アメリカ映画と占領政策

第6章 占領期対日映画政策の実相とその評価

第1節 コミュニズムへの警戒

1 ソヴィエト映画の公開への対応

 戦後のソヴィエト映画の日本への輸入に関しては、少なくとも立ち上がりは英国、フランスよりも先で、1947年8月にソ連映画輸出協会に対してライセンスが降りるとすぐに、翌9月30日には『モスコオの音楽娘』の公開をもって正式にスタートした。
 また、実はそれ以前にも、1946年11月5日に『スポーツ・パレード』というモスクワの赤の広場で開催された全ソヴィエト体育祭の記録映画が上映されているが、これは戦後に日本で公開された初のカラー映画だった。
 当時はまだカラー映画といえば非常に珍しく、アメリカ映画でも戦後CMPEによって日本に紹介された129本(戦前公開済み作品を含む)の中には1本も含まれておらず、翌1948年公開の74本(戦前公開済み作品を含む)の中でようやく2本(チャールズ・メイヤーがマッカーサー元帥のコメントをもらうことに成功した、20世紀フォックス製作の『ステート・フェア』、及びパラマウント製作による長編アニメ『ガリヴァー旅行記』)が登場したにすぎなかった。
 そんな中で、ソヴィエト映画は1948年までに公開された本数は僅かに12本だが、そのうちカラー映画が3本(他の2本は1947年公開の『石の花』、及び1948年公開の『シベリヤ物語』)を占めていたため、一般の映画観客にはとても強い印象を残したはずだ。たとえば、作家の赤瀬川隼は『石の花』の印象を次のように語っている。

 『石の花』の印象は、実はいまとなってはもうろうとしている。まだ煙がくすぶっているような感じの焼跡の街に突然やってきたこの映画は、カラー作品だった。(中略)いまの私には、ただ、その色彩が、薄くかすんだ赤紫のヴェールをかぶせられたように、あるいはいちごミルクに包まれたようにして残っている。(中略) 敗戦直後の突然の“いちごミルク”との出会いは、国破れた少年の心の空洞には、ある種のやるせない気持ちと、神秘的な異境をさまようイメージを残し、それがいまも、まぼろしのように消えずに漂っているのである。

 確かに、ソヴィエト映画のカラー技術は進んでいた。アメリカ映画のテクニカラーにしても、もちろん1939年の『風と共に去りぬ』や『オズの魔法使い』などで既に十分に実用化が実証されてはいたものの、膨大なプリント・コストはそれがまだまだ特別なものであることを示していたし、陸軍省民政部(CAD)再教育課占領地域メディア班映画演劇ユニットのペア・ロレンツがMy Friend Flicka を含む数本のテクニカラー作品の日本への輸出を断念したのもそのプリント・コストゆえのことだった。ちなみに、国産初のカラー劇映画(当時の言い方だと総天然色映画)として、松竹30周年記念映画『カルメン故郷に帰る』が公開されたのは1951年3月のことだった。
 さて、ソヴィエト映画に対する警戒心がいつ頃からPPBやCIEのスタッフの間で共通の認識として定着したのかについては明確な答えを出すことは難しい。一般に、占領初期に多かったニューディーラーたちによるドラスティックな改革の時代から<逆コース>、あるいは<ギア・チェンジ>と呼ばれる政策の転換を迎えたきっかけとしては、1947年の「2・1ゼネスト」中止が引き合いに出されることが多い。だが、たとえばGHQ/SCAPの中でも、メディアを管轄する諜報部門の頂点にあったG-2のトップに君臨したチャールズ・A・ウィロビー少将(Maj. Gen. Charles A. Willoughby)などは、そもそも始めから反共イデオロギー色の強い人物であり、ソヴィエト映画の公開についてその一番初めの時点から強い関心を抱いていた。
 PPB文書の中でも唯一その表紙に「SECRET」のスタンプが押されていた「ロシア映画」のファイルの中に含まれているPPB課長コステロによる1946年11月7日付の覚書、及び翌11月8日付の覚書を読むと、ウィロビーを始めとする軍上層部がソヴィエト映画上映をどう見ていたのか、そのニュアンスを窺い知ることができる。

●覚書:ソヴィエト映画輸入に関してのR・S・ブラットン大佐との会話(1946年11月7日)

1) 民間諜報将校のチーフであるR・S・ブラットン大佐より正午に電話があり、朝日新聞がソ連代表のK・デレヴィヤンコ中将の談話として、ソヴィエト映画が日本公開のために輸入される見通しであると伝えていた旨、連絡があった。日本タイムズによる同様の記事を添付しておく。

2) ブラットン大佐の言うには、アソシエイテド・プレスの特派員トム・ランバート氏がG-2局長の特別補佐官であるP・H・ベスーン大佐に電話をかけてきて、ソヴィエト映画輸入の計画があるのかどうかを尋ねた由。

3) ブラットン大佐はこの質問に対して答えるべき部局はどこなのかを尋ねたので、私は外国映画の輸入はCIEの管轄であると教えた。

4) ブラットン大佐は、輸入の段取りはCIEがつけているのかどうか、またそれらの作品の検閲についてはCCDがすべてを公正に行っているのかどうかを尋ねた。

5) 私はブラットン大佐に対して、彼の当部局の機能についての理解は正しく、我々はすべての作品を公正に検閲している旨を述べた。

6) 私はさらに、CCDが、降伏後に日本に輸入された外国映画の検閲を求めてきた者については、すべてCIEに連絡させることが数カ月前に口頭で定められた旨を説明した。

7) 私はさらに、その取り決めが実行されるようになってから、何人かの日本人がソヴィエト映画の検閲を求めてきたことを付け加えた。ただし『スポーツ・パレード』だけは例外で、同作品は6月にG-2局長のウィロビー准将によって許可が与えられた。それ以外のすべての作品はCIEに回されたが、CIEでは1本も許可とはならず当部局にも送り返してはこなかった。口頭による合意以来、我々はまだ1本もソヴィエト映画に対して許可を与えてはいない。(後略)

J・J・C

●覚書:日本におけるロシア映画の配給(1946年11月8日)

1) 第25対敵諜報部隊(大都市部)のM・P・ウォーカー海軍中尉は当部局に連絡をして、ソヴィエト映画の日本での配給にいてのCCDとしてのポリシーを尋ねた。彼はこの質問について以前プットナム大佐とも話をしたと述べた。彼の話の概要としては、プットナム大佐によれば検閲によって何本かのソヴィエト映画に許可が与えられたが、実際には現在の手続きでは検閲に先立ってCIEに回され、そこで許可を得なければならないとのことだが、その点について同意しているのかどうかとのことであった。答えはイエスである。ウォーカー中尉はさらに、日本配給用に輸入されるソヴィエト映画についての我々の意見を尋ねてきたので、(中略) CIE情報課のドン・ブラウンと連絡をとるよう示唆した。

JJC

 前の文書からは、民間諜報局(Civil Intelligence Section = CIS)局次長としてウィロビーを補佐する立場にあったルーファス・S・ブラットン大佐(Rufus S・Bratton)が、対日理事会におけるソヴィエト代表だったクズマ・N・デレヴィヤンコ中将(Kuzma N. Derevyanko)の動きが完全にアメリカ(CCD及びCIE)のコントロール下にあるかどうかについて懸念を感じていたことがわかる。そしてまた、CISがデレヴィヤンコの動きについてプレスなどを通じてチェックしていたであろうことも推察できる。
 後の文書では、対敵諜報部隊(Counter Intelligence Corps = CIC)の中で大都市部(Metropolitan Area)を管轄していた第25対敵諜報部隊の責任者と思われる人物の、対ソヴィエトという重大事項について、軍の組織であるCCDではなく、CIEがイニシアティヴを握っていることへの強い不満が感じられる。両文書から共通して言えることは、同じ占領政策に関わっていたスタッフの中でも、やはりシヴィリアンではなく軍という立場にいた者たちは早くからソヴィエトに対して警戒心を持っていたということだろう。
 注目すべきは、ウィロビー自身が『スポーツ・パレード』に対して、試写に立ち会った上で許可を出しているという点だろう。実際には、同作品は松竹がソ連大使館から英語版、ロシア語版それぞれ1本ずつを6カ月間、計5万円で借り受けたということがW・B・プットナム大佐のメモからわかるが、1946年10月25日にCCDの検閲によってCCDナンバー「N-1/001」が与えられるよりも先にいち早くウィロビー自ら試写を行なって許可を出した、とはっきり記されている。もちろん、結果として彼が許可を出したことよりも、彼が真っ先に自らチェックしようとした事実自体がここでは重要なのである。
 デレヴィヤンコがプレスに語った「輸入される予定のソヴィエト映画」についての経緯を説明しておくと、実際にはそれらはG-2総連絡部の上級補佐官B・T・パッシュ大佐(B. T. Push)の仲介の下、ソヴィエト連邦の連絡大使(Laison Mission)であるキシレフ少佐(Kissilev)とCIEのドン・ブラウン情報課長との間で10月25日に会議が行われ、ソヴィエト側が配給を希望している非商業教育映画に関して、占領目的に役立つものであればCIEの教育映画ライブラリーに加え、アメリカの教育映画と同様に日本人に見せることは問題ないとの合意に達した。
 だがキシレフ少佐は次の打ち合わせ予定日であった10月28日には現れず、2週間以上経った11月15日になって突然現れて46本の映画のリストを提出した(キシレフは自分が病気だったと弁明している)。ところがそれらのほとんどはニュース映画で、CIE側(ブラウン)はその中から比較的無難と思える8本(スポーツや芸術、地域、自然科学などに関するもの)を選び、後日それらの何本かを試写する段取りとなった。通常であれば試写の前に英語版の台本や詳しい説明文が求められるが、ソ連側の時間の都合により簡単な梗概だけを用意してくることになった。しかしながら、3日後の11月18日に現れたキシレフは、CIE側が選んだ8本を無視して2本の短編音楽映画と長編劇映画『モスコオの音楽娘』を持参してきて、しかも短編音楽映画のうちの1本に英語字幕が付けられていたものの、他の作品には英語の梗概すらなかったのだという。
 結果的には、『モスコオの音楽娘』にはその後正式にCIE及びCCDで試写をした上で許可が出されて約10カ月後に劇場公開されたのだが、始めはCIE情報課教育映画班の推進していた教育映画路線に協力したいという素振りを見せておきながら、何の説明もなく急に長編劇映画を持ってきたり、約束の日時に姿をみせずにずいぶん経ってからいきなりアポイントメントも取らずに訪れてきたりするソヴィエト側の姿勢に、CIEが不信感を募らせたことは想像に難くない。さらに、CCD側の資料を見ると、ソヴィエト側はCIEに連絡を取らずにいた間にも露骨にアメリカを無視した独自の映画政策を実施しようとしていたことがわかる。

2 「チャパーエフ」の違法上映

 ソヴィエトによる独自の対日映画政策というのは、つまりGHQ/SCAPの定めた手続きによらず、職域、労働組合などで自国の映画の上映会を催すというピンポイント的な方法でソ連シンパの日本人ネットワークを作るという戦略だった。
 1946年12月10日付けのミハタの覚書(この覚書は「シークレット・コメント・シートCCD/TOS/X-22」という文書の中で述べられていた5本のソヴィエト映画について、PPBのウォルター・Y・ミハタが自分の知見を覚書にまとめたものだが、元の文書そのものは同じ「ロシア映画」ファイルの中に含まれていない)によれば、ソヴィエト側は1946年10月30日に三菱ビル内21号室において、日本語字幕付のカラー長編『石の花』を上映し、さらに10月23日にも同所にて『偉大なる転換 (Great Conversion)』の上映を行っている。
 またそれらに先立って、5月25日には三越デパートの従業員を対象に民主青年会議の主催という形で、ロシア革命の内戦を背景に赤軍の英雄となったある司令官を描いた作品『チャパーエフ』を上映している。他にも場所、日時など詳細は不明だが、Yugoslavia 及び Georgii Saskaszhe というタイトルの作品も同様の形で上映された可能性がある。これら5本の作品はいずれもCCDによる検閲を受けていない。『チャパーエフ』に関しては、民主青年会議が日ソ文化連絡協会と自主映画人集団を通じてプリントを入手、CIEのデイヴィッド・W・コンデの許可を受けて上映したことがわかった。ただし、コンデが許可したと言ってもCIEとして正式に許可を出したのではないようだ。というのも、1946年6月3日には日本共産主義者青年同盟がCCDに対して『チャパーエフ』の検閲を要請しているが、その理由は「CIEの許可を得るべく提出したが戻ってこない」からとされているのである。
 コンデが日本の映画産業界の労働組合結成を推奨していたことは既に述べた通りだし、GHQ/SCAP自体が少なくとも始めのうちは、日本の軍国主義及び軍国的国粋主義の撤廃のための手段として労働組合の結成を重要視していたことは言うまでもない。だが、私的な上映とは言え、組合オルグの活動のために無許可の映画の上映を認めていたとするとやはりそれが問題視されたのは当然であろう。
 コンデは、1946年7月には彼が日本映画社を通じてつくらせた左翼的ドキュメンタリー『日本の悲劇』が上映禁止となった事件をきっかけにCIEを去っているので、あるいはそれを見越した民主青年会議側が辞めたコンデに責任をなすりつける形で、彼から許可をもらっていたのだと弁明しただけという可能性も否定できない。またソヴィエト側にしても、一方で正式のチャンネルとしてのCIEとコンタクトを取っていながら、他方で自ら日本語字幕スーパー版までつくって勝手に労働組合や職域などで上映活動をしていたというのは、やはり二枚舌的な対応と取られても仕方あるまい。
 ともあれ、『石の花』はその後1947年9月にCIEの許可を得て、正式にCCDナンバーを取得して同月に劇場公開しているが、CCDのソヴィエト映画検閲についてはCCDスタッフに加えロシア語に堪能な者も立ち会う形で試写が行われたようだ。前述の他の4作品については占領期間中に正式に劇場公開されることはなかった。
 しかしながら、実はこの『チャパーエフ』についてはこの後もう1回違法な上映会が催され、それがCCDで大きく問題視されることになった。
 1946年12月23日付のミハタの覚書は、『チャパーエフ』がその日午後1時より、松竹大船撮影所内の大船会館において日映演松竹支部の会合の一部として上映されるとの情報が寄せられた旨を記している。PPBでは同日、ヒュー・ウォーカーに大船を視察しに出掛けさせ、情報を収集している。その結果判明したその上映会の実施についての詳細は、翌24日付のヒュー・ウォーカーの覚書、並びに12月26日付のミハタによる覚書にて報告されている。

●映画課長宛メモ(1946年12月24日)=(付属文書1)

1) 松竹大船撮影所総務部長の大石明氏は12月19日に、ひとかどの共産党員にして松竹労組の書記長であった、助監督、岸東助から松竹労組の会合の場所として大船会館を貸してほしいとの相談を受けたが、彼らが未検閲のロシア映画『チャパーエフ』(11巻、日本語字幕付)を上映する予定であると聞き、これを断った。岸東助は自分が全責任を負うと食い下がった由。

2) 岸に尋ねると彼は『チャパーエフ』が未検閲であることは承知していた。彼は我々に対して、そのフィルムは同僚の助監督、池田浩郎がロシア大使館へ出向いてただで借りてきたということを教えてくれた。

3) 彼はまた我々に対して、彼が既に同様の方法で2本のロシア映画を借りてきて上映したことを教えてくれた。そのタイトルは、1『罪なき罪人(Crime Without Crime)』=松竹がスト交渉に入る前に上映(松竹は10月15日にストに突入した)、2『スポーツ・パレード』=スト中に上映、であった由。

4) 『チャパーエフ』を借りた際の条件としては1回限りの上映で、上映後すぐに返却するものと理解していた由(未検閲でありナンバーも付与されていない)。

5) 12月23日には大船会館にて松竹の組合員に対して、共産主義的傾向を持つことでよく知られている代表的舞台プロデューサー、土方興志がレクチャーを行った由。

H・W 

●覚書:松竹大船撮影所における1946年12月23日の未検閲ロシア映画『チャパーエフ』上映に関する調査(1946年12月26日)

1) 当セクションのH・ウォーカー氏は1946年12月23日午後1時より、松竹大船撮影所にて未検閲のロシア映画『チャパーエフ』が上映される件を調査しに出向いた。彼には情報のみを収集し、決して上映そのものを妨害しないようにと釘が刺されていた。詳しくは彼の報告書(付属文書1)を参照のこと。

2) ウォーカー氏によれば、自ら公表した共産党員にして松竹労組の書記長である岸東助氏はとても傲慢な態度であったという。彼はそのフィルムが未検閲であることを知っており、ウォーカー氏に対して「未検閲のロシア映画を上映して何が悪い?」とさえ語った。彼はまた自らの責任において、大船撮影所でこれまでに他に2本の未検閲のロシア映画を上映したことを明け透けに認めた(付属文書1の第3項を見よ)。

3) 今回の一件は大っぴらに自分が共産党員であると公表した日本人が、未検閲の映画であることを知りつつ上映したことに全責任を負っていると認めているケースである。

W・Y・M

 「ロシア映画」ファイルには、この二つの文書とともにウォーカーによるもう少し詳しい報告書(12月26日付の覚書)が一緒にファイルされているのだが、そこには背景的な情報として先に示した三越デパート従業員に対する民主青年会議による同作品の無許可上映に際して、CIE情報課映画班長であるコンデが個人的に許可を出したことも改めて報告されている。
 そして、これらの報告書をPPD課長のコステロを通じて受け取ったプットナムCCD隊長は、CISの局次長(ブラットン大佐)宛てに12月31日付で覚書を書き送っている。その内容は、『チャパーエフ』の無許可での松竹労組での上映の件に関し、ソヴィエト代表がソヴィエト映画を日本の労働組合に独断で貸し出していること自体が12月5日付で発布されたばかりの回状12で定めた外国映画の取り扱いに違反しており、問題解決のためさらに詳しい調査をしてほしい、というものだ。
 だが、実はこの一件以降にも全く同様に未検閲作品の無許可上映があったことを示唆する資料が、同じ「ロシア映画」ファイルの中に含まれている。約10か月後にあたる1947年10月17日付のミハタの覚書を見ると、前回と同じ三菱21ビルにおいて、ロシアの10月革命20周年記念作品として製作されたレーニンの伝記映画『十月のレーニン(Lenin v Oktyabre)』が上映されたことが以前に報告されていた、と記されている。
 いずれにしても、『チャパーエフ』の一件が示した幾つかの問題、たとえば、既にその職を去ったとはいえCIEのデイヴィッド・コンデなど自分たちの身内に共産主義に肩入れしていた可能性のある者がいることへのCCDの警戒心、日本の映画産業界に設立された労働組合の幹部らが急進的な共産主義者であることがCCDやCISに知覚されたこと、そしてCIE及びCCDに生じたソ連そのものに対する警戒心、といった問題には程なくそれぞれにある種の決着が付けられることとなった。すなわち、この頃には既に、GHQ/SCAP内部においては着々と初期スタッフの中のニューディーラーたちが締め出されていたし、岸東助を始めとする映画産業内の急進的共産主義者たちはやがて、1950年のいわゆる<レッド・パージ>によって映画界から追われることとなったのである。
 また、ソヴィエト映画に対してはこれ以降その審査にあたってより懐疑的な態度で挑むようになったためであろうか、英国映画やフランス映画の公開本数が1948年、1949年と増加の一途を辿っているのに対し、ソヴィエト映画は1948年の9本をピークに1949年と1950年にはそれぞれ僅かに3本ずつと極めて限定した本数に押さえられているのである。

3 ソヴィエト映画への輸入制限

 CCDがソヴィエトの映画政策に対してその後も監視の眼を光らせていたことは、たとえばソヴィエト映画の唯一の配給会社として機能していた北星商事の役員である永原幸男が、日本移動映写連盟の理事兼関東信越支部長、及び日本映画教育協会の評議員を兼務していることに注意を促しているヒュー・ウォーカーの1948年9月15日付の覚書を見れば明白である。
 占領下日本におけるソヴィエト映画配給までの流れを整理すると、先ず本国でのソヴィエト映画輸出の窓口は「ソ連映画輸出協会」で、その日本での出先機関が対日理事会のソヴィエト代表部の中に開設されていた。入荷した作品は同協会(日本支部)からCIE、そしてCCDに提出され、許可を受けたものについては代理業者としての北星商事に委ねられ、ここで日本語字幕版が製作されて、劇場との契約に基づいて上映される、ということになっていた。<一国一社制>によるこうした流れは、基本的にはアメリカ映画の場合と何ら変わらず、アメリカ映画の場合は輸出窓口であるMPEAの出先機関と配給業者をCMPEが兼ねていたわけである。違いがあるとすれば、それは許可された配給本数、そしてその作品に対するチェック体制がソヴィエト映画の場合、CMPE配給のアメリカ映画とは比較にならないくらい厳しかったということである。
 1948年6月1日、対日理事会のソヴィエト代表部メンバーであるキスレンコ将軍(Gen. Kislenko)は、SCAP及びSCAP政治顧問ウイリアム・J・シーボルド宛てにソヴィエト映画輸入に関して不当な扱いを受けていることへの抗議の手紙を送った。その文面には、たとえば「GHQ/SCAPによるソヴィエト映画の日本への輸入に対する規制の確立は完全に不当なものである。かかる規制は対日戦争に参加した国々の権利の平等という原則を侵害するのみならず、極東委員会の政策決定を否認するものである」といった強い調子の非難が述べられており、また戦前の1935年時点では年間16本ものソヴィエト映画が日本に輸入されていた実績が強調されていた。
 これに対して、SCAP側からは軍務局長R・M・レヴィ大佐(Col. R. M. Levy) より7月21日付で公式な返信が対日理事会のソヴィエト代表部メンバー宛に送られている。その内容の要点は、「極東委員会では別途、日本への商品の輸入に関しては“戦前の貿易パターン”を含むいくつかの要因が考慮されることを定めており、また回状12によって前年度の実績を超える映画の輸入は認められていない」というものであった。
 このやりとりは、シーボルドによって国務長官宛8月10日付の手紙とともにワシントンに転送されているが、その手紙の中でシーボルドはソヴィエト代表部がこうした扱いを「軍政府による差別」であると主張していることについて注意を促している。このシーボルドの手紙によって国務省が何らかの対応をしたことを示す文書は残されていないが、ソヴィエト代表部の不満が具体的にはCIEに対するものであったことがこれらの文面からわかる。
 確かに、CIEのソヴィエト映画に対する対応は、残されたハリー・スロットやジョージ・ガーキーのメモを見る限りにおいては、相当に警戒心をもって当っていたことがわかる。たとえば、ソヴィエト映画の試写に際しては必ず情報課長ドン・ブラウンとG₋2のスタッフが立ち合い、「政治的あるいは共産主義的要素」がその作品に含まれているかをチェックする体制がとられていたが、もちろん、他の外国映画に関してはそのような体制はとられていない。具体的な例を挙げると、1949年6月に公開された『汽車は東へ行く』のケースではスロットにより次のような台詞が問題視されている。

●インフォメーション (1949年5月31日)

 1) ロシアの長編劇映画『汽車は東へ行く』はその日本公開への適合性を測るべく試写された。試写は1949年5月24日にドン・ブラウン情報課長、及びG₋2の代表者出席の下に行なわれた。

 2) 試写の終了時にスロット氏が次の台詞について質問をした。それは映画の中での役名がロブレンティエフという名前の俳優による次のような台詞で、それが政治的イデオロギーを含んでいるのではないかと思われたのである。「しかし、人というものはそれよりもずっと大きな夢を持たなければならない。ロシアの人々というのはこの些細なことについては決して満足してこなかった。彼らは常に人類を幸せにするべく、世界を改革すべく夢見てきたのだ」(翻訳)。

 3) この台詞部分については削除するか、日本語への翻訳の際にその思想色を消すようにと示唆が与えられた。シミツィン氏(ソ連映画輸出協会)はこの示唆に同意した。

 『汽車は東へ行く』は北星商事を通じて配給されているが、1949年12月30日に同社の稲村喜一らがCIEに電話をかけてきた記録が残っている。ガーキーのメモによると、ソ連映画輸出協会がCIEに審査を請求した7本の映画のうち4本にしか許可がでなかったことにより、同協会を通じてそれらを配給する予定だった北星商事は財政的に危機に瀕している、と訴えたという。だが、応対したガーキーは「同情するがソ連映画輸出協会にもっとたくさんの作品を審査のために提出してもらうより方法はないし、貴社と同協会との間の関係がどうであるかなどということはCIEには興味などない」とぴしゃりとこれをはねつけている。
 ところで、『汽車は東へ行く』の試写に参加していた情報課長ドン・ブラウンは、CIEでは1949年9月に情報課長に就任するまでは新聞雑誌班長をつとめていた。その頃彼は、新たに結成された日本自由出版協会がGHQとイデオロギー的に近かったにもかかわらず戦時中から存在した日本出版協会と密接な関係を保っていたため、それをCCDから「共産党への支持」であると受け止められていたという。だが、情報課長になってすぐにソヴィエト映画輸入を巡るキシレフ少佐との一件で不信感を募らせたためか、少なくともそれ以降の彼は反共産主義的傾向を強めているように見受けられる。たとえば、1949年8月にPPB側からソヴィエト映画の短編やニュース映画については輸入割合が存在するのかどうかを尋ねられた際に、「現在のところその数については特に定められていないが、もしそれらがプロパガンダとして用いられるのであればCIEとしてはライセンスを与えることを拒否する」と述べ、<レッド・パージ>が一段落した後の1950年秋頃には、社長や編集者全員が共産党と見られる小規模出版社を独自にリストアップして追放しようとした<ドン・ブラウン事件>と呼ばれる事件を起こしさえしているのである。
 外国映画の輸入配給については、1951年度からは<一国一社制>が廃止され、GHQ側の意向を受けた大蔵省が前年度の実績に基づいた輸入本数割当制限、いわゆる<クォータ制>を導入した結果、ソヴィエト映画については1951年度も前年と同じく3本とされた。さらにそれ以降の割当についても、前年の封切り本数と配給収入のシェアの平均によることとなり、これは日本の映画産業界の中でも事実上のソヴィエト映画締め出し策であったと見られていた。
 前章で述べたように、CMPEが特に後押ししていた映画雑誌『映画の友』では、その読者のアメリカ映画愛好者グループを「アメリカ映画友の会」として組織し、CMPEの営業戦略に役立つような観客の嗜好性の誌上アンケート調査などに協力させる形で間接的にアメリカの対日映画政策に一役買っていたが、これに対抗する意図があったかどうかは別として、映画雑誌『ソヴィエト映画』でも読者組織としての「ソヴィエト映画友の会」を組織していた。
『ソヴィエト映画』第18号では、その「ソヴィエト映画友の会」の関東、関西、九州、そして中部支社の支社長がソヴィエト映画に関するさまざまな質問に答える頁を設けているが、その中で中部支社長・新沼杏三が「こんどの割当本数は誰がどういう基準できめたのですか?」との問いに対して次のように答えている。

 従来は、外国映画が日本で上映されると、その興行収入は日本に凍結される。そして、貿易が普通の状態にかえりはじめると通常本国に送金するようになる。しかし、無制限に外国映画を輸入上映すると、だんだん日本の金が吸いあげられ、しだいにドル資金が涸かつしてバランスがとれなくなることから制限の必要がうまれた。そこで全体の本数を制限して各国別に割当がされたわけです。が、問題はその割当の算定方法の本質がどこにあるか、ということだ。結論だけいうと、アメリカ150本、イギリス、フランス各15本、イタリー、西ドイツ各5本、ソヴィエト3本、中国(台湾)2本という大蔵省発表の数字を見ても、この割合がいまの世界の政治や経済の動きによって極端にゆがめられていることがはっきりとわかるのです。この割当は『外国映画の輸入方針について』という大蔵省の通達によれば、「戦前10年間のうち、本邦向け輸出のもっとも大きかった一歴年間の本数(CIEクォーター)」「昭和25年中の封切本数」「昭和25年中の配給収入実績」の三要素を考慮して配分したことになっています。しかし、戦前の10年間といえば、日本が中国へ大々的な侵略をやっていたときであり、同時にソヴィエトにたいして日独伊防共協定をむすんだりしたファッシズムの嵐の吹きまくっていたときです。だから、その当時の10年間のうちの最高本数というきめ方は、ソヴィエト映画にたいして、はなはだしく不公平な数字が出てくるのは当然です。しかも、(中略)このソヴィエト映画が壓迫されていた当時の不公平な数字をもととして本年3月までは年間7本がソヴィエト映画に割当られていたのです。かりに戦前10年間の最高本数をみとめ、年間7本の数字をもみとめるにしても、事実は昨1950年(昭和25年)度には、『先駆者の道』と『三つの邂逅』の2本しか公開を許可されておらず、この2本を考慮にいれて配分するというのですから、いかに不合理なものであるかは明らかです。だから、この割当は、大蔵省が自主的にきめたことになっていますが、ほんとうはもっとふかい政治的な意味があるのです。

 若干の補足的説明をしておくと、先ず1950年度のソヴィエト映画は実際には上記の2本に加えて『遥かなる愛人』が公開されている(11月21日)。また、大蔵省通達の規定をより詳しく言うと、<一国一社制>が廃止されて一国の割当本数を2以上の映画配給業者に割り当てる場合は、その25%をCIEが認定する「優秀映画」に充てることを条件として関係業者の意見を徴して決める、とされていた。ただし、8月1日までに意見が一致しないときは政府が割当てを決めることになっていた。
 これは、CMPEの配給してきたアメリカ映画が、日本の民主化促進に役立つよう厳選されたものであるという建て前に基づいていたことを踏まえ、CMPEの配給するメジャー9社(当初の8社及び新たに加わったリパブリック社)以外の中小映画会社の作品をインディペンデント系の配給会社が配給する場合には、娯楽映画ばかりではだめで、「優秀映画」も配給するものでなければ認めない、という枷を設けることによってCMPEを保護しようとした規定だったと言えるだろう。
 この規定には、実はさらに念入りに、アメリカ映画の場合を想定して別途詳細が述べられている。それは次のようなものである。

 米国映画については、関係業者間において意見の一致をみることが困難と認められるので次のとおり割り当てる。米国映画150本中、CMPEにより代表される9社に対しては、少なくとも25本を『優秀映画』にあてる条件で120本を、またアウトサイダーについては少なくとも15本を『優秀映画』にあてる条件で30本を割り当てる。両社の『優秀映画』の数はCIEのプレリミナリー・クリアランスの本数に比例したものであり、その他の本数は米国及び日本における昭和25年中の封切本数の平均率によって按分したものである。

 結局のところ、CMPEについては120本のうち25本、すなわち20.8%が「優秀映画」であれば良いのに対して、他の業者がアメリカ映画を配給しようとする場合には30本のうち15本、すなわち50%が「優秀映画」でなければならない、という特例を設けたわけであるから、事実上、この規定はCMPEを保護するものであることを明確に示していたと言えるだろう。そして、ソヴィエト映画がトータルで年間3本に留められていたのに対して、アメリカ映画についてはトータルで150本、そのうちCMPE分としては120本が認められ、さらにその中の25本の「優秀映画」を除いて95本は純粋な娯楽映画で構わない、と定められたわけであるから、確かにこの大蔵省通達は「アメリカの対日映画政策」を継承したものだったと言えるのではないだろうか。

4 公開不許可となったアメリカ映画 Counter-Attack

 次に、アメリカ映画の中に見られた親共産主義的要素に対してどういった対応がとられたか、という点を、1946年末までに国務省・陸軍省の承認を得て占領目的に沿ったものかどうか篩に掛けられた上でCMPEに送られたはずの新規輸入アメリカ映画の中で、唯一公開「不許可」となったCounter-Attackを例に見てみたい。
 この作品は、ヨーロッパ戦線の中の、ナチスと戦うロシアのゲリラ部隊について描いたコロンビア映画製作の戦争映画で、主演はポール・ムニ(Paul Muni)、プロデューサー兼監督はゾルダン・コルダ(Zoltan Korda) である。
 ストーリーのアウトラインを述べるとおよそ次のようなものである。――ロシア軍の落下傘兵クルコフ(ムニ)ら小隊は、ドイツ軍の集中しているポイントを探る任務を得て基地より前線に送り込まれた。ロシア軍は奇襲作戦のためにドイツ軍と対峙する河の中に、水面すれすれの高さの「水中橋」を築いていたが、決め手となる情報がほしかった。敵地に乗り込んだクルコフは、砲撃によってある建物の地下室に7名のドイツ兵士、そしてライザという名のパルチザンの女性とともに閉じ込められてしまう。ライザの協力の下、ドイツ兵たちを捕虜にした形のクルコフは、7名のうち1人は司令官であるらしいことを知るが、誰がそうなのかはわからない。彼はライザに見張りをさせ、1人ずつ死角となる場所で尋問するが、死にかかっていた兵士がその隙をついて彼を撃とうとし、ライザが負傷する。電気が消えて暗闇となった地下で、1人のドイツ兵がライザを救おうとしていたことにクルコフは気づく。彼はドイツ兵を1人ずつ射殺していくふりをしてとうとう司令官が誰なのかを突き止め、必要な情報を手に入れる。睡眠不足で限界に来ていたクルコフは負傷したライザに代わって、彼女を助けようとしたドイツ兵スティルマンに銃を預けて残りの者の見張りをさせる。そこへ、地上からドイツ語の話し声が聞こえ、捕虜の司令官らは形勢逆転と信じるが、瓦礫を取り除いて降りてきたのは落下傘隊のマスコット犬に率いられたクルコフの仲間たちだった。彼はスティルマンに預けた銃に弾丸が込められていなかったことを明かし、君らが信じるに足る人間であることを証明するチャンスはこれからいくらでもある、と語り、ロシア軍の司令官に情報を伝えると深い眠りに落ちていった。……密室を舞台に物語が展開されていることからもわかるように、これは元々ロシアで書かれた戯曲で、ブロードェイの舞台にかけられた後にジョン・ハワード・ローソン(John Haward Lawson) の手によって映画用に脚色されたものだった。
 この作品は、OWI海軍映画課のハリウッド・オフィスで何度かの脚本チェックが行われた後、1945年3月15日に同課のジーン・カーン(Gene Kern)とペギー・シェパード(Peggy Sheppard)によって試写に供され、シェパードがレヴューを担当している。その「勧告」部分は次のようなものである。

 ドイツ軍を打ち破ろうというロシア軍の逸話をドラマ化したCounter-Attackのストーリーは、初め1944年1月21日に脚本チェックが行われた。当オフィスは、第一草稿に次のような重要な疑問を微妙に扱っている点を認めながらも、連合国の団結と相互理解に貢献するストーリーに基づいた映画化の可能性を歓迎した。それらはたとえば、平均的ロシア人によるナチのイデオロギーと対を為すアメリカ観、アメリカによる同盟国への軍事物資貸与への感謝、ナチの敵に対する正当な評価、ジュネーブ条約に基づく連合国の捕虜の扱い方、自由な人間の不滅な魂、そして自由な人々による、またそのための世界の戦後テーマなどである。アメリカの“民主主義を通じての弱さ”についてのドイツ人将校の強調、そして彼の降伏するよりも死を選ぶという発言は例外であり、取り去られた。戦後世界への言及の際、アメリカとロシアの友情については語られているが、連合軍については無視されている。
 第二草稿では特に問題のある点が排除された。第三草稿ではストーリーが水中橋建設を中心に組み立て直された。目的のためには犠牲をも厭わないロシア人の気質を強調しすぎることは、観客からの共感を滅少させてしまうというアドヴァイスがスタジオに与えられた。未完成の第四草稿では戦争全体の中での1エピソードが強調されすぎていた。(中略)これらのポイントを排除すべきであるとのオフィスのアドヴァイスにより、新しい脚本はロシアによるドイツ人捕虜への尋問に焦点が当てられ、観客の共感が減じられることが懸念された。スタジオ側は再び我々の示唆に基づき改訂した。
 完成した映画では確かに多く変更がなされていたが、当オフィスがその価値を認めていた部分もまた消えていた。ロシアとアメリカの理解や連合軍による団結は最早強調されていない。強調されているのはイデオロギーではなく、いまやアクションである。自由な人間はナチが決して実感できない機知を持っているという暗示は弱められている。ナチの少佐は、瞬間的にだが情報を得ようと苦心するロシア落下傘兵に対して勝利する。
 それでもなお、この映画は質が高く、抑制が効いていて、演技も素晴らしく、ほとんどの戦争映画が頼りがちな子供っぽい強がりに陥っていない。アメリカの会社がロシアの軍隊の栄光を扱った質の高い映画をつくっているという事実そのものが、政府の海外における情報プログラムにとって価値がある。ロシア人のキャラクターは好ましく、理解でき、他のアメリカ映画の場合と比較して非常に現実的である。
 ドイツ人のキャラクターについては、最近解放された地域の観客の繊細な視点にとっては問題がありそうである。ドイツ人がロシア人を分析する件は我々がドイツ人の知性を過度に評価している印象を与えるかもしれない。とりわけ我々自身の国民性と比較したときに。ロシア側について、将来の可能性を約束された“良い”ドイツ人は、最近ナチによる野蛮な占領に曝された観客に対してアメリカ人の“柔軟な平和”の態度を暗示するかもしれない。政府によるドイツ人の復興に対する最近の厳しい政策(それは脚本がチェックされた時点では実施されていなかった)を考えたときに、それはもはやアメリカの意見の真実についての反映ではない。
 Counter-Attackは良い映画であるが、アメリカの興行的価値の基準では緩やかなものである。しかしながら、その同じ“緩やか”なテンポは海外では利点となるかもしれない。この映画は、確かにすべての地域における配給を真剣に考慮すべきものである。

 この作品は、戦争映画とは言っても実際には戦闘シーンはほとんど描かれておらず、むしろ密室での心理劇に近い内容だと言える。また、確かに、OWIのレヴューで指摘されているように良いドイツ人を登場させることで戦後のドイツの復興にも明るい兆しをほのめかしている点は印象が強く、ロシアとアメリカとの協力関係や相互理解といった要素はきれいに消されていた感が強い。この作品がCMPEによって輸入されたにもかかわらず、日本での公開が見送られた理由については、CCD文書の中に含まれている執筆者名のない1947年3月3日付の覚書「1946年12月31日までに検閲のために提出された降伏後輸入のアメリカ映画の概要と分類」の中で、「全編が戦争の光栄、個人のヒロイズム、自己犠牲、そして盲目的な服従を強く描いている」からとしている。
 しかしながら、Counter-Attackの場合、背景にあるさまざまな状況に鑑みると必ずしもそれだけが理由とは思えず、むしろその親ソ的内容がCCDでの「不許可」の決定に影響を及ぼした可能性があるように思えるのである。というのも、この作品はOWIでの最終試写が行われ、アメリカ国内で封切られた1945年3月の時点では何ら問題はなかったのだが、実はその後数年を経てその親ソ的内容が問題となり、主演のポール・ムニ(Paul Muni)、助演のラリー・パークス(Larry Parks)、スーパーヴァイザ―として映画化に加わっていたシドニー・バックマン(Sidney Buckman)、そして脚本家のジョン・ハワード・ローソンの4名が非米活動調査委員会の公聴会に呼ばれて共産主義への協力を追及され、うちローソンはいわゆる「ハリウッド・テン」の1人として追放され、他の3人も以後事実上ブラックリストに載せられて仕事から干される運命を迎えることになったのである。
 日本でこの作品がCCDによって公開「不許可」とされた1946年時点では、まだ非米活動調査委員会による喚問は開始されていなかったが、やはりソ連に対する不信感をCIE、CCD双方が募らせ始めていたこの時期に、ロシアの兵士を主人公とし、直接の戦闘シーンはないといえ「戦争映画」とカテゴライズされる映画(OWIの記述を引用すれば“ロシアの軍隊の栄光を扱った質の高い映画”)が問題視されたのは当然かもしれない。
 むしろこの作品が、日本へ送られる「民主化促進に役立つ厳選されたハリウッド映画」として国務省、陸軍省がアプルーヴァルを与えた60タイトルに含まれていたこと自体が奇異であるとの印象を受ける。
 これがリストの中に残った理由として考えられ得る原因は、これがそもそも60タイトルの元となったOWIとハリウッド映画産業界による45タイトルの日本向け選定リストの中に入っており、それらについては自動的に日本への送付のアプルーヴァルが与えられていたのではないか、ということである。少なくとも、OWI海外映画課ハリウッド・オフィスによるレヴュー・シートに付されていた極東向けの「モーション・ピクチャー・クリアランス」一覧表(1945年5月25日付)には、この作品の上映に相応しい地域としてフィリッピン、中国、タイ、韓国、仏領インドシナとともに日本の項目部分にもチェックがつけられているのである。

5 国務省国際映画部の反コミュニズム政策

 
 次に、劇映画とは別に、国務省国際映画部が本来その活動の中心に位置付けていたニュース映画(『ユナイテッド・ニュース』)やドキュメンタリー映画(CIE映画)の中に現れるようになった反コミュニズム的傾向を確認し、アメリカ合衆国のソヴィエトや共産主義に対する考え方がどうそれらに反映されていたのかを見ておきたい。
 先ず『ユナイテッド・ニュース』における反コミュニズム的要素についてだが、これについては検閲を担当していたCCDの現場サイドで認識され、覚書の形で記録に留められている。ウォルター・ミハタによる1948年10月12日付の覚書「アメリカ製ニューズリールにおける反コミュニスト・シークエンス」は、CMPE配給による『ユナイテッド・ニュース』の最近のものはほとんどが表題の要素を含んでいるとして、8月24日公開の第316号から10月16日公開予定の最新版、第324号までの8号分のうち、6号分までの該当シークエンスを書き留めている。

●覚書:アメリカ製ニューズリールにおける反コミュニスト・シークエンス
 セントラル・モーション・ピクユア・エクスチェンジ(CMPE)は『ユナイテッド・ニュース』のタイトルで毎週、アメリカ製ニューズリールを配給している。プリントは77本が配給され、日本にある1708館の劇場で上映された。
 この混成された『ユナイテッド・ニュース』はワーナーの『パテ・ニュース』、『パラマウント・ニュース』、『フォックス・ムービートーン』、メトロの『ニュース・オブ・ザ・デイ』、そして『ユニヴァーサル・ニュース』のプリントから取られたシークエンスを元に、日本でCMPEによって繋ぎ合わされている。
 当セクションは、最近何週間かに配給された『ユナイテッド・ニュース』の中に、反コミュニズムのシークエンスが顕著な形で表れていることに気が付いた。
 最近版として10月19日に公開される第324号には次のようなシークエンスが含まれていた。

a)「ローマ――法王がアンチ・レッド・キャンペーンに拍車をかける」

b)「サマリンは語る」

c)「東西の論争」

d)「チェコスロヴァキアはセネスの喪に服する」

 10月12日に公開される第323号には次のようなシークエンスが含まれていた。
「合衆国は対外政策で団結――ヴァンデルブルグ」
 10月5日に公開された第322号には次のようなシークエンスが含まれていた。
 「ロシアはベルリン統合のために奔走する」

(中略)

 8月24日に公開された第316号においては、下記のタイトルの下に1シークエンスが含まれていた。
 「ニューヨークのコミュニスト、FBIに捕らえられる」
 筆者の照会に対してCMPEの代表者が述べたことによれば、いくつかのアメリカ製ニューズリールから選択する形で『ユナイテッド・ニュース』を混成しているニューズリール・スタッフは、チャールズ・メイヤー氏(CMPE代表)の指示の下に、すべての“反コミュニスト”シークエンスを用いている。
 筆者の意見としては、CIEは『ユナイテッド・ニュース』のシークエンスの選定においては、少なくとも最初の混成においては指示を行使していない。『ユナイテッド・ニュース』はCIEの映画班による試写の直後に、日本製のすべてのニュース映画とともに金曜日の午後に検閲されている。上記の第316号において、CIEは金曜日の試写の際にCMPEに対して「スラブ体操協会教練の2万人の女性たち」と題されたシークエンスの削除を要求している。このシークエンスでは、25万人の参加と共産党委員長ゴツヴァルド(Gottswald)の出席の下にチェコスロヴァキアで開催されたスポーツの祭典を写している。フィルム・コストやプリント・コストが高額である点を考えれば、CIEはもしそのシークエンスの選定に関わっていたのなら削除要求などしないだろう。そのとき、CMPEの代表者はCIEの要求によって削除がなされるであろうと語ったが、当セクションによる検閲の時点ではまだ削除はなされていなかった。

WYM

 ここに記されている内容に関しては、特に補足的説明を加えるまでもないが、CMPE極東総支配人としてのチャールズ・メイヤーの方針により、「反コミュニスト」的な映像はすべ 『ユナイテッド・ニュース』に入れられることになっていたのだろう。
 その方針が具体的にいつ頃からのものだったのかはわからないが、前述の如くこの年、つまり1948年には、前年からCMPEに私企業としての活動が認められたのと同時に他国の映画についても<一国一社制>の下に配給が認められるようになっていたことを受けてソヴィエト映画が一挙に9本――と言ってもアメリカ映画の本数(この年は再映作品を含めて74本)と比べると微々たる数だが――公開されたこともあり、CMPEとしても大いに警戒色を強めていたことは間違いないだろう。
 次に国際映画部がハンドリングしていた対外映画政策の核となるプログラムとしての、啓蒙教育目的のドキュメンタリー映画の中での反コミュニズム的要素について見てみたい。
 国際映画部では、自身の製作による映画以外に、ペア・ロレンツ率いる陸軍省民政部再教育課占領地域メディア班映画演劇ユニットを始めとする合衆国政府の他の部局が製作した映画のフッテージを利用し、また民間のドキュメンタリー映画製作会社によって製作された映画を買い上げて、海外に送っていた。特に、民間業者からの買い上げの場合、作業のプロセスとしては先ず個々の会社から企画案が国際映画部に提出され、それに対して承認が与えられて初めて実際に映画が製作される形になっていた。そういった企画書やストーリー・ボードの中で、反コミュニズムを前面に出したものが、国際映画部のファイルの中にいくつか見られる。
 たとえば、1950年9月29日付の、国際映画部のJ・D・ラヴォット (J. D. Ravoto) から国務省の五つの部局の担当者宛てに転送されたニューヨークのメディア・プロダクション社による「最近当部局に提出された5本の映画の企画のアウトライン」の中の1本に、The Big Lie vs The Bigger Truth と題された企画がある。その企画書の表紙には、「ソヴィエトのプロパガンダをあざ笑い、ソ連によって費やされた露骨な歪曲を示すためにUSISプログラムにおいて用いるべき映画の提案」とその趣旨が示されており、その横には(おそらくは国際映画部のスタッフにより)手書きで「OK」と記されている。
 <USISプログラム>とは、国際映画部のドキュメンタリー映画政策を引き継ぐ趣旨で設立された合衆国情報サービス局(United States Information Service)による海外映画政策プログラムのことで、日本でCIE情報課映画演劇班教育映画ユニットによって進められていた「CIE映画」も、後には「USIS映画」とその名称が改められている。
 また、1950年12月1日付の、B・L・ファーステンバーガー (B. L. Firstenberger)から国際映画部長ハーバート・エドワーズ(彼はジョン・ベッグの後任として部長に昇格していた)及びシェパード・ジョーンズ (Shepard Jones)宛ての手紙(覚書)では、アニメーション映画 When the Communists Came のストーリーのアウトラインについて、インドやパキスタンに送付するに当って考慮すべきいくつかの示唆が行なわれた旨、報告がなされている。また、この同じアニメーション映画について、ファーステンバーガーは1951年1月9日にも追加の示唆に関する報告をエドワーズ及びジョーンズ宛てに行っているが、その手紙には「CONFIDENTIAL」の文字が目立つように記されている。おそらくは、国務省としての公式な反コミュニズム政策の記録を残す上での配慮ということであろう。
 こうした国務省国際映画部の反コミュニズムというポリシーをより明確に示した文書として、1951年7月にまとめられた「真実のキャンペーンにおける国際映画部の役割」と題したパンフレットが残されている。これは1946年以来合衆国政府としての対外映画政策を集約させた組織として、その任務を遂行してきた国際映画部の活動の目的、任務の内容、挙げてきた成果などについて改めてまとめたものだ。パンフレットは16頁にも及ぶもので、その「イントロダクション」部分を見てみたい。そこでは1939年1月に行われた合衆国政府として初の「映画会議」以来培われてきたアメリカ合衆国の対外映画政策の基本理念を簡潔に伝えているとともに、それが東西対立の顕在化の中でどう再定義されたのかをも示している。

 映画とは人の心を求めるこの動きの速い世界の戦いの中で、力強い武器である。これはもし彼らが個人としての権利を維持し、しばしば勝ち取ることが容易でない独立というものを保持しようとするのであれば、すべての場所の自由な人々に影響を与えるイデオロギー同士の対立である。映画は人々、とりわけ読み書きができない人々、ラジオを持っていない人、そして辺境地に住む人々に情報を伝達するためのユニークな能力を備えている。しばしば、映画はデモクラシーの物語を目に見える形で語り、コミュニズムの危機を暴露し、合衆国の市民の、自由や他国民の利益に対する純粋な関心を示すための唯一の手段である。  国際映画部が一翼を担っている、国務省の国際情報教育交換プログラム(USIE)において、映画の持つ全世界的なアピールは特別な重要性を与えている。

 こうした反コミュニズムという明確な立場は、さらに、同パンフレットの中の「デモクラシー対コミュニズム」と題した一節ではより具体的な記述となって示されている。

 世界中を通じて、個人と政府、自分と仲間との関係についてのコミュニストの概念と対比させるものとして、デモクラシーの原則、民主主義的行動、そして民主主義的な生活というものを示す映画をもっとたくさんつくってほしいという率直な要求が増加している。デモクラシーの作用についてのより良い理解を求める要求は大変に熱心なものであり、場所によって警察が観客を検査することがあっても人々をUSIE映画プログラムから引き離すことはできない。
 コミュニズムの浸透と戦う、というその主要な目的に到達する上で、国際映画部とUSIEによって実行されるプログラムの効果を最も強く示しているものは、おそらく、映画の内容についてコミュニストの新聞において見られる悪意に満ちた攻撃や、リーフレットの配布、映画のテーマについての議論のような同様の活動である。彼らが“ヤンキー・プロパガンダ”と呼ぶ映画を観る観客がどんどん増加していることに対する苦々しいコメントがなされている。
 このような妨害が、情報メディアの仕事の成功を証明するとき、自由についてのアメリカの考え方に反対する連中の間に根拠のある恐れというものが確実に存在し、真実のキャンペーンが実を結ぶということが明白となるのである。

 ある意味では、この時期(1951年当時)において国務省が対日占領政策の一環としての映画政策にその立場を反映させ得るチャンネルというのは「CIE映画」だけだったとも言える。しかしながら、実際には先に見たチャールズ・メイヤーの明確な方針などを鑑みるに、もはや国務省として完全にイニシアティヴを失っていたCMPEによるアメリカ製劇映画や、ニュース映画(『ユナイテッド・ニュース』)配給においても、その活動の邪魔となり得るソヴィエト映画への警戒が確実になされていた点において、結果的には反コミュニズムという部分でワシントンと占領地日本の現場とで完全に政策が一致していたとも言えるのである。

第2節 日本人の国民感情への配慮

1 幻の原爆フィルムと『東京上空三十秒』公開延期の経緯

 占領下の日本にあって、原爆投下の是非について論じ、あるいは東京大空襲などで被害を受けた様を語ることが禁じられていたことは今日では広く知られている。また、特に原爆の被害状況を目に見える形で日本人に示すことは厳重にチェックされていたため、1952年4月28日に行われた批准書委託式による講和条約発効をもってGHQ/SCAPが廃止され、占領時代が名実ともに幕を閉じた直後に、『アサヒグラフ』8月6日号で「原爆被害写真特集」が組まれた際には、日本人に大きな衝撃を与えたことが知られている。
 映像についても、ニュース映画の日本映画社が広島、長崎の原爆の被害状況を撮影したフィルムをGHQに没収されてしまった事件が、今日では<幻の原爆フィルム>事件として知られている。この事件については、当時者であった日本映画社の岩崎昶や伊藤壽恵男などが証言していたり、テレビ東京で近年この映画についてのドキュメンタリー番組『いま全貌明らかに、没収された原爆フィルム』が放送されたりしたため、その全容が明らかになっている。
 ここで改めてその詳細を述べる必要性はないと思われるが、初めは「原爆使用による非人道的な状態を撮影して、ジュネーヴの国際赤十字に訴える」という目的でスタートしたはずのこの企画が、結果的にはアメリカ空軍の戦略爆撃調査団の調査目的に協力する形でしか撮影続行が認められず、したがってタイトルもThe Effect of the Atomic Bomb on Hiroshima and Nagasaki という英語タイトルとされ、撮影したフィルムはすべてアメリカへ持ち帰られてしまったというのがことの成り行きであった。
 後に当時の日本映画社の関係者たちは、密かに1本だけ隠し持っていたプリントを部分的に用いたニュース映画や短編記録映画などを製作しているが、アメリカ政府もまた1967年になってこの作品を日本政府に返還し、文部省は翌1968年には部分的にNHK及びNET(現、テレビ朝日)でこれを放送している。
 気をつけなければならないのは、日本映画社の撮影した白黒のフィルムとは別に、戦略爆撃調査団自体が撮影したカラー・フィルム版の<幻の原爆フィルム>もあったという点だろう。こちらはサイレント期にハリウッドでキャメラマンとして成功し、1934年に帰国してからは東宝の名キャメラマンとして山本嘉次郎監督の 『ハワイ・マレー沖海戦』、『加藤隼戦闘隊』 などの撮影をまかされていた三村明(ハリー三村)がメンバーとして参加し、撮影終了後はやはり長らく アメリカの国防省の倉庫に封印されたという経緯をもっているのである。
 アメリカ側のカラー・フィルムも封印されているという事実をみれば、日本映画社のフィルムが没収された理由もアメリカが原爆の破壊力についての科学的なデータを対外的にも国内的にも隠しておきたかったという軍事的理由があったことは明白だが、一方で日本人に対して凄惨を極めた被爆直後の映像を見せることによって占領軍であるアメリカに対する反感を生ぜしめることを避けたかったというのもまた当然のことであろう。
 さてそれでは、劇映画の中で原爆や東京大空襲などの描かれているものについてはどう対処されてきたのであろうか。第2章で詳述したように、戦時中のハリウッドではOWI-BMPラインの働き掛けによって数多くの対日プロパガンダ映画が製作されていた。それらの多くは日本兵を残虐でずる賢く、出っ歯で眼鏡を掛けた<イエロー・モンキー>としてカリカチュアしたB級作品でしかなく、当然ながらCIEが旗を振って推進しようとしていた日本人の再教育プログラムの趣旨に照らし合わせても百害あって一利なしというものでしかなかったから、それらが占領初期においては国務省や陸軍省のアプルーヴァルに入り込む余地はなかったし、その後もおそらくはハリウッド映画産業界側(MPEA)の純粋に商業的な理由によって収益の望めそうにない日本での公開は企画されなかった。
 問題は、戦時中に製作されたある種のプロパガンダ映画の中で、劇映画として優れていて、なおかつ劇中に原爆や東京大空襲などが描かれている作品をどうするかということであったが、幸いなことにそういった作品はそう多くはなかった。
 MGMの超大作『東京上空三十秒』は、そんな中で数少ない第一級の作品だったと言えるだろう。スペンサー・トレイシー(Spencer Tracy)や当時売りだし中だったロバート・ミッチャム(Robert Mitchum)、そして当時アメリカの女学生の人気ナンバー・ワン俳優だったヴァン・ジョンソン(Van Johnson)など第一級のスターを配したこの作品は、題材そのものが東京大空襲をもたらしたドゥーリトル爆撃隊であるとはいえ、物語の背後には夫婦愛、傷痍兵となって帰還した主人公を温かく受け入れる社会、などの日本映画界に対して積極的に描くことを勧めていた要素が含まれており、問題の大空襲の場面も空襲による工場など軍事的目標の爆撃シーンに限られている。
 この作品のOWI海外映画課ハリウッド・オフィスでの評価を見てみたい。この作品は1944年9月12日にW・S・カニンガム(W. S. Cunningham)によって試写に供され、勧告がなされているが、その内容は次のようなものである。

 脚本段階の『東京上空三十秒』は政府の海外における戦争情報プログラムに多大な功績を与えることが確実なものだった。完成した映画もまた、その期待に添ったものである。脚本にあった真摯でシンプルな人間の描写はスクリーン上にも反映されている。これは原作であるテッド・ローソン大尉の本を良く捉え、ドキュメンタリーに近い真実味ある描写となっている。
 中国を舞台とした場面での中国人の取り扱いはとりわけ良く、アメリカ人パイロットたちと彼らを助けた中国人の間の純粋な協力、友情を示している。当オフィスによってなされた唯一の示唆は、映画の中で示される感謝というのが中国人からアメリカ人に対しての一方的なものとなっている点について、ある程度まで改善できるということである。すべての中国人がアメリカ人パイロットたちに対して親愛の情を持って贈り物と感謝を捧げている。(中略)この映画は全体にわたって客観的に、かつ控えめに描かれており、特に中国の人々とアメリカ人パイロットたちとの協力を描いている点によって、我々はこの映画『東京上空三十秒』を解放された地域において特別に配給することを勧告する。

そして、この作品の極東地域における適合性一覧表(1944年11月28日付)においては、当然のことながら日本にはチェックがつけられておらず、無条件でのOKはフィリピンのみ、そして中国と韓国に対しては条件付きでOKだったとみえて、別紙勧告を参照とされている。その勧告は1944年11月23日付と記されているが、ファイルには含まれていない。
 第2章で見てきたように、この作品はドイツにおける初期映画政策の一環として上映されたアメリカ映画のリストの中に含まれていたが、やはり現実に東京大空襲で被害を受けた人たちへの配慮が働いた結果であろうか、アメリカ国内で興行的にも批評の上でも大成功を収めたものではあったが、占領期間中の日本での公開は結果的には見送られている。
だが、収益の上がる可能性のあるこの作品を日本で公開しようという動きがなかったわけではもちろんない。前述の『アサヒグラフ』原爆被害写真特集号と同様、サンフランシスコ講和条約発効後直ちにこの作品の上映が企画されていたことが記録に残っている。
 具体的には、1952年8月25日付で駐日アメリカ大使R・D・マーフィー(R. D. Murphy)より国務長官宛ての電報の文面にこの作品が登場している。その文面は概ね次のような内容である。

MGMは『東京上空三十秒』の日本での公開を計画しているようだが、MGMの試写に出席していた大使館職員はMGMの日本代表に対して、この作品は多くの日本人を憤慨させることが避けられないし、アメリカが日本の敵であった頃の苦い思い出を呼び覚ますだろう、と意見を述べた。これに対してMGMの代表は概ねその事実を認めた上で、日本の劇場主たちはこの作品の上映を承知しているし、同様の要素を含む『硫黄島の砂』が興行的に成功していることもあるので公開の手続きを進めたい、と答えた。日本の映連からそのような作品の配給をアメリカの映画会社に思い留まるように進言してほしい、という内容の手紙を受け取っており、駐日アメリカ大使館としては国務省にこの問題をMPAAと協議してもらいたい。

 ちなみに、CMPEは講和発行を控えた1951年末をもって解散されており、この1952年の時点では戦前と同じく各メジャー映画会社がそれぞれ日本支社を持つ形に戻っている。この電報の含まれる国務省のファイルには、続いて国際映画部のハーバート・エドワーズからMPAAの副会長ジョン・G・マッカーシー(John G. McCarthy)宛ての手紙が一緒にファイルされており、その文面からアチソン国務長官がすぐにこの問題に対処したことがわかる。エドワーズの文面は上記のマーフィー大使からの電報の内容を伝えた上で、『硫黄島の砂』はリパブリックの手でカットなどの内容の見直しが十分に行われた後に公開されたものであり、日本の首都東京への爆撃を描いた『東京上空三十秒』の場合、より一層の配慮をお願いしたいという内容である。
 その後、この問題についてMPAA内部、もしくはMGMでどのような議論が行われていたのかを示す文書は発見に至っていないが、国務省のファイルには、新たにアイゼンハワー政権で国務長官に就任したばかりのジョン・フォスター・ダレス(John Foster Dulles)より駐日アメリカ大使館宛ての手紙が含まれている。
 1953年6月4日付のこの手紙において、ダレス長官はもう1本、太平洋戦争を描いた別の作品としての『太平洋作戦』と『東京上空三十秒』とを比較して、前者は基本的にドラマ部分が中心で戦争のシーンは最小限に限られているので国務省としてはさほど問題はないと考えるが、後者は駐日アメリカ大使館が指摘したように日本人にとって感情的に相容れないかもしれない、と述べた上で、結論としては、国務省としては明らかに害を及ぼす映画に対しては何らかの処置を講ずるが、この2作品については公開を規制するような措置は講じるに値しないと感じている、と結んでいる。
 しかしながら、 『太平洋作戦』も『東京上空三十秒』も、1953年時点での公開は見送られている。その後、前者は1955年になって公開され、1963年にも『太平洋航空作戦』と改題されてリヴァイヴァル公開されている。一方の『東京上空三十秒』は1957年5月になって漸く日本でも公開されているが、同作品はその前年にアメリカ国内でリヴァイヴァル公開されているので、おそらくはMGMの日本支社はそれを機会に日本での公開解禁に踏み切ったものと推察できる。ただし、元々139分あった同作品の上映時間は、主として爆撃後の飛行機が中国へ不時着した件(それはOWIが政府の情報プログラムの観点で最も評価した部分でもあった)を中心に大幅にカットされ、結果的には98分にまで縮められた上での公開となっている。

3 『始めか終りか』公開を巡る軋轢

 次に、原爆を扱ったアメリカ映画の例として、占領期間中の1950年9月に日本で公開された同じくMGM作品『始めか終りか』のケースを見てみたい。この作品は原爆の開発にあたった科学者たち、そして<マンハッタン計画>を推進した軍人たちの情熱と苦悩を描いた1946年度作品で、元々は独立プロデューサーのハル・B・ウォリス(Hal B. Wallis)が映画化を進めていたものを、パラマウントに原爆を扱った作品の予定があると聞き及んだMGMのルイス・B・メイヤーが「原爆映画」の一番乗りを画策して、ウォリスから権利を買い取ったという経緯を持つ。
 若き科学者である主人公の新妻との夫婦愛や、ともに<マンハッタン計画>に関わっていく中で、主人公と同年代の大佐とが友情を深めるエピソードを絡めるなど、一部フィクションとなっているのはハリウッド映画としては常套手段だが、基本的に実話に基づいているこの作品には故ローズヴェルト大統領、製作当時現職の大統領だったハリー・トルーマン、そしてJ・ロバート・オッペンハイマー博士(Dr. J. Robert Oppenheimer)、アルバート・アインシュタイン博士(Dr. Albert Einstein)など実在の人物が多数登場し、話題性には事欠かなかった。その内容について、まずは当時の『スクリーン』誌における映画評論家、双葉十三郎の文章を参照してみたい。

 問題の原子爆弾映画である。まず原爆関係記録埋蔵の実写式場面を巻頭に置き、ルポルタージュ的な先入観を観客に与えてから劇の本筋に入り、原子爆弾の原理の発見からその製作、完成、実験、広島爆撃とクライマックスに至る。映画の最初にも断り書きしてあるとおり、大体の経過は事実に拠っているが、多くの劇的粉飾が行なわれていることはいうまでもない。(中略)トム・ドレークの若き科学者が人類愛の立場から原爆の破壊力に悩むのは、当然挿入されなければならぬ角度だが、およそお座なりでそらぞらしい。

 いきなり「問題の原子爆弾映画」と断っているくらいだから、やはり公開当時の前評判はかなりあったということであろう。問題は、誰にとって「問題」だったのかということである。クライマックスが広島への原爆投下であるという点を考えると、その製作意図は基本的に『東京上空三十秒』と同じコンセプトだったと言うことができる。というよりむしろ、MGMが『東京上空三十秒』の大ヒット再現を狙って製作した映画と位置付けるほうが実態に近いと思われる。オリジナル・ストーリーを映画のために書き下ろしたロバート・コンシダイン(Robert Considine)が『東京上空三十秒』の脚色も手掛けている事実なども両作品の関連性を示す一つの証拠と言えるかもしれない。ただし、これを単に柳の下にいる2匹目のドジョウを狙った「際もの」と片付けてしまうには、製作者側の姿勢は真摯にすぎるし、今日においてなお、その立脚点は問題提起となり得る重要な要素を含んでいる。
 物語の主人公である若き科学者マット・コクランは、科学者としての自身の成功よりも、自らが中心となって開発を進めている原子爆弾が人類の将来に及ぼすであろう影響に心を悩まし、テニアン島でエノラ・ゲイ号への原爆搭載の最終準備にあたっていた出撃前夜に、誤ってウラニウムを爆弾筒の中に落としてしまい、誤爆を防ぐために素手でこれを取り出す。誤爆から島内の米兵たちの命を救わねばならないという使命ゆえとはいえ、そのことがすなわち自らの死を意味することを彼自身十分に承知していた以上、それは潜在的な自殺願望ととれなくもない。現に彼は死に際に、既に新妻宛てにしたためてあった遺書を友人であるジェフ・ニクソン大佐に託しており、自らの死を予期していたことが窺われる。だが、個人としての主人公の核に対する懸念とバランスを取る形で、映画はニクソン大佐が友人の「英雄的死」をその妻に伝えるリンカーン記念堂のシーンで締めくけられる。そこでは「彼自身は助からなかったが、彼のお陰で何十万人ものアメリカ兵の命が助かったのだ」との理論的説明がなされている。このレトリックは、今日なお米国在郷軍人会やその他の退役軍人団体にとっての理論的枠組みとなっており、それらの団体のロビー活動が、ワシントンDCのスミソニアン協会にある国立航空宇宙博物館で1995年に企画されていた原爆についての展示を中止させるに至ったことは記憶に新しい。
 戦争終結から50年以上を経てなおタブー視される微妙な政治的問題を正面から扱ったものである以上、劇映画『始めか終りか』製作の過程でもさまざまな軋轢が生じたことは言うまでもない。MPEAが『東京上空三十秒』を占領期間中に日本に送らなかったことにもかかわらず『始めか終りか』を送ったその意図は不明だし、あるいは単なる偶然にすぎなかったのかもしれない。だが、この作品が海外へ、しかも当の被爆国である日本へ輸出されることになった際、議会や国務省を巻き込んでの大きな論争に発展したことは当然の帰結ではあった。そして、そのことは少なくとも占領初期においては占領地域への輸出作品選定において協力関係にあったハリウッド映画産業界、ないしはMPEAと国務省との対立を明確にする事例ともなった。
 1946年12月中旬、米議会の下院戦後経済政策特別委員会に設けられた「海外貿易と輸送に関する小委員会」において、ハリウッド映画産業界に対するヒアリングが行なわれた。『ヴァラエティ』誌の同月25日付の第165巻第3号は、先週行われたこのヒアリングは国務省と映画産業界との対立を改めて浮き彫りにした、と報じている。
 同誌の記事による、このヒアリングで交わされた両者の主張はおよそ次の通りである。先ず国務省側は、占領地域にてこれまで配給された作品群が占領目的にそぐわずにむしろ害を及ぼすものであると主張し、国務省としては改めて事前に作品を試写した上で選定する権利を有したいと説明した。この主張に対しては、それが国家による映画検閲の第一歩に繋がるとして、プロデューサー側や配給側によってきっぱりと拒否の姿勢が示された。映画産業界側は、特に具体例として『始めか終りか』に政府が横やりを入れたためにどれだけ苦労させられたか、という点を指摘し、国家が「何を輸出して良く、何はだめである」かを決めることに繋がる以上、国務省による事前の試写・選定は認められない、とあくまでも自主規制を主張したという。
 国務省はなおも、実際に外国政府からもハリウッド映画の内容に関して苦情が来ている点を指摘しているが、この記事の最後の文章は「官僚は(輸出を認めないことによって)ハリウッドの利益を潰すことができる、と暗にほのめかしている」というもので、国家権力による映画産業界への介入に対する警戒を示す形で締めくくられている。
 確かに、国務省国際映画部のファイルを紐解くと、そこには外国政府からのハリウッド映画の内容に関する苦情の手紙などが保存されており、まんざら国務省側の言い分も筋が通っていないことはない。しかし、現実問題としては、ほんの5ヵ月前の1946年7月には、劇映画を用いて占領地域の国民の民主主義化を促進するというOWIから引き継いだポリシーの下、映画産業界から提出されたリストに基づいて占領地域で上映するのに相応しい作品として60タイトルに承認を与える立場にあった国務省が、今やすっかり上映作品選定のコントロールを失ってしまっていたのみならず、議会という公の場において、映画産業界側の説得力ある申し立てによって、今後そのコントロール機能を回復させる可能性をきっぱりと拒否されてしまったことになる。
 では、この下院小委員会で映画産業界側が具体例として挙げた『始めか終りか』を巡る国務省と映画産業界側との軋轢とは、具体的にはどのようなものであったのだろうか。
 事の発端は「原爆についての映画」に関心を持った著名なコラムニスト、ウォルター・リップマン(Walter Lippmann)が、ウィリアム・ベントン国務次官経由でエリック・ジョンストンMPEA会長に『始めか終りか』の試写の便宜を図ってもらったことにあった。映画を観た結果、大いに疑問を感じたリップマンは、すぐさま1946年10月28日付でプリンストン大学のフランク・エイデロッテ博士(Dr. Frank Aydelotte)に対して注意を喚起する手紙を書いた。
 その手紙の中で、リップマンは同作品が「世界における原爆の問題」について扱った作品ではなく、単に爆弾を製造することに成功したアメリカ人たち、とりわけレスリー・グローヴズ将軍 (Gen. Leslie Groves)の「サクセス・ストーリー」として描かれていること、劇中のトルーマン大統領とグローヴズ将軍とのシーンにおいてこの重大な問題についての大統領の役割は矮小化されており、<マンハッタン計画>に関わった多くの科学者たちも劇中の描かれ方が好ましいとは思われず、特に描かれ方の酷い故ローズヴェルト大統領とスティムソン陸軍長官のために「名誉棄損で訴訟を起こすことさえ考えている」と記している。そして彼は手紙の最後をこう結んでいる。

 このような形の映画を製作すべきではなかったし、もし製作するのであれば純粋に教育目的のためのドキュメンタリー映画であるべきだ。しかし今となっては、これは原則として原爆について説明している映画というよりも、ハリウッド映画のために原爆を利用している映画というべきだろう。
これに対して今や何ができるかはわからないが、少なくとも抗議の声を声高に上げることによって、人々にこれがこの問題についてのアメリカの見方として広く受け入れられたものではないということを知らしめることはできよう。しかしながら、いかんせんすべての外国政府は、この映画が合衆国政府の協力なしには製作され得なかったことに気付くだろうし、それゆえ彼らは、これが合衆国政府の全体としての真意であり態度であると推定するだろう。

 リップマンはこの手紙のコピーを10月29日付でベントン国務次官補にも送り、これが海外へ輸出される前に早急に自分の眼で確かめてほしいとメモを添えた。これを受けてベントンは、リップマンに対してあまり出すぎた真似はしてほしくないという牽制の意味だろうか、「貴兄が私以上に声高に異議を唱えているとは思わない。(注意を喚起してくれた)貴兄の役目を“始め(the beginning)”として“終り(the end)”は私にまかせていただきたい。しかしながら私にできることはわかっている。国務省における私の役割が検閲ではなく、また私がその役目を果たすべきではないということの重要性は貴兄とて重々承知と思う」という、簡にして要を得た手紙を10月31日付で書き送っている。
 だが、実際のところベントンは相当に対処に苦慮したとみえて、同じ日、国際映画部副部長のハーバート・エドワーズ宛てに事の経緯を説明する手紙を送り、エドワーズや国際映画部長ジョン・M・ベッグに対してどう対処すれば良いか指示を仰いだ。
 ベントンに対処をまかされた形のハーバート・エドワーズは速やかに行動を起こし、その一部始終を日誌の形で書き記している。

 10月31日(木):
 『始めか終りか』に関するベントン氏のメモを受け取り、(ベントンのオフィスの)カラン女史に電話し、原子力委員会の注意を喚起してはどうかと尋ねる。そうすれば国務省は問題を背負い込まずに幅広い論議にもっていけるはずだ。

 11月1日(金):
 この問題について(IMPの)ハミルトン・マクファーデン(Hamilton MacFadden)と論議する。彼は西海岸にいた時にこの映画について聞き及んでおり、この映画の製作責任者マッギネス(James K. McGuinness)も知っており、この映画の試写を根回しできるだろう。

 11月4日(月):
 SA-M所属のリンカーン・ホワイト(Lincoln White)に電話したところ、国務次官のオフィスのハーバート・マークス(Herbert Marks)と連絡を取るよう示唆される。彼は原子力委員会の設立に寄与した人物である。彼は委員会がこの種の問題について何か行動を起こしたり、アドヴァイスを与える任にあるかどうかは分からないが、委員会の誰かから電話をさせるよう取り計らうと述べる。
 陸軍省広報課で映画素材について管轄しているカー大佐(Col. Kerr)に電話し、陸軍省でこの映画の試写を見て承認を与えたのが誰なのかを尋ねる。大佐はその情報を得次第おり返し連絡することを約した。

 11月5日(火):
 カー大佐より連絡があり、陸軍省におけるその件についてのファイルによれば、その件は彼が責任者になるよりもずっと前に扱われ、実際のところ相当前に遡るようだとのこと。彼の言うには、その作品は明らかに<マンハッタン計画>に関係した多くの人々からの承認を得ており、ファイルが示唆するところによれば、その作品は大統領自身によって最終承認を得ていることがロス氏(Mr. Ross)によって強調されているとのこと。
 国家原子力情報委員会理事のキャスグレイン氏(Mr. Casgrain)より電話があり、国務省がこの映画に関して何か関心を持っているとの情報を得たが何か役に立てることはないかとのこと。私は、我々はその映画をまだ観ていないが、幾つかの情報源によれば映画の中にこのプロジェクトのために働いた科学者たちにとって好ましからざる描写が含まれているようで、海外に対して誤解を招く可能性があるようだ、と答えた。彼はその映画の製作に関して詳しく知っていると思われる何人かの科学者と連絡を取ってみることを申し出、何か情報を得次第我々に知らせる由。(中略)ベントン氏に対してこの作品が明らかにホワイトハウスの承認を得ていると伝えるよう託す。

 11月6日(水):
 マークス氏とともに国務次官のオフィスへ出向く。彼によれば誰かがこの件に関してピーターソン陸軍長官の注意を喚起し、ピーターソン氏はこの問題について興味を抱いているようだとのこと。この件は機密事項として伝えられ、唯一ベントン氏とマークス氏のみと接触するべく強調されたのだが、ピーターソン陸軍長官はこの問題について一切措置を講じないつもりであるらしい。
 マークス氏はこの問題に関しアチソン国務次官を巻き込むつもりであり、ベントン氏はその件に関し国務次官と議論することを欲するだろう、と語る。マークス氏は、この問題は原子力委員会が立ち入るような問題ではないのではないかと述べた。彼はまた、この作品がリップマン氏の思っているほど悪い作品ではないかもしれないゆえに、国務省の誰かが実際に映画を観てみるべきだと語り、もし試写が行われるようであれば原子力委員会を代表する立場としてではなく、彼個人としてぜひ試写に参加したい由。

 このハーバート・エドワーズの日誌とは別に、彼から『始めか終りか』を製作したMGM側と連絡を取るよう託されたハミルトン・マクファーデンの報告書も存在する。こちらはやや長い報告書なので、その要点のみを記す。
 10月29日にロサンゼルスにいたマクファーデンは、『始めか終りか』の試写を組んでもらう目的でMGMのサム・マルクス(Samuel Marx)と電話で話し、この映画のプロデューサーであるマッギネスが現在東海岸に行っており、唯一状態のいいプリントは彼の手元にあるとわかり、急ぎワシントンDCへと赴いた(実際の映画のクレジットではプロデューサーはサム・マルクスとされており、マッギネスの名はクレジットされていない)。マルクス氏の情報によって、MGMが今回のリップマン氏のクレームに端を発した騒ぎに大変迷惑していること、そしてマッギネスは現在さまざまな政府関係筋からの最終承認を取り付けるために東海岸へ行っていることが判明した。11月1日にMGM試写室で試写を見るつもりでワシントンDCに待機していたマクファーデンは、マッギネスがプリントとともにニューヨークへ行ったことを知り、同日の午後にベントン氏のオフィスで上司であるハーバート・エドワーズと打ち合わせをし、リップマン氏の手紙のコピーなどを見る。その晩、ニューヨークのマッギネス(ちなみにマクファーデンとマッギネスは20年来の友人であった)と電話で話す機会を得た彼は、マッギネスが国務省の態度に大変苛立っていることを知る。マッギネスの主張の要点は、

 MGMとしては、私企業である一映画会社が製作した映画に関して、それがどんな意見であれ異議を申し立てるなど、国務省は身の程をわきまえていないと考える。既に戦争は終結しているのだ。MGM及び他のすべての映画会社は、最早政府関係の機関に対して自分たちの製作した作品を承認してもらうべく提出する義務などは感じていない。

というものであった。これに対してマクファーデンは、原爆に関するものである以上一私企業の判断の枠を超える問題であり、それゆえに国務省としては世界中へ向けて配給する目的で製作された原爆に関する映画については関与する権利があると感じている、と応えた。個人的友人としてであれば喜んで試写の機会を設定しようというマッギネスに対して、マクファーデンは試写を観る以上はあくまでも国務省の立場として挑む、と応えるなど議論は平行線を辿る。最終的には、マッギネスはマクファーデンがMGMの親会社であるローズ・インターナショナルのニコラス・シェンク(Nicholas Schenck)と連絡を取った上で彼がその申し入れを聞き入れれば、承認の手続きはすべてやり直しということになるだろう、と語った。ただし、マッギネスがシェンクから受けた最終的な指示は、政府関係機関に対してはもはやこの作品についても他の作品についても、いかなる公式の試写も行うなというものであったし、この指示は他のどんなローズ・インターナショナル関係者に対しても適用される、というものであった。
 マッギネスはさらに、この作品の製作過程においては原爆のあらゆる側面に関連するすべての政府機関が関与しており、彼らによる変更の要請はすべて受け入れられ、すべての機関から最終承認を受けているのだと説明した。そして、リップマン氏が挙げた問題点の一つであるグローヴズ将軍とトルーマン大統領との対面シーンというのは既に映画から削除されており、その他の点に関してはMGMとしてはこの作品に対して誇りを持っている。そしてこの作品を仕上げて配給することは全体として合衆国の利益に大いに寄与するものであると感じていると結んだ。
 以上のような経緯を経て、国務省国際映画部のハーバート・エドワーズはウィリアム・ベントン国務次官補に対して、自らの日誌とマクファーデンの報告書に添えて、11月6日付でこの問題がもはや国務省国際情報文化局(OIC)で取り扱う範疇を超えているとの意見書を提出し、唯一の可能性としてはアチソン国務次官かピーターソン陸軍長官が関心を示すかどうかであると述べ、いずれにしても国務省のさまざまな部局の者を対象としてこの作品の試写を行なってはどうかと提案、プロデューサーのマッギネス氏は試写を拒否しているが、アレンジは可能であろうと結んでいる。
 コラムニスト、ウォルター・リップマンの不満に端を発したMGM映画『始めか終りか』を巡る国務省とハリウッド映画産業界(MGM)との鬩ぎ合いは、こうして国務省側の完敗という結果に終わった。この事例が示している重要なポイントは、戦時中から戦後における合衆国の文化政策の一環として、ハリウッド映画産業界の協力を前提に対外映画政策案を準備し、戦争終結とともにその役目を担う部局として国際映画部(IMP)を設立、ジョン・M・ベッグという、言わば国務省にとっての切り札をその長に据えて戦後の対外映画政策に乗り出した国務省が、実際にはIMP成立から9ヵ月余りで少なくともハリウッド映画産業界に対するイニシアティヴを完全に失ってしまったことが名実ともに明らかになった、ということである。
 こうして、史上初の「原爆を描いた劇映画」である『始めか終りか』は、翌1947年3月には全米で公開され、賛否相半ばする批評を集め、興行的にはまずまずの成果を収めた。
 MPEAは、これを当の被爆国である日本でも公開することを決めた。だが、日本公開は1950年で、全米公開から3年半後となった。この時間差は被爆国日本への配慮という可能性も否定はできないが、実際には当時は新作公開といってもこの程度の時間差は珍しくはなかった。ちなみに1950年に関して言えば、公開されたアメリカ映画の数136本、うち戦時中のストック作品(1945年までに製作された作品)が45本、1946年製作作品が9本、1947年製作が10本、1948年製作が34本、最も新しい1949年製作のものが38本となっている。ともあれ、この作品は占領地域である日本へのフィルム輸送の際に通常行われる手続きとしての陸軍省民政部(CAD)での承認手続きを経て、1950年には日本のCMPEへと届けられることとなった。
 その後、CMPEからこの作品の審査をまかされていたCIEでは、詳述したようなアメリカ国内での公開を巡る議論を知っていたかどうかは別として、被爆国である日本での公開という特殊性を考慮してか、やはり慎重に対処した跡が窺える。
 CIEの「週間報告」によればこの作品の試写は1950年6月2日に行なわれ、上映を許可すべきかどうか結論が出ずに「ペンディング」とされている。さらに同月27日に再び試写されたがなお結論が出ず、最終的には1950年7月13日付の「週間報告」において許可の決定が出された旨が記されている。その間、どのような議論が行われたのかを示す文書は今のところ発見されていないが、2度までも「ペンディング」扱いになったという事実だけを見てもCIEの慎重な姿勢は十分に感じられる。
 映画『始めか終りか』は、日本でも「問題の原爆映画」として1950年9月12日に日本劇場でロードショー公開された。その後、長らく忘れ去られていたこの作品だが、実は1995年になってこの作品に関する興味深い証言が太平洋を挟んで『ニューヨーク・タイムズ』と『朝日新聞』紙上で紹介されている。
 さて、まず『ニューヨーク・タイムズ』の記事だが、これは7月30日付のロバート・ジェイ・リフトン(Robert Jay Lifton)とグレッグ・ミッチェル(Greg Mitchell)の連名による「Hiroshima Films: Always a Political Fall out」と題した記事で、広島への原爆投下を扱った3本の劇映画(他の2本は1953年の『決戦攻撃命令』と1989年の日本未公開作品Fat Man and Little Boy である)について紹介したものだ。
 この記事は、『始めか終りか』がその製作過程でいかに政府サイドの干渉を受けたかについて具体的な事例を紹介している。つまり、ベントン国務次官補の依頼を受けた国務省国際映画部スタッフが調査した結果、判明した事実についてその詳細を示しているのである。
 その記述によれば、劇中にも登場する<マンハッタン計画>の責任者レスリー・グローヴズ将軍自身がこの作品の脚本段階でのアプルーヴァルの権限を認められており、その結果、元来観客にショックを与えるような描写(廃墟となった広島の様子や焼け爛れた赤ん坊の顔などのカット)によって原爆投下の是非を問いかける意図をもって書かれていた脚本が、全体として原爆の使用は人類愛に基づいた正当な行為であるという基調へと変化し、またエノラ・ゲイ号の広島への飛行自体も激しい高射砲での攻撃をかわしながらの決死の飛行として描かれることになった(実際には、反撃はなかった)という。
 この記事はまた、映画完成後の試写を観たトルーマン大統領自身の意向によって、彼に扮した俳優の登場するシーンが撮り直しとなった事実をも示唆している。その記述によれば、元々のシーンでは、トルーマンとそのスタッフは原爆の使用に消極的であったが、「多くの若いアメリカの兵士たちは私以上に敵を叩きのめそうとするだろう」との結論に達したためゴー・サインを出したということになっていたが、最終的に採用されたシーンでは、ジェームズ・K・マッギネス(同作品のプロデューサーだが、この『ニューヨーク・タイムズ』の記事では脚本家と事実誤認している) によって劇中のトルーマンの台詞は「原爆の使用によって戦争を1年早く終わらせることができる」 というものに変わり、日本の一般大衆に対しては事前にその威力を説明して広島から離れるようにと警告するビラを投下することが言及され、「戦争を1年早く終われることによって30万人から50万人に及ぶアメリカの若者たちの命が救われることになる」と語られることになった。また、他にもホワイトハウスの要請によって、実際に都市に原爆を投下する前に離れた場所に投下してその威力を示してはどうかと主張した科学者のシーンが削除されたという。
 こうして、劇映画『始めか終りか』の元々の脚本にあった「世界における原爆の問題」を描くことに繋がる要素は、政府サイドの干渉によってことごとく変更され、結果としてウォルター・リップマンを憤慨させた「サクセス・ストーリー」的色彩の濃い作品へと変わっていったものと思われる。リップマンが、ハリウッド的粉飾の多すぎるこの作品を政府の圧力によって変えさせることを意図していたことは間違いないだろうが、実際にはこれは政府の圧力によってその元々の内容が歪められることになっていたわけであり、皮肉な巡り合わせではあった。そして、情報ソースの示されていないこの『ニューヨーク・タイムズ』紙の記事の内容がすべて事実であったとすれば、下院小委員会のヒアリングでハリウッド映画産業界側が行なった主張、すなわち国家による映画統制に繋がる政府関係機関の試写・選定の権限保持は断固として拒否する、という主張にもより説得力が出てくると言うことができるだろう。
 次に、一方の 『朝日新聞』 の記事だが、これはスミソニアンの展示会頓挫の一件から思い出されたアメリカ人のこの問題に対する態度の過去の例として、2月8日の夕刊一面の「窓――論説委員会から」に書かれた<濁>記者による「米国少年よ」と題された次のような文章である。

 終戦から2、3年たっていたから、小学生高学年のころだ。連合国軍総司令部(GHQ)の指導で、先生に引率されて、ときおり映画鑑賞をした。
 なかにドキュメンタリー風の米国映画があった。米英の科学者が努力を重ねて原子爆弾を製造し、それが広島に投下されるまでの物語である。
 投下が成功する場面で拍手しそうになった。次いで、それが同胞の頭上に落ちたことを思い起こした。映画館から学校までの帰路、一瞬の思いを痛切に悔やんだことを覚えている。
 占領軍は敗戦国の少年に対して、何という残酷なことをしたか。以後、恨みを抱いてきた。それが誤解だと知ったのは、最近になって、米国映画史の資料を読んだからである。
 映画の題名は『始めか終りか』で、1946年に製作された。“核”の軍事的利用が人類の文明に終末をもたらす、という罪の自覚が作品の底流にある。だから飛行機が爆弾を積んで広島に飛び立つ前夜、主人公が非業の死をとげる。
 理解力があれば、画面から反核思想を読み取れたかもしれぬ。だが、こちらは、英語を知らぬ日本人で、おまけに幼い。銀幕に科学者らの成功談が映っているとしか思えなかった。
 米国の少年たちも同じころ、同じ映画を見たにちがいない。彼らは、日本少年とは違い、自国の作品の意図を正しく知ることができたのではないか。(後略)

 1950年当時といえば、日本の学校教育の現場で視聴覚教育の充実が図られ出した頃で、その後ろ盾となっていたのは言うまでもなくCIE情報課映画演劇班の教育映画ユニットであった。とすると、この作品のCIEでの1回目の試写から最終的に許可が下されるまでの1ヵ月強の間に、教育映画ユニットのドン・デュークあたりがこの作品は学校動員などに積極的に利用できると主張したのではないかと推察できるし、朝日新聞の記者の事例ではないが、日本の映画観客にその意図が理解され得るかどうかといった点などが議論された公算が強い。
 この作品が最終的に完成し、日本で公開されるに至ったプロセスは決して順風満帆ではなかったし、MGMが当初予定していた内容からは相当に後退を余儀なくされたと見ることができるだろう。だが、それでもなお、この作品は「アメリカによる広島への原爆投下とは何だったのか」について、改めて考えさせるだけの問題提起を含んだ作品であることは間違いなかった。とにもかくにも原爆について正面から扱った映画が製作され、そして占領下日本で公開されたという事実は、アメリカによる対日映画政策が単に日本国民に対して娯楽としてのアメリカ映画を提供するというだけでなく、よりポジティヴな形で映画を日本国民とのコミュニケーション手段として用いようとしていたことを示す事例だったと言うことができるだろう。

4 アメリカ側の戦時中の抗日感情への対応

 『始めか終りか』では、当初予定されていたショッキングな場面が脚本段階でカットされたわけだったが、当然のことながらCIEでは日本映画に対する指導においても原爆による被害に触れることは禁止していた。占領初期には、原爆について扱った映画を製作すること自体がタブーとして決して認められなかった。占領後期になると、たとえば大庭秀雄監督の『長崎の鐘』(1950、松竹)や、田坂具隆監督の 『長崎の歌は忘れじ』(1952、大映)のようにキリスト教的視点で原爆を「神の与え給うた試練」と解釈する内容のものには許可が出されたが、それでも被爆者の様子を描写したり、アメリカを批判するような内容を含むものについては決して許されなかった。
 ただし、ここで注意しておかなければならない点は、CIEやCCDでは日本映画において<ノー・モア・ヒロシマ>という声を封印しただけではなく、その対極にある要素、すなわちCMPEを通じて配給されるアメリカ映画の中に出てくる<リメンバー・パールハーバー>などの抗日感情をも同様に注意深く排除していたということである。たとえば、1947年4月29日付のPPBのミハタによる覚書では、1945年製作のパラマウント映画 『ベニイの勲章』 について次のようなに記している。

●覚書:CMPEが輸入した『ベニイの勲章』に対してCIEが施した削除(1947年4月29日)

1) 1947年4月28日、CMPEは戦後新規輸入のパラマウント映画『ベニイの勲章』の検閲のために提出した。映画には許可が与えられた。

2) 以前にその映画を見たことがあった筆者は、検閲の視点から見て問題となりそうなシーンや台詞が含まれていたことを覚えていたため、検閲のための試写を担当した。

3) 映画の内容は、父親と娘、そして小さな町の人々と、かつて町の「不良」だった青年が戦死により栄誉勲章を授けられたことへの彼らの反応を描いている。その英雄はたった独りで日本兵100名を殺したことによって勲章を得たのであり、筆者が以前にこの映画を見たときにはその事実への言及がそこかしこになされていた。

4) 日本人を殺す云々の言及は検閲に供されたフィルムにおいてはすべて削除されていた。CMPEの代表者の言うには、この削除はCIEのガーキー氏によってなされたという。

5) 映画の終りの方で、群衆シーンの中である男が「地上から日本人を抹殺しろ」と書いたプラカードを運んでいるシーンがある。CIEは疑いの余地なくこれを見逃している。筆者の示唆に対し、CMPEの代表者はそのプラカードシーンを削除することに同意した。

W・Y・M

 これはある意味でCIEとCCDによる二重のチェック機能が実際に役に立ち、相互補完関係が成りたっていたことを示す好例と言えるかもしれない。ただし、今日的な視点で見れば、戦死した「不良」ことベニイ(実際には画面には登場しない)はメキシコ人とインディアンの混血児の多い地域に住む、虐げられた民という設定で、死んだ息子に代わって勲章を受け取る父親に対して町の名士たちも彼の出自を忘れたふりをする、という物語自体が問題視されることは間違いないだろう。このプロットは、社会における差別を描きながらも戦争が国民の気持ちを一つにするというもので、原作はジョン・スタインベック(John Steinbeck)である。
 他にも、CIE側の資料によれば、1948年5月に公開された『恋愛放送』というMGM製ミュージカルで、「ジャップ」とか「島国の野蛮人」といった台詞がハリー・スロットによって削除されたり字幕スーパーを変更したりしている例、あるいは1948年12月公開のワーナー作品『旧友』において、ラジオ局の入り口の壁に何気なく貼ってあった<リメンバー・パールハーバー>と記したポスターの映っているシーンがやはりスロットの指摘で削除された例など、実に細やかなところにまで目を光らせていたことがわかる。
 CIEやCCDの行っていた日常業務を「映画検閲」という言葉で単純に括ってしまうと、その言葉に含まれるネガティヴな響きによって被害者的な立場でものを判断してしまいがちになる。だが、ここで紹介したような例を見れば、そこには勝者、あるいは為政者としての立場を押し付けるだけではないバランス感覚が存在していたことは間違いないし、映画全体の内容を損なうことなく最小限の部分だけ削除などの措置を講ずることが、結果的にはその映画の公開自体を封印してしまうより遥かにポジティヴで有効な行為である、と言うこともできよう。<検閲=悪>と単純に決めてかかる態度は、少なくとも占領期研究においては妥当ではない。

5 『日本敗れたれど』へのCIEの後押し

 次に、あるドキュメンタリー映画についての興味深い事例を紹介しておきたい。1949年4月に映画倫理規定管理委員会(映倫)が発会し、それまでCIEが行なっていた日本映画に対する指導や削除の勧告などは映倫の仕事となり、CIEは映倫の背後にあって時に指導しつつこの組織が独り立ちするのを見守ることとなった。ただし当初映倫が審査していたのは日本映画だけで、CMPEが配給していたアメリカ映画については、CMPE側が、アメリカ映画は既にアメリカ国内でブリーン・オフィスの審査を受けているので改めて映倫の審査を受ける必要は認めないという方針を採ったことにより、その後もCIEとCCDによる二重チェックのみが続く形となった(ちなみにヨーロッパ映画を配給する日本の配給会社については、漸次映倫の審査を受けることに同意した)。
 さてそういった過度期にあって、アメリカ映画とも日本映画ともつかないような日米合作という形のドキュメンタリー映画を何本か手掛けた「ZMプロダクション」という独立プロが存在した。このプロダクションは2人のプロデューサー、すなわちジーン・ゼニア(Gene Zenier)とイアン・ムツ(Ian Mutsu)が設立したプロダクションで、ZMのZはゼニア(Zenier)、Mはムツ(Mutsu)の頭文字からそれぞれ採っている。
 GHQ側の記録にZMプロダクションが初めて登場しているのは1949年6月で、製作したドキュメンタリー映画のタイトルは 『日本敗れたれど』という。6月20日に東宝試写室でこの作品を観たという児玉数夫によれば、この作品はクレジット上では製作・配給を映画配給株式会社、配給を東宝が担当した、とされている。
 この『日本敗れたれど』という作品について、広島県呉市の「呉学生映画研究会」による「学映月報」というタイトルの学校新聞は、その1949年7月10日発行の第4号で詳しく扱っている。4頁からなるこの新聞の内容は、広島県教育委員会教育長からの「呉学生映画研究会に寄せる」と題した挨拶文、新役員の紹介などとともにできたばかりの「映画倫理規程」に対する論評、呉の映画館でその月(あるいは翌月)に上映される新作映画の解説記事、そしてその中から1本だけを囲みコラムの形で映画批評として紹介している。この映画批評で取り上げられているのがすなわち『日本敗れたれど』で、執筆者は小堀丈二となっている。先ずは解説記事からこの映画の概要を見てみたい。

 終戦4年……。思えばあのいまわしき戦禍の暗黒より建設の光明へと我々は平和を求めて邁進している。
 この映画はもう一度太平洋戦争を回想して日本敗戦の事実を認識すると同時に現在から未来への新しい文化国家創造に努力すべき意図のもとに製作された、世紀のドキュメンタリイ映画である。
 製作はこの映画の製作のために特別組織されたZMプロダクション、撮影は米国陸海軍報道部、及び日本側では日本映画社、新世界ニュースである。日本語解説に徳川夢声が担当している。
 米国側カメラマンが決死の撮影を敢行した東京空襲、硫黄島上陸大激戦、沖縄海戦、広島、長崎原子爆弾の実況等、日本初公開になる昂奮場面が数多く採録されてある。

 この解説文を読んだ限りでは、日本映画社撮影の原爆フィルムを没収し、劇映画『東京上空三十秒』の公開を見送り、『始めか終りか』の公開に許可を与えるかどうか決めるのに逡巡したGHQ側が、この作品の上映――しかも、よりによって広島での上映――を認めたということはにわかには信じられないくらいである。
 実はこの作品は、日米合作と錯覚させるようなJapan Awakeの英語タイトルを持っているものの実は純然たる日本製ドキュメンタリー映画で、アメリカ国内では公開された形跡はない。プロデューサーの2人、すなわちジーン・ゼニアとイアン・ムツはそれぞれワーナー・パテ社の特派員として滞在していたキャメラマン、通信社ユナイテッド・プレス(=UP)の記者であり、プレス・クラブを通じて知り合い、ZMプロダクション設立時に映画には全くの素人だった。
 陸奥宗光の孫にあたるイアン・ムツは日本名を陸奥陽之助といい、ZMプロダクション設立後何本かのドキュメンタリー映画を手掛けた後、『ユナイテッド・ニュース』を構成するニュース映画5社のニュ-ス映像を撮影、提供するアメリカ・ニューズリール・プール社の代表・東京支局長を経て、1952年にインタナショナル映画という会社を設立して以降、今日に至るまで同社社長を務めている。
 筆者が平成12年10月に陸奥本人に対して行ったインタビューで彼自身が語ったところによれば、彼は戦前の1930年に生まれ故郷のロンドンから、幼少期を一時過ごしていた父の故郷、日本に戻り、同じ船に『ジャパン・アドヴァタイザー』(Japan Advertiser)のジャーナリストが乗船していたのが縁で同紙にて働くことになった。そして、採用試験に際して彼に手紙をくれ、社長面接の前に予備面接をしてくれたのが、当時やはり『ジャパン・アドヴァタイザー』の記者であったドン・ブラウンだったのだという。この個人的な関係は、後に陸奥がUP記者という立場のままサイド・ビジネスとして『日本敗れたれど』を製作したときに大いにものをいうことになった。
 ともあれ、『日本敗れたれど』の内容を確認するため、次に『学映月報』の小堀丈二による映画批評の文章を見てみたい。

 映画を見てこの題名はJAPAN AWAKEとあるので、予想外という驚きに満たされた。つまり、日本覚醒す、でなく、日本よ、覚醒せよ、という題名なのである。米国側の記録と、日本側の記録が織りなされており、主題は明らかに日本に対する警告的なものである。ポツダム宣言を無視して抗戦主義を唱える日本に、断固たる連合軍の総攻撃が加えられ、広島、長崎に投下された原子爆弾は、遂に、天皇の終戦の大詔となってしまった日本が、戦後着々として民主主義に彩られて行く反面、盛り場に刹那的享楽を追う人々の数日々に多く著名政治家の疑獄事件など内面的には甚だ憂うべき道徳観の低下を見せている。野坂参三の帰国、徳田球一の出獄、共産主義は次第にその勢力を拡張して来て、嘗ての官公私の一大ストを展開するに至った。幸に、事なきを得たにしても、このスト的風潮は、ほうはいとして労働者の精神を征服し、民主日本建設に必要な労働力の問題は恐るべき危機に直面している。かかる労働者の精神状態は、戦時中、一部指導者に盲目的に服従した精神と何等距る処はない。この様な盲目的服従こそ、第二次大戦をひき起こしたのであり、その惨たんたる結果が如何様だったかは、硫黄島、沖縄、東京をはじめとして国内諸都市に歴然と残された悲惨な光景を見ても明かである。西欧に於ても北大西洋条約終結により、共産主義勢力圏と民主主義勢力圏は露骨な対立を示すに至った。東洋の日本が果して今のままで進んで良いのだろうか。日本よ、ここらで覚醒すべき時ではあるまいか。そこに題名のJAPAN AWAKEが強くきいている。こういった主題は、十分のみこめるけれど、日本語の題名に惑わされると、唯の記録映画的興味しか湧き起ってこない。勿論、硫黄島に示された米兵の勇敢さ、沖縄島に於ける徹底的な対空戦闘。或は、京浜地区に対するB29の大爆撃、我々が完全に彼等の敵でなかった歴然たる証拠が、スクリーンに見られるのは、従来の我々の観念を、はっきりと覆してくれる点で、誠に興味あり其点記録性は確かに満点であるといえよう。(中略)米国が物量のみで勝ったのではなく、その様な物量をあらしめた強じんな生への意識によって勝利を収めたという事に今更の如く敬意と驚嘆の念を持たずには居れないのである。安易な死の道を選んだ逃避的態度は所詮、強き生命尊重の力に及ばなかった事を、歴然たる二十世紀の事実として受取らねばならない。

 映画批評というよりも当時の世相についての鋭い批評に近い内容で、その政治的立場もはっきりと示されている文章であるが、それはつまり、この映画そのものの政治的立場がこの批評のそれと近いということを表してもいる。その月の唯一の批評対象作品として取り上げていることからも関心の高さは窺えるが、同じこの『学映月報』に載っている呉の映画館の番組予定表を見ても、娯楽本位の劇映画を見たくて劇場に足を運んだ観客へもこの映画を見せたいとの配慮からだろうか、同作品は東宝・新東宝系列で中川信夫監督作品『深夜の告白』との2本立てで公開されていたことがわかる。
 さて、ではこの作品が劇場での展開と同様にGHQ側でも邦画の新作と分類され、できたばかりの映倫にその審査を委ねたのかというと実はそうではない。CIEの「週間報告」によれば、この作品は映画演劇班教育映画ユニットの扱う「日本製ドキュメンタリー及び教育映画」の範疇に入れられ、試写の結果許可を受けているのである。
 「ドキュメンタリー及び教育映画」の項目は、基本的には全国に配置された16mm映写機ナトコで上映するのに相応しい教育用映画を対象としており、大抵のものは1巻か2巻程度の短編となっている。『日本敗れたれど』は6巻物なので約1時間の上映時間ということになる。
 この作品が審査された週には合計8本の作品が審査されており、(『日本敗れたれど』以外はすべて短編)、それぞれ「最高・良い・まあまあ良い・普通・良くない(Very good/Good/Fair good/Fair/Poor)」の5段階にランク分けされている。そしてこの週の8作品について言えば「最高」が1本、「良くない」が1本、他のランクがそれぞれ2本ずつという内訳になっているのだが、その中で「最高」とされた1本こそがこの『日本敗れたれど』なのである。そして、ほんの1行でまとめられているその内容についての記述を見ると、「第二次大戦物。赤の驚異。占領下の日本。そして日本の将来」となっているのである。
 ここでも反コミュニズムというポリシーが如実に現れているわけであるが、占領初期には日本が占領下にあるという事実を匂わせただけでも厳しくチェックされていたことを思えば、この1行の記述は占領政策の転換をまざまざと示していると言えるだろう。
 この作品が本来16mmのプリントによって教育目的に使用されることも想定されていたのか、との筆者の問いに対しては、陸奥は、「映画ビジネスについてはまったくの素人だったのでそこまでは考えが及んでいなかった。最初に持ち込んだ東宝が配給を引き受けてくれることになったので、歩合ではなくフラット(500~600万円)で契約した」と語っている。そして、製作意図としては、プレス・クラブで劇映画とともに上映されていたアメリカのニュース映画の中にあった太平洋戦争の生々しい映像を手に入れて編集し、日本人観客に見せればビジネスとして大きな可能性があると考えたし、「軍部に舵取りを任せているうちにズルズルと戦争に引きずり込まれたのと同様に、ボヤボヤしていたら今度は共産主義に国をダメにされるかもしれない、という認識」を広く観客に伝えたい、という使命感もあってこの作品をつくったのだという。
 結果的には、1949年6月21日より全国の東宝・新東宝系列劇場で上映されたこの作品は、興行的に大変良い成績を残し、また観客の反応についても概ね肯定的だったことがわかっている。『時事通信・日刊映画芸能版』第1109号(1949年7月22日発行)によれば、この作品は、東京都内では新宿東宝、渋谷東宝、富士館、本所映画の4館で封切られ、興行収入538万5千円という「戦後最高」の記録をつくったという。
 この作品で用いられた広島・長崎への原爆投下や東京大空襲のフッテージは、米陸軍省撮影による空撮映像で、キノコ雲の象徴的映像やB29から投下された爆弾が地上の攻撃目標上で炸裂する様子を上空から撮ったものである。原爆投下後の様子として瓦礫の山とグニャリと曲がった鉄骨などを写したカットも多少はあるが、それが広島や長崎の被爆後の映像であるかどうかは不明だし、もちろん人間が映っているカットは一つもない。
 戦後、UP記者となってドン・ブラウンと再会した陸奥は、記者としての仕事を続けながらサイド・ビジネスとしてZMプロダクションを設立したのだが、『日本敗れたれど』公開に際して検閲にひっかかって許可されないかもしれない、ということになったときにブラウンを訪ねて内容を説明し、助けてほしいと訴えたのだという。
 陸奥によれば後押ししてやるとも何とも言わなかったというが、日本人の国民感情を刺激することが予想される東京大空襲や原爆についての映像の取り扱いに細心の注意を払っていた(日本映画社撮影の原爆フィルムが没収され、劇映画『東京上空三十秒』の公開が占領終結後まで見送られ、『始めか終りか』公開に許可を与えるかどうか何度も議論が交わされた)にもかかわらず、CIEにおいてこの作品が最高ランクの評価を得てその公開が後押しされた理由の一つは、“赤の恐怖”というこの映画の基調が時宣に適っていた点に加え、背景としてかつて職場を共にした仲間同士であったドン・ブラウンと陸奥陽之助の個人的信頼関係がプラスに作用したであろうことは想像に難くない。
 ただし、CIE文書の中でこの『日本敗れたれど』からほぼ2年後にあたる1951年8月28日付のハリー・スロットの覚書を見ると、彼が個人的にはジーン・ゼニアのビジネスに関して良い印象をもっていないばかりか、占領目的に対して有害ですらあると指摘していたことがわかる。
 この覚書はゼニア(ゼニアブラザースプロダクション)と理研科学映画との共同製作による新作長編ドキュメンタリー映画である『日本海軍の終末』という作品についての意見書なのだが、スロットによれば、ゼニアは元々は『マッカーサー物語』というタイトルの作品にしたかったものの、そのタイトルに見合うだけのマッカーサーの映像が十分に揃わずに断念したという。
 スロットはドン・ブラウン情報課長宛てに、この種のドキュメンタリー映画は「建設的な目的を持っておらず」、また「扇情的な戦闘シーンに対して再教育的価値があると分類することは決してできない」と勧告している。さらに、この作品を含むゼニア製作による一連のドキュメンタリー・シリーズでは、ポツダム宣言から広島、長崎への原爆投下へと至る連合軍と日本の関係を説明するのに、「合衆国は日本本土で決戦を行なうことよりも原爆を使用することを選んだ」というナレーションが決まって用いられているが、これは明らかに日本人にとって有害となる説明であると信じている、と述べているのである。彼は映倫に対して、情報課長からの指示があるまで許可を与えるかどうかペンディングにしておくようにと示唆した旨を記して筆を置いている。
 この提言に対して、ドン・ブラウンがどのような対処をしたのかを示す資料は残されていないが、ハリー・スロットについて言えば、その提言が聞き入れられたのかどうかとは別の次元で、その仕事における一貫性を指摘しておくべきであろう。初期のデイヴィッド・コンデ、H・L・ロバーツの後を受けてジョージ・ガーキーが1946年11月にCIE情報課映画演劇班長に就任したとき以来、ずっと劇映画ユニットの現場で仕事をしてきた彼だが、その仕事に対する真摯な姿勢は映倫設立を終えて占領政策が終結間際になったこの時期にも変わることはなく、理想主義的なところを最後まで失わなかった人物であったことが残された覚書などの書類から窺い知ることができる。
 本節では、日本人の国民感情に配慮すべき作品が具体的にどう扱われたか、という観点で、いくつかの事例を検証したわけだが、その結果明らかになった点を一言で表すならば、「アメリカ本国と占領地日本との温度差の違い」と言うことができよう。
 詳述した『始めか終りか』の事例で明らかになったように、占領開始後1年余を経過した時点で既に国務省国際映画部は、劇映画を用いての日本の民主主義化に関して、その政策を実施するだけのイニシアティヴを保ち得ない事態にまで追い込まれてしまった。そこには、ハリウッド映画産業界側の「もはや戦争は終わったのだ」という言葉に集約される私企業としての利益追求の要請に対して、それを食い止めるだけの統制力も理由も持ち得なかったという事情がある。
 しかしながら、戦時中に国務省知日派スタッフが中心となって描いた構想にかなり近い形の組織として占領下日本でフル稼業し始めていたCIE、あるいはOWI海外映画課のプランに基づいて設立されたCMPE、そして軍によるチェック機能として存在していたCCDなどの諸機関は確実に「アメリカの占領目的」に基づいて任務を遂行しており、その意味では少なくとも占領地である日本においては、それがハリウッドのメジャー・スタジオであれ日本の小さなプロダクションであれ、私企業である映画会社が勝手気ままに作品を製作・配給できるわけではなく、二重、三重のチェック機能が働いていた、と言うことが出来るだろう。特に、国務省国際映画部がコントロールを失ってしまった劇映画政策の現場担当者が、常に“占領政策はどうあるべきか”というGHQの初期理念に忠実に仕事をし続けたハリー・スロットのような人物であったことも、占領政策立案過程とその実施段階とで確かな連続性が保たれる上でプラスに作用したと言うことができよう。
 だが、<逆コース>あるいは<ギア・チェンジ>などの言葉で言い表される占領政策の方向展開は、確実に対日映画政策の現場においても影響を及ぼした。原爆投下や東京大空襲の実写映像を含んでいるとはいえ、基本的に「赤の脅威」という基調でまとめられていたドキュメンタリー映画『日本敗れたれど』が、CIEによって「最高」のランクに格付けされて公開された事実などはその典型的な例であったと位置付けることが可能であろう。

第3節 アメリカ映画は民主主義をプロモートし得たか

1 第2段階に入ったSWNCCの占領政策への関与

 最後に、第I部で解明を試みた占領期における対日映画政策の形成過程と、第II部で詳述してきたその遂行過程との間に確かに連続性があったと言えるのかどうか、もう一度考察してみるとともに、アメリカ合衆国による占領期対日映画政策とは何であったのか、それは成功したと言えるのかどうか、という点を整理してみたい。
 GHQ/SCAP設立に伴い、国務省としては自らが中心となって準備してきた対日占領政策案を実際の政策として反映させるための公式なチャンネルとしてSCAPに政治顧問を送り込むことにした。だが、有力候補だったジョセフ・グルー元駐日大使は終戦の翌日、健康上の理由から国務次官の職を辞し、SCAP政治顧問への就任も辞退した。グルーは代わりに自らの右腕的立場だったSFE議長ユージン・ドーマンか国務省の極東局長ジョセフ・W・バランタインを送り込むべく推薦したが、グルーの後任ディーン・アチソンは、重慶のアメリカ大使館から帰国したばかりのジョージ・アチソン(George Atcheson. Jr.)を指名し、ドーマンとバランタインはともにこの人事に抗議して職を辞した。
 マッカーサーは政治顧問局(Office of Political Advisors)を設置して国務省からの代表を置くことは認めたものの、それは参謀長指揮下のGHQ/SCAP正規部署とは別に設けられたため、直接的に各部局による政策遂行に関与できるわけではなかったし、国務省と政治顧問局の間のコミュニケーションにしても、すべて統合参謀本部経由で行わねばならず、SFEが実際の政策遂行現場にその意見を反映させることは事実上不可能だった。
 だが非公式には、PWC文書を経てSWNCC/SFE文書として準備されてきた個々のジャンルにおける占領政策案は、確かに占領政策の現場に影響を及ぼし得たとも言える。たとえば、ボートンらとともに国務省における対日占領政策案の立案にあたっていたロバート・A・フィアリーは、占領開始直後の1945年10月、ジョージ・アチソンの政治顧問局へとワシントンから転任している。フィアリーはマス・メディアについての政策原案となったPWC-288シリーズについての会議にも参加していたが、本来は経済の専門家であり、「対日安全保障政策:経済的側面」と題した文書(CAC-194 Preliminary)の起草を担当していた。
 森田英之の研究によれば、彼はこの文書の中で現在の日本国憲法第9条の柱である「陸海空軍の永久不保持」を主張しており、その彼が実際に占領政策の現場で憲法改正を手掛けていたアチソンの許へと移動になったことの意義は小さくないと思われる。
 また民政局(Government Section)次長だったチャールズ・L・ケーディス大佐(Col. Charles. L. Kades)は、憲法改正に関して自分たちの文書を起草する際のガイドとして、SWNCC-288 (「日本政府の組織改革」)を参照し、彼らの監督者たちもまた、草案がSWNCC-288の原則と完全に一致しているかを頻繁にチェックしていたという。
 他にも、対日労働政策案の原型としてのSWNCC-92シリーズと内容的に連続性を持つ『民政ガイド:日本の労働組合と団体交渉』(=陸軍省パンフレット第31-68)を起草したセオドア・コーエン(Theodore Cohen)が、そのままGHQ/SCAPの経済科学局労働課長となって1947年5月まで占領下の労働政策の実務にあたったというケースのように、占領政策の立案者が実際の占領政策に関与したという例は確認できる。
 さらには、ヒュー・ボートンとジョージ・ブレイクスリーもまた、実際に占領期間中に日本を訪れて、占領政策が彼らの立てたプランに沿って行われているのかどうか直接確かめる機会を持っている。
 ブレイクスリーは、自身が設立に尽力した極東諮問委員会の委員長であったフランク・R・マッコイ少将(Maj. Gen. Frank R. McCoy)とともに、1946年1月に日本を訪れて現地視察している。また、諮問委員会が正式な極東委員会(Far Eastern Commission)として改組され、第一回会議が開催された1946年2月26日以降は改めて議長に選出されたマッコイを補佐する運営委員会アメリカ代表となり、占領期間中を通じて同職にあった。
 ボートンは1945年11月には日本部(JA)次長となり、翌年3月には部長代理、さらに日本部が東北アジア部へと発展改組された1947年2月以降は同部長、1947年10月以降は極東局長特別補佐官として、一貫して国務省内で対日占領政策を見守る立場にあり続けた。彼は1947年3月に、一時帰国中だったジョージ・アチソンが日本へ戻るのに伴って日本へ同行することになり、現場の政策遂行責任者たちとさまざまな問題を話し合うとともに、相変わらずコミュニケーションに問題のあった国務省(ワシントンDC)とSCAP政治顧問局(東京)とのチャンネルを改善しようと試みている。
 ボートンはマッカーサーと日本の講和条約について話し合う機会を持ったほか、3月21日にはCIEとワシントンの陸軍省民政部(CAD)との電話会議に国務省として参加する許可を得てこれに加わり、以降は陸軍省とGHQ/SCAPが極東委員会の関係する問題を話し合う電話会議にはSWNCCの国務省メンバーも加われるようにすべきだ、との提案をケーディス民政部次長に対して行っている。
 ボートンはマス・メディア政策に関して特に専門家だったわけではなかったが、SFE-118によって審議されてきた「日本の公衆情報・表現メディアの統制」が実際にどう行われていたのかについて、後に次のように記している。

 完全な表現の自由は、軍事占領の下では不可能である。もし軍事占領に成功しようとするなら、軍事占領は、その事柄の性質上、占領政策に反対して、占領の安全ないしは成功を脅かすことになるようなことは許しえないであろう。だから、このような矛盾は、基本的人権を達成しようとする動きのあらゆる面に、たえず現れた。日本人は、占領の歴史のきわめて当初に、この矛盾を知るようになった。1945年9月19日、SCAPは、新聞条例(プレス・コード)を発して、「虚偽の声明、連合軍にたいする破壊的な批判、連合軍にたいする誘惑的な疑惑や憤慨、および軍隊移動にたいする勝手な議論」にたいする検閲を課した。2週間後に、SCAPの指令は、思想および表現の自由に加えられていた禁令を解くよう命令した。但し、新聞条例に定める禁令は例外であった。占領官憲による検閲は、占領当初の2年間はとくには緩和されなかったし、占領にたいする公の批判は許されなかった。そのため、日本人の間に、「表現の自由」というこの新しい概念にたいする実際的熱意をよびさますことは困難であった。自由な発言をのぞんだ人々は、自分たちにもっとも直接的に影響のあった1つの争点、すなわち占領、にたいしては、自由な発言を許されないことがわかった。

 この、「表現の自由」発達の促進と「統制(検閲)」との間の矛盾に関しては、映画を含むマス・メディアについての政策原案であったPWC-288bが最終的に承認された1944年11月17日に行われた国務省戦後計画委員会の第66回会合の際にも議論が交わされていた問題だが、結果的には軍事的占領という枠組みを考えれば矛盾するものではないとの意思統一がなされており、その意味でボートンら対占領政策案立案に関わったワシントンの親日派グループの立場は一貫している。
 ボートンはまた、この来日時に得た感触として次のような分析を試みている。

 私は、1947年春に訪日した折、検閲制度を批判した日本の官吏や民間人が、多数いることを知った。かれらは、私的につぎのように論じた。表現の自由の概念によって、アメリカ占領軍職員の召使の収容の計画、SCAP職員のあるものの馬鹿さ加減、少数の占領軍職員が行なった放恣、検閲局による新聞条例の厳格な解釈、こういったものに反対の発言をする権利が与えられた、と。アメリカの市民の自由の連合の書記長、ロジャー・ボールドウィンが、マッカーサーにたいして検閲制維持の必要な理由を訊したとき、マッカーサーは、検閲制は存在しないといった。(中略)外国の新聞特派員は、占領を批判したり、日本に滞まったりすることは、いずれも困難であることがわかった。検閲の全問題は、反対の批判にたいするマッカーサーの過敏性に密接な関連を有した。マッカーサーの全幕僚は、この事実を知っていたので、反対の批判をマッカーサーの耳にいれないよう、出来るかぎりの努力をする傾向があった。

 実際、マッカーサーはアメリカの通信社などを含む海外メディアによる占領政策批判や自分自身に対する悪口を常に気にしていたようである。ともあれ、ヒュー・ボートンがこうして実際に占領下の日本を視察し、日本の情報表現メディアのあり方に関心を抱いていたことへの注意は喚起しておいてよいだろう。
 政治顧問局と国務省とのコミュニケーションの問題に関しては、その後もさほどの改善はなされなかった。1947年8月18日にはジョージ・アチソンが協議のためにワシントンDCへ戻る途中に飛行機事故で亡くなり、後任としてウイリアム・J・シーボルドが就任した。シーボルドが国務長官宛てに映画に関するいくつかの報告書を送っていたのは既に見てきた通りだが、彼が国務省の要請により占領下日本におけるアメリカ映画の利用状況を報告することになっていたという事実を示唆する文書が、国際映画部の文書ファイルの中に残されている。
 1948年2月28日付のその文書は、シーボルドから当時の国務長官=ジョージ・C・マーシャル(George C. Marshall)宛てのもので、陸軍省のルートを通じて電信文として送る手続きを取らず、郵送で送られたようである。これは国務省とのやりとりがSCAPに筒抜けになってしまうことを避けるための措置と考えられる。その手紙の主題は「海外でのアメリカ映画使用についての情報を求めた国務省の要求について」というもので、内容は以下のようなものである。

 これは、1947年12月30日付のナンバーのない国務省からの指示書により、アメリカ映画に関する新聞批評、公衆による批判、地方の観客に対する効果についての非公式な評価について継続的に報告するものです。
 この使命のために受けた情報によれば、観客による反応や批評的意見を含めた、日本の映画産業界における現状の進展状況は総司令部のCIE映画演劇班によって間もなく調査されるとのことです。しかし、こちらで受け取った指針に示されている国務省の要求を満たすような素材についての定期的な会合や報告書作成などはなされていません。CIEは、日本の情報源からそういった素材を選び、翻訳し、報告することによって情報を定期的に入手するよう段取りしました。計画では、報告書は日本の観客に対する映画の効果を量る非公式な評価や同様の情報素材を供給するように工夫されています。完成次第、この計画を国務省の需要を満たすための潜在的な効果についてのコメントとともに提出します。
 MPEA(これは国務省の指令の中でMPAAの海外部門として言及されています)の現地エージェンシーであるCMPEのチャールズ・メイヤー代表によれば、アメリカ映画の配給に関わるすべての紹介記事、批評、その他の新聞・雑誌素材はMPEAのニューヨーク・オフィスに定期的に送られているとのことです。その報告書には、展示会やポスター、映画愛好グループとの協力、教育上のまた専門家による組織、その他の役に立つ情報といった宣伝上の特別な計画についての情報もまた含まれているとのことです。その素材については、MPAAの国際情報センターに照会すれば、その補助機関であるMPEAのニューヨーク・オフィスのファイルとして利用可能であると推定できます。
 映画演劇班は、国務省に対する定期的な報告書提出計画に際し、素材を集め、翻訳し、報告書として編集する作業の重複を避けるため、MPEAのファイルが利用可能かどうか考慮すると述べています。

 この手紙は、国務省としての占領下日本に対する唯一のオフィシャルなチャンネルである政治顧問局を介して、国際映画部の対日映画政策案のうち、厳選されたハリウッド製劇映画を通じて日本の民主化を促進していく、という部分がうまく機能しているかどうかを国務省自身が定期的に確認しようとしていた事実と、それにCMPEが協力した可能性を示しているものとして大変に重要なものである。
 国務省からシーボルドに宛てた調査の要請書そのものは発見できなかったが、おそらくはジョン・ベッグの国際映画部が、極東局に本部のヒュー・ボートンか国務次官補のウィリアム・ベントンを通じてシーボルドへ要請したものであろう。
 1946年以降のSWNCC文書を見てみると、ボートンの許へは占領下日本に関する情報や現地からの報告書の類はすべて届けられていたことが確認できるので、CIEによるアメリカ映画の反応についての報告を含む、日本の映画産業界に関する報告書についても当然彼の手元へもコピーが届けられたはずである。
 このように、対日占領政策案を作成する上で中心的役割を果たした国務省極東局日本部のヒュー・ボートンら「知日派」スタッフは、たとえばこの対日映画政策に関して言えば、実際の占領政策開始後にも国際映画部、SCAP政治顧問局を通じてCIE情報課映画演劇班の活動を把握するチャンネルだけは細々と維持されていたと見るべきであろう。
 SWNCCとしては、占領開始にあたってもその影響力をGHQ/SCAPに対して維持すべく、収集したさまざまな情報を元にそのヴィジョンを提示し続けている。1947年8月4日付の「SWNCCによる日本の第二段階研究」と題した文書(第二草稿)は、GHQ/SCAPによる実際の対日占領政策を分析した上でのSWNCCとしての見解をよく示している。これは政治、経済、文化、軍事面などのあらゆる側面についての分析・提言だが、その中で占領目的達成のための情報・文化的手段として次のような記述がある。

 日本社会は、現在は変貌を遂げようとする過度期にあり、それは外国の情報素材や文化との接触を渇望する需要によって促進されている。(講和)条約が発効すれば、古いパワーの復活と戦い、新しいパワーの成長を促す上での本質的に教育的な技術というものに現在よりももっと大きく頼る必要があるであろう。最大限の努力をすべき分野というのは、教育や市民の自由、そして労働組合のような日本における民主主義的プロセスの確立を支える分野である。
 今日では、まだ大きな脅威ではないものの、共産主義者のプロパガンダは占領政策終結後における範囲とその激しさを増加させていくだろう。攻撃程な情報・文化プログラムは、アメリカの威信を高く維持し、反民主主義的プロパガンダと戦うことの両方にとって必要となるであろう。
 商業チャンネルを自由化することは手助けとはなるだろうが、政府のプログラムは私企業に対し図書館、ドキュメンタリー映画、そして展示会のようなサーヴィスを供給する必要があるだろう。

 占領開始後においてSWNCCが果たし得た役割が限定されたものであったことは間違いない。だが、対日映画政策がその形成過程と遂行過程との間で連続性を保ちえたか、という観点で考えれば、実質的にSWNCC/SFEの映画政策文書を準備した国務省国際映画部(国際情報部)がCIEによる教育映画政策や、CMPE設置を通じての劇映画政策に直接関わったことによって直接的に繋がっていたと評価することができるだろう。

2 公開が見送られたアメリカ映画と「閉ざされた言語空間」

 MPAA/MPEA会長のエリック・ジョンストンは、前章で引用した1950年1月21日発行号の『サタデー・レヴュー・オブ・リテラチャー』誌の記事において、ハリウッド映画産業界が海外の観客に対して自信を持って勧められる映画の例として、『我等の生涯の最良の年』『子鹿物語』『聖メリーの鐘』『我が道を往く』『ママの想い出』『ジョニー・ベリンダ』『若草物語』『大平原』『新天地』『甦る熱球』『マーガレットの旅』『卵と私』『少年の町』『楽し我が道』『令嬢画伯』『緑に誓う』『日曜は鶏料理』『赤い河』『打撃王』『ベーブ・ルース物語』といった作品を挙げており、確かにそれらはすべて占領期間中に日本でも公開されている。
 そして、ジョンストンはまた、彼がその記事を寄稿するきっかけとなったN・カズンズ記者のハリウッド批判への反論として、彼が海外で見たであろう「怠惰でリッチな生活」を描いた映画とは異なる生活を描いたアメリカ映画も輸出している、と主張し、次のタイトルを例として挙げている。『怒りの葡萄』『ブルックリン横丁』『我が道は遠けれど』『三十四丁目の奇跡』『二人の青春』Joe Smith, American. Apartment for Peggy. An American Romance.『G.I.ジョウ』『緑のそよ風』『硫黄島の砂』。
 これらは、いわばアメリカにも質素で貧しい生活があることを描いた作品、あるいは厳しい環境に身を置かざるを得ない立場の人たちがいることを描いた作品と言って差し支えないであろう。もし、これらの作品もすべて<アメリカン・ウエイ・オブ・ライフ>の一局面であるとして海外に送られたのであればジョンストンの説明も説得力を増すのだが、実際にはたとえば日本においては上記11作品のうち、原文表記の3作品は未公開だったし、『怒りの葡萄』『G.I.ジョウ』『硫黄島の砂』の3作品はいずれも占領期間中の公開は見送られている。
 このうち、『G.I.ジョウ』『硫黄島の砂』Joe Smith, Americanの3作品は戦争映画とカテゴライズされるものであるから、占領地域での上映には慎重な扱いを要したとしても不思議ではない。また、文献によればApartment for Peggyはジョージ・シートン監督 (George Seaton)、ウイリアム・ホールデン(William Holden)主演のコメディで、トレイラーで質素に暮らす復員GIとその若妻と、大邸宅に1人で住みながら自殺を考えている大学教授とが、生活のスペースと生きる情熱という互いに不足しているものを与え合うという内容。An American Romanceは、キング・ヴィダー監督(King Vidor)によるミネソタの鉄鉱で働く貧しい移民を主人公としたドラマである。どちらの場合も、アメリカ社会の中の貧しい階級の人々を主人公にしていたことは間違いないが、特に海外での上映に不都合があるような内容、あるいは描写を含んでいたかどうかは不明である。
 ただし、残るジョン・スタインベック原作、ジョン・フォード監督による『怒りの葡萄』の場合は、間違いなくそこに描かれているアメリカ社会における極度の貧困、そして貧者に対する社会の差別描写が原因となって、日本での公開がずっと後の1963年まで実現しなかったと推定できるのである。
 この作品に関して、国務省側とハリウッド映画産業界側の双方による評価の例を紹介してみたい。先ず、国務省側の資料としては、アーサー・W・マクマホン博士(Dr. Arthur W. MacMahon)と国務省公共問題局(Office of Public Affairs)によってまとめられた国務省自身の出版物としての「Memorandum on the Postwar International Program of the United States」の中で紹介されている、外交ルートを通じて集められたアメリカ映画への批判の実例としてのドミニカ共和国からの次のような報告がある。

 合衆国内において『怒りの葡萄』のような映画が重要な社会ドキュメントとして全般的に熱狂的に迎えられるのはもっともなことであるが、その背景や製作された理由などについて理解していない海外の観客にこれを見せることの影響は、十二分に考慮しなければならないだろう。同じタイプの他の映画としてアメリカン・ライフの裏面を描いている『タバコ・ロード』は、間違いなく悪い印象を残すであろう。

 ちなみに『タバコ・ロード』もまたジョン・フォード監督が手掛けた作品で、この作品と『怒りの葡萄』の脚本はどちらもナナリー・ジョンソン(Nunnally Johnson)が担当している。内容的には、ジョージア州を舞台に、地代が払えずに追い出される寸前のプア・ホワイト(貧しい白人)の老人を主人公としたコメディだが、やはり日本では1988年まで公開されなかった。
 一方のハリウッド映画産業界側の資料というのは、業界紙『ムーヴィータイム・USA』 (Movietime, U.S.A.)のヴァレンタイン・デイヴィス(Valentine Davies)による「アメリカ映画――デモクラシーの大使」と題した文章で、映画芸術科学アカデミー協会の「外国におけるアメリカ映画」のファイルに含まれていた日付のないタイプ原稿(ただし、その内容から1950年以降に書かれたことがわかる)である。その文章の中に、次のような一節がある。

 海外におけるアメリカ映画の影響の特別な例は、明らかになればなるほど面白いものである。何年か前、鉄のカーテンの向こう側で数本のアメリカ映画上映を許可したソヴィエト当局は、モスクワにある劇場で帝国主義者であるアメリカに存在する恐ろしい状態の例として『怒りの葡萄』を上映した。しかしながら、彼らの計画は完全に失敗してしまった。と言うのも、モスクワの観客はそこに、最も貧しいアメリカ人ですら自分たち自身の車を持っていて、何の制限もなくどこへでも旅することができるという事実を発見し、目を丸くして驚いたからだ。

 前述の如く、MPEAがその興行価値を低くしか評価していなかったからか、あるいはこの作品を要注意作品とみなしたであろう国務省に対して映画産業界への統制の口実となり得る事例をつくりたくなかったからか、ともかくも結果的には『怒りの葡萄』は占領下日本では輸入されることなく終わった。
 占領下日本で公開が見送られた作品の中で、今日ハリウッド史上に残る名作と位置付けられているものは、他にも少なからず存在する。たとえば、サイレント期から1982年製作の『E.T.』までのアメリカ映画の中から201本の名作を選んだ、キネマ旬報・別冊『映画史上ベスト200シリーズ・アメリカ映画200』の中で、占領期間中に日本で公開される候補作品となり得たものを1939年から1952年までに製作された作品と考えれば、その期間中の作品で日本公開が見送られたものは13本となる。それらは次のような作品である。

●占領期間中に日本で公開されなかった名作アメリカ映画13作品リスト

①『オズの魔法使い』(1939/MGM/監督ヴィクター・フレミング/主演ジュディ・ガーランド/日本公開1954/主題曲「虹の彼方に」が有名なミュージカル・ファンタジー)

②『風と共に去りぬ』(1939/MGM/製作D・O・セルズニック/監督ヴィクター・フレミング/主演ヴィヴィアン・リー/日本公開1952/南北戦争時の南部が背景のドラマ)

③『怒りの葡萄』(1940/フォックス/原作J・スタインベック/監督ジョン・フォード/主演ヘンリー・フォンダ/日本公開1963/小作農民の悲惨な生活を描き社会構造を批判)

④『海外特派員』(1940/ユナイト/製作W・ウェンジャ―/監督アルフレッド・ヒッチコック/主演ジョエル・マクリー/日本公開1976/第二次大戦前夜のヨーロッパ平和会議を背景としたサスペンス)

⑤『チャップリンの独裁者』(1940/ユナイト/製作・監督・主演チャールズ・チャップリン/日本公開1960/ヒトラーそっくりな架空の国の独裁者と彼に瓜二つの男を描く喜劇)

⑥『市民ケーン』(1941/RKO/製作・監督・主演オーソン・ウェルズ/日本公開1966/新聞王W・R・ハーストをモデルにしたメディア王ケーンの権力欲に満ちた生涯を描く)

⑦『偽りの花園』(1941/S・ゴールドウィン/原作リリアン・ヘルマン/監督ウイリアム・ワイラー/主演ベティ・デイヴィス/日本公開1954/夫の財産に目を付けた富豪の妻の貪欲さを描く)

⑧『サリヴァンの旅』(1941/パラマウント/監督プレストン・スタージェス/主演ジョエル・マクリー/日本公開1994/浮浪者に変装した映画監督が現実社会の厳しさを体験)

⑨『ヤンキー・ドゥードゥル・ダンディ』(1942/ワーナー/監督マイケル・カーティス/主演ジェームズ・キャグニー/日本公開1986/振付師J・Mコウハン伝ミュージカル)

⑩『チャップリンの殺人狂時代』(1947/ユナイト/原案オーソン・ウェルズ/製作・監督・主演チャールズ・チャップリン/日本公開1952/未亡人殺しの青髭を描き戦争を告発)

⑪『十字砲火』(1947/RKO/監督エドワード・ドミトリク/主演ロバート・ライアン/ロバート・ヤング/日本公開1986/復員後社会復帰できぬ男の姿とユダヤ人差別を描く)

⑫『紳士協定』(1947/フォックス/製作D・F・ザナック/監督エリア・カザン/主演グレゴリー・ペック/日本公開1987/ユダヤ人差別の実態を取材する新聞記者が知る現実)

⑬『オール・ザ・キングスメン』(1949/コロンビア/監督ロバート・ロッセン/主演プロデリック・クロフォード/日本公開1976/汚い手で州知事になった政治家が暗殺される)

 これらの中には、もちろん「ミュージカル映画は日本では商売にならない」というようなCMPEの純粋なビジネス上の判断によって見送られたケースや、単純に製作された時点から時間が経過したことによって古びてしまったとの判断が働いたケースもあったかもしれない。だが、ここに列挙した作品群には明らかに共通した要素が含まれており、そのために公開が見送られたと見るのがやはり自然であると思われる。そして、その要素が「アメリカが国内に抱える貧困、人種差別、政治腐敗などの問題の告発」、そして「コミュニズムの影響」というものであることは疑う余地がないように思えるのである。
 ユダヤ人差別などのアメリカ社会の問題が、真正面から描かれるようになったのは戦後のハリウッド映画の特徴と言えるが、占領下の日本では、当然ながら「アメリカ=理想の国家」という図式に当てはまらないものに対しては慎重な対応がなされていたと見るべきであろう。今日においては何の説明も要さないと思われる『風と共に去りぬ』にしても、黒人女性が召使として登場する点が問題とされたのではないか、との見方があるのである。
 そしてコミュニズムへの警戒という点に関して言えば、この13本の名作を監督した計11人の映画作家のうち、チャールズ・チャップリン(Charles Chaplin)、エドワード・ドミトリク(Edward Dmytrik)、エリア・カザン(Elia Kazan)、そしてロバート・ロッセン(Robert Rossen)の4名、さらに『偽りの花園』の原作者であるリリアン・ヘルマン(Lillian Hellman)を加えた合計5名までもが、非米活動調査委員会の聴聞会に召喚されているという点を鑑みれば、それがはっきりと見て取れるはずである。
 占領下日本で上映されたアメリカ映画の中には、もちろんエリック・ジョンストンが引用した「善意と民主主義をプロモートする素晴らしい映画」が多く含まれていたし、逆にハーバート・エドワーズが言うところの「我々に害を及ぼす比較的少数の映画」もあったに違いない。そうした、良い点も悪い点もひっくるめたトータルな意味でのアメリカ映画の果たした役割、アメリカ映画がもたらしたアメリカ社会のイメージについて、当時の映画評論家、津村秀夫は次のように述べている。

 映画作品というものは元来、一国の文化を表現するものかしないものかということも実は曖昧である。私も半信半疑たらざるを得ない。たとえば日本文化にしても、ああいう浅薄貧弱な日本映画などでナンで現代日本文化が表現されてたまるものかと人は怒るに違いない。それも真実である。(中略)個々の作品を例にとればアメリカ映画がアメリカ文化をよく表現しているとは義理にも申せまいが、しかし同じやうに全体としての作品集団を見れば、アメリカ映画も矢張りアメリカを理解せしむべく、よく真相を吐露していたのではないかと思う。半信半疑というのもつまりそこである。映画文化と一国の文化の関係は甚だ微妙である。

 4年間のブランクを経て、洪水のように巷に溢れた玉石混交のアメリカ映画。その1本1本というよりは、トータルとしてのインパクトが当時の日本人に及ぼした影響というのは、やはり日本が廃墟の中から再建し、目指していくべき社会のモデルとしてアメリカ社会の「ヴィジュアル・イメージ」が広く日本人の脳裏に焼き付けられた、ということではなかっただろうか。
 アメリカ映画との出会いが少年時代の鮮烈な記憶として、あるいは青年時代の甘美な思い出として残っている世代の声は、これまでにも随分紹介してきた。だが、なかにはそれが「民主主義」の理解とは必ずしも一致しなかったのではないかと指摘している者がいる。映画監督大島渚は、『拳銃の町』や『スポイラース』のように、正義が常に力を持ちその力によって悪を倒していくアメリカに魅かれると同時に、昭和21年末までの時点で言えば『我が道を往く』や『感激の町』(『少年の町』の続編)のように、「ビング・クロスビーの若い牧師やスペンサー・トレイシーの神父が力にたよらずそのヒューマニティで正義を実現していくアメリカに、より強く心を惹かれていた」と述べている。
 だが大島はその一方で、<2・1ゼネスト>禁止命令以降はGHQ/SCAPに対する、ひいてはアメリカに対する心の陰りが生じたことを隠さない。そして大島はさらに当時のアメリカ映画と民主主義との関係を次のように分析している。

 昭和22、3年で言えば、『拳銃の町』の系列では『大平原』のセシル・B・デミルの魔術に身も心もとろけてしまうような快感を味わうし、ジョン・フォードの『荒野の決闘』で、これが西部劇の神様かと納得する。また『我が道を往く』の系列では、その続編『聖メリーの鐘』や『感激の町』の前編の『少年の町』に感動する。しかし、それらと共に、私は、『嵐の青春』とか『永遠の処女』というような、今では誰も記憶していないようなアメリカ映画に惹かれていく。なぜか。そこには青春が、そして恋愛が描かれていたからだと私は思う。正義と力をあわせ持つ若者や、卓越したヒューマニティを身にそなえた男が恋を得るのではなく、普通の力のよわい青年が悩みのなかで恋を得たり失ったりする姿に、私は共感するようになっていったのだった。そのような恋は、私のまわりにはなかった。その意味では、私はまだそうした映画のなかにアメリカそのものを見ていたのだった。(中略)こうして考えてくると、戦争直後においてアメリカ映画が民主主義の「いい教材」であったなどということは、私に関する限り、まったくなかったことがはっきりする。西部劇のように、正義は必ず力を持ち悪を倒してゆくということは、民主主義とはつながらない。『我が道を往く』のように、すぐれたヒューマニティが正義を実現してゆくということも、民主主義とはつながらない。両者に共通しているのは、個人の力の尊重であるといえば聞こえがいいが、逆にいえば英雄主義である。断じて民主主義とはつながらない。それならむしろ、私がひそかに愛した、さりげない青春の哀歓を描いた作品の方が、はるかに民主主義的ではある。しかし、それらの映画が私に与えたのは感性の歓びと憧憬であり、決して民主主義の教訓などではなかった。(中略)
 私たちはアメリカ映画のなかにアメリカを見た。そこには予想通り、工業力の発展した、進歩し続ける国があり、幸せそうな男女がいた。進歩と発展のために戦い、勝ちぬいてゆくヒーローたちがいた。そして彼を愛するヒロインたちがいた。
 しかも、映画というメディアそのものが、機械的な発明であるという点で、工業社会の象徴的な産物なのである。そうした映画を通じて見せられるが故に、アメリカの進歩と発展はより偉大に見えた。それはまさに幻影であった。
 ほとんどすべての日本人がその幻影に酔った。自分もあのような工業社会に生きようと思った。決して民主主義でなく、アメリカ映画の教えた個人原理と英雄主義を信じて、日本人は生きた。努力した。その結果、日本は進歩し、発展した。

 同じく知識人にして大島よりやや年長にあたる映画評論家、双葉十三郎もまた「アメリカ映画を日本の民主化促進のための道具として用いようとした、占領期のアメリカによる対日映画政策をどのように評価されますか?」との筆者の問いに対して、「アメリカ映画がいろいろと見られるようになったことはありがたかったけど、見たいのに占領軍の方針で見られなかった映画がまだまだたくさんあったし、民主主義を教えてあげようなんていう態度は正直言って大きなお世話というのが実感だった」と語っている。
 確かに、娯楽としての劇映画を用いて他国民の精神構造になにがしかの変化を起こそうという発想自体が、文化帝国主義とまでは言わないまでもある種の勝者の驕り、ないしは双葉十三郎の言葉を借りれば「大きなお世話」だった面は否定できないであろう。
 そして、その「勝者の驕り」に関して言えば、実は第1章で見てきた占領期対日映画政策形成過程の国務省での原案作成段階において、既に「(映画などのマス・メディアに関する政策案としての)これらの文書からは軍政府が教育や情報媒体の統制を通じて日本人やドイツ人の思想を変えるという、実現可能な範囲を超えた大改革を欲しているような印象を受ける」との予言がなされていたのである。
 ともあれ、占領政策の一環として公開されたアメリカ映画は、当時の日本人にとって何かを象徴するものとして深くその心に刻まれたと言える。その「何か」が民主主義なのか、進歩なのか、単なるアメリカへの憧れなのかは人によっても感じ方が違っただろうし、どれが正解だったとも言えないだろう。しかしながら、日本が民主主義という言葉の持つイメージを漠然と支持し、アメリカの欲していた方向へ進んでいったことは疑う余地はないだろう。
 しかし、アメリカを中心とする連合国軍に占領されたという経験が日本人にとって民主主義を正しく理解し、すべての行動における規範としてその心の奥底に定着させたと言えるかどうかについては、また別の問題である。
 民主主義(デモクラシー)という呪文が、占領下の日本で現実にどういうイメージとして捉えられていたのかについて、一つ極めて象徴的な証言を紹介しておきたい。それは作家の黒井千次と劇作家・評論家の山崎正和とによる「わが戦後体験」と題した対談の中での、黒井による次のような発言である。

 あの頃、あるグラフ誌の見出しにデモクラシイという言葉があって、<でも暮らしいい>とルビがふってあった(笑)のを鮮烈に覚えてる。でも暮らしいいという言葉は、軍国主義、全体主義、封建的という言葉で具合の悪いものを排除して、民主主義的体制をつくったけど、その方が昔と比べて、食い物がなかったり何かしても、暮らしいいんだ、という感じですね。最初は止むを得ざるものとして入ってきたデモクラシイが、いつの間にか犯すべからざるものになった何年間という時期があったように思います。

 さて、ここで一つ触れておかなければならない問題が存在する。それは占領統治下の日本が、「言論の自由」という観点で戦時中よりも本当に「暮らしいい」状態と言えたのかという点、つまり占領下での検閲政策が持っていた意味についての評価である。
 過去、占領史研究におけるマス・メディアについての分析は、江藤淳らによる検閲研究が中心となっていた。その基本的なスタンスというのは、「戦時中にも検閲はあったが、占領期のそれは検閲の痕跡を残すことすら許されなかったという点で、一層《閉ざされた言語空間》だった」というものであったと筆者は理解している。
 占領下の日本では確かに広範にわたる検閲が実施され、また検閲が実施されているという事実そのものについても、サンプル調査的に行われていたという郵便検閲を除くと基本的には秘密裏に行なわれており、CCDやPPBの存在などもそれらと折衝する立場だったメディア側は別として、一般の日本国民には知らされていなかった。
 その意味では、確かに占領下における検閲の実態は戦時下におけるそれよりもわかりにくく、また戸惑わせるようなものだったと言えるかもしれない。だが、実際に当時の人々は、アメリカがデモクラシーや自由にものを言えるという「言論の自由」をもたらしてくれた解放軍であると手放しで喜び、その裏で、ある意味では戦時中の軍国主義体制下の検閲以上に厳格な検閲が行なわれていたことを知らされずに、「自由」だという幻想に踊らされていただけだったのであろうか。筆者にはどうもそうは思えないのである。
 GHQ/SCAPによる検閲政策について、当時を知る人々の証言の中に「戦時中よりはまだまし」というニュアンスが感じられるケースは多い。堀場清子による占領下での原爆の表現についての検閲研究『禁じられた原爆体験』に紹介されている、原爆詩集『黒い卵』の作者・栗原貞子の発言などをみても、時の経過とともに若干のニュアンスの違いは生じているものの、はっきりと「今日、当時のGHQの検閲をくぐって云々と持ち上げて下さる執筆者のあることは、有難いことですが、やや誇張しすぎた美化もありますね。昭和時代の治安維持の弾圧にくらべると何んでもなかったのに」と述べられており、戦時下の検閲との比較によって納得していた様子が垣間見られる。このように、実際には日本人が戦時下の検閲と比較することで、「戦時中よりはまだまし」と納得するという理解の仕方をしていたであろうことは、やはり占領下での原爆報道についての検閲研究を行なったモニカ・ブラウ(Monica Braw)の著書においても指摘されているところである。
 アメリカによって与えられた民主主義、アメリカによって与えられた言論の自由が、そのアメリカを非難する目的においては認められ得ないという現実は、被占領国民にとってはむしろ当たり前のこととして理解され、あるいは始めのうちこそ解放感のあまり、理想の社会が到来したとその自由を過大評価していたとしても、すぐに自分たちが敗戦によって被占領国民となった立場であることに気が付いたのではないかと思うのである。
 この問題が、映画を含むマス・メディアについての政策原案であったPWC-288bが最終的に承認された、1944年11月17日に行われた国務省戦後計画委員会の第66回会合の際にも議論が交わされていた問題であり、その結論として「表現の自由」発達の促進と「統制(検閲)」との間の矛盾に関しては、軍事的占領という枠組みを考えれば矛盾するものではないとの意思統一がなされたことは既に何度も述べてきたことである。だが、ヒュー・ボートンが分析したように、日本人もまたそのことについては暗黙のうちに了承していた面があったのではないだろうか。
 やはり江藤淳の指摘する<閉ざされた言語空間>という捉え方は、「アメリカが日本の民主化のために最大限の努力をしていた時代に起こったことまで、後の状況にあてはめて占領時代を判断しようとしている」という危険性からは逃れられないと思うのである。

3 曖昧なままにされた映画界の戦争責任

 戦時中の日本において、戦局の進展に伴って映画が戦争目的遂行のためのプロパガンダの道具とされていったことは今日では良く知られている。だが、日本の映画産業界の誰かが旗振り役となって、嫌がる映画人たちを無理遺り戦争協力に引きずり込んだという図式が存在したわけではなく、いわば映画界全体として率先して国策に協力する内容の作品を国民に対して送り出したのだった。したがって、映画界の中で誰と誰が軍国主義者や超国家主義者であり、戦犯として追放すべき者であるのかを見極めるのは大変に難しいことだった。
 同じ敗戦国でもドイツの場合、事はもっとずっと簡単だった。ナチス政権下のドイツでは映画界への統制が強化されていく過程で、国の政策に反対する多くの自由主義的映画人、あるいはユダヤ系の映画人たちが追放され、あるいは自主的にヨーロッパ経由でハリウッドへと亡命し、逆に国に残った者たちはゲッベルス宣伝相の指導の下で進んで国策映画の製作に協力した。戦後、アメリカ軍が占領した旧西ドイツ側では、かつてナチスに追放された形となっていた戦前の大御所エリッヒ・ポマー(Erich Pommer)らがドイツ映画界の再建のために呼び寄せられ、逆にヒトラーの庇護の下で『意思の勝利』や『オリンピア』を撮ったレニ・リーフェンシュタール(Leni Riefenstahl)は逮捕されたわけである。
 日本の場合どこまでを「戦争責任あり」と判断し、追放すべきであるとする見方が一般的だったのだろうか。GHQの意向を受けた日本政府が、数回にわたり映画界からの公職追放者のリストを発表したのは1947年10月以降のことだが、そのリストの内容が取り沙汰されていた同年2月時点での業界紙『映画演劇新報』(2月上旬号)には、トピックスと題した頁で「映画界の徹底粛清迫る」という見出しの次のような文章が載っている。

 昨年の11月21日、政府は経済言論界の公職追放を発表してセンセーションをまきおこした。この追放によって映画界は深刻な影響をこうむることを予想されたのであった。これによるとA項該当が旧満映、松竹・東宝・大映・新世界・日映等の各社はそのB項に該当し、その主要役員は中央公職適否審査委員会の審査をまってあるいは総退陣の余儀なきに到るのではないかとみられるに至ったのであった。(中略)現在日本映画界を牛耳る人々は大体において戦時中存在した統制会社、映画協会、映画配給社、映画公社その他の諸団体の実権を握っていた人達である。こういった諸団体は現在では無論解散してしまっているのであるが、それらの人々は大てい頬かむりをして前記の諸会社の役員をつとめているというのである。こういった人々が主として追放の対象となるものと考えられていたのである。
 ところが本年1月4日になって政府は更に広範な追放の勅令を発したのである。これは11月の発表を更に拡大し、凡そ戦争の遂行に些かでも協力したとみられるものは徹底的に削減して、言論、出版界を明朗化し民主化するというにあるのである。これによると被追放者となるものは、昭和12年7月7日以降日本の侵略的軍事行動を些かでも支援したもので新聞、著作、映画、放送等あらゆる分野にわたって適用される(中略)前記の役員級はいうまでもなく、その期間内、会社内、団体内にあって責任あるポストをしめていたものはすべて主任級にいたるまで審査の対象とならなければならないことになる。殊に宣伝面、製作面にたずさわっていた者はそうした機会の多かったはずである。(中略)プロデューサー、企画者はまずその責は免れまい。しからば脚色者、演出家はどうだろうか。1本の作品について脚本、演出は大半を決定する。生かすも殺すのもまずこの辺にあるのであるから責任ありといえばありであるが、この場合はその作品を発表するに当って脚色者、演出者のオリヂナリティーがどの程度にあったかというのが問題になるのではあるまいか、この場合は相当に問題があるものと思われる。

 この推測に従ってプロデューサーや監督にまでその人選を広げるとしたら、『ハワイ・マレー沖海戦』や『加藤隼戦闘隊』を監督し国策プロパガンダ映画最大の成功者であった山本嘉次郎などは間違いなく追放となっていただろうし、国家による映画界への統制に迎合した沢村勉を始めとする脚本家・映画評論家などもまた同様だっただろう。
 実際のところ、10月に政府から公職追放者のリストが公表されるのに先立って、設立後間もない全日本映画従業員組合や、日映の岩崎昶や瓜生忠夫らが中心となって結成した自由映画人集団などがそれぞれに独自の「戦犯リスト」を作成し、これを公表した。前者の作成したリストは戦犯をA級からC級までに分類し、A級には各社のトップに加えて内務省と情報局の官僚23人が含まれ、また映画監督からも『上海陸戦隊』(1939)などを発表後自ら国粋主義団体すめら塾を主宰した熊谷久虎がB級に、山本嘉次郎や吉村公三郎、島耕二らがC級としてリストアップされていた。
 このリストでC級に分類された映画作家らは「反省と自己批判」を求められただけであったが、それは自由映画人集団のリストにしても同じことで、こちらではやはりA、B、C級に分けた戦責リストのうちB級の熊谷久虎を除いた現場の映画製作者たち(プロデユーサー、演出家、脚本家)と、報道に関わった者のうち帰国後戦争熱を煽る遊説を行なった者のすべて(具体名はあげていない)をC級として、「徹底的な自己反省」と「先頭に立って民主化に努力すること」を求めていた。これらの自主的なリストアップというのは、一見映画産業界による自浄作用が働いたようにも見えるが、ある意味では予想される広範な追放処分の機先を制しようとした動きでもあった。
 だが、10月になって実際に公表された公職追放者のリストというのは、松竹、東宝、大映、日活、日本映画社の5社の常務取締役以上の経営トップ及び撮影所長のうち、さらに1937年7月7日から1941年12月8日までの間にその職にあった者のみ、という極めて限定された者31名にすぎなかった(うち大映の永田雅一、東宝の大澤善夫は異議申請をして再審査となり、翌1948年5月に追放解除となっている)。
 これはつまり、太平洋戦争開始以後に責任ある地位に就いた者や実際に戦意高揚映画をつくった監督や技術者などの現場の人間、及びそういった作品の提灯持ちをした映画批評家などは、国を挙げての戦争状態突入という大きなうねりの中にあって他に道はなかったのだ、というお墨付きをもらったことを意味していた。
 この免罪符を得た日本の映画人たちは、それまでは率先して国策プロパガンダ映画を製作し、批評で持ち上げていたにもかかわらず、一様に今度は民主主義を売り物にする作品を手掛けることになった。山本嘉次郎は(リスト発表より1年半ほど前ではあったが)組合の生産管理の一環として製作されたデイヴィッド・コンデ推奨の作品『明日を創る人々』を一番弟子の黒澤明らと共同監督したし、その黒澤にしても戦時中に『一番美しく』(1944)で女子挺身隊の工場での国への奉公を通じて銃後の人々の心構えを説いていたわけだが、戦後は一転して自由主義に殉じた反戦活動家を描く『わが青春に悔なし』で民主主義啓蒙映画の見本を示している。当時10代の少年だった映画評論家の佐藤忠男は、その『わが青春に悔なし』の反戦活動家役を演じていたのが、誰あろう『ハワイ・マレー沖海戦』や『加藤隼戦闘隊』などで軍神役を得意としていた藤田進であったことに強い抵抗を感じた、とその著書『日本映画史』の中で述べている。
 もちろん、こうした風潮を冷静に分析していた映画人もいた。映画監督伊丹万作は同盟国ドイツとの合作『新しき土』(1936)を発表するなどしたが、その後体調を崩したため第一線から退き、結果的にその後は戦意高揚映画などに関わることなく療養と執筆活動をしつつ敗戦を迎えていた。
 その伊丹を経歴に汚点がないことを理由に担ぎ出したのが自由映画人集団で、映画界の戦犯リストを示してその追放を主張した声明の主宰者の中に伊丹の名前を加えた。もちろん当人の了解を得てのことではあったが、この組織の活動内容までは知らずに名前だけ貸していた伊丹は、病床にあって雑誌『映画青秋』創刊号(1946年8月号)に「戦争責任の問題」と題した文章を寄せ、自由映画人集団に自分の名前が加えられたことは本意ではないこと、「只偶然の成り行きから1本の戦争映画も作らなかったというだけの理由」で人を裁く権利などはなく、言わば日本人全体として互いに騙し騙されていたことの意味を問い直すべきである、と述べている。
 だがやはりこうした声は少数の良識派として大勢を占めるには到らず、ほとんどの映画人は映画界を代表する形で公職追放となった各社経営陣のトップをスケープゴートとすることによって、戦後もその立場を守った。積極的な国粋主義者であると言えた熊谷久虎や沢村勉ですら堂々と第一線に復帰したり、「転向」して民主主義的な脚本を書いたりしているのである。そしてまた、追放となった29名にしても1950年10月には一斉に追放解除となり、ほとんどの場合、その後元の会社の責任ある地位に返り咲いている。
 戦犯が追放処分を解除されて現場復帰し、代わりに左翼的傾向をもつ人々が<レッド・パージ>によって追放されていったという構図は、何も映画界だけに限ったことではない。それを<逆コース>と捉えるか、単なる<ギア・チェンジ>と捉えるかは別として、事実として占領下の日本では映画界における戦争責任は明確な形で清算されることなく済まされたと言える。そのことが、長い眼で見たときに日本映画に対する観客の不信感に繋がり、日本映画産業界の斜陽化の遠因となった可能性は否定できないだろう。
 国務省に集約されたアメリカの対日映画政策の目標が、大きく捉えたときに「民主化促進のための映画の利用」と「国家主義的教義に染まっている要素の排除」の2点であるとするならば、後者の政策として軍国主義的映画を提出させ廃棄処分し、新たに製作される映画においてそういった要素を根絶しようとしただけでは不十分であり、戦争責任が認められる映画人たちに何らかのペナルティを課すべきだったという議論は成り立つ。だが、アメリカによる占領期対日映画政策の本質を考えたときに、それはネガティヴな要素を除去するという後ろ向きの政策部分よりも、映画を民主主義促進に役立つツールと位置付け、日本の映画人たちに積極的に民主主義的傾向の映画をつくらせ、厳選したハリウッド映画を通じて民主主義社会としてのアメリカの姿を伝えていく、というポジティヴな政策部分にこそ特徴があったのだとも言える。破壊よりも建設、排除するよりも利用することを重視したからこそ、戦争責任についてもまた曖昧なままでよしとされたのだ、とも言えるのではないだろうか。

4 占領期対日映画政策に関わったスタッフたち

 これまで、対日映画政策の形成過程、そしてその遂行過程を見てきた上で、そのシステムの解明とともに、実際に政策案を立案したのが誰であったのか、それを誰がどのように実行していったのか、という<人物>に焦点を当ててきた。それは、とりもなおさず、アメリカという国の政策決定プロセスというのが常に<人物>と密接に結びつけているからに他ならない。
 合衆国政府関係の文書類を紐解いていったとき、トップ・ダウン方式で現場の担当者が割り当てられ、ただ機械的に与えられた仕事をこなす、というような官僚主義的な流れにはまず遭遇しない。ローズベルト大統領は、The Riverという素晴らしいドキュメンタリー映画を作ったペア・ロレンツという人物がいたからこそ、合衆国映画サーヴィス局(USFS)という部局をつくったのだし、国務省文化関係部は教育映画やニュース映画の製作、そしてラジオ番組の製作に実績を持つジョン・M・ベッグという人物がチーフに就任したから映画ラジオ部とその名称を変えた。ドン・ブラウンがCIE情報課長となり、マイケル・ベルゲルがCMPEの初代代表に就任したのは決して偶然ではなく、彼ら自身がOWI時代に提言した計画に対して責任を持つために国務省から派遣されたのである。
 SWNCC/SFEで対日占領政策立案の中心となったヒュー・ボートンに対して、世代差を超えて良き理解者としてともに仕事をしたジョージ・ブレイクリーは、誰にどの文書を担当させるかを決める立場にあったが、ボートンは彼から聞いたポリシーとして次のようなことを記している。すなわち、「彼の仕事の原則はごく基本的かつ単純なもので、本人に言わせれば、自分の意見を他人に認めてもらう最善の方法は、だれかに案を出されないうちに文書にして提出してしまうことだ」というものだ。これはまさしく、アメリカ合衆国による占領期対日映画政策の形成過程全般に対して当てはまると言えるだろう。
 本章の、つまりは本書の最後に、これまで検証してきたアメリカ合衆国による占領期対日映画政策の形成過程、そしてその遂行過程に中心的な役割を果たしてきた<人物>たちのその後の経歴をまとめておきたい。
 PWC時代からSWNCC/SFEを通じて、対日占領政策立案の中心的位置に居続けたヒュー・ボートンは、国務省内で東北アジア部長を経て極東局長特別補佐官にまでなった。1947年9月に、ともに仕事をしてきた極東局長のジョン・C・ヴィンセントが公然と蒋介石批判をしていた結果、大使職の資格を得たもののジョセフ・マッカシー上院議員(Joseph McCarthy)から共産主義への同調者とレッテルを貼られ、上院による承認の必要ないジュネーブ総領事という立場で赴任することになった。ボートンはヴィンセントの代理としてニューヨークの日米委員会主催の公開集会でスピーチすることになったが、後にこの日米委員会が共産主義者の指導下にあったことが判明し、ボートンもまたマッカーシーによる「国務省内の共産主義者」のリストに載せられることとなった。
 こうして、翌1948年には彼は国務省を去り、コロンビア大学に復職して、自身が設立を進めた東アジア研究所の副所長(後に所長)となり、1974年まで学究生活に専念した。最晩年にまとめたメモワールの本国での出版計画が定まらないうちに、1995年8月6日、ヒュー・ボートンは92歳で亡くなっている。メモワールは『戦後日本の設計者――ボートン回顧録』として日本語訳が先ず出版されている(平成10年刊、朝日新聞社)。
 教育映画のプロデューサー、ニュース映画製作現場での極東地域担当、そしてラジオ番組プロデューサーなどマス・メディアの現場での15年の経験を買われて国務省文化関係部にチーフとして招かれたジョン・M・ベッグは、その管轄する部局名を映画ラジオ部、国際情報部、国際映画部と名称を変えつつ、始終合衆国政府内の対外映画政策部門の責任者であり続け、1953年まで国務省に籍を置いている。1946年からは、国際映画部長としての仕事以外にも、極東委員会の民主化促進委員会(Committee for Strengthening Democratic Processes)、教育小委員会(Subcommittee on Education)の合衆国代表代理、ユネスコのロンドン準備委員会(UNESCO London Preparatory Commission)の合衆国代表団コンサルタントなども兼任し、翌1947年からは国際映画部の上部組織に当る国際情報文化局(OIC)のメディア担当アシスタント・ディレクターとなり、放送分野でもニュージャージー州アトランティック・シティで開催された国際高周波放送会議の合衆国代表団委員長代理を務めている。
 その後は、駐オランダ合衆国大使特別アシスタント、海外文官審査委員会(Board Examiners for Foreign Service)審査委員代理などを歴任し、国務省籍を外れた1953年以降も、国務省時代に自らが手掛けていた合衆国としての海外情報教育プログラムを引き継いだ合衆国情報局(United States Information Agency=USIA)の私企業局ディレクター代理として活躍した。その後は自らの会社を設立して成功を収め、1985年に亡くなっている。彼は長年にわたる合衆国の海外情報プログラムへの功績を認められて、1956年にはUSIAより功労賞(Superior Service Awards)を授与されている。
 1939年1月の「映画会議」時点で、国務省文化関係部との間で合衆国政府としての対外映画政策のイニシアティヴを巡って争っていた合衆国映画サーヴィス局(USFS)チーフで、自身ドキュメンタリー映画作家だったペア・ロレンツは、同局が1940年に議会からの予算否決により消滅した後は雑誌『マッコール』(McCall’s)の編集者を務め、1942年には陸軍航空隊に少佐として入隊、1946年に中佐として除隊するまで空軍に籍を置いた。そして1946年には陸軍省民政部(CAD)再教育課占領地域メディア班映画演劇ユニットのチーフとなり、占領地域における映画、演劇、そして音楽などに責任をもつことになった。その後の彼は、1947年に自らの会社を興しており(1978年まで存続)、また1955年にはジュネーブで開催された原子力の平和利用に関する第1回国連会議に際し『ワシントン・ポスト』(Washington Post)の特派員を務めたりしているが、ドキュメンタリー映画作家としての活動は戦後には行っていない。1970年に国立公文書館において「ペア・ロレンツ映画祭」が開かれた。彼は自伝(FDR’s Filmmaker: Memoirs and Scripts, 1992)が出版された年に亡くなったが、近年はその作品に対する再評価の機運も高まっている。なお、自伝の謝辞部分の最後は、「私が関わったすべての映画を見てくれた上、最終的に私を連邦政府のすべての映画政策に対して責任ある立場につけてくれた――私の最大のファンにして政府における不動の雇い主である――4選を果たした大統領、フランクリン・D・ローズヴェルトに」と結ばれている。
 戦前にコロンビア映画の極東支配人を務めていた経験から、OWI海外映画課勤務時代の1944年10月に、占領地域での各メジャー映画会社によるアメリカ映画の一括した配給機構としてのセントラル映画社(CMPE)設立の提言を含む「極東におけるOWI製ドキュメンタリー及び商業映画配給のための作戦指針」を起草したマイケル・ベルゲルは、OWI解散後に国務省に移籍となり、国務省から占領下日本に派遣されて自らCMPE設立に奔走、その初代代表として占領下日本におけるアメリカ製劇映画配給の道筋をつけた。日本だけでなく極東全体のマーケット、とりわけ中国を潜在的な巨大市場とみなしていた彼は、CMPEの活動が軌道に乗った1946年7月初めには代表の座をMPEAから派遣されたチャールズ・メイヤーに譲り、自らはユニヴァーサル社の極東地域代表として中国マーケットの調査に専念することになった。
 その後ベルゲルは、1951年末をもってCMPEが解体されて戦前と同じ各メジャー会社がそれぞれに日本支社を持つことになったのを機にコロンビア映画の極東支配人の座に復帰し、その後も同社のニューヨーク・オフィスに勤務して1962年まで在職していたようである。さらに『ヴァラエティ』の同年10月17日付のレポートによれば、彼はコロンビア映画退職後に日本ヘラルド映画株式会社社長の古川勝巳と共同でBFエンタープライズ社(正式な日本語の社名は不明)を設立、日本映画を世界中にプロモートするとともに、世界中のさまざまな国の映画を日本と極東の他のマーケットに紹介する事業に取り組むことになった。日本ヘラルド側にしてみれば、前年に名門配給会社NCC(ニッポン・シネマ・コーポレーション)を買収してシェアを拡大したばかりとはいえ、輸入できる長編劇映画の割り当てが当時20本と制限されていたため、別会社を設立することで事業をさらに拡大する狙いがあったと思われる。一方のベルゲルにしてみれば、日本の独立系洋画配給会社としては後発ながら名古屋の富豪として知られる古川一族の資金力を背景に持ち、当時名古屋でテレビ局設立を目指すなど勢いがあった日本ヘラルドと組むことは、念願の極東マーケットにおける総合的なビジネスを行なうチャンスだったはずだ。ベルゲルのその後については残念ながら不明だが、彼がコロンビア映画極東支配人やCMPE初代代表として培った日本映画界とのパイプを活かし、コロンビア映画の歴史上最も成功した映画の1本であるデイヴィッド・リーン監督(David Lean)による『戦場にかける橋』(1957)製作の際に、主要キャストの一人として戦前のハリウッドで悪役として鳴らした早川雪洲の出演を取りまとめたことは、戦後の日本映画史にとっても大きな出来事だった。
 なお、戦前に20世紀フォックス映画のフィリッピン支社長を務め、ベルゲルの後任として来日して以降、占領期間中を通じてCMPE極東総支配人として君臨し続けたチャールズ・メイヤーはその解体とともに帰国したが、CMPEの最後の1年間をハリー・デイヴィス営業総支配人のアシスタントとして過ごした難波敏の証言によれば、「いずれテレビの普及で再来日する、と言っていたが結局は映画界から離れ、モーテル経営と株で成功したらしい」とのことである。
 ベルゲルとともにOWI海外映画課で戦後の極東におけるアメリカ映画配給プランの立案に関わっていたドン・ブラウンは、元々は戦前の日本で著名な英字日刊紙『ジャパン・アドヴァタイザー』の記者であり、そのためCIEでも初めはOWI時代の同僚R・E・バーコフの後を継ぐ形でプレス担当であった。彼は1946年9月の機構改革以降はCIE情報課長として、プレス、ラジオ、映画を含むすべてのマス・メディアに関してCIEを代表する重要な立場にあり、占領終結後は1954年から1964年までを、1872年以来の歴史を持つ横浜の居留外国人らによる民間の日本研究団体、日本アジア協会の副理事長を務め、またCIE在職中であった1950年から1980年5月に亡くなるまで一貫して、同協会の紀要(Transactions of the Asiatic Society of Japan)の実質的編集長を務め続けた。
 またそれ以外にも、彼個人としての活動でJapan Queries & Answersというニューズレターを1955年5月から不定期で発行していだが、これは彼の知人などから寄せられた日本、及び日本人とその風習などについての疑問を紹介することからスタートし、同年8月に出された第2号以降、それに対する彼自身による答え、そして新たな質問や掲載済みの質問に対する読者からの回答を募り、少なくとも1964年6月の第29号まではコンスタントに続けられた。こういった、日本と英語圏の人々との相互理解を深めさせるための地道な活動を生涯続けたことに加え、日本で発行された明治期以降の外国人メディア(新聞、雑誌)を蒐集していたことでも知られ、それらはブラウンの蔵書やCIE情報課長時代の文章類、個人的書簡類などとともに横浜開港資料館に寄贈され、新聞、雑誌、書籍については目録が完成して一般に公開されており、文書などは現在整理中である。
 ブラウンの下で実際の映画政策実施に当たっていたジョージ・ガーキーは、CIE映画演劇課長の任務を全うした後USIAに移籍し、そこからの派遣として再び来日し、1954年にアメリカに帰国するまでずっとUSIS (United States International Service)プログラムを担当し続け、帰国後53歳で癌のため亡くなるまでずっとUSIAにあって映画プロデューサー兼ディレクターとして仕事を続けている。彼はペア・ロレンツの右腕的存在だったUSFS時代の海運委員会のための映画製作から、『マーチ・オブ・タイム』の製作、そしてOSSの映画専門家としての勤務を経てCIE映画演劇課長となり、さらにUSIA/USISの映画プログラムの担当、とその職業人としての生涯を通じてアメリカ合衆国の映画政策に関わったわけである。なお、彼は日本滞在中に聖心女学院に通っていた娘がいたが、後に彼女はスーザン・オリヴァー (Susan Oliver)の芸名で映画、テレビで活躍する女優となった。
 ガーキーの下で劇映画担当者として活躍し、CMPE配給によるアメリカ映画の内容が民主主義促進に役立つものであるか、という観点で常に覚書などの形で注意を喚起し続けるとともに、CIEの日本映画への指導部分の機能を受け継がせる組織としての映倫設立に尽力したハリー・M・スロットは、占領終結後はハリウッド映画産業界でアシスタント・ディレクターとして映画製作の現場で働いた。
 彼は占領期の遥か以前、23歳だった1924年から映画界で働いており、戦時中は陸軍通信隊(U. S. Army Signal Corps)に所属し、占領軍として日本に上陸した最初のアメリカ兵の1人だったという。彼の名前がCIEの名簿に登場するのはガーキーが映画演劇班長になった1947年11月以降であり、それまでの仕事は不明だが、おそらくはその戦前の映画界での経験が買われてCIEで劇映画担当に抜擢されたものと思われる。帰国後の彼は、ヴェテランのアシスタント・ディレクターとして、フランク・シナトラ(Frank Sinatra)主演の『テキサスの4人』(1963)、『7人の愚連隊』(1964) といった作品を手掛け、1964年3月に63歳で亡くなっている。
 CIE初代映画班長として、良くも悪くも日本の映画人たちに強烈な印象を残したデイヴィッド・W・コンデは、CIEを離れたのちにロイター通信特派員として日本に留まっていたものの、GHQ/SCAPから「許可なき滞在」として国外退去させられた。その後1964年に再来日を果たした彼は『キネマ旬報』1964年11月下旬号(第1194号)の岩崎昶、藤本真澄との鼎談において「こんどは、ちがった意味で、つまり日本の映画が世界マーケットにどうしたら向くようになるかのサゼッションをするかもしれない」と締め括っていたが、実はさらにその後「日本映画の再建の道」と題した論文を書いている。この論文は世界の映画市場におけるアメリカ映画の位置を分析するとともに、日本映画界が全体としてアメリカ映画に頼りすぎている現状に警鐘を鳴らし、その輸入超過に対して日本映画を海外に輸出するにはどうしたら良いかという点を論じたものである。
 だが、コンデがこの論文を持ち込んだ「数種の日本のもっとも著名な文化雑誌その他の関係誌」はどこもこれを掲載しようとはしなかったという。『世界』1965年8月号に寄せたエッセイにおいても、かつて日本を去るときに映画界の多くの人々が餞別として「何百人という友人たちの名を記した名簿」を贈ってくれたのを宝物にしていたのに、今回の再来日では誰一人として自分を歓迎したり気にとめたりしてくれない、と最近の「日本の右翼的傾向」を嘆いていた彼は、もはや日本の映画人たちからも相手にされない現実を前にしてもなおその情熱を衰えさせることなく、1967年2月にこの「日本映画の再建の道」を自費出版の小冊子として印刷し、発行のために要した経費をまかなうための最低限の収入を得るべく定価100円で売っている。
 京橋の東京国立近代美術館フィルムセンター図書室に所蔵されているその小冊子には、しかしたとえば、映画の衰退をテレビの登場のせいにしている人に対する次のような鋭い指摘も含まれている。

 テレビのおかげで、日本の映画観客数が減少したことは事実である。しかし、もしも日本の映画上映業者たちが諸外国での教訓を学んで、少数のバカでかくて時代おくれの<映画大殿堂>や、今日<劇場>として通用している多くの火災誘致場をぶちこわしてしまって、そのかわりに小さいが魅力的な、クラブ式の<芸術映画>館を建てるならばこの傾向を急速に逆転させることができるだろうし、また、純益も急速にふえるであろう。

 映画館の設備改善への提言は何もコンデに限った話ではなくCMPEのチャールズ・メイヤーなども繰り返し主張していたことではある。だが、1980年代以降今日に至るいわゆる「ミニ・シアター」ブームを考えたとき、彼の洞察力はまさに先見の明があったというべきだろう。コンデはその後もジャーナリストとして活躍し、ヴェトナム戦争に関してアメリカ政府を糾弾する内容の本を日本で何冊も出版している。1968年には『CIA黒書』という暴露本を労働旬報社から出しており(翻訳者として岡倉古志郎とともに岩崎昶の名がある)、その中で当時の東大総長の林健太郎や京大人文科学研究所の加藤秀俊のことを「CIAの手先」と名指しするなど何かと物議を醸し出す面があったのは確かだが、日本映画人の回顧録などの中で「おそろしく頑固で狭量」などという否定的な評価しか与えられていないのは、やはり物事のある一面しか見ない態度だという気がするし、彼についてはその果たした役割の大きさを再評価するに値すると思うのである。
 最後にひと言だけ言い添えるならば、その形成過程にしろ、遂行過程にしろ、アメリカ合衆国による占領期対日映画政策に中心的に関わった人たちというのは、時としてその立場に違いがあったにしろ、いずれも日本の映画産業界の民主化や、日本人再教育プログラムの一環としてのハリウッド製劇映画上映といったその政策に対し、熱意を持って取り組んでいたことは間違いない。対日映画政策のどの部分を切り取ってみても、その背景には映画というメディアの持つ大きな可能性や、日本の映画産業界の特質を熟知した者たちによる知恵や理念、そして夢が詰まっていたわけだし、どんなに精緻に練られた政策であっても、それを実行し、応用し、改善していくのは人間の創意や誠実さ、という部分に他ならなかったと思うのである。
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