はじめに
1982年(昭和57年)、私は突然、仙台市から、この茂原市に家族と共に転居して来た。その行為は、あまりにも唐突だったので、特に二人の娘たちからは、ただならぬ顰蹙を買った。
しかし、私にも譲れぬ理由があった。
その最大のものは、その二年前の1980年に、私は文学的に最も私淑していた、「文学界の泰斗新田次郎先生の急逝」という〝事件〟に遭遇していた。この事件は、私にいたたまれない焦燥感、を与えたのは事実だ。
「そうだ、こうしては、いられない。東京の近くに行こう」
こうして、私は茂原市にやって来たのだが、何故茂原なのか、その確たる理由は、今だに判然としない。しかし強いて言うことにする。
台湾生まれで、九州育ちの私には、仙台の蔵王颪の冷たさ、痛さに堪えられなかった。
茂原からは、東京まで特急で一時間で行ける。充分に文学活動が出来る。
二人の娘たちの大学への進学にも便利。(当時、東京歯科大学は、千葉市の稲毛に在った)
茂原は、いわば東京の家庭菜園的存在で、米や野菜や魚が、ふんだんに手に入る。つまり生きていける。
あれから、36年が過ぎたが、これらの条件は、今でも全て当てはまったと、私は満足している。
当時、畏友井上ひさしは、千葉県市川の北国分に住んでいた。
彼は、1972年(昭和47年)に、第67回直木賞を得て、既に最盛期の作家であった。
彼は、仙台の高校の同期でもあり、来仙時には、何度か、歯の治療も施した。他の仲間たちと一緒に、仙台の夜を、飲み歩いたことも、楽しい思い出となっている。
荻生徂徠が、茂原の本納地区に、その少青年時代を過した事実を知ったのは、私が此処に来てからだった。ある時このことを、私は井上ひさしに話して、徂徠のことを書くことを奨めたことがあった。
「それは、道幸先生が書くべきでしょう。是非書いて下さいよ」
(井上ひさしは、歯の治療を受けて以来、私のことを「道幸先生」と呼んだ。私が、いくら呼び捨てで良いと言っても、彼は終生変えることはなかった)
私は、ひさしとのこの約束を、今まで果たさなかった。新天地での歯科活動と文学活動の多忙さは、物理的にも、「儒学者、徂徠」に取り組む余地を、与え無かったのだ。
此の度私は、本納に在る長生病院にお世話になったが、長い入院の徒然の中で、何故かふと「徂徠」を感じたのである。そして同時に、あの時の井上ひさしとの約束(迂闊にも、それすら忘れかけていたのだが…)も蘇った。
今、「徂徠」は、新田先生と井上ひさしの、目に見えない力を借りて、漸く世に出ようとしている。しみじみありがたい、ことだと感じている。
平成二十九年夏 著者 山田道幸
「ホスピタル、徂ったり徠たり」
─荻生徂徠が夢みた、理想郷─
〈若き日の徂徠を育んだ、本納・茂原の歴史とその背景〉
江戸中期の儒学者、荻生徂徠が、13年間住んだという、房総半島の本納町は、外房線、本納駅の西側の街道沿いに在る。
街道の北西部には、丘陵が町を護るように連なる。高さは60m前後程だが、ここに領主黒熊大膳亮成常の居館、本納城が在った。
黒熊とは、恐ろしく悪くて、強そうな名前だが、「亮」の肩書は、彼が、地方長官から信頼され、その補佐官として、税の取り立てなどをした証しだ。
中世の戦国時代には、本納城のような小さな城が、まるで雨後の筍のように乱立して、攻め取られたり、攻め滅したりを繰り返していた。
本納城が落ちたのは、永禄12年(1569年)であった。その顛末もおそまつなもので、一城の主として、彼は後々まで、軽率のそしりを受け続けた。
「土気古城再興伝来記」に次のように出ている。
ある時、黒熊大善亮は、常々相対している隣り町の土気城主酒井胤治父子が、本来属しているはずの、房州里見家に背き、小田原北条氏に与している、という噂を耳にした。
「そうだ、このことを里見氏に注進し、その加勢をもらって、この際一気に酒井を潰してしまおう」黒熊の計略は、ここまでは順調であった。しかし、土気の酒井氏の方が一枚うわ手だった。彼は、小田原北条側についたときから、何時かは、本納側が動くことを予測して、警戒を怠らなかった。そこへ、黒熊が、のこのこと里見への使いを出したものだから、忽ち捕まってしまった。酒井氏は、直ちに軍勢を整えると、本納城を攻めた。使いを出したばかりで、全く無警戒の本納城は、何なく攻め落とされた。城主の黒熊大膳亮は切腹して果てたという。
現在、本納城祉への登り口は、「蓮福寺」という寺の境内を通って行ける。この蓮福寺は、天正年間に、第四代土気城主、酒井胤治が、黒熊大膳亮の菩提をとむらって建てたものといわれる。
若き日の荻生徂徠も、いく度となく、この登り口から城祉へと登った、と思う。
本納城を落とした、土気の酒井氏は、その後どうなったのだろうか。小田原の北条側に付き、当初は安寧の日が続いた。これで酒井家の未来は永劫だ、などと考えたかも知れない。
しかし、歴史とは、無慈悲なのが常なのだ。
父胤治と共に、本納城を滅ぼした子康治は、酒井伯耆守と名乗り、土気城の五代目を立派に継いでいた。
父胤治と共に、黒熊大膳亮を倒してから、わずか21年後の事であった。
天正18年(1590)四月、豊臣秀吉による小田原北条氏攻めが始まった。
酒井康治にとっては、まさに驚天動地の大事件であった。
七月上旬、長い長い「小田原評定」の果てに、遂に小田原城は落ちた。
城を出て降参した、氏政、氏照兄弟は切腹。
当主(五代目)だった氏直は、高野山(紀州)に蟄居となった。
酒井康治たち、上総・下総の城主たちの命運は、すでに四月下旬に決していた。
秀吉は、家康と協議して、既に別動隊を両総および、武蔵の国へと発進させていた。
秀吉の小田原攻めの報によって、これらの国々の藩主たちは、とうに浮き足立っていたから、そこへ家康の軍勢がやってくるとの噂が流れただけで、大混乱となった。
ある者たちは城を捨てて逃げた。
又ある城主たちは、降伏の書状のみを残して、己れの領内に身を潜めた。
激しい動きをみせた者もいた。
万喜城の土岐頼春は、「このまま、おめおめと城を明け渡すのは、武家としての面目が立たぬ」というや、城に火を放ち、家臣一同をひき連れて、小浜の港から小船に分乗、姿を消した。
一方、土気の酒井康治は、自分から恭順の意を示した。土気城を明け渡すと、領内に草庵を結んで隠栖したという。
この頃、世間に広まった「声」がある。
『家康さまの御威光には、たった一日で50の城落ちる』
それは長い間、権勢を欲しいままにした領主たちへの、民衆の強烈な揶揄とも受け取れる。
〈荻生徂徠の人となり〉
寛文六年(1666)生まれ。
場所 江戸麹町側の二番町。
(父方庵は医師として、当時群馬館林の城主徳川綱吉の侍医だった。
又綱吉は、将軍家綱の弟として、江戸の神田の邸に住んでいた。)
家族 (祖父)玄甫。江戸の市中で開業、名医だった。
(父)方庵、町医師から取り立てられて、綱吉邸に勤務。
(兄)春竹。本納で町医者として開業。徂徠ら家族が江戸に去った後も、同所で開業を続けた。
(弟)観。幕府の儒官となった。
(徂徠)幼名讐松、字を茂卿・通称は惣右衛門。
因みに、徂徠という号は、後々江戸でつけた号。言葉通りに解釈すると、「往ったり来たり」となる。つまり歩き回りながら深く物事を考えて、少しでも「真理」に近づく、という願いが込められていた、と考えられる。又徂徠という同名の山が、中国山東省南東部に在るという。あるいはその徂徠山から雅号として取ったのかも知れない。
(教育)幼時の徂徠は、寺子屋や個人塾の教育は全く受けていない。徂徠の先生は、もっぱら父方庵だったという。方庵は医師であったが、漢文の素養もあったから、徂徠は、父から手ほどきを受けた。そのため、徂徠は十一、二歳のころには、独りで本を読めた。(徂徠集)「われ曽て句読を受けず」と、その中で徂徠は述べている。これは、恐らく、自分は、正式の教育施設での教えを受けたことは無い。しかし、それでも今日の自分がある。これは徂徠の一種の、矜持だったのだろう。
〈父方庵の流罪〉
延宝七年(1679)、方庵は綱吉の勘気をこうむって、上総の国の長柄郡本納村に流罪となった。徂徠14歳の時であった。流罪の罪名が明きらかにはされなかった、この事から考えると、方庵が大きな失敗を犯したとは考え難い。それでも、13年間の蟄居は長過ぎる。父が許されて、江戸に帰った後も、徂徠たち兄弟は、本納に止め置かれた。兄春竹は、弟たちの生活を守るために、町医者として、この地に根を下ろした、という。
徂徠は、後年著書「政談」の中で、本納という上総の片田舎での、少青年時代を振り返って述べた。
「本納での生活は苦しかったが、江戸時代には経験したことのない、多くの出合いと、出来事を学べた」
つまり、少年徂徠は、百姓や漁夫たちと、肌を触れ合っての生活の中で、後々の自身の人柄形成に、並々ならぬ影響を受けた、と言いたかったのであろう。
(学び)寺子屋ひとつない、本納の生活の中でも、徂徠は自分ひとりでの学問を、怠ることはなかった。
幼少の頃から、父方庵から「学問は、己れひとりでやるもの」と厳しく教えこまれた徂徠は、祖父玄甫からもらった書物「大学諺解」だけを、ひたすら読んだ。「大学」とは、孔子が残した遺言書である。むろん原文は漢字だけで書かれており、とても難解なものといわれる。
ただし、諺解となると話は異なる。
これは、漢文を口語に訳したもので、子供の徂徠にも、おぼろ気ながら、理解が出来たのであろう。
徂徠は、ひたすら大学を読んだ。すると不思議なことに、後のち読むことになる、どんな漢書でも、すらすら読めたという。(徂徠集)
やがて、江戸へ出た徂徠は、芝の増上寺の近くに私塾を開いた。
〈処女作発表〉
生活は極めて貧しかったが、やがて徂徠の処女作といわれる「訳文筌蹄」六巻を著わした。
これは、簡単に言うと、漢文の中に出てくる同訓異義、つまり読みが同じでも、意味が異なる言葉のちがいを、ごくわかり易く説明した本なので、漢文を学ぼうとしている人びとによろこばれて、多くの写本が作られたという。
この作品で、徂徠の名声は、一気に高まったといえよう。
因みに「筌蹄」本来の意味は、魚をとるかごや、うさぎを捕える罠を意味し、魚やうさぎを捕ってしまったら、不用となり忘れ去られる物。つまり徂徠は、自分の作品を卑下して、「筌蹄」と名付けたのだろう。
上総の本納村に長い間雌伏して、いきなり江戸で漢学者としてデビュウした青年徂徠の、純情な一面を物語っていて、ほほ笑ましい。
〈柳沢吉保に仕える〉
このようにして、徂徠の漢学者としての名声は、次第に学界でも高まっていった。時の将軍は徳川五代、綱吉公。そしてその側用人が、柳沢吉保だった。柳沢吉保という人は、政治的には何かと世の中から批判された人だが、学問には熱心で、新進の漢学者荻生徂徠をも、そのブレインとして重用した。
〈給金 徂徠の給料をみてみよう〉
最初の身分は、馬廻役として俸禄は十五人扶持であった。翌年になって正式に儒者の待遇となり二十五人扶持となる。こうして年功を積み重ね、柳沢邸を出て、江戸市中に住居を持つ四十四歳の頃には、五百石取りにまでなった。
〈自宅を持つ〉
吉保の藩邸を出た徂徠は、宝永六年三月、日本橋近くの茅場町に住居を構えた。徂徠は、この家を「蘐園」と名付けた。やがてこの名は。「蘐園社」という徂徠の私塾となって有名になって行く。
「蘐」という字の意味するところは、茅と同じである。本来この字は、「しなかんぞう」という多年草の名だ。これを食すると、人は憂いを忘れられるということから「忘憂草」とも呼ばれる。世の中のもろもろの憂いを忘れる家。徂徠という人は、実に深い所を衝いて来る。
〈徂徠の思想の特色(1)〉
個人個人が、異なった「気質」、つまり生まれながらの素質をそなえており、それは、他人が変化させることはできない。
つまり、人それぞれの素質に応じて、その個性を伸ばしてやれば、「社会」に、有用な人材となる。
万人に、一律な道徳的修養など課する必要はなく、あたかも、和風甘雨が植物を生長させ、竹は竹、木は木、草は草として、それぞれの特性を発揮させてやれば良い。(「弁名」「性情」)
つまり徂徠は、社会全体から切り離して、個人の自由な生き方を考えようとする、ことまでは踏み込めずとも、少なくとも、古い規律や思想により、個性までも縛ることは出来ない。という考えをとっている。
〈「飛耳長目」的な物の見方〉
或る、歴史作家は、徂徠の世界観を、こう纏め切った。この歴史作家は、九十歳を超えて、今なお健筆を揮っておられる。その融通にして、なお無碍、(つまり、文章や考えが、よどみなく、水の流れるようになめらかなさま)な歴史観に、私は惹かれる。
つまり、徂徠自身は、封建社会の最中に在りながら、アンテナを張り巡らし、実に多くの情報を得ていた。又、視野を極限まで広め、わが国の過去や、未来の果てまでをも見極めてやろう、との思いが強かった。ということであろう。
少年期に、完全に江戸社会から切り離され、上総の本納村に、逼塞を余儀なくされた十数年間に、徂徠少年が自然に身につけた「技」だったにちがいない。
〈徂徠の思想の特色(2)〉
徂徠の思想の核心をなす問題に、「道」がある。人として、ふみ行う「道」。すなわち人が社会生活の中で、それに従って行動しなければならない規範・法則の意味である。(荻生徂徠)。
しかし、徂徠は「道は知りがたく、亦言いがたし。その大なるが故なり(弁道)」と述懐もしている。
「道」とは、天下を安泰にするという目標を、実現するための方法。具体的には、政治の方法であり、天下万民の立場からみれば、その安泰な天下の秩序を、維持して行くために従わねばならない、生活のルールである。
つまり天下を安泰にするという、見地から、必要とされるものであるから、「人間の道とは、一人について言うものではなく、必ず億万人全体について言うものである。(弁道)」。
徂徠は、「道」というものは、大きくて、とらえ所がないと断りながらも、「必ず億万人について考えるもの」と結論づけている。
昨今の国際情勢を見ると、北朝鮮の指導者金正恩のように、ほんのひと握りの指導部の安寧のため、他の億万人、あるいは世界中の平和と安全を脅やかす行為を、日夜繰り返している人間もいる。徂徠の「道」に背く、許し難い指導者だ。泉下の徂徠も、歯がみしているにちがいない。
〈その後の徂徠と家族関係〉
宝永六年の正月、将軍綱吉が死ぬと間もなく、徂徠は柳沢吉保の特別のはからいで藩邸を出て、学者としての活動に専念することになった。四十四歳になっていた。
自由になっても俸禄(給与)は、今までどうり支給されたという。
前に述べたとおり、先ずは日本橋茅場町に、居を定め、「蘐園社中」という私塾を開いた。
しかし、徂徠は、ここから何故か次々と移転をくり返す。
正徳三年には「牛込」に移り、さらに享保五年には当時「赤城」と呼ばれた、神楽坂近辺に移転。
翌年には、市ヶ谷大住町に移る。徂徠が結婚したのは、柳沢家へ就職した直後の元禄九年十一月であった。
妻は、旗本三宅孫兵衛の娘で、名を「休」といった。二十四歳であった。
彼女は五人の子供を産んだが、その間、三人が次々と死亡。休自身も、三十三歳の若さで病死した。残されたのは、二歳の女の子と、一歳の男の子の二人だった。不幸は重なった。
この男の子も間もなく死去。「増」という女の子だけが残ったが、彼女も成人を前にして十七歳で病死したという。
江戸時代では、幼少者の生き残りは極めて困難で、それは将軍家でも例外ではあり得ない。
原因は流行病である。
あの第十一代将軍家斉は、「オットセイ将軍」という渾名の通り、多くの側室と交わり、子供を、五十七人も作ったが、三十七人は、五歳を待たずして早世している。
ところで、徂徠はこの間、正徳三年に四十八歳で、「牛込」に転居。この時、佐々立慶の娘と再婚したが、この女性も、翌々年二十七歳で亡くなっている。
徂徠という人は、本当に、家庭運には恵まれなかった。
彼は、五十五歳のとき、藩主柳沢吉保の許しを得て、上総の本納村に残った、兄春竹の子、三十郎を養子に迎えた。
彼は、後に号を「金谷」と称し、儒学者となったが、平凡に終ったという。
〈徂徠の晩年〉
家庭的には全く不運で、人並み以上の、悲哀を舐め尽くした徂徠ではあったが、儒学塾「蘐園社」 の方は、順調で、多くの門人が集って、徂徠の学問や思想を、盛り上げた。
徂徠自身は、生来病弱な身体ではあったが、精神的には、若い門人たちに、豪も憶することはなかったという。