父と子、母と子

夫婦関係の教育力

 1. 現代の親子関係(二人の母親)

 筆者は今、長年の念願かなって、庭つき一戸建て住宅を建築中である。大工さんは、もうすぐ四十に手のとどくころの、まさに働き盛りであるが、こまめによく説明しながら、大変熱っぽく建ててくれている。そこでつい、感謝の気持ちもあって、「いちど、夜飲みにいきましょうか」といってしまった。お酒好きのようでもあったから、まさか断られるとは思ってもいなかったのに、「俺、家に帰って、子どもを風呂に入れるのが日課になっているから」という返事が、即座に返って来た。あっ、そりゃそうだ、と思わず知らず、つまらぬ誘いをかけた我が身を恥じた。

 かくいう私も、子どもが小学校に入るまでは、二人の子どもを入浴させる、否、一緒に入浴するのが日課であった。余程やらねばならぬ緊急の仕事がない限り、毎日毎日、それはもう、無上のたのしみといってもよく、きゃあきゃあ悲鳴をあげる子どもの頭にセッケンをぬりたくり、じゃぶじゃぶと湯をかける快感はほかに味わいようのないものだった。下の子(娘)は大切に抱いて入れたから取り落とすなどということはなかったが、上の子(息子)は元気がよすぎたせいもあったのか、どういうわけか、赤子のとき、何回か湯船のなかに落としてしまった。しかし、まだ立てないはずの幼いわが子が、驚愕して湯船の底を蹴って飛び上がってくる。その様は、まるで海坊主。いつまでも昨日のことのように思い出される、抱腹絶倒のシーンである。海坊主は、長じるにつれて泳ぎを好み、大学生になった今年、水泳部に入ったが、これに関しては、父たる私になにほどかの貢献があるのではあるまいか。

 下の子も今では高校三年生、「この世の中でオヤジが一番大嫌い」などという年ごろかもしれないのに、それをとっくに短く終えて、バカ親ぶりを満喫させてくれる孝行娘である。なんとなれば、「チャンの弁当は世界一」といって、たまさか寝過ごして二重底のノリ弁を作り損ねようものなら、「チャンなんて、大嫌い、あたしのことなんて、どうだっていいんだ」と大いにふくれてみせてくれるからである。しかし、この子を見送る朝の儀式は大変である。私たちはさるマンションの5階に住んでいるが、私の娘は御機嫌がよいと、玄関を出てからエレベーターの前に着いて一回目、マンションの出口で二回目、マンションの前の道を渡ったところで三回目、そこからまっすぐ行って曲がる所で四回目、そして最後は見送る私が見えなくなる駐車場のところで五回目、と最低五回は振り返って、父親に手を振るのである。応える側としては、初めは手を上げるだけでよかったが、長年のうち、何回ものごあいさつともなれば、ただただ手を上げるだけでは何とも芸がなく、また誠意がないように思われて、Vサインが出、それが両手になり、次にはグルグル回し、と次第に「振り」が派手になり、大げさになっていく。今では、ディスコ風に身体を揺すったり、足さえ上げて、しばしの別れの挨拶とすることもある。

 私が二人の子どもを見送るようになったのはいつ頃からであろうか。もう思い出せない。この間、母親たる妻は朝食を取る暇とてなく、夫子どもの食後の後始末もそこそこに、そのあと慌ただしく出勤していく。これが、我が家の、うわべは単調なここ十幾年の毎日ではある。子どもたちは、いっかな母親から見送られるということはないものと、ごくごく自然に受け止めているようであった。

 今春、上の子が我が家(東京)を離れて、関西の大学に行くことになった。息子は丁度、毎朝出かける時間と同じころに、またひょいと出かける風に、駅まで荷物を運ぶ私と一緒に家を出た。妻はさりげなくいつもの調子で、とはいっても、時々すこし手が空けられるときにするように、玄関口まで追ってきて、「新幹線なら僅か3時間よ、じゃ、いってらっしゃい」といって、特別に惜別の情を示す風でもなかった。私たちは玄関を出てすぐに、扉が閉められる音を背中で聞いた様に思った。

 息子と私は、3ヶ月後の引っ越しの打ち合わせなどしながら、何事もないかのように、普段と全く変わることなく、決まり切った駅への道を歩いていく。ふと、息子が立ち止まって、振り返った。そこは、いつも娘が最後に手を振って消えてゆく駐車場のところである。百米ほど彼方マンションの我が家の玄関口に、彼の母親が立っているではないか。しかし、母と子は、全くいつもそうし合っているかのように、互いに軽く手を振り合っただけですぐに視界から消えていった。「珍しいねぇ、お母さんが……」とひと言洩らしながら、息子はぴったりと息のあった母との別れに、一抹の淋しさを抑えながらも、満足そうであった。この息子、ここ2~3年、あれほど無邪気に喜んでいた父親の見送りには、「恥ずかしいから、やめてくれ」と、めったに振り返ることなどしなかったのだが……。

 さて、いかにも親バカ然とながなが我が家のエピソードを語ったが、要するに我が家には、例えば“厳父慈母”のように、旧来いわれるような父親らしさ母親らしさといわれるものが存在しない。正確に言えば、親の性に関わりなく、その時々に、母性的あるいは父性的に“親”の役割が演じられているだけである。こうしてむしろ、母親に子どもたちと睦み合う時間のないことをよいことに、勝手なときにべたべたと子どもに纒わりついて“母性的”な親の役割を演じているのが私、即ち少なからぬ現代の父親たちの姿なのである。

 近年、母性化した父親族が多くなった背景には、子ども数の減少、母親の就労、これらの結果としての父親のマイホーム化、教育パパ化・・・・と様々な要因があげられよう。が、いずれにしろ、いったん培われた母性化は「叱らないがこわいお父さん」、「どこかでじっと見守っていてくれるお父さん」といった男性的な父親像を減少させ、ひとり我が家に留まらず、「家にはお母さんが二人いる」という一般的な現象を生むに至っている。

 

 2. 教育力のある夫婦関係(一体性・相補性)

 子どもを育てる、あるいは子どもが育つには、親の側に明確な性の役割と原理がなくてはならないといわれる。即ち、父親には男性性と父性原理が、母親には女性性と母性原理が求められる。特に、女性性と母性の横溢する昨今では、父親による男性的な父性の回復こそ、子どもの性役割と社会性の育成に関わる根幹的な問題だとされている。はたして、そうであろうか。

 確かに、“厳父慈母”といった一昔前の対比・対照的な親のあり方は、子どもの性役割の学習や社会性の育成など、さまざまな面に教育力を発揮する。しかし、それは、そうした個々の親のあり方(厳父・慈母)が個別に力を持っているというより、むしろ、個々には欠けた面をもつ親のあり方がたまたま対比・対照効果によって互いに目立ちまたバランスよく他方を補い合い、それによって、性役割を学習しやすくし、また教育力をもたせるのである。けだし、その一方だけでは、けっして大きな力を持つことはなく、時にはかえって、悪効果さえ生む。厳しいだけならば萎縮し、優しいだけならばわがままになるのは、まだ未熟で未発達な子どもであれば、理の当然のことなのである。

 厳しさと優しさが教育の二本柱であることは、疑いの余地がない。特に、優しさと、優しさに裏打ちされた厳しさとが一方に偏することなく調和的に併存することが理想的である。しかし、よほど完成された人でなければ、両者をバランスよく身につけるということは、至難である。こういうことがどれほど必要であるかを十分わきまえているはずの専門家たる教師たちでさえ、ほとんどは身につけることに失敗している。さすれば、凡夫凡婦の、まして凡父凡母の私たちであれば、力を合わせて、これらを併せ持つべく努力する以外に道がない。こう考えると、厳父慈母とは、人間がいかに完全でないかを見通した上での、欠けた者同士を結びつける最良の組み合わせであったことに気づく。私たちはこれをモデルに、教育力という観点から、夫婦関係のあり方を考えてみなければならないだろう。

 力を合わせるとは、異なる者同士が一体化し、足りないところを補い合わせることである。“厳父慈母”がまさしくそれであった。しかし、「二人の母親」家庭のように、同質のものがただ力を合わせるだけでは、補い合うところがない。それどころか、互いに優しさを競い合って、単に子どもを甘やかすの愚に陥り、“優しさ”という最良の武器を砂糖で塗りたくり、溶かし、変質させることになる。優しさは、厳しさを伴って初めて有効な教育力となることを常に銘記すべきである。

 ここまで、単に“優しさ”とか“厳しさ”とか述べてきた。ここでそれらを定義づければ、優しさとは「相手の全人格を受け入れる“情愛”」であり、厳しさとは「善悪の判断を示す“けじめ”」である。こう考えると、優しさといい、厳しさといい、けっして男性性とか女性性、あるいは父性とか母性とかいった特定の性や役割に付与される特別な特性ではないことが明らかになる。これらはいわば、私たちが基本的に備えていなければならない人間性そのものなのである。そこで私たち親は、性別や役割に関わりなくこの基本的な人間性をもつべく努力し、互いに足らざると思えば、それを補うべく行なえばよい。これは、親がどのようなタイプの組合わせでも同じである。もし一方が厳しさに偏れば優しさで補い、逆に優しさに偏って子どもが甘えに過ぎれば厳しさで律する。このように、両親が一体となって補い合うところに、即ちその一体性・相補性という関係性の中に、夫婦を一単位とする教育力が生まれるのである。

 しかしながら、一体性・相補性といっても、それはあくまでも言葉の上のことであり、実現するのはなかなか難しい。表面的、つけ焼き刃的なものだと、逆効果になることも少なくない。例えば、いがみ合っている父と子が格闘になったとする。仲に入った母親がもし父親と一体化して息子の非をなじるなら息子の心は母親からも離れていくだろうし、逆に息子に味方して夫を咎めるならば、息子は父親にいっそう逆らうようになるかもしれない。かつて、親子げんかをとめに入った母親が息子をかばって横暴な父親を非難したことから、かえって息子が逆上し、父親を半殺しにするという事件があった。それでは、どのような関係であれば、夫婦の一体性と相補性を実現できるのか。ここでまたしても我が家のエピソードを揚げる愚をお許しいただきたい。

 息子が高校1年のときだったろうか、なにかのはずみで(というより、父親即ち私の権力的態度が原因で)口論になり、私が頬を張ったのがきっかけに、取っ組み合いの大喧嘩になったことがある。非は十分私の方にあったが、親の威厳にかけても謝れないと思った私は格闘を終えてからの言い争いの中でも、また息子の頬を張った。息子は、口惜しさと屈辱で泣いた。そして、終始黙って見詰めていた母親に向かって、父親の無法をなじった。しかし、その無益さを知って、彼はすぐにそれを止める。このようなとき、母親がけっして口をはさまないことを知っていたからである。こうして、親子三人それぞれの思いを胸に、ひたすら黙り込んだ……。思い出しても胸苦しくなるその時の情景である。

 これほどの争いはあとにも先にもこれきりだが、しかし、私たち親子の間で幾度か激しい対立が生じている。その時に子どもたちは、いかに無理解で無法な親であるかをもう一方の親に向けて訴える。しかし、私たちの常として、親子げんかには介入しない。何故なら、親は一心同体で子どもの教育に当たっているからである。たとえ一方の親が間違ったことをしていると思っても、それは同時に今、同じ考えで自分がしているのと同じである。いちいち口出ししたり、かばいだてしたりすれば、分裂したぶざまな親の姿を見せることになり、また子どもを甘やかすことにもなる。あとでこっそり慰めることはあっても、その場で中途半端な介入はしない。このときの妻もそうであった。どれほど経ったか分からない。堪えていた息子が、無念さで再び咽び泣いた。このとき初めて、妻が口を開いた。「泣くことはないじゃないの」

 これは、同じ親として一心同体の父親をこの場で直接責めることはできないが、しかし、別個の独立した母親としての良心が言わせる、精一杯の息子への詫びであり、支持であり、また夫への痛烈な批判であった。いわば妻は、この一言で“けじめ”をつけたのである。これによって、私も救われ、心の中では息子に詫びていた。それでも息子の方はまだ我慢できないようであったが、やがて気を取り直して去っていった。

 我が家の子どもたちは、良いも悪いも、親の結束を認めている。それは、すでに述べたように、いつも矛盾や分裂のないように対峙してきたということもあるが、常日頃から共働き家庭にとって必然的な家事万端の協力、職場での苦労や心労を語り合い慰め合う姿、睡い眼をこすっての書類・原稿整理の手伝い等々、日常的に協力し助け合う姿の中に、さらには、争って後に和する有様の中にも、夫婦という絆が結ばれていく様を見てきているからである。また私たちは、十二分に子どもたちを愛し、子どもたちも十分にそれを知っているが、それでもなお子どもたちが他方の親の悪口を言ったり、ましてそれによって取り入ろうとするかの気配を見せることがある。そのような場合、時には叱るなどして、私たちはけっしてそれを認めることはしなかった。例えば、母親が宴会で遅くなるとき、当初は母を求める気持ちでつい「女のくせに……。母親なのに……」と不満に口をとがらせたものだが、それには「宴会も仕事のうち、それに、家事から解放されて疲れをとる最良の機会」だと教えてきた。今では、親が飲んでくるといえば、明日への活力を養うために楽しく酔ってきて欲しいと願うようになってくれている。

 さて、教育力をもつ夫婦の関係、即ちその一体性・相補性とは、事に当たっての子どもに対する一過的・場当たり的な態度や関係ではなく、日常的・継続的な関係性そのものをいう。この関係性こそが、もちろんその時々の親の振るまい方にもよるが、“有事”におけるその一体的・相補的行動を有効にするのである。

母と子 ―優しさと厳しさと―

 先日、所用があって、夕方五時過ぎ、わが団地のバス停からJR中央線高尾駅に向かうバスに乗った。駅まで四、五キロ。普段は十分とかからないが、この夕方は恒例のラッシュ時に当たり、倍くらいの時間がかかる。そこで、古稀にも達した身であれば座席を得たいところだが、生憎の時間帯はなかなか空いていることがない。それは、隣の始発駅が京王電鉄関連の「高尾わくわくビレッジ」なるレクリエーション施設で、そこを利用した親子連れの集団が引き上げる丁度の時間とよく重なるからだ。

 その日も、車内は満杯に近く、小学校中・高学年くらいの子どもたちとその母親たちで蒸せかえっていた。このような時、これは昨今の風潮でもあるが、いや、私が年よりも少しは若く見えているのならいいのだが、いまだかつて、年相応に席を譲られたことがない。だが、この日は違った。バスが発車するよりも早く、入り口手前の吊革につかまっていた私の娘ほどの若い母親が、「こちらにどうぞ」と言って、自分の前の席に座っていた小学三年生位の少女を立たせた。少女はかなり疲れていると見え、少しうとうとしていたようで、一瞬いやいやをするように立つのを渋ったが、母親は委細構わず手を引いて立たせ、どうぞ、とまた手で差し示す。思わず、

「いや、私、まだ若いから、大丈夫です」

 と強がって見せたが、母親はきかない。どうぞ、どうぞと、座席の前を大きく空けて、誘い込む。それでもまだ、

「でも、お嬢さん、疲れているように見えますが」

 と一応の遠慮をして見せると、

「いいえ、この子、随分と休んでいたから、大丈夫なんです」

 と、母親はいっそう身を退き、気持ちを示す。

 これ以上の辞退は反って失礼だろう。私は、つい、言わずもがなのひと言を言って席を譲ってもらうことにした。

「じゃあ、私も七十歳のおじいさんになったから、座らせてもらおう、ありがとうございます」

 やりとりを見ていた周囲の母親たちから、いくつか小さな笑い声が洩れた。若い母親は、にゅうっと微笑って頷き、私に気遣ってか、軽く会釈してから少女を連れて前方に移動し、運転席傍の柱に身を委ねた。少女は、疲れているのか、不満を訴えたいのか、母親に抱きつき、その胸元に顔を埋めた。母親は、左の腕を回して少女を抱き、謝るように、諭すように、残した右手で少女の髪をいとおしそうに撫で始めた。そしてそのまま、バスが終着駅に着くまで、ずっと撫で続けていた。

 強くて優しい、何と見事な母親であろうか。私は、目をつむって、見ぬように見られぬように、しつけとはかくあるべしとの思いに心うたれながら、その情景に見ほれていた。

 

 中央線高尾駅前に持っているマンション、愛着著しい家で、十年間住んだが、やむない事情で離れ、以後、それを時々貸し家にしている。過日、貸してわずか一年余り、借り主が、都心近くの自宅住居に戻るとのこと。子どもたちを中央線高尾以西にあるスタイナー学校とか言う特殊な小学校に通わせていて、通学と親の都心への通勤の両方に大変便利なこの駅前マンションをどうしても借りたいと言うので、他の借家希望者を断ってまで貸したのである。三人目の子どもが産まれることになって少し手狭になったから、という明け渡し理由は訝しかった。

 家が空いてから、リニューアルするために、職人を連れてマンションの入り口にさしかかったときである。階下の住人のMさんが、偶々のこの機会を逃してはなるものかといった思い詰めた様子で、駐車場から駆けてきた。そして、言われるのである。次に貸すときは、必ず子どもが室内で大騒ぎしないようきつく注意して欲しい…。階上の二人の子どもの走り回る音に耐えきれず、ノイローゼになって近くの息子夫婦のところに何日も逃げ出したことがあったという。恐縮した様と、しかし言わずにいられないその風情に、申し訳なさで一杯になった。かく言う私が、このマンションを出た理由が全く同じだったからだ。階上から日夜を問わず響いてくる子どもたちの足音・騒音。私の場合、互いに手を振れば合図・連絡ができる至近のマンションを一時避難場所として購入し、そこで二年間、読書・研究の生活を送った末に、今の戸建て住宅に引っ越した。この度は、迷惑元が転じていったが、Mさんは、堪えきれずに一度電話で注意したことが転居の理由になったのではないかと、懸念している。その後、室内リニューアル工事を行う挨拶に赴いたところ、今度はMさんの奥様も同じように、その苦情電話が原因でお家をお空けになったのではないかと、しきりに恐縮される。とんでもない。詫びる理由など、どこにもない。詫びなければならないのは、ひとえに騒音を引き起こしている方なのだ。

 借家人を求むべく、駅前の不動産屋に行きこの話をすると、そこの受け付け嬢が、スタイナー学校は子どもを自由にのびのび育てる学校だから親が理念に添って子どもにあまり注意しなかったのではないか、とうがったことを言う。それとこれとは別の話、余所様に迷惑を掛けない子どもを育てることは、あらゆる教育の根本目標、つまりは、集団住宅の中で住まうことの基本的教育、延いては集団生活をする際の社会性の育成に失敗しているということなのである。

 

 教育というもの、土台、毅然たる厳しさがなくては叶わぬ。だから、その過程で、未熟な対象者との間に深刻な対立や衝突が生じるのも、不可避的である。長かった教員生活をつい最近に終え、今になれば様々な葛藤場面もひたすら懐かしいものになっているのだが、しかし再びはもう、あの緊張関係は経験したくないものだ。大げさに言えば、〈教育〉なるものは神経をすり減らす営み、老いの身にはもはや、二度とは関わり経験することのない、懐かしいだけのものであってよい。これは家庭教育、子育てについても全く同様である。

 孫は可愛い、と誰もが言う。確かにその可愛さは、孫の親たる息子が子どもであった時よりもはるかに優る。しかし私は、孫の顔を見に息子一家の処に行く時は拘りなく楽しいが、孫たちがわが家に来る時には、ちょっと抵抗がある。訪ねた時は、土産でも持って可愛い可愛いとやっていれば事済むが、彼らがこちらに来た時には、それだけではけっして済まない。即ち、子どもというもの、言わずと知れたわがまま者ゆえ、嫌でもしつけ(教育)を行わなくてはならなくなるからである。

 息子の家では、しつけの主権者は息子夫婦、だから私たち祖父母は嘴を挟まないし、また挟まない方が円満でよい。しかし、こちらの家にあっては、事情が異なる。主権者は私たち祖父母であり、もし親たちが子どものわがままを見過ごして私たちがそれに同調すれば、あるいは親たちの教育方針に反して甘やかせば、それは「祖父祖母じじばば育ちは三文安い」という喩にも通じて、孫たちにとってけっして好ましくない。といって、きつく叱って訓育すれば、もともと息子夫婦は何よりも子どもたちが祖父母に愛される様を見たいのであり、その気持ちを損ねることになる。あれやこれや、孫たちが来ると、私たちは気を遣って、それなり大変なのである。しかし、去年も今年も、孫たちは盛夏に半月あまりやってきた。さぁ大変、嫌でも、祖父権発動のしつけ場面がやってくる。

 さて、息子夫婦はそろって男子の孫三人を恵んでくれた。二歳とびとびに誕生し、一番下が今夏三歳である。この末子、生まれた時から年の近い兄たちにもまれ、成長が早い。もちろん今後の保証はないが、今のところ目から鼻に抜けている。数量観念にも優れ、少し教えれば、九九を使って数を計算することも可能なほどだ。しかし、丁度自己主張たけなわの第一次反抗期、そのわがままぶりにはほとほと手を焼く。

 皆で順番を決め(じゃんけん)、ケーキを好きなものから取っていくことになった。モンブランが二つ入っていたが、それが順位上位の私と中の子に取られ早々となくなった。と、この末の子が、それまでやり方を納得していたのに、お兄ちゃんのモンブランが欲しいと言って泣き出し、聞かなくなった。すると中の子が、じゃんけんで負けたら、譲ってもいいと案を出し、じゃんけんが始まった。しかし、何回やっても、みな兄が勝つ。末子が泣き出す。兄が譲って、今度は三回戦を提案した。が、兄が勝って次は五回戦。しかし、また兄が勝って弟が大泣きになる。何のことはない、兄は、何とか弟にケーキを譲るための名分を立てさせようと躍起になっていたのだがうまく行かず、それを弟が理解できず辛抱もしきれず、収拾がつかなくなった。私の二人の子どもは、このようなわがままをしたことがないが、もししていたら、私はついには頬を張っていただろう。孫たちの親の目の前で私がそれをするわけにはいかないし、結局私は、決着のつかないそのケーキを取り上げ、私のモンブランを褒美として知恵者の兄に与え、一旦取り上げたケーキを弟に与えて、お茶を濁した。もちろん末子は勝利歓喜の勝鬨である。

 翌日おやつの時間に、その末子が、今度は私のあんパンが欲しいと言って、また強情を張り始めた。恥ずかしながら打ち明けると、あんパンは私の大好物で、これをおやつや留守番のご褒美土産にもらうと、もうご機嫌である。そのことは孫たちも周知していた。今度はそのあんパンを狙っての宣戦布告である。断固拒否すると、母親の胸に飛び込んで泣きに泣いた。これは絶好のチャンス、

「わがまま者、勝手に泣いていなさい」

 私はそう言って突き放し、敢えて殊更、大きな音を立ててパンを食した。前日、弟にケーキを譲ろうとした中の子が、目を丸くして、私をとらえていた。この真ん中の子、兄弟二人に挟まれて、いくらか抑圧的で、良い子志向が垣間見える。これは発育上、あまり好ましくない。この祖父の行動は、その傾性を削ぎ、自己主張行動を誘出するための、示範行為でもあった。(心理学的に言うと、アサーティブテクニックまたはモデリング)。

 おやつの後、庭に出た私を中の子だけが追ってきた。信頼と親しみを増した眼差しである。思わず抱き上げると、赤ん坊ではないよと言わんばかりに、「抱かんでもええ」と、小声ながら、気持をはっきり表明してくれた。

 その翌日、またおやつの時間である。おやつ分配の前に、私は末子に言った。

「優君、昨日はわがまま言ったね。あれは何だったかな」

 末子は元気に言った。

「あんパン!」

 私は威儀を正して

「よし、分かってるな。今日はもう、わがままは言わないな」

「うん」と力強い返事があって、この夏のおやつ戦争が終了した。

 

 教育の真髄は、厳しさとそれを裏打ちして支える優しさとで成り立ち、実は極めてシンプルである。しかし、二つを巧みに交えて行うことは決して易しいことではない。沢山の学校・家庭教育上の失敗事例がそれをよく示し、大きく織り違えたものの中からは、世間を震撼させる事件がまま引き起こされている。まことに、教育というものは難しい。それだけに、しつけ上手な親たちを見ると、職業がら思わず賞賛の手を叩き、ふと応援してみたくもなる。

 見て見ぬようにその母と子を見ている中に、バスが終点高尾駅に到着間近となった。私は、礼を言うべく、母子が先に降りない中にと、バスの先頭口に急ぐ。少女がようやく母の胸から顔を上げ、丁度その顔と向き合った。

「ありがとう。おじさん…」と言いかけて、言い直した。「おじいちゃん、とっても助かった。これから元気に用を足しに行けます。ありがとう」

 さして嬉しそうにもなく、少女は眠気半分の顔で頷いた。私はさらに、今度は少女へともなく、その母へともなく言った。

「こんな優しいお母さんに育てられて、きっと、優しい立派な人になりますね。頑張ってね」

 少女の顔がさっと輝き、母親の顔が、そーっとはにかむ。

「さよなら」と言って、先頭切って出口の階段を下り始めた私の背中に、明るい少女の声が飛んできた。

「さようなら」

 振り返ると、母親に凭れて、少女が小さく手を振っていた。つれて母親も手を振ってくる。世に母と子が睦み合う姿ほど和やかで美しいものはないが、この母子の姿はまるでカーテンコールで挨拶をしている舞台女優のように、まぶしく輝いて見え、何やら優しい世の中の温もりをほのぼのと私に伝えてきた。

 手を振って応えながら、私はやみがたく、ときめいていた。