わたし舟

 黄昏たそがれの帰りを少しも早くと渡し場に到れば、われより先に五十ばかりなる女の、唯ひとりつくばひたるが軽く手をへりに置きて、顔馴染なるべしやをらさを取上げんとする船頭相手に、何事か一心に語り居たり。

 それぢやあ何だな、まだ一件は片附かねえのだな、ほかでもねえ親子の中だ、てへげへにして置きなせえな。

 そりやあ船頭さん、お前さんにはける口だが、わたしには利けない口だよ、此頤このあごるか干ないか、早い処が生死しやうし分目わかれめ、大概にしたらあすの日が立たない、やつと十六から取附いて、ことしが二十一、散らしはひんに障るといふので、この八年に旦那だつて四人か五人、掛けた元も碌々ろくろく還らず、いざこれからの間際まぎはになつて、阿母おつかさんおさらばはあんまりぢやないか、姉は姉で、静岡三界を勝手にほつき歩いて、今ぢや壮士さうし役者のおかみさん気取、籍は這入はいりませんがからだはちやんと這入つて居ます、どうぞね阿母おつかさんとばかりで手もつけられない、せめていもとの奴でもと思へば今度の始末、親の威光も如かうなつちやあお仕舞さね、丁度二月越ふたつきごしつた揉んだで、渡場わたしばの御奉公だけでも随分だよ、お前さんの前だが米は安くなれ鼻は高くなれ、よかれよかれで彼奴あいつを今日迄育上そだてあげた苦労と言つたら、ほんとに一通りぢやなかつた、一旦は稽古所へもつて見たが、姉ほどのどが面白くないので、シヤにはできない、モノにしたらと急に手筈をかへて、うぶで御座います、世間見ずで御座いますと、今以てそれが通るから可笑をかしいね。

 シヤだのモノだのつて、おらが方ぢや聞かねえ符牒ふてうだ、何の事だな。

 船頭さんでもない、シヤと言やあ藝者、モノと言やあ囲ひもの、字で行くか假名かなで行くか、女の捷径ちかみちこの二つさ。

 それぢやあ売られるに極つて居るのだ、うりたいばかりに育てたやうなものだ。

 当り前だらうぢやないか、此節このせつ女を売らないでうするものかね。澁皮のけたとか剥けぬとかは昔の論だよ、オヤあれがと言ふやうなのさへずんずんはけるのだもの、産声うぶごゑからが違つて居らあね。

 さう出られちや仕方がねえ、商売なら商売でわづらひのあるものだ、今度の事はいゝ加減に諦めなせえ。

 御他人様の身に取つちやあ、煩ひとも祟りとも仰有おつしやれだが、わたしには行先いくさき杖柱つゑはしらといふよりか、今が今三度のおまんま、色の白いほど何方どちらがいゝといふ訳さ、何がお前さんはづかしいものか、親子が二人がかつかつの手内職てないしよく、お粥はおさつを入れましたのが一等おいしう御座いますとでもいふ事なら、成程大声では言ひにくからうが、はゞかりさま、売れるものを売るのに理窟はあるまい、旦那取りにだつて相応に駈引かけひきの要るもので、親の目にさへいけ好かない位のでなけりやあ、たんまりした事には有附ありつけない、厭と思つたら絞れるが、其処そこにちよいとわだかまりが出来て見ると、流石さすがは人情と言ひたいやうな事もあつて、めかけに人情は出しツ放しのたらひより邪魔なものさ、全躰ぜんたい今度のゝ触込ふれこみ仲買なかゞひの番頭といふので、此奴こいつ浮沈みがあるとは最初から知つて居たが、まゝよ沈んだらそれ迄、浮いて居るうちと思つたのが此方こつちの不覚、親馬鹿とは穿うがつたものだね、何日いつの間にか娘の方から逆上のぼせ込んで、指環も時計も貰つた物は逆戻し、揚句のはてが連出される迄気が付かずに居た、段々探つて見ると女泣かせとか博士とか言つて、ちよろソかな野郎とは野郎が違ふさうだ、活物いきものの事だから娘だけ返してくれたら、跡は災難とでも何とでも諦めるが、生憎あひにく彼奴あいつがおんのろで、野郎の傍を離れないと来て居る、憎いたつて彼様あんなのは有りやあしない。

 だがさう一概いちげへに言つたものでもねえ、末々もある事だ、娘を糶市せりいちに出すやうな事ばかり考へて居ちやあ、冥利みやうりが恐ろしいや。

 冥利が尽きたつて金さへ尽きなきあ、何一つ恐ろしい事があるものかね、世の中は御方便なもので、行儀々々で固めて居た表の先生とかは、喰ふに喰はれず首を釣つて死んださうだが、めかけのあがりが路端みちばた倒死のたつて居たといふのは、この年になつて未聞まだきいた事がない、惚れたけりや遠慮なく金に惚れろ、男に惚れるなと呉々も言聞かして置いたのに、とうとう此様こんな事になつて仕舞つた、戻すか戻さぬか今晩が手詰めといふのだが、囲ひ者が旦那に惚れちやあ芝居にもならない、もうもう男に惚れる女は、親ながら懲々こりこりだ、揃ひも揃つてわたしの処の奴等やつらは、どうして彼様あんなに不孝なのだらう。

 望める岸に船の着くとひとしく、女は小走りに走り抜けて、其処そこなる小路こうぢを左に折れしが、遠からぬ橋間はしまはや灯影ほかげの見えそめて、薄明く薄暗きおぼろが中を、水はなほゆるく流れぬ。仰げば星出でたり。

      ──明治三十三年二月──

 

     ねざめ

 

曉の、鐘に泣いたは昔の夢よ。果てぬ仔細に隔てられ、のけば互ひに知らぬ人、見ぬ人遂に逢はぬ人。おもふことなき筈なれど、なぜか寝覚ねざめ燈火ともしびを、掻立かきたてゝ見る片明り。窓をたゝくは村雨むらさめか、ぱらりぱらぱら木葉もまじる、騒ぐまいぞや小夜嵐。今ぢや夜中の鐘に泣く。

 

     くりこと

 

いてくりやるな今宵の鐘を、きけば悲しゝ聴かねば寂し。一つ人の世荒れにけり、妹{いも}が垣根のつぼすみれ古郷ふるさとの事おもひ出す。二つ再び逢ひ難き、御墓みはかの下の苔の露、親々の事憶ひ出す。三にさりとは告げられぬ、今の憂き身を鐘の敷、つ聴けばつおもひ出す。五ついつまで飛ぶ雲の、ちぎれちぎれにはらわたを、風にまかせて?{むし}ろより、撞かざむまい鐘ならば、富も榮えも勢ひも、われやあだなる恋も名も、闇から闇へ唯一撞たゞひとつきに、死んでしまへと何故なぜ撞かぬ。

 

     かね

 

鐘がいふ、明ける暮れるをわしや知ろことか、人の撞く鐘人が泣く。昼は長かれみぢかかれ、わしは撞かれて只鳴るばかり、白い黒いは空に問へ。

 

     くさの戸

 

梅が咲きます土筆つくしが出ます。去年こぞ古衣ふるぎぬわしや着たまゝの、春は隣の垣の外。いつの此身にをしからぬ、花が咲こやら芽が出やうやら。障子あければ雀が三羽、日向ひなたあちこちちゆツちゆツちゆ、阿房あほな枯木もあるぞいの。

 

     まばたき

 

鐘が鳴る、鐘の絶間たえまを雨が降る、雨の絶間を蟲が啼く。蟲は何蟲父恋し、母も恋しの彼君かのきみも、今居ぬ人の皆恋し。蟲の絶間をもやらず、寐もやらねども夢を見る。夢の絶間を燈火ともしびの、まばたき暗き床の中、秋の夜長をわしや一人、あゝわしや旅に唯一人、枕仕替へて眼をつぶる。