第二章 藤の花薫る (より抄出)
正午をすぎて、猛烈に暑くなってきた。
駿河台下で都電を降りると、金属質を思わせる日ざしである。停留所の安全地帯に、柏餅の葉が五、六枚ちらかっている。干からびきって、踏みつけると、セルロイドの音を鳴らした。
三省堂書店の向うの屋根に、鯉のぼりが古着のように垂れている。昨日が端午であった。季節はずれではないが、今日の暑さとそぐわない風物である。
三省堂のはす向い側に、澄子は道路を渡った。駿河台の坂道を御茶ノ水駅方向に登りながら、どうにも我慢できなくなって、彼女はブラウスの両袖をたくしあげた。わが腕のなまっ白さに、ふとたじろいだ。ことし初めて太陽に素肌をさらす気恥ずかしさだった。もっとも道ゆく人々も皆、掘りだしたばかりのような腕を振って、すっかり夏姿である。
あやうく通りすぎるところだった。看板が見えたような気がしたのでひき返し、道を折れた。
コンクリート塀に囲まれて、木造バラックの二階家がある。角に「東京古書会館」の白い看板が取りつけてあり、まちがいない。ビルだとばかり思いこんで捜していたのである。塀のまぎわまで軒が突きだしている、ごく普通の民家だったので、拍子ぬけした。
門をくぐると右手に銀杏の木があり、濃い蔭を作っている。蔭の中に、玄関がある。
ちょうど、よかった。今しがた市が終了したらしい。ののしりあうような声が飛びかい、大声のかたまりが玄関に押しよせてきた。
六、七人の、いずれもランニング姿の中年男で、沓ぬぎの澄子を見つけると、いっせいに口をつぐみ、無遠慮に注視した。澄子はあわててブラウスの袖をもとに戻した。男たちは下足箱からおのおのの履き物をとりだし、乱暴に三和土におろした。
耳に挟んだ巻煙草を口にくわえようとしたひとりに向って、澄子は頭をさげた。
「あの」と話しかけると、
「ねえちゃん、ここには一般人は入れないよ」高飛車に咎めた。
「古書展の客じゃないのか」と後ろの男がくわえ煙草をたしなめるように言った。
「展覧会は来週だろう」別のが受けた。
「古本屋以外、立入り禁止なんだ、ここは」くわえ煙草が肩をそびやかした。
「わたし、古本屋なんです」
澄子は、にらみつけてやった。
「ホウ。だれ?」
くわえ煙草が小馬鹿にしたような薄笑いをうかべた。
「ふたり書房です」
「佃島の?」
「はい」
「郡さんじゃないか。郡さんのとこだろう?」後ろの男が遠くに呼びかけるような大声をだした。
澄子は黙っていた。ここでは梶田郡司が、どういう風に位置づけられているのか、わからなかったからである。
「郡さんに用事かい? おれ、呼んできてやるよ」
大声の男が気軽に靴をぬいで室内にひき返した。
「郡さんの娘じゃないよな」
くわえ煙草が残った仲間に聞いている。澄子はにらみつけた。
「郡さんはひとり者だよ」
「隠し子という離れわざもある」
「似てないよ」
「トンビがタカだ」
彼らは臆面もなくしゃべくりながら、門外にでていった。澄子は怒る気あいを失った。すっかり度胆をぬかれたのである。
梶田を呼びにいってくれた男が走ってきた。
「いまくるよ。待っていな」
「ありがとうございました」
「なあに。礼を言われるほどの面倒じゃない」
ぱっと、顔を赤らめた。そそくさと、先の一団を追いかけて行った。口は悪いが、皆、毒はなさそうだ。
別の一団がでてきた。やはり澄子を観察しながら通りすぎた。彼らの話の様子では、昼食をとりにいくらしい。ひきもきらず男たちが現れたが、待ちびとは見えない。本当に、通してくれたのだろうか。しびれを切らしたころ、梶田が若い男とお金をおしつけあいながらやってきた。
「まったく郡さんの強情にはまいるよ。まいった」
男が苦笑しつつ金をズボンの後ろポケットにおしこんだ。澄子が若い男を見直したのは、それが文車堂の堀夫の口癖だったからである。声色もそっくりだった。しかし顔は、当然といえば当然だが、似ていない。角刈りの、下駄のような顔である。
「やあ、いらっしゃい」人なつこく澄子に挨拶した。初対面である。笑うと、人のよさそうな愛敬がこぼれた。
「すぐわかりましたかね ?」梶田が声をかけ、「こちらミョウジン書房の木里君」と紹介した。
「木里初男です」頭をさげた。
「ミョウジン?」
「あ、神田明神の明神です。氏子なもので」
「昌平堂書店のむすこさんでね」
梶田が注釈をいれた。
しかしそう言われても澄子にはわからない。彼女は古書業界については、まったく何も知らないといってよかった。実は今日、古書会館に梶田を訪ねた用というのも、そのことで教えを乞いにあがったのである。
「郡さんちの近所で店を開いています。今度ぜひ立ち寄って下さい」木里がお愛想を言った。
ふたりか歩きだしたので澄子も続いた。
「暑いね」梶田がこぼし、「こりゃ暑い」と木里が応じた。
古書会館をでて、澄子が今しがたあがってきた道を、戻る形で歩いていくのである。
「なんにします ?」
木里がふり返って、澄子に聞いた。
「昼めしですよ。中華、うなぎ、ソバ、洋食、なんでもご希望に合わせます」
「私……」
「うなぎにしますか。ごちそうします」
本人がそれにしたいのだろう。澄子はうなずいた。
「郡さんにチョイトもうけさせてもらいましてね。大盤ぶるまいしますよ」
「足が出ちゃうよ。力みすぎると」梶田が半畳をいれた。
ふたりは歩きながら市場の話を交していた。ときどき木里がふりむいては、当りさわりのないことを澄子に話しかけてきた。澄子は彼のそんな心遣いが嬉しかった。
みゆき通りの、のれんも看板もでていないうなぎ屋だった。ふたり用のテーブルが壁に沿って六卓、奥まで並んでいて、箸箱のような細長い店である。澄子は「うなぎの寝床」という形容を思いうかべ、あまりのうってつけに、笑いがこみあげてきた。
「なに?」木里がふりむいた。
「背中に何かついている?」
「いえ」
ふきだしてしまった。
「人が悪いなあ。何か、ついているんでしょう?」
「違うんです」
悪いけど教えられない。教えたら、お店の悪口になってしまう。
「まいったなあ」と木里がつき当りの階段を登りながらぼやいたので、澄子はこらえきれずに笑いだした。
「郡さん、なんだかおれって、こっけいらしいよ」
「そうかもねえ」先頭の梶田がからかった。
二階の座敷には客が一組しかなかった。時分どきをすぎているせいだろう。
「正午から一時まではどこの食堂も満員なんです。要領が悪いとあぶれてしまう。だから市場の前半終了の時間をずらしているんです」木里が説明した。
「市場の運営をなさってらっしゃるんですか?」澄子は聞いた。
「彼はね、副事業部長ですよ」梶田が口をはさんだ。「市場をとりしきっているんです」
「書宴会の?」今日の市である。
「偉いんですよ」梶田がもちあげた。
「偉くはないですよ。走り使いです」
木里がてれて、ハンカチで顔をぬぐった。
タスキがけの姉さんが注文を取りにあがってきた。茶を配りながら木里のハンカチを見て、
「今日は最高気温ですって。ラジオが申してました」と気の毒がつた。
「二十七、八度?」木里がハンカチの手をとめた。
「二十八度だそうです」
「やっぱりなあ」
「皇居前広場にアイスクリーム屋さんが、せい揃いしているらしいです」姉さんがラジオの受け売りをした。
「せい揃いはよかった」木里が笑った。
「おかしいでしょうか」姉さんが目をぱちくりした。
「せい揃いは、なんだかおかしいよ。稲瀬川じゃあるまいし」
「おかしいですかねえ」姉さんがくり返し、「イナセガワってなんですか?」と聞いた。しかし木里が、「おふたりとも話があるんでしょう? ぼくがいちゃまずくないですか?」と梶田に話しかけたので、とりつく島を失ってひきさがった。
「木里君はあたしが最も信頼する青年です。あたしと思って下さってさしつかえない」
梶田が澄子をまっすぐ見て請けあった。
「電話で市のことをおっしゃっていたから、木里君に同席していただいた方が好都合かと判断して、出しゃばりかもしれないが、あたしから誘ったんです」
「迷惑じゃありません。秘密の相談じゃないんです」
澄子は木里にうなずいた。
「私の商売のご相談なんです」
「ぼくでお役にたつ内容でしたら、喜んでお力になりますよ」
「ありがとうございます」
何からきりだしたらよいか。
「実は、私、本式に古本屋をやりたいんです」
そう切りだしたが、やはり順序だてて説明した方が、自分の気もちの整理にもなりそうだった。それで母の葬儀後のできごとから語りはじめた。
葬儀万端をとりしきってくれた町会長宅に、お礼にあがった席上だった。
「澄ちゃん、ひとつ、たのみがある」
町会長が言葉を改めた。
「澄ちゃんの商売を見込んでお願いしたいんだ」
「私のような未熟者にできることですか」
古本屋の自覚もなかった澄子はたじろいだ。
「商売の方は私、半ちくですし」
「いや大それたこっちゃない。澄ちゃんも小耳にはさんでいるだろう、町名変更の、降ってわいた、うわささ」
はさんでいる。
なんでも中央区住居表示審議会が、「佃」の文字は、文部省の当用漢字表にないから変えよ、と横槍を入れてきた。隣の新佃島と合併して、「住江」あるいは「相生」「三角」どれかによびかえよ、という無茶な達示である。冗談じゃない。佃の住民はいきどおった。
「冗談じゃねえ。佃は由緒のある地名だ。先祖代々、守ってきた無形の宝だ。犬ころの名前じゃねえや。はい、さようですか、ってんで、中央区三角一丁目、って名のるわけにはいかねえや」
町会長が声をはりあげた。
「な、澄ちゃん、そうだろう? 人をばかにするなってんだ。言うにことかいて、三角はねえだろう。佃祭が三角祭? みこしをかつぐ若い衆が三角野郎かよ。八木節じゃねえや」
澄子は吹きだした。しかしすぐまじめな顔になってうなずいた。
「お上なんてもな、手前の都合しか考えねえ。佃の字が当用漢字になくたって構わねえじゃねえか。三歳の童子だって、目ぇつぶって書ける簡単な字だ。読むったって、佃煮の佃って教えりゃ、だれだって覚えちまう。不便な点は何しとつありゃしねえ。役人たちは、他がやっているから自分たちも足踏み鳴らさねえと、遊んでいるとみなされる、そういうメンツで強引に改名を押しつけてきやがった」
東京中の地名が役所の音頭とりで次々と変えられていた。行政上の利便が主理由であったから、東何丁目、または西何丁目と、棋譜を読むような、味もそっけもない表示ぶりであった。佃島も槍玉にあげられたのである。
「澄ちゃん、たのみというのは他でもない。澄ちゃんとこのお客さまに、佃島改名反対の署名をもらってほしいんだ。古本屋さんだから、インテリの偉い先生や、有名な小説家がお得意さまだろう。しとつ先生方にお願いしてもらえないかと思ってね」
「有名人といっても……」
澄子は、実際のところ、知らないのである。梶田がずっと店番していたので、顧客の顔ぶれも知らない。
「画家の塩谷霞方先生や中原雪堂先生、小説家の宮島逸男先生や、為永秋水先生がお出入りしているそうじやねえか」
町会長の方がくわしい。
「みんな佃島を愛して下さる先生方だ。おそらく、いやとは言うまい。役人相手の闘いは、有名文化人に旗を振ってもらうに限る。権力者は権威に弱いからな。だけど先生方に、ツテ、といったら澄ちゃんしかいない。澄ちゃんがチョイト口を利いてくれれば助かるんだ。虫のよいお願いだが、どうだろう、考えてみちゃくれまいか」
「わかりました」
ひとまず、澄子はお預りした。梶田に相談してみようという腹だった。
ところがその翌日、町会長が口にのぼせた作家の秋水氏が、偶然「ふたり書房」に立ち寄ったのである。
澄子が店番していた。澄子は秋水氏と面識がない。先方から声をかけられた。七十すぎの、やせた品のよい老人であった。
「梶田君が見えないが」と安否を気づかわれた。このところ一週間に一度たずねているが、いつも店が閉まっている。「佃散策の楽しみは、お宅をのぞくことなんだが、ずっと裏ぎられ放しでね」とぐちをこぼした。
澄子は梶田が暇をとったこと、不幸が生じてこの一ヵ月、ろくすっぽ店にまで手が回らなかったことを言いわけした。
客は名を名のり、梶田の引退を惜しんだ。
秋水氏は、江戸情緒たっぷりの世話物を書いて著名であった。谷崎潤一郎が「刺青」を発表した年、氏も同題の戯作でデビューし、新旧の対決とさわがれた。ただし澄子はこの人の本を読んだことがない。
「そうだったのか。としよりは、としより同士、馬が合うのでね」秋水氏が笑った。
古いなじみのようだった。澄子は言葉を失なった。梶田の解雇を暗に非難されているように感じたのである。それで町会長から依頼された件を、ついきりだしそこねた。
秋水氏は三冊ほど選んで澄子に包ませた。
「以前はあたし好みの本が、もっとたくさんあったのだがね」と気の毒そうに弁解した。
皮肉ったのではない証拠に、客は続けてこう言い添えて澄子を激励した。
「古本屋さんという商いは、よその物売りの数倍、商品に愛情をもたなくてはいけませんよ。店主の本への思い入れの深さが、客を呼ぶんです。客は本の身内ですからね。本を邪けんに扱う店には寄りつかない。それと、売れなくても店は開けること。本が窒息するからね。本は生きものだから。いや本当。ためしに話しかけてごらんなさい。顔が輝きます」
「ありがとうございます」
澄子は素直に感謝した。
秋水氏が帰ったあと、真剣に考えた。
町名変更反対の署名をたのめなかった。たのむほどのつきあいがなかった。おろそかな気もちで店番をしていたからである。澄子が何よりこたえたのは、自分をあてにして訪れてくる客が、ひとりとしていないことだった。自分の作ったひいき客が、だれもいないことだった。結局、自分はここに座って何をしていたのだろう。つまりはこの一ヵ月を無為にすごしたということではないか。
澄子は閉店後、帳場にかしこまって、ながいこと考え、あげく何かにうながされたように奥の書棚の上部から下方へと、ハタキをかけ始めた。
古本屋の娘なのに、生まれて初めてハタキをふるうのである。「ごめんね」と澄子は声にだしてあやまった。すると本が、いっせいに笑いだした。笑う、という形容は誇張でない。澄子は実際そう感じたのである。店内の照明が、ひときわ光度を増した。
本は生きもの、と指摘した秋水氏の言葉は、まさしかった。澄子はおのれのうかつを恥じ、急に寂しくなった。梶田に電話をかけたのはその時である。
梶田は神田の古書市場に、どうしてもの用事があり、明日はふさがっていた。澄子はたってを願い、みずから市場に出むくことに決めた。
「すると用件というのは、秋水先生にあたしから署名をもらってくれ、とこういうこってすね」
梶田がうなずいたとき、さきほどの姉さんが吸い物椀を運んできた。話が中断した。
「階下は混んでいるようだね」
木里が椀を受けとりながらアゴをしゃくった。
「いいえ。さっぱり」
「こう暑いと押しかけるんじゃないの?」
「それが。皆さん氷の方に目が向くんじゃないですか」
「いっそ、かき氷にも手を広げりゃいいのに」
「ご冗談ばっかり。食べあわせでしょうが」
「うなぎと氷。あれ? そうだったっけ」
「違いましたかしら」
「うなぎと梅干し、天ぷらと氷でしょう」
梶田が正したので皆、大笑いした。
「さきほどの話ですが」
姉さんが座を外したので澄子は続けた。
「そうそう」梶田と木里が同時に合いの手を入れた。
「署名の仲介でなく、私、本式に古本屋の勉強をしたいんです。それでお願いにあがったんです。仕入れの方法や値づけなど教えていただきたくて」
「そんなことですか」
梶田がうなずいた。
「お安い御用です。木里君に同席してもらって、ちょうどよかった。あたしは年寄って引退も同然の身ですから、この人に助けてもらいましょう」
「なにを言うんです。古本屋に引退はない、と見得を切ったのは、どなたでしたっけね」
「木里君が書宴会の経営員なことは、さきほど話しましたな」
「はい」
経営員というのは、市場運営の当事者である。古本屋の若手が選ばれる。日当を支給されるが、その額はほんのおぼしめしで、主眼は古書の勉強にある。
市場での取引は競売で、売主と買主のなかだちをつとめるのが経営員だった。商売の思惑が露骨に動く場ゆえ、経営員の資格は、まず金銭に潔癖でなければならぬ。人のために身を粉にすることを苦にしない人柄でなければならぬ。口の固さも条件のひとつである。何百人もの業者を束ねられる度胸と機転と頭脳が必要である。
経営員は古書業界の、いわば小使いであるが、一面、人の注目を集めるスターなのである。木里は書宴会という組織の、ホープに目されていた。
「市場へいらっしゃったことはあります?」
その木里が澄子に聞いた。
「いいえ。一度も」
「とりあえず書宴会の市に出かけてきませんか? 二と六の日です。二日六日、十二、十六、二十二、二十六日と、月に六回あります。仕入れの方法は現場で教えてあげます。なに、しばらく様子を眺めていれば、おのずと体得できます。むずかしいルールはないし」
「そう。場なれすればせり声もでるでしょう」
梶田があいづちをうった。
「人見知りする方ですか?」木里が聞いた。
「いえ。私、上品じゃありませんから」
「おみこし、かつぐの、好きですか?」
質問が唐突に切りかわったので、澄子はとまどった。
「好きです」
「佃の祭は、確か三年めごとでしたね」
「ええ。でも、佃祭では私、町会みこししかかつげないんです。宮みこしは女人禁制ですから」
「みこしをかつぐのが大好きなら、せりの声も楽に発せられるだろう、という意味です。そうですか、みこし、大好きですか。ぼくも熱狂するたちでしてね。どうです、今月、まもなく神田祭ですが、一緒に参加しませんか」
「ありがたいですけど、おことわりしますわ」
「恥ずかしいですか」
「そうじやなく、私、佃の住吉さまの氏子ですから、浮気できないんです」
「ずいぶん義理がたいな」
「佃の人たちは皆そうなんです」
「まあ、みこしはひとまずおいて、市場に戻しましょう。いらっしゃいますか?」
「私、お店を開けなくちゃいけないんで……」言いよどんだ。
「書宴会市の日は、あたしがお手伝いにまいりましよう」
梶田が助け舟をだした。
「お頼みできますか?」
澄子は梶田を見た。
「お嬢さん、いいや、澄子さんさえ、よろしければ」
「良いの悪いのを言えた筋あいじゃありません。私、梶田さんに顔向けできなくて」
梶田に頼みというのは、ひっきょう「ふたり書房」を、以前のように切り盛りしていただけるか、という要望だった。澄子の発案で梶田を退店させた成り行き上、これは面と向って持ちだしにくいお願いであった。身勝手すぎるというものである。古本屋の勉強をしたいというのは、口実と受けとられてもしようがない。しかし澄子の決意は本気であった。
「これできまった。さて、と」
木里が梶田を見やった。
「何かものたりませんね郡さん」
「なんだい?」
「まずいですかね?」
「なんでしょう」
澄子がふたりを見くらべた。
「いやいや」木里が手をふった。
「つまり、その、手打ちに、冷たいやつを一杯きゅっと、やりたいな、という謎をかけたんです」
「やりましようよ」
澄子が声をはずませた。
「打てば響く。そうこなくっちゃ。話がわかりますね」
木里がはしゃいで勢いよく拍手を鳴らした。
姉さんが重箱を運んできた。
「姉さん、氷、じゃない、泡のたつお酒を二本」
「はい、ただいま。あのコップは三つで?」
「もちろん。あれ?」
澄子が梶田に目くばせしたので、木里が変な顔をした。
「いいんですよね?」
「構わないですよ」澄子がいたずらっぽく笑った。
「まあ、よろしいでしょう」梶田がひとりごつるように言った。
ビールが届いた。三人で乾杯した。
「よろしかったらいかがです、午後の市を見学してゆきませんか? せっかくお越しになったのですから」木里がすすめた。
「そうなさい。お店はあたしがこれから出向いて開きますよ」梶田も賛成した。
「悪いわ」そうは言ったが、下見も悪くないと思った。
食事が終った。
「赤くありません?」
澄子は梶田に顔をつきだすようにして見せた。
「全然」
梶田でなく、木里が答えた。
「強いなあ。ぼくの方がだらしない」
「咎められません?」
「市場ですか? なあに。行ってびっくりしますよ。そこいら中、火事見舞いの金時だらけです。古本屋は好きぞろいで、しようがないんですよ。ぼくもですがね」ふふ、と笑った。
梶田とはうなぎ屋の前で別れた。
「なるべく早く帰るつもりです。ごめんなさい」
澄子は何度も頭を下げ、梶田に店の鍵を手渡した。
「いや、ごゆっくりなさい。よい機会ですから。市の最後まで見届け、なるたけ早めにコツをのみこむことです」
「用事はすんだんですの?」
「すませました。だから、あたしの心配はいらない」ハンチングをかぶった。
澄子と木里は肩を並べて歩きだした。
「暑いですね」
「ええ」
「うなぎ屋に入るとき、……」
「はい?」
「笑いましたでしょう」
「ああ、あれ。違うんです。他愛のない、思いだし笑いだったんです」
よほど説明しようかと考えたが、やめた。「うなぎの寝床」なんて、今になってみると、ちっとも面白くない。
「いやなんだかホッとしました。それにしても暑い。まいったなあ」
澄子は水鉄砲を放ったように吹きだした。
「そら。思いだし笑いではないじゃありませんか」
「ごめんなさい。私の勘違い。その、まいったなあ、がおかしかったんです」
「変ですか」
「近所に、何かというと、まいったなあ、が口癖の幼ななじみがいるんです。あだなが、マイル。その子を思いだしたんです」
「なんだ。そういうことだったんですか。ぼくのは口癖じゃないですよ。たまたまですよ」
「でしょうね。だから逆におかしかったんだと思います」
しゃべりながら、また、クック、とこみあげてきた。
「変だわ。笑いの説明なんて」
古書会館の門の中に、男たちが三三五五、吸いこまれていく。
木里が小声で冗談を言った。
「秘密の賭場に向う人たち、そんな風に見えませんか」
「ほんと」
「古本屋って、どうもうさんくさく見られるんです」
「私もかしら」
「あなたは今はまっとうです。だけど、骨がらみになると、たちまちああいう後ろ姿ですよ」
「早くなりたいわ。うさんくさげに」
「魅力ですか」
「なんだか」
「あなたは変ったお人だなあ」
「私、ふつうの人って好きじゃないんです」
「マイル君も変った人ですか」
「え?」
門をくぐった。
「まいったなあ、の君ですよ。恋人なんでしょう?」
「竹馬の友ですよ。そんな」
「恋人じゃないんですか」
靴をぬいでスノコにあがった。
「うらやましがられる仲じゃありませんわ」
「よし」と急に木里が気合いをいれた。澄子の下足を受けとって下駄箱におさめた。
「どうなさいました?」
「がんばるんです。なんだか力がわいてきたなあ」
「うなぎのせいですわ」
「いやいや。あなたも凄いこと言うなあ」
電灯をともしたように目のふちを赤らめた。
スノコから、いきなり板の間の部屋になっている。
二十畳は、ゆうにありそうだった。全部が板の間でなく、窓枠の形に畳が敷かれてある。畳にはうす汚れた座布団が並べられ、窓枠の内側はむきだしの板敷である。畳の外側には業者がせり落したらしい本の山が、所せましと置かれてある。入口の向う正面が、これから再開されるセリの荷置き場になっていた。
昼食から戻ってきた業者が、次々と座布団を占領する。それぞれ自分の席がきまっているらしい。
入口近くにすわって煙草をふかしていた男に、木里が挨拶した。
「ポンさん。この方、初めてなんです。ご面倒ですがご教示ねがえませんか」
ポンさんと呼ばれた人は、角刈りで小太りの、五十がらみの古本屋だった。というより感じが、いっそ大工の棟梁である。
「佃の、ふたり書房さんです」
澄子は、軽く会釈した。
「郡さんの?」
「ええ」木里がうなずいた。
ここでも梶田がひきあいにだされた。
「郡さんには借りがあるからなあ」
ポンさんはシャツの胸ポケットからメンソレー夕ムの缶を取りだすと、フタをあけ、煙草の吸い殻を押しこんだ。小さな空缶には何十本もの殻が、蜂の子のようにつまっている。
木里が言った。
「それじゃ澄ちゃん。ぼくはセリにかかるので、売買の要領はポンさんにおそわって下さい」
「澄ちゃん」になってしまった。
木里は奥に進んでいった。
「ま、おすわりなさい」
ポンさんが自分の右隣の空席を示した。
澄子は一礼して、座布団を裏返してから、言われた通りにした。
定刻らしく、ほとんどの業者が座布団にすわった。客の席はコの字に作られている。向う正面に若い経営員たちがせい揃いした。彼らを役者と見たてれば、そちらが舞台ということになる。
木里が身ぶり手ぶりで下知している。五人ほどが、こちら向きに縁台のような細長い机の前に陣どった。
「彼らは、山帳とぬきの担当者です」
ポンさんが指さしながら澄子に説明した。
「山帳?」
「つまり、売買成立を帳簿に記録する係。いや帳簿そのものをさすのかな。おれにもよくわからない」
ポンさんは低い早口である。
「山帳の係は、とにかく筆が早くなくっちゃだめでね。セリは、一瞬だからね。耳で買主の声を聞きわけて、名前と金額を即座に正確に記録するんです。隣の『ぬき』は、山帳から各買主ごとに、仕入れ明細書を作製する係。一人で大体、二十人ほどの客を担当します。名前をひきぬくので『ぬき』です」
「山帳はお一人なんですか」
「そう。あの年寄りが一手に記帳するんです」
「あの年寄り」は、神経質そうに机上に鉛筆を並べ直している。
タオルを首に巻いた若者が客を見渡しながら、中央の白い座布団に正座した。
「彼が、振り手、といって、ま、セリの花形です」
振り手の膝もとに横あいから本の山が押しだされた。押しだしたのは、木里である。
「木里君の役は『荷出し』といいましてね、振り手が振りやすいように、荷を送るんです。振り手と息をあわせ、また場がだれないよう荷の種類に変化をもたせたり、特定の人だけでなく、なるたけまんべんなく買主に荷がいき渡るよう工夫したり、あれでけっこう気を遣う役割なんです。振り手の後ろで三人ほど活動しているのが、『山切り』と称して、本の山を崩して、文学書なら文学書、法律書なら法律書、と同種類にまとめる役。法律書を買いにきた業者には、文学書は不要ですからね。また適当な金額になるよう本を組み合わせる役でもあります。木里君は彼らが仕分けた山を点検する係でもあるんです。山切り、荷出し、振り手、山帳、ぬき、の順に皆、呼吸を合わせて一体になって、作業を進めるんです。どれか一つの部署でもずるけると、セリが停滞し死んでしまうんです」
「責任者の方は、どこにいらっしゃるんですか」
「責任者?」
「あの、事業部長というんですか、書宴会の会長さんです」
「ああ。会長はお目付みたいなもんでね。市の事実上の責任者は、副部長の木里君ですよ。彼の差配で、皆、動いているんです。さあ、始まりますよ。しばらく、ながめていて下さい。実際の様子をみながら説明してあげましょう」
振り手が首のタオルをはずして傍らに置いた。それが開始の合図らしかった。挨拶もなく、いきなりセリが始まった。
振り手が膝もとの五冊ほどの本を手にとるや、よく響く大声で書名を読みあげた。かなりの早口で、しかも一種の節がついている。
「えーお七吉三、田村俊子のお七、えー祇園双紙、えー祇園歌集、どっちも吉井勇だ、えー祇園夜話、こいつは長田幹彦だ、舞妓姿、これも幹彦、えー、しょっぱなから色っぽいよ、五冊とも夢二の装丁だ、それで、えー」
「一千」声があがった。
「えー一千、えー」と振り手がひろいあげ、復誦する。
「二百」別の声。
「えー二百」
「三百」別の声。
「えー三百」
「五百」
「えー」
「二千」
澄子の近くの声である。
「えー二千、えー二千、二千円で大書堂さん」
声よリ早く振り手の手から、本が一冊、また一冊、更に一冊と、一冊ずつ、こきみよく大書堂の前に飛んでいった。滑空するような、板敷をすべるような、どちらともつかぬほうり方である。それで五冊とも買主の膝もとに、表紙を上にして、ぴた、と止まった。澄子はうなるほど感心した。
「無雑作に投げているようですが、投げ三年、と言いまして、三年以上の年期が入っているんです」
ポンさんがささやいた。
「しろうとがほうったら、表紙がむしれたり、外箱がこわれたりして、大騒ぎですよ」
次の品がせられていた。早い。ひとつのセリが、ほんの数秒できまってしまう。
「ごらんのように一番高い値をつけた者が、品物を確保できます」
「でも、もっと高い声があるのに、その前の値で落していますね」
澄子も小声で応じた。客たちの目は真剣そのものだ。私語がはばかられる雰囲気である。
「相場を尊重するんです。相場以上でも、以下でも、振り手は品を落さない」
「どうしてですか」
「相場以上の値で落とすと、結局、買主がいや気がさすし、以下だと荷主が喜ばない。振り手はあらゆる本の相場に精通し、荷主と買主双方の機嫌をとらねばならぬ立場なんです」
振り手の隣の山帳係は、うつむいたまま右手だけを動かしている。本の買主を耳で判別しているのだ。
ひとしきり文学書が続くと、「山」が変って、思想書哲学書が主体になった。すると今まで静観していた客たちが、がぜん色めきたった。思想書をあてに出かけてきた人たちなのだろう。もっとも時折、そうでない物もまじる。他の客の「眠気ざまし」だと、ポンさんが解説した。
「何が、目的ですか」
ポンさんが振り手に目を向けたまま言った。
「なんでしょう?」
「いや、あなたは何を買いにいらっしゃったんですか」
「児童読物かマンガが出ればと思ったんですが」
ポンさんが急にふりむいて、澄子を見すえたので、どぎまぎした。
「マンガ?」
「はあ?」
「郡さん、そんなものを並べているんですか」
澄子は、うんざりした。またしてもだ。説明するのも、かったるい。
「最後の方に出るでしょうから、遅くなりますよ」
「なん時ごろになります?」
「この進行だと七時か、八時ですね」
「そんなにかかりますか」
「早い方ですよ」
そんな時間まで、とても澄子は、いられない。
「五百」と突然ポンさんが声をはりあげたので、澄子はびくついた。
二冊の本が、ポンさんの手もとに飛んできた。『アンデルセン童話』と『蚊とんぼスミス』と読めた。
「こちらをさしあげましょう」とアンデルセンのをすべらせてよこした。澄子は礼を述べ取りあげたが、大正時代の本である。佃の子供たちが買いそうにない。
「二冊で五百円。こんなにも高い相場なんですか。一冊二百五十円ですか?」
「いや、そいつは百円にしか踏んでいません。私はこちらがほしかったんでね」
「それも童話でしょうか」
「ご存じありませんか?」
「はい」
「足ながおじさん、という物語はご存じでしょう?」
「はい」
「これはね、あの物語の本邦初訳本でね、訳者が東健而、大正八年の刊行です」
「足ながおじさんの?」
澄子は、これはだめだと観念した。足ながおじさんは読んでいるが、蚊とんぼだの、訳者のことだの、書誌の知識が皆無である。古本の相場どころか、古本そのものの素性がわからない。仕入れるどころではない。
「いや、だれも、はなから知っちゃいない。勉強ですよ。こうして人がどんな本を仕入れているかを、横目で観察しながら勉強するんです。人が目の色かえて買うからには、その商品には何かがある。数字なぞ覚えなくていい。相場にとらわれると本質を見誤まる恐れがある。第一、古本屋の仕事が楽しくなくなる。もうけた損したは、ひとまず措いて、本に親しむこと、本を楽しむこと、本をいつくしむことです」
「はい」
「あなたは、人間は嫌いですか」
「え」
だしぬけの質問ゆえ、まごついた。
「嫌いじゃないでしょう?」
「好きです」
「本も、人間だと思えばよい。いや本は人間なんですよ。ごらんなさい、この本の輝き。光り。私に見いだされて喜んでいる」
秋水氏と似たようなことを言う。
「本も嬉しいだろうが、私も嬉しい。私はね、見知らぬ同士の、このいっしゅんの出会いが生き甲斐で、市場に出かけてくるんです。古本屋には、三つの喜びがある。本を仕入れるときと、その本を自分の店の棚に並べているときと、首尾よくその本が売れたときと、この三つです。普通の商売は、このうちの二つしか喜びがないんです。わかりますか。商品を飾っているときが喜びなんて、古本屋だけです。二千」いきなり声をあげた。
しかし「二千五百」の声が同時にあがって、品物はそちらに飛んでいった。
「ええ、やられたな」
ポンさんが舌打ちした。
「やった、やった」
落しぬしはポンさんに本を見せびらかしながら、長いベロをだした。白髪の老人だが、いたずらっ子のようである。
「あれ?」と頓狂に叫んだのは老人の背後の客である。
「エンちゃん、今、本の間にお札が見えたぞ」
古本屋は目上であれ年下であれ、名前を「ちゃん」づけで呼ぶらしい。
「そんなうまい話があるもんでない」
エンちゃんなる老人が笑いながら、手品師がトランプを切るように、あざやかにページをくった。
「本当だ」
老人の右隣の者が手をのばして本をひったくった。背をつまんで、さかさまにうち振った。黒緑色の聖徳太子千円札が、四枚、床に散らばった。
一座が騒然となった。セリが中断した。
「おれのだ」
エンちゃんがバッタを捕えるようにお札の上に手をついた。ついで上体をかぶせた。
「そうじやねえ。その本の荷主はおいらだ。おいらの金だ」
向うの方から声があがった。
「お前さんの蔵書じゃあるまいし。もとの持ちぬしはこれをお前さんに売り払った客だろう」
別の声がちゃかした。一座がどっと笑った。
「おおい事業部長。お前さんの出番だぜ。大岡裁きをたのむぜ」
奥の方から声があがった。
ポンさんがそのひとことでゆっくりと立ちあがったので、澄子は目を丸くした。書宴会の会長だったのである。
ポンさんが即座に裁決した。
「一枚はエンちゃん。一枚は荷主。一枚は書宴会。残り一枚は酒代。二級酒二升買って、ここで皆でいただく。これで、いいだろう」
拍手。
エンちゃんが一枚をひけらかしながら言った。
「おれのは、酒手に寄付する」
再び拍手が鳴った。鳴りやんだとたんに、つけ加えた。
「ただし全額じゃねえ。おれと荷主と五百円ずつだ」
皆、ずっこけて笑いくずれた。
「おいおい。おいらを巻き添えにするなよ」荷主が叫んだ。
ポンさんが両手を上下させて一同を静めた。
「ついでに話がある」
ポンさんはせき払いした。
「初ちゃん、ちょっと手を止めて、ひと息入れてくれんか」と木里に指示した。
「実は私の隣の娘さんだが」
五十人以上の視線が澄子にそそがれた。
「紹介する。第十支部の、佃島のふたり書房さんだ。ご存じのように先日、名義人の工藤千加子さんがお亡くなりになられ、娘さんの、ええと」
「澄子です」
「澄子さんがお店を続けることになった。お若い身空なもので、この業界の右も左も不案内である。皆さんで面倒をみてあげてほしい」
澄子は立ちあがって、深々と一礼した。
拍手が起こった。大きな、あたたかい音だった。
「もうひとつ。澄子さんは、えー、ちょっと呼びづらいな、澄ちゃんでいいかな」と後ろの方は小声で了解を求めた。
「結構です」
「澄ちゃんには、わが書宴会の、経営員見習いになっていただいた。次回から早速、皆さんのお手伝いをする。書宴会も、むくつけき野郎ばかりだったが、ごらんのように、いや、立てば芍薬、すわれば牡丹の、明眸皓歯、解語の花、傾国の美人、どうぞごひいきにとお願いするが、ただし皆さん、彼女は見世物じゃない。あくまで書宴会出品の荷を目当てに、きていただきたい。以上」
ポンさんがすわると、すぐにセリが再開された。振り手が別の若者に交代していた。座が静まった。
「あの」
澄子は周囲をはばかって、ポンさんの耳にささやいた。
「経営員見習いの話ですが」
「ああ。郡さんにたのまれたんです」
「梶田さんに」
「けさね、市場で。あなたをよろしくと」
「でも私、なにもわからないんです」
「いや、だから郡さんが気を遣ったんですよ。誰だって初手は無知です。大丈夫、じきに馴れます。経営員の面々も気のいい奴らばかりです。みこし、大好きなんですって?」
「えっ?」
「いずれ、あなたも、あれをやってみませんか。振り手」
「まさか」
「いや大丈夫。あなたのような若い女性が振り手をつとめて下されば、わが書宴会市は、活気づくこと目に見えるようです。冗談でなく、私は構想しているんですよ。われわれの市場も、十代二十代の女性が切り回すようでなくちゃ、いつまでたっても旧態依然、いや演説はよしましよう、柄にもない」首をすくめた。
木里が澄子たちのそばにきた。
「話、つきました?」とどちらへともなく話しかけた。
「ひどいわ。あらかじめ筋書ができていたのね」
「郡さんに含められていたんです。最初からうちあけると、あなたが尻ごみするだろうからって。だましたつもりはないんです」
「なに、この人は断わらないさ。ね、一緒にやってくれるよね」
「考えさせていただきます」
「考えるまでもない。あなたにとって決して悪いことじゃない」
「二百」と澄子は思わず腰を浮かせて叫んでいた。
「二十」と、すかさず後ろの方から声があがった。
「三十」澄子は、かぶせた。
「五十」別のだみ声が追ってきた。
「七十」と澄子はしがみついた。
「二百八十」とだみ声がしっこい。しかしその声とほぼ同時に、澄子は「三百」と更に上に乗せていた。
「えー、三百、え一、三百。三百で、はい、ふたり書房さん」
本が飛んできた。一冊だけと思ったら、二冊飛んできた。
「まんまと、いきましたね」
ポンさんが喜んでくれた。
「相場で落したじゃないですか。いや、なかなかの腕です。それに、はな声が出せるなんて一丁前ですよ」
「はな声ってなんですか」
「しょっぱなの声。第一声です。これは、いやむずかしい。相場とかけ離れた声を出すと馬鹿にされます。はな声尊重といって、第一声の人を振り手は優遇するんです」
「まぐれ当りです。私、これ、読みたかったものですから」
久米正雄の『学生時代』だった。
「ほら。おのずと相場が出たじゃないですか。自分を客の立場において考えればいいわけです。自分が買いたい値段が相場なんですよ。むずかしいことないでしょう」
「夢中でした」
「よかった、よかった」木里が手を打ちながら、「舞台」に戻って行った。
「おや」とポンさんがもう一冊の方を取りあげた。
「あなた、いや、えらい物を掘り出しましたよ」
小声で言い、あたりをうかがった。皆、振り手の方を向いている。
「なんでしょう?」
「この本。久米正雄より、はるかに価値がありますよ」
守江溜という著者の、『鉄道小説 寒帷子』という本である。
「なんと読むのでしょうか」
「かんかたびら。かたびらは、ひとえ物です。夏の衣類ですね」
明治二十六年、春陽堂の発行、と奥付にある。
「どうして、これが掘り出しなんですか?」
巻末に鉄道時刻表がついている。これのためだろうか?
「それはね、いや、まあひとつ、ご自分で調べてみませんか? 人に聞いたのでは本は覚えられない。まず内容を読んでみる。手がかりは、作者です。参考書は商売柄あなたのお店にあるはずです。なんの参考書を使うか、まずご自分で判断してごらんなさい。宿題にしておきましょう。その本の売り値は、まあ千五百円から二千円です」
「そんなに高い本なんですか。だったら私、悪いことをしたのではないでしょうか」
「いや構わないんですよ。別にあなたは人をだまくらかして買ったわけじゃない。この五十人以上ものプロの見ている中で正々堂々とセリ落したんです。みんながその本の価値に気がつかなかっただけです。決して不当じゃない。面白いでしょう? 古本屋の商売はね、人よりたくさん勉強した者が、うるおうんです。勉強してひとつでも知識を身につけた者が勝ちなんです。いや、やり甲斐がありますよ。勉強を怠る者は損するんです」
ポンさんは振り手の方を見つめたまま続けた。
「あなたは久米正雄という小説家の、『学生時代』という作品を知っていたから、自然に声がでた。どういう内容だか聞きかじっていたからこそ、とっさに値を告げていたわけです。ね、知識がものをいったわけです。この世界で相場というのは知識なんです。数字にとらわれちゃいけない、数字を覚えてもなんにもならない、とさっき申しあげた意味は、こういうことだったんですよ。どうです、一冊仕入れたら自信がついたでしょう?」
「私でも声がだせるんですね」
まさか出るとは思わなかった。
「誰もあざ笑いませんよ。おいおい経験すると思いますけど、古本屋が軽蔑するのは、本を金もうけの道具視するやからだけです。いや古本屋も商売だから矛盾する話ですが、本当の金もうけというのは、こんな生なものじゃない、非情です」
「いろいろありがとうございます」
「その本、隠しときなさい。業者がうるさいですよ、やっかんで。いや、その『寒帷子』の方です」
「この次の市までに、調べてまいります」
「急ぐ必要はないですよ。ただ本の素性を知らないと、自信をもってお客に売れませんからね」
セリは山場にさしかかったようで、次第に白熱してきた。
いつのまにか振り手も荷出しも顔ぶれが変って、木里は、というと「山切り」に大わらわである。適当に部署を交代するらしい。
澄子は木里の「振り」を期待していたが、この日彼は中央の「花形」の座にすわることはなかった。
梶田は「ふたり書房」を開店する前に、茶の間に据えられた仏壇に、みあかしをともした。二階のを澄子が降ろしたのである。仏壇は店の方を向いている。帳場と茶の間の仕切りには、揚げ幕のように寸のあるノレンが下がっているので、客からは見えない。澄子としては、両親と一緒に店番をしているつもりなのだろう。
梶田は店内に籠るのを恐れて香を焚かず、鐘だけうちならし瞑目した。
「藤室華香信女」というのが、千加子の戒名であった。隣に六司の位牌があり、そちらは「藤堂司文居士」とある。道号の「藤」は、姓の工藤である。工藤六司の妻だから、千加子は「藤室」であった。法名の華香は、俗名の加を言い替えたのであろう。
「藤の華へやに香る」
千加子にふさわしい字面である、と梶田は思った。
藤の花は蝶の形をした花弁が房状になっているが、群れて満開の景はともかく、ひと房だけをながめると、つつましい色あいと姿である。おとなしやかな楚々とした風情が、千加子の晩年の人柄をほうふつさせる。
戒名は梶田が、自分の菩提所の住職に頼んだものであった。六司の時もそうだったからで、二柱の、法名が似ているはずであった。
——以下・割愛——