ラメール 母

  あてなき疾走(抄)

 

 遊び歩くうちには衝突も多かった。

「11PM」の「銀座の文士と女」という番組だった。スタジオに入って行くなり、先に来ていた生島治郎の顔色が変わった。

「俺はこんな奴と同席するなら帰る」と言った。

 そして、ほんとうにスタジオを出て行ってしまった。きょとんとしている陽太郎に、野坂昭如が「俺がいつか誤解を晴らす」と言った。

 これには、当時生島がつきあっていた女性が絡んでいた。その女赤木は三度変貌した。はじめは小学校の自治会で陽太郎のとなりで書記をしていたおかっぱの女の子、それから高校時代は長い脚を惜しげもなくプールサイドに投げ出し、真っ黒になって泳いだ。そのあと、ある食品メーカーのキャンペーンガールになったところまでは知っていた。

 野坂のアイデアで取り巻きの有閑マダムを花魁に仕立て、吉原の松葉屋で遊ぶ趣向を思いついた。吉行淳之介もいた。そのとき、一座の花形を紹介された。

「なんだ、おまえか」

 小学校の自治会で隣りに坐っていた女の子が文壇狂いの追っかけマダムになっていた。それはいいが、彼女に生島が溺れた。悪いことに睡眠薬仲間だった。生島はのちのソープ嬢への没入といい、破滅的なところがある。彼女はときどき陽太郎の名前を出して生島をそそったらしい。そこへ飛んで火に入る夏の虫、「11PM」での鉢合わせである。野坂は独特の勘で陽太郎の冤罪を察知したのだろう。

 この件は、さすがに陽太郎はだれにも弁解しなかった。それから二、三年後、野坂と生島は陽太郎をペンクラブ改革の運動に誘ってくれた。もう女のことは言わなかった。そのとき、生島は野坂に「ペンの改革は一生もんだぞ」と念を押した。それどころか、陽太郎の国際委員会の活動を助け、自分は獄中委員会の委員長として大沢在昌や北方謙三、森詠らを率いてみごとな采配ぶりだった。

 やがて野坂は運動に飽きてペンクラブに出てこなくなり、それを生島は厳しく批判した。あるとき新宿花園の飲み屋「前田」で、野坂は「生島はどうしてあんなに怒るんだ」とぼやいた。周りに週刊誌の記者が聞き耳を立てているので、二人は生島のことを「シャントン」と、いい加減な中国語に変えて話した(たいしてカモフラージュにもならなかったろうが)。九州弁になったのは、田中小実昌が向こうでワインの一升ビンを抱えて出来上がっていたからだ。

「なんばしてシャントンば、こんなにおれたちを批判すると?」

「ばってん、石川達三会長が『言論の自由には二つある。猥褻取締りは譲ってもいい』と言ったとき、『言論に二つの自由なし』言うて、激しく噛みついたときのションジョン(昭如)ば、かっこよかったと。あの勢いば、どこいったと?」

「ばってん、おれの役目はおわったごたる」

「そげんこついうて、ペンクラブをとんずらするけん、怒ったと」

 野坂は、すこしだけバツの悪そうな顔をしてから、

「ばってん、あんなに厳しく言わんでもよか。そういえば、シャオツォン(陽太郎)のこと、11PMであんなに怒っとったが、あれはどげんしたと」

 と逆襲してきた。

「どげんもこげんもあるもんか、あれこそ濡衣たい。おなごの告げ口はおそろしか」

 焼酎の酔いも手伝って、一言いうたびに二人は笑いころげた。

 あんなに楽しかった酒はない。近作『文壇』で、野坂は巧みに三島由紀夫などの有名作家の姿を描いているが、こちらは「半文壇」とでもいうべき世界で、それはそれで、ばかばかしく、おかしかった。コミさんが向こうで、陽太郎を見かけたときの常で、頭のてっぺんから出る甲高い声で「コナカ雨降る……」と歌っていた。

 あるとき、浅草の「染太郎」で、なんとなく野坂と隅のほうに坐るめぐり合わせになった。ふと気づくと、二人でへらを握って、お好み焼きを食べるのもそっちのけで、鉄板の掃除をしていた。顔を見合わせると、野坂は照れくさそうに「こういうの、やりだすとやめられんなあ」と笑った。「うん」と陽太郎はうなずき、二人でごしごし鉄板をこすった。

 野坂が「コラムの神髄は、うらみ、つらみ、そねみだ」と言ったことを思い出す。野坂の恨みごとは、おもわず笑ってしまう。だが、陽太郎のものはどこか物悲しい。隠しておきたい人の哀しみをひきずりだすような、闇討ちで仲間を裏切るような、アナーキーで無責任、曳かれ者の小唄みたいなところがあった。陽太郎はいつか自分のことを「小昭如あきゆき、小まこと、小健三郎」と書き、それを松浦総三が人名辞典に「しかし、三人を抜くかもしれない」と書いた。だが、もちろんそうはならなかった。

 野坂は、最後には「コラムやルポなんかやめて、早くほんとうの小説を書け」と言った。そのとおりにしたが、小説をエンターテイメントと考えていた陽太郎は、結局心に残るものを書けなかった。陽太郎が『放送できないテレビの内幕』(自由国民社、一九六八年)を書いたとき、朝日新聞だかに「筆者の名前にかかわらず、意外にまじめな本である」という紹介が出た。これを見ても、当時の陽太郎のイメージがわかるというものである。

 陽太郎が新宿や銀座でうつつを抜かすと、そのぶん家庭の病気がバランスをとった。長女のさつきが冬に高熱を発し、身体の皮膚がむけた。近くの日赤病院に運び込むと、急性熱性皮膚粘膜症候群といわれた。診察した川崎富作医師が名付親の「川崎病」というものだった。陽太郎は三週間病院に通い、それしか食べない赤坂の鯛めしを運びつづけた。

 母は元気だった。大島渚の妻小山明子は、女学校友達の姪ということで、大島の噂を聞きたがった。神戸の人として野坂昭如のファンだったし、小田実は大阪人である。母は陽太郎の周りに関西弁がとびかっていることを察して、安心していたふしがある。

 

       *

 

 母が多摩川の川岸の、茶室と座敷だけを間貸しするという家を探してきてくれた。等々力の家から大井町線を越え、多摩川のほうに下りてきて、上水の畔にある旧家だった。ここなら母もちょくちょく来るかと思ったが、ほとんど足を延ばすことはなかった。息子の家庭は邪魔しない、と決めていたのだろう。

 その家は、裏の勝手口から入るとすぐに小さな茶室があり、松を描いた板戸があった。それが台所兼仕事場だった。天井から紐を張って、そこに書き上がったコラムを洗濯ハサミで留めていった。ちょうど長女のさつきが生まれたところで、おしめと一緒に陽太郎の原稿がぶら下がっていた。

 そこへ脱走兵が来た。

 横浜に停泊中の米空母イントレピッドから降りた四人の水兵たちは、ベトナム戦争に抗議して船を降りたものの、脱走する決心もつかず、どこに行けばいいのか思案しつつ、ずるずると日を重ねるうちに帰艦期限が過ぎてしまった。お気に入りの新宿「風月堂」に入り浸っているうちに、東大生山田健司と知り合い、彼が機敏にもベ平連に連絡してきた。急遽集まった世話人たちは驚き、ともかく手分けして預かることにした。その間に、吉川事務局長が国外脱出の手筈を整えた。そして、彼らをそれぞれの隠し場所から再集合させることになった。

 リチャードとベイリーは遠く蓼科にいた。当時マイカーをもっていたのはベ平連のなかで陽太郎一人だった。そこで、ある秋の夕、隠れ家を手配した栗原幸夫を案内役に陽太郎は甲州街道を蓼科へ向かった。当時はまだ中央高速道路はなく、秋の甲州街道を笛吹川沿いに走った。茅野から蓼科に向かうと、紅葉の中に滝温泉があった。二五年前、九歳の陽太郎が母と二人でこの陰気な温泉の二階で虚しく送った日々が甦った。

 山荘は奥の木立の中にあった。山道を迷い、着いたときはもう暗かった。心配したこの家の主が夜道に立っていた。主は背の高い細面の初老の男だった。陽太郎はあえて名前を聞かなかったので、彼が小説家なのか、その親友の文芸評論家なのか、長くわからなかった。彼は手ずから夕食を支度した。それが堀田善衛との出会いだった。一〇年後、陽太郎はこの小説家とアンゴラに行く途次、モスクワの宿に滞在した。ウクライナ・ホテルから見ると、その下にY字型の不思議な橋が見えた。「あの橋をモチーフに小説を書いたんだ」と堀田は言った。脱走兵をテーマにした『橋上幻像』である。この小説家にとっても、蓼科の体験は大きなものだった。

 翌朝、朝霧のなか蓼科を出発した。昼過ぎ笹子峠を下るところで、陽太郎のフィアット850の調子が悪くなった。黄色いツードアのスポーツクーペで、助手席にリチャード、後部座席にベイリーと栗原が窮屈そうに坐った写真がある。陽太郎は坂道をエンジンをきったまま下りて行った。さいわい峠の中腹にガレージがあったので、そこで見てもらうと、再びエンジンがかかった。

 心配そうにエンジンルームをのぞきこんでいたベイリーが「Fix it ?」ときいたのを憶えている。のちマラムードの「Fixer」が映画化され、「修理屋」と訳されていて、この言葉を思い出した。

 彼らは緊張でコチコチになっていた。それはそうだろう。西も東もわからぬ異国の地で、不思議な老人の許で過ごしたあと、これまた見ず知らずの男の車におしこめられて山道を下りる。峠の途中でエンストである。

「もし、警察に不審尋問されたら?」

 そう思うと、脱走兵四人はよくもまあ敵か味方かわからない素人集団に身をゆだね、「どこに行くのか」とも聞かず、「自分をどうするのか」も尋ねず、「おまえたちはだれだ」とも質問せず、唯々諾々と陽太郎たちの言うことを聞き、黙って車に乗り、そして遠くユーラシア大陸を横断して、スウェーデンまで揺られて行ったものだと思う。

 彼らが聞いたのは、ただ一言、

「車は直ったかい」だった。

 陽太郎はリチャードとベイリーを多摩川のほとりの茶室のある部屋に連れてきた。日溜りの縁側で、リチャードがロンパースにくるまれた長女をあやした。あとで、彩がシーツにべっとりと夢精の跡があったことを告げた。「若いのね」と妻は言ったが、それはかえって彼らの清潔さを示すように思えた。

 次に彼らに会ったのは、いよいよソ連経由でスウェーデンに出すことになって、写真撮影をしたときである。池袋の明治通り沿いにあった公団住宅の鶴見良行の部屋に全員を集めた。このときは、彼らより日高六郎らの日本人の知識人のほうが緊張していた。戦争中の厳しい軍法会議が頭をよぎったのだろうか。久保圭之介がプロの映画カメラマンを連れてきた。鈴木と言ったと思うが、この人の名前はもうわからない。写真を撮った人物はわかっている。陽太郎が母の愛機ライカ3Fで撮ったのだ。

 その日は、外では吉田茂の国葬だった。夜、ベ平連の知恵者武藤一羊が安保条約による「日米地位協定」を読んで発見した。

「日本の警察は、彼らを逮捕できないぞ」

 それどころか、米兵は日本を出ようが入ろうが、パスポートも何もいらない、要するに入国管理がいらないのである。それが「日米地位協定」の取り決めだった。のち脱走兵が海外に脱出したとき、「ベ平連は国法を犯している」と息巻いた政治家がいたが、この国の独立を犯しているのは地位協定であって、ベ平連ではない。

 その夜は、茅ヶ崎の彩の弟の許に連れて行った。これも公団住宅だった。そして、翌一一月一一日、栗原に連れられた二人と茅ヶ崎の湘南道路脇にあるホテル・パシフィックで落ち合った。そこから一気に横浜の大桟橋に直行した。要所要所にベ平連のルポが立っていた。

 陽太郎は四人をつれて停泊中のナホトカ行きソ連船「バイカル号」のタラップを昇った。上海航路以来の懐かしい汽船のタラップだった。このとき、栗原の友人の貿易商が手に入れた「|面会乗船券(オン・ボード・パス)」を使った。

 甲板にデッキチェアをおいて、一人の男が坐っていた。なんと、ドストエフスキーの翻訳家として著名なロシア文学者江川卓だった。江川がゆっくりうなずいた。それが合図だった。上級船員らしい制服の乗組員が案内に立ち、陽太郎たちは二階のパーラーに上がった。船員は「ここで結構です」という身振りをして、それから四人を案内して船底に消えた。陽太郎は甲板に戻り、デッキから下を覗いた。波止場には見送りの一般客にまぎれて武藤や、正体不明のアメリカ人運動家がカメラを構えていた。陽太郎は小さく手を振って、燦々と陽光のあたる埠頭に戻った。

 一日様子を見て、ベ平連は脱走兵の決意を伝えるフィルムを公表した。それが、イントレピッド4の希望だった。一週間後、タス通信が彼らの到着を伝えた。