牡丹燈籠

怪談牡丹燈籠第壱編           三遊亭圓朝演述

          若林カン藏筆記

第壱回

  兇漢泥酔挑争闘  けうかんでいすゐしてそうたうをいどむ

  壮士憤怒醸禍本  そうしふんどしてくわほんをかもす

 

 寛保くわんぽう三年の四月十一日、まだ東京とうけいを江戸と申しました頃、湯島天神の社にて聖徳太子の御祭礼を執行いたしまして、その時大層参詣の人が出て群衆ぐんじゆ雑踏を極めました。こゝに本郷三丁目に藤村屋新兵衛といふ刀剣商かたなやが御座いまして、その店頭みせさきには善美商品よきしろもの陳列ならべてある所を、通行とほりかゝりました一人のお侍は、年齢としのころ二十一二とも覚しく、膚色いろあくまでも白く、眉毛秀で、目元キリヽツとして少し癇癖かんしやくもちと見え、びんの毛をグーツと釣揚げて結はせ、立派なお羽織に、結構なお袴を着け、雪駄せつた穿いて前に立ち、背後うしろ浅黄あさぎ法被はつぴ梵天帯ぼんてんおびめ、真鍮巻しんちうまきの木刀をしたる仲間ちうげんつきそひ、此藤新ふじしん店頭みせさきへ立寄りて腰を掛け、陳列ならべてある刀類かたな通覧ながめて、

 侍「亭主や、其処の黒糸だか紺糸だか識別しれんが、の黒い色の刀柄つかに南蛮鉄のつばが附いた刀は誠に善さゝうな品だナ。鳥渡ちよつと御見せ。

 亭主「ヘイヘイ、コリヤお茶を差上げな。今日は天神の御祭礼で大層に人が出ましたから、必然さだめし街道わうらい塵埃ほこりさぞお困り遊ばしましたろう。と刀の塵を払ひつゝ、亭主「此品これは少々装飾こしらへ破損やれて居りまする。

 侍「成程すこし破損やれて居るナ。

 亭主「ヘイ中身なかごは随分御用ひに成りまする。ヘイ、御自佩料おさしれうに成されても御用おまひまする。お鉄信なかごもお刀質しようたしかにお堅牢かたいお品で御座いまして。 と言ひながら、 亭主「ヘイ御覧遊ばしませ。と差出すを、侍は手に取て見ましたが、旧時まへには通例よく御侍様が刀剣かたな買収めす時は、刀剣商かたなや店頭みせさき抜刀ひきぬいて見ていらツしやいましたが、あれは危険あぶないことで、もしお侍が気でもちがひまして抜きを振り舞はされたら、真個ほんとう剣呑けんのんではありませんか。今此お侍も真正ほんとう刀剣かたな鑒定みるお方ですから、先づ中身なかご反張工合そりぐあひから焼曇をち有無ありなしより、差表差裏さしおもてさしうら、ぼうしさき何やや吟味いたしまするは、流石さすが御旗下おはたもとの殿様の事ゆへ、通常なみなみの者とは違ひます。

 侍「とん良応よさそうな物、拙者の鑒定かんていする所では備前物の様に思はれるが如何どうぢやナ。

 亭主「ヘイ至適よい鑒定めきゝいらツしやいまするナ。恐入ました。おほせの通り私共同業なかまの者も天正助定てんせうすけさだであらうとの評判で御座いますが、惜哉おしいことには何分無銘にて残念で御座います。

 侍「御亭主や、此品これ幾許価どのくらいするナ。

 亭主「ヘイ、ありがたう存じます。お二価かけねは申上ませんが、只今も申します通り銘さへ御座いますれば多分の価直ねうちも御座いますが、無銘の所で金拾枚で御座います

 待「なに拾両とか、ちつ不廉たかい様だナ。七枚半には減価まからんかへ。

 亭主「どう致しまして何分それでは損が参りましてヘイ、倒々なかなかもちましてヘイ。 としきりに侍と亭主と刀の価直ねだんの掛引きを致して居りますと、背後うしろかたで通り掛りの酔漢よつぱらいが、此侍の仲間ちうげんを捕へて、「ヤイ何をやァがる。と云ひながら蹌踉々々ひよろひよろとよろけて撲地はた臀餅しりもちき、漸く起身おきあがりて額でにらみ、突然いきなり鉄拳げんこつを振ひ丁々と打たれて、仲間は酒のとがと堪忍して逆はず、大地に手を突きかうべを下げて、頻りに詫びても酔漢よつぱらいは耳にもけず猛り狂ふて、尚も仲間を連繋居なぐりをるを、侍は見れば我僕けらい藤助とうすけだから驚きまして、酔漢よつぱらいむかゑしやくをなし、

 侍「何を家来めが無調法を致しましたか存じませんが、当人に成り代り私がお謝罪わび申上ます。何卒なにとぞ御勘辮を。

 酔夫「ナニ此奴こいつは其方の家来だと、怪しからん無礼な奴、武士の供をするなら主人の傍に小さく成てるが当然、然るに何だ天水桶から三尺も往来へ出這でしやばり、通行の妨げをして拙者せつしや衝突つきあたらせたから、やむを得ず打擲ちようちやく致した。

 侍「何もわきまへぬもので御座いますればひとへに御勘弁を、拙者てまへ成り代りてお詫を申上ます。

 酔夫「今此処このところ拙者てまへがよろけたとこをトーンと突衝つきあたつたから、犬でもあるかと思へば此下郎このげろうめがをつて、地べたへ膝を突かせ、見なさる通り是れ此様に衣類を泥塗どろだらけに致した。無礼な奴だから打擲致したが如何いかゞ致した。拙者の存分に致すから此処こゝへお出しなさい。

 侍「如斯このとほり何も訳の解らんもの。犬同様のもので御座いますから、何卒御勘弁下されませ。

 酔「コリヤ面白い。初てうけたまはツた。侍が犬の供を召連れて歩行あるくといふ法はあるまい。犬同様のものなら拙者てまへ申受けて帰り、万木鼈まちんでも食はしてらう。何程詫びても了簡りやうけんは成りません。コレ家来の無調法を主人が詫ぶるならば、大地へ両手を突き、重々恐入たとかうべ地上つちに叩き着けて謝罪わびをするこそ然るべきに、何だ片手に刀剣かたなこいぐちを切て居ながら謝罪わびをするなどとは侍の法にあるまひ。何だてまへは拙者を斬る気か。

 侍「イヤ是は拙者てまへが此刀屋で買収かひとろうと存じまして只今鉄信なかごをりました処へ此騒擾このさわぎに取敢へず罷出まかりいでましたので。

 酔「エーイ其はかふとも買はんとも貴殿あなたの御勝手ぢや。と罵るを侍はしきりにその酔狂を勧解なだめて居ると、往来の人々は

「ソリヤ喧嘩だ危険あぶないぞ。

「ナニ喧嘩だとエ。

おゝ対手あいては侍だ。

「夫れは剣呑けんのんだナ。と云ふを又一人が

「なんでゲスネー。

「左様サ、刀剣かたなを買ふとか買はないとかの間違ださうです。泥酔よつぱらつる侍が初め刀剣にを附けたが、高価たかくて買はれないで居る処へ、此方こちらの若い侍が又其刀剣に価を附けた処から酔漢よつぱらいは怒り出し、自己おれの買はうとしたものを自己おれに無沙汰で価を附けたとか何んとかの間違ひらしい。と云へば又一人が

「なにさ左様さうぢやアありませんヨ。あれは犬の間違ひだアネ。自己おれうちの犬に万木鼈まちんを喰はせたから、その代りの犬をわたせ。又た万木鼈を喰せて殺そうとかいふのですが、犬の間違ひは往時むかしから能くありますヨ。白井権八なんど矢張やつぱり犬の喧嘩からあんな騒動に成たのですからネー。と云へば又傍に居る人が

「ナニサ其様そんな訳ぢやアない。の二人は叔父をいの間柄で、彼の眞赤に泥酔よつぱらつるのは叔父さんで、若い奇麗な人がをいだそうだ。姪が叔父に小遣銭こづかひぜにを呉れないと云ふ処からの喧嘩だ。と云へば、又側に居る人は

「ナーニれは金着切きんちやくきりだ。などと往来の人々は口に任せて種々いろいろの評判を致して居るうちに、一人の男が申ますは

酔漢よつぱらひは、丸山本妙寺中屋敷に住む人で元は小出こいで様の御家臣ごけらいであつたが、身持が悪く、酒色にけり、折々は抜刀抔すつぱぬきなどして人を恐嚇おどかし乱暴を働いて市中を横行おうぎやうし、或時は料理屋へあがり込み、充分酒肉さけさかなに腹を肥らし、勘定は本妙寺仲屋敷へ取りに来いと、横柄に喰倒し飲倒してあるく黒川孝藏と言ふ悪侍ですから、年の若い方の人は見込みこまれて結局つまり酒でも買はせられるのでせうヨ。

左様さうですか。並大体のものなら斬て仕舞ますが、あの若い方はどうも病身の容体やうだから斬れまいネー。

「何あれは剣術を知らないのだらう。侍が剣術をしらなければ腰抜けだ。など私語さゝやく言葉がチラチラ若き侍の耳底みゝはいるから、グツと発怒こみあげ癇癖にさはり、満面朱を注いだる如くになり、額に青筋をあらはし、奮然きつと詰め寄り、

 侍「是程までにお詫びを申しても御勘弁なさりませぬか。

 酔漢「クドイ、見れば立派な御侍、御直参ごじきさんいづれの御藩中かは知らないがお葉打枯うちからした浪人と侮り失礼至極、いよいよ勘弁がならなければどふする。と云ひさま、かアツトと痰をの若侍の面上かほき付けましたゆゑ、流石に勘弁強き若侍も、今は早や怒気一度にかほに顯はれ、

 侍「おのれ下手したでに出れば附上つけあがり、益々募る罵詈ばり暴行、武士たるものゝ面上に痰をつけるとは不届な奴、勘弁が出来なければ如斯かうする。といひながら今刀屋で見て居た備前物の刀柄つかに手が掛るが速いか、スラリと引抜き、酔漢よつぱらひの鼻の先へぴかツと出したから、傍観者けんぶつは驚き慌て、弱さうな男だからまだ抜刀ひツこぬきしまひと思たに、閃々ぴかぴかといツたから、ホラ抜たと木の葉の風にあひたる如く四方八方にばらばらと散乱し、町々の木戸を閉ぢ、路次を締め切り、商店あきんどは皆戸をしめる騒ぎにて街頭まちなか寂寥ひつそりとなりましたが、藤新ふじしんの亭主一人は逃路にげばを失ひ、木兎然つくねんとして店頭みせさき端坐すわつて居りました。

 却説さて黒川孝藏は泥酔よつぱらつては居りますれども、酔者なまよひ本性違はずにて、の若侍の憤怒けんまく恐怖おそれをなし、よろめきながら二十歩ばかり逃逸にげだすを、侍はおのれ卑怯なり。言行表裏くちほどでもない奴、武士が敵手あひて背後うしろを見せるとは天下の耻辱になる奴、かへせ旋せと、雪駄穿せつたばきにて跡を追ひければ、孝藏は最早かなはじと思ひましてよろめく足を踏みめて、一刀の破損柄やれづかに手を掛けて此方こなたを振り向く処を、若侍は得たりと突進ふみこみさま、エイと一声肩先き深くプッツリと切込む。斬られて孝藏はアツト叫び片膝を突く処を進一進のしかゝかり、エイト左の肩より胸元へ切付けましたから、はす三箇みツつきられて何だか亀井戸の葛餅の様に成て仕舞ました。若侍はすぐと立派に止息とゞめを刺して、血刀を振ひながら藤新の店頭みせさきへ立帰りましたが、もとより斬殺す了簡で御坐いましたから、ちつとも動ずる気色もなく、わが下郎にむかひ、

 侍「コレ藤助、其天水桶の水を此刀にけろ。といひつければ、最前より戦慄ふるへて居りました藤助は、

 藤「ヘイとんでもない事になりました。若し此事から大殿様の御名前でも出ます様の事が御坐いましては相済ません。元は皆私からはじまつた事、如何どう致して宜敷よろしう御坐いませう。と半分は死人の顔。

 侍「イヤ左様に心配するには及ばぬ。市中を騒がす乱暴人、斬捨ても苦くない奴だ。憂慮しんぱいするな。と下郎を慰めながら泰然として、呆氣あツけに取られたる藤新の亭主を呼び、

 侍「コリヤ、御亭主や、此刀はこれ程切れやうとも思ひませんだつたが、中々斬れますナ。余程く斬れる。といへば亭主は慄へながら、

 亭「いや貴君様あなたさまの御手がさへるからで御坐います。

 侍「否々いやいや、全くはものがよい。どうぢやナ、七両貳分に負ても宜からうナ。と言へば藤新は連累かゝりあひを恐れ、「宜しう御坐います。

 侍「イやお前の店には決して迷惑は掛けません。兎に角此事を直ぐに自身番に届けなければならん。名刺なふだを書くから一寸硯箱を貸して呉れろ。と云はれても、亭主は己の傍に硯箱のあるのも眼に入らず、慄へ声にて、「小僧や硯箱を持て来い。と呼べど、家内の者は先きの騒ぎに何処いづれへか逃げて仕まひ、一人も居りませんから、寂然ひつそりとしてへんじがなければ、

 侍「御亭主、おまへは流石に御渡世柄だけあつて此店を一寸も動かず、自若じじやくとして御座るは感心な者だナ。

 亭「いへナニ御めで恐入ります。先程から早腰が抜けて立てないので。

 侍「硯箱はお前の側にあるぢやアないか。と云はれて漸々やうやう心付き、硯箱をかの侍の前に差出すと、侍は硯箱の蓋を推開おしひらきて筆を取り、スラスラと名前を飯島平太郎と書きをはり、自身番に届け置き、牛込の御邸へ御帰りに成りまして、此始末を、御親父ごしんぷ飯島平左衛門様に御話を申上げましたれば、平左衛門様はく切たと仰せありて、それからすぐ御頭おかしらたる小林権太夫殿へ御届けに及びましたが、させる御咎めもなく、切り徳、切られ損となりました。

 

第貳回

  閨門淫婦擅家政  けいもんにいんぷかせいをほしひまゝにす

  別荘佳人恋才子   べつさうにかじんさいしをしたふ

 

 さて飯島平太郎様は、お年二十二の時きに兇漢わるものを斬殺してちつとも動ぜぬ剛氣の胆力で御座いましたれば、お加齢としをとるに随ひ、ますます智恵が進みましたが、その後御親父様ごしんぷさまには死去なくなられ、平太郎様には御家督を御相続あそばし、御親父様の御名跡ごめうせきを御継ぎ遊ばし、平左衛門と改名され、水道端すゐどうばたの三宅様と申し上げまする御旗下おはたもとから令室おくさまをお迎かへになりまして、程どなく御分娩ごしゆつせうのお女子によしをお露様と申し上げ、すこぶる御国色ごきりやうよしなれば、御両親は掌中たなそこたまと愛で慈しみ、後とに御子供が出来ませず、一粒種ねの事なれば猶更に撫育ひさうされるうちひまゆく烏兎つきひ関守せきもりなく、今年は早や嬢様は十六の春を迎へられ、お家も愈々いよいよ御繁昌で御座いましたが、みつればかくる世のならひ、令室おくさまには不圖ふとした事が病根もととなり、遂に還らぬ旅路たびに赴かれました処、此令室おくさまのおつきの人に、お国と申す碑女ぢよちうが御座いまして嫖致きりやう人並にすぐれ、殊に挙動周旋たちゐとりまはしに如才なければ、殿様にも独寝ひとりね閨房ねや淋しきとこから早晩いつか此お国にお手がつきお国はとうとう御妾となりすましましたが、令室おくさまのないうちのお妾なればお権勢はぶり至極ずんど宜しい。然るにお嬢さまは此国を憎く思ひ、互に軋礫すれずれになり、国々と呼び附けますると、お国は又お嬢様に呼捨にさるるを厭に思ひ、お嬢様の事をあしきやう殿様に彼是と讒訴つげぐちをするので、嬢様と国とのあひだ何んとなく和合おちつかず、れば飯島様もこれを面倒な事に思ひまして柳島辺に或れうひ、嬢様にお米と申す女中をけて、此れうに別居させて置きましたが、そも飯島様の失策あやまりにて、是より御家の覆没わるくなる初めで御座います。

 さて当年そのとしも暮れ、明れば嬢様は十七歳におなりあそばしました。こゝに兼て飯島様へお出入のお医者に山本志丈と申す者が御座います。此人一体は古方家こはうかではありますれど、実はお幇間たいこ医者のお饒舌しやべりで、諸人救助たすけのために匙を手に取らないと云ふ人物で御座いますれば、通常たいがいの御医者なれば、一寸ちよつと紙入の中にもお丸薬か散薬こぐすりでも這入はいつて居ますが、此志丈の紙入の中には手品の種や百眼ひやくまなこなどが入れてある位なもので御座います。却説さて此医者の知己ちかづきで、根津の清水谷しみづだに田畑でんばたや貸長屋を持ち、その収納あがり生計くらしたてて居る浪人の、萩原新三郎と申します者が有りまして、天資むまれつき美男で、年は二十一歳なれども未だ妻をもめとらず、独身ひとりみ消光くらやもめに似ず、極鬱氣ごくうちきで御座いますから、外出そとでも致さず閉居とぢこもり、鬱々と書見のみして居ります処へ、或日志丈が尋ねて参り、

 志丈「今日は天気も宜しければ亀井戸の臥龍梅ぐわりようばいへ出掛け、その帰るさに僕の知己ちかづき飯島平左衛門の別荘へ立寄たちよりませう。イエサ君は一体鬱気うちき御座いらつしやるから婦女子にお掛念こゝろがけなさいませんが、男子に取ては婦女子位たのしみな者はないので、今申した飯島の別荘には婦人ばかりで、それは夫は余程別嬪べつぴんな嬢様に親切な忠義の女中と只二人ぎりですから、戯談じやうだんでも申して来ませう。真個ほんとうに嬢様の別嬪を見る丈でも結構な位で、梅もよろしいが動きもしない口もきゝません。れども婦人は口もきくしサ動きもします。僕など多淫すけべいたちだから余程女の方は宜敷よろしい。マア兎も角も来たまへ。とさそひ出しまして、二人打連れ臥龍梅へまゐり、帰路に飯島の別荘へ立寄り、

 志丈「御免下さい。誠にお久濶しばらく。と言ふ声聞き付け、

 お米「誰何どなたさま、オヤ、よく入来いらつしやいました。

 志丈「是はおよねさん、其後こののちは遂にない存外の御無沙汰を致しました。嬢様にはお替りもなく、夫れは夫れは頂上々々、牛込から此処へ御引き移りになりましてからは、何分にも遠方故、存じながら御無沙汰に成りまして誠に相済みません。

 米「マー貴君あなた久敷ひさしく御見えなさいませんから如何どう成すツたかと思て、毎度お噂を申してをりました。今日は那辺どちらへ。

 志丈「今日は臥龍梅へ観梅うめみに出掛ましたが、梅見れば方図はうづがないといふたとへの通り、あきたらず、御庭中ごていちうの梅花を拝見いたしたく参りました。

 米「夫れはいらつしやいました。マア何卒どうぞ此方へお這入はいりあそばせ。と庭の切戸を開き呉るれば、「然らば御免。と庭口へ通ると、お米は如才なく、

 米「マア一服めしあがりませ。今日は能くいらつしやつて下さいました。平日ふだんわたくしと嬢様ばかりですから、さむしくツて困て居る所、誠に有難う御座います。

 志丈「結搆な御住居おすまゐでげすナ。さて萩原うぢ、今日君の御名吟は恐入ましたナ。何とか申ましたナ。エーと『烟草たばこには燧火すりびのむまし梅の中』とは感服々々。僕などの様な横着ものは出る句も矢張横着で『梅ほめてまぎらかしけり門違ひ』かネ。君の様に書見ばかりして鬱々としてはいけませんヨ。さつきの残酒が此処にあるから一杯あがれヨ。何んですネ。厭です。それではひとりで頂戴致します。と瓢箪を取出す所へお米出てきたり、

 米「どうも誠に久濶しばらく。

 志丈「今日は嬢様に拝顔を得たく参りました。此処に居るは僕がごくの親友です。今日はお土産も何にも持参致しません。エヘヘ難有う御座います。是は恐入ます。御菓子を、羊羹結搆、萩原君召上れヨ。とお米が茶へ湯をさしにいつたあとを見おくり、「此処のうちは女ふたりぎりで、菓子など諸方はうばうから貰ても、喰ひ切れずに堆積つみあげて置くものだから、みんなかびはやかして捨る位のものですからくツてやるのがかへツ深切しんせつですから召上れヨ。実に此家このうちのお嬢様は天下にない美人です。今に出ていらつしやるから御覧なさい。とお饒舌しやべりをして居る処へむかふの四畳半の小座敷から、飯島のお嬢さまお露様が人珍らしいから、障子の隙間より此方こちらのぞいて見ると、志丈の傍に端坐すわツて居るのは例の美男萩原新三郎にて、男ぶりと云ひ人品ひとがらといひ、花のかんばせ月の眉、女子をなごにして見ま欲しき優男やさをとこだから、ゾツと身に如何どうした風の吹廻しで彼様あんな奇麗な殿御が此処へ来たのかと思ふと、カツと逆上のぼせ耳朶みゝたぼが火の如くカツと紅潮まツかになり、何となく間が悪くなりたれば、はたと障子を閉切り、うちへ這入たが、障子の内では男の顔が見られないから、又そつと障子を明て庭の梅花うめのはなを眺めるふりをしながら、チヨイチヨイと萩原の顔を見て又恥しくなり、障子の内へ這入るかと思へば又出て来る。出たり引込んだり引込んだり出たり、モヂモヂして居るのを志丈は発見みつけ、

 志丈「萩原君、君を嬢様が先刻さツきから熟々しげしげと視て居りますヨ。梅の花を見るふりをして居ても、眼の球はまる此方こちらを見て居るヨ。今日はとんと君に蹴られたネ。と言ながらお嬢様の方をて「アレ又引込だ。アラ又出た。引込んだり出たり、出たり引込んだり、まるで鵜の水呑水呑みづのみみづのみ。とさわ動揺どよめいて居る処へ下女のお米出来いできたり「嬢様から一献いつこん申し上げますが何も御座いません。ほんの田舎料理で御座いますが、御緩ごゆるりと召上り相替らず貴所あなたのお諧謔じやうだんを伺ひたい被仰おツしやいます。と酒肴さけさかなを出だせば、

 志丈「ドウモ恐入ましたナ。ヘイ是はお吸物誠に有難う御座います。先刻さツきから冷酒れいしは持参致して居りまするが、お燗酒かんしは又格別、有難う御座います。何卒どうぞ嬢様にも入ッしやる様に今日は梅ぢやアない。実はお嬢様を、イヤナニ。

 米「ホゝゝゝ只今左様申し上げましたが、御同伴つれ御人おかたは御存じがないものですから間が悪いと被仰おツしやいますから、それならおやめ遊ばせと申し上げた処ろが、それでもいツて見たいと被仰おツしやいますノ。

 志丈「イヤ、此人これは僕の真の知己ちかづきにて、竹馬ちくばの友と申しても宜しい位なもので、御遠慮には及びませぬ。何卒どうぞ一寸嬢様に御目に掛りたくツて参りました。と言ヘば、お米はやがて嬢様をともなひ来る。嬢様のお露様は恥かし気にお米の背後うしろに座ツて、口のうちにて「志丈さん入ツしやいまし。といふたぎりで、お米が此方こちらへ来れば此方へ来り、彼方あちらへ行けば彼方へ行き、始終女中の背後うしろばか附着くツついて居る。

 志丈「存じながら御無沙汰に相成あひなりまして、何時いつも御無事で、此人は僕の知己ちかづきにて萩原新三郎と申します独身者ひとりもので御座いますが、御近眤おちかづきの為め一寸お盃を頂戴いたさせませう。オヤ何だかこれでは御婚礼の三々九度さかづきの様で御座います。と少しも間断だれまなく幇助とりまきますと、嬢様は恥かしいが又嬉しく、萩原新三郎を横目にヂロヂロ見ないふりをしながら視て居りますと、気があれば目も口程に物をいふと云ふたとへの通り、新三郎もお嬢様の艶容やさすがたに見惚れ、魂も天外に飛ぶばかりです。

 さうかうするうちに夕景になり、燈明あかりがチラチラく時刻となりましたけれども、新三郎は一向に帰らうと云はないから、

 志丈「大層に長座を致しました。サ御暇おいとまを致しませう。

 米「なんですネー志丈さん、貴所あなた御同伴おつれ様もありますからマアよいぢやアありませんか、おとまりなさいナ。

 新三「僕は宜しう御座います。とまつまゐつてもよろしう御座います。

 志丈「それぢやア僕一人憎まれ者になるのだ。しかし又斯様かやうな時は憎まれるのがかへつて深切に成るかも知れない。今日は先づ是までとしておさらばおさらば。

 新三「鳥渡ちよつと便所を拝借致したう御座います。

 米「サア此方こちらいらツしやいませ。と先に立て案内を致し、廊下伝ひに参り「此処が嬢様のおへやで御座いますから、マアお這入はいり遊ばして一服召上ツて入ツしやいまし。新三郎は「難有う御座います。と云ひながら便場ようばへ這入ました。

 米「お嬢様へ、あのお方が、出て入ツしやツたらばお冷水ひやかけてお上げ遊ばせ。お手拭は此処に御座います。と新しい手拭を嬢様に渡し置き、お米は此方こちらへ帰りながら、お嬢様があゝいふお方に水をかけて上げたならばさぞお嬉しからう。のお方は余程御意ぎよいかなつ容子やうす。と独言をいひながら元の座敷へ帰りましたが、忠義も度をはずすとかへつて不忠におちて、お米は決して主人に猥褻みだらな事をさせるつもりではないが、何時も嬢様は別にお楽みもなく、ふさいでばかり入ツしやるから、かういふ串戯じやうだんでもしたら少しはお気晴しになるだらうと思ひ、主人の為めを思つてしたので。

 さて萩原は便所から出て参りますと、嬢様は恥かしいのが満胸いつぱいで只茫然ぼんやりとしてお冷水ひやけませうとも何とも云はず、湯桶を両手にさゝへて居るを、新三郎は見て取り、

 新三「是は恐入ます。はゞかりさま。と両手を差伸べれば、お嬢様は恥かしいのが満胸いつぱいなれば、目も暗み、見当違ひの所へ水をかけて居りますから、新三郎の手も彼方此方あちらこちらと追駆けて漸々やうやう手を洗ひ、嬢様が手拭をと差出さしいだしてもモヂモヂして居るうち、新三郎も此お嬢は真に美麗うつくしいものと思ひ詰めながら、ズツと手を出し手拭を取らうとすると、まだモヂモヂして居て放さないから、新三郎も手拭の上から恐怖こわごわながらその手をジツと握りましたが、此手を握るのは誠に愛情の深いもので御座います。お嬢様は手を握られ赧顔まつかに成て、又その手を握り返して居る。此方こちらは山本志丈が新三郎が便所へ行き、余り手間取るをいぶか

 志丈「新三郎君は何処へ行かれました。サアかへりませう。とき立てればお米は誤魔化し、

 米「貴所あなたなんですネー。オや貴所のお頭顱つむり閃々ぴかぴか赫燿ひかツて参りましたヨ。

 志丈「ナニサそれ燈火あかりで見るからひかるのですハネ、萩原うぢ萩原氏。と呼立よびたつれば、

 米「なんですネー。よう御座いますヨー。貴所あなたはお嬢様のお気質きだても御存じではありませんか。お貞操かたいから仔細はありませんヨ。といふて居りまする処へ新三郎が漸々やうやうでて来ましたから、

 志丈「君那辺どちらに居ました。いざ帰りませう。左様なれば御いとま申します。今日は種々いろいろ御馳走に相成りました。難有う御座います。

 米「左様なら、今日ハマア誠にお匆々そうそうさま。左様なら。と志丈新三郎の両人は打連れ立ちて還りましたが、還る時にお嬢様が新三郎に「貴君あなたた来て下さらなければわたくししんで仕舞ひますヨ。と無量の情を含んで言はれた言葉が、新三郎の耳に残り、造次しばしも忘れる暇はありませなんだ。

 

──以下・続く──