一
深い秋の静かな晩だつた。沼の上を雁が啼いて通る。細君は食台の上の洋燈を端の方に惹き寄せて其下で針仕事をして居る。良人は其傍に長々と仰向けに寝ころんでぼんやりと天井を眺めて居る。二人は永い間黙つて居た。
「もう何時?」と細君が下を向いたまゝ云つた。時計は細君の頭の上の柱に懸かつてゐる。
「十二時十五分前だ」
「お寝みに致しませうか」細君は矢張り下を向いた儘云つた。
「も少しして」と良人は答へた。
二人は又少時黙つた。
細君は良人が余りに静かなので漸く顔を挙げた。而して縫つた糸をこきながら
「一体何して居らつしやるの? そんな大きな眼をして……」と云つた。
「考へて居るんだ」
「お考へ事なの?」
又二人は黙つた。細君は仕事が或る切りまで来ると、糸を断り、針を針差しに差して仕事を片付け始めた。
「オイ俺は旅行するよ」
「何いつて居らつしやるの? 考へ事だなんて今迄そんな事を考へて居らしたの」
「左うさ」
「幾日位行つて居らつしやるの?」
「半月と一ト月の間だ」
「そんなに永く?」
「うん。上方から九州、それから朝鮮の金剛山あたり迄行くかも知れない」
「そんなに永いのいや」
「いやだつて仕方がない」
「旅行おしんなつてもいゝんだけど、…………いやな事をおしんなつちやあいやよ」
「そりやあ請合はない」
「そんならいや。旅行だけならいゝんですけど、自家で淋しい気をしながらお待ちして居るのに貴方が何所かで今頃そんな…………」かう云ひかけて細君は急に「もう、いやいや」と烈しく其言葉をほうり出して了つた。
「馬鹿」良人は意地悪な眼つきをして細君を見た。細君も少しうらめしさうな眼でそれを見返した。
「貴方がそんな事をしないとハツキリ云つて下されば少し位淋しくても此間から旅行はしたがつて居らしたんだから我慢してお留守して居るんですけど」
「屹度そんな事を仕やうと云ふんぢやないよ。仕ないかも知れない。そんなら多分しない。なるべく左うする。――然し必ずしも仕なくないかも知れない」
「そら御覧なさい。何云つてらつしやるの。いやな方ね」
「馬鹿」
「仕ないとハツキリ仰有い」
「どうだか自分でもわからない」
「わからなければいけません」
「いけなくても出掛ける」
細君はもうそれには応じなかつた。而して「貴方が仕ないとハツキリ仰有つて下されば安心してお待ちして居るんだけど………男の方つて何故左うなの?」と云つた。
「男が皆左うぢやないさ」
「皆左うよ。左うにきまつてるわ。貴方でも左うなんですもの」
「そんな事はないさ。俺でも八年前までは左うぢやなかつたもの」
「ぢやあ、何故今は左うぢやなくおなれになれないの?」
「今か。今は前と異つて了つたんだ。今でもいゝとは思つて居ないよ。然し前程非常に悪いと云ふ気がしなくなつたんだ」
「非常に悪いわ」細君は或る興奮からさへぎるやうに云つた。「私にとつては非常に悪いわ」
その調子には良人の怠けた気持を細君の其気持ヘグイと引き寄せるだけの力がこもつて居た。
「うん。そりや左うだ」良人は其時腹からそれに賛成しないわけに行かなかつた。
「そりや左うだつて、そんならハツキリそんな事仕ないつて云つて下さるの?」
「うゝ? 断言するのか? そりや一寸待つて呉れ」
「そんな事を仰有つちやあ、もう駄目」
「よし。もう旅行はやめた」
「まあ!」
「まあでも何んでも旅行はもうよす」
「そんなに仰有らなくていゝのよ。御旅行遊ばせよ。いゝわ多分仕ないつて云つて下すつたんですもの。私が何か云つておやめさせしちやあ悪いわ。おいで遊ばせよ。上方なら大阪のお祖母さんの所へ行つて居らつしやればいゝわ。お祖母さんに貴方の監督をお頼みして置くわ」
「旅行はよすよ。お前のお祖母さんの所へ泊つて居てもつまらないし、第一行くとすると上方だけぢやないもの」
「悪るかつたわ。折角思ひ立ちになつたんだからおいで遊ばせ。左うして頂戴」
「うるさい奴だな、もうやめると決めたんだ」
「…………赤城にいらつしやらない? 赤城なら私本統に何んとも思ひませんわ。紅葉はもう過ぎたでせうか」
「うるさい。もうよせ」
「お怒りになつたの?」
「怒つたんぢやない」
細君は良人は矢張り怒つて居るんだと思つた。而して何か云ふと尚怒らしさうなので黙る事にした。然し良人は少しも怒つては居なかつた。其時は実は旅行も少し億劫な気持になつて居た。
「それは左うと大阪のお祖母さんのお加減は此頃どうなんだ。お見舞を時々出すか」
「今朝も出しました。又例のですから左う心配はないと思ひますの」
「八十お幾つだ?」
「八十四」
細君は針箱やたゝむだ仕立てかけなどを持つて隣室へ起つて行つた。而して今度は良人の寝間着を持つて入つて来た。良人は起き上つて裸になつた。細君は後ろから寝間着を着せかけながら、かう云つた。
「何んだか段々嫉妬が烈しくなるやうよ。京都でお仙が来た時貴方だけ残して出掛けて行つた事なんか今考へると不思議なやうですわ」
「あれは安心して出掛けて行つたお前の方が余程利口だつた。お前が出掛けて行つたら尚話も何んにも無くなつて閉口した」
「ですけど、今は到底そんな事は出来ませんわ」
「俺がそんな不安心な人間に見えるかね」
「いゝえ、貴方が左うだと云ふんでもないのよ」
「そんなら向ふが危いと云ふのか」
「それもありますわ」
「慾目だネ。俺は余り女に好かれる方ぢやないよ」
「でも御旅行だと如何だか知れないんぢや有りませんか」
良人は一寸不快な顔をした。
「それとは又異ふ話をして居るんだ、馬鹿」
「何故?」
「もうよさう。其話はやめだ」
二
翌朝大阪から良人宛の手紙が来た。朝寝坊な良人は未だ眠つて居た、名は書いてなくても自分宛にもなつて居ると思ふと勝手によく開封する細君は其手紙も直ぐ開封した。
それを書いたのは他へ縁付いて居る細君の一番上の姉で、祖母の病気が今度はどうも面白くないと書いてあつた。祖母は貴方にお気の毒だから妹は呼ばなくていゝと申しますが、会ひたい事の山々なのは他目にも明らかで、昔気質で左うと云へない所が尚可哀想ですと書いてあつた。どうか都合出来たら二三日でいゝから妹を寄越して頂きたい。私共と異つて妹は赤坊の時から殆ど祖母の手だけで育つた児ですから、それが会はずに若し眼をねむる事でもあると祖母や妹は勿論私共にも甚だ心残りの事となります。こんな事も書いてあつた。
「又姉さんが余計な事まで書いて………」かう思ひながら猶細君の眼からはポタポタと涙が手紙の上へ落ちて来た。
寝室の方で
「オイ。オイ」
と良人の呼ぶ声がした。細君は急いで湯殿へ行き、泣きはらした眼を一寸水で冷してから其手紙とそれから其日の新聞を持つて寝室へ入つて行つた。
「お祖母さんが少しお悪いらしいのよ」仰向きになつて夜着の上に両手を出して居る良人に新聞と一緒にそれを手渡しながら云つた。
良人は細君の赤い眼を見た。それから其手紙を読むだ。
「直ぐ行くといゝ」
「左う? 行くなら早い方がいゝかも知れませんわネ」
「左うだよ。東京を今夜の急行で出掛けられるやうに早速支度をするといゝ」「そんなら左うしませうか。早く行つて早く帰つて来る方がいゝわ。同じ事ですもの」
「早く帰る必要はないから、ゆつくり看護をして上げるといゝよ」
「そりやあ屹度お祖母さんの方で早く帰れ帰れつて仰有つてよ。顔を見ればいゝんだから早く帰つてお呉れつて、屹度左う仰有つてよ。私もいやだわ。そんなに永く自家を空けるのは」
「よくなられるやうなら、それでいゝが、万一左うでなかつたら、なるべく永く居て上げなくちやいけない。お前とお祖母さんとは特別な関係なんだから」
「左う? ありがたう」かう云つて居る内に又細君の眼からは涙が流れて来た。
「お前は余程気持をしつかり持つてないと駄目だよ。看護して上げる為めにも自分の感情に負けないやうに気を張つてないと駄目だよ」
「でも、なるべく早く帰りますわ。自家の事も心配ですもの」
良人は細君の云ふ意味がそんな事でないのを知りながら、つい口から出る儘に
「俺も品行方正にして居るからネ」と笑談らしく云つた。
「そりやあ安心してますわ」と涙を拭きながら細君も笑顔をした。「けど、左う仰有つて下されば尚嬉しいわ」
細君はそこそこに支度をして出発て行つた。
細君からは手紙が度々来た。祖母のは肺気腫と云ふ病気だつた。風邪から段々進むで来たものである。痰が肺へ溜まる為めに呼吸する場所が狭くなる。――而して其痰を出す為めにせく。せいてもせいても中々痰が出ないと呼吸が出来なくなつて非常な苦み方をする。見て居られない。病気其ものはそれ程危険ではないが其苦みの為めに段々衰弱する。それが心配だと書いて来た。然し何しろ気の勝つた人の事で気で病気に抵抗しているのが――残酷な気のする事もあるが――嬉しいと書いて来た。
細君は中々帰れなかつた。祖母の病気はよくも悪くもならなかつた。それは実際気で持つて居るらしかつた。
細君が行つて四週間程して良人も其所へ出掛けて行つた。然し其頃から祖母は幾らかづゝいゝ方へ向かつた。気丈は遂に病気に勝つた。良人は十日程居て妻と一緒に帰つて来た。それは大晦日に間もない頃だつた。
祖母はそれからも二タ月余り床を離れる事は出来なかつた。然し三月初めの或日、夫婦は小包郵便で大阪からの床あげの祝物を受取つた。
三
それは春らしい長閑かな日の午前だつた。良人は四五日前から巣についてゐる鶏に卵を抱かしてやらうと思つて、巣函の藁を取り更へて居ると、不図妙な吐気の声を聴いた。滝だ。滝が女中部屋の窓から顔を出して切りに何か吐かうとして居る。吐かうとするが何も出ないので只生唾を吐き捨てゝ居る。
彼はもみがらを入れた菓子折から丁寧に卵を一つ一つ巣函へ移してゐた。而して、あゝ云ふ吐気の声は前にも一度聴いた事があると考へた。父の家に居た頃門番のかみさんがよくあゝいふ声を出してゐたと思つた。彼は其時それを母に話すと、母は「赤ン坊が出来たので悪阻でそんな声を出すんだらうよ」と云つた。母の云ふやうにそれは実際妊娠だつた。
彼はそれを憶ひ出して、滝のも妊娠かなと思つた。――彼は翌日も其声を聴いた。それから其翌日も聴いた。
四
滝のが妊娠だとすると、これは先づ自分が疑はれる、と良人は考へた。何しろ過去が過去だし、それに独身時代ではあつたにしろ、女中との左う云ふ事も一度ならずあつたし、又現在にしろ、それを細君に疑はれた場合、「飛んでもない」と驚いたり、怒つたりするのは我ながら少し空々しい自分だと考へた。これは恥づべき事に違ひないと彼は思つた。
彼は結婚した時から左う云ふ事には自信がなかつた。彼はそれを細君に云つた。一人で外国へ行つた場合とか一ト月或は二タ月位の旅行をする場合とか、と云つた。其時は細君も或る程度に認めるやうな返事をして居た。
それからも良人は其危険性の自分にある事を半分笑談にして云つた。又或時は既にそれを冒して居るやうにも云つた。而して後のを云ふ場合には知らず知らず意地悪いイヤガラセを云ふ人の調子でそれを云つて居た。これはづるい事だ。其場合彼では打明ける事が主であつた。然し聴く者にはイヤガラセが主であると解れるやうに彼は云つて居た。聴く者にとつてイヤガラセを主として感ずればそれだけ云はれた事実は多少半信半疑の事がらになる。良人は故意で左うするのではなかつた。知らず知らずにそんな調子になるのだ。尤も細君もそれを露骨に打明けられる事は恐れて居た。自身でもそれを云つて居た。而して最初或程度に認めるやうに云つて居た細君も何時となしに、それは認めないと云ふやうになつた。
滝のが結果から、或は医者の診察から、若し細君の留守中に起つたと云ふ事になればそれは尚厄介な事だと良人は思つた。然し実際自分は疑はれても仕方がない。事実に左う云ふ事はなかつたにしろ、左う云ふ気を全く起さなかつたとは云へないから、と思つた。
彼は滝を嫌ひではなかつた。それは細君の留守中の事ではあつたが、例へば狭い廊下で偶然出合頭に滝と衝突しかゝる事がある。而して両方で一寸まごついて、危く身をかわし、漸くすり抜けて行き過ぎるやうな場合がある。左ういふ時彼は胸でドキドキと血の動くのを感ずる事があつた。それは不思議な悩ましい快感であつた。それが彼の胸を通り抜けて行く時、彼は興奮に似た何ものかで自分の顔の赤くなるのを感じた。それは或るとつさに来た。彼にはそれを道義的に批判する余裕はなかつた。それ程不意に来て不意に通り抜けて行く。
これはまだよかつた。然し左うでない場合、例へば夜座敷で本を見てゐるやうな場合、或は既に寝室に居るやうな場合、其所に家の習慣に従つて滝が寝る前の「御機嫌よう」を云ひに来る。すると、彼は毎時のやうに只「うん」と答へるだけでは何か物足らない気のする事がよくあつた。彼は現在廊下を帰りつゝある滝を追つて行く或る気持の自身にある事を感ずる事がよくあつた。彼はそれを余りに明らかに感ずる時何かしらん用を云ひつけない事はない。「一寸書斎からペンを取つて来て呉れ」とか或は「少し寒いから上へ毛布を掛けて呉れ」とか云ふ。云ひながら、底意の為めに自分ながらそれが不自然に聴えて困つた。彼は自分の底意を滝に見抜かれてゐると思ふ事もよくあつた。然しこんなにも考へた。滝は自分の底意を見抜いて居る。而してそれに気味悪るさを感じて居る。然し気味悪るがりながら尚其冒険に或る快感を感じて居る――彼は実際そんな気がした。彼は自身と共通な気持が滝にも其場合起つてゐると思つた。而して全体滝は未だ処女かしら? それとも、――こんな考への頭をもたげる事もあつた。
細君が大阪へ出発つてからは必要からも滝はもつとの用を彼の為めにしなければならなかつた。滝はそれを忠実にした。彼の底意が見られたと彼が思つてからも滝の忠実さは少しも変らなかつた。それは尚忠実になつたやうな気が彼にはした。しかも其忠実さは淫奔女の親切ではないと彼は思つた。――けれども兎も角、それは淡い放蕩には違ひなかつた。
左う思つて、彼は前のとつさに彼の胸を通り抜けて行く悩ましい快感の場合を考へた。然しそれを放蕩と云ふ気はしなかつた。根本で二つは変りなかつた。――然し矢張りそれを同じに云ふ事は出来ないと思つた。
滝は十八位だつた。色は少し黒い方だが、可愛い顔だと彼は思つて居た。それよりも彼は滝の声音の色を愛した。それは女としては太いが丸味のある柔かいいゝ感じがした。
彼は然し滝に恋するやうな気持は持つて居なかつた。若し彼に細君がなかつたら、それは或はもつと進むだかも知れない。然し彼には家庭の調子を乱したくない気が知らず知らずの間に働いて居た。而してそれを越える迄の誘惑を彼は滝に感じなかつた。或は感じないやうに自身を不知掌理して居たのかも知れない。
五
良人はこれは矢張り自分から云ひ出さなければいけないと思つた。左う思へば此四五日細君は何んだか元気がなくなつてゐる。然し未だ児を生むだ事のない細君が悪阻を知つてゐるかしら? 左う良人は思つた。兎も角元気のない理由がそれなら早く云つてやらなければ可哀想だと思つた。それに滝の方も田舎によくある若し不自然な真似でもする事があつては大変だと思つた。而して一体相手は誰れかしらと考へた。それは一寸見当が付かなかつた。何しろ自分達が余り不愉快を感じない人間であつて呉れゝばいゝがと思つた。彼は淡い嫉妬を感じてゐたが、それは自身を不愉快にする程度のものではなかつた。
良人は細君が大概それを素直に受け入れるだらうと思つた。然し若し素直に受け入れなかつたら困ると思つた。其場合自分には到底ムキになつて弁解する事は出来まいと思つた。弁解する場合其誤解を不当だと云ふ気が此方になければ左うムキにはなれるものではない。しかも疑はれゝば誤解だが、自分の持つた気持まで立入られゝばそれは必ずしも誤解とは云へないのだから、と思つた。
兎も角此儘にして置いては不可い。彼は左う思つて、書斎を出て行つた。
細君は座敷の次の間に坐つて滝が物干から取り込むで来た襦袢だの、タオルだの、シーツだの、を畳むで居た。細君は良人が行つても何故か顔を挙げなかつた。
「オイ」と良人は割りに気軽に声を掛けた。
「何?」と細君は艶のない声で物憂さうな眼を挙げた。
「そんな元気のない顔をして如何したんだ」
「別に如何もしませんわ」
「如何もしなければいゝが…………お前は滝が時々吐くやうな変な声を出して居るのを気がついて居るか?」
「えゝ」左う云つた時の細君の物憂さうな眼が一寸光つたやうに良人は思つた。「どうしたんだ」
「お医者さんに診て貰つたらいゝだらうつて云ふんですけど、中々出掛けませんわ」
「全体何んの病気なんだ」
「解りませんわ」細君は一寸不愉快な顔をして眼を落として了つた。
「お前は知つてるネ」良人は追ひかけるやうに云つた。
細君は下を向いた儘返事をしなかつた。良人は続けた。
「知つてるなら尚いゝ。然しそれは俺ぢやないよ」
細君は驚いたやうに顔を挙げた。良人は今度は明らかに細君の眼の光つたのを見た。而して見てゐる内に細君の胸は浪打つて来た。
「俺は左う云ふ事は仕兼ねない人間だが、今度の場合それは俺ぢやあない」
細君は立つてゐる良人の眼を凝つと見つめて居たが、更に其眼を中段の的もない遠い所へやつて、黙つて居る。
「オイ」と良人は促がすやうに強くいつた。
細君は唇を震はして居たが、漸く
「ありがたう」と云ふと其大きく開いて居た眼からは涙が止途なく流れて来た。
「よしよし。もうそれでいゝ」良人は坐つて其膝に細君を抱くやうにした。彼は実際しなかつたにしろ、それに近かい気持を持つた事を今更に心に恥ぢた。然し今はそれを打明ける時ではないと思つた。
「それを伺へば私にはもう何んにも云ふ事は御座いませんわ。貴方が何時それを云つて下さるか待つて居たの」細君は泣きながら云つた。
「お前は矢張り疑つて居たのかい」
「いゝえ、信じて居ましたわ。でも、此方から伺ふのは可恐かつたの」
「それ見ろ。矢張り疑つて居たんだ」
「いゝえ、本統に信じて居たの」
「うそつけ。左う信じればそれが本統になつて呉れるやうな気がしたんだらう。兎も角もそれでいゝ。お前は中々利口だつた。お前は素直に受け入れて呉れるだらうとは思つてゐたが、若し素直に受け入れなければ俺は疑はれても仕方がないと思つて居たのだ。然し素直に信じてくれたので大変よかつた。若し疑ひ出せば疑ふ種は幾らでも出て来るだらうし、その為めに両方で不愉快な想ひをしなければならない所だつた。俺は明らかなうそは云はないつもりだ。笑談やイヤガラセを云ふ時反つてうそに近い事を知らずにするかも知れないが、断言的にうそは云はない…………」
「もう仰有らないどいて頂戴。よく解つてます」細君は妙な興奮から焦々した調子で良人の言葉を打ちきるやうに云つた。
良人は苦笑しながらちよつと黙つた。
「然しあとはどうする?」
「あとの事なんか、今云はないで…………。滝が好きなら其男と一緒にするやうにしてやればいゝぢやあありませんか」
「他の話ぢやない」
「もういゝのよ。………貴方もこれからそんな事で私に心配を掛けちやあいやですよ」細君は濡れた眼をすゑて良人をにらむだ。
「よしよし。解つたらもうそれでいゝ。又無暗と興奮すると後で困るぞ」
「何故もつと早く云つて下さらなかつたの? いやな方ね。人の気も知らずに」
「全体お前は悪阻と云ふ事を知つて居るのか」
「その位知つて居ますわ。清さんの生れる時に姉さんの悪阻は随分ひどかつたんですもの」
「知つてるのか」
「そりやあ、知つてますわ。それより貴方の知つて居らつしやる方が余程可笑しいわ。男の癖に」
「俺は知つてる訳があるんだ」
「又そんないやな事を仰有る」
「お前は滝のは何時頃から気がついたんだ」
「もう四五日前からよ」
「俺は一昨日からだ。その間お前はよく黙つて居られたな。矢張り疑つて居たんだな」
「貴方こそ、よく三日も黙つて居らしたのね」
そんな事を云ひながら細君は身体をブルブルと震はして居た。
「どうしたんだ」良人は手を延ばして今は対坐してゐる細君の肩へ触つてみた。
「何んだか妙に震へて困るわ」かう云ひながら細君は頤を引いて自分の胸から肩の辺を見廻はした。
「興奮したんだ。馬鹿な奴だな」
「本統にどうしたんでせう。どうしても止まらないわ」
「寝るといゝ、此所でいゝから暫く静かに横になつてゝ御覧」
「お湯を飲むでみませう」左ういつて細君は起つて茶の間へ行つた。而して戸棚から湯呑みを出しながら
「滝には出来るだけの事をしてやりませうネ」と云つた。
「うん、それがいゝ。それはお前に任かせるからネ。而して云ふなら早い方がいゝよ、そんな事もあるまいが不自然な事でもすると取り返しが付かないからネ」
「本統に左うネ。明日早速お医者さんに診せませう。――まあ、如何したの? 未だ止まらないわ」かういまいましさうに云ひながら細君は長火鉢の鉄瓶から湯を注いだ。而してそれを口ヘ持つて行かうとすると其手は可笑しい程にブルブル震へた。
(大正六年七月十日)