくびが終わるか終わらないうちに、彼は、ぱたりと丸太を倒すように芝生の上に倒れてしまった。

 吉永は、とび上がった。

 も一発、弾丸が、彼の頭をかすめ、ヒウとうなり去った。

「おい、坂本! おい!」

 彼は呼んでみた。

 軍服が、どす黒い血に染った。

 坂本はただ「うう」と唸るばかりだった。

 内地を出発して、ウラジオストックへ着き、上陸した。その時から、既に危険は皆の身に迫っていたのであった。

 機関車は薪を焚いていた。

 彼等は四百里ほど奥へ乗りこんで行った。時々列車からおりて、鉄砲で打ち合いをやった。そして、また列車にかえって、飯を焚いた。薪がくすぶった。冬だった。機関車は薪がつきて、しょっちゅう動かなくなった。彼は二カ月間顔を洗わなかった。向うへ着いた時には、まるで黒ン坊だった。息が出来ぬくらいの寒さだった。そして流行感冒がはやっていた。兵営の上には、向うの飛行機が飛んでいた。街には到るところ、赤旗が流れていた。

 そこでどうしたか。結局、こっちの条件が悪く、負けそうだつたので、持って帰れぬ什器じゅうきを焼いて退却した。赤旗が退路をさえぎった。で、戦争をした。そして、また退却をつづけた。赤旗は流行感冒のように、到るところに伝播でんぱしていた。また戦争だ。それからどうしたか?……

 雪解ゆきどけの沼のような泥濘でいねいの中に寝て、戦争をしたこともあった。頭の上から、機関銃をあびせかけられたこともあった。

 吉永は、自分がよくもこれまで生きてこられたものだと思った。一尺か二尺、自分の立っていた場所が横へそれていたら、死んでいるかもしれないのだ。

 これからだって、どうなることか、分るものか! 分るものか! 俺が一人死ぬことは、誰れもとも思っていないのだ。ただ、自分のことを心配してくれるのは、村で薪出まきだしをしているおふくろだけだ。

 彼は、お母がこしらえてくれた守り袋を肌につけていた。新しい白木綿で縫った、かなり大きい袋だった。それが、あかや汗にじみて黒く臭くなっていた。彼は、それを開けて、新しい袋に入れかえようと思った。彼は、袋をはさみで切り開けた。お守りが沢山慾張って入れてある。金刀比羅宮ことひらぐう、男山八幡宮、天照皇大神宮、不動明王、妙法蓮華経、水天宮。——母は、多ければ多いほど、御利益ごりやくがあると思ったのだろう! それ等が、殆んど紙の正体が失われるくらいにすり切れていた。——まだある。別に、紙に包んだ奴が。彼はそれを開けてみた。そこには紙幣が入っていた。五円札と、五十銭札と、一円札とが合せて十円ぐらい入っている。母が、薪出しをしてためた金を内所ないしょで入れといてくれたのだろう。

「おい、おい。お守りの中から金が出てきたが。」

吉永は嬉しそうに云った。

「何だ。」

「お守りの中から金が出てきたんだが。」

「ほんとかい。」

「嘘を云ったりするもんか。」

「ほう、そいつあ、もうけたな。」

 松木と武石とが調理台の方からせ込んで来た。

 札も、汗と垢とで黒くなっていた。

「どれどれ、内地の札だな。」松木と武石とはなつかしそうに、それを手に取って見た。「内地の札を見るんは 久しぶりだぞ。」

「おふくろが多分内所で入れてくれたんだ。」

「それをまた今まで知らなかったとは間がぬけとるな。…… 全く儲けもんだ。」

「うむ、儲けた。 …… 半分わけてやろう。」

 吉永は、自分が少くとも、明後日は、イイシへ行かなければならないことを思った。雪の谷や、山を通らなければならない。そこにはパルチザンがいる。また撃ち合いだ。生命がどうなるか。誰れが知るもんか! 誰れが知るもんか!

 

   

 

 松木は、酒保から、あんパン、砂糖、パインアップル、煙草などを買って来た。

 晩におそくなって、彼は、それを新聞紙に包んで丘を登った。石のように固くてついている雪は、靴にかちかち鳴った。空気は鼻を切りそうだ。彼は丘を登りきると、今度は向うへ下った。丘の下のあの窓には、灯がともっていた。人かげが、硝子戸の中で、ちらちら動いていた。

 彼は歩きながら云ってみた。

「ガーリヤ。」

「ガーリヤ。」

「ガーリヤ。」

「あんたは、なんて生々いきいきしているんだろう。」

 さて、それを、ロシア語ではどう云ったらいいかな。

 丘の下でどっか人声がするようだった。三十すぎの婦人の声だ。それに一人は日本人らしい。何を云っているのかな。彼はちょいと立止まった。なんでも声が、ガーリヤの母親に似ているような気がした。が、声は、もうぷっつり聞えなかった。すると、まもなくすぐそこの、今まで開いていた窓に青いカーテンがさつと引っぱられた。

「おや、早や、寝るはずはないんだが…… 」彼はそう思った。そして、鉄条網をくぐりぬけ、窓の下へしのびよった。

「今晩は、——ガーリヤ!」

 ——彼が窓に届くように持って来ておいた踏石がとりのけられている。

「ガーリヤ。」

 砕かれた雪の破片が、彼の方へとんで来た。彼の防寒外套の裾のあたりへぱらぱらと落ちた。雪はまたとんできた。彼の背にあたった。でも彼は、それに気づかなかった。そして、じいっと、窓を見上げていた。

「ガーリヤ!」

 彼は、上に向いて云った。星が切れるようにえかえった。

「おい、こらッ!」

 さきから、雪を投げていた男が、うしろの白樺のかげから靴をならしてとび出て来た。武石だった。

 松木は、ぎょっとした。そして、新聞紙に包んだものを雪の上へ落しそうだった。

 彼は、し将校か、或は知らない者であった場合には、何もかも投げすてて逃げ出そうと瞬間に心かまえたくらいだった。

「また、やって来たな。」武石は笑った。

「君かい。おどかすなよ。」

 松木は、暫らく胸がどきどきするのが止まらなかった。彼は、武石だと知ると同時に、吉永から貰った金で、すぐさま、女の喜びそうなものを買って来たことをきまり悪く思った。「砂糖とパイナップルは置いて来ればよかった。」

「誰れかさきに、ここへ来た者があるんだ。」と武石が声を落として窓の中を指した。「俺れゃ、君が這入ったんかと思うて、ここで様子を伺うとったんだ。」

「誰れだ?」

「分らん。」

「下士か、将校か?」

「ぼっとしとって、それが分らないんだ。」

誰奴どいつかな。」

「——中に這入って見てやろう。」

「よせ、よせ、……帰ろう。」

 松木は、若し将校にでも見つかると困る、……そんなことを思った。

「このまま帰るのは意気地がないじゃないか。」

 武石は反撥した。彼は、ガンガン硝子戸を叩いた。

「ガーリヤ、ガーリヤ、今晩はズラシテ!」

 次の部屋から面倒くさそうな男の声がひびいた。

「ガーリヤ!」

「何だい。」

 ウラジオストックの幼年学校を、今はやめている弟のコーリヤが、白い肩章のついた軍服を着てカーテンのかげから顔を出した。

「ガーリヤは?」

「用をしてる。」

「一寸来いって。」

「何です? それ。」

 コーリヤは、松木の新聞包を見てたずねた。

「こら酒だ。」松木が答えないさきに、武石が脚もとから正宗まさむねの四合びんを出して来た。「沢山いいものを持って来とるよ。」

 武石は、包みの新聞紙を引きはぎ、硝子戸の外から、瓶をコーリヤの眼のさきへつき出した。松木は、その手つきがものなれているなと思った。

呉れダワイ。」コーリヤは手を動かした。

 でも、その手つきにいつものような力がなく、途中で腰を折られたようにくじけた。いつも無遠慮なコーリヤに珍しいことだった。

 武石も、物を持って来て、やっているんだな、と松木は思った。じゃ、自分もやることは恥かしくない訳だ。彼はコーリヤが遠慮するとなおやりたくなった。

「さ、これもやるよ。」彼は、パイナップルの缶詰かんづめを取出した。

 コーリヤはもじもじしていた。

「さ、やるよ。」

「有がとう。」

 顔にどっか剣のある、それで一寸沈んだ少年が、武石には、面白そうな奴だと思われた。

「もっとやろうか。」

 少年は呉れるものは欲しいのだが、貰っては悪いというように、遠慮していた。

「煙草と砂糖。」松木は、窓口へさし上げた。

「有がとう。」

 コーリヤが、窓口から、やったものを受取って向うへ行くと、

「きっと、そこに誰れか来とるんだ。」と、武石は、小声で、松木にささやいた。

「誰れだな、俺れゃどうも見当がつかん。」

「這入りこんで現場を見届けてやろう。」

 二人は耳をすました。二つくらい次の部屋で、何か気配がして、開けたてに扉がきしる音が聞えてきた。サーベルのさやが鳴る。武石は窓枠に手をかけて、よじ上り、中をのぞきこんだ。

「分るか。」

「いや、サモワールがじゅんじゅんたぎっとるばかりだ。——ここはまさか、娘を売物にしとる家じゃないんだろうな。」

 コーリヤがドアのかげから現れて来た。窓から屋内へ這入ろうとするかのように、よじ上がっている武石を見ると、彼は急に態度をかえて、「いけない! いけない!」しかるように、かすれた幅のある声を出した。

 武石は、突然、その懸命な声に、自分が悪いことをしているような感じを抱かせられ、窓から辷り落ちた。

 コーリヤは、窓の方へ来かけて、途中、ふとあとかえりをして、扉をぴしゃっと閉めた。暫らく二人は窓の下に佇んでいた。丘の上の、雪に蔽われた家々には、灯がきらきら光っていた。武石は、そこにも女がいることを思った。吉永が、温かい茶をのみながら、リーザと名残なごりを惜んでいるかも知れない。やせぎすな、小柄なリーザに、イイシまで一緒に行くことをすすめているだろう。多分、彼も、何かリーザが喜びそうなものを買って持って行っているのに違いない。武石は、小皺こじわのよった、人のよさそうな、吉永の顔を思い浮べた。そして、おのずから、ほほ笑ましくなった。——吉永は、危険なイイシ守備に行ってしまうのだ。

 丘の上のそこかしこの灯が、カーテンにさえぎられ、ぼつぼつ消えて行った。

「お休み。」

 一番手近の、グドコーフの家から、三四人同年兵が出て行った。歩きながらかわす、その話声が、丘の下までひびいて来た。兵営へ帰っているのだ。

 不意に頭の上で、響きのいい朗らかなガーリヤの声がした。二人は、急に、それでよみがえったような気がした。

「ばあ!」彼女は、硝子戸の中から、二人に笑って見せた。「いらっしゃい、どうぞ。」

 玄関から這入ると、松木は、食堂や、寝室や、それから、もう一つの仕事部屋をのぞきこんだ。

「誰れが来ていたんです?」

少佐マイヨール。」

「何?」二人とも言葉を知らなかった。

「マイヨールです。」

「何だろう。マイヨールって」 松木と武石とは顔を見合わした。「寄ると解釈すりゃ、ダンスでもする奴かな。」

 

    

 

 少佐は、松木にとって、笑ってすませる競争者ではなかった。

 二人が玄関から這入って行った、丁度その時、少佐は勝手口から出て来た。彼は不機嫌に怒って、ぷりぷりしていた。十八貫もある、でっぷりふとった、ひげのある男だ。彼の靴は、固い雪を蹴散らした。いっぱいに拡がった鼻のあなは、凍った空気をかみ殺すように吸いこみ、それから、その代りに、もうもうと蒸気を吐き出した。

 彼は、屈辱(!)と憤怒に背が焦げそうだった。それを、やっと我慢して押しこらえていた。そして、本部の方へ大股に歩いて行った。……途中で、ふと、彼は、きびすをかえした。

 つい、今さっきまで、松木と武石とが立っていた窓の下へ少佐は歩みよった。彼は、がん丈で、せいが高かった。つまさきで立ち上らずに、カーテンの隙間から部屋の中が見えた。

 そこには、二人の一等卒が、正宗の四合瓶を立てらして、テーブルに向い合っていた。ガーリヤは、少し上気したような顔をして喋っている。白い歯がちらちらした。薄荷はっかのようにひりひりする唇が微笑している。

 彼は、嫉妬しっとと憤怒が胸に爆発した。大隊を指揮する、取っておきのどら声で怒なりつけようとした。その声は、のどの最上部にまで、ぐうぐう押し上げて来た。

 が、彼は、必死の努力で、やっとそれを押しこらえた。そして、前よりも二倍位い大股に、聯隊へとんで帰った。

「女のとろこで酒をのむなんて、全くけしからん奴だ!」

 営門でささつつをした歩哨は何か怒声をあびせかけられた。

 衛兵司令は、大隊長が鞭で殴りに来やしないか、そのひどい見幕を見て、こんなことを心配した位だった。

「副官!」

 彼は、部屋に這入るといきなり怒鳴った。

「副官!」

 副官が這入って来ると、彼は、刀もはずさず、椅子に腰を落して、荒い鼻息をしながら、

「速刻不時点呼。すぐだ、すぐやってくれ!」

「はい。」

「それから、炊事揚へ露西亜人をよせつけることはならん。残飯は一粒といえども、やることは絶対にならん。厳禁してくれ。」

「はい。」

「よし、それだけだ。」

 副官が、命令を達するために、次の部屋へ引き下ると、彼はまた叫んだ。

「副官!」

「はい。」

「この点呼に、もしもおくれる者があったら、その中隊を、第一中隊の代りに、イイシ守備に行かせること、そうしてくれ。罰としてここには置かない。そうするんだ。——すぐだ、速刻やってくれ!」

 

   

 

 一隊の兵士が雪の中を黙々として歩いて行った。疲れて元気がなかった。雪に落ちこむ大きな防寒靴が、如何にも重く、邪魔物のように感じられた。

 雪は、時々、彼等のすねにまで達した。すべての者が憂鬱と不安に襲われていた。中隊長の顔には、焦慮の色が表われている。

 草原も、道も、河も悉く雪に蔽われていた。

 枝に雪をいただいて、それが丁度、枝に雪がなっているように見える枯木が、五六本ずつ所々に散見するほか、あたりには何物も見えなかった。どこもかしこも、すべて、まぶしく光っている白い雪ばかりだった。そして、何等の音も、何等の叫びも聞えなかった。ばりばり雪を踏み砕いて歩く兵士の靴音は、空にまれるように消えて行った。

 彼等は、早朝から雪の曠野を歩いているのであった。彼等は、昼に、パンと乾麺麭かんパンをかじり、雪を食ってのどを湿うるほした。

 どちらへ行けばイイシに達しられるか!

 右手向うの小高い丘の上から、銃を片手に提げ、片手に剣鞘を握って、斥候せっこうが馳せ下りて来た。彼は、銃が重くって、手が伸びているようだった。そして、雪の上にそれを引きずりながら、馳せていた。松木だった。

 彼は、息を切らし、中隊長の傍まで来ると、引きずっていた銃を如何いかにも重そうに持ち上げて、「捧げ銃」をした。彼の手は凍って、思う通りにかなかった。銃は、真直に、形正しく、鼻のさきへ持ち上げることが出来なかった。

 中隊長は、不満げに、彼をにらんだ。「も一度。そんな捧げ銃があるか! 」その眼は、そう云っているようだった。

 松木は、息切れがして、暫らくものを云うことが出来なかった。鼻孔から、喉頭が、マラソン競走をしたあとのように、乾燥し、こわばりついている。彼は唾液つばきを出して、のどを湿しめそうとしたが、その唾液が出てきなかった。雪の上に倒れて休みたかった。

「どうしたんだ?」

 中隊長は腹立たしげに眼にかど立てた。

「道が、どうしても、」松木は息切れがして、つづけてものを云うことが出来なかった。「どうしても、分からないんであります。」

露助ろすけは、どうしてるんだ。」

「はい。スメターニンは、」また息切れがした。「雪で見当がつかんというのであります。」

「仕様がない奴だ。大きな河があって、河の向うに、もみの林がある。そういうところは見つからんか、そこへ出りゃ、すぐイイシへ行けるんだ。」

「はい。」

「露助にやかましく云って案内さして見ろ!」

 中隊長は歩きながら、腹立たしげに、がみがみ云った。「場合によっては銃剣をさしつけてもかまわん。あいつが、パルチザンと策応して、わざと道を迷わしとるのかもしれん。それをよく監視せにゃいかんぞ!」

「はい。」

 松木は、し交代さして貰えるかと、ひそかにそんなことをあてにして、暫らく中隊長の傍を並んで歩いていた。

 彼はあおくなって居た。身体中の筋肉が、ぶちのめされるように疲れている。頭がぼんやりして耳が鳴る。

 だが、中隊長は、彼を休ませようとはしなかった。

「おい行くんだ。もっとよく探して見ろ!」

 ふらふら歩いていた松木は、疲れた老馬が鞭のために、最後の力をしぼるように、また、銃を引きずって、向うへ馳せ出した。

「おい、松木!」中隊長は呼び止めた。「道を探すだけでなしに、パルチザンがいやしないか、家があるか、鉄道が見えるか、よく気をつけてやるんだぞ。」

「はい。」

 斥候は、やがて、丘を登って、それから向うの谷かげに消えてしまった。そこには武石と、道案内のスメターニンとが彼を待っていた。松木と武石とは、朝、本隊を出発して以来つづけて斥候に出されているのであった。

 中隊長は、不機嫌に、二人に怒声をあびせかけた。

「中隊がイイシ守備に行かなけりゃならんのは誰れのためだと思うんだ! お前等、二人が脱柵だっさくして女のところで遊びよったせいじゃないか!」彼は、心から怒っているような眼で二人をにらみつけた。「中隊長は、皆んなを危険なところへはさらしとうない。中隊が可愛いいんだ。それを、危険なところへ行かなけりゃならんようにしたのは、貴様等二人だぞ! 軍人にあるまじきことだ!」

 そして二人は骨の折れる、危険な勤務につかせられた。

 松木と武石とは、雪の深い道を中隊から十町ばかりさきに出て歩いた。そして見た状勢を、馳け足で、うしろへ引っかえして報告した。報告がすむと、また前に出て行くことを命じられた。雪は、深く、そしてまぶしかった。二人は常に、前方と左右とに眼を配って行かなければならなかった。報告に、息せき息せき引っかえすたびに、中隊長は、不満げに、腹立たしそうな声で何か欠点を見つけてどなりつけた。

 雪の上に腰を落して休んでいた武石は、

「まだ交代さしてくれんのか。」ときいた。

「ああ。」松木の声にも元気がなかった。

「弱ったなア——俺れゃ、もうそこで凍え死んでしまう方がましだ!」

 武石は泣き出しそうに吐息をついた。

 二人は、スメターニンと共に、また歩きだした。丘を下ると、浅い谷があった。それから、緩慢な登りになっていた。それを行くと、左手には、けわしい山があった。右には、雪の曠野が遙か遠くへ展開している。

 山へ登ってみよう、とスメターニンが云いだした。山から見下せば地理がはっきり分るかもしれなかった。それには、しかし、中隊がふもとへ到着するまでに登って、様子を見て、おりてきなければならなかった。そうしなければ、また中隊長がやかましく云うのだ。

 山のひだは、一層、雪が深かった。松木と武石とは、銃を杖にしてよじ登った。そこには熊の趾跡あしあとがあった。それから、小さい、何か分らぬ野獣の趾跡が到るところに印されていた。よもぎが雪に蔽われていた。潅木の株に靴が引っかかった。二人は、熱病のように頭がふらふらした。何もかも取りはずして、雪の上に倒れて休みたかった。

 山は頂上で、次の山に連っていた。そしてそれから、また次の山が、丁度、珠数じゅずのように遠くへ続いていた。

 遠く彼方の地平線まで白い雪ばかりだ。スメターニンはやはり見当がつかなかった。

 中隊は、丘の上を蟻のように遅々としてやって来ていた。それは、広い、はてしのない雪の曠野で、実に、二三匹の蟻にも比すべき微々たるものであった。

「どっちへでもいい、ええかげんで連れてって呉れよ」二人は、やけになった。

「あんまり追いたてるから、なお分らなくなっちまったんだ。」

 スメターニンは、毛皮の帽子をぬいで額の汗を拭いた。

 

   

 

 薄く、そして白い夕暮が、曠野全体を蔽い迫ってきた。

 どちらへ行けばいいのか!

 疲れて、雪の中に倒れ、そのまま凍死してしまう者があるのを松木はたびたび聞いていた。

 疲労と空腹は、寒さに対する抵抗力を奪い去ってしまうものだ。

 一個中隊すべての者が雪の中で凍死する、そんなことがあるものだろうか? あってもいいものだろうか?

 少佐の性慾の××になったのだ。兵卒達はそういうことすら知らなかった。

 何故、シベリアへ来なければならなかったか。それは、だれによこされたのか? そういうことは、勿論、雲の上にかくれて、彼等には分らなかった。

 われわれは、シベリアへ来たくなかったのだ。むりやり来させられたのだ。——それすら、彼等は、今、殆んど忘れかけていた。

 彼等の思っていることは、死にたくない。どうにかして雪の中からがれて、生きていたい。ただそればかりであった。

 雪の中へ来なければならなくせしめたものは、松木と武石とだ。

 そして、道を踏み迷わせたのも松木と武石とだ。——彼等は、そんな風に思っていた。それより上に、彼等に魔の手が強く働いていることは、兵士達には分らなかった。

 彼等が、いくらあせっても、行くさきにあるものは雪ばかりだった。彼等の四肢は麻痺してきだした。意識が遠くなりかけた。破れ小屋でもいい、それを見つけて一夜を明かしたい!

 だが、どこまで行っても雪ばかりだ。……

 最初に倒れたのは、松木だった。それから武石だった。

 松木は、意識がぼっとして来たのは、まだ知っていた。だが、まもなく頭がくらくらして前後が分らなくなった。そして眠るように、意識は失われてしまった。

 彼の四肢は凍った。そして、やがて、身体全体が固く棒のようにこわばって動かなくなった。

 

 ……雪が降った。

 白い曠野に、散り散りに横たわっている黄色の肉体は、埋められて行った。雪は降った上に降り積った。倒れた兵士は、雪に蔽われ、暫らくするうちに、背嚢はいのうも、靴も、軍帽も、すべて雪の下にかくれて、彼等が横たわっている痕跡こんせきは、すっかり分らなくなってしまった。

 雪は、なお、降りつづいた。……

 

   

 

 春が来た。

 太陽は雲間からにこにこかがやきだした。枯木にかかっていた雪はいつのまにか落ちてしまった。雀の群が灌木の間をにぎやかにさえずり、嬉々としてとびまわった。

 鉄橋を渡って行く軍用列車のとどろきまでが、のびのびとしてきたようだ。

 積っていた雪は解け、雨垂れが、絶えず、快い音をたててといを流れる。

 吉永の中隊は、イイシに分遣されていた。丘の上の木造の建物を占領して、そこにいる。兵舎の樋から落ちた水は、枯れた芝生の間をくぐって、谷間へ小さな急流をなして流れていた。

 松木と武石との中隊が、行衛ゆくえ不明になった時、大隊長は、他の中隊を出して探索さした。大隊長は、心配そうな顔もしてみせた。遺族に対して申訳がない、そんなことも云った。——しかし、内心では、何等の心配をも感じてはいない。ばかりでなく、むしろ清々せいせいしていた。気にかかるのは、師団長にどういう報告書を出すか、その事の方が大事であった。

 一週間探した。しかし、行衛は依然として分らなかった。少佐は、もうそのことは、全然忘れてしまっているようだった。彼は、本部の二階からガーリヤの家の方を眺めて、口笛で、「赤い夕日」を吹いたりした。

 春が来た。だが、あの一個中隊が、どこでどうして消えてしまったのか、今だにあとかたも分らなかった。

 吉永は、丘の上の兵営から、まだ、すっかり雪の解けきらない広漠たる曠野を見渡しながら、自分がよくも今まで生きてこられたものだ、とひそかに考えていた。あの時、自分達の中隊が、さきに分遣されることになっていたのだ。それがどうしたのか、出発の前日に変更されてしまった。彼の中隊が、橇でなく徒歩でやって来ていたならば、彼も、今頃、どこで自分の骨を見も知らぬ犬にしゃぶられているか分らないのだ。

 徒歩で深い雪の中へ行けば、それは、死に行くようなものだ。

 彼等をシベリアへよこした者は、彼等が、×××餌食えじきになろうが、狼に食い×××ようが、屁とも思っていやしないのだ。二人や三人が死ぬことは勿論である。二百人死のうが何でもない。兵士の死ぬ事を、チンコロが一匹死んだ程にも考えやしない。代りはいくらでもあるのだ。それは、令状一枚でかり出して来られるのだ。……

 丘の左側には汽車が通っていた。

 河があった。そこには、まだ氷が張っていた。牛が、ほがほがその上を歩いていた。

 右側には、はてしない曠野があった。

 枯木が立っていた。解けかけた雪があった。黒い烏の群が、空中に渦巻いていた。陰欝に唖々ああと鳴き交すその声は、丘の兵舎にまで、やかましく聞えてきた。それは、地平線の隅々からすべての烏が集って来たかと思われる程、無数に群がり、夕立雲のように空を蔽わぬばかりだった。

 烏はやがて、空から地平をめがけて、騒々しくとびおりて行った。そして、雪の中を執念しゅうねくかきさがしていた。

 その群は、昨日も集っていた。

 そして、今日もいる。

 三日たった。しかし、烏は、数と、騒々しさと、陰欝さとを増して来るばかりだった。

 或る日、村の警衛に出ていた兵士は、露西亜の百姓が、銃のさきに背嚢を引っかけて、肩にかついで帰って来るのに出会でくわした。銃も背嚢も日本のものだ。

「おい、待て! それゃ、どっから、かっぱらって来たんだ?」

「あっちだよ。」髭もじゃの百姓は、大きな手をあげて、烏が群がっている曠野を指さした。

「あっちに落ちとったんだ。」

「うそ云え!」

「あっちだ。あっちの雪の中に沢山落ちとるんだ。……兵タイも沢山死んどるだ。」

「うそ云え!」兵士は、百姓の頬をぴしゃりとやった。「一寸来い。中隊まで来い!」

 日本の兵士が雪に埋れていることが明かになった。背嚢の中についていた記号は、それが、松木と武石の中隊のものであることを物語った。

 翌日中隊は、早朝から、烏が渦巻いている空の下へ出かけて行った。烏は、既に、浅猿あさましくも、雪の上に群がって、貪欲なくちばしで、そこをかきさがしつついていた。

 兵士達が行くと、烏は、かあかあ鳴き叫び、雲のように空へまい上った。

 そこには、半ばむさぼつつかれた兵士達のしかばねが散り散りに横たわっていた。顔面はさんざんにそこなわれて見るかげもなくなっていた。

 雪は半ば解けかけていた。水が靴にしみ通ってきた。

 やかましく鳴き叫びながら、空に群がっている烏は、やがて、一町ほど向うの雪の上へおりて行った。

 兵士は、烏が雪をかきさがし、つついているのを見つけては、それを追っかけた。

 烏は、また、鳴き叫びながら、空にい上って、二三町さきへおりた。そこにも屍があった。兵士はそれを追っかけた。

 烏は、次第に遠く、一里も、二里も向うの方まで、雪の上におりながら逃げて行った。

                           

(昭和三年二月)