ここに、恐ろしいほどの謎が隠されている。思いもかけぬ不可思議な暗示が、わたしたちを戦慄させるのだ。
現在「いろは四十七文字」といっても、ほとんどの人は全部を知らない。しかし、戦前の日本人は、誰でも、もの心つき始めるころに、それを覚えた。「いろは四十七文字」によって、戦前の日本人は生まれて初めて、文字と言うものを知ったのである。そこには、私たちが生涯を通じて使用するひらがなが、一字も重複することなく、全部収まっている。
ところが、いうまでもなく、この「いろは四十七文字」は、古い時代に作られた「歌」である。深い意味を持った歌つまり「いろは歌」であり、単に文字を覚えるためや、文字を記号的に整理するためだけに、かな文字を配列したというものではない。
私たちは、この「いろは歌」を、無造作に口ずさみ何と言うこともなく、日常的に活用してきたが、これを日本の古い時代に、誰が、どのようにして作ったものであるかを、誰一人知らないのである。
これほどに高級な技術を駆使して作られ、しかも優れた内容をもちこれほどに普及した歌、私たち日本人の、文字使用の原点であるともいえるこの「いろは歌」の作者が、いまだまったくわからず、しかもなぜか故意に秘密にされ、作者を表面に出すことのできない隠された事情があるような形跡がうかがえるのだ。
日本の上代の歴史は、謎また謎のような部分があまりにも多い。この「いろは歌」もおそらくその暗い部分に、深くかかわっているに違いない。その四十七文字の奥に果たしてどんな秘密がかくされているのだろうか。
平安初期の暗号遊び
三十年程前、私は日本古代の暗号を研究していた。それは、日本の朝廷が作った古い書物「日本書紀」とか「続日本紀」などの記事のところどころに、「○月×日、月、大星の心を犯せり」とか、「この日、白気(白きしるし)東の山に起これり」とか、理解しがたい奇妙な文章があるのを不思議に思い、それを探ってみたいと考えたからであった。
暗号はそもそも人類の社会生活の発生とともに存在したが、言葉の発生、発達とともに、だんだんと巧妙化してくるのは、当然であった。無論最初は簡単な合図のようなものであった。「古事記」神武天皇の項に、酒盛りの最中に歌を合図にして戦いを開始するという記事がある。暗号は,大古から主に戦争で利用されたが、平安初期になると、歌人たちの間で一種の遊びとして使われるようになった。これには何らかの契機があったのだろうが、まあいまでいうクイズ遊びのようなものであった。その方法は、暗号学的には「分置式」と呼ばれるもので、一見なんでもない歌の文句の中に、別の通信文を秘匿する方法である。たとえば「古今集」(巻十)にある、紀貫之の歌に、つぎのようなものがある。
小倉山峰たち鳴らしなく鹿のへにけむ秋を知るひとぞなき
ところが、この歌には、別の意味のことばがかくされている。五七調にしたがって分けて書くと、それがわかる。
をぐらやま
みね立ち鳴らし
なく鹿の
へにけむ秋を
しるひとぞなき
つまり、いちばん頭の字を横に読むと、「をみなへし」(女郎花)となる。別に重大な用件を暗号的に組み込む、というような大げさなものでなく、花の名や鳥の名をおりこむ、みやびやかな遊びであって、こうした歌の詠み方を「折句」と呼んでいた。そして暗号を各句の頭に分置するものを[冠]、末尾に置くものを[沓]といい、両方に折り込むのを[沓冠]と呼んでいた。面白いものでは、つぎのようなものがある。
よもすず し ねざめのかり ほ たまくら も まそでも秋 に へだてなきか ぜ
鎌倉末期の歌人で、[徒然草]の作者でもある兼好法師が、友人の頓阿法師に送った「沓冠」の歌である。[冠]で「よね(米)たまへ」、[沓]で「ぜに(銭)もほし」となる。これに対して頓阿法師の答えた歌は
よるもう し ねたく我せ こ はては来 ず なほざりにだ に しばし問ひま せ
であり、これは「米はなし」「銭すこし」となる。金銭、米の貸借も、このような方法でやれば、ユーモラスである。
「いろは歌」第一の暗号
さて、こうした歌を調べていくうちに、私は「いろは歌」にぶつかったのである。私たちの世代は、小学校へ入る前後、「いろは並べ」のオモチャで育った。「いろは」の文字を、一字ずつ大きく書いた木片を並べる遊びである。それは、七字並べであった。私たちはまず最初「い・ろ・は・に・ほ・へ・と」と区切って文字を覚えた。つぎに「ち・り・ぬ・る・を・わ・か」である。もっとも実際には一番最後は「ん」と「京」が入っていて二字分の空白を埋めてあった。それで七七四十九字とすんなり収めてあったわけであるが、この「ん」は「いろは」以後の文字として理解はできたものの、「京」という漢字は唐突な感じで子供心に不思議に思ったものである。ところで、「沓冠」の暗号を調べていた合間に、私は何気なくこの「いろは並べ」の順に文字を書いて、ぼんやり眺めていた。
いろはにほへと
ちりぬるをわか
よたれそつねな
らむうゐのおく
やまけふこえて
あさきゆめみし
ゑひもせす
すると、そこに不可思議なことばが入っていることに気づいたのである。「沓」にあきらかに暗号文が入っている。しかも、それは、実に薄気味悪いことばである。
とかなくてしす—「とが(咎)なくて死す」
これは一体どういうことなのか。私は一瞬、戦慄した。偶然に、こんなことばの配列になったのであろうか。「咎なくて死す」とは、無実の罪で死んでゆくことを訴えた言葉である。この切なく哀しい響きを持った暗号文は、いつ誰によって、なぜ作られたのか、私は、それが作られた時代、おそらく平安初期か奈良時代ころの、この作者の境遇に思いをはせたのであった。「いろは歌」は、まさに不気味な歌なのだ。その作者は、一体誰なのか、遠い奈良・平安時代から、じつに千余年も過ぎて、いまはじめて一人の人間が、その作者の切ない訴えに気づく。それはあまりにも遅すぎた伝達である。私は興奮し、この悲痛な境遇で死んでいった薄倖の作者を探さなければならないと、思った。私の「いろは歌」研究はこうして始まった。
日本語のアルフアベットの謎
いずれにしても、「いろは歌」はまさしく、日本語のアルフアベットともいうべきものであり、古い歴史のかなたから、民族的な規模をもって、綿々と伝わってきたものである。それゆえに、そこに隠されている暗号がすべて解読され、その歌の秘密のヴエールがはがされたそのときには、それは単に一人の作者の名前が解明されるだけというような単純なものではない、何か日本の歴史の全体に関連するような、そんな思いもかけぬ重大な発見がなされるのではないか。私はそんな予感に震えたのであった。
まず、第一の暗号が示唆するもの—それは、日本上代の悲劇的運命をたどった、多くの皇子、皇族、朝臣、歌人たちの探索であった。歴史の闇に消えたそれらの人物たちを追い私は、歴史の暗いひだをひとつずつめくっていった。そして、いくつもの新しい局面、謎にぶつかっていった。
次に上代の代表的歌集をさぐっていった。すると、今まで気づきもしなかった多くの事実を発見した。そして、そのプロセスのはて、ある日私はついに「いろは歌」第二、第三の暗号を発見したのであった。それらの発見は、まったく予想もしない不思議な歴史の真実を、私の前に繰り広げた。その暗号は、奈落の底の一人の人間からひそかに作り出され、細い一本の糸を伝うようにして、確実に伝達された。やがてそれは、日本人のかけがえのない遺産としてのひとつの大きな文化、つまり「万葉集」をこの世に残す貴重な働きをしたのであった。ひっそりと四十七文字のかなの奥に、巧妙に隠されていた、それらの暗号のことばが、そんなにも重要な大役を果たしたのであった。そこに私は、ぎりぎりの運命の極限で、しぼりぬかれた人間の知恵の偉大さを、恐ろしいほどに実感せざるを得なかったのである。
暗黒の世界に消えていった人間たちは、時代から完全に抹殺され、語るべき言葉も残すべき資料も奪われて、ただ沈黙のまま、奈落へ消えていく。彼らが存在を示すために、ひそかにこの世に伝達する方法は、ただ暗号によるしかない。滅ぼされていく運命の底で、彼らは必死になって、自らの存在を外側に伝達しようと試みるに違いない。ありうる限りの知恵を絞って彼らは、秘密の伝達方法、暗号を考え、ひそかに外部に伝えるべく努力するであろう。しかし、その多くはその途中で発覚し、見破られ、そして結局何も残すことなく葬られていく。そうしたなかで、この「いろは歌」だけが、その天才的なアイデァ、巧妙極まりない計算とその創作技術によって、残ったのである。
「いろは歌」が、いつごろ、誰によって作られたものであったかは、これまではっきりわからなかった。研究者も少なく、文献も乏しいものであった。だが数少ない研究者の間では、成立は平安前、中期ごろ、作者は真言宗の開祖である空海(弘法大師)か=最初は奈良時代成立説であった=あるいは誰かほかの僧侶であろう、というのが通説であった。
空海説は、ほとんど伝承的に現代にまで及んでいた。たとえば、手元の「広辞苑」(新村出編)の「いろは歌」の項を見ると、それには「手習い歌のひとつ、音の異なるかな四十七文字の歌からなる。色は匂へど散りぬるを我が世誰ぞ常ならむ有為の奥山今日越えて浅き夢見じ酔ひもせず、涅槃経第十三聖行品の偈、諸行無常、是正滅法,生滅滅己、寂滅為楽、の意を和訳したものと言う。弘法大師の作と信じられていたが、実は平安中期の作」となっている。伝承では空海と信じられていたが成立はそれより新しいとしている。「明解国語辞典」(金田一京助監修)なども、古い版は「弘法大師の作」としている。だが私は作者は仏教にほとんど関係のない人物である、とみている。
作者は果たして空海か
まず私は「いろは歌」の古い資料を調べることからはじめた。そして、日本最古の「いろは歌」の記録が、東京の大東急記念文庫にある「金光明最勝王経音義」と言う仏教の教義を解説した本の巻頭に書かれてあるのを知った。それは、承暦三年(一○七九)四月十六日の年紀があるもので、つぎのように万葉仮名で、ちゃんと七行で書かれてあったのだ。
以 | 呂 | 波 | 耳 | 本 | へ | 止 |
千 | 利 | 奴 | 流 | 乎 | 和 | 加 |
余 | 多 | 連 | 曾 | 津 | 称 | 那 |
良 | 牟 | 有 | 為 | 能 | 於 | 久 |
耶 | 万 | 計 | 不 | 己 | 衣 | 天 |
阿 | 佐 | 伎 | 喩 | 女 | 美 | 之 |
恵 | 比 | 毛 | 勢 | 須 |
これを見て、私はふたたび驚愕せざるを得なかった。七字並べにすると、最下段が偶然「とかなくてしす」と読めるというものでなく、もともと意識的に七行書きに作られてあったのである。むろん、承暦三年のこの記録そのものが、原作者自身の筆になるものではないであろうが、いずれにしても伝えられてきた原文のうつしであることに間違いがないのである。さらに調べてみると、この記録をはじめ、奈良の当麻寺に残る空海真蹟と称されるものや、出雲国神門寺に伝わっているものなど、古いものはすべて七行で書かれてある。あたかも、最下段の暗号文を読む人に気づかせるように、である。
大体、「いろは歌」は、七五調四句で構成されている歌である。だから普通には四行で書かれている。四行に書けば、字数もそろうし、一行一行区切って読めて、意味もわかりやすくなる。にもかかわらず、古い記録はわざわざ七行で書かれてあるのだ。したがって、原文も七行に書かれてあったと見て間違いはない。
暗号はまさに、紛れもなく暗号として、その七行書きに計算され、はじめから意図されて組み込まれてあるものなのである。私は恐ろしいほどの衝撃を覚えた。
平安時代から手習い歌として普及
「いろは歌」は、一般にはそうした暗い内側の問題には気づかれず、昔から老幼男女を問わず親しまれてきた歌である。この歌がそれほどまでに長く伝わり、普及してきた原因は、つまり「いろは歌」が、日本のかな文字のすべてを一字も重複することなく網羅し、しかも語呂よく口ずさむことができるからであった。
「いろは歌」がどのように活用されてきたかを、歴史を振り返ってながめてみる。「いろは歌」は、その書き方を学べば、ひらがなのすべてを知ることができるために、文字の習得に非常に便利な教材となっていた。平安時代から「いろは歌」が、手習いとして利用されていた記録が残っている。たとえば、藤原頼長が、日記「台記」に、久安六年(一一五○)正月十二日付けで、「今日、今麻呂(頼長の三男)、御前に参じ、勅により、以呂波を書く」と記している。十歳の息子が、近衛天皇の下命で、「いろは歌」を御前で書いたと言う記録である。
しかし、一般には、鎌倉時代以後から急速に普及し、手習いの手始めに広く庶民の間でも利用されるようになった。「いろは歌」の一字一字を大きく書き、それぞれに、そのひらがなの形、筆さばきの注意などを解説し、手本を示した書物などが、今日も多く残されている。
戦前の教科書にも採用され、「小学習字第一」や「国語読本」「コトバノオケイコ」などに使われていた。そのため、学習雑誌や国語のノートなどにも必ず「いろは」が大きな活字で掲載されていた。また、就学前後の児童を対象として木製や紙製のさまざまの「いろは並べ」が、教材玩具として氾濫していたものである。
「いろは」はまた、ものの順序や、見出しをあらわす符号としても、昔から活用された。
平安末期の算術教授であった三善為康の「懐中暦」では、姓氏や名が、「いろは」順に配列されている。「色葉字類抄」(十二世紀中ごろの編集)は、橘忠兼の著であるが、これは文字通り「いろは」順に配列された古い国語辞典である。「いろはガルタ」はいうまでもなく、いろはの各一文字を頭にして、ことわざや和歌を四十七種集めたもので、ゲームとしてもてはやされたものである。
また初期は、言語学的にも応用され、流入されて間もない漢字の発音や、仏教経典などの読み方、つまり声調(発音やアクセント)をあらわすのに便利な符号としてもっぱら利用されていた。だから、僧侶の間で早くから知られていたと言うことであろう。
しかし、もともと「いろは」は、意味を持ったことばであり、いわゆる「いろは歌」という歌である。私たち古い世代は幼いころに、文字を覚えるために「いろは」と親しんだがその時点では、「いろは」自体が持つ意味などについては何も教えられない。だから「いろは」は単に「いろは」という四十七文字の記号的なかなの羅列にすぎないものであるという認識にとどまっている。
それは、実際は「いろは歌」の内容が、きわめて深い意味をもったものであるため、幼児に簡単に説明できるものでないためであった。
したがって「いろは」が、ひとつの独立した歌であるというのを知るのは、ずっと後になってからである。
戦前の小学校六年の「国語」の教科書に、「いろは」が手習いとしてでなく、ひとつの物語として登場する。タイトルは「修行者と羅刹」となっており、「いろは歌」の成立にかかわる物語となっている。そこでは、悪鬼(羅刹)に化身した帝釈天から修行時代のお釈迦様が、自分の身をささげ「いろは歌」の全文を教わることになっている。子供心にも宗教的、哲学的な深い内容の歌ということがわかるが、真の意味はわかるはずはない。ただ一種不可思議な神秘な世界にさそわれるおもいだった。それよりも、日本語であるかな文字の基本的なことばである「いろは歌」が、どうして遠いインドの山奥の土地で生まれたように書かれてあることへの素朴な疑問を抱かずにはいられなかった。しかしとにかくそのころは幼すぎて、それほどの印象もおぼえなかった。ところが「沓」の恐ろしい暗号に気づいてから「いろは歌」に対する私の関心は果然強烈にならざるをえなくなった。
表と裏に全く逆のテーマ
考えてみると、「いろは歌」は、全体が暗号である、といってよい歌である。表面のテーマのほかに裏側のテーマがあって、つまり巧妙な二重構造になっている歌である。暗号文の常として、表面はもっともらしいことをさりげなくあらわしてある。重大な秘密の暗号文であることが、最初からわかってしまえば、それは大変なことになるからである。
ここで、「いろは歌」の全文を(1)かな文字(2)漢字混じり文(3)「涅槃経」の偈の順にまとめると、つぎのようになる。
(1) | いろはにほへとちりぬるを | (2) | 色は匂へど散りぬるを | (3) | 諸行無常 |
わかよたれそつねならむ | わが世誰ぞ常ならむ | 是正滅法 | |||
うゐのおくやまけふこえて | 有為の奥山今日越えて | 生滅滅己 | |||
あさきゆめみしゑひもせす | 浅き夢見し酔ひもせす | 寂滅為楽 |
一般には、次のような意味とされている。
「この世に、はなやかな歓楽や生活があっても、それはやがて散り、滅ぶものである。この世は、はかなく無常なものである。この非常なはかなさを乗り越え、脱するには、浅はかな栄華を夢見たり、それに酔ってはならない」
しかし、私は「いろは歌」の本当の意味は、かなり違っているものと考えている。「いろは歌」は、もっと悲壮で恨みに満ちた歌なのである。私は次のように訳す。
「自分はかつて栄光の座で華やかに生きたこともあったが、それはもはや遠い過去のものとなった。この世は明日が分からない。いま栄華を極めるものも、いまにどうなるかわからないのだ。生死の分かれ目の、厳しい運命のときを迎えた今日、自分はもう何の夢を見ることもないし、それに酔うこともない」
最初の訳は、普通一般の訳であり、いわば仏教の教理であり、人生の教訓である。つまり、これが表向きのテーマである。これなら警戒されることはない。これまでの研究者はすべてこのように解釈し当然作者は弘法大師か、そうでなくともたれか僧侶か仏教関係者であろうとしていた。だが、第二の訳になると、ここではテーマがまったく逆転する。悟りの教えどころか、個人の怨念であり絶望感そのものである。実に暗鬱なニヒリズムがただよっているのだ。そしてその歌の七行書きにした末端をつなぐ言葉が、裏側のテーマと符合する「とかなくて死す」の暗号である「無実の罪を受けて、私は死ぬ」—そのひそかに仕組んだ、切々たる訴えを考えるとき、作者の悲劇的な運命を、われわれは想像せざるを得ない。都を遠く離れた辺境の地に追放され、なすこともない流刑生活の間、作者は、あるが限りのかな文字を探し出し、一字一字並べながら、抑えがたい無実の憤怒と、運命を狂わさせた者に対する怨念を込めて、ひたすら暗い情熱を燃やしながら、暗号を組み入れたこの歌を作ったのに違いない。
彼は周到に神経を配り、一見、仏教の教理の悟りの世界を、誰でもが口ずさめるような、なめらかなリズムの歌にしたてあげる。そして、注意深くその文字を見つめ、数少ないほんの一部の人たち(特に彼を少しでも知る人)が眺めたなら、それとなくわかる暗号を、そっとひそませる。しかも驚くべきことに、この歌は、かな文字のすべてを駆使し、一字も重複することなく構成されている。稀代の文人の作に違いない、とにかく簡単に棄却するには惜しまれるものがある。この歌は残されてしかるべきであり、作者の意思どおり、抹殺されることなく娑婆へ次から次へと伝わったのであろう。
さらに、なお驚くべきことには、表向きの歌そのものの解釈にも、一般人と、超エリート向きに二通りの方法をひそめてあるのだ。たった二字のそれとわかる箇所の助詞の読みと解釈の転換によって、もっともらしい仏教の教理の、まじめそのものにみえる公的テーマが、一瞬にして逆転し、すさまじいばかりの個人的怨念と、権力者告発のテーマにすりかわるのである。すなわち、「わが世誰ぞ」の「ぞ」と、「浅き夢見し」の「し」の二文字の読み方である。「わが世誰ぞ」の「ぞ」は、国学者黒川春村、僧契沖ら学者間でも、古くから問題になっている文字である。学者たちの解釈では「わが世誰か常ならむ」とならなければ、意味にならない、だから[誰ぞ]というのは文法的におかしい、とするのである。それで、同じ文字の重複が許されないから、無理であるにかかわらず仕方なしに[誰ぞ]としたのであろう、と解釈しているのである。ところが、作者は「ぞ」にこそ、逆に強い意味をこめているのだ。「今日の権力者であるお前のあすもどうなるかわからないのだぞ」といっているのだ。これはあきらかに、無実の罪に陥れられた作者が、自分を落としこめたものに対して怒りを込めて叫ぶ言葉である。もう一つの文字「し」についても、これも一般には「浅き夢見じ」と解釈する。「浅はかな夢など見てはならない」と否定形で解釈する。清音を、わざわざ濁点読みにして解釈するのだ。ところが作者の真意はそうではない。むしろ「はかない夢を見た」と昔を回顧しているのだ。「夢見し」の読みは、文法上の打ち消しの「じ」ではなく、回想の「し」である。
このように、たった二字の読み方によって、表面の公的な仏教の教訓的意味から、一転して暗い怨念のこもった個人の叫びである裏側の意味にすりかわる、そうした作用をきちんと計算して、その二字を使ってあるのだ。
つまり「いろは歌」は、
(1) かな文字をすべて使用、無重複で、語呂のなめらかな歌にしあげ
(2) しかも、その歌には意味の深い仏教の教えをテーマにし、なお叙情性のある格調高いものにしてある
(3) それを表面のテーマにし、わずか二字の読み分けによって、その意味が逆転するすさまじい怨念の歌に変わる
(4) それに加えて、末尾に、自分の運命をひそかに伝えるための暗号「咎なくて死す」をさりげなく組み入れ
(5) さらに最終目的としての重大な依頼をこめた、第二、第三の暗号をも、巧妙な方法でひそめてある(後述)
わずか四十七文字の、短いひとつの歌に、これほどまでに多くの意図されたテーマが押し込まれている。これは、もはや、並みの人間のできるわざではない。この細心さと、大胆さ、人間心理・感覚の機微を計算し尽くした構成、超高度な表現力、深い思想性と知識、優れた詩的感性。この作者は只者ではない。類まれな天才歌人でなければ、とうていこれほどのことができるはずがない。否、いかなる天才歌人であろうとも、尋常平安な環境の中では、これほど込み入った歌ができるはずがない。このような歌が作れるのは、類まれな天才歌人が、作らざるを得ない切羽詰った運命・状況に追い込まれ、しかも、この歌ひとつの創作だけに、日々の時間のすべてと、エネルギーのすべてを没入できる状態にあるときだけであろう。—この歌ひとつに自己の存在と運命のすべてを賭ける、切迫した、ほとんど命がけの情熱と執念を込めることがなければ、しかも長い日々を、ほかにまったくすることのない絶対孤独な状態にあることがなければ、こんなにも神経を集中した歌が完成されることはないだろう。天下の天才歌人が、辺地の獄中につながれ、死刑囚として死を待ちながら、この「いろは歌」が作られたのは間違いない。
「上代特殊仮名遣い」は虚像
それでは、はたして、この悲壮な運命下にこの歌の創作をなしとげた天才的な人物は誰であろうか。—まず、古くから伝わる空海作者説を考えてみよう。この説は極めて多い。現在でも、高野山はじめ全国の真言宗の多くの寺で弘法大師真筆といわれる「いろは歌」を印刷した手拭やカードが売られているくらいであるが—。この説は、平安時代後期の漢学者であり歌人でもあった大江匡房の談話を筆録した「江談抄」をはじめ、おなじころの僧覚鑁の「以呂波略釈」、「釈日本紀」や、南北朝時代の国学者藤原長親の「倭片仮名反切義解」、また江戸時代の国学者契沖の「和字正濫鈔」などすべてこの説である。空海は奈良時代から平安初期に生きた真言宗の開祖で、密教の普及につとめ、また済世利民に大きく寄与し天才的スケールで活躍した。死後弘法大師の号を賜った。日本宗教史上まれに見る傑出した大僧正である。明治の国文学者藤岡作太郎は、空海を弘仁時代前後の最高の詩人とたたえ、「筆を下せば数百言たちどころになる。平安朝の詩文の開発せるも、かれをもって主功に推すべきなり」とのべており、空海が並はずれた文才の持ち主であったことを強調している。しかし、だからと言って「いろは歌」の原作者が空海だと直ちに断言できるわけではない。つまり「いろは歌」は表面だけの解釈で、簡単に片付けられないからである。仏教教理だとする、表向きの解釈についても、善意の庶民は別として、近代の学者たちは、ほとんどが否定している。たとえば戦前の研究者である国文学者宮島弘氏や岡田希雄氏らは「仏教の、いわゆる諸行無常、是正滅法,生滅滅己,寂滅為楽と、いろは歌とは、勝義において何ら関係がない」と断言している。「いろは歌」が、元来仏教教理の普及というような公的な目的でつくられたものでないことは、あきらかである。ただ、空海説が古くからあるということは、「いろは歌」が作られた時代が相当に古く、平安初期、あるいは奈良時代という風に考えられるひとつの根拠になる、ということであろうか。むしろ現代、空海説が否定されている最大の原因は、国語学的な理由によるものである。いわゆる「上代特殊仮名遣い」というものであるが、この問題については後で論じたい。空海自身の真蹟というものの存在についても謎が残るのである。空海自身は「いろは歌」の暗号などはちゃんと見抜いていて意図的に真筆などを残したといえなくもないのである。
けれども、現代の国文学者、言語学者のほとんどは「いろは歌」奈良時代成立説を否定し、十世紀末の成立とするのが普通である。つまり、空海のころには、日本語は「四十七音」ではなく、全部で「八十七音節」もあったというのである。つまり母音が、現在のように「五母音」ではなく、「アイウエオイエオ」の「八母音」であった、とする。現在では一音となっている「エキケコソトノヒヘミモヨロ」とその濁音「ギゲゴゾドビベ」の合計二十一の音が、奈良時代には二音に分かれていた、という。万葉仮名を表記した、いわゆる一字一音の漢字が、「古事記」「日本書紀」「万葉集」を通じて、全部で九七三字にも及ぶ多種類なものであった。一音に対し何種類もの漢字があてられ、それを分類し各一音について「甲類」「乙類」としてふりわけたのである。その結果「八母音」ということになったわけである。そしてさらに奈良時代にはア行の「え」とヤ行の「え」との発音上の区別があった。ところで「いろは歌」には,「え」は一字しかない。そして十一世紀初頭に現れるハ行転呼音(語中・語尾のハ行音がワ行音になるもの)が出ていないから、それ以前とするわけである。作者はおそらく大乗仏教の僧侶であろう、とする。しかし、この説もそれほど説得力を持っていない気がする。
「八母音」の日本語は平安時代になると、突然のように消え、現在の「五母音」になって四十七音と一部の濁音を加えたものになる。これも不思議と言わねばならない。近年一部の学者の間で、「八母音」説に疑問を投ずる研究が発表され、「万葉人も母音は五つ」「波紋を呼ぶ新学説」などとして新聞などでも報道され、研究者も増えている。元金沢大学の松本克巳教授の「古代日本語母音論」(1995年ひつじ書房)は、従来の説が漢字音の側からの考察を常道としていたのに対し、インド・ヨーロッパ古語の様態などにも視点を置いて精密、広範囲に分析・考察したものである。その結果「これまでの甲類、乙類という分類法には問題があるとし、奈良時代のいわゆる八母音説なるものは、書記法の作り出した虚像にすぎない」といいきっている。
松本氏以外にも、たとえば京都府立大学木田章義助教授も中央公論社の「言葉と文字」のなかで「奈良時代の母音体系はほとんど五母音体系である。ただ、古い母音体系の残滓が、その体系を複雑に見せているだけである」と書いている。また京都産業大学の森博達教授は、中国語学の立場から[日本書紀]に使用されている文字を音韻的に徹底的に調査分類し、その結果「書紀」の記述者は中国人、続守言(661年渡来)と薩弘恪(文武四年「続日本紀」に名がある)の二名であり、中国人が中国語で述作したものと、一部日本人が倭音により和化漢文で述作したということを解明した「日本書紀の謎を解く」(1999年中央公論新社)そして別の論文でも「奈良時代のアクセントも、おおむね平安時代と大差がなかったものと推測される」と書いている。「言葉と文字」(中央公論社)
「八母音」説は絶対的なものでなく、これをもって「いろは歌」の成立時期を決定することはまっとうな事ではないといえる。
当時は、漢字が輸入されて間がなく、また中国や朝鮮からの渡来者らも多く、彼らが日本語を理解するのも大変だったし、日本人自身も漢字そのものの発音を覚えるのも大変だった。渡来人にしても、広大な中国、朝鮮各地域の言語圏が背景にあり、そうした事情を考えることも大事ではないだろうか。
日本版「千字文」—「あめつち詞」の秘密
いっぽう、「いろは四十七文字」より、さらに古い時代に作られたといわれる、同じように日本語の発音のすべてを無重複でつづったかな文字集に「あめつち詞—天地歌」というのがあった。
これはおそらく、中国の児童が文字を学ぶ初歩の教科書として作られた中国の「千字文」にならって作られたものと思われる。中国の「千字文」は梁の武帝の命により、文才の誉れ高かった周興嗣(470~521)によって編まれたもので、高名な書家王義之の筆跡の中から一字ずつを選び千字の韻文にまとめてある。それは中国国内で急速に普及し、近隣諸国にも広まり、当然日本にも渡来し、七世紀の初めころには、漢字を学ぶために広く用いられていた。たとえば,藤原宮(694~710)跡から「千字文」の一句を書いた木簡の断片などが出ており、平城京跡からも多数発見されている。「千字文」は、要するに一字も重複しない漢字一千字を、四字ずつ一句とし、総計二百五十句の韻文にまとめたもので、その内容は天地星辰に始まり、人間を取り巻く環境としての自然の記述から、人の生き方にまで及ぶ字句を並べたものである。第一行目は[天地玄黄、宇宙洪荒]となっている。これは「テンチのあめつちは、ゲンコウとくろく、きなり。ウチュウのおおぞらは、コウコウとおおいにおおきなり」と読む。漢字渡来間もない日本でも、漢字習得の必要から広い層で、こぞって教科書として利用されたものと見られる。
これを意識しヒントにして、日本語のすべての発音を一音も重複することなく、かな文字(むろん万葉仮名)でつづったものが「千字文」の日本語版的な「あめつち詞・天地歌」であろう。日本人の手による、この「あめつち詞」は、本文そのものが、「あめつち、ほしそら」から始めて構成するなど、いかにも中国の「千字文」にならって作られたことを想像させ、当時の人たちの気を引くに十分なものがある。そこで「あめつち詞」の全文を次に書いてみる。
あめつちほしそら | 天地星空 |
やまかはみねたに | 山川峰谷 |
くもきりむろこけ | 雲霧室苔 |
ひといぬうへすゑ | 人犬上末 |
ゆわさるおふせよ | 硫黄猿生育せよ? |
えのえをなれゐて | 榎の枝を慣れ居て? |
これもまた何となく奇妙な感じのすることば集である。日本語史の専門家小松英雄氏は「あめつち詞」の印象をつぎのようにのべている。
「(前略)二音節名詞を組み合わせた調子の良い続きが、四行目で乱れを見せ始め、後ろの二行に来ると、急におかしくなってくる。大矢透(国語学者)は、この部分について、一貫した意味にはならないが,一語一語を切り離せば格別の支障もないとして、—硫黄、猿、生育せよ、榎の枝を、慣れ居て、としたと紹介し—硫黄と猿との取り合わせは奇妙であるが、ともに山のものということで、無理に説明できないこともない。しかし、二音節名詞の組み合わせという構成原理が「生育せよ」で急にくずれてしまっていることは確かである。「えのえをなれゐて」も、やはり、二音節名詞の連続としては解釈できない。「おふせよ」以下の十二の仮名の組み合わせで、もはや二音節名詞は一つも作れないかといえば、そうでもない。たとえば「ふえ・笛」「ふな・鮒」「をの・斧」「えな・胞衣」というような語を簡単に見出すことができる。それにもかかわらず、この誦文の作者がその努力を途中で放棄しているには、何か理由があると考えるべきであろう。」(「いろはうた」中央公論社)
とにかく謎に満ちたことば集である。最初の天文自然現象の名詞が、三行目の「むろ、こけ・室、苔」あたりから少し怪しくなって、四行目の「人、犬、上、末」あたりへくると、急に突飛な感じになる。そもそも「室」というのは、大体が岩牢のことである。いきなり、何だろう、と思わされるが、次が、動物の「人、犬」、それから「上、末」—位置や時間に関係する単語である。最後の二行は、国語学者さえ大いに混乱させる、およそ不調和な、解釈しがたいことばの羅列である。
「あめつち」第一・第二の暗号の戦慄
読む者はまず四行目の「人、犬、上、末」で、最初に考えこむことになる。何か意味ありげな匂いを感ずるのだ。
中国では昔から漢字の字画の分解・結合を利用する、「折字」という暗号形式があった。篇やカンムリを分解したり、それを合わせてみたりして、暗号に利用する方法である。そして「人」、「犬」の字をじつとみつめていると、この二つの字を一字に合わせて考えてみろ、と訴えているような気がする。すると、人を扁にして左に置き、右に犬を置いて一字にしてみると,それは「伏」になる。つまり、この行は「伏す上末」となることがわかる。いよいよ不思議な感じになる。「上と末に(暗号を)伏せてある」という意味であるからだ。これが、「あめつち詞」第一の暗号であることに気づく。すると、「あめつち詞」にも、第二、第三の暗号が隠されているのではないかと言う予感に襲われ、全体が暗号文であるように思えてくるのだ。つまり、これが、どこかに隠されているほかの暗号を探すための手引きの暗号であることを示している、と思えるのである。
それでは、上に伏してある、というのが真実ならば、どこの上であるのか、をまずかんがえる。「うへ」という文字の上を見るのが自然であろう。そこの段には「ち・は・り・ぬ・る・を」と言う字が並んでいる。何か意味があるように思える。やがて、じっと眺めているうちにそのなかの「は」の一字をはずせば「ちりぬるを」となることがわかる。これは完全なことばである。すなわち「散りぬるを」ということである。そして「は」をはずすということは「葉」が落ちて「散りぬるを」ということである。そのときごく自然に私たちは戦慄的な一種の感動をおぼえながら「いろは歌」の字句を思い浮かべざるを得ないだろう。すなわち「色葉匂へど、散りぬるを」—「いろは歌」そのものの上句である。これが、「あめつち詞」の第二の暗号文である。
これはいったいどういうことであるのか。「いろは」より、成立が数十年も古いといわれている「あめつち詞」に「いろは歌」とまったく同じ字句が、しかもひっそりと暗号で入っているのだ。ふたつの、貴重な、日本語の発音のすべてを使い無重複でまとめた、ほとんど最古と言ってよい文献が、奇妙に関連した、というよりただならぬ関係にあることがわかるのだ。
それをさらに証拠づけるものは、ほかにもある。たとえば「あめつち詞」の「伏す、上末」の暗号は、「いろは歌」にもそのまま効用していることがわかるのである。すなわち「いろは」の末の段には「とかなくてしす」の暗号があった。また「あめつち」と同じく「うへ」の文字の上の段には、重要な暗号文が並んでいるのである。これについては後述するが、とにかく、二つの、まるで別々のことば集が、類似の暗号方式をもち、一体の構造を持った巧妙な暗号歌であることに私たちはあらためて感服せざるを得ないのである。このことは、つまり、「あめつち詞」の作者が、「あめつち」制作時にすでに存在していた「いろは歌」そのものの内容を知っていたのか、あるいは「いろは歌」も自分で作っていたのか、あるいは作ろうとしたのか、いずれにしても、まったく別物であるとされる、ふたつの無重複ことば集が、これほどまでに密接な関係にあることは、なんとしても考えられぬことである。それとも、上代特殊仮名遣いの論理によっては片付けることのできない問題であって、上代特殊仮名遣いそのものが、いまや歴史的事実の前では何の役にも立たないと言うことを証明することである、という以外考えられぬことであると言えよう。
「万葉集」とも密接な関係が
これまで私は「いろは四十七文字」のことを「いろは歌」と書いてきたが、日本の古い文献のほとんどは、これを「色葉歌」と漢字書きしているのだ。むろん本文は、全部漢字一字一音表記の「万葉仮名」であらわされている。「色葉歌」「天地歌」の作者が当時の天才歌人であるならば、当然その名前が、当時の歌集「万葉集」の中にあるに違いない。そのため「万葉集」との関係を絶対に探らなくてはならない。
まず両方のタイトルを並べてみる。
「色葉歌」
「万葉集」
タイトルを並べてみると、まるで親子のような関係に見えるほどである。それでまず「万葉集」とつながりがないかどうかを調べなければならない。
「万葉集」は、全二十巻であるが、最初に作られたのは「巻一」「巻二」といわれ、これを[原万葉集]と呼んでいる。「巻一」は雑歌であり、哲学者の梅原猛氏は「水底の歌」(新潮社)でそれを次のように説明している。
「雄略天皇の時代から奈良時代までの、政治的な人間、およびその周辺の人々を登場せしめて、自由に歌を歌わせている。そしてこの歌は、直接、間接に重要な政治的事件に関係している。いわば「万葉集」巻一は、壮大な歴史的叙事詩である。そこで歌われるのは、主として舒明帝から元明帝までの変転きわまりない歴史ドラマである。」と書き、そして各登場人物の短い歌に、多くの歴史的事実と無数の人々の哀歓がこめられており、その歌の響きによって、事件そのものを詳細には語らないが、説明を省略し余白を生かし、そのために見事な叙事詩となり得ているのだと語る。つづいて
「さらに興味深いことには、巻二において、これらの歴史的主人公を再び登場せしめていることである。巻二の主題は、相聞と挽歌、愛と死である。いわば、巻一では、人間が公的にパプリックに語られる。しかし巻二ではそれは私的に、プライベイトに語られる。どのような政治的人間も、所詮、一個の人間に過ぎない。一個の人間とは、愛し、そして死ぬ人間なのだ」「「原万葉集」が多くの人が言うように、巻一、巻二から成り立っているとしたらこの歌集を編んだ人間は、ある種のニヒリストではないかと思った。この編者は、人間の死と言うことに特別の関心をいだいている」「ここで歌われている相聞の歌の多くは、引き裂かれた愛の歌であり、ここで歌われている挽歌の多くは、強いられた死の歌であるからである」
ここで氏が熱烈に語る「原万葉集」の世界と思想は、多くの人々に衝撃をあたえた。私自身について言えば、同時に「色葉歌」の世界そのものを、直ちに思い浮かべざるを得なかったのである。なんとなれば、「原万葉集」の世界は、とりもなおさず、まさに「色葉歌」の世界そのものに違いないからなのだ。「色葉匂へど、散りぬるを、わが世誰ぞ常ならむ、有為の奥山、今日越えて、浅き夢見し酔ひもせす」—「色葉歌」は、わずか四十七文字の短い一編の詩片にすぎない。しかし、これまで見てきたように、(そしてさらに展開する新事実とともに)表側の歌の世界と、裏側のかな書き七行の暗号文との、二つの世界の共鳴し共振する響きによって、暗い事件や歴史のかなたへと、大きく広がり行く、まさに立体音響にも似た、空間性歴史性を持った内容であるのだ。そして、それはまた「あめつち詞」の世界とも交差し、三重ステレオ効果を発揮することになるだろう。
「あめつち詞」「いろは歌」に隠されている同じ名前
ここで、まず「万葉集」での不気味な隠れた主人公ともいえる柿本人麻呂が、「あめつち詞」や「色葉歌」にも、具体的に関係しているのであろうか、を改めて問わねばならないだろう。むろん、時代的に考えてそんなことは絶対考えられないと、国文学者や歴史学者は一笑に付すかもしれない。しかし、その否定論の大きな根拠である「上代特殊仮名遣い」の「八母音説」がいまや大きく揺らいでいる状況下にあることを考えると、私の提起する事実を(まさしく事実そのものである)を、真剣に考究してみることが大切である。そこで「あめつち詞」を改めて眺めてみることにしよう。
あめつちほしそらあめつちほしそら
やまかはみねたにやまカはみねたに
くもきりむろこけくモキりむろこけ
ひといぬうへすゑヒトいぬうへすゑ(伏す上末)
ゆわさるおふせよゆわさるおふせよ
えのえをなれゐてえのえをなれゐて
「あめつち詞」の第一の暗号は「伏す上末」であり、第二の暗号は、「葉」は落ち「散りぬるを」であった。それはすなわち、「いろは歌」の「色葉匂へど、散りぬるを」に呼応するものであった。
ところで、暗号文の発信において、一番重要なものは発信者の名前を、受信相手にきちんと知らせなければならないと言うことである。発信人、あるいは当事者の名前がなければ、内容の意味がわかったとしても、まったく無意味である。とにかく極秘に知らせる伝達事項であり、しかも、受信者が予想もしない時期に、突発的に送信を受ける場合は、なおさらである。だから、発信者の名前は絶対に必要であるが、しかしそれが文面の中で簡単に分かるようなものでは、すぐに看視者らに発見されて、危険この上ないのだ。発信者、または当事者の名前は、特に注意深く、絶対分からぬようにして、分からせなければならないわけである。それでは、「あめつち詞」のばあいどうであろうか。
「伏す上末」の暗号が、解読の手引きであることは、すでにわかっている。上は文字通り「うへ」というかな文字のすぐ上の段をよめば「ち・は・り・ぬ・る・を」となっており、「は・葉」が落ち「散りぬるを」となるのであった。つまり、この「は・葉」は、「色葉歌」「万葉集」とも相関する深い意味のあるキーポイントの文字であることがわかる。それはすなわち「散りゆく葉」である本人自身のシンボルでもあるだろう。そこで「あめつち」の「葉・は」の字の上をみてみよう。そこには「か」の字がある。そして「末」の方向にむかうすぐ横の字は「き」である。「き」の上の字は「も」である。「も」の横は「と」である。「と」の上は「ひ」である。すると、それは、ちゃんと「かき・もと・ひと」となっているではないか。これはぜんぜん不自然なものではなく、暗号としての構造上きわめて巧妙な手法のものであり、多少の文才があれば,すらすらと解けるようになっている。つまり、一字ずつに分断し、かつ二音節名詞につながり、そしてなお全体がひとつの氏名に連結するように配置されている。といって氏名全部を一列に並べたりはしていない。あまり簡単なものでは危険である。誰にでも分かるようなものではだめであり、しかし、どうしても判ってもらわなければならない相手には、ちゃんと判ってもらえるよう計算してあるのだ。このように「あめつち詞」のなかにきちんと確実に「柿本人(麻呂)」の名前が入っている。これはまさに奇怪そのものの事実であるが、これがまさしく「あめつち詞」の第三の暗号そのものである。この事実は、いったいなにをものがたるものであるのだろうか。
ところが、さらに驚くべき事実があるのだ。「色葉歌」をもう一度眺めてみよう。
いろすはにほへと
ちりしぬるをわか
よたてれそつねな
らむくうゐのおく
やまなけふこえて
あさカキゆめみし
ゑヒトモせす
「伏す上末」の指示している意味を、じっくり考えてみる。「末」の段には「とかなくてしす」があった。ついで、「は」の上について考える。「は」の上の段—そこに「とかなくてしす」を置いてみる。そのまま並べてみても、別段意味がありそうでない。そこで、気がつくのだ。「末」を頭にして並べるのだ、と。「とかなくてしす」を、末から先に置いてみる。そして、その末をじっと眺める。するとそこにちゃんと「あめつち詞」と同じく二音節ずつ分断しながら連続して、「かき・もと・ひと」の名前があるではないか。「いろは歌」にも「柿本人(麻呂)」が関係していることは疑いがないのだ。
「万葉集」が暗示する人麻呂の悲惨な死
先に「原万葉集」巻二の「挽歌の多くは、強いられた死の歌である」とのべた梅原猛氏は、さらに、次のように続けている。「その挽歌の中心が、人麻呂挽歌なのである。ここで人麻呂は、まず挽歌の作者として登場してくる。多くの皇子や皇女たちの死を人麻呂は歌う。しかし、人麻呂の姿は、やがて都から見えなくなる。都から姿を消した人麻呂は、多くの無名の人の死を歌う。(略)人麻呂は、歌う側から、後には歌われる側に変化してゆくように見える。そして、最後に人麻呂自身の死。なぜ巻二に、このように多く人麻呂の歌を載せたのか。巻二の挽歌は、ほとんど天皇や皇子、やんごとなき人々の死を歌っている。このやんごとなき人々の死にまじって、人麻呂の死が歌われているのはなぜか。挽歌の全半部は、人麻呂の死の準備のためにあるようにすら見える。あたかも、この巻の主題として彼の死が予定されているかのように」
梅原氏は「万葉集」を解釈すると、歌聖と讃えられている柿本人麻呂が実に悲惨な死を遂げた事実を暗示していると、結論付けている。「万葉集」が、人麻呂の不幸な運命を示すために、作られたものであるとしたならば、「いろは歌」「あめつち詞」に、柿本人麻呂の名前をいわくありげに示していること、そして、「とかなくて死す」などの暗号があることなどからも、この三つの歌集、歌、詞には、切っても切れないきわめて密接な関連があると見ていいであろう。
「色葉歌」を、いま一度改めて眺めてみよう。ほかにまだ何か重大なヒントになる暗号が必ず隠されているに違いないのだ。
最古の文献である「金光明最勝王経音義」記載の「いろはうた」は、全文が万葉仮名で書かれてあるが、ただ一字だけ、くずされた草がなであるところの平かなが入っている。それは第一行目の下から二段目の「へ」である。「とかなくてしす」の最下段の暗号文のすぐ上に、全体が万葉かなのなかのただ一字だけの、ひらかな「へ」がある。この「へ」は上代においては「上」という意味をもっていたのである。「うへ」という単語のウが母音に融合して消え「へ」となったもので、「上」「このあたり」「かかわるところ」などの意味がある。つまり、「上を見よ」あるいは「上に注意せよ」ということの暗示、または指示であろう。「あめつち」のばあいは「うへ」のすぐ上の段に、葉は落ち「散りぬるを」とあった。「いろはうた」のばあいも同じように暗号文があるかもしれない。
いろはにほへと
ちりぬるをわか
よたれそつねな
らむうゐのおく
やまけふこえて
あさきゆめみし
ゑひもせす
それで、「へ」の上の段を横に読むと「ほ・を・つ・の・こ・め」となる。万葉かなで「本・乎・津・能・己・女」である。このことばに何かの意味があるだろうか。こういうばあい、漢字かな混じり文で読むとわかりやすい。すると「本を津の己女」となる。なんだか意味がありそうだ。普通「ほ」は漢字では「保」と書く場合が多い。現在のひらかなの「ほ」は、いうまでもなく、「保」をくずしたものである。ところが、最古のこの「以呂波」は、わざわざ「本」にしてある。本とは、つまり文字通り本であり、また本にまとめた原稿のことである。「古事記」や「万葉集」などの記事中には、しばしば「ある本にいわく」とか「ただし古本この歌を云々」とかというふうにでてくる。すると、この「本を津の己女」という意味は「本にまとめた大切な原稿を津の里の私の女に預けてある」あるいは、「津の里にいる私の妻に届けてほしい」ということのようである。つまり、う「へ」の上にならんだ文字は、明らかにそのことを依頼する、重要な伝達の暗号文であったのだ。これが「いろは歌」の第三の暗号文である。
「万葉集」のなかにも「奥山越え」
それでは、その「本」とは一体何の本のことであろうか。また「津の己女」とはどんな女性であろうか。「万葉集」を探っていけば、それがわかるであろうか。「原万葉集」といわれる巻二相聞の章の最後に「柿本朝臣人麻呂石見国から妻に別れて上り来る時の歌」として長歌三首とそれぞれの反歌が掲載されているが、そのなかにそれらしきものがあるようだ。
最初の長歌(一三一)
石見の海,津のの浦見を、浦無しと、人こそ見らめ、潟なしと、人こそ見らめ、よしゑやし、浦はなくとも、よしゑやし、潟はなくとも、いさなとり、海辺をさして、にきたづの荒磯の上に、香青く生ふる、玉藻沖津藻、朝はふる、風こそよせめ、夕はふる、浪こそ来よれ、浪のむた、かよりかくよる、玉藻なす、より寝し妹を、露霜の置きてしくれば、この道の、八十隅ごとに、よろずたび、かへりみすれど、いや遠に、里は放りぬ、いや高に、山も越えきぬ、夏草の,おもひしなえて、しのぶらむ、妹が門見む、なびけこの山
(折口信夫訳)
石見の海岸の津のの湾をば、岩浜ばかりで,舟の寄れる浦はないと、人は思うているかも知れぬが、またすぐ深海で、遠浅の潟がないと思うているかもしれぬが、浦はないが、また潟はないがかまわない。自分には、それで満足なのだ、そこには、たとへていおうならば、沖のほうから海岸、すなわち、渡り津の岩浜のほうへ向けて、真青な美しい藻や、深海の藻をば、朝動揺する風、日暮れに揺らぐ浪が打ち上げる。その浪といっしょに打ちあがる美しい藻が、絡み合うようにして寝たいとしい人を、後に残しておいて、やってきたので、自分の行く道の、たくさんな辻を曲がるごとに、幾度も振り返ってみるが、そのうち、だんだん里は遠のいてきた。山道もだんだん高く越えてきた。津の里では、夏の日にあたった草のようにしおれて、自分を恋い慕うているだろう。そのいとしい人の家も見えなくなった。前に立ちふさがっている山よ、あの門が見たいから、低くなってどちらかへ片寄ってくれ。
反歌二首
(一三二)石見のや高津の山の木の間よりわが振る袖を妹見つらむか
(一三三)小竹の葉は深山もさやにさやげどもわれは妹思ふ別れ来ぬれば
ある本の反歌曰く
(一三四)石見なる高津の山の木の間ゆもわが袖振るを妹見けむかも
この後さらに長歌が続く(現代訳のみ)
(一三五)石見の津の海辺近く、韓の崎の離れた岩礁に、深海松が繁っている。そこに自分はいた。そして津の海岸の荒磯には玉藻が覆っている。そこに玉藻のような女がいた。その女と近づき私は女と寝た。深海松の自分は、その女を深く愛しているが、はなれているために、二人で寝た夜は数えるほどしかない。這う蔦のように思いは女のところへ行くが、しかし、ついに別れのときはきた。私は肝に感ずるほどの怖い重大なことのあるところへ向かうので、心が痛む。女を思い振り返るけれども、渡りの山の黄葉が散り乱れて、女のほうがはっきり見えない。屋上の山の雲間を渡りすぎる月は、惜しくも隠れてしまう。月が消えるような、私の運命なのだ。今生の別れの前の、天をつたう入日が最後に消え、ますらおと思っていた私も、さすがに袖を濡らして泣いた。
反歌二首
(一三六)青駒の足掻きを早み雲居にそ妹があたりを過ぎて来にける
(一三七)秋山に落つる黄葉しましくはな散り乱ひそ妹があたり見む
そしてさらに、最初の長歌(一三一)とほとんど同じ長歌(一三八)が掲載されている。ただし最後(妹が門見む、なびけこの山)となつていたところが、(津の里見む、なびけこの山)とその箇所だけが変わっている。
そのあと「妻依羅娘子人麻呂に相別れる歌一首」があって、相聞の章は終わっている。
(一四○)な思いと君は言えども相はむとき何時と知りてかわが恋ざらむ
「津の里の女」の悲傷
相聞の章の最後のこれらの歌群は、読者の注意を大いに引くものである。それは「万葉集」巻一、二の全体を通じてもいえることであるが、特に巻二相聞の章で、皇后をはじめ各皇子、皇女らの短歌が居並ぶ(ほとんどが一、二首ずつ)中で、歌数、スペースとも群を抜く、大特集のような扱い(長歌三首とその反歌六首、妻の短歌一首の計十首)で人麻呂の歌群を並べていること、は注目に値する。それは、これらの歌の内容が、歌集編集の意味からも、また人麻呂自身にとっても、特別の意味を持つものであるからに違いない。ここでのテーマは要するに、人麻呂の最後の山越え、妹(愛人・妻)との別れ、津の里からの別れを歌ったものであり、それはもはや二度と再び娑婆へは帰ることのない、まさしく今生の別れである。とにかく、大の男が、さほどのなじみでもない女(一緒に寝た夜は少なかったとわざわざ説明している)と分かれて山道を登るのに、道を曲がるたびごとに何回も何回も振り返ったり、あげくのはては袖を濡らせて泣いたりしていることは、尋常ではない。それらは(1)津の里の妹の存在を印象付け(2)最後の居場所(辛の崎・韓島という小さな島)からたどっていった道—渡りの山から屋上の山・現在も室上山の名で残る、を知らせる意図があることを認識させるものである。それらはとりもなおさず、「色葉歌」に呼応し、(色葉匂へど散りぬるをわが世誰ぞ常ならむ、有為の奥山今日越えて浅き夢見し酔ひもせす)の後半部、つまり、人麻呂の「奥山越え」そのものの謂いである。そしてこの妹こそ暗号の、まさに「津の己女」その女性のことであろう。
次の章は「挽歌」の章である。「挽歌」の章は、有間皇子の「自傷」の歌で始まり、ここも柿本人麻呂の死に臨むとき「自傷」して作れる歌とその関連歌で終わっている。
冒頭は「有馬皇子自ら傷みて松が枝を結ぶ歌二首」として
(一四一)岩代の浜松が枝を引き結び、ま幸くあらばまたかへり見む
(岩代の浜の松の枝を引き結んで、道の神に無事を祈っていくが、幸い無事であったなら、またここに立ち返ってみよう)
(一四二)家にあれば、筍に盛る飯を草枕旅にしあれば椎の葉に盛る
(家にいるときは、器にもって食事ができるのに、このような旅先では、椎の葉に包んで食べなければならない)
がある。孝徳天皇の皇子であった有間皇子は、謀られて紀の国の藤白坂で殺されるが、この歌は護送される途中「自らを傷みて」歌ったものである。無実で死んだ、わずか十九歳の皇子の、処刑直前の歌が「挽歌」の章の一番最初に置かれているのである。きわめて示唆的といわねばならない。そして最後が、人麻呂の辞世なのだ。すなわち「柿本朝臣人麻呂、石見国に在りて死に臨みしとき自らを傷みて作りし歌一首」とその関連歌がそれである
(二二三)鴨山の岩根し巻ける吾をかも知らにと妹が待ちつつあるらむ
(鴨山の岩の根を枕にして死んでいく自分を何も知らずに妻はまっているであろう)
柿本朝臣人麻呂、死りしとき妻依羅娘子の作る歌二首
(二二四)今日今日と吾が待つ君は石水の貝に交りてありといはずやも
(二二五)直に相はば相ひかつましじ石川に雲たちわたれ見つつ偲ばむ
丹比真人(名をもらせり)柿本朝臣人麻呂の意になぞらへて報ふる歌
(二二六)荒浪によりくる玉を枕に置き吾ここにありと誰か告げけむ
或本の歌に曰く
(二二七)天離る鄙の荒野に君を置きて念ひつつあれば生けるともなし
右一首の歌、作者詳らかならず、ただし古本、この歌を以てこの次に載すなり
これらの歌と、その注釈のなんと意味深長であることか。注記のひとつひとつに、万感の思いを込め、かつ注意深く警戒しつつ操作されている。
この一連の歌によれば、人麻呂は、都を遠く離れた石見国で死んでいる。「天離る鄙の荒野」で「岩の根を枕に」または「荒波によりくる玉を枕に」死んでいる。しかも、「吾ここにあり」と誰に告げることもできずに、一人で死んでいる。(あるいは、誰かが告げるだろう、とも解釈できないこともない)
いずれにしても、この死に方は尋常なものではない。この死は、あきらかに流刑地での野垂れ死にであろう。
人麻呂の辞世は、「死なんとするときに、自分で自分の(やり切れぬ運命を)傷んで作った歌」である。これが突然の病死なら歌など作る余裕などはないであろう。長い闘病の末ならば岩の上で死ぬ必要などはない。近くに妻がいるのだから、妻の家で妻の手当てを受けて死ねるはずである。まともな死に方でないことははっきりしている。
人麻呂の歌のあとに、その死を知った妻の歌がつづく。
「今日帰るか明日会えるかと、自分が待ち続けていたあなたは、川辺の荒磯の貝と一緒に横たわっているというではありませんか」
「もう、まともに会うこともできないので、川のかなたにあなたの霊が(火葬された煙が)雲のように立ち上るのをみて偲ぶだけです」
この妻の歌がここにあることは、人麻呂の死の知らせがひそかに届いて、妻がそれを知ったということであり、しかも、極秘のため、死体に会うこともできず、「ただには相かつましじ」雲を見て偲ぶだけであるということであり、それはとりもなおさず「いろは歌」の暗号「本を津の己女」が確かに解読されたということであり、それが確認できるわけである。
それに続く四首目は、(名はわからないが、丹比真人のなにがしが、人麻呂の意を想像し、本人に成り代わって報える歌)であるという。「名をもらせり」というのは、編者自身が「自分も知らない」と予防線を張っていることである。だがこの歌は「人麻呂の意を擬えて報える歌」である。人麻呂の意思をそのまま伝える歌であって、「人麻呂の本当の狙いをちゃんと知っています」と答えている歌であるのだ。そして「荒波が寄せてくる岩床で自分は死んでいくが、自分がここにいることを(暗号文に書き残してあるが)それを誰かが告げてくれただろうか(誰かが告げてくれるだろう)」と。そしてここにそれを歌った歌があるということは、人麻呂の意が伝わったということであり、そのことが「告げられました」と答えているのである。むろん、誰が解読し、告げたか、その名を示すことはできようはずがない。
その次「或る本に曰く」、
「天ざかる鄙の荒野に君を置きて念ひつつあれば生けるともなし」
後に残った者たちの悲痛な心情を示したものである。
これらのことから、つまり「本を津の己女」の本とは、まさしく「原万葉集」そのものに違いないことがはっきりするのである。巻一と巻二にほとんど整理されたその原稿のことなのである。
人と犬と猿は何を表すか
ところで、さきの「あめつち詞」のなかの、四行目までは、なんとか意味ある言葉として理解できたが、五行目からはどうもすっきりしなかった。五行目は次のようなものであった。
ゆわさるおふせよ
これはいったい何のことであろう。すぐにわかるのは「さる」という文字である。いうまでもなく、動物の「猿」のことであろう、と自然に想像する。これまで「あめつち詞」が、「色葉歌」や「万葉集」と、なかんずく柿本人麻呂との関係がただならぬものであったことを、私たちはみてきた。そこで当然そういう関連で考えざるをえない。すると、実際に当時の史書「古事記」や「日本書紀」の記事中に、これまで問題にしてきた柿本人麻呂という名の人物が全く記載されていない不思議な事実を知るのである。かわりに、でてくるのは、なんと「柿本臣『猨』」(日本書紀)、「柿本朝臣・佐留」(続日本紀)という名である。柿本人麻呂らしき人物の名は正式な史書では、「さる」になっているのである。「ひと・麻呂」と記されているのは「万葉集」だけなのである。
一方、歌人としては、「猿丸大夫」という名前が、古くから伝わっているのである。手元にある百科事典によると、猿丸大夫は次のように記載されている。
さるまるだゆう(猿丸大夫)生没年不詳。伝記不明の歌人。聖徳大子の孫の弓削王の別名とか光仁天皇の皇子の施基皇子とかいわれることもある。三十六歌仙の一人。▽現在「猿丸大夫集」と称するものは、「万葉集」「古今集」の歌約二十首ずつからなり、大部分が本来は作者不明の歌である。猿丸大夫自身実在の人物であったかどうか疑わしいが、その歌は、当時の農山村の人の生活感情を自ら訴えているように思われるものが多い。◇萩が花散るらむ小野の露霜にぬれてをゆかむさ夜はふくとも(小沢正夫「グランド現代百科辞典」学習研究社)
なんとも奇怪な歌人の印象を受ける。実在していたのか、いなかったのか。誰か皇族の仮名なのか。しかも歌人といわれ、歌集まで残しながら、その実、その歌はほとんどが作者不明の歌の寄せ集めであるという。
「古今集」(延喜五年・九○五)の序文にも,「古の猿丸大夫」として名が出ている。大夫というからには、ちゃんとした官職があったはずで、それは春宮大夫、中宮大夫のどちらかであり、位は従四位下であるはずなのだ。つまり、「続日本紀」記載の柿本猿と同位である。そして、人麻呂もまた柿本大夫と呼ばれていた。
猿丸大夫の代表作は次の歌とされている。
奥山の紅葉ふみ分け鳴く鹿の声きく時ぞ秋はかなしき
この歌は『古今集』に「よみ人知らず」として載っているものであるが、私はこの歌で、ただちに「いろは歌」を思い出すのだ。つまり、『奥山』というめずらしい単語に注意を喚起され、次に「紅葉」と言う文字に気をひかれる。「紅葉」が「色葉」に思える。そう考えると、全体の意味は次のようになるのではないか、と思うのだ。
奥山の紅葉文分け(うゐの奥山の色葉歌を、分析し)鳴く鹿の(悲しい男の)声聞くときぞ(その意味を知るときぞ、あるいは運命を知るときぞ)秋はかなしき
この歌は、藤原公任の撰した「三十六人撰」に収載されているが、この本のなかには、猿丸大夫の歌がまだ二首ある。
遠近のたつきもしらぬ山中におぼつかなくもよぶこ鳥かな
ひぐらしの鳴つるなへに日は暮ぬと思へば山の陰にぞ有ける
梅原猛氏は、最初の歌について「平安末期の賀茂神社の神主、賀茂重保は月詣で和歌集の編者であり、歌人として知られた人であったが、この歌の「呼子鳥」について、これを猿の異名であるとといた。古今伝授書の「三鳥伝」にも呼子鳥は「つつ鳥」であると説明しながら「ただし古今集なるは猿をよめり」と説いているのは、伝授成立以前からの口伝のようなものが存在したのであろうと想像される。一条兼良自筆と称する「古今三鳥直伝」にも、呼子鳥は木魂であると説明し、さらに「猿の事也といふも宣なり」といっている」と述べ、大久保喜一郎「猿丸大夫と猿丸大夫集との関連性について」(古代文学の構想)の論文を紹介している。そして、「山中に鳴いているのは、鳥ではなくて猿であることになるが、私はこの声は、鳥の声のほうがはるかに猿の声より情趣があると思う」とわざわざ否定するような私見を付記している。しかし、それは、この歌を文学性のみにとらわれて味わおうとするからであって、私はこれはやはり「猿」と「呼ぶ」、あるいは「木魂」と「猿」の両方に意味を引っ掛けた言葉であると思う。そうすると、歌の裏の意味は
遠近の立つ木も知らぬ山中に(どこにいるのかさえわからないような、奥山に一人置き去りにされて)おぼつかなくもよぶこ鳥かな(むなしい木魂のように、自分の存在を知らそうとしている、囚われ人の猿)
ということになろう。自分の叫びが、遠くの山にはねかえって、戻ってくるのが木魂であるが、しかし、あるいは誰かが、その声を聞くかもしれない、そのようなおぼつかない試みを、奥山で、あるいは奥山を越えて、一人閉じ込められている「猿」がやっている、ということを歌にこと寄せて言おうとしているのではあるまいか。
さらに、もうひとつの歌は、
ひぐらしの鳴きつるなへに(命の短いひぐらしが鳴いているあたりに)日は暮ぬと思へば山の陰にぞあり(日が暮れ、いよいよ最後が近づいてきた。ひぐらしのいるあたりも暗くなりやがて命もきえるのではないか)という意味で無いだろうか。
猿丸大夫に運命を擬す
こうした猿丸大夫の歌といわれるものは、人麻呂自身の歌ではないだろう。しかし、人麻呂の悲惨な運命が、当時から何となくその筋には伝わっていたに違いない。それで、古代暗号の童謡のように、「猿丸大夫」というような人物名に仮託してながされていたのであろう。これらの歌の内容そのもの、あるいは「よみ人知らず」であったり、猿丸大夫のものとしたりするその扱い、そして猿丸大夫と言うような、偉い人でありながら軽く見下げられているような感じを表した仮名のつけ方、さらに「よぶこ鳥」を「猿」の異名であるとしたり、「木魂」のことであるというような、童謡を解くときのヒントのような解説が流されていたりする。それらすべてが、意味深長な影の歴史をうかがわせるものである。つまり、柿本大夫、人麻呂の影をちらつかせつつ、流人、猿の姿をも匂わせながら、それが同一人物であることを暗に示し、しかも流人でありながらその人格を尊重する格調を保たせて、表面はなんということもない、文芸の香り漂う歌にしているのである。歌はどことなく意味ありげに演出され、しかもさりげなく処理されているのである。
この三首の歌だけで、猿丸大夫・柿本大夫・人麻呂が、奥山の遠い地、山陰の辺境の地に幽閉され、そこから自分の運命を知らすべく「紅葉文」、「色葉歌」などに暗号を託して、おぼつかない呼びかけを試み、やがて「日が暮れぬる」死を迎えている、ということがわかるのである。そして、こうした人麻呂の運命は、心ある人々の知るところとなっていったのである。
とにかく、柿本人麻呂の名前が、正式な史書になく、かわりに「さる」となっていること—「日本書紀」には天武天皇の十年十二月二十九日、「田中臣鍜師・柿本臣猨・田部連国忍・・・・あわせて壱拾人に、小錦下位を授けたまふ」という記事があり、また「続日本紀」元明天皇の和銅元年夏四月の項に「二十日、従四位下柿本朝臣佐留卒す」とある。和銅元年、すなわち七〇八年に柿本佐留が死んだという記事である。それを人麻呂が追放されときにつけられた蔑称ではないか、とする説を梅原猛氏は発表している(「水底の歌」)そうしたことなどを考えると、「あめつち詞」の五行目に、とつぜん「さる」という字が出てくることについても何かの意図を感じないわけには行かない。むろんそれは、「囚われ人・柿本猿」ということを示そうとしたものであろう。それも四行目の「ひといぬ」のすぐ横にある。前に書いたように、私は「ひと(人)いぬ(犬)」をあわせて、「伏す」と読んだ。それはまた「人(麻呂)は伏せて、今は囚人名さる(猿)となっている」ということを示すものと解釈せねばならないということの意であろう。また、「さる」のうえに「ゆわ」と言う字があることについても、なにかの意図があることも当然考えられる。私はまず一字ずつ考えてみて「ゆ」を「斎」つまり(ゆゆしき)身分の「斎」、そして「わ」を「吾」とよむと「追放されゆゆしき身分となっている自分の名は猿」となる。また「わ」は「輪」でもあり、それは「まる」でもあり、「ひと」のすぐ横にあることから、署名の最後の「人・丸」ともとれるのである。
さらに、京都の研究家小沢真奈さんによれば「ゆわ」は「硫黄」—雄黄—「硫化砒素」のことであり、砒素そのものは奈良時代当時から、毒殺や自殺用に使われていたと言う説があることを私に知らせてくれたが、そのかかわりについては、私はなんともいえない。
密教宗門内でなぜ隠されつづけられたのか
いずれにしても、「色葉歌」「あめつち詞」「万葉集」は、まったく一連のものといえるのである。
「いろは歌」は、最初、京を離れた地方の僧門に伝わっていた、とされている。これが、「いろは歌」の流布がしばらく遅れた原因のひとつにされている。「時代はかなり古くても、その作られたのが京都でなく、遠隔の地であったか何かの事情により、京都人の間に知られていなかったのだ。また、作られた土地の如何に関せず京都でも一部の仏者ぐらいは知っていたろう」(岡田希雄「国語・国文」昭和十一年六・七月号)ということであり、辺境で作られ、仏者の手に渡ったということは確かである。そして、宗門内で「いろは歌」がその内容上神秘視されていたため、一般には知られるにはいたらなかったのだ、と述べながら、当時の真言密教では、相当な秘密事項も残されているにかかわらず、さほど重大な秘密的な内容といえぬ「いろは歌」だけが、隠されていたと言うことに疑問を投げかけている。さらに、空海作説に対しても、むしろ空海作なら、大衆教化のために積極的に普及されているのが普通だと主張、また当時、無常観の思想が流行しており、「いろは歌」は、その無常思想を巧妙に歌っているものであり、それならばなおさら、大いに世に広まっていなければならないのに、ことさら隠され続けてきたというのも不思議だ、としている。
それらのことから、「いろは歌」が、真言宗の宗門内に伝わっていたこと、真言宗はようするに空海の宗門そのものであり、空海の関与については否定できないこと、そしてことさら隠されてきたことには、むろん大きな理由があることを窺わせること—それは空海自身あるいはそれに近い人が、「いろは歌」とそれにまつわる暗号や極秘の事実などを知っており、また感知していたことを、充分に推測させるものである、といわねばならないのである。
つまり、そのことは、単に「いろは歌」のみならず、「あめつち詞」「万葉集」にも大きく関係し、影響が及ぶおそれがあったことを認識していたからに違いないのだ。そのため、真言宗内では「いろは歌」は長い間かくされつづけられたのである。
とにかく、「あめつち詞」は、上代特殊仮名遣い時代の奈良時代に成立していることは確かであり、南北朝時代まで伝わっていたとされるものである。「いろは歌」は「え」音が一音少ないということで、少なくとも数十年以上成立期がずれ、しかも宗門内や一部の暗号解読者らによる隠蔽により世上に出ることが非常に遅れ、鎌倉時代から手習い歌として広く普及することになるわけである。ところで、暗号構造上からみて、成立期は「あめつち」も「いろは」も同時代でなければならない。国語学の小松英雄氏は、この時代の同じような無重複かなことば集の「田居に出で」の文献の扱いに触れ(四十六字であったものを、大矢透博士が、それでは全音がそろわないとして一字加えた)例を引き、更に一音を加え、四十八音にして、そのことから「いろは歌」についても「え」を一音加えた亀井孝氏の説を述べている(中央公論社「いろはうた」)それは「わが世誰ぞ、え常ならむ」としたものであるが、私は「浅き夢見し,ゑひもせ(え)す」とした。すると「夢を見ることも酔うことも到底でき得ない」という個人的な深い絶望の告白になる。それを後世の誰かが(たぶん密教関係者かもしれない)が、その一字を省いて、仏教的な公的な解釈が可能なようにしたのだと思うのだ。それによって、もともと「あめつち」も「いろは」もおなじ四十八字であったことがわかり、成立も奈良時代にさかのぼることが、無理なく理解できるのである。
聖武帝時代、人麻呂は万葉集撰集に加わっている
「万葉集」の成立自体は、更に複雑であり、「原万葉集」は、奈良時代にできていたろうが今に残る全二十巻については、二度、三度にわたっての編算作業があったことは、多くの研究者の認めるところであるが、何時、誰がという確実なものは、実際はないのである。
梅原猛氏の説では、これを三回に分け、一回目は天平勝宝五年(七五三)橘諸兄の命により第一次万葉集(原万葉集の巻一、巻二の部分)撰集される。そして四年後の天平宝字三年(七五九)大伴家持が、原万葉集をもとに、自らの歌日記四巻をも含めた多くの歌を加えて全二十巻の歌集にした。さらに約五十年後の大同年間(八○六)年に五百枝王らが、大伴家持の撰した二十巻の万葉集に注を加え勅選集化した、としている。
ともあれ、「いろは歌」「あめつち詞」の表と裏、二重構造のテーマの認識から、各々の暗号の持つ意味を考え、その上に加えて「原万葉集」の巻一、巻二の構成と各々の歌の意味を考えるとき、人麻呂の状況、死に至るであろう運命、それまでの居場所、状態等々が更に詳しく鮮明に分かるのである。そして、そこからわれわれが、想像しうること、一番の気がかりは、確かに暗号は役割を果たし、ために「いろは歌」「あめつち詞」は存在し、現に「万葉集」は歴史的、文化的遺産として残っているわけであるが、はたして柿本人麻呂は、第三者、いな、人麻呂の知人らの暗号解読時点に生きていたのか、死んでいたのかということである。確かに辞世はあり、死をいたんだ妻の歌もある。それらはむろん人麻呂の死後、書き加えられたということ以外考えられないが、掲載そのものに疑惑が残らないわけでもないのだ。
現在残っている全二十巻の「万葉集」には、人麻呂自身の歌とともに「人麻呂歌集より」として載せられている歌が、少なからずある。また内容、表現とも、人麻呂にそっくりの歌なども多い。たとえば、山部赤人の作歌なども、そうである。そして、そっくりな歌を詠む赤人の素性がはっきりしない、など、そしてさらに不思議なことは、ずっと後の聖武天皇の時代に山部赤人と柿本人麻呂が「万葉集」の編算に携わったなどという伝説が残っていることである。九○五年に撰集された「古今集」序文にも奇怪なことが書かれている。
紀貫之によって書かれた仮名序の問題箇所のみ抜き出してみよう。
「かのおほん時に、おほきみつのくらゐ、かきのもとの人まろなむ、歌のひじりなりける。これは、きみもひとも、身をあはせたりといふなるべし。又、山の辺のあか人といふ人有りけり。歌にあやしく、たへなりけり。人丸は赤人がかみにたたむ事かたく、あかひとは人まろがしもにたたむことかたくなむありける。これよりさきの歌をあつめてなむ、万えうしふとなづけられたりける。かの御時より、この方、としはももとせあまり、世はとつぎになんなりにける」
ここでいう「かのおほん時」とは、貫之は「ならの御時」としており、藤原清輔はそれを聖武帝の時代と解している。その傍証として「栄花物語」に「万葉集は天平勝宝五年、橘諸兄が撰した」という説と「万葉五巻抄」の序に「天平勝宝九年(七五七)に橘諸兄と人麻呂が歌を交し合った」という記事のあることをあげている。だが、梅原氏は、この説では人麻呂は八十九歳にもなること、石見の死との関係の説明がつかないことをあげて否定している。しかし、私はこの説は簡単に否定することはできないと思っている。それは、人麻呂は、石見の海辺で死んだものという前提を、疑うことによって、そうなるのである。
私はこれまで「万葉集」巻二挽歌の章の「柿本人麻呂、死からんとするときの歌」関連の五首を全然疑うことなく信じてきたわけであるが、あの歌群全体にただよう何となくでき過ぎたような、作為感をあやしんでいたのである。
いったん死んだ人麻呂は奇蹟の復活を遂げた
いずれにしても、全二十巻にも及ぶ「万葉集」自体が正史に全く記載されていないことも、万葉集がただならぬ歌集であったことをうかがわせるものである。表面にまともに出せない事情がそこにはあったとしか思われないのだ。そこには柿本人麻呂が、流人として悲惨な死を遂げた様子が、歌われており、それはあからさまに知られてはまずいことであった、のである。しかし、それを読めば誰もが人麻呂の死を絶対的なものと信じることは間違いないだろう。
ところが一方考えてみれば、「いろは」や「あめつち」の暗号によって、「万葉集」も発見されたのであり、人麻呂の居場所もわかったのである。居場所もわかって、妻や知人の死をいたむ歌などがそこに載っているわけであるが、しかしそれらの歌に出てくる地名、たとえば鴨山、あるいは石川などもはっきりせず、状況も、岩根し枕ける、貝に交じる、川の雲をしのぶ、波によりくる玉を枕に、荒野に置きて、とてんでばらばらの感じなのだ。
これらのことを勘案して、私は「原万葉集」は、柿本人麻呂の死そのものをカムフラージュしたものであって、この時点では人麻呂はまだ死んでいなかったと見るのである。「いろは」「あめつち」などの暗号解読により、人麻呂はひそかに救出されたと見る。
表面的には、和銅元年四月二十日、従四位下の柿本朝臣佐留卒す、と発表されたのである。そして、人麻呂はいったん身を隠す。藤原不比等というやりての官僚(このときすでに右大臣に上りつめていた)の謀略によって追い落とされた人麻呂は、不比等の目の黒い間は身を隠すよりほかなかったのだ。その不比等は養老四年(七二○)八月、六十二歳で死んだ。四年後の神亀元年、人麻呂は山部赤人と改名して再び作歌をはじめたのである。この年、聖武天皇即位、山部赤人は以来十二年間作歌活動をしたことが認められている。つまり天平八年(七三六)年代の明らかな最後の歌が万葉集に記載されている。和銅元年(七○八)人麻呂が鴨山の歌を読んでから二十八年が過ぎている。それで、人麻呂(山部赤人)の年齢を考えてみると、持統三年(六八九)草壁皇子尊のもがり宮の時の歌を詠んだときが最初とすると、そのとき二十四、五歳とする説は多く、それで考えると、七十一、二歳ということになる。これは決して考えられぬほど高齢ということはない。翌七三七年、天然痘によって不比等の息子の房前ら四兄弟が次々に死に、人麻呂の崇拝者的実力者、橘諸兄が翌七三八年右大臣となる。その頃人麻呂(山部赤人)が判者となって、「万葉集」の撰集がなされたのであろう。山部赤人、柿本人麻呂、橘諸兄が「万葉集」を撰したとの伝承は多くある。特に「栄花物語」(平安後期の物語)の赤染衛門説は信頼性が高いものであった。
柿本人麻呂は、いったん死んだことになっていて、「原万葉集」などに辞世を残したものの「いろは歌」や「あめつち詞」などをつくり、そこに巧妙に暗号を組み入れ、それによってひそかに情報を知人らに伝え、救出されていたのだ。そして藤原不比等の死を確認したのちは、山部赤人として名を変え、ふたたび歌人として活躍し、「万葉集」撰集にも参加したのであった。
私のこの説によって、今まですっきりしなかった、山部赤人と柿本人麻呂の関係や「万葉集」成立の謎に満ちた部分が、明るみに出ることになるのである。このことについては、今後さらに追求していくつもりである。
─了─