南京虐殺

――小田実に――

ジェローム・ローシェンバーグ 作   小田実 訳

THE NANKING MASSACRE for Oda Makoto by Jerome Rothenberg

獲物を求めて徘徊する軍隊

現実は切れ目なく

いくさのさまをむき出しにする

殺人

はるか彼方の花ではない

刀は振り下される

千度 千

筋肉は筋肉にぶち当てられ

肉体は肉体の上に

さらには鋼鉄の上に積み重ねられ

視る者は眼をそむけ

車輌は死体を轢いて走る

学校の扉に釘づけにされた

死者

板戸の扉だ

衣服を剥ぎ取られて裸体

小さな針が文字を書く

皮膚の上に

焼けた屍が放置されて並ぶ

揚子江の堤

怖るべき競技

若い士官たちの

誰がもっとも殺すかを見る

女学生を襲いかかる兵士から

もぎ離して

女は強姦され殺される

まるで豚だ

乳房は切断

焦茶の穴は

残る 板屑の散乱

アナはすべて動かす

子供のからだは

銃剣で突き刺し

赤ん坊を人形に変える

火が彼らに達するまえ

その火は 何千年を

跳び越えて来る

眼は目撃者となって

死者の位置を定める

朝の新聞の大見出しが

歯のように刻み込まれて

傷をむき出しにする

焼けた肉体が光を滲み出し

血は灰と琥珀に

化する

われわれは坐り 歴史を読み

怒る 神の

拷問に 苦痛を

もてあそぶ悦楽に

目撃者は見る 死体が

中国人の通りに

そして何十年も先に堆積するのを

記憶ハ薄レテ行ク

(彼女は書く)

シカシ決シテ消エナイ

ソレヲ見タ

少女タチガ死ヌノヲ見タ人タチニトッテハ

消されなかったが

盲目にされたのが 銃を口に入れ

この公然とした行為で

彼女の生命を捨て

他を救おうとする

  「フーブン」の詩人の重い答

     小田実

  

 ジェローム・ローシェンバーグはたしか当年(2004)とって七二歳の私と同年の、彼と私を知る伊藤比呂美によると「同い年」の世に知れたアメリカ合州国の「前衛詩人」だが、彼には、ポーランド、トレブリンカの「ナチ・ドイツ」の絶滅収容所を詩に書いた一連の詩「フーブン」(Khurbn)がある。「フーブン」は英語で言うなら「ホロコースト」(Holocaust)だが、その題名をもつ詩集に彼がつけた序文によると、英語の「ホロコースト」は「あまりにキリスト教的、あまりに美しくありすぎる、あまりに『犠牲』を弄んで」いてユダヤ人たちの死にそぐわない。

 ローシェンバーグの両親はトレブリンカのつい近くの小さな町から一九二〇年代にアメリカにやって来たユダヤ人だが、そこに残った一族は彼の伯父を除いてすべてトレブリンカのガス室で消えた。伯父は森のなかへ入ってユダヤ人のパルチザン部隊の一員になったのだが、彼の妻と子供がすべてトレブリンカで殺されたのを知ると、無人の農家の酒蔵に入って自分を泥酔させたあげくに脳味噌に一発ぶっ放して終った。彼らはすべて、英語で言う「ホロコースト」のなかで死んだのではない。イーディッシュ——ヘブライ語の「フーブン」のなかで死んだ。「アウシュビッツ以後、詩は書き得ないし、また書いてはならない」と「アドルノその他」は言ったが、トレブリンカとその小さな田舎町(彼の父の両親は「蜂蜜」通りでパン屋をやっていた)を訪れたあと自分が「フーブン」と題した一連の詩を書いたのは、伯父の「フーブン」が自分のからだを貫通して話すのを聞いたからだ——とローシェンバーグは彼の「フーブン」につけた序文のなかで書いていた。

 トレブリンカで自分が最初に聞くことを始めた詩は、自分がなぜ詩を書くかをもっとも明確なことばにしていて、それは「アドルノその他」に対する答になっていた——とローシェンバーグはつづける。詩のもとになるものは、「石板をきれいに拭き取ろうとする意図に基く欲望としてあるだけでなく、彼らが背後の泥のなかに残した彼らのあの他の声、詩の切れはしを知ることとしてもある。」ローシェンバーグは序文でつづけて書いていた。

 

 私が彼と会い、知己になったのは、作曲家転じて「イベント・メイカー」になったニューヨーク在住のチャーリー・モローを通じてである。「イベント・メイカー」はモロー自身の言い方で、一般にこのことばが通じているのかどうかは私は知らない。とにかくモローはあちこちで「イベント」をやる、「メイク」する人だ。アメリカでよりもっとヨーロッパ、ことにドイツで「イベント」をやって来ていた。

 その事情もあってか、彼を私に紹介して来たのはスエーデン、ストックホルムの市立劇場の総監督のスザーネ・オステンだった。オステンは、当時暗殺されたパルメ首相が殺される直前に見た映画を監督したことで一般的には知られた女性だったが、彼女が主宰する市立劇場はストックホルムにいくつもある市立劇場のなかでもっとも前衛的な作品を上演するので有名な劇場だった。私が面白いと思ったのは、彼女の「前衛劇」の上演のやり方だった。彼女はまずそれを田舎の小学校の生徒のまえで上演した。都会ずれのしていない、したがって「前衛劇」などとはまったく無縁な田舎の小学校の生徒の評価に耐えたものを上演することで、ただのひとりよがりの「前衛」を排することができるというのが彼女の持論で、私は感心した。

 彼女がそのパルメが最後に見た映画の主演俳優だった老ボーイ・フレンドとともに日本に来たのは、東京で開かれた「北欧映画祭」に招かれて参加するためだった。その彼らが私に会いたいと兵庫県西宮の私のところにまで来たのは、「北欧映画祭」で会った日本の「前衛」の「映画人」(ということばが適切かどうかは知らないが、意味は判るだろう)のあまりな非政治性、商業性にヘキエキしたからである。彼らが言ったことをまとめて言えばそうなるが、他の国では——と言ってもヨーロッパとアメリカのことだが、芸術における「前衛」はそのまま政治における「前衛」になる。しかし、日本ではそうなっていない。この事態にヘキエキしていたら、誰かが、何人かが、じゃあ、オダに会いに行け——と言い出した。実際、彼女と老ボーイ・フレンドは連れ立ってやって来て、談論風発、数時間で東京へ帰る予定が、ついにわが家で一泊の仕儀になった。

 

 この彼らが紹介して来たのがモローだ。モローが彼女たちの紹介で今東京に来ていると言って電話して来たときには会えなかったが、何年か経って、私はニューヨーク下町の彼の事務所で、オステンらの「前衛」の定義にかなった「イベント・メイカー」に初めて会った。会ったとたんにモローが言い出したのが、ローシェンバーグの「フーブン」と私の小説「HIROSHIMA」(講談社・一九八一 今は「講談社文芸文庫」)とを結びつけた「パーフォーマンス」の「イベント」の企画だった。「フーブン」も「HIROSHIMA」も、二つともに現代の人間の悲惨の極限を正面きって書き表わそうとしている。二つを結びつけて自分が音楽をつけ、「パフォーマンス」をかたちづくる。これが彼が企図した「イベント」の中身だ。

 ローシェンバーグとは、彼は長年にわたって「イベント」をやって来ていた。彼もローシェンバーグ同様ユダヤ人だが、「フーブン」にはことのほか心を動かされたと言い、詩の中身を説明し、本も見せてくれた。

 私の小説は英訳で読んでいた。彼の伯父さんだかに原爆の発火装置の開発にかかわりあっていた技術者がいた。伯父さんは生きているあいだは何も言わなかった。死ぬまぎわになって初めて、過去の「秘密」を口に出した。

 そのあとモローはいろいろ考え、動いたようだったが、結局、バーモント州の田舎の小さな町に本拠をおいて、アメリカ国内はおろか世界各国各地で「パーフォーマンス」を披露して来ている(アジアでは、韓国に来ていた)、国際的にも名の知れた「ブレッド・エンド・パペット」劇団によって、彼の「イベント」の企画は一九九五年の夏の終りにそのバーモント州の田舎の小さな町の広大な野外劇場で実現した。

 ここで少しこの劇団について書いておきたい。今は残念ながら解散してしまったらしいが、長年活動をつづけて来て、ことにベトナム戦争のさなかにはデモ行進や集会のなかでさかんに活動したこの「パーフォーマンス」劇団のことを日本で知る人がまずいないからだ。私自身、モローからその話を聞いて、「知らない」と言ったら、逆に「どうして知らないのか」ときき返されたほど、無視できない大きな存在だ。ここらあたり、私たち日本人の「アメリカ理解」の大きな問題だと私は考えるのだが、とにかくこの劇団のことは紹介するに値する。創始者は「西」ドイツからやって来たピーター・シューマンで、彼の創始にあたっての考え方は次のようなものだ。

 立派な絵画や彫刻もけっこうだ。堅固なカテドラル建築に何百年かけるのもわるくない。しかし、そうしたものはすべて金と力のある支配階級の芸術だ。金と力のない民衆——私流に言えばチマタの人の芸術は、彼らが紙でつくる、つくれる「パペット」、それを使って演じられるサーカス、カーニバルにある。「ブレッド・エンド・パペット」の名が示すように、人間の基本にあるのは「ブレッド」だ。しかし、「人はパンのみにて生くるにあらず」で、それだけだと人間は人間ではない。第一、つまらない。チマタの人を人間としてあらしめるのは、彼らの人生を面白くするのは「パペット」、そして、サーカス、カーニバルだ——これが私なりにまとめたシューマンの演劇哲学、いや、信念だが、この信念にひかれて長年にわたって彼が本拠と定めたバーモント州のまさに草深い田舎の小さな町に若者がやって来て、パンを焼いて売り、生計をたてるとともに、彼らによればサーカス、カーニバルの基本となる「パーフォーマンス」の芸の稽古をする。そして、ときどきは「パーフォーマンス」の実演にあちこちに出かけて行く。出かけて行く先に、アメリカ西部の小都市もあれば、ブラジルのどこかの都市もあれば、韓国のソウルもある。

 彼らは本拠地のバーモント州の田舎町で共同生活をしていた。田舎町と言うより文字通りの村だ。村の大きな農家いくつもに住んでの共同生活だ。ひとつかくべつ大きなのを博物館にして、かつてつくった、そして、「パーフォーマンス」で使った「パペット」の実物を収めてもいた。サーカス、カーニバルだ。たいていは「パーフォーマンス」で燃やしてしまうらしいが、それでも残ったのを展示している。いや、ただ乱雑に収納している。

 一年に一度、彼らは広大な野外劇場——と言うよりただの山野で、それを劇場に見たてて、大きなお祭りの「イベント」をやる。自分たちが「パーフォーマンス」をやるだけではなく、他の劇団やダンス・グルーブや有名無名詩人に来てもらっての劇やダンスの上演もリーディングも山野のどこかでする。みんな、このお祭りの「イベント」に招かれて来るのがうれしいらしくて、これはとおどろくようなのがやって来る。いや、もっとおどろくのが、「イベント」の観客と言うか参加者と言うべきか、人びとがあまたろくに宿泊設備もないこの田舎町の山野の野外劇場に大半が寝袋を持ってやって来ることだ。

「ブレッド・エンド・パペット」の創始者にして主宰者のシューマンは大の宣伝嫌い、「マス・メディア」嫌いで、お祭りのことはかんじんの日どりのことをふくめて発表しないし、毎年、日どりを変える。それでも「口コミ」であまた来る——とは、私がローシェンバーグとの「イベント」で参加したとき聞かされたことだが、私は初め信じなかった。第一、私が田舎町に着いたのはお祭りが始まる二日前のことだが、そのときにはそこは誰も人のいない——そう思わせたただの田舎町で、劇団が準備した物売りの車に対する交通規制のお達しなどを見ていったいこれは何んだとおどろいていたのだが、前日から人が来出して、物売りの車も集まって来て、山野の野外劇場の——文字通りの「山野劇場」の主要「イベント」の会場になった大きな野原のひろがりでの(椅子も何もなかった。ひろがりのまわりに観客は思い思いに坐って見る)観客の数は三万人を超えた。

 

 この「パーフォーマンス」劇団の政治性について一言しておこう。それはその三万人の観客が集まった主要「イベント」のことを書けば判るにちがいない。一言にして言えば、アメリカ帝国主義という巨大な紙製の「パペット」が出て来たのを、「第三世界」の小「パペット」があまた出て包囲して、たたかい、ついに大「パペット」は燃え上っておしまいになる——単純にして素朴。しかし、なかなか面白かった。単純にして素朴なところにかえって前衛性があった。また、演じた「人形つかいパペッテイア」と自らを呼び、呼ばれる若者たちに、さすがにパンを焼いての合宿での稽古の甲斐あって「パペット」の使い方に芸があって、見せた。たしかに彼らはただパンを焼いて暮らして来たのではなかった。

 ここでひとつ面白いと思ったのは、彼らのやり方は、彼らのようなきたえ抜かれた「プロ」を中心において、あとは大衆参加のかたちで観客に参加の機会をあたえるものであったことだ。要所は専門家で固めて、締めて、あとは大きく人びとに開く——このやり方はうまく作動しているように見えた。

 

 彼らによるローシェンバーグの「フーブン」と私の「HIROSHIMA」の「パーフォーマンス」は、このお祭りの二日目、最終日の最後の最後の「イベント」として行なわれた。すでに深夜の時刻になっていた。「山野劇場」の一角、小高い丘の上で、タキ火とわずかなライトが照らすなかで、ローシェンバーグは「フーブン」の詩の何作かを読み、私は私で「HIROSHIMA」の一節をいくつか選んで彼と交互に読んだ。私の場合、原作を日本語で読み、「人形つかいパペッテイア」が何人かで交代でその個所の英訳を読んだ。「パーフォーマンス」はどちらもが人間の悲惨の極限の「パーフォーマンス」である。どちらの場合も、死者の「パーフォーマンス」になる。これにはさすがに観客参加はなかったが、「人形つかいパペッテイア」の「プロ」たちはよくやった。音楽はモローが半ば即興で、これもよくやった。中心で演奏しているのは彼と彼の知己のそれぞれ第一流の「プロ」。彼らは西洋の古典楽器を使ったが、そのまわりの観客参加組は持ち込んで来た種々雑多の楽器、楽器(?)を使って演奏した。中心の中心で、モローは日本から持って来たホラ貝を鳴らした。

 私には、こうした「パーフォーマンス」が人間の悲惨の極限の「パーフォーマンス」にふさわしいものであったかどうかは判らない。しかし、すくなくとも、その極限に正面きって迫ろうとする人間の「芸」のひとつの試みだったとは言えたにちがいない。ここで言う「芸」は「パンのみにて生くるにあらず」の人間が、自分を人間としてあらしめる「パペット」だ。

 

 その年、一九九五年は一月に「阪神・淡路大震災」があった。私が家族とともに西宮で被災した年だ。少し大げさに言えば、私はかつての大阪空襲以来の死にかけた体験をもった。そして、そのときと同じように、周囲はただ一方的な破壊と殺戮の現場になった。

 その年八月六日、イギリスの「BBC」がその「パーフォーマンス」で読んだ私の小説「HIROSHIMA」をラジオ・ドラマにして放送した。その「立ち会い」というわけでもないが、震災以来、「ウツ」になっていた小さな娘と母親の精神のコブもあって、私は一家でロンドンまで出かけた。そのあと思いきって「パーフォーマンス」参加を決めてバーモント州の田舎町まで足を伸ばした。

「パーフォーマンス」には、当時小学校三年生の娘も参加した。アメリカ先住民族のものだという小さな板をつらねた楽器を「プロ」たちとともに懸命に奏いた。

 

 翌一九九六年秋に、私は東京へやって来たローシェンバーグとともに、小さなリーディングの会を開いた。彼が「フーブン」の詩を何篇か読み、私が「HIROSHIMA」の何節かを読む。その「リーディング」のために、私は「フーブン」の詩をいくつか訳した。

 そのひとつの一部をここに書きうつしておきたい。「失われた町への結びのことば」と題された散文詩の一部だ。

「それから、彼は訊ねた——それとも訊ねたのは私だったのか。私が彼に代って訊ねたのか。ユダヤ人は一度はここにいたのかね。いたよ、と彼らは私に言った。ユダヤ人はたしかにいた。たしかにそうだ。もっともここには誰もおぼえている人はいないがね。ユダヤ人はどんなだった、と彼らは訊ねた。(眼の玉が眼から飛び出て頬にたれ下っていた。)ユダヤ人はこんな髪の毛をしていたのか、と彼らは訊ねた。どんなふうにしゃべったのか。いや、ほんとうにあいつらはしゃべったのかね。ユダヤ人は背は高かったか。それとも低かったか。どんなやり方でユダヤ人は主の日を祝ったのか。(焦げたからだのいやな臭いが私たちの息をつまらせた。)これはほんとうかね、ユダヤ人が夜やって来て、牛のお乳を台なしにするというのは。おれたちのなかには、あいつらが牧場のなかにいるのを見たことがあるんだよ——池のむこうのね。あいつらは長いガウンを着ていて、顔がなかった。あいつらの女はとんがった乳房をもっていて、乳首のまわりには長い毛が生えている。夜になると、あいつらは泣くのだ。(頭を便器におさえつけられる。顔がクソまみれになるまで。)あいつらはまだいるのかどうか、誰にも判らない。(湖の底で植物は凍る。湖の面は厚い氷でおおわれる。)」

 

 今年七月七日、私は芦屋で六七年前、一九三七年の「蘆溝橋事件」にかかわっての集会を開いた。これには私が最近英訳で南京の作家葉兆言の小説「南京・一九三七」を読んで、いろいろ考えさせられたことが関係している。

「南京・一九三七」は、その題名が直接想起させるような歴史小説、あるいは、戦争小説ではないし、もちろん、ドキュメンタリ、ノン・フィクションのたぐいでもない。副題がついていた——「ラブ・ストオリイ」。

 ただ、この「ラブ・ストオリイ」には「蘆溝橋事件」から南京陥落、南京虐殺に至る戦争が背後に透けて見える。これは当然のことだが、もうひとつ書いておきたい、この「ラブ・ストオリイ」は戦場に咲いた一輪の花のような清純な愛の物語ではない。主人公はドイツ留学帰りの中年の南京の大学教授。ねっからの自由主義者だが、ことに恋愛においてそうだ。学識において評判の人気教授だが、自他ともにゆるす「プレイボーイ」として、そちらのほうでも有名人物だ。この中年有名「プレイボーイ」は中国軍の「エース」として日本の航空隊相手に活躍する戦闘機乗りと結婚した美女兵士にところもあろうに彼らの結婚式場で惚れ込んで、あとラブ・レターを軍服姿が美しい彼女にあまた書き送り、「ストーカー」まがいにあとをつけまわす。彼に言わせれば、むくわれざる愛でよい。しかし、愛は愛——この人間の気持と欲望は誰もとがめることはできないし、とめることはできない。人間としてこの気持と欲望を追求して何がわるい。この認識、信念の下に彼は動き、ついに日本侵略軍の南京攻撃、陥落、虐殺の直前の大混乱のなかで、「エース」の新婚の夫をすでに日本軍との戦闘で失なった美女兵士との一夜かぎりの結婚に至るのだが、彼女が退却する中国軍とともに立ち去ったあと取り残された彼は、次の日、南京陥落、南京虐殺の前日、突然、揚子江上に姿を現した日本海軍軍艦の銃撃を受けて死ぬ。いや、殺されて、この「ラブ・ストオリイ」は終る。

 相当無茶なストオリイの設定だが、けっこう読ませて、四十代半ばの南京の流行作家の葉兆言の筆力はさすがだと思わせたが、最初彼は南京陥落、南京虐殺をまっこうから取り扱おうとして資料も多量に集めていたらしいものの、落ちついたのは結局この「ラブ・ストオリイ」だったと、英訳につけた一文のなかで葉は書いていた。南京虐殺はどうにも正面きって書き得ない題材であったのかも知れない。

「ラブ・ストオリイ」で私の興味をひいたのは、そこに当時の中国の社会のありよう、そのなかでの人びとの暮らしのさまが描き出されていたことだ。それも近代国家、近代都市としての社会のありよう、人びとの暮らしのさまだ。どのようなありよう、さまか。

 その年の四月には、南京で政府主催で初めて「子供の日」の各種行事が催され、「スピーチ・コンテスト」では小学生が「節度をもって笑え、節度をもって泣け」を論じた。「プレイボーイ」のわが人気教授は「中国と西洋の売春伝統の相違」の大講義を大学でやらかして物議をかもすのと同時に学生に大人気を博した。「蘆溝橋事件」があった七月の末には、南京の市街は大学入試で試験を受けに全国各地から来た若者でいっばいになった。しかし、これは若者をふくめて市民たちがまったくのんきであったということではない。日本侵略反対の集会はしょっちゅう開かれ、反日劇の上演もよく行なわれていた。しかし、その年の末、わずか数ケ月、数十日のあとで自分たちの南京が「陥落」し、自分たちが「虐殺」されるとはまず誰も考えていなかったにちがいない。

 こう「ラブ・ストオリイ」が描き出している、当時の社会のありよう、人びとの暮らしのさまをとらえて考えて行けば、これらはすべて決して遠い昔のかけ離れたまったくの他人ひとごとではなくなるだろう。それどころか、こうした近代国家、近代都市は現在世界のどこにでもある。日本も日本の都市もそのひとつだ。

「日中戦争」と言うと、「泥と兵隊」と「麦と兵隊」というようなイメージが強すぎるせいか、それとも毛沢東の農民革命の印象が濃厚すぎるのか、何かおくれた前時代的な国との戦いとしてとってしまうものだが、一方で、「ラブ・ストオリイ」が書き表した「近代国家」「近代都市」を相手とした、それを徹底して破壊、殺戮した戦争だったことは忘れてはならないことだ。虐殺は、泥と麦畑のなかでだけで行なわれたことではない。南京はあるいは私が当時生き住んでいた大阪より「国民革命」後の近代国家中国の新しい首都としてはるかに近代的、「モダーン」だったかも知れない。その意味で「南京虐殺」は「文明都市」だった都市で行なわれた野蛮だった。

 蒋介石が行なった「国民革命」がどんなに「反動的」なものであったにせよ、それは決して軍閥時代、あるいはそれ以前の時代に中国を引き戻そうとする革命でなかったことはたしかな事実だ(私は、今、その歴史認識に基いて、この「すばる」に連載している「河」を書いている)。

 

 私は芦屋で長年多目的ホールを主宰して来ている(このホールは、今、全国的に名の知れた、「前衛」クラシック音楽の数少ない演奏場所になっている。その意味で「メッカ」のホールだ)、そして、「阪神・淡路大震災」以来、被災者への公的援助の実現の運動をはじめとして反戦平和運動の「盟友」となった山村雅治と以上に書いて来たようなことを語らって七月七日、集会を開いた。そこで私は葉兆言の「ラブ・ストオリイ」を紹介するとともに「アジア・太平洋戦争」末期の兵士たちの悲惨の極限を自分なりに書いた小説「玉砕」(新潮社・一九九八)の一部を読み、今は芦屋に住む海老坂武がアルジェリア戦争のあいだ歌うことを禁じられたフランスの詩人、シャンソン歌手ボリス・ビアンについて語り、その禁止されたシャンソン「脱走兵」を「CD」で聴いた。山村は第一次大戦で若くして死んだ詩人W・オーウェンの詩に音楽をつけたベンジャミン・ブリテンの「戦争レクイエム」を論じ、また、昔なつかしい「LP」の音で実物の「レクイエム」を参加して来た市民はそれぞれに思いを込めて聴いた。

 実は、私はこの集会のために、集会の二月ほどまえにたまたま大阪に来たローシェンバーグに詩を書いてくれと頼んでいた。しかし、詩は七月七日には来なかった。一月以上が経って、やっとでき上った、会にはまにあわなかったが、とにかく書いた、と言って、「E-メイル」で送って来た。これが、今、私が訳して発表する「南京虐殺」だ。私は彼に「虐殺」について書いてくれと頼んだのではなかった。今、世界には戦争の空気が充満している。もう一度、戦争の問題について世界の人間誰しもがそれぞれに考えるべきときが来ている。それゆえにこそ、日本の破滅の戦争の始まりとなった七月七日の集会を開くのだと言った。私のそのことばに対する「フーブン」の詩人の答がこの重い詩なのかも知れない。たぶん、そうだ。